「沈星演武祭って、どうせ三日間だけでしょ? 天候に左右されたとしても、伸びて一週間だし……俺は別で情報を集めたいから、ここで別れよう」
林琳は軽く肩をすくめ、そう言って小碧に跨った。彼の目は細められ、どこか不満が滲み出ており、その表情からは、行事に対する興味のなさが感じられる。
「ここまで来てそれかよ……」
後ろに広がる荒野の風景は、無限に続く乾いた大地と風に舞い上がる土埃が目を引き、風の音さえも、どこか無駄だと思わせる。
劉鳴国を旅立ってから、早くも二ヵ月が経過した。特に大きな問題もなく、沈星演武祭に向かっている途中だが、林琳の心は巨大な祭りにもまったく興味を示さない。その気配を感じ取った天雪と花月は、お互いに顔を見合わせて、少しだけ困惑したような表情を浮かべた。
「ここら辺は怪奇も頻繁に現れるみたいだし、小銭も軽く稼げると思う。なぜか食費が三倍になっているからな。いくらあっても足りない」
林琳が軽く眉をひそめながら呟く。その言葉の端々には、少しだけ疲れたような、愚痴のような響きがあった。天雪と花月は何かを察したのか、顔を見合わせて言葉を交わす。
「それは……その、えーっと」
「俺たち育ちざかりなんで」
「じゃあ年長者の俺が出稼ぎに行くべきだな?」
林琳はにやりと笑いながら答えた。どこか意地悪な物言いに天雪と花月は、それぞれ異なる反応を見せた。
二人ともまだ若く、どんなに食べても腹が減り続ける年頃だ。金を稼いでも、それ以上に食欲は増すばかりで、どうしても財布が軽くなっていく。怪奇を祓ったりして小銭を稼ぐこともあるが、それでも追いつかない。そんな日々を送っている。
結局、片燕にいた時と同じように、最も早い方法は出稼ぎに行くことだった。
「一週間後に戻る。それまで……」
「はいはい、こっちこっち」
「って、おい!」
仁は問答無用で小碧の手綱を握ると一歩先んじて緩やかな傾斜を登り始めた。手綱を引く動きに一片の躊躇もない。天雪と花月はその背中を追いかけ、瞳を輝かせている。
「流石仁先輩……」
二人の声に反して、林琳は小碧の首を撫でながら言った。
「小碧、止まれ」
たった一言で、小碧はその場にぴたりと足を止めた。手綱を持っていなくても、林琳の声には絶対的な力が宿っているのだ。仁もその力にはお手上げだとでも言いたげに、林琳を見上げた。
「師兄ー、駄々を捏ねるなって。こいつらの晴れ舞台が見たくないのか?」
「なにが晴れ舞台だ。ただの仲良しこよしだろうが」
林琳は不機嫌そうに眉を釣り上げ、言葉の端々に面倒臭さを滲ませた。
「嫌なのか、師匠に会うのが」
仁が意地悪に微笑みながら聞いた。図星だった。
「なぁ、天雪、花月。俺がいない間にこいつ、性格が悪くなった気がするんだけど」
天雪と花月は、二人揃って明後日の方向を向き、無言でその場をやり過ごす。言いたいことはたくさんあっただろうが、何も言えずにぐっと堪えるしかなかった。
「なぁ、林琳。俺たちは家族だ」
その言葉に林琳は一瞬、言葉を詰まらせた。しかし、すぐに冷たく笑った。
「それは違う」
家族になんて、なれやしない。
彼は目の前に広がる荒野に視線を投げた。どこまでも続く乾いた景色が、彼の心情を映し出すようだった。
「……じゃあ、俺たちは何と呼べばいい?」
仁は小碧の背を優しく撫でながら、静かにそう言った。その声には長い年月を共に過ごしてきた確かな絆が宿っているが、どこか切なさも混じっていた。
「さぁな」
林琳の目は、遠くの演舞場を見つめている。
「次はいつ開催されるかわからない。少しでもいい、見てやってくれ」
仁の言葉には、無理強いするわけではなく、どこか懇願するような温かさがあった。
だからこそ林琳はその頼みを無視することができなかった。
結局半ば強引に、仁に引きずられるようにしてここにいる。
「……想像以上に参加している宗派が多いな」
林琳は、外套を深くかぶり、人を小ばかにしたような表情を浮かべながら、観客席の片隅に腰を下ろした。周囲に目を滑らせると、巨大な演舞場をぐるりと囲む無駄に広い観客席が見渡せる。祭りの初日、二十年ぶりに再び開かれた沈星演武祭に、人々の期待と興奮がまるで沸き立つ波のように会場を包む。
しかしその熱狂とは裏腹に、劉鳴国の皇太子が崩御したという信じがたい噂が囁かれているのだった。
真相が定かではない噂が林琳の心をよぎるたび、彼はどうしても動揺を隠せなかった。つい一月前まで、あの皇太子と顔を合わせて、ふとした会話を交わしたばかりだったのに。まさか、神子を追う背後で何か起こったのか。朱禍が関わっているというのに思いも寄らぬ事態に、彼の心は少しばかり不安に包まれていた。
だが、噂をかき消すほどの熱気が肌を刺す。
沈星演武祭は、標高の高い山の麓で開かれる。演舞場は険しい岩壁に囲まれ、そこでは街では見かけない珍しい植物や動物たちが息づいている。山の冷たい空気に晒されつつも、祭りの開催を心待ちにしていた人間が放つ気迫が肌をじんわりと温めた。
すでに演舞場の中央には、宗主の推薦を受けた参加者たちが整列していた。その中には、片燕の弟子たちもちらほらと見える。林琳の視線は、自然と彼らを追った。懐かしさとともに、遠くなった現実を突きつけられたようで、どこか空虚を覚える。
そして、上座には各宗派の宗主たちが並び、その中に——当然、片燕宗主の姿もあった。
林琳は小さく溜息をつき、遠くに立つ仁に視線を移して通心でひとこと、釘をさすように呟いた。
——頼むから余計なことは言うなよ。
目で合図を送ると、仁は軽く肩を竦めた。
——わかってるよ。
宗主と仁は穏やかに談笑しているものの、周囲から向けられる視線は冷ややかだった。片燕は変わり者の集団として知られ、林琳と仁はその中でも特に浮いた存在だ。まるで、周囲の目にとって異物のように孤立している。
林琳は無意識に親指の爪を噛みながら、足を組み直した。だが、その静かな空気を破るように、ある人物が片燕へと近づいた。
「……珊來?」
視線の先に立っていたのは、松季国の仕人、珊來だった。どうやら、このお祭り騒ぎに蒼羽も参加しているようだ。
仁と珊來が互いに拱手を交わし、少し離れた場所では蒼羽の扇葉九が片燕宗主・獅宇に話しかけていた。距離があるため、林琳の読唇術では内容まで読み取れない。しかし、険悪な雰囲気ではなさそうだった。むしろ二人の表情は穏やかで、柔らかいものだった。
沈星演武祭は、性別や年齢に関係なく、宗主から推薦を受けた三名のみが出場を許される。片燕から選ばれたのは——。
「艾青か」
林琳は、演舞場の中央に並ぶ弟子たちの中で、ひときわ目立たない存在に気づいた。色素の薄い髪色は彼の存在をより一層隠そうとしている。
「いつにもまして顔色が悪いな」
胃が弱い彼にとっては悪魔のような時間だろう。
それでも能力値は天雪と花月と同等。天雪は頭脳で戦い、花月は俊敏な身のこなしが武器。そして指揮を執るのが、艾青。安牌をきった組み合わせにするには犠牲になってもらうしかないと林琳は思う。花月は物事をはっきりと口にする性格だから、付き合いの長い天雪ならともかく、他の者と組むなら、それなりに均衡の取れた人物でなければ衝突が起きる。艾青は、まさにその最適な選択なのだろう。
「ふぁあ……それにしても、うざいくらいの快晴だな」
林琳は大きく欠伸をしながら、空を見上げた。標高の高い山の冷たい空気と、じりじりと照りつける太陽。その温度差が心地よく、自然と眠気を誘ってくる。
演舞場から最も遠い席に座りながら、林琳は再び視線を周囲に向けた。この熱気に包まれた空間で、今はただ、他の人々を観察することに楽しみを見出している。彼の心は、少しずつ祭りの喧騒の中で落ち着きを取り戻していた。
——寝てるだろ、絶対。
仁はそっと視線を滑らせた。薄暗い帳の中、無骨な仮面の奥で眠っているのだろう。趣味の悪い面に隠された素顔を想像し、思わず苦笑が漏れる。何とも言えぬ静けさが、周囲の空気にぴったりと溶け込んでいた。
「……あの子はいないの?」
囁くような声が耳朶を擽った。振り向けば、珊來が静かに問いかけている。彼の声には、柔らかな目尻に似合う心地よい響きがあった。
仁は小さく首を横に振った。彼が何を考えているのかは分かる。林琳が破門されたことを知っている上で、それでもなお、何か気になることがあるのだろう。しかし、仁は答える気にはなれなかった。
片燕の一番弟子は愚かなことに、師を刺し違えて破門された。
それが世間の見解だ。
しかし宗主に尋ねれば、「その通り」と口にして、弟子自身も「相違なし」と言い張る。まるで子供のような喧嘩ではあるが宗主と一番弟子がそう断言するのだから、一般の者から見れば、破門であって当然だ。
「……事情があるんだよ」
仁はそれだけを伝えた。その言葉には、普段の彼にはない冷たい一線が引かれていた。
珊來はしばし黙りこみ、やがて目尻を下げて寂しげに笑った。
「そっか。残念だなぁ。でも、どうせ近くにいるんでしょ?」
七色聖がぱさりと開かれる。鮮やかな光が、ほんの一瞬で彼らの間に差し込んだように感じた。
「……あれから、大丈夫だった?」
問いかけられた「あれから」が何を指しているのか、すぐに理解する。
「あぁ。珊來のおかげで色々と助かった。遅くなったが……改めて礼を言いたい」
仁は素直に感謝を伝えた。あの時、彼が嵐海宋へ導かなければ、囚われていた男は最悪の結末を迎えていたかもしれない。その後、様々な厄介ごとに巻き込まれたが、それは話すにはあまりにも面倒だった。
「礼だなんて、いいんだよ。少しでも恩返しができたなら本望さ」
珊來は肩をすくめて笑う。その軽やかな言葉が、仁の胸の中でほんの少しだけ温かさを呼び起こした。
「でも驚いたよ! まさか君たちが、あの片燕の弟子だったなんて!」
「それは、まぁ……あははは……」
松季国では身元を明かさなかった。それこそ、何があろうとも頑なに。しかし、珊來は、片燕を知った後も、何の違和感もなく接してくれている。その懐の広さに、仁は心からの感謝を伝える。
「なに言ってるんだ。彼らを嫌っている者同士、仲良くやろうよ」
冗談めかして言う珊來だがその背景には深い意味が込められていることを、仁はすぐに察した。二人の間に流れる微妙な空気が、それを物語っている。
視線の先、宗主たちが静かに言葉を交わしている。実に悪くない光景だった。和やかな雰囲気が、少しずつ周囲を包み込んでいく。
「ご挨拶をしても?」
仁は無言で頷き、珊來を導く。やがて、短く「師匠」と声をかけると、癖ひとつない黒髪が微かに揺れた。
目は白い布で覆われている。それだけ見れば視界が閉ざされているように思えるが、実際にはそうではない。その布には、特別な術が施されており、宗主と愛弟子の手で作り上げられたものだ。微かに残る林琳の心力が、彼が本当に宗主の一番弟子であったことを示す、何よりの証左でもあった。
「蒼羽の珊來と申します。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
整った所作に、周囲の空気が僅かに変わる。やがて、彼が挨拶を送る相手を見て、視線を逸らす者が続出する。
片燕にとってはいつもの流れだった。
「あぁ、ご丁寧にありがとうございます。片燕宗主の獅宇です。どうやら、うちの弟子が大変お世話になったようで……」
「とんでもございません! むしろ手を貸していただいたのは、私たちの方です」
「そういえば……あの餓鬼はいないのか」
——嗚呼、もう。揃いも揃って……。
仁は内心呆れながらも、宗主の顔色を窺う。少しばかり棘のある言葉に、場の空気が一瞬ピンと張りつめた。
「破門されたにしても、挨拶ひとつ寄越さない馬鹿弟子のことですか?」
ご立腹とまではいかないが、それなりに思うところがあるのだろう。僅かに棘を帯びた声音が、周囲の空気を少しだけ硬くした。
仁は慣れている。しかし、蒼羽の二人は目を見張った。
——わかる。普通に考えたらおかしいもんな。
だが、この瞬間、彼らにも伝わっただろう。
片燕と林琳に蟠りがなくとも、宗主と彼の間には底知れぬ溝がある。
「あ、ほら! 始まるみたいですよ!」
どうにかして空気を変えようと、珊來が視線を演舞場へと向けた。仕人が緊張した面持ちで次第に集まり、ざわめきが広がっていた。
「それでは、また後ほど」
「はい」
宗主同士が別れれば、自然と仁と珊來も別れることになった。二席ほど開けて腰を下ろし、静かに演舞の幕が上がるのを待つ。
沈星演武祭の主催は決まっていない。参加する宗派が十を超えれば開催が決定し、主催はくじ引きで決まる。しかし、主催宗派だけでは負担が大きいため、各宗派から数名ずつ手伝いが選ばれる。
権力を握る宗派は参加を許されない。あくまでこの祭りは平等の名の下に行われる。つまり夢天理などもってのほかである。そして裏を返せば——何らかの問題が発生した時、頼れるのは己の宗派のみである。
「えー……宗派瓢魏の冠耽です。皆様、本日は沈星演武祭にお集まりいただきありがとうございます」
瓢魏は古くから存在する宗派の一つだ。
「宗主である春灯は急を要する知らせにより、不在となります。その中、約二十年ぶりの開催となり、些か緊張しておりますが……皆様と交流できることをうれしく思います」
春灯の名を知らない者はこの場にはいないだろう。他者に興味を持たない林琳でさえも、その名は昔から知っていた。
そんな彼が不在ともなれば瓢魏の負担は大きく、重たいものだろう。
「それでは説明に入ります」
しかし、祭りを止めるわけにもいかない。
緊張を孕むが冷静な声によって静かに開幕の言葉が告げられる——。
◆
「では、一度解散と致します」
