天雪にとって、二番弟子の仁は尊敬する先輩であり、兄のような存在だ。
宗主が木漏れ日のような穏やかさを持つなら、仁はその中で明るく笑う太陽のような人。まっすぐであたたかく、誰とでも分け隔てなく接する姿に、自然と心が和らぐ。
そして――一番弟子の林琳は、その光の陰でひっそりと揺れる稲穂のような人だ、と天雪は思っている。
風に吹かれてそっと身を任せ、時に姿を隠しながらも、確かにそこに在り続ける。遠くて、捉えどころがないのに、どうしても目を離せない存在。
「天雪、ここの術式はこうじゃない」
穏やかな声に、天雪は思わず肩を伸ばした。
紙の上に流れる筆の運びは滑らかで、記された文字さえどこか温かみを帯びて見える。
ここは拠点の蔵書閣。天雪と花月は並んで机に向かい、自習をしていた。
天雪が開いているのは、術式の基礎が記された指南書。仕人が誰も一度は手にする、初心者向けの一冊だ。
学びが深まるほど、初心に戻る大切さを感じるようになった。だからこそ、天雪はこうして何度も同じ書を開く。
「ありがとうございます」
けれど、仁に教わる時には、書物では得られない気づきがある。経験に裏打ちされた言葉の一つ一つが、まるで心に染み渡るようだった。
その傍らで学ぶひとときは、天雪にとって何より特別な時間だった。
「花月はどうだ?」
「俺は……その、ここが」
「ん? それは……」
きっと、花月も同じように感じている。
ふと隣を見ると、彼の髪がさらりと揺れた。手入れの行き届いた髪、整った衣服、そして仁のあたたかな眼差し――それらすべてが、空間ごと包み込むような安心感をもたらしてくれる。
天雪は、ついじっと見とれてしまっていた。
その瞬間、机の下で太ももに軽い痛みが走る。
花月が「見すぎ」とでも言いたげに、鋭い視線を寄越してきていた。
はっとして視線を戻し、頬を熱く染める。けれど、その恥ずかしささえ、どこか心地よく思えてしまう。
……それなのに、もう集中力は戻らなかった。思い出されるのは、つい数日前の朝のことだった。
門前で落ち葉を掃いていたとき、拠点の正門が軋んで開いた。
任務へ向かっていた林琳が戻ってきたのだ。
その姿を目にした瞬間、天雪は言葉を失った。
髪が――ない。
ざっくばらんに切られた髪は、鎖骨ほどの長さで無造作に跳ねていた。
隣で拱手の礼をとろうとした花月が、思わず口を開いたまま問いかける。
「師兄、どうしたんです、それ」
天雪は慌てて花月の口を塞いだ。
「す、すみません……」
けれど、目は離せなかった。
きっと怪奇に掴まれ、迷わず断ち切ったのだろう。整えることなく歩くその姿は、どこか寂しげで、それでも本人はあくまで無頓着だった。
「邪魔だから切った」
「……そ、そうですか」
ーー仁先輩、悲鳴を上げるだろうなぁ……。
「まだ少し早いですが……湯浴みの支度をしてきましょうか」
「その前に、これ」
花月の申し出に、林琳は鞄を探ると、手拭いを一枚取り出した。中に包まれていたのは一本の簪。上等な金細工に、細やかな意匠が施されている。
「暫くは使えないだろうから。質屋に出して構わないよ」
「無理ですよ! こんな上等なもの……!」
花月も目を丸くする。自身に無頓着な林琳が自分で買ったとは思えず、訝しげに天雪へ視線を向けると、彼は目を見開いた。
「仁先輩から生誕日の祝いだと渡された品では……?」
「絶対質屋に出したら駄目な奴!」
ふたりが慌てていると、それを察知したように仁が姿を現した。
簪を拾い上げて、肩をすくめるように呟く。
「本当酷い師兄だ」
けれど、その声にはどこか優しさが滲んでいた。
その日の午後、ふたりの姿は花園にあった。
林琳は東屋の縁に腰掛け、片手で書をめくりながら、時折欠伸を洩らしている。何も言わず、何も拒まず、ただ静かにそこにいる。まるで、風そのもののように。
「仁、ちょっと来て」
ふいに響いた声に、天雪は意識を引き戻された。
気づけば、林琳の髪も爪先も、すっかり整えられている。いつの間にか――それは、仁の手によるものだった。
「師兄! 戻ったのか!」
明るく弾ける声とともに、花が舞い上がるような感覚が胸に広がる。
足早に駆け寄っていく仁が残した香りが、ふたりの鼻先をやさしく擽った。
「おかえり!」
林琳の制止を軽やかに振り切り、彼は勢いよく抱きつく。
その様子を、天雪は少し離れた場所から眺めていた。
兄のような仁と、風のような林琳。
かたちは違えど、どちらも天雪にとって、かけがえのないあたたかさだった。
この時間が、どうか、長く続いてくれますように。
天雪は、心の中で静かに、そう願った。
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