目の前で一人の少年と一人の男が対峙している。
それを、誰かがじっと見ていた。
「師匠、なぜ母は子を守るのですか」
「愛しき子だからです」
「師匠、なぜ彼らは争うのですか」
「きっと大切な人を守るためでしょう」
「師匠、なぜ俺たちは怪奇を祓うのですか」
「世を守れる力を与えられたからです」
「師匠、なぜあなたは俺を殺さなかったのですか」
「……」
「師匠、なぜ俺は生きているのでしょうか」
「……」
力を持て余し世を正すこともできやしない。
「皮肉なことに、人が忌み嫌う怪奇だけが俺を生かしているのです」
少年は男の外套を掴み、縋った。
「なぜ、なぜ、それを認めてくれないのですか」
「あれは人から大切なものを奪う存在。天と地がひっくり返っても……お前の欲するものは一つも与えてはくれません」
「そんなこと、知っています」
男は何も言わずに少年の頭に触れようとして、やめた。
「ですが師匠」
力の入る手は白く震える。
「彼らは美しいと思いませんか」
俯いていた少年の瞳は赤く濁った炎を燃やす。
「そして人間はなんと醜く、愚かだと思いませんか」
少年はそれだけ言うとふらふらと立ち上がり、師に背を向けて踵を返した。
その様子を彼はただ、見ていた。その場から動くこともできずに、ただ見ていた。
男の視線が傍観していた彼を射抜いているからだ。そして、男の口が開く。
「—— 、—— 、———— 」
「えぇ、わかっています」
男の声は音として形を作らないのに、彼は師が口にした言葉を一言一句わかっている。
「———— 、——!」
「それでも人は醜い」
「——!」
ぐらり、視界が歪み、彼は暗闇に叩きつけられる。その間も彼の頭の中には師の言葉が響き続ける。
「————!」
人を殺したこと。
人を騙したこと。
欺き続けて生きてきたこと。
救える命を見捨てたこと。
意思を捨てて、自ら選択を放棄したこと。
少年の過去を受け止め、共に愛した彼の師は——彼が怪奇を愛したことだけは許さなかった。
「師匠、俺が憎いですか」
「俺が怖いですか」
「俺が——」
いつか××を殺すと思っていますか。
◇
頭上の星々は、冷たく細い刃のように夜を裁いていた。空気は絹を裂くように鋭く、息を吐けば白い息が裂けて風に溶ける。林琳は小碧の背で、その光の片鱗をぼんやりと見つめていた。冷気は皮膚の奥まで浸透し、爪先からじわじわと血の巡りを奪っていく。
「……はぁ」
ため息は無意識の癖だった。重ねた衣はたしかに厚いのに、体の先端が冷える感触は防げない。小碧もそう感じているのだろう、耳をぎゅっと伏せて時折震えを見せる。日暮れまでは駆けさせていたが、闇が深まるにつれ馬の呼吸が荒くなり、目が落ち着かなくなる。怖れが歩みに残り始めたため、林琳は速度を落として慎重に進めた。
「この先に……村があったはずなんだけど」
声に掠れが混じる。言葉は記憶の古い糸を引き寄せた。若くて拙い手つきの頃、命令に従って血の飛沫を見送った夜のこと。女も、子も、残らず斬った。その匂いは時折、別の季節の風に乗って戻ってくる。雪の匂いと混ざったあの日の鉄の匂いが怨念よりもしぶとく肌に残っている。
「……祟られても文句は言えないな」
呟くように言って、林琳は小碧の首筋を一度撫でる。動物の体温は正直だ。小碧の背の熱が、暗闇の中でわずかな救いを与えてくれる。一方で、その目は人のものとは異なる厳しさを湛えていた。じっと見返すその視線に、彼は言い逃れのできない自分を覗かれているような気がした。
やがて闇の先に、廃れた家並みが浮かび上がる。瓦が落ち、壁は風雨に削られ、蔓と蜘蛛の巣が入口を塞ぐ。家々は軋む墓標のように辺りに沈黙を置き、雪はその上に静かにたまり続けている。月明かりに照らされた屋根の断片は、切り取られた記憶の断面のようだった。
林琳は慎重に、屋根の残る物件を選んで近づく。内部を覗けば一晩しのげるだろうと判断した。外套の襟を立て、何気ない仕草で小碧を促すと、馬は重々しく中へ入っていった。
馬小屋に結界を張ると、いつの間にか外の風音が遠ざかるようだった。だが静寂は安心ではなく、底冷えのような気配を伴っている。誰も来た形跡はない。まるで時間ごと封印された場所にいるような、不気味な静けさだ。
「吹雪いてきたな」
外壁の隙間から雪が細かく舞い込み、木材に当たる音が軋む。小碧はついに膝を折り体を丸め、穏やかに呼吸を繰り返す。林琳は隣で目を閉じ、気の流れを整えるつもりでいた。しかし風の陰に、別の音が混じっていることに気付く。規則正しい風の唸りに割り込む、低くて濃い「ざく、ざく」という音。
剣はいつでも手の届くところにある。彼は静かに立ち上がり、柄を握りしめる。結界に反応がない。怪異の類ではない。となれば、実体を持ったもの。足音は近づき、扉を叩くような音が伝わった。結界に遮られ、叩く勢いは続く。小碧が首を起こして耳をそばだてる。
しばらくして、叩く音は唐突に止まった。雪の音だけが戻る。林琳は不安を抑えて扉を蹴り開けた。吹き込む吹雪が顔を叩き、唇を切りそうな冷気が鼻腔を刺す。外には人影はないが扉の根元に不自然な膨らみがあった。雪がこんもりと盛り上がっている。
彼は膝をつき、そっと雪を掻き分ける。指先が冷たさを突き抜け、やがて小さな体を抱き上げた。濡れた髪、凍りかけた頬、震える指先。年端もいかぬ子供の身体は、雪の中で固まっていた。
「……子供?」
その小ささを目の当たりにし、彼は周囲を見渡した。こんな場所に、一人で来られるはずがない。
——刺客か?