林琳は首をぐるりと回して周囲を見渡す。目が覚めた瞬間、隣の小太りな男の存在に気付いた。ちらりと横目で観察してみれば、親指から小指にかけて高価な指輪が並んでいる。相当の金持ちだ。
唾を吐きたくなる気持ちを抑え何事もなかったかのように立ち上がると、案内に従って退場する。
だが、他の観客たちとはまったく反対の方向へと向かう。彼の目的地は、あたりを一望できる場所だった。足取りはやけに軽く、心の中に湧き上がる期待感がその身を浮足立たせているように見える。
各宗派には、待機所として広大な建物が与えられており、それぞれに花の名前がつけられている。その屋敷らは、主が自らの手で創り上げたもので、今でも修行を積む人々の憩いの場として使われている。
だが、しかし——。
『いってぇ! なんだこれ!』
『うわぁ! て、転送陣!?』
あちこちで上がる悲鳴が林琳の耳に届き、口元をにやりと上げさせた。飽き性の主が創り上げたものが、まともであるはずがない。絡繰りと呼ぶにはあまりにも複雑で、罠と言うにはあまりにもお粗末な仕掛けが張り巡らされている。林琳はその状況を冷ややかな目で見ていた。
仁に持たせた手鏡を通じて、あちら側の様子を覗き込むと、宗主である獅宇が一瞬ですべてを破壊していた。それも、片手を軽く振るだけで。まるで散った塵を払うように、あっという間に仕掛けは無力化されていった。
楽しみが奪われていく様子を見た林琳の口角は一気に急降下した。
「っちぇ、面白くない」
林琳が木の上で胡坐を組みながら不機嫌そうに呟いたと同時に、「高みの見物かい?」という、最も聞きたくない声が下から響いた。林琳は顔を歪め、嫌悪感を隠さずその方へと目を向ける。
「……劉鳴国の件はどうなったの?」
「調査中だよ。彼の周囲に潜ませていた人間にも連絡が付かない」
「荒野を知らない兎をほったらかしにしたお前の過ちだな」
「いやぁ……返す言葉もない」
「そのくせこんなお遊びに付き合うなんて……首が飛んでもおかしくないよ」
朱禍はその通りだと言うように首を縦に振り、林琳の言葉を受け入れた。
「そうなる前に獅宇の力を借りようと思ってね」
「……ふうん」
林琳は微塵も興味がないと言いたげに呟いたが、耳はしっかりと朱禍の方へと傾いていた。
「君も顔を出したらどうだい」
その言葉を聞いた瞬間、林琳は再び手鏡に視線を移した。鏡の中には、随分と懐かしい顔ぶれが並んでいた。特に獅宇は、林琳の記憶から一切変わることなく、静かにその場を支配していた。散った仕掛けに目もくれず、彼は静寂をまといながら門弟たちに微笑んでいる。その微笑みを受け取った者たちは、まるで花が一斉に開くように、笑顔を咲かせた。
林琳は、かつて自分もその輪にいたことを思い出し、無意識に力が入った。その瞬間、ふと——獅宇が足を止め——なんと——"林琳の方"を見た。二人の目が交わることなどあり得ないはずなのに、その視線が確かにこちらに向けられていると自覚した林琳は驚き、手鏡を落としてしまった。
「はぁ、また変なもの作って……」
「返せ!」
朱禍の手に吸い込まれた鏡を奪い返そうと、林琳は軽やかに地上に降り立つ。
「やっぱり気になるんだね」
「違う! これは試作品で……!」
「はいはい」
何を言っても無駄だ。朱禍は、厭らしい笑みを浮かべながら鏡を弄び続ける。
「どうせ暇をしているぐらいなら、私の手伝いをしてくれない?」
朱禍曰く、人手は足りているが、いくつか不安要素が残っているという。
「結界は重ねて張ってはいるけれど……内部からの衝突には耐えられない。勿論、これだけの宗派が集まっているし、何か問題が起きれば宗主が動くだろう。私が必要としているのは……」
「その芽を摘み取る人間が欲しいって? それなら蒼羽に頼むといいよ。俺よりずっと適材だ」
「そうか、扇葉九の……って、駄目だ駄目だ! あの爺は一度でも癪に触れば敵判定! 後始末が面倒だ!」
「じゃあ珊來がいるだろ。この前、仕人の中で話題になってたし」
「彼かい!? 無理無理! 確かにあの巨大な領域を破壊したのは偉業とも呼べるけど……正義感に溢れすぎて無理! 腹黒そうだし! 私が求めているのは君みたいに心身共に頑丈な仕人!」
全力で否定する朱禍に、林琳は拳を握りしめた。
「お前、殴られたいのか?」
「頼むよ、林琳。特別に何かしてほしいわけじゃない。君の直感で動いてくれて構わないから。それに君だって片燕が危険に晒されるのは不本意だろう」
「……あの人がいればそんなことは起こりえない。心配するだけ無駄だよ」
林琳は鏡に映る姿を消し去ってから、冷たく言った。
「でも、あの馬鹿たちが何かしでかす可能性はあるから……頭の片隅に置いておく」
予定では林琳はこの祭りの最中に荒稼ぎをしようと思っていた。幾つかの村や廃墟、捨て去られた戦場を巡って、資金を調達するつもりだったのだ。正直言って二人と一頭が旅に加わったせいで、穏やかな旅はいつの間にかかつかつの生活だった。
「そりゃあ、あの子たちは君と違って小食じゃないし。日頃からしっかり食べないと燃料切れになるよ」
「その食費は殆ど俺の懐から捻りだされているんだけど……?」
世界中では怪奇が次々と生まれており、辺境の地では仕人が不足しているという現実がある。そのため、宗派に属さない仕人が気まぐれに対応することも多い。報酬は裏の情報回路から流れ込み、林琳にとっては海嵐宋の烏がその窓口だ。彼は林琳を贔屓にしているようで、沈星演武祭の情報を求めた際に仕事を寄越してくれた。
幸い、手鏡を通じて祭りの動向を把握できる。祭りが寝静まった後にでも片付けていくつもりだった。
「また滅茶苦茶な生活を……」
愚痴になりかけた小言と共に突如朱禍は一本の剣を手渡す。林琳はそれを不思議そうに見つめた。
「いざとなった時に心力だけじゃ不安だからね」
その剣は一般的なものよりも二寸ほど短く、薄く軽い。林琳が一振りすれば、鋭く風を切る音が響く。その刃は黒く、透明感があり、まるで黒典を思わせるようだった。
「よし、いい感じだ」
朱禍は満足げに頷き、軽く鞘を渡す。その瞬間、カチャンという金属の音が響き、空気がピンと張り詰めたように感じられる。手に取った剣は、見るからに上質な鋼を使ったものだ。その輝きが、まるで宝石のように反射し、彼の腕の中でひときわ存在感を放っている。
林琳は少しだけ照れたように頬を緩ませて笑った。しかし、その笑みは一瞬で消え、ふと、林琳の表情が一瞬、遠くを見つめるような沈黙を帯びる。
「どこでこれを?」
「それは企業秘密」
かつて、力で全てを解決しようとした彼の姿は、今やどこにもない。その変化は彼にとっても、周囲にとっても、良い方向に働いているようだ。それを感じながら、朱禍はひとしきりその変化に目を細めた。
「……あ、因みに心力をいきなり流さないでね。君の心力をまともに受けたら、一瞬で粉々になる未来が見える。頼むから絶対に無理をさせずに馴染ませてくれ」
「うん」
林琳は、言葉の意味をしっかりと理解しながらも、その表情にやや不満そうなものを見せる。
「そう言えば……観客たちはそれぞれ宿を取っているけど、君はどうするんだい?」
「知人の山荘に泊まらせてもらうことになってる」
「この近く?」
「まぁ、遠くはないかな」
「そうかい、野宿じゃないなら結構」
朱禍が淡々と言うと、林琳は軽く肩をすくめて答えた。
「別に俺は野宿でもいいんだけどね。あいつ、最近やたらとうるさいから」
その言葉は、まるで気にしていないように見えた。
「あー、仁は多分……」
——うん……? いや、待て……知人って……?
林琳がさりげなく口にしたその言葉に、朱禍の心に小さな引っ掛かりが生まれた。
「基本的にはこっち側にいるってことでいいのかな?」
朱禍が尋ねると、林琳は少し考えるように視線を宙に浮かせ、静かに頷いた。しかしその瞬間、林琳は己の腕に突然重さを感じた。
「いっ……おい!」
朱禍が急にその腕を掴んだのだ。林琳は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに顔をしかめ、振り払おうとする。しかし、朱禍の握る力は強く、簡単には解けない。
「で、知人って誰?」
一度はぐっと堪えてみたが、引っ掛かりには堪えきれなかった。
「知人は知人だろ!?」
「仕人? 情報屋? どこかの刺客? それとも、素性の知れない人間?」
「だから、ただの知人だ!」
「君が知人と呼ぶ人間は、大概ろくな人間じゃないだろ!」
突拍子もない八つ当たりに林琳も思わず声を荒げた。
「知人以外に相応しい言葉があれば初めから使ってる!」
「友人じゃないのに泊まるのか!?」
「知人も友人も同じだろ!?」
「違う!」
そのやり取りが続く中、ふと、林琳が言葉を止めた。突然、その顔に複雑な表情が浮かび、しばらく沈黙が訪れる。
「師匠に拾われる前に……匿ってもらったんだ! もういいだろ、これ以上は聞くな!」
その剣幕に朱禍は、しまった、と息を呑んだ。
林琳が過去を語ることは非常に稀なことだ。どれほど複雑で暗いものであるかは、朱禍自身も感じていた。多くを語ろうとしない彼の痛みを帯びた顔は今や深く胸に響く。
「絶対に他の人間に言うな。宗主だって……あの人のことを知らないんだ」
懇願する響きに朱禍は頷くしかない。
再び訪れた沈黙は朱禍の心に重くのしかかった。
幼いころから無情な世界で想像を絶する痛みと苦悩を背負い、過去に押し潰されそうになりながらも、彼はその小さな身体で乗り越えてきた。その片鱗が覗いたあの日から朱禍は妙な不安感を覚えている。それは劉鳴国で再会した今も変わらない。いくら彼が仁へ歩み寄ろうとも、それは消える兆しを見せなかった。
「……君を匿うなんて、やっぱりろくな人間じゃない」
すると、林琳はそれに反応することなく、ただ静かに視線を外し、無言で立ち尽くした。その背に、何かしらの重圧を感じる。過去のしがらみが、今もなお彼を縛りつけているかのようだ。
朱禍は深いため息をつき、しばらくその沈黙を共にした。頭の中では、何度も何度も、あの日の顔が浮かんでは消える。
「君がその誰かを信用しているならこれ以上は言わないでおく」
苦し紛れの言い逃れは空気に溶けて消えていく。だが、林琳はその言葉をしっかりと受け取った様子だった。
「通心は開けておくから。用があれば繋いで」
そう言って剣を片手に足早に去ってしまった彼を見送ることしかできなかった。
その後、獅宇と仁が話し込んでいるのを見かけたとき、朱禍の心にはさまざまな思いが渦巻いていた。
「遅かったですね」
「ごめんごめん」
やけにやり取りが白々しく響く。気まずさがその場に漂っていたが、朱禍はそれを感じながらも、静かに身を置くことにした。
「彼らの準備は万端かな」
「ぼちぼちってところ。さっき蒼羽の弟子と顔を合わせたばっかりだけど……年齢も近いし、話も合いそうだった」
仁が湯気の立つお茶を出して心配そうに呟く。
「……もっと交流の場に出ていった方がいいのでしょうか?」
「なんだい、急に」
「他の宗派では若い仕人同士が共同で狩りをすることが増えてきました。それに比べて、片燕は利害が一致したときのみ手を組みます。私や仁はそれで構いません。しかし……あの子たちの未来を考えると、もっと広い交流が必要だと最近思うようになりました」
獅宇の言葉に朱禍はしばらく黙って考えていた。理解はしているものの、彼の心の中でその提案を受け入れることはできないでいた。
「私は……できれば、今のままの片燕でいてほしい気持ちが強い。特に変死体の疑いがかけられているうちは、良からぬ輩が近づいてくるかもしれないだろう」
「それは重々承知しています。でも……」
「何かあれば私だけじゃなく、彼らも君に手を貸す。それに君たちにはあの女帝がいるじゃないか。それじゃ不満かい?」
「いいえ、私が言いたいのは……。先に老いていくのは私たちでしょう。どれだけ修行を積んでも、 世の理から外れることはできません。その時が来る前に、あの子たちを支えてくれる仲間が必要なのです。片燕に……あなたが手を差し伸べてくれたように」
獅宇はそれだけ言うといつものように柔く笑う。
「……まだ少し時間がありますね。もう一杯お茶でも飲んでいきますか?」
「あぁ、ありがたく頂戴するよ」
仁が静かに席を外し、朱禍と獅宇は静かな時間を過ごしながら、互いに考えを巡らせていた。再び訪れる穏やかなひとときの中で、二人の間には言葉にできない思いが横たわっているようだった。
◆
「二人とも、頑張ろうね」
「おう」
「はい」
額に巻かれた薄緑の紐が風に揺れる。
三人は師である獅宇に見送られ、険しい山の入り口へと足を踏み入れたばかりだった。一つ前を歩くのは、先ほどまで会話に花を咲かせていた蒼羽の一行。彼らの水色の額当てが風になびき、水龍のように美しい。
「頂上は遥か先だ。怪我には……」
気を付けて、と続くはずだった艾青の言葉は、突如として吹き上がった風の中に消えた。
「な、なんだこれ!?」
「山が……っ、動いてる!?」
地割れに近い異変が起こり、一行は足を止める。
地面が軋み、山全体が揺れ動いていた。土の裂け目からは蒸気が立ち上り、辺りの視界を奪う。
「落ち着いて。今は逸れないようにするのが優先です」
冷静沈着な艾青の声に、天雪と花月も慌てる気持ちを抑えながら周囲を見渡した。だが、山全体に広がる地割れがどこまで続くのか、判然としない。
「こっちです!」
艾青が風を起こす。その流れに乗るように、彼らは揺れる足場をものともせずに飛び越えた。途中で六敬と目が合い、艾青が軽く顎をしゃくると、二つの宗派は一つの群れとなって前へと進む。
「ありがとう。助かったよ」
「びっくりしたぁ……」
左胸をぎゅっと抑えた綺琉が、荒い息を整えながら呟く。「心臓が飛び出るかと思った」と、園泉が言うと安堵の息とともに全員がかすかに笑う。
