花月にとって、唯一の師兄ーー林琳は、幾つになっても得体の知れない存在だった。
親元を離れて彼が入門した頃には、宗派「片燕」はすでに山雫国において重要な存在となっていた。その手によって国中に張り巡らされた陣は強固で、これまで一度たりとも怪奇に襲われたことはない。
そんな片燕には、問題児、変わり者、怪奇愛好家などと呼ばれる、風変わりな弟子が一人いる。
それが、一番弟子の林琳だ。
得体の知れない、天才の仕人。
「林琳! いい加減にしなさい!」
宗主の怒声が飛ぶ先には、決まって彼の姿がある。門弟たちはそれを遠巻きに眺め、「またか」と視線を交わすのが日常だ。
林琳が最年長というわけではない。花月との年齢差も、両手で数えられる程度だ。それでも、宗主の最初の弟子である彼は、片燕唯一の「師兄」と呼ばれる立場にある。
ただし、「師兄」という肩書が似合うのは、二番弟子の仁の方だと花月は思っていた。
「何が問題だと言うのですか。怪奇は祓いましたし、報酬もきちんと得ています」
「ええ、そうですね。問題、大有りです」
このように宗主に叱られている姿は、とても門弟たちが憧れる姿とは言えない。気まぐれに行動する彼は、まるで野良猫のようだった。
だが、その才覚は一番弟子にふさわしい。宗主である獅宇や、その旧友たちでさえも、彼の能力には舌を巻くほどだ。
片燕の創設にも、彼が一役買って出たことは誰もが知るところである。
……だが、蓋を開けてみれば。率直に言えばーー常識がない。
もっとも、「常識」というものの定義を花月自身が語れるわけではない。あくまで、自身の中で築かれた価値観の範疇においてだが、それでも林琳はその枠に収まらない。
「花月」
二人の背をじっと眺めていたところ、不意に名を呼ばれる。
「天雪……」
「そろそろ座学の時間だよ。早く行こう?」
「うん」
天雪は教本を手にしていた。わざわざ持ってきてくれたらしい。一冊受け取る。
「師匠と師兄、何かあったの?」
「わからないけど……今回の宗主は相当怒ってる感じだよ」
「……もしかすると、あれかな」
「あれ?」
「ほら、先週、会合があったでしょ? そのとき、難癖をつけられたって話があって……。で、ちょうど昨日、その宗派と狩りが重なったんだって」
「ああ、なるほど。そこで師兄と相手が揉めたってことか」
「いいや、違うぞ」
同じく座学に向かう門弟が、ふいに会話に割って入った
「相手の仕人を、ぶっ飛ばしたらしい」
花月は、面白がる門弟たちを見て、あんぐりと口を開けたまま固まった。
「師兄らしいよなー」
「噂によれば、素手だったって話だぞ」
「おお、宗主の言いつけを守って、あえて拳で行ったのか。さすがだ」
年上の門弟たちは、今回の騒動もまた"傑作"だと笑っている。
「……揉め事どころの騒ぎじゃなかった」
「いや、今回ばかりは相手側に非があるだろ。師兄が理由もなく手を出すわけない」
「でも、宗主は相当お怒りですよ」
「ん? いや、あれは……手を上げたことに対する怒りというより……」
言い淀んでから、彼はゆっくりと続けた。
「その理由を話さなかったこと、かな」
後に判明したのはこうだ。
一人の仕人が意図的に領域に小細工を仕掛けようとしていたのを、林琳が異変に気づき、介入した。相手の仕人は逆上し、心力を用いて襲いかかってきたが、林琳は反撃せず、それをいなし、回避していた。
だが、騒動に巻き込まれかけた相手宗派の幼い門弟をかばった際、軽いながらも負傷してしまった。
我慢強くはない彼も、さすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう。思い切り、男を殴り飛ばした。
もちろん、問題の仕人は後に宗派を破門されたのだがーーそれらの事実が判明したのは、相手側の宗派から謝罪と共に複数の謝礼が届いたことでだった。宗主の怒りはその瞬間に爆発したらしい。
怪我を隠していたことも、宗主の逆鱗に触れたのだろう。
花月は、花園で仁に絡まれる林琳の姿を眺めながら思う。
きっと、また小言を言われているに違いない。
やがて眉間にしわを寄せた林琳が逃げ出し、追いかけっこが始まる。
そして、嫌気がさした彼が居酒屋で酒を飲み始めれば、それを「ただ酒」と見た門弟たちが絡みに行く。
花月のような幼い門弟は夜間の外出を禁じられているため、門弟たちが持ち帰る“土産”ーー甘い菓子は、翌朝に皆へと配られる。
それが楽しみだと、天雪は嬉しそうに笑っていた。
誰が買っているのか、幼い門弟たちは気にも留めない。
けれど、花月だけは知っている。
それが、いつも、師兄の手によるものだということを。
それが、いつもの、日常。
「……変な人だな、本当に」
ころん、と口の中で菓子が溶ける。
あの人は、まるで風みたいだと思う。
気まぐれで、掴みどころがなくて、どこか遠くへ行ってしまいそうで。
今日もまた、花月には、師兄のことがよくわからない。
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