彼の胸には、自分が若かった頃に見た景色がよみがえる。飢えに痩せた子、斬られた子、叫びの残響。戦場は人間を変えてしまう。哀れみは、思考の一時停止さえ許さない。
「……運が悪い子だ」
吐き捨てるように言い、その場を離れようとする。しかし、小碧がじっと彼を見上げる。馬の瞳には、怜悧な不満と、不思議な慈しみが混じっていた。人間の言葉が分かるわけではないが、その視線は彼を追い詰める。
林琳はため息をつき、子供を抱き上げて馬小屋へ運び込む。粗末な布で体を包み直すと、心力でゆるやかな炎を作った。焚き火は小さく、煙は心配の種になるが、いまは温かさが最優先だ。子供を横になった小碧の腹に寄せると、馬の体熱が冷えきった肉体に伝わる。
小さな胸が微かに上下し、湿った髪からは土と古い薪の匂いが混ざって香る。額には薄い汗が浮かび、震えはやや収まっているが、荒い呼吸は続く。
「熱……」
独り言のように呟き、林琳はそっと手のひらを額に当てた。皮膚の下に籠る熱は思った以上に高く、確かに発熱している。
苦しそうに浅い呼吸を繰り返す姿を見つめるうちに、幼い頃の仁の面影が胸裏に浮かぶ。身体の弱かった彼が寝込むのは日常茶飯事で、そのたびに林琳は何度も傍に寄り添って世話をしたものだった。
だが今、彼の手元にあるのは傷の手当てに使う野草だけで、病を癒す薬など一つもない。それに、この手で葬り去った廃村からは、もはや命を救う返事は返ってこない。
荒んだ風が頬を撫で、林琳はぎゅっと唇を噛む。
「このまま死んでしまった方が、楽だろうに……」
掠れる声が、ただ虚しく湿った空気に吸い込まれていった。
皮肉にも似た言葉を呟き、林琳は火の小さな揺らぎを見つめる。心のどこかで、自分が救うべき理由を探している。あの夜、斬った村の子らの顔が襖の裏にちらつく。自分が与えた死は、いま目の前のこの小さな鼓動と反転して戻ってきたのかもしれない。
だが、口にする慈悲は重荷だ。彼はどこかで、自分を赦せない。償うことよりも、ただ朝を待つことが精一杯の選択に思える。長い夜、林琳は子供の呼吸を数え、炎の温度を手で確かめ、外の風音に耳を澄ませながら、朝日が差すまで見守り続けた。
◇
「おい、離せって」
がっしりと掴まれた衣の裾には、小さな手がひとつ。土と血で汚れた爪が、必死に布を握りしめている。
「お前のせいで三日も出発が遅れたんだ。あとは自分でどうにかしろ」
冷たい声に、子供は唇を噛みしめて首を横に振った。声が出せないのは、生まれつきなのか、それとも恐怖に喉を塞がれているのか。
三日間、熱に浮かされるこの子を看病した夜が脳裏にちらつく。額に水を当て、火を焚き、吹雪の中探し当てた薬草を煎じた。あの夜は決して短くはなかった。
「……聞いてる?」
林琳は小さく舌打ちし、首根っこを掴んで子供を引き剥がした。
「いいか。俺はお前を信用していないし、あのまま見殺しにするつもりだった」
その言葉に、子供は泥で濡れた靴先を見つめ、肩を落とした。
「お前を助けたのはこれ以上この村に影を生まないためだ」
言い終えると同時に、小碧の手綱を引く。
熱に浮かされた子供を三晩匿ったのは自分だ。小碧も理解しているのか、文句ひとつ言わず後についてきた。
背後から小さな足音が聞こえる。歩幅はぎこちないのに、しっかりと林琳の背を追いかけてくる。
振り払いたい衝動を飲み込み、林琳は空を仰いで深く息を吐いた。
「……はぁ」
厄介事に巻き込まれるのは、これで何度目だろう。
昨日までの吹雪が嘘のように空は澄み、冬の陽が白々と大地を照らしている。晴れ渡るほど、足取りの重さが際立った。
「暫く歩けば小さな貿易港がある」
淡々と告げて歩みを速める。
背後では、小走りの足音がそれを追いかけてくる。もう放っておくしかないと悟り、諦めに似た感情が胸の奥で広がった。
彼の言う"暫く"は、丸一日を指す。それを知らずについてくる子供の足音が、妙に耳に残った。
日が傾き始めた頃、雑木林が不自然に揺れた。
風ではない。枝葉がこすれるかすかな音に、林琳はぴたりと足を止める。
空気が一気に張り詰め、森のざわめきが遠のいた。
しゃがみ込んで石を拾い、重さを確かめるように掌で転がす。狙いを定めて放つと、鋭い音が静寂を裂いた。
——キンッ。
鉄と石がぶつかる甲高い音。
「伏せろ!」
林琳は子供の頭を押さえつけ、湿った土に押し付ける。鼻を刺す冷たい匂いに、子供の体が小さく震えた。
素早く陣を描き、抱き上げて小碧の足元に降ろす。
「お前の仲間か?」
子供は首を激しく振った。恐怖で濡れた瞳に、嘘は見えない。
剣を抜き、黒炎を纏わせる。四方から迫る気配が、じわじわと近づいてきた。
「動くな」
低く言い聞かせると、林琳は陣の外へ飛び出す。
刹那、暗がりから飛びかかる影の腹を斬り裂いた。返り血が頬をかすめる。振り返りざまに蹴り飛ばし、背後から迫る刃を黒炎で受け止める。炎は男の右腕を包み、焦げた匂いが広がる。悲鳴を上げる隙に肩口を斬り裂き、二人目が崩れた。血の匂いが濃く満ち、子供はぎゅっと目を閉じる。
残りの二人も斬り伏せ、黒炎で包囲する。
顔布を剥げば、額から頬にかけて三本の傷跡。
「……夢天理か」
呟いた途端、男たちは舌を噛み切り、沈黙した。
林琳は肩をひとつすくめ、黒炎で灰に変える。