艾青が振り返ると、背後には蒸気で覆われた白い世界が広がっている。何が潜んでいるのかも分からない、未知の霧。
「さて……どうやら普通に頂上を目指すのは難しそうですね」
艾青はここにいる六人以外の気配が消えていることに気が付いた。
「幸いにもこちらは逸れることなく集まれたので良かった」
数が多いに越したことはない、と天雪も頷く。
「あの……どうやって進みましょうか? 流石にこの絶壁を登るのは不可能に近い気が……」
園泉の視線の先、反り立つ岩肌が霧の向こうに聳え立っていた。足場らしい足場はなく、ただ無機質な岩壁が続いている。それだけでなく、岩肌から漏れる山水によって岩壁を登ることは間違いなく不可能だった。
「遠回りして地道に登るしかないだろうね」
時間はかかるだろうが、焦らずに迂回路を探すほかない。
「初日は特に競う必要はない。頂上に辿り着けばそれでいい。焦らずに行こう」
まさか地割れが起こるとは思いもしなかったが、怪奇に比べれば大したことではない。そんな共通の認識が、彼らの足をしっかりと前へ進めた。
二つの宗派は、時折起こる不規則な地割れを避けながら、確実に山を登っていく。
その道中、彼らの会話が途切れることはなかった。
同性の同世代。しかし、お互いに国も違えば、宗派も違う。ましてや師と仰ぐ者も異なれば、知らない世界を覗き込むような心地になるのだろう。彼らの言葉は、交わされるたびに新鮮な風を生み、それぞれの心に新たな景色を映していた。
遠足のようだと一行が笑った瞬間、ぐにゃりと足元が揺らいだ。視界がわずかに歪む。それは錯覚ではない。間違いなく、大地そのものが不自然に波打っているのだ。
「えっ……!」
咄嗟に足を踏ん張るが、沈み込む感覚はない。ぬかるみに嵌ったと思ったのに、地面はしっかりと硬いままだ。
六敬が驚いた様子できょろきょろと辺りを見回すと、花月の片手に握られた札が橙色に染まっていることに気がついた。その色が示すのは、発動中の術式——つまり、何らかの陣が作動しているということだ。
「それって……ありなの、かな?」
困惑した六敬が、顔を曇らせる。祭事の最中に参加者以外の仕人が術を使うことは禁じられているはずだった。
「確かに、祭事中に手を貸すのは禁止されてる。でも、それはあくまで祭りが正式に始まってからの話だろ。これは単なる事前準備だ」
花月の言葉はもっともらしく聞こえるが、どこか屁理屈めいてもいる。
「あの人、同門には激甘じゃねぇか!」
綺琉が声を荒げる。等価交換だの、どうでもいいだのと冷淡な言葉を浴びせられた自分たちとは、まるで扱いが違う。彼自身から直接的な害を受けたわけではないが、決して協力的な人物でもなかった。
その叫びに、片燕はちらりと顔を見合わせ、首をかしげる。
「激甘っていうか……」
「あの人、本人は否定するけど、超お人好しだから」
「祭り自体には師兄も流石に直接手は出してこないから大丈夫かと」
それがいつものことだと慣れた様子で語る。
「そうなったら確実に師匠が仁先輩を叩き潰しますよ……」
何よりも片燕の師は卑怯な真似を断固として嫌う。そして破門した弟子がその要因であれば、宗主は鬼へと変貌するだろう。
「あ、そこは林琳さんじゃないんですね」
「師兄は破門された身だからな、間に入る人間は仁先輩しかいない」
ただでさえ胃が弱いというのに、これ以上胃痛の原因が増えても困る。
淡々と述べる三人に、蒼羽は思わず沈黙した。
林琳の性格が良いとは言い難い。むしろ悪い。それは誰もが認めるところだ。だからこそ、これくらいのことは当然だと、片燕たちは言外に示していた。
「今頃絶対零度の目で嘲笑ってるに違いない」
そう言って一斉に口を閉ざした宗派片燕。
蒼羽は罵り言葉を口にする可愛らしい顔を想像し、思わず引き攣った笑みを浮かべて足を進めることしかできなかった。
そしてその光景を観察する人間が二人。
舞台上には沈香の煙が淡く漂い、深みのある木の香りが微かに鼻をくすぐっていた。朱塗りの柱には、龍と鳳凰の精緻な彫刻が施され、金色の漆が仄かに光を反射している。宗主が腰掛ける椅子には雲紋が刻まれ、ゆらゆらと揺れる灯籠の光が、それらに浮かび上がる陰影を優雅に踊らせていた。
玉石の台座が据えられた上には巨大な水晶が鎮座している。水晶の表面はひどく滑らかで、そこに映る光景はあまりに鮮明だった。まるで異なる世界が閉じ込められているかのように、静謐で、しかしどこか生々しい。周囲には幾つもの小さな水晶が浮かび、それぞれが淡い光を放ち、ゆっくりと回転していた。その光はまるで脈動する生命のように儚く冷ややかでもある。
その水晶に映るのは、競技の舞台。蒼羽の宗主、扇葉九は黒曜石の杯を手にしながら、静かにそれを見つめていた。杯の中の酒が微かに波打つ。漆黒の衣の上に羽織った藍の外套が、灯りに照らされて深い色の陰影を生み出している。彼の隣に座するのは片燕宗主、獅宇。表情は静かで、一見すると何の感情も滲ませていないように見える。
扇葉九がぼそりと呟く。
「あれは……あの餓鬼の護符か」
低く、冷静な声だった。その声音には、嘲るような響きすら滲む。
「えぇ、恐らくそうでしょうね」
獅宇の声は淡々としていたが隠しきれない硬さがあった。
水晶の向こうでは、一人の少年が護符を手にしている。しかし、彼にその護符を生み出す能力はない。
感情を振り払うように、獅宇は瞳を隠す特別な布に触れる。感触はいつもと変わらぬ滑らかさのはずなのに、どこかざらついたものを感じた。
沈黙の中で、扇葉九が再び口を開く。
「えらく距離のある物言いをするのは……何か事情が?」
獅宇は目を伏せ、短く息を吐く。事情か——そう言われれば、確かにそうなのかもしれない。だが、それはとうに断ち切ったはずのものだった。いや、断ち切ったはずだった。
「破門した弟子が未だに成長しないことに腹が立つのです」
冷たく言い放ち、獅宇は杯を手に取る。その動作には微かな苛立ちが滲んでいた。
「あの実力だ。これ以上成長する必要があるとは思えんが」
扇葉九は杯を置き、腕を組む。水晶に映る戦いを見つめながら、ぼそりと呟いた。確かに、護符に仕込まれた技量は見事なものだった。それはもはや誰もが認める領域に達している。だが、獅宇は静かに首を振る。
「人間性の問題です」
言葉には、明らかな棘があった。扇葉九は獅宇の横顔をちらっと見た後、ゆっくりと頷いた。
「どこか名門の出身か?」
獅宇はしばし無言のまま、杯の模様を撫でて視線を落とした。
「いいえ、孤児でしたが……私が……半ば強引に攫ったのです」
まるで独白のような声音だった。扇葉九が驚いたように目を開く。
攫った——それは誇張でも冗談でもなく、まさにそうだったのだ。あの子は何も持たず、何も知らず、ただ必死に生きていた。血に染まろうとも構わない。瞳に夕焼けを宿して、前だけを向いていた。そんな彼を見つけた時、なぜか手を伸ばしていた。それが正しかったのかどうかは、今となっては分からない。
短い沈黙の後、扇葉九は呟くように言った。
「そうか。立派に育て上げたものだな」
その言葉が、獅宇の胸を締めつける。
——立派に育てた?
「あやつらのお陰で救われた魂がある。確かに生意気な餓鬼ではあるが……決して珊來との約束は破らなかった」
その事実が獅宇の心に深く突き刺さる。
そうだ——あの子は、決して約束を破るような人間ではなかった。幼いころは泣き虫で、それでも誰よりも誠実で、どれほどの困難があろうとも、一度交わした約束は決して破らない。そういう弟子だったのに。
——どうして、私との約束は守らなかったのですか。最初に交わした大事な約束を、なぜ。
胸の奥に広がるのは、鈍く重く、醜い感情だった。沈香の煙がふわりと漂い、ゆらゆらと立ち昇る。獅宇はその揺らめく煙を見つめながら、そっと目を伏せた。水晶の向こうでは、護符を手にした弟子たちが笑っていた。
◆
「なんだ、生意気な目が少しましになったじゃないか」
腰の曲がりかけた老婆の声が、静かな空間に響いた。林琳は金槌を振り下ろしながら、無意識に小さく息を吐いた。崩れかけた天井を修理しながら、その目をふと老婆に向けると、そこにいつもの鋭い眼差しが宿っていた。彼の瞳に映るのは、物の見方が鋭く、無駄のないその姿だ。
「老体に鞭打ってこんな場所に住み続けてるの? もっと街の方に行けばいいのに」
老婆は、まるで何も気にすることなく、あしらうような仕草で答える。
「賑やかなのは嫌いでね」
その一言に、林琳は何も返さず、金槌をまた振り下ろした。彼の指先に伝わる金槌の感触は、決して優しいものではなかった。年季の入った柱や天井に張られた板は、あちこちで浸食が広がっており、どこを触れてもその老朽化が手に伝わってきた。
「その減らず口は相変わらずだね。ああ、ほら、右の方も直しておくれ」
「はいはい」
無言で作業を進めながら、林琳は肩を軽くぐるぐると回し、作業の合間に昔の記憶を引っ張り上げる。長い年月を経て、すっかり朽ち果てた家と一緒に、記憶もまた少しずつ風化していったような気がしていた。だが、たとえ壊れかけた家の中でも、彼はどこかしら懐かしい感情を抱いていた。もしかすると、この小さな場所こそが、傭兵だった彼にとって一番落ち着く場所だったのかもしれない。
「場所は変わってないからわかるだろう」
無心で金槌を振るい、腐食した柱を取り除く。倉庫の中には、比較的新しい柱が置かれている。
その倉庫の中の湿った木の匂いや埃っぽい空気が、林琳の過去と密接に結びついているように感じられた。その空気の中には、何年も前に使っていた道具が残されており、その匂いすらも彼の記憶の一部だった。
「暇つぶしに片付けておいてよかったな」
老婆の家に匿われていた期間は短かったが、戦が終わる寸前まで身を隠していた林琳にとって、この家での生活はあまりにも平穏無事で、逆にどこかしら不安に感じる瞬間もあった。あの時、何も知らずに過ごしていた日々が今となっては遠い記憶のように感じられ、その静けさが少し疎外感を生んでいた。だが、これもまた必要な時間だったのだろう。
今になって林琳は自分の内面でその感情に整理をつけようとしていた。
「柵って……俺が作ったやつ……?」
嫌な予感が胸に広がる。林琳は目を向けると、見覚えのある柵がそこにあった。見た目はまだしっかりしているように見えるが、何年も経った今、その劣化が顕著に現れている。寧ろ今日まで壊れずにいたのが不思議でならなかった。倉庫の中に灯るほんのりとした心力の光に照らされた釘や木箱を見つめ、林琳は懐かしさと少しの切なさを感じずにはいられなかった。
「ばーさん、端材って捨てたの?」
補強用に取っておいた細かい端材が見当たらず、林琳は呑気に碁を打つ老婆に声をかけた。しかし、老婆は一切反応を示さず、碁を打ち続けている。声に出しても、彼女の眼差しは完全に碁の盤に釘付けで、まるで他の世界にいるかのようだ。
「おーい。ばーさん」
碁を打つ手は動き続けているが、声にはまったく反応しない。林琳は、少し苛立ちながらも再度声をかけた。
「ついに耳まで遠くなったか……」
その言葉が空気を切り裂くように響いた瞬間、突然その静寂を破る音が耳に届く。
「……聞こえてるなら返事しろよ!」
「お前がぎゃんぎゃん喚くから手が滑った」
碁石が勢いよく壁にぶつかり、目の前にある柱に深くめり込んだ。もしも脳天に食らっていれば、間違いなく貫通していただろう。昔から、こうした危険な瞬間は幾度となく繰り返されてきたが、今思えば、子供相手に手加減してくれていたのだと痛感する。
「ねぇ、端材どこ? ここに纏めて置いたはずなんだけど」
「……あの端くれたちか。焚火をするのに燃やしたからね、ないよ」
「焚火って……ばーさん、炎が怖いんじゃなかったの?」
老婆の言葉に、一瞬耳を疑った。炎を恐れていたはずの彼女が、その端材を燃やしてしまったという事実に、林琳は胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。
「……昔のことさ」
パチリ、ぱりち、と碁石から鳴る音が響き、その音が不意に火花のように感じられる。林琳の心に重く残ったその言葉を受けて、目を閉じると、かつての記憶が甦る。まるで今でも、あの頃の炎の映像が彼の目の前に焼き付いているかのようだ。
「……俺のせいでしょ。隠さなくていい、ちゃんとわかってる」
戦場で広がる黒炎を、恐れずに直視できる者は少ないだろう。どこへ逃げようとも、炎に触れればその命が尽きるまで逃れることは許されない。その記憶は、今でも林琳の中で生々しく残り、どこかに押し込めようとしても、消し去ることはできなかった。
老婆——玥は、燃え上がる黒炎の映像を振り払うように、碁を打ち続けた。盤の上で静かに光る石が、彼の心に重く響く。
「玥はどうして俺を匿ったの?」
宿を取らずに、彼女の家を選んだのには理由があった。
なぜ彼女が自分を生かし続けたのか。あの時、林琳はずっとその理由を求めていたが、答えは未だに得られないままだった。
孤児を拾い、弟子として育て上げた片燕宗主との関係は、組織としての繋がりがあった。しかし、玥との関係は違った。
「あなたは俺が心底憎くて堪らないはずなのに……なぜ俺を生かしたのか、その理由がわからなかった」
最初、林琳は彼女の気まぐれだと思っていた。
拾われる場所が変わっただけで、最終的にまたあの世界へに戻るのだろうと。
「どうして?」
その理由を聞くことに意味があるのだろうかと思いながら、今の彼は答えを求めていた。
「殺せる瞬間は何度もあったのに。なぜ、あなたは……俺を突き放さない?」
彼はせせら笑いたくなる心を必死に抑えながら、そう問いかけた。何かが切なく、そして重たく胸を締め付けるような感情がこみ上げてくる。
「突き放されたかったのか?」
玥は、ふと喉が苦しくなり、言葉に詰まった。過去の出来事が、未だに胸を締め付ける。何度も命を狙われたあの日々が鮮明に蘇り、彼女もまたその苦しみを抱えていた。
「利用価値を見いだせなかったから?」
「……馬鹿を言うな」
彼女の返答は淡々としていた。冷ややかな声。まるで何もなかったかのように、無感情に響くその声に、林琳は心の奥で何かが引っかかるのを感じた。
「じゃあ今は? 片燕を破門されて、後ろ盾もなく、死んだって誰も……」
言いかけた言葉が胸に詰まる。口を閉ざし、心の中で悔いのようなものが渦巻いた。しかし、そんな感情を彼女に見せるわけにはいかない。彼は何とかしてその感情を押し込もうとした。
「そもそも、あれは……お前のせいじゃない。空気も酷く乾いていたし、風向きも悪かった」
彼女の目には、何もかもが過去のことだと語る冷徹さが宿っている。林琳は思わず口をつぐんだ。なぜなら、彼が感じる違和感の正体を、彼女もまた感じているはずだからだ。
「丘を丸ごと一つ焼いて、山も焼け野原になったのに。偶然で片付けるには無理がある」
喉の奥から絞りだした声に玥はただ静かに目を伏せる。その姿に、再び疑念が胸に広がる。
「過ぎた話はやめてくれ」
眼差しが鋭く、次第に強くなる彼女の意志が伝わってくる。しかし、林琳は一歩も引かなかった——否、引けなかった。
——"「自分には関係がないから。どうでもいいから。勝手にすればいいって関心を示さない……それは師兄の悪い癖だ。師兄は知らないだろうけど、その行動で傷付く人間もいる」"
彼は常に無関心を装い、何もかもを遠ざけてきた。小さな世界に閉じ込められた彼にとって、それが最も楽な方法だったのだろう。周りに目を向ける暇があるなら、目先の生死を越えなければならなかった。しかし、今、その無関心が彼を窮地に追い込んでいる。心の中で自分の立ち位置を見失ってしまっているのだ。
「知らないふりをしたら……少しは楽に生きられると思ったのに、どうやらそれは違ったみたい」
「……変わったな」
玥が静かに呟くと、林琳の表情に苦しみが垣間見えた。
「自分でも理解できない感情が気持ち悪いんだ」
眉間に深い皺を寄せながらも、言葉は穏やかだった。
彼女の目に映るのは、歩みよろうとする彼の意志だ。数年の時を経て、すれ違っていた師弟の関係が変わった。高い壁、深い溝。それを越えたものがあったのだろう。
「あの火災は……お前のせいじゃないんだ。お前はやれと命じられて、やっただけで、私にお前を裁く権利はない。人が人を自ら裁くのは間違えている」
その言葉に、林琳は呆然とした。彼女の目の中で、林琳は単なる「過ぎ去ったもの」の一つだったのかもしれない。彼女は憎悪をぶつけるのではなく、時間の流れに鎮めることを選んだ。
「人は——法により裁かれるべきだ」
「……それで良いの?」
その問いが、自分自身の心に響いた。
「あの時、あなたが俺を突き出していれば、法の下裁かれだはずなのに」
それが彼の本音だった。自分の持っている力がどれだけ特異であろうと、それを恐れなかった彼女が、今やどれほど貴重な存在になっているのか。
あの時は彼女の眼差しが、他の誰とも違う、唯一無二のものに思えた。
「ははは! 私がただの餓鬼を突き出すだって?」
玥は笑いながら、少し肩を揺らして言った。その笑いは、痛々しくもあったが、どこか懐かしさも感じさせた。「こんなに小さかったお前を」と彼女は人差し指と親指で、僅かな隙間を作った。
「お前はただの餓鬼だった。私から見たお前はね……兎に角生意気で小賢しくて、温もりのない環境に堕とされた哀れな子だったんだよ」
碁石を摘まむ彼女には温もりの宿った何の飾りもない本心が込められていた。それが林琳の心に刺さり、しばし言葉を失わせた。彼女の言葉は、ただの批評や指摘ではない。
それ以上、彼女は何も言わず、再び碁石を手に取って静かに打ち始めた。時折響くその音が、無言の空間に響き渡る。言葉が尽き、時間だけが流れていくような感覚に、林琳は圧倒される。
「それに炎に恐怖を抱いているのは、ずっと昔からだ。いいか、本当にお前とは関係がないんだよ」
「ふうん」
「安心したか?」
笑いを含んだ声は林琳の胸に重く響く。
彼は首を傾げながら、何かを思い悩むようにその問いを飲み込んだ。
「数年ぶりに文が届いたと思えば、急に鍵を寄越せだって? どの面を下げて来るか楽しみにしていたが……」
彼女の口調には、明確な皮肉がこもっていた。
「憑き物が落ちてよかったよ」
幼い子供が持つには重たすぎる、血と泥にまみれた不潔な印象は消え去っていた。凛とした静寂の中で響く甲高い音も、今はすっかり静まっている。外見から受ける印象とは裏腹に、その姿にはどこか静謐さが漂っていた。
どうしようもなく鋭く濁った瞳は鮮やかな夕焼けに姿を変えたのだ。
昔から彼の心力には触れれば燃えるどころか凍えてしまうような冷徹さがあったが、今、その波は驚くほど穏やかで、むしろ心地よさをもたらしている。
「……今までどこにいた。わざわざ片燕にまで様子を見に行ったのに、お前の気配はおろか、拠点は壊滅状態だったぞ。何をしたんだ」
玥からの問いに、彼は一瞬沈黙を切った後、短く「別に」とだけ答えた。
「わざわざ山雫国まで行ったの?」
彼の中で感じていた焦燥と不安が、少しずつ形を成していく。それは、単なる好奇心から来るものではなく、もっと深い理由があったからだ。林琳は尋ねる一言一言に、彼女がどう答えるのかが不安で仕方がなかった。
「一年ならまだ待てた。だが、二年、三年と月日が経つにつれて良からぬ噂が流れだし、私はこっそりと覗きに足を運んだ。そこで見たのは、淀みの広がる景色だった」
目に浮かぶのは、どこか薄暗い道を歩く無数の人々の顔。誰もが目を伏せ、通り過ぎていく。しかし、最も異常だったのは、あの朱色の頭がそこには無かったことだ。思い出したくない記憶が急に溢れ出してきた。
「弟子たちの顔は辛気臭く、あの場所には活気が無かった。宗主が隠居から戻ったばかりだと聞いて、お前のことを尋ねようと思っていたのに……陰の気が充満していて、すぐにここへ帰ってきた」
陰の気が強かったのは、恐らく林琳の術に問題があったのだろう。その現実に林琳は重い沈黙で応えた。
「柵の修理は後でいい」
玥は突然、今まで打っていた碁石を乱雑に片付け、真っ白な盤面を用意した。何も考えずにただ、その場に座るようにと促すような仕草をする。
「俺、碁は苦手だよ。相手にしても面白くないと思う」
彼がそう告げると、玥はまた聞こえていないふりをして静かに微笑んだ。
うんざりした様子で林琳は碁石を取り、盤面に向かう。
二人はしばらく言葉を交わさず、黙々と碁を打ち続けた。しかし、何気ない時間が流れ、次第に林琳はその空間に心を開いていくのを感じた。彼の中にあった緊張感が、少しずつほぐれていった。
いつも鋭い言葉を使う玥の碁は、今や驚くほど優しかった。手を緩め、林琳が話しやすいように手を打ち続ける。盤面は、どんどん先延ばしになり、何度も繰り返される手の中で、全く決着がつかない。
その優しさに触れることで、林琳は困ったように笑った。
「……片燕にいると、時折息が辛くなる日があった」
不意に、彼がぽつりと漏らした言葉が、重く空間に残った。
「片燕に対して負の感情を持ったことはない。手のかかる人間は多いけど、嫌いじゃない……と思う」
玥は林琳の静かな呟きを聞き逃さないように、耳を傾けた。
「師匠と仁の三人で旅をしていた時は何も思わなかったのに、人が増えていくたびに違和感が生まれた」
片燕は幸せとは疎遠な過去を持つ人間で構成された。様々な痛みを持つ者たちは傷を舐め合い、痛みを共有し、置き去りにしようとした過去を乗り越えていく。
「でも、最近になって……違和感がようやく分かった」
それは、とても簡単なことで——当たり前のことだった。
「玥の一番古い記憶は何?」
その問いかけに、彼女はしばらく考え込み、静かに答えた。
「乳母だ。私は母を早くに亡くしたからな。怖い夢を見た私を乳母が波浪鼓であやしてくれていた。かなり若い乳母だったが……子守は相当上手かったはずだ。母は私を産んだ時に幽閉されたから……顔も知らない」
林琳は少し驚きながらも、その光景を想像してみた。彼女がどれだけ辛い思いをしてきたのか、その裏にある悲しみをひしひしと感じる。
「お前は……傭兵になる頃の記憶か?」
玥が尋ねると、林琳は軽く首を振った。
思い出すのは一面灰色の世界。
手に持っていたのはどこで拾ったのかすらわからないボロボロの剣。
「物の数え方を知る前に、人の腐敗臭を知った」
初めはそれが腐敗臭とは知らなかった。
「文字を覚える前に、人は呆気なく死ぬことを理解した」
世界はそうであると理解した。
「怪奇を祓う方法よりも先に……」
——人の殺し方を覚えた。
男にしては些か高い声はどこか冷徹で、重たかった。
玥は何も言えずに黙っていた。
「いつ、どこで、誰を初めて殺したのかも……覚えてない。全部の記憶がぐちゃぐちゃなんだ。師匠に拾われてからは、混濁することはなくなったけど……それまでは、自分がどこにいるのか、誰が敵で、どちらの陣営に属しているのかすら不透明だった」
今、己は生きているのか、死んでいるのか。それすらも眠りから目覚めて判断していた。
彼の声には深い疲労と困惑が滲んでいた。まるで過去の自分を否定しようとしているように、空虚に響いた。過去が曖昧で、記憶がただ流れのように混ざり合い、何が真実だったのか分からなくなってしまったのだろう。思い出すことさえ、彼にとっては難しいのかもしれない。
「体に染みついた匂いと、脳裏に刻まれた光景だけじゃない。簡単に人を殺す方法を鮮明に覚えてる」
その一言には無情さと空虚さが隠れていた。
普通なら、誰もが学ぶべき「愛し方」や「触れ合い方」などの基本的なことを、彼には教わることなく過ごしてきた。それが無意識のうちに彼を歪め、今の彼を作り上げたのだ。
誰も悪くない。林琳の過去も世界に散らばった一つの運命に偶然に過ぎないのだ。
「今でも時折、あの感覚が疼くんだ」
親指の爪を噛み、人差し指で短い爪を引っ掻く仕草が、どこか幼さを感じさせた。それは、彼がまだ完全に幼さを捨てきれていないことを示す。
昔から消えないその癖に玥は胸が締め付けられるような感情を覚えた。
「殺気立った空間に入り込むと、自分が高揚しているのがわかる。仕人として生きている方が長いのに、可笑しいでしょ? 傭兵だった記憶が、仕人の記憶を塗り替えていく錯覚から逃げられない。今でも視界にちらつくんだ」
黒炎、砂埃、血の匂い、焼けた大地。
「だって、俺は……」
あの空気は嫌いじゃなかった。
彼の声は低く、確信を持って言い放たれた。死が常に隣にあった世界で、死の中にこそ自分を感じることができた。誰が味方で、誰が敵か、そんなことはどうでもいい。生き残れば、そこに価値が生まれる。どれだけ過酷な状況下でも、過度な精神的負担が一種の安堵を教えてくれたのだろう。
「結局どれだけ仕人の真似事をしようと、俺はこちら側の世界には馴染めない。それだけのことだった」
何よりも片燕はその違和感をより色濃くさせた。
その事実が、どれほど痛かったのか。
「口に出すのも憚れることを沢山した。非道な行いだって、到底数え切れない」
林琳は、目を逸らすことなくその過去を受け入れるだけだ。抱えてきたもの全てが生きるための道だった。泥水を啜ってでも彼は生きることを選んだのだろう。
そして、玥は彼の続く言葉を待った。
「いくら仕人になろうとも塗り替え続けた血は、今でも両手にこびりついている」
その告白に、彼女は一瞬顔を背け、何かを考え込むような仕草を見せる。
「……お前は、戦場に戻りたいのか?」
彼の指が碁石を滑らせる。その動揺に、玥はふと彼の心の奥底が見え隠れしているような気がした。
「さぁ? どうなんだろうね」
答えは曖昧だ。戻りたいのか、戻りたくないのか、彼自身がその答えを出せていない。違和感を抱えたまま仕人でいることが正しいのか——それこそが、今の林琳が抱える最大の葛藤だった。
「ずっと自分一人で答えを出せていたのに、今はそれができないから……」
玥は静かに彼の心の変化を感じ取った。その小さな変化を見つけて、彼女も隠していた想いを語る。
「お前が何か愚かなことを犯す……兆しは確かにあった」
その言葉に、彼の目がわずかに鋭くなった。
林琳は精神を揺るがす衝突がある度にこの屋敷に飛び込んだ。
「……朱禍は俺より先に気が付いていたみたい。俺が仕人の世界に馴染めないことも、それが師匠をいつか傷つける要因になることも……まぁ、最終的にその通りになったけどね」
朱禍の予感が的中したとき、林琳はどこか達観していたと自負する。
「それでも、犯した過ちに後悔はしていないのだろう?」
彼女の問いかけに、彼は静かに頷く。幾度も繰り返した答えは揺るぎない。
「……うん」
彼は目を閉じ、深く息をついてから、言葉を続けた。
「俺は、俺のできる最善の選択をした。それが……師匠を裏切る行為だとしても、俺は……」
その選択が間違いだったと、林琳は認めない。何度だって同じ選択をするだろう。
林琳は小さく笑う。
今となっては遠い日の記憶に過ぎない。
「俺の選択で不幸になった人間が大勢いることは確かだよ」
ことの重大さを理解したのは、最近のことだった。目を背けていた現実に、少しずつ灰が積み重なっていく。
「それで破門されたのか」
「まぁ、平たく言えば……そうなるのかな」
「何をしたか聞いても?」
「それは誓いを破ることになるから、間接的に俺が死ぬ」
そして、決別のために互いに誓いを結んだ。
誰も知らない二人だけの誓い。
誰にも知られてはいけない、二人の大きな罪。