「しつこいね、本当に……」
焦げた匂いが鼻をつき、彼は顔をしかめた。
夢天理と山雫国、そして片燕。
いくら犬猿の仲といえども、国命を背負う彼をわざわざ狙う理由は薄いはずだった。
現に、夢天理の悪事を山雫国は表立って咎めることなく、敢えて黙認している。関係の悪化を避けるために、冷静さを保ち、荒波を立てぬよう細心の均衡を保ってきたのだ。
しかし、この襲撃はあきらかに彼を狙ったものだった。林琳は思考を振り払うように剣を収める。震えの止まらない子供が目に入り、足を止めた。恐怖か、寒さか、あるいはその両方か。
無言で子供を抱き上げると、あまりの軽さに眉が寄った。
「……なに」
子供は近くなった林琳の顔をまじまじと見つめる。夕焼けが赤く地平線を染め、彼の横顔を照らした。その光に包まれた瞳は美しく、子供は思わず息を呑んだ。
「小碧、乗せてやって」
ふん、っと鼻を一度鳴らして小碧は慣れた様子で背を低くする。
恐る恐る跨った子供は、不安げに彼を見上げる。
「先を急ぐよ」
林琳は子供を抱え込むように跨がり、合図を送った。
馬が駆け出し、冷たい風が頬を切る。
「お前、本当に夢天理の手先じゃないのか」
問いかけに、子供は首を振るばかり。
まだ体は小刻みに震えていた。
「……あの雪の中、なんで歩いてたの。あの辺りは村も何もないのに」
返事はない。言葉がないだけで、子供の体温がわずかに彼の腕を温める。
二人の間を通り過ぎるのは、心地よい昼の風だけだった。子供は何も言わず、ただ彼の腕の中で身を固くして縮こまっている。
「俺が、燃やしたんだ」
林琳はぽつりと呟いた。
子供は不安そうに彼を見上げる。
「……お前には無理そうだね」
林琳は小さく笑って首を振り、抱きしめる腕に静かに力をこめた。
柔らかな風が木々を揺らし、昼の匂いを運んでくる。まるで彼の言葉を覆い隠すかのように。
災難に見舞われながらも、どうにか日が沈む前に貿易港へと辿り着いた。
夕暮れの港は、まだ一日の熱を残してざわめいている。波止場には荷を積んだ船が並び、掛け声と笑い声、潮と油の匂いが入り混じる。
林琳は宿を取り、翌朝の出航便を探した。運良く日も昇らぬうちに出る船が見つかり、胸を撫でおろす。
あとは、この厄介な同行者をどうにかするだけだ。
「この港を取りまとめてる組織ってある?」
林琳は船主に尋ねる。
「おや、どうした? 貿易の取引でもするのか?」
「ううん、違う。道中で迷子の子供を拾ったんだ。俺も旅の身だから、連れてはいけないし……」
船主は視線を下げ、林琳の衣の影に隠れている小さな姿を見て笑った。
「なるほどな。あぁ、ちょうどいいのがいる。呼んでやるよ」
指差す先に、一回り大きな船で指示を飛ばす巨漢がいた。
「おーい! 娘子ー!」
「……娘子?」
林琳は思わず聞き返した。どう見ても娘子ではない。女どころか屈強な男だ。まさか、この男の近くに女が隠れているのかと考えた瞬間、違うと悟る。
「あらぁ! 鴬朗! どうしたのぉ!」
耳を疑う。声の主は間違いなく、その巨漢だった。
林琳は思考を止めた。よく見れば、動作や身のこなしはどこか女性的で、首から上は整った美貌をしている。
蝶牒は足場を蹴り、一息でこちらの船へ飛び乗った。常人なら海に落ちる距離だ。
林琳はもう、彼が男なのか女なのか、判断する気力すら失った。
「あらあら、かわいい子ね! どこからきたの?」
蝶牒が膝をついて覗き込むと、子供は慌てて林琳の衣の下に潜り込む。
「ずいぶんなついてるのね……って、あらやだ、あなたもかわいい子ね」
至近距離で顔を覗き込まれ、林琳は思わず視線を逸らした。
「……あなたも、お綺麗で」
引き攣りながらも口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
首から下は屈強な男の身体なのに、首から上はまぎれもなく美女だった。切れ長のこげ茶の瞳、まっすぐな眉、剃り跡ひとつない滑らかな頬。その異様な調和のなさが、かえって目を奪う。
「あらやだ!」
蝶牒は頬に手を当て、わざとらしく照れてみせる。
「お上手ね!」
「ぐふっ……」
軽く叩かれただけなのに、思わずつんのめるほど痛い。冗談のようでいて、やはり怪物じみた腕力だ。
袖をつんつんと引っ張られ、振り向けば子供が不安そうに気を引いている。まるで――自分を忘れるなと訴えているようだ。
「この子は口がきけない。でも、言葉は通じるみたいだ」
林琳は子供を抱き上げ、蝶牒へとそっと手渡した。
「三日前の吹雪の中、偶然廃村で見つけた。近くに人の住む村もなくて、どこから来たのか見当もつかない。……俺は明日から船に乗る。それに、戻ってきても厄介ごとが山積みだ。悪いが、後を頼む」
「……なるほどね」
蝶牒は一瞬だけ真剣な顔をしたが、すぐに微笑みへと戻す。その表情だけ見れば絶世の美女。だが、屈強な体躯との対照が林琳の目を惑わせる。
「じゃあね」
短い別れを告げ、踵を返そうとしたそのとき、蝶牒が慌てて声を上げた。
「あ、待ってちょうだい! あなた、明日まではここに滞在するのよね?」
一つ頷くと、蝶牒は周囲を窺うようにして声を潜めた。海風に混じる喧噪を避けるかのように、彼女の声は逸れた振りをしてなお確実にこちらの耳に届く。