「だから、余計にわからない。俺が原因で崩れたなら、俺を切り捨てるべきだ。死んだも同然だった俺を庇う理由なんてどこにもない。それに変死体だって俺に擦り付ければ丸く収まったのに……」
——現実はどうだ。相変わらず愚かな師弟が隣にいて、小言の煩い男がいて、大きくなった子供たちが一人前として沈星演武祭へと出場するのを見ている。
「不思議だよね」
玥は話の展開に瞠目する。
「おいおい、どうしてそこに戻るんだ。切り捨てるとか、擦り付けるとか……いや、もういい。お前のそれは今更始まったことじゃないし、自覚したところでお前は逃げ道を探すに決まってる」
やれやれと嘲笑混じりに言う。
「何もかも捨てることができたと思い込んでいた……それがお前の誤算だ」
だが——彼は知ろうとしている。
愛されていることを自覚したとき、彼はどうなってしまうのだろうか。逃げ道を絶たれて、付きつけられた愛と対峙したとき、彼の心はどう動くだろうか。
玥は不思議と高揚していくのを感じた。
他人の内情に深入りしない、それが玥のやり方だったが、彼の変化を見て、お節介という名の後押しをしてやろうと思った。
「お前は肝心なことを話さないから……水が溢れてから周りは気付くんだ」
彼女の声は、どこか哀しげで、しかし鋭い。林琳はその言葉の意味を噛みしめ、しばらく黙っていた。
「放任されていても、大切にされていなかったわけではない。間違いなくお前は宗主に愛されていたし、門弟にも慕われていた。それをお前が知らないふりをして……信頼を裏切り、身勝手に突き放した結果だ」
淡々と口にする。それには彼の無責任さを責めるようなものが含まれていた。しかし、彼に対する未だに残る優しさも感じられた。それが、林琳の胸を締め付ける。
「宗主はお前を手塩にかけて大事に守ってきたはずだ。形がどうであろうと、愛してもらったはずだ」
その言葉が重く響く。
「愛だなんて、そんなもの……」
「そうやって否定し続ける。いいか、愛を知ろうとしないお前がそれを口にする資格はない。叩き出されたくなければ黙って聞け」
玥の中の怒りが、己に向けられたものであるとすぐに理解する。
「私とお前は腐れ縁の一つだ。心を開く間柄ではないし、お互いに深く関与しなかったからな」
彼女は少し笑いながら言うと、またしばらく沈黙が続いた。
「昔のようにここへこれば良い」
優しさの戻った気配に林琳は安堵の息を漏らした。
「私はお前を待っていたよ」
どれだけの月日が経とうとも。
連絡が途絶えようとも。
必ず帰ってくると信じていた。
「……おかえり」
短い言葉に込められた温もり。彼女の存在は、今の林琳にとって深く重要なものだった。静かな笑いの中で、彼の心の中の不安が、少しずつ溶けていくような気がした。
「人と生きることは、時間を共有すること」
それが彼女の信念だった。今も昔も——変わらない。
その真実を、彼女は誰よりも身に刻んでいる。
◆
「お前、嘘をついてるだろ」
言葉とともに、首筋に鋭い痛みが走った。強い力で喉を締め上げられ、朱禍の息が詰まる。苦しさに顔をしかめながらも、彼はそれ以上動かなかった。
眼前には林琳の冷徹な瞳。暗闇の中でも鋭く光るそれは、朱禍の内側まで見透かすような眼光だった。
「九河のこと……本当は何か知ってるな?」
低く押し殺した声が、耳元で囁くように響く。
林琳が疑念を抱いたのは、朱禍の行動がどうにも腑に落ちなかったからだ。
「宗主に力を借りに来たのは事実だとしても……お前が皇太子を見殺しにするなんて、あり得ない。ましてや、夢天理の息がかかっている劉鳴国で、自ら火の中に飛び込むなんて——そんな無謀な真似を、お前がするはずがない」
その言葉に朱禍は微かに眉を寄せる。喉を圧迫する手が少しだけ緩んだのを感じると、荒い息を吐いた。
一瞬の沈黙。
「……見殺しって言い方!」
朱禍はわざと不満げに声を荒げた。が、林琳の問いが的を射ていることは、痛いほど分かっている。彼の目を真正面から見るのが、ほんの少しだけ億劫だった。
誤魔化すように肩を竦めると、軽く溜息をつく。
「はぁ……君は妙に、この件に関して知りたがるね」
林琳は淡々と答える。
「九河には興味がない。でも、怪奇が絡んでるなら話は別だ。面白そうな匂いがする」
「おい」
やけに首を突っ込んでくると思っていたが、やはり面倒な理由だった。
朱禍は苛立ち半分、呆れ半分で林琳を睨む。口を開き、咎めようとした——その瞬間、不意に彼の口から思いもよらぬ言葉がこぼれた。
「でも……いいよ」
朱禍の視線が揺らぐ。
「お前がする行動で、不利益になったことはないから」
それは、紛れもない信頼の証だった。
「意外だ。君の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった」
一瞬、朱禍は目をぱちくりとさせた。まるで冗談を言われたかのように。しかし、林琳の表情は変わらない。彼は本気だった。
次第に朱禍の唇が緩み、静かに微笑む。
「それは……私を信頼しているということかな?」
「最終的な損得勘定だ」
林琳は淡々とした口調で言い放つ。
「剣を貰ったからな。一度だけ、無条件で手を貸してやる」
言わずもがな、相変わらずの上から目線である。
朱禍は肩をすくめ、軽く笑った。
「あはは。それは……光栄だね」
林琳の知らない笑みの裏で、朱禍は静かに満足げに微笑んでいた。林琳が等価交換を何よりも優先することは、最初から計算済みだった。彼の性格を逆手に取る。それは朱禍にとって、もはや当然の戦術だった。
——してやったり。
心の中で密かに呟く。すべては計画通り——朱禍の中で、確かな手応えがあった。
「あ、一つ聞きたいことがあるんだった」
不意に、朱禍が何気ない声で切り出した。
林琳は気怠げに目を向ける。
「聞きたいこと?」
「あぁ。君、劉鳴国で神子の魂に触れただろう?」
朱禍は口元に笑みを浮かべながら言う。その笑顔は軽いものに見えて、しかし彼の目だけはどこまでも鋭く、林琳の反応を計るように光っていた。
「それから、一度でも領域に戻ったかい?」
その言葉に、林琳の眉がわずかに動く。
意図を探るように朱禍を見つめるが、彼の表情からは何も読み取れない。
林琳は静かに首を振る。
「妙な動きはないし、侵入者もいない。なぜお前が気にするんだ?」
彼の声には淡々とした響きがあった。だが、内心では再び小さな疑念が渦巻いている。
朱禍は肩をすくめ、まるで気楽な雑談でもするような調子で続ける。
「えー、なんでって……ねぇ?」
言葉を濁し、わざとらしく目をそらした。
「胡麻化すな!」
即座に林琳の手が朱禍の襟を掴み、力が込められる。
「ぐえっ、首! 首が……ぐっ!」
朱禍は咄嗟に喉を押さえるが、林琳の手は容赦なく締め上げた。息苦しさに顔を歪めながらも、彼の瞳にはまだ余裕の光が残っている。
頭の中で警鐘が鳴った。
今更ではあるが、この男が領域についてやけに詳しいのも、仁があそこに辿り着いたことも、林琳の想定を超えている。
林琳はさらに力を込め、睨みつける。
「お前が領域について知っているのは、仁のせいだとは思うけど……お前が気にする必要はないだろ」
その言葉に、朱禍の目がわずかに細まる。
林琳の言葉の端々に警戒がにじんでいることを見逃さず、朱禍は小さく息を吐いた。
「き、君だってっ……! あの領域をどうやって見つけたんだ!」
ぐぐぐ、と互いに押し合う。
朱禍の鋭い指摘に、林琳は一瞬だけ言葉を詰まらせた。その一瞬の沈黙が、朱禍には何よりの答えだった。
林琳は不機嫌そうに視線を逸らし、しぶしぶ朱禍の襟を離す。
朱禍は息を整えながら、自らの襟を整えた。
「獅宇の入れ知恵かと思えば、彼も君の行き先は知らなかった」
彼の声は、先ほどまでの軽さとは違うものだった。次の言葉が続く前に、林琳は短く息を吐く。
「いいかい、林琳」
朱禍は林琳をじっと見据えた。その瞳には、いつもの余裕とは違う色が宿っている。
「君が一番理解しているだろうけど……あの領域は普通じゃない」
静かに言い放つ。
林琳は何も言わずに彼を見つめた。
朱禍の言葉の意味は分かっている。分かっているからこそ、これ以上深入りしたくないのだ。
「それは今は関係ないだろ」
「はい、出ました。"関係ないだろ"反応」
朱禍はわざと大げさに笑い、林琳の眉間にしわが寄る。
「今は、って言った!」
反射的に反論するが、朱禍は目を細めたまま、ただ微笑むだけだ。その態度が、無性に腹立たしい。
「もういい! 帰る!」
苛立ちを隠さずに踵を返す。
——だが。
「あぁ、ちょっと。話はまだ終わってないよ」
林琳の首巻にするりと指が引っかかる。
「っ……!」
不意を突かれ、思わずつんのめった林琳は体勢を崩し、咄嗟に地を踏みしめる。振り返ると、朱禍は余裕の笑みを浮かべたまま、軽く指先を遊ばせていた。
「こっちの退治にも付き合っておくれ」
即ち——雑用であった。
「なんで俺が……」
林琳は呟きながら、ふわふわと頭上を飛び回る蝶を斬り払った。刃が閃くたび、命のないそれらは一瞬で霧散する。しかし、まだ終わらない。群れを成す蝶たちは、なおも空を埋め尽くしていた。
鬱陶しい。だが、一度心力を纏えば恐れるものは何もない。剣を握る手に力を込め、一閃。風を切る鋭い音とともに、無数の蝶が灰へと変わった。宙に舞っていた黒い塵がゆっくりと落ち、辺りは静寂に包まれる。
林琳はわずかに目を細めた。
——馴染むのが早すぎる。
「で、名前はつけたのかい?」
不意に、隣で気楽な声が響いた。
「名前って……別に必要ないでしょ」
林琳は剣を軽く持ち上げながら答える。たしかに、これから長く使う剣かもしれないが、そこに名前をつける必要性は感じなかった。
「君を守る剣だ。ちゃんと名前をつけてあげないと、そのうち反抗期になるよ」
朱禍は肩をすくめながら言った。
「反抗期って……子供じゃあるまいし」
林琳は呆れたように息をつく。そう言いながらも、彼の脳裏にはかつての愛剣の姿が浮かんでいた。
——黒典。
何年も共に過ごした、人生で最も手に馴染んだ剣。鋭い切れ味、しっくりとくる重量、何よりも、まるで意志を持つかのように応えてくれる相棒だった。
それを思うと、今の剣がどこか無機質に感じられた。悪い剣ではない。だが、黒典と比べてしまうと、何かが足りない。
「私がつけてあげようか?」
「はぁ!? 絶対に嫌!」
即座に拒絶する。
朱禍の命名など、到底信用できない。きっと、趣味の悪い名前をつけられるに違いない。そんなものを一生使い続けるのは、想像するだけでぞっとする。
「ひどいなぁ。せっかく考えてあげようと思ったのに」
朱禍は冗談めかして笑いながら手を振る。その横で、林琳は再び蝶を斬る。
ざくり。
刃が蝶を捉え、同時に何かが地に落ちた。
「……君ねぇ」
朱禍が苦笑しながら自分の髪のひと房を拾い上げる。
「ああ、悪い。見えなかった」
林琳は涼しい顔で言い放つ。
「いくつになっても口が達者なことで」
朱禍はやれやれと首を振り、慎重に身の回りへ防御の陣を張った。
「それで防げるならいいけどね」
林琳は小さく笑い、剣を軽く回す。
「劉鳴国で剣を買わなかったのには、何か理由があるのかい?」
「純粋に資金不足。劉鳴国、物価がくそみたいに高いんだよね。上等な剣を手に入れるか、旅費に充てるか……あの時は資金調達を優先すべきだと思ったから」
それは嘘ではない。
剣がなくても、戦える。己の心力があれば、それで十分だ。中途半端な量産品を買うくらいなら、酒を買ったほうが幸福度は上がる。
「酒飲みは獅宇に似たか……」
「はぁ? 酒は……」
林琳はふと記憶を遡る。
——玥に習ったのだ。
幼かった己に酒を注がせる彼女に付き合えば、誰だって酒豪になるに決まっている。
「そう思えば、同じ宗派なのに仁はあまり飲まないよね」
「仁は俺より酒が強いよ」
「へぇ、会合でも一滴も飲まなかったから。てっきり弱いのかと」
「会合って……それは俺が飲むから、仁は飲まないだけで……」
「何かあった時のために? 笑わせないでくれよ、君は酒に酔わないだろ。どこにいても水を浴びるように飲むじゃないか」
「酒癖が悪いみたいに言わないでくれる?」
「劉鳴国で酔いつぶれてたのはどこの誰だか」
「……おい、性格が悪いぞ」
酔いつぶれてはいない。ただ単に、酒が回って少しだけ気が緩んだだけだ。
最後の蝶を斬り落とし、林琳は剣を鞘に戻した。
「沈星演武祭に来てまで怪奇狩り……本当に怪奇が好きだねぇ」
朱禍は呆れたように息をつく。
流石問題児。流石変わり者。流石獅宇の弟子。
彼は心の中で呟く。
「……お前は表に立つくせに、夢天理から追われないのはどうして?」
「お、私のことが気になるの?」
「うん。さっさと痛い目に遭わないかなって」
「前言撤回。本当に最悪だな」
朱禍は溜息をつきながら肩を竦めた。
「いいかい、私は誰よりも夢天理のことを熟知している。だからこそ、私に手を出せばすべてが明るみに出ると怯えてるのさ。彼らからしたら最悪なことに片燕とも繋がりが深いからね。それに、一応片燕は山雫国の領土に存在するし……ま、そう簡単には手が出せないってこと」
林琳は崩壊する領域の外へと通じる扉を開いた。
「宗主は……」
「獅宇がどうかした?」
「お前の話を一切しなかった。客人が来ることもあったし、昔の知り合いもそれなりにいたのに……お前の存在は、ずっと出てこなかった」
「あぁ……それは多分、私と君が接触することを避けるためだろう。紛いにも私は夢天理の人間だったからね」
朱禍は夜空を見上げ、淡々と告げた。月光が薄く彼の横顔を照らしている。
林琳は微かに眉を寄せる。
「知己なのに?」
「知己だから、だよ」
朱禍は静かに笑いながらそう言った。しかし、その笑みの奥にどこか寂しさのようなものが滲んでいる気がした。林琳は彼の言葉を反芻しながら、何も言わずに足を踏み出す。二人は領域の境界を超え、宙へと飛び出した。
ひゅう、と風が肌を撫でる。
夜気が冷たく、頬を切るようだった。だが、林琳も朱禍もその寒さを意に介さず、軽やかに地面へと着地する。
視線を上げると、あたりはすっかり静まり返っていた。宴の喧騒が遠くから微かに聞こえるが、この場所は別世界のように静かだ。
すると、不意に朱禍が声を上げた。
「あはは、その顔、久々に見た」
林琳は怪訝そうに彼を見やると朱禍は楽しそうに指をさしていた。
「……何?」
「いや、君、子供みたいな顔してるなって」
口をへの字に曲げ、眉間にしわを寄せる様子が、何とも言えず拗ねた子供のようだったらしい。
一瞬の沈黙の後、林琳の手が素早く伸びる。
朱禍が反応する間もなく、その指が捕らえられた。
ぐにゃり。
「いたたたた!」
指が逆方向に折れ曲がり、朱禍は情けない悲鳴を上げた。
「……礼儀作法を学びなおした方がいいね!」
「お前が悪い」
林琳は素っ気なく答えながら、ようやく手を離す。
朱禍は涙目になりながら手をさすり、深いため息をついた。
「……遠慮なしだねぇ、本当に……」
仕方なく痛む指をさすりながら、朱禍は視線を遠くの明かりに向けた。
祭りの中心地は、賑やかだった。
提灯が連なり、色とりどりの光がゆらめく。人々の笑い声が風に乗って届き、酒の匂いがかすかに漂ってくる。
「ほら、今夜は晩餐会が開かれる。旨い酒でももらってこようか」
「酒はいいから……宗主が鬱陶しいのに絡まれてる」
林琳は呆れたようにため息をつくと、懐から手鏡を取り出し、朱禍の目の前に掲げた。そこに映し出されたのは、鮮やかな衣をまとった女が、宗主にしなだれかかる姿だった。——やたらと胸元を強調した衣装。
明らかに誘っている。
「……どこの宗派か知らないけど、やたら熱心だな」
朱禍は呆れたように眉をひそめる。
宗主の端正な顔立ちは、どこにいても人目を引く。世間では聖人とまで呼ばれ、尊敬を集める存在だ。片燕が煙たがられるとしても、彼個人となれば、お近づきになろうとする者が後を絶たないのも当然だった。
「仁は何をやってるんだ……!」
朱禍は苛立ったように呟く。
「あいつもあいつで……ほら」
林琳は手鏡に軽く触れる。
鏡の中の光景が切り替わり、そこに映ったのは仁だった。
彼は若い踊り子たちに囲まれ、手には三つほどの酒を抱えている。
その先にいるのは片燕宗主と蒼羽。どうやら彼らに酒を持っていくつもりらしい。だが、踊り子たちが絶妙な距離感で彼を取り囲み、まるで今にも捕まえてやろうとしているかのようだった。
朱禍は深く息をつく。
「……かわいそうにな」
「誰が?」
「酒が」
林琳は呆れたように吹き出した。
「宗主のところに行って。俺はもう一件仕事をして帰るから」
「……はいはい」
朱禍は何か言いたげな顔をしながらも、結局何も言わず、祭りの灯りの方へと足を向ける。
その背中を見送りながら、林琳はちらりと手鏡を覗き込み、それを懐へとしまった。
ふと、独り言のように呟く。
「……あいつも、伴侶を持ってもおかしくない歳か」
それを言うなら、自分もそうだろう。だが、あの領域にいたことを考えれば、肉体的な年齢では仁の方が歳を重ねている。
「仕人は早死にする傾向があるし、相手は腕のいい仕人だろうな」
林琳は祭りの賑わいを遠目に見つめながら、静かに歩を進める。
沈星演武祭には、数多くの宗派が集まっている。宗主のお眼鏡にかなう仕人も、この場にいるはずだ。
仁が誰かと歩む未来を想像するともやがかかったような違和感が胸の奥に残るが、すぐに消える。
「……やり残した仕事を片付けるか」
林琳は最後に祭りの明かりを一瞥し、静かに踵を返した。
それから池に住んでいた怪奇を祓い終え、玥の屋敷を訪れる頃には、すでに東の空が白み始めていた。
長い夜が明けようとしている。
静かな朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。夜の冷気をまだわずかに含んだ風が肌を撫でて——。
ふっと張り詰めた心が揺らいだ途端に屋敷の中から容赦ない罵声が飛んでくる。
「普通の人間は夜は寝て、朝に起きる。簡単なことだろう、小僧」
玥は腕を組み、ため息混じりに言った。
林琳は肩を落とし、申し訳なさそうに視線を逸らす。
「……ごめん」
彼女が寝ていたことは、もちろん知っていた。
彼ほどの身軽さがあれば、足音ひとつ立てずに忍び込むことは容易い。しかし、どれだけ慎重に動こうとも、扉が開いた瞬間に玥は目を覚ます。
それでも、彼が無事に帰ってきたことを確認すると、玥は何も言わず手を伸ばし、彼の頬に触れた。
指先に感じたのは、細かく付着した煤のざらつき。それをそっと拭ってやると、林琳はむずがるように顔を背けた。
「やめてよ、もう子供じゃないんだし」
「嫌か?」
玥は静かに微笑んだ。
見知らぬ仕人に拾われたばかりの頃でも林琳はここを訪れた。
再び戦場に連れて行かれはしないか。穏やかな心力を得た子供を目にしたとき、そんなことを思ったのを覚えている。
可笑しいものだ。戦場へと送り出し、その背中を見送ってきたというのに、今さら子供扱いするなんて、彼からしても都合のいい話だろう。
「片燕の子供はいい成績を残せたか?」
話題を変えるように尋ねると、林琳は少し眉をひそめた。
「いい成績って……」
初日の競技は、山頂に辿り着くこと。
様々な仕掛けをかいくぐりながら、片燕も無事に頂上に到達した。道中でいざこざがあったという話も耳にしたが、そんなものは彼らにとって日常茶飯事だ。
二日目の競技は仕切り直しの結果、一歩及ばず惜しい結果となった。三人とも悔しそうな表情を浮かべていたが、晩餐会ではいつもと変わらない顔をしていた。後に引きずらない切り替えの速さは流石である。
「なんだ、寝るのか」
「うん。辰の刻になったら競技が始まるから」
林琳は欠伸をかみ殺しながら、汚れた食器を手に取った。
妙なところで律儀なのも大きな変化だった。
「おやすみ」
食器を洗い終えると、いそいそと向かいの部屋へ入っていく。その背中を見送りながら、玥はゆっくりと立ち上がった。
明日発つ前に今朝市場で仕入れてきた彼の好物を持たせなければ。
そう思わせるのも彼がこの屋敷で初めて口にしたものは、小振りな蜜柑だったからだ。
大して熟していない、酸味の強いそれを、彼はよく好んで食べた。だから、彼が訪れる日は、必ず用意するようにしていたのだ。
最初のうちは気まぐれだったのかもしれない。それがいつの間にか玥にとって当たり前の習慣になっていた。彼がこの屋敷にやってくるのを、里帰りのような気持ちで待っている自分に気づいたのは、ずっと後のことだった。
蜜柑を包みながら、ふと、遠い記憶が蘇る。
玥を訪れる者は、随分と減った。
かつて、この屋敷には数多くの者が足を運んでいた。彼らの多くは、戦場で傷を負い、彼女の元を頼ってきた者たちだった。しかし、今はもう、ほとんどがいない。——皆、死んでしまったのだ。
そして、林琳と関わる形で姿を見せなくなった男もいる。彼も、もう死んだのかもしれない。そう思うようになったのは、つい最近のことだった。
手を見下ろす。
指に刻まれた深い皺。かつては軽々と扱えた針も、今では細かい作業に苦労することが増えた。
目も、以前ほどはっきりとは見えない。
老いには——時の流れには、誰も勝てない。
ゆっくりと、ため息をつく。
窓の外を見ると、空はもうすっかり明るくなっていた。
◆
「師匠、大丈夫だと思う?」
仁の声には、僅かな不安が滲んでいた。
風が静かに吹き抜ける演舞場の端で、彼は舞台をじっと見つめていた。そこでは、三人の若者が陣を前にして向き合い、慎重に術式を組み立てようとしている。緊張感が漂い、まるで張り詰めた弦のようだった。
そんな彼の隣で、獅宇は静かに微笑んだ。
「えぇ、何も心配はいりません。あの子たちも修行を積んだ身。多少のことでは怯みませんよ」
落ち着いた声色には確かな自信があった。しかし、仁は納得できない様子で眉をひそめる。いくら訓練を積んでいても、競技である以上、思わぬ事故が起こることもある。それでも、師がそう言うのなら——。
仁は未だに疑念を拭えず、じっと舞台を見つめ続けた。
一方、その頃。
演舞場を一望できる高座に座る林琳は、片手間に手鏡を傾けながら、ちらりと視線を落とす。
鏡には競技の様子が映し出されていたが、彼の目は特に緊張することもなく、余裕の光を帯びていた。
「転送陣の修復……術式を読み解く能力とは別に、術式が暴走した時の対応も必須。なんでわざわざこんな癖のある競技にしたんだ?」
彼の言葉には呆れが混じっていたが、それを聞いた朱禍は愉快そうに肩を竦める。
「ひっかけの部分もあるけど、逆から解けば簡単なのに」
林琳は、手鏡越しに映る術式を見て、ひょい、と気軽に言う。まるで遊び感覚で解いているかのようだった。
朱禍はそれに呆れたように溜息をつく。
「あのね、誰もが君みたいに得意なわけじゃないんだよ」
「なんで? だって仕人は陣を作る時に、無意識に術式を描くでしょ。陣が破壊されているならまだしも、一部分が欠けているぐらいなら、足りない部分を足せばいいだけで……」
林琳は当然のように言った。彼にとっては、それほど難しいことではない。だが、朱禍は軽く頭を振る。
「陣そのものが宗派によって異なるんだ。あの子たちにとっては、目の前に意味のわからない暗号が出てきたようなものだよ」
彼は肩をすくめながら言い、隣で楽しげに笑った。
「怪傀神書の解読が進まない私たちと同じだ」
林琳はそれに眉をひそめ、淡々とした声で返す。
「あれはもはや古代文字。俺は未だにお前が解読できることが怖いよ」
朱禍は少し間を置き、ふっと微笑んだ。
「私は……師父から学んだから、なんとなく読めるだけ。それこそ君の術式解読は天賦の才だよ」
言葉の中に、僅かな羨望と諦念が混じる。朱禍は長い間、術式に向き合ってきたが、それでも林琳のように直感的に理解できるわけではなかった。
だが、林琳はそれを意にも介さず、淡々と返した。
「いくら"塔"に刻まれた文字から術式が生まれたとしても、全くの別物。それに古代文字を網羅している人間は何千年も前に死んでるんだからお先真っ暗にしか思えない。本当に解読なんてできるの?」
諦めていると言わんばかりに、彼は軽く笑い飛ばした。
「蒼羽が一位だ!」
最前列にいる観客が声を上げた瞬間、演舞場に歓声が湧き上がった。
中央に浮かび上がる転送陣は、まるで初めから何事もなかったかのように、美しく光を放っている。円を描くように刻まれた術式の紋様が淡く青白く輝き、その光は場の空気すら清浄にするかのようだった。
静かに陣を見つめていた朱禍が、ふっと微笑む。
「見事だ」
周囲の観客も、完成した転送陣の見事な光景に息を呑み、それが歓声となって弾けた。
しかし、歓喜に沸く間もなく——次の瞬間、異変が起こる。
二位争いに焦ったのか、ある宗派の術者が解読を誤った。
一瞬の沈黙の後、術式が弾け、演舞場の中央で小さな爆発が生まれた。キン、と耳鳴りを伴う爆発音とともに、舞い上がる砂塵。複雑に絡み合った術式が暴走し、それが引き金となって砂嵐が発生した。最初は僅かな旋風だったが、すぐに空気を巻き込み、巨大な渦となって観客席に襲いかかる。
「ぎゃあ! 目に入った!」
「ひー! なんだよこれー! しみるー!」
あちこちから悲鳴が上がり、混乱の渦が広がる。砂嵐は勢いを増し、細かい粒子が容赦なく人々の顔を打った。
林琳と朱禍は即座に反応し、袖を使って口元を覆った。
二人は微動だにせず、吹き荒れる砂塵の中でじっと様子を見守る。視界はぼやけ、辺りは薄茶色の霧に包まれる。それでも、二人の姿勢には揺らぎがない。
やがて、近くにいた宗主が術を発動し、見事に砂嵐を消し去る。
空気が静まり、舞い上がった砂埃がゆっくりと沈んでいく。会場をぐちゃぐちゃにかき回した砂嵐がかき消され、人々は安堵の息を吐く。
そして——視界が晴れた時、演舞場にあったはずの転送陣が、全て忽然と消えていた。
朱禍がため息混じりに言う。
「はぁ、君ねぇ……やり直しじゃないか」
彼の視線の先には唖然とする仕人たち。彼らの足元にはどこをどう見ても、転送陣の跡形もない。
術式を暴走させた張本人は、ばつが悪そうに視線を逸らしながら、頭を下げている。
「綺麗に消し去って……勘弁してよ」
そればかりは、もう仕方のないことだった。
無意識に身体が動いてしまったのだ。反射的な行動は理屈では止められない。そんな言い訳が、零れるように口をついた。
朱禍は口元に笑みを浮かべ、林琳を小突く。
「ほら、仁の顔がとんでもないことになってるよ」
そう言われて、林琳は仁の方へ目を向けた。
案の定、仁の表情は見るに堪えないほど引き攣っていた。目尻がどうにかして緩んでいるものの、口元は強ばり、明らかに笑えていない。まるで顔の筋肉だけで必死に取り繕っているようだった。
「あいつの顔はいつもあれだろ」
林琳は気にも留めずにぼそっと言う。
朱禍はくつくつと笑いながら、からかうように続けた。
「君に対してだけ、でしょ」
林琳は一瞬、言葉に詰まった。
仁の視線はまっすぐこちらに向いている。何か言いたげな、けれど言えないような、そんな複雑な感情が入り混じった瞳だった。
その視線を真正面から受けながら、林琳は軽く肩を竦める。
——別に、知ったことではない。
そんな素振りを見せながらも、彼の目にはどこか微かな戸惑いが宿っていた。
また後で。
ふと、仁の口がそう動くのを見た。
林琳は、息を吐くようにそっと肩を落とし、わずかに項垂れたのだった。