「頼みたいことがあるの」
林琳は小首を傾げた。短い黒髪が日差しに光る。
「盗賊に偽装してくれない?」
「は?」
口元が思わず引き下がり、眉が浅く寄る。周囲の人間がチラリとこちらを見て目を逸らすのがわかる――まるで、今の会話が茶番の序章であることを皆が知っているかのようだった。
「鴬朗に言い寄るしつこい女がいてね、咄嗟に言っちゃったのよ! 彼には愛する人がいるんだって!」
「はぁ……?」
蝶牒の弾む言葉に、林琳の頭の中は疑問符でいっぱいになる。場の空気は妙に楽しげで、しかし彼にはただただ不信感が積もっていった。目の前の人物はつい半刻前にこの港へ辿り着いたばかりの他人だ。にもかかわらず、こんな芝居を頼む理由がどこにあるのか。
「そしたら、その女! 花嫁姿を見たら諦めるって言って……」
「花嫁って言っても、お前は男でしょ」
林琳の冷静なツッコミに、蝶牒は首をちょいと傾けて目を細める。海風に揺れる飾りがチラリと光り、場の空気が一瞬だけ間延びしたように感じられた。だが、当の本人はまったく気にしていない様子だ。
「あら、お姉さんとお呼び?」
「いや、それは無理が」
林琳が即座に否定すると、蝶牒は困ったふりをして顔を近づける。耳元で小首をかしげ、声は妙に甘いが、どこかくすくすと笑いを含んでいた。
「あら、あなたには耳がついていないのかしら」
林琳は眉をしかめ、言いかけた反論を飲み込む。──本当に相手を間違えてはいないか。港には商人も漁師も、酔った旅人も混じっている。こんな突拍子もない依頼を持ちかけられて、容易く首を縦に振るほど彼は世間知らずではない。
「えーっと、言う相手を間違えてない?」
蝶牒は鼻で笑うように肩をすくめた。周囲の視線が、確かに彼らを避けている。こちらを見ないように、視線を逸らす――あれは同情でも冷笑でもなく、ただ「諦めろ」という類のものだった。
「いいえ、あなたよ。あなたがいいわ」
熱烈な求婚のように響くこの言葉は、しかし熱意とは別種の皮肉めいた確信を含んでいた。蝶牒は間をおかずに続ける。
「一芝居打つのよ!」
声の調子はやけに明るく、演者が出番を待つ舞台裏の声のように鮮やかだった。林琳は溜息を吐き、いやな予感が喉もとを締め付けるのを感じる。
「私と鴬朗の絆を見せつけるためよ! あなた、腕は立つ?」
「今更だけど、俺、仕人だから。あんまり対人戦の能力は……」
沈んだ声で答えると、蝶牒は嘲るように首を傾げる。
「嘘ね。剣たこがあるもの。それに怪奇より人間のほうが貧弱じゃないの」
言葉の端の軽さとは裏腹に、彼女は力無い笑みの奥で確かな自信を漲らせている。林琳は「それはそうだけど……」と続ける他なかった。厄介事に巻き込まれるのが常となった自分に、今さら驚きも怒りも湧かない。ただ、肩の力が抜けるだけだ。どうして旅先では、いつもこんな具合に予期せぬ事件が降ってくるのだろう。
蝶牒は片目を細め、挑発的に口角を上げた。腕に自信があることを隠さない姿は、場の空気を一層かき乱す。
「手伝ってくれるなら、宿泊費だけじゃなくて運賃をただにしてあげるわ」
「なんだって?」
その一言に、林琳の判断は即座に動いた。金に目がくらんだのではない。旅を続けるための合理的な計算だ。山雫国の名を受けていても、ぽっかり空いた懐を自ら補わねばならないのは変わらない。何度も故郷へ戻る手間を思えば、今日一晩の茶番はむしろ安い。
「いいよ、やろう」
言葉は軽く出た。即答。崩れ落ちそうなほど自然な決断だった。
「そうと決まれば打合せね!」
蝶牒は得意げに小さく拍手を打つ。辺りは微かに緩んだ雰囲気だが、林琳の胸の奥には既に後悔の芽が顔を覗かせていた。周囲の人々が目を逸らし続けるその視線は、やがて同情か、あるいは「ご愁傷様」とでも言うかのようなものに変わるだろう。彼は既に、その先を少しだけ見通していた。
「盛大な婚礼式を挙げるわけでもないわ。あの女が敵わないって理解すればいいのよ」
こんな寸劇で本当に事が収まるのか。疑問は残ったままだ。
その日の夕方、林琳は胡坐をかいて分厚い台本をめくった。狭い宿の部屋は寝泊まりするだけの簡素な造りで、薄い灯火の下で紙の擦れる音だけが響く。
「……たいそうな物語だな」
主人公はもちろん蝶牒と鴬朗。観客が拍手する場面まで細かく書かれている。朗読劇のような書き方で挿絵まで入っているのだから、わざわざ誰かが作ったのだろう。作者の顔が見たいものだ、と林琳は小さく呟いた。
与えられた役は「盗賊」――横に小さく添えられた注釈は「花嫁を攫う」。花嫁とは蝶牒のことだ。説明通りではあるが、脳裏に浮かぶのはあの逞しい肉体で、どうやって抱え上げるか想像もつかない。ならば、無理に力技で攫うより、鴬朗を人質に取るのが自然な算段だろう。――もしこの茶番が筒抜けになれば、朱禍の叱責が飛んでくるだろうと考え、林琳は少しばかりの緊張を覚えた。
林琳はため息交じりに髪を一つに結い、帷帽を深く被った。黒い布が顔を覆えば、鏡に映る自分は申し分なく「お尋ね者」か「暗殺者」の様相を呈していた。午の刻を過ぎると太陽は真上に懸かり、遠くから太鼓や笛の音が近づいてくる。
窓から外を覗くと、見物客と事情を知る者の区別がつかない雑多な群れが広がっていた。しかし一目でこちら側とわかる鍛え上げられた肉体の集団が目立つ。あんなむさ苦しい一団はそうそう見られない。