その日の夜小雨が静かに降り注いでいた。夜の帳に溶けるような淡い雨音が、地を叩く足音や遠くの喧噪をぼんやりと包み込む。
林琳は深く息を吸い込み、冷えた空気を肺へと迎え入れた。鼻腔をかすめるのは、湿った土と淡い酒の香り。天候には恵まれなかったが、それでも沈星演武祭の熱気は衰えることを知らず、人々の熱狂は夜の闇をも押し上げるほどだった。
普段は距離を置いていた宗派同士も、この祭の最中だけは壁を取り払う。顔を突き合わせ、酒を酌み交わし、笑い合う。それは片燕の者たちも例外ではなかった。
しかし、そんな祭りも残すところあと一日。
『みんな楽しそうだ。蒼羽もよくしてくれてる』
手鏡の向こうから届くのは、浮かれた声と喧噪。林琳はそれを聞き流しながら、卓上の酒壺に手を伸ばした。杯に満たされた酒が月光を映し、揺れる。雨雲の隙間から顔を覗かせた月が、ほんの刹那、金色の光を投げかけた。
ゆっくりと杯を傾ける。一口、また一口。喉を伝う熱が、心の奥底まで染み渡る。
『そっちの調子はどう?』
「妓楼で一番いい席を取るぐらいには儲かったよ」
淡々と告げると、鏡の向こうから間を置かずに返事が来た。
『まさか……行ってないよな?』
じっとりとした疑いの色を滲ませた声音。しかし林琳は何も答えなかった。
視線の先、紅灯の影の中で舞い踊る女たち。しなやかな指先が虚空を描き、金粉を散らす。衣の翻るたびに灯火が揺れ、彼女たちの肌を流麗に彩る。幻想のような光景に、林琳の瞳が静かに細められた。
『……もしかして、溜まってるの?』
「死ね」
殺意の隠されていない即答だった。
酒を飲み交わしながら、上等な道具を使ってくだらない話をする。しかもかなりきわどい話を。
林琳も仁も、れっきとした男だ。欲というものからは逃れられない。宗派によっては禁欲を是とする仕人もいるが、生憎と片燕にその教えはなかった。
『師兄って性欲ある?』
「くだらない話をするなら切るよ」
仁の声には、酒が混じっている。間違いない。
呆れ混じりのため息をついた刹那、踊り子の一人と目が合った。黒曜石のような瞳が、一瞬大きく見開かれ、次の瞬間、緩やかに目尻を下げて微笑む。その仕草はまるで、月下に咲く妖艶な花のようだった。
「上玉だな」
『恥知らずだ!』
「お前は餓鬼か!?」
美しいものは嫌いではない。醜いものより美を好むのは、人として自然なことだろう。
林琳は静かに手鏡を伏せ、目の前の舞を堪能することにした。
『師兄!』
「ああ、もう! 煩いな。繋がっているんだからいいだろ」
これ以上喚くなら、本当に切るぞ。
その無言の圧が通じたのか、仁は喉を唸らせて引き下がった。
「で、手がかりはあったか?」
『……なーんにも。それらしき文字もない、本当にただの屋敷だよ』
空振りか。
林琳は僅かに目を伏せ、考え込む。
怪傀神書に関する手がかりは、主の残した屋敷にあるはずだった。だが、実際には何の痕跡もなかったという。となれば、最初の推測自体が誤っていたか、それとも――何者かが先に持ち去ったか。
念には念をと御者の行方は烏に頼んで動いてもらっている。
烏からは期待をするなと言われているが、情報の宝庫である嵐海宋に転がり込む確率を捨てるよりはましだろう。
「そう。じゃあやっぱり朱禍に解読を任せるしかないのか……」
『師匠にも聞いてみるか?』
「……いや、寧ろ朱禍が話を流していないのが引っ掛かる」
朱禍は知っていればそれとなく匂わせるはずだ。だが、今回に限っては何も言わない。それは、ただ単に情報を持っていないのか、意図的に沈黙を貫いているのか
もし後者なら、下手に動くべきではない。
朱禍が何かを考えているのなら、余計なことをすることで計画の邪魔になりかねない。林琳はそう判断し、手鏡から意識を切り離す。
再び視線を舞台へと戻すと、踊り子の衣が宙に翻った。
紅の布がひるがえり、空気を切り裂く。その動きはまるで燃え盛る炎のようで、瞬く間に形を変えながら、闇の中で踊る。残像が尾を引き、夜の帳に溶けてゆく。
『浮気者だ……師兄は浮気者……』
「ふざけるな、誰が浮気者だ。酔っ払いは早く寝ろ」
泣き真似までする戯言に付き合うのも疲れるものだ。
杯を手に、彼は再び目の前の幻想に視線を戻した。
天雪と花月には、沈星演武祭が終われば片燕に戻るよう言い渡してある。しかし、今後もこの愚かな師弟と旅を続けることになると考えるだけで、心の底から重いものが押し寄せてくる。
知らないふりをやめることで、ツケが回ってくることは自分でも薄々予想していた。そしてその感情に振り回されて、頭を抱えることも勘付いていた。
唯一救いなのは、原因が彼らにあるわけではなく、結局のところ自分自身の問題である点だろう。そんなことを考える自分に、またひとしきり溜息をついてしまう。
それでも向き合うと決めたのは、他でもない己だ。曖昧にして、知ることを拒んだ結果だと林琳は心の中で呟く。
彼の思考に沈んでいたところへ、音もなく近づいてきたのは、先ほどまで舞台で舞っていた女だった。しなやかな足取りで、まるで夜の闇に溶け込むように現れる。彼女の柔らかな足音が、どこか静寂を破るように響く。
女は、無言で林琳の隣に座り、彼の杯が空になっているのを見て取ると、微かに微笑みながら静かに酒を注いだ。その手つきは、どこか慣れた手慣れたもので、彼にとってはそれが心地よく感じられた。しかし、そのまま手が伸び、柔らかな指先が彼の太ももに触れると、林琳は背筋をわずかに硬直させた。伏し目がちな瞳が艶めかしく覗き込んでくるのに気づき、胸がわずかにざわつく。
「煩い子犬がいるから……悪いね」
「あら、そうなの」
女の声は、耳元で甘く囁かれ、意図的にくすぐるような響きを帯びていた。その甘さに、心の奥で何かが引っかかる。林琳は顔をほころばせると、やんわりとその肩を押し返した。その動きは、どこか遊び心を込めたものだった。
「鼻がいい子犬なんだ」
林琳は笑顔を浮かべ、その無邪気な仕草に、ひとしきり自分でも驚くほどの遊び心を見せる。まるで子供の悪戯を楽しむように。
「……そう、随分とかわいい子犬なのね」
女の言葉に、林琳は一瞬、その目に浮かぶ冷たさに気づく。彼女はまるで林琳を試すような視線を投げかけてきたが、その微笑みは変わらない。それでも、林琳はその視線を受け流すように、ゆっくりと酒壺を拾い上げた。軽く振ると、音が響き、その顔にはどこか無邪気な表情が滲んでいる。
「かわいい? いいや、躾けの出来ていない、生意気な子犬だよ」
その言葉に、さらに微笑みながら、彼は再び視線を女に向けた。しかし、その笑みの裏にはどこか柔らかい光が宿っている。
手鏡だけがカタカタと震えていた。
◆
「勝っても負けても、無駄にはならない。しっかりやろう」
天雪の強張った声が空間に響き渡り、沈黙が広がる。宗派対抗戦の開始を待つこの場所は、緊張と熱気が入り混じっていた。今、始まろうとしている戦いは、怪奇を祓う模擬戦に近いが、油断は許されない。
「余裕だろ。うちは怪奇の討伐率じゃ群を抜いてる」
呟いた花月の表情には、どこか余裕が感じられた。かつては、彼らの偉大な師兄が一人で一つの宗派の討伐率を超えていたという。しかし、今は林琳と仁が拠点を離れ、彼らの指導がなくても、他の弟子たちは順調に成果を上げている。今もなお名声は衰えていない。
「こちらの傀儡に術をかけ、怪奇として動かします。戦闘は心力、武術、制限はありません。最も早く殲滅した宗派が勝利となります」
冠耽の号令が響き、重厚な扉が軋みを立てながら開かれる。その瞬間、空気が一変し、異様な気配が流れ込んでくる。場の緊張感が一層強まった。
「それでは……ご武運を」
長かったようで、短かった沈星演武祭も、これが最後だ。
三人は互いに顔を見合わせ、深く頷いた。迷いはなく、彼らは足を踏み出す。一歩ずつ、確かに前へと。
「……足元に気を付けて」
艾青の囁くような忠告に、花月が怪訝な顔をする。その視線の先に、次の瞬間、異形の影が転がっているのが映った。
「うげぇ、なんだよ。気味が悪いな」
乾いた骨が、不気味な音を立てて転がる。まるで人の頭蓋骨のような形をしている物体が地面を無機質に滑るように動いていた。冷たい風が骨の隙間を抜け、奇妙な音を立てる。
「傀儡の残骸だろ。本物じゃない」
花月はそう言い、慎重に一つを拾い上げた。その瞬間、からん、と甲高い音が響いた。
「二人とも! 前方より、三体……来ます!」
艾青の声が鋭く響く。前方から四足歩行の傀儡が、獣のような動きで凄まじい速度で迫ってきた。闇の中に沈むその瞳が、わずかに妖しく光っているのが見える。
花月は咄嗟に身構え、剣を一閃する。刹那、空気が震える。鋭い刃が傀儡の片腕を弾き飛ばし、二体目、三体目と立て続けに捌き、瞬時に灰となって消えていった。
「……なるほど」
三体の傀儡が灰となった瞬間、鈍い音とともに、次の扉が開かれた。
「傀儡自体が鍵になってるってことだね」
天雪が低く呟く。床には複雑な転送陣が刻まれ、まるでこの空間自体が彼らを試しているかのようだ。
「この調子でいこう」
三人は警戒を怠らず、再び歩みを進めた。幾度も傀儡を倒し、その数が二十体を超えたころ——異変が起きた。
「……扉が現れない?」
倒された傀儡の残骸が床を埋め尽くしたが、どこを見渡しても、次の扉が開かれる気配はなかった。三人は顔を見合わせ、戸惑いの色を浮かべる。
「この部屋が最後だったのかもしれませんね」
艾青が落ち着き払った声で言うものの、その胸中には急速に高鳴る鼓動を感じていた。
そして景色は切り替わり——地面そのものが消滅し、霧の深い森の中へと放り出される。
「なんだ、これ!?」
花月が声を上げる。彼の視線の先には、異様な光景が広がっていた。
首のもげた傀儡、千鳥足でよろめく傀儡、そして——術式が破壊されているにも関わらず、なおも動き続ける傀儡。
通常であれば、術式の一部が壊れれば傀儡は機能を停止し、灰となるはずだ。しかし、それらはまるで意思を持っているかのように、よろめきながらも、確実に彼らへと歩み寄ってくる。
「おかしい……! ただの傀儡じゃない!」
背筋に冷たいものが走る。戦い慣れた彼らですら、この異常事態に息を呑んだ。
その時、四方八方で扉が開き、次々と参加者たちが放り込まれて来る。
「片燕!」
蒼羽の綺琉が手を挙げ、三人を呼ぶ。その足元には、押さえつけられた一体の傀儡が蠢いていた。
その傀儡もまた、術式が発動したままだった。
「うわぁっ!」
突如、叫び声が響く。近くにいた少年の腕に傀儡が絡みつき、その隣では少女が傀儡の一体に腕を掴まれていた。
「このっ……! 離せ!」
仲間が慌てて引きはがそうとするが、傀儡の握力は異常に強い。犠牲者の首に回された腕がじわじわと締まり、顔色がみるみる青ざめていく。
目を持たない傀儡が、それでも彼らの動揺を察するかのように、静かに、だが確実に獲物を捕らえようとしていた。
「いっ……」
「花月!」
片燕もまた、油断していた。一体の傀儡が花月の足首を切りつける。折れた腕は鋭く尖っており、彼の靴を貫通したのだ。掠った場所も悪かったのだろう。出血がかなり多く、血の流れが止まらない。艾青は必死に圧迫止血を試みるが、周囲を囲む傀儡の迫力に、思うように動けない。しかし、蒼羽がすぐに前に出て、彼らを庇うように立ち塞がった。
「……頼むから、持ちこたえてくれ」
蒼羽の表情には、一瞬の不安が浮かんだが、すぐにそれを振り払うように傀儡に立ち向かう。花月の出血を止めるため、必死に周囲の傀儡を打ち倒していく。その間にも、彼の目の前には次々と新たな傀儡が迫りくる。
やがて、出血がある程度収まると、空間が一瞬静寂に包まれた。そして、恐怖に満ちた静けさの中で、扉が突如として現れた。
「こちらから避難を!」
冠耽の冷徹な指示が響く。彼の声に促され、集められた仕人は我先にと言わんばかりにその扉へと突進していく。扉の向こうには、待機している宗主たちがいるのだろう。その顔を思い浮かべながら、希望をもって前へと進む。
だが傀儡たちは無情にも彼らの足を掴み、引きずろうとしてきた。
「きりがない……!」
片燕と蒼羽は、さらに傀儡を破壊するために率先して戦いを挑む。しかし、その数は増え続け、彼らが倒せるのはほんの一部に過ぎない。額には冷や汗がにじみ、目の前の戦況がどんどん厳しくなっていく。
その刹那、傀儡を一掃するような巨大な力が現れた。
「全く……なんで君たちが関わるとこうも問題が起きるのかなぁ」
朱禍の軽口が、まるで戦場の空気を切り裂くように響く。その声に天雪は、すぐさま反応して喜びの声を上げるものの、朱禍の声にはいつもと違う、緊張感があった。
「朱禍様!」
天雪が呼びかけると、朱禍はすぐに花月の足元をちらりと見た。その目は一瞬の間、状況を評価した後、重症ではないと確信したのだろう。彼はすぐに手早く陣を張り始める。
「はいはい、さっさと行く!」
朱禍が張った陣はまるで一本の直線のように、扉へと道を作り上げて、傀儡たちはその圧倒的な力に弾かれては崩れていく。
「ここには朱禍様がいるから大丈夫だ。先に行ってくれ」
花月は振り返り、蒼羽に言う。その顔には確かな信頼が込められている。
「そうだよ。君たちの宗主様が私を殺す前に、ほら」
朱禍はおどけた笑みを浮かべて言った。その表情は、どこか余裕を感じさせるものだが、その裏には敵を圧倒する力が確かに宿っている。
「艾青、頼みごとがある。いいかい?」
朱禍が残された仕人を逃がし、その後、艾青が神妙な面持ちで扉をくぐった刹那——朱禍は低い声で、しかし力強く口を開いた。
「出番だよ、林琳!」
その言葉と共に、朱色の光が爆発するように舞い、空間が一変した。あらゆる気配が変わり、戦の流れが新たに動き出す瞬間が感じられる。
朱禍の背後から、一陣の風のように飛び出す影。
——師兄!
その声が響くと、彼の握る黒い刃が闇を切り裂くように振るわれた。
刃が通った軌跡を辿るかのように、不気味な笑みを浮かべた傀儡が真っ二つに裂ける。それでも矢張り、その断面から噴き出したのは、血ではなかった。
黒く変色した木片、そして悪臭を孕んだ煤のようなもの。死臭に似た異質な匂いが一瞬で空気を濁らせる。林琳はその臭いに微かに顔をしかめたが、それでも動きを止めることはなかった。
刃を翻すたび、次の傀儡へと踏み込む。風を切る鋭い音が、戦場の中で響き渡る。
その一閃とともに、何十体もの傀儡が吹き飛び、まるで嵐のように地面に散らばった。
進んだ先には、すでに無数の傀儡の残骸が転がっている。木片が散乱し、黒い煤が宙を舞う。その中で、どこからともなく悲鳴にも似た声が、遠くから聞こえてきた。
「師兄……!」
その声が林琳の耳に届いた瞬間、彼は振り返らず、短く告げた。
「邪魔!」
足元に蹲る花月の襟首を掴み、まるで投げるように天雪へと放り投げた。
「っ——!」
天雪はとっさに両腕を広げて花月を受け止める。その隙に、林琳は踵を返して傀儡へと向かう。その動きに反応するように、背後から一体が飛びかかってきたが、林琳の速さには到底追いつけない。
迫る腕を避け、瞬時に片脚を軸に回転し、勢いよく膝を跳ね上げる。
——バキッ。
鈍い音とともに、傀儡の顎が砕け、歪んだ顔がありえない角度に折れ曲がり、くぐもった音を上げながら崩れ落ちていった。
ぱらぱらと木片が降り注ぎ、腐った血のような臭いが鼻をついた。その匂いに林琳は胸が騒めくのを感じた。
「天雪、花月を連れて仁を呼びに行け」
——嗚呼、嗅ぎなれた……嫌なにおいだ。
林琳は短く、鋭い指示を出す。その命令に、天雪は一瞬迷ったものの、すぐにそれが最も効率的な方法だと理解した。
「……ですが!」
言葉を続けようとした天雪の目には、明らかな不安が浮かんでいた。だが林琳はその反応に一切気を取られることなく、冷徹に指示を続ける。
「陰の気が強すぎる。神酒があればいいが……なければ、ただの酒でいいから持ってくるように伝えて」
花月は息を切らしながら、天雪に重心を預けた。
「肩を貸してくれ。支えてくれれば歩ける。師兄の足手まといになるのはごめんだ」
今、できることはそれしかない。
二人が林琳を見つめると、その瞳に映る光に息を呑んだ。
夕焼けのように赤く、そして炎のように燃える瞳。それは、ただの希望ではなく、圧倒的な捕食者を宿していた。
「俺がくたばるのが先か、お前たちが仁を呼んでくるのが先か……いい勝負になりそうだね」
その声は、冷ややかでありながら、どこか挑戦的だった。だが、その裏に隠された心情は容易に察せられる。耐久戦となれば、林琳の限界が先に来ることはこの場にいる誰もが予想していた。
「その前に朱禍が疲労で死ぬだろうけど」
後方で必死に符を繰りながら叫ぶ朱禍の声が、戦場の混乱の中でかき消されそうになった。
「ちょっと、おじさん扱いしないでくれる!?」
朱禍の声が荒げられるが、その間にも立ち上がる傀儡たちが再び進行を始めていた。
林琳は舌打ちし、剣を握り直した。
「ちゃんと壊せよ、下手くそ!」
その声は忌々しげに響き、再び刃が傀儡の心臓を貫く。傀儡が痙攣しながら倒れるのを見て、天雪は知らず知らずのうちに抱いていた恐怖が薄れていくのを感じた。
「では、師兄、朱禍様。どうかご武運を」
何も恐れることはない。彼は偉大なる片燕宗主の一番弟子。
天雪は深く頭を下げ、その思いを胸に抱き、花月と共に駆け出した。
「さて、林琳。今回ばかりは君の心力は相性が悪い。そして私の符は傀儡の足止めをすることで精一杯。目の前には百を優に超える傀儡たち」
「だからこうやって地道に壊してるんでしょ……」
林琳の冷徹な返答が響き渡る。だが、戦場の喧騒の中、焦燥がわずかに滲んでいく。焦りが油断を生み、やけくそに蹴り上げた傀儡が彼の足を掴み捕らえた。到底傀儡の力とは思えない腕力で投げ飛ばされると、受け身を取りながら体勢を立て直す。
どれだけの時間そうしていただろうか。
傀儡の拳をもろに受けた口の中は、吐くこともままならずに鉄の味が充満していた。
ちらちらと林琳の足元から火花が舞う。
「山火事を起したら最悪だよ!?」
朱禍の制止に舌打ちをした瞬間——傀儡が不意に動きを止めた。
「……なんだ、この音」
轟然——空が裂けた。
次の瞬間、視界が白く染まり、雷鳴がとどろき、大気そのものが震えるように感じられた。
「……っ!」
林琳は思わず目を細める。
「まさか……あなたがわざわざ来るなんて」
「ふん、相変わらず生意気な餓鬼だ」
蒼羽宗主、扇葉九が冷たく呟く。その声に重みを感じさせるのは、長年の経験からくる圧倒的な力の象徴だ。
「散れ」
その一言で、彼の杖が鋭く地面を突く。地響きが辺りに轟き、傀儡たちは一瞬で足を止め、硬直した。まるで支配されたかのように、動きを封じられたのだ。
「お待たせ。大丈夫?」
息が上がった林琳の肩に、珊來がそっと手を置く。穏やかな声に、疲れ切った林琳の表情が少し緩む。
「大丈夫だと思うなら……お前の目は腐ってる」
口の中の血を吐き出すと、林琳は足元の傀儡の山を見上げる。数えきれないほどの傀儡が倒れ、傷つき、今もなお無惨に重なっている。心力に頼らずにここまで裁いてきた自分を誇りに思う一方で、その体は限界を迎えていた。心臓が鼓動を打つたびに、爆発寸前のような痛みが走る。口の中に広がる鉄の味が、その苦しみを倍増させていた。
「師兄!」
完全に戦意を喪失した林琳が、疲れ切った身体を引きずりながら仁に近づき、牙をむいて襲い掛かる傀儡を託す。その眼差しはもう、無駄な戦いを避けようという決意に満ちていた。
「しんどい……」
「君の欠点はその体力の少なさだね。いつも心力に頼ってるからそうなるんだよ」
「お前が役立たずなのが悪い! 説明なく急に転送陣に突っ込むなよ! 酔うに決まってるでしょ!」
天雪たちが迷い込んだのと同じで、林琳は行き先も伝えられずにこの場に落とされた。突然転送陣が発動した瞬間、全てが朱禍の手の内だったと察して、考えることをやめた。
「片燕の子供たちが危ない状況だったんだ。どちらにせよ私が教えなくても君なら駆けつけただろう?」
「傀儡に食われてろ」
落ちていた傀儡の頭を拾い上げ、朱禍に投げつけた林琳は損傷の少ない傀儡を一体引きずって木の影に隠れた。
彼の目が捕らえたのは傀儡の胸に開けられた不気味な穴だ。その中に埋め込まれているのは、普通の石とは明らかに異なるもの。どす黒い、それが砕けることで傀儡が動きを止めるのは確かだった。だが、その裏に隠されたものは一筋縄ではいかない。
「……血痕?」
林琳は呟く。視線を寄せた先に見えるのは炭でもなく、また通常の血でもない、黒く変色した血の塊だった。
「……なんだ、これ」
その異様な血液の中には、はっきりとした心力の痕跡が残っていた。傀儡を動かしていたのは、間違いなく仕人の仕業だろう。林琳は舌打ちをし、その指先を石に擦りつけた。案の定、黒く剥がれ落ち、心力だけが指にひっついてくる。
正直言って、得体のしれない術式に触れること自体が危険だ。だが、真相を求めて怖気づいているようでは何も始まらない。思考を止めずに、仁の持ってきた神酒を傀儡に一滴垂らしてみる。
「……なるほどね」
その時、再び雷鳴が轟く。巨大な雷の一閃が傀儡を貫き、その体を一瞬で粉砕する。林琳はその光景に冷やりとした背筋を感じながらも、素早く砕けた石を布に包み込んだ。
好奇心が彼を駆り立て、くすねたことがばれれば小言を受けることになるのを知っていながらも、止められない。
「ふん! 小賢しい!」
彼の目の前で、細く鋭い雷のような光線が傀儡に絡みつき、まるで針金のようにその体を裂いていく。
「こっわ……」
ついに傀儡は跡形もなく粉々になり、煙と共に消え失せた。
◆
宴会場として使われていた美しい塔は、今や重苦しい空気に包まれている。
塔の中に漂う静寂が、逆にその場を一層重く、冷たくしている。壁に施された豪華な装飾や、かつて賑わっていた広間の面影が、今はまるで死んだように静まり返っている。床に散らばる微かな灯火の跡すら、過ぎ去った時間を物語っていた。
『いいえ、いいえ、私は知りませんでした! 私が用意したのはこちらの傀儡で、そのような傀儡は存じ上げません!』
冠耽の声が慌てて響く。焦燥の色が深く刻まれたその顔に、まるで取り乱したような動揺が浮かんでいた。言葉が空回りし、心の内の焦りが言葉に現れている。
二つ並べられた傀儡は瓜二つだが、心臓に描かれた術式は正反対だ。
その術式の差異が冷たい無機質の中で光を放つ。その反発を感じる度に、目の前の問題がより一層深刻さを増しているのを、誰もが感じ取っていた。
『それに傀儡は全部で五十体! それがいつの間にか数百体に増えるなんて……!』
冠耽は絶望的な表情を浮かべて叫ぶ。これは普通の傀儡ではない、と断言しているようなものだった。
『証言が正しければ、寸前に差し替えられた可能性があるな』
冷静な声が、思いがけず現実的な推測を呼び寄せた。真実はどこに隠されているのか。答えが出ないまま、空気がさらに凝り固まり、重苦しさを増していく。
『そうでしょうとも! あぁ、もう……! これだから主催は嫌だと言ったのです……!』
冠耽は声を震わせ、手のひらを顔に当てて深い疲労の中で呻くように呟いた。
林琳は手鏡を通じて宗主たちの緊急会合を覗いていた。
手鏡の中に映る面々の顔を見つめながら、林琳は冷徹な視線を送っていた。会合の場で浮かび上がる感情の波を、彼は無言で感じ取っていた。どこか他人事のように、それでいてそのすべてを掌握しているような、自信に満ちた目をして。
『……ゴホン』
年老いた宗主の一声が、静まりかえった空間に響く。彼の動作一つ一つに、重い時間の流れを感じながら、周囲の宗主たちは不安そうに顔を合わせ、言葉を探す。
『まずは、宗派片燕と蒼羽に礼を申すのが先ではなかろうか』
年老いた宗主が白髭を撫でながら苦言を呈すると、周囲の宗主たちはその言葉を噛みしめるように頷く。過去の軽視を思い出し、片燕と蒼羽が出口への道を開いたことを素直に認めざるを得ないのだ。胸中には悔しさが滲み出ているが、それを顔に出すことは許されない。
「ははは……滑稽極まりないな」
林琳の笑いはひどく乾いたもので、どこか冷たく響いていた。しかし、その裏には深い満足感が潜んでいた。これほどの皮肉を味わえる瞬間を、長く待っていたのだ。瓢魏が揃って拱手を行う姿を見つめる彼の目は、冷徹な光を帯びていたが怒りの火花が散ることなく、ただただ無表情でその光景を見守っている。
「あいつ……」
その時、林琳は目を一番後ろに控えている人物に止めた。そこに立っているのは、かつて彼が大切にしていた竹をへし折った不気味な男だった。記憶に刻まれたその顔が、今も彼の脳裏に強烈に焼き付いている。
——"「人の怨みや嫉みが染みついた匂い。足の先から頭の天辺まで、べったりだ」"
得体の知れない恐怖を持つ男は何食わぬ顔でひっそりと立っていた。
『朱禍様にも感謝を』
その間にも獅宇は顔色一つ変えず、冷徹に傀儡を観察し続けている。彼は今、無用な争いを避けるために静かにその場の空気を読み取っている。
林琳はかつての師が誰よりも秀でていることを理解していた。それに心底むかつくが、こちら側の肩を持つ朱禍もいる。
「初めから手を組んでたな」
彼は手鏡に興味を失ったのか布に包まれた破片を手にし、月の光に透かしてじっくりと観察していた。破片はまるで光を吸い込むかのように七色に輝き、月明かりを吸い寄せ、その輝きをあたりに放つ。
「暗華石?」
林琳の指先が破片を握りしめる度、その輝きが彼の中に眠る謎を掻き立て、石に夢中になっている間にも、会合は静かに進行していく。
会議室の中で交わされる言葉が、いっそう重く、冷たく響く。
『しかし、犯人を突き止めるまでは全員が容疑者であり、被害者でもある。この場で解散しては瓢魏の面目が丸つぶれだろう。瓢魏が犯人を見つけ出せば良い。たったそれだけのことだ』
宗主の声には、試そうとする意志が込められていた。真実が見えないまま、誰もがその場を解散したい一心で発言する。しかし、その心が意味するのは、瓢魏が全ての責任を背負い込むことだ。
周囲の宗主たちも同調し、誰もがその言葉を呑み込むように頷く。それぞれが内心で、この事態がどれほど深刻なのかを理解し、ひとしきりの沈黙が続いた。
『だが、瓢魏だけでは真実を欺くかもしれん。傀儡を祓った片燕と蒼羽が墓地へ同行するのはいかがか?』
再び年老いた宗主の一言で、会場にひとしずかに冷たい空気が流れる。
『それが良い。どちらの宗派もこの度の祭りで見事な成果を残している』
まるで厄介な問題を誰かに押し付けたいかのような言い草だ。どこかで安堵している者もいれば、反発を感じている者もいるだろう。しかしその提案には一筋の危険な匂いが漂っていた。
『では、私も手を貸そう』
朱禍の声が響き、会議の雰囲気が一層緊張を帯びる。彼の一歩が、会場にさらなる波紋を広げた。
『劉鳴国の皇太子が崩御されたことは……この場にいる全員がご存知だろう?』
その言葉には明確な重みがあった。劉鳴国で起きた出来事は、もはや無視できる問題ではない。それがもたらす影響が、ここでも確実に反響を呼んでいるのだ。
『残念なことに、劉鳴国でも同様の傀儡が見つかった。そして二つほど山を越えた先で変死体も現れている』
しっとりと流れる言葉に続く暗い影が、会場の全員に新たな恐怖を植え付ける。
『変死体だけでなく、この傀儡さえも……明らかに人の手によって生み出されている。……災いは怪奇だけではない』
朱禍はそう言って一歩前へ踏み出す。その動きに、誰もが息を呑んだ。周囲の目が彼に集中する中、獅宇は視線を逸らし何も言わず顔を背けた。
『……朱禍様はやけに片燕の肩を持ちなさる。どういったご縁で?』
一人の宗主が眉をひそめ、疑念のまじった声を上げる。それは何の気なしに言ったことではなく、朱禍の姿勢に疑問を抱いている者の証でもあった。
『それは今、知るべきことだと思っての発言か?』
朱禍の言葉が静かに響き宗主の言葉を切り裂く。
『数年前まで夢天理で大きな権力を握っていたあなた様が、なぜ犬猿の仲である片燕と一緒にいるのですか?』
不信感を隠そうともせず、責めるかのように別の宗派から声が上がる。
その質問は、まるで火種に油を注ぐかのようだった。会場の空気が一瞬で凍りつく。ここからはもう、単なる議論では終わらないだろう。
『では逆に聞こう。傀儡が現れたとき、真っ先に非難したのは君の宗派だったが……なぜ、傀儡が現れる方角に逃げた?』
朱禍の声は穏やかだが、凄絶な問いかけが含まれていた。言葉一つ一つが鋭利な刃物のように、周囲の者たちを一刀両断にする。彼の目は、片燕と蒼羽の間に立ちながら冷徹な笑みを浮かべているが、その裏には恐ろしいほど深い闇が潜んでいる。
獅宇はその目を見逃さず、黙って口を閉ざす。
しかし、背後に立つ仁は、鋭い眼光で男を睨んでおり鋭い翡翠が戦いの気配を一層強くする。
『……確証のない答え合わせをしても意味がない。良いだろう、蒼羽は調査へ賛同する』
ひときわ激しい不満をあらわにした扇葉九が机に拳を叩きつけ、立ち上がる。その動きに、会場の空気が一変し、周囲の視線が集まる。彼の怒りが、無言の圧力となって会場を包み込む。
『片燕はどうだ』
獅宇の顔が一瞬だけ暗くなり、しかしすぐに微笑みを浮かべる。
『えぇ、勿論協力させて頂きます』
迷いのない答えに皆の視線が再び集まる。獅宇の微笑みには、どこか冷ややかさが感じ取れる。彼はその中に何かを隠しているようだ。
『だが、どうやって調べるというのだ。傀儡にかけられた術式は複雑だ』
一人の女が長い爪で机を引っ掻く。
『術式、ですか』
獅宇もまた、穏やかな微笑みを浮かべ、無意識のうちに口を開く。
真意を隠し通すような雰囲気が漂っていた。
「無理矢理上書きした……? 基礎もクソもない変な術式だな」
新たな火種が生まれている最中、林琳は適当に鞘先で地面へ陣を描いた。それは傀儡に刻まれていた術式を真似たもので、その歪さに顔を曇らせる。
『……幸いにも、この手の類が好きな者がいまして』
すっかり手鏡のことを忘れ夢中になっている林琳は迫る危機に全く気づいていなかった。
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