彼は愛用の剣を棚に戻して安物の短刀を手に取る。盗賊を演じるのに高価な武器を振り回すのは滑稽すぎる。短刀を握っている分には手が滑って本気の一太刀、という惨事も避けられるだろう。
婚礼の広場は真紅の衣に彩られ、人々の祝福の声が渦を巻いていた。同性同士の婚礼に批判があるだろうと予想していた林琳の期待とは裏腹に、ここにいる群衆は手を叩き、笑い、心から祝っている。そうした空気のなかへ自ら飛び込むのは、急に億劫に思えてきた。
だが蝶牒が一度だけ咳払いをすると、林琳は計画通りに動いた。誰もが悲鳴を上げる中、彼は迷わず舞台へ躍り出て、鴬朗を素早く取り押さえる。短剣を首元にそっと当てると、喧騒はたちまち静寂へと変わった。
林琳は小声で鴬朗の耳元に囁いた。
「正直、蝶牒を抑える手段が思いつかなかった」
その瞬間、鴬朗の肩が小さく震えた。どうやら笑いを必死に堪えているらしい。口元がわずかに歪み、唇を噛んでいるのが林琳にも分かる。
その向こう、蝶牒の背後に立つのはやけに派手な装いの女。噂に聞く〈女狐〉だと、林琳はすぐに悟った。
「あらやだ、私の夫を返して頂戴?」
やけに楽しそうだ。それも、必要以上に。
林琳は後ずさりし、間合いを取る。が、蝶牒の拳が目の前に迫った。
——速い!
咄嗟に鴬朗を引き寄せ、盾にして距離を取る。しかし蝶牒は肉体に似合わぬ速さで足をひっかけてくる。
「っち……!」
林琳は舌打ちし、折れかけた膝を無理やり支え直した。
——どうなってるんだ、この筋肉野郎!
女狐は蝶牒の鮮やかな動きに口をぽかんと開けたまま呆然とし、周囲の馴染みの男たちは逆に面白がって囃し立てている。完全に見世物扱いだ。
「蝶牒に引けをとらないとは! やるなぁ!」
「おいおい、花嫁より花婿の方が攫われそうじゃねぇか!」
林琳の細腕では、まともに蝶牒の拳を受け止めきれるはずもない。仕方なく勢いをいなし、紙一重でかわし続けるが、片腕には鴬朗を抱え込んでいるせいで身のこなしが鈍り、劣勢は否めなかった。拳風が頬を掠めるたび、観衆の歓声と悲鳴が入り混じって響く。
息を荒げながらも林琳は素早く状況を見極める。これ以上続ければ茶番どころか本物の死闘になりかねない。そう判断した彼は「ここまでだ」と決め、鴬朗の身体を蝶牒へ向けて放り投げた。
蝶牒は寸分違わぬ動きでそれを抱きとめる。その姿はまるで練習を重ねた舞台の一幕のように自然で、そして力強かった。
だが、傍から見ればそれは夫婦というより——どちらが夫で、どちらが妻なのか、誰もが思わず首を傾げるほどの迫力であった。
近くの樽を蹴って屋根に飛び乗り、素早く身を隠すと、観客たちは茶番劇に満足したらしく蝶牒へ拍手を送った。
林琳は屋根の上で面を外し、深く息を吐いた。蝶牒の動きは鍛えた体によるものだけではない。あれは実戦を知る者の動きだ。港には荒くれ者も多い。港を護る長として、あれほど頼もしい者もないだろう。
衣を脱ぎ、汗を拭っていると、物陰から小さな頭がひょっこり覗いた。
「お前……」
名を春と改めたあの少年だった。安直な名だが、声を発せず名もわからない以上、他に呼びようがない。
そんな春は桶と布を抱えてやって来ると、おずおずと差し出した。林琳はそれを受け取り、布を湿らせて首筋を冷やす。
「風呂に入れてもらったの」
こくり、と小さく頷く。足の先から頭まできれいに洗われたのだろう、頬についていた煤は綺麗に消えている。
「そう。飯は食べた?」
ふるふる、と首を横に振る。
桶を宿の主に返し、林琳は春を連れて通りへ出る。婚礼の熱気はまだ残っており、紙吹雪が舞う通りは人と音と匂いで満ちていた。
春は大きな音と人の波に驚いたのか、林琳の衣をぎゅっと掴んだ。
蹴り飛ばしそうで歩きにくい。
「よっと」
ひょいと抱き上げると、春は慌てて林琳の胸元を握りしめた。
やはり軽い。林琳は尻を腕で支えるように慌てて抱き直すと、そのまま歩き出す。春はじっと彼を見つめてくるが、林琳は視線を逸らし、淡々と通りを進んだ。
実は林琳自身もまだ何も食べていない。春が何に興味を示すかで決めようと思っていたが、子供の視線はあちこちに移動している。
「お腹がすいてないの?」
首を横に振る。
「食べたくないの?」
また、首を振る。
「じゃあ何」
言葉はない。代わりに腹の虫が小さく鳴いた。
林琳は眉間に皺を寄せる。
「お腹空いてるんでしょ」
春は慌てたように手で押さえ、恥ずかしそうに目を伏せた。
そして、目の前できらきらと反射しているものを見つけると、春はぱっと目を輝かせ、興味を示して手をのばした。
「ああ、これ? ただの鏡だよ」
林琳の声には、宥めるような優しさと、どこか肩の力を抜いた笑いが混じっていた。
衣の隙間から滑り出ただけの、ありふれた鏡。特別なものでもないのに、春の瞳には宝物のように映ったらしい。林琳はそれをすぐに押し込み直すと、もう一度春をしっかり抱きかかえ、人波に紛れて歩き出した。
しかし、ゆっくり腰を下ろして食事ができる場所はどこも埋まっており、結局は出店で軽食を買って済ませることになった。
春が最初に指差したのは飴細工だ。
「それはご飯に入らないよ。ただの菓子だ」
それでも物珍しいのか春は目を輝かせる。林琳は最も小さな兎の飴を買ってやった。
「かぶりつくと割れるから気をつけろ」
春はこくりとうなずき、小さな舌でぺろりと兎の耳を舐めた。頬がゆっくりと赤くなり、気に入ったのが一目でわかる。林琳はもう一つ、猫の飴も買い足してやった。
「あっま……」
試しに少し齧ってみるが林琳には甘すぎて、すぐに飽きてしまった。無理矢理押し付ける形で春の両手は飴でいっぱいになり、頬も赤く染まっている。
「弟かい?」
店を営む老夫婦が揃って春の頬を撫でた。
「いや……」
否定しようとした林琳の声を遮るように、老婆が目を細めて笑う。
「抱き方が随分と手慣れてるね」
「坊主、面倒見の良いお兄ちゃんでよかったな」
傍から見れば、二人は仲の良い兄弟にしか見えないのだろう。
林琳は答えず、ただ春の髪を軽く撫でて誤魔化す。
春は一生懸命に飴を舐め、その小さな口を忙しなく動かしていた。その姿を見下ろすと、林琳の胸からは自然と深い溜息が漏れる。
その後も饅頭やお焼きを少しずつ食べ歩き、春の腹はすぐに満たされた。食べ残しを林琳が摘めば、それで彼の腹も十分だった。
「お前は、どこから来たの」
不意に口をついて出た問いに、もちろん答えは返ってこない。
「いや、もうどこでもいいか……」
考えるのも億劫だった。どうせ過去を知ったところで、未来が変わるわけではない。
春の身体は、他の子供に比べて幼く痩せ細っている。暗器を持つ腕もなく、この年齢であれば人を殺めることもまだ難しいだろう。そう思うと同時に、ほんの少し安堵のようなものが胸をかすめる。
「いいか、二度とあんな場所に行くなよ」
林琳は腕の中から春をそっと地面に降ろし、低い声で言い聞かせる。
「今までのことは、全部忘れて……ここで生きろ」
生きるも死ぬも、今はこの港の住人に委ねられた。そう悟ったのか、春は不安そうに林琳を見上げた。だが、林琳にはその視線に応える優しさはなかった。
「お前は人の影に好かれやすいらしい」
彼はそう言うと、春の細い手首に組紐をぐるりと巻きつけた。
言葉は淡々としているが、結び目には緩みがなかった。固く、ほどけぬように結ばれた紐は、まるで見えない鎖を一つだけ断ち切らせないかのようだ。
「喰われたくなければ、これをつけていろ。もし切れたら、他の誰かに作ってもらえ」
そして短く言い捨てる。
「我儘言わないようにね」
春は思わず彼の衣を掴もうとしたが、指先はすり抜け、虚しく空を掴むだけだった。
「お別れは済んだかい?」
戸を開けると老婆が春に声をかける。
「なに、いつかまた会えるさ」
だが春の胸は、もうその“いつか”が訪れないことを直感していた。
「疲れているだろう。早くお部屋にお戻り」
布団に入っても寝付けなかった春は、結局窓辺に座り込み、膝を抱えた。
冷たい夜風が窓の隙間から吹き込み、肩にかかる布団の端をそっと揺らす。背中に映る影が壁に伸び、ゆらりと揺れた。
外の世界は楽しげで、明るく、誰もが笑いながら歩いている。だがその世界は、今の春にとって遠く、手の届かぬ景色のようだった。
◇
「三日後には着く。道中、怪奇が出たときには頼んだぞ」
翌朝、林琳はまだ東の空が薄明るさを帯びる前、夜と朝の狭間のような時間に港へ足を運んでいた。
潮の匂いは昨日よりも強く、海面には一筋の光が差し込んで、波を細やかに銀色へと照らしている。
船へと乗り込み、彼はまず荷物を置くと、黙々と符を張り始めた。船腹から船首、そして見えない船底の要所へも一枚ずつ。最後に甲板の中央で掌を合わせ、呼吸を整えて術を締める。薄く青い光が瞬き、護りの網が船全体を覆ったのがわかる。
「えらい入念だな」
背後から声をかけられ、林琳は軽く肩をすくめた。
「以前、嫌な海流に巻き込まれて酷い目にあったから」
あの時の海は、まるで何かに引きずり込まれるように荒れ狂っていた。人の世界ではない音が聞こえた気がして、幼いながらに背筋が凍ったことを覚えている。
もう二度と、あんな場所に踏み込みたくはない。
「へぇ。あの島に行ったことがあったのか。ただの旅人が珍しいな。知り合いでもいるのか?」
「知り合い……うん、そうだね」
胸の奥に渦巻く思いを言葉にできず、彼は船尾へと歩く。出航の合図とともに船がゆっくりと港を離れ、波を切る音が耳に心地よく響いた。林琳は影の落ちる場所を見つけ、腰を下ろす。
甲板は太陽を浴びて温まり始めており、木の香りと潮の匂いが混ざって鼻腔をくすぐる。視界いっぱいに広がる水面は、光をきらきらと反射して眩しい。船が上下に揺れるたびに、腹の底がふわりと浮いた。
「失礼」
不意にかけられた声に、林琳は軽く瞼を持ち上げた。
「……どうぞ」
視線の先に立っていたのは、柔和な雰囲気をまとった若い男。日陰を求めてきたのだろうと判断し、林琳は少し身体をずらして空間を空ける。
「ありがとう」
男が腰を降ろすと、海風が二人の間を通り抜けていった。林琳がちらりと横目をやると、相手も同じようにこちらを窺っていた。
「この船の護符はあなたが?」
男の声は穏やかだが、確信を含んでいた。
船員以外立ち入れない場所にも符を仕掛けたはずだが、同業者なら痕跡で察せられるのだろう。男は幾つかの設置場所を言い当てて、にこりと笑う。
「……あの島までは怪奇が出やすい海域を通るから……気休め程度だけど、念のため」
「助かります。これだけ強力なら怪奇も寄ってこないでしょうし」
林琳はわずかに眉を上げ、警戒を込めて相手を観察した。
「……護符を見つけたってことは、お前も仕人?」
「あはは。少し齧った程度で、専門ではありません。私の専門は、こちらです」
男は懐から銭を取り出した。掌の上で光を受けた銭は、中央の穴を囲うように細かい文字が彫り込まれている。
「医者……?」
「はい!」
誇らしげな返事に林琳は短く相槌を打つだけだった。
「あれれ、興味がないご様子で……」
男——蒼曜は肩を落とし、壁に背を預ける。潮風に揺れる髪が横顔にかかり、表情が少し影になる。
「お兄さんはどこの宗派ですか?」
林琳はわずかに顔をしかめた。
この問いにはいつも困る。いまは山雫国の命を受けているとはいえ、破門された身である自分が片燕を名乗っていいものかどうか……。答えを探して沈黙していると、蒼曜は空気を読んだのか、話題を変えた。
「仕人でしたら、最近の情勢には詳しいのですか?」
「……夢天理のこと?」
「えぇ。組織内で亀裂が入っているらしいですよね。一体何があったのか……」
蒼曜の声音には、純粋な好奇心と、わずかな不安が混ざっていた。
林琳は視線を遠くの水平線へと向ける。
山雫国を発つ前から、確かに情勢は騒がしさを増していた。ざわめきが、潮風の音と重なる。
"山雫国"
「気を付けるのですよ」
「はい」
「朱禍がこれまで以上に目を光らせてはいますが、今回の騒ぎは尋常ではありません。表沙汰になるのも時間の問題……。いいですか、山雫国の国名を賜ったからと言って安全だと思わないように」
まるで一冊の書物から抜き出した言葉をなぞるかのように、師は淀みなく語り続ける。
林琳はその声を正面から受け止めながら、胸の奥で小さくため息をついた。
数年越しの懺悔を交わしたところで、胸の底に沈むものが消えたわけではない。それなのに獅宇は、かつての弟子にまだ説教を続ける。まるで昔の子供のまま扱われているようで、苦笑が浮かぶ。
「気にかかることがあれば、すぐに転送陣で戻ってきなさい。鍵はちゃんと持ちましたか?」
まるで家出でもするつもりだと思われているかのようだ。
林琳はわずかに眉をひそめ、かぶりを振る。
「宗主……そのような気遣いは無用です」
「お前は変なところで周りが見えなくなりますから。いいですか、これまで通り夢天理には近付かないこと。些細なことでも報告を忘れないこと。それと……」
「わかった、わかりましたから!」
朝から耳にたこができるほど繰り返された言葉に、林琳は頭を抱える。
「……騒ぎを起こすなとは言いません。ただ、昔のようになりふり構わず動くことは危険です」
その一言に、林琳は口を開きかけて、やめた。
今はただ、聞き流すしかない。
「お前の身もそうですが、国命を受けて動く重大さを理解しなさい」
近頃、表舞台に出ようとしなかった宗派までもが活発に動き始めている。それだけで十分に周囲の目は鋭くなっている。ましてや変死体の件となれば、各国が注視するのは当然だった。
「宗主は夢天理がなぜ主の所有物を血眼になって探すのかご存知ですか。この書も……彼らには利用価値があると?」
問いかけに、獅宇は一瞬だけ黙した後、ゆっくりと答える。
「……夢天理はこの世で最も大きな組織。その気になれば世界をひっくり返し、戦だって起こりかねない」
「……え、今更?」
思わずこぼれた林琳の言葉に、獅宇は静かに指先を宙へ向ける。空中へ美しく整った文字を描きながら、低く続けた。
「夢天理の始まりを覚えていますか」
林琳は瞬きをして、答えを探す。
「立案者は当時力を持っていた三つの宗派で……元々は同じ師を仰ぐ同門。彼らは独立した後に各地に散らばり、それぞれの宗派を築き上げた。弟子たちは時に共に怪奇を祓い、長い間良好な関係を保ち続け、やがて同盟を組み、組織化された……って歴史ですよね?」
「……えぇ、その通り」
誰もが知る歴史の一節に、林琳はぱちぱちと瞬きをする。
「そもそも主の所有物は夢天理の創設前……つまり、三つの宗派が集めていました。その頃にはすでに、道具に宿った不思議な力を探っていたのでしょう。彼らは同盟を結んでいたにしろ、宗派の門弟同士で細かい争いが起きていたようですし」
獅宇は一つ呼吸を置き、静かに告げる。
「しかしある日を境に、彼らが集めていた所有物は世界へ飛び散り、姿を消した。その中に含まれる、怪傀神書だけが長い間行方不明でした」
「これ?」
林琳は自分が抱える書を見下ろす。主の日記——ただそれだけのはず。だが、持ち主を選ぶという奇妙な伝承がある。
「でも、俺よりも前に持ち主がいたはずです」
「えぇ。ですが、その者が語らなければ、誰もただの古書としか思わないでしょう」
一見すれば埃を纏った古びた本。けれど背表紙をなぞる指先に伝わる冷たい重みは、沈黙の奥に何かを秘めているかのようだった。
「朱禍の調べによると、その書は主の日記……最期の領域を示すものです」
「最期の領域?」
「お前が開こうとした塔の先のことですよ」
獅宇の目隠しが揺れ、そこに微かに光が反射した。
林琳はぼんやりとその光景を見つめ、思考を遠くに漂わせる。
「朱禍には言うなと言われていました」
「まあ、そうでしょうね」
過去の地獄をまだ消化できぬ朱禍に対し、獅宇は心の奥で言い切る。――この弟子はもう愚かな選択はしない、と。
「お前なら失敗の理由もわかるでしょう。そして、その愚かさも」
林琳は背表紙にそっと指を滑らせた。
「……ですが、この書はお前を選んだ」
師の言葉が落ちる。誰よりも主を憎む人間が、選ばれたのだ。
「……偶然ですよ、きっと」
林琳は唇の端をわずかに上げ、笑ってみせる。
たとえ世界を憎んでいても、結局はその渦から逃れられない。
ただの書が意志を持つはずがない——そう言い聞かせるように。
「おーい、お兄さーん」
返事のない林琳の前で、蒼曜が手を振った。
「夢天理から各国脱退が相次いでいるのは、巷で噂の幸楽美国のせいですか?」
「……幸楽美国?」
「えっ、知らないんですか!? これですよ、これ!」
蒼曜はごそごそと鞄を漁り、紙束を取り出した。
「幸楽美国の白琵が自決したんです」
興奮気味に語る蒼曜に、林琳は手元を覗き込む。
「彼が幸楽美国で行った悪事が明るみに出て暫くたちますが……各地からその取引全てに夢天理が関与していたことが発覚したんです。そして皆が一斉に白琵の名を口に……結果、多くの宗派が脱退、出資していた国も次々と手を引いて、てんやわんやですよ!」
「……劉鳴国も?」
「えぇ、驚きですよね。しかも、ここ、見て下さい!」
「死んだはずの皇太子……黄泉より舞い戻る?」
面白おかしく書かれた記事に林琳は首を傾げる。
「ほら、少し前に新国王の即位式があったじゃないですか? あれも皇太子が病死したせいだったのに……噂では、主の所有物の力で生き返ったって!」
「あるわけないだろ、馬鹿」
「じゃあどうやって生き返ったんです?」
林琳は静かに吐息を漏らした。——第一に、皇太子は死んでいない。
「死んだのは影武者か何かだろ。本物はどこかに身を隠してただけさ」
唇に指先を当て、林琳は朱禍の動きを思案する。どうやら本格的に仕掛け始めたらしい。
「確かに、そんなものが本当にあったら夢天理だけじゃなく、誰だって欲しがりますもんね」
蒼曜は波を眺め、ぽつりと羨ましいと呟いた。
「死者が生き返ることはない。それが命だ」
「えぇ、えぇ、その通り。でも、こんな噂が流れれば争いは避けられない。夢天理が善の道を示すべき時に……これでは、この世はどうなるのか」
怪奇を祓えるのは仕人のみ。
夢天理の管轄下にあり、宗派を持たない国々は——もう頼る先を失ってしまう。
「蒼曜の出身国は大丈夫なの?」
「ええ、花狐君主がいますから。取り敢えずは」
林琳はその答えに目を見開いた。
「花狐君主……あぁ、千咲国……蘭の国か」
「あれ、お兄さん、公主をご存知で?」
こくりと一つ頷く。
「あまり詳しくはないんだけど……千咲国ってどんな国?」
「迷宮の森の奥にあって、人口は劉鳴国の半分くらい。領土は狭いけど、自然が豊かで、薬草の品質は一級品です」
蒼曜はどこか誇らしげだ。
頬を撫でる海風にしょっぱさを感じながら、林琳はもう一つ尋ねた。
「劉鳴国との関係は?」
「ああ、それなら……この間、劉鳴国の皇太子が千咲国に訪問したって記事が」
彼が再び鞄を漁った拍子に、小瓶がいくつかカラン、コロンと物が甲板に散らばった。
「ほら、これ!」
劉鳴国、千咲国王妃の死に関与を認める——。
「びっくりしましたよ。まさか行方不明だった王妃の死に劉鳴国が関わっていたなんて!」
——まさか、ここまでとは。
林琳は唇を引き結ぶ。朱禍が何をしようとしているのか、まるで掴めない。だが、首を突っ込むことでもないと自分に言い聞かせた。
「あれ、蘭の婚約は?」
記憶をたどる。確か、彼女は婚約すると言っていたはずだ。
「破棄ですよ、破棄! 向こうが劉鳴国と関わる国はご免だって。失礼すぎますよね。でも公主はどこか嬉しそうでした。……結果的には良かったのかもしれません」
広い草原を駆け回る蘭の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。隣にはきっと明月もいるだろう。
とにもかくにも、大事にならなかったのなら、それでいい。
「随分と話し込んじゃいましたね。あ、そういえば……お兄さんがあの島に行く目的は?」
「人に会いに」
「へぇ、友人がいるんだ」
「友人……いや、知人かな」
相手は覚えていないかもしれない。林琳が島を訪れたのは、たった一度きりなのだから。
「お前は観光?」
「いいえ、仕事です! あの島、医者が少なくて……定期的に行ってるんです」
「ふうん……」
「報酬に釣られて引き受けましたけど、たまに怪奇に遭遇するんですよ。だから船に乗る時はいつも不安です」
金に目がくらんだとあっけらかんと言う蒼曜に、林琳は小さく笑った。
二人が話し込むうちに日は暮れ、月が静かに海面を照らし始める。
やがて、林琳は船首に立ち、双眼鏡を覗いた。
「随分と気配が近いな……」
霧は夜の海を覆い、船はゆっくりと水面を押し分けて進む。湿った風が肌にまとわりつき、塩の匂いが濃くなる。
怪奇の気配に、林琳は完全に目を覚ましていた。
蒼曜も、乗組員たちも眠っている。今、起きているのは林琳と船主だけ。
護符の上から結界を張れば、互いに干渉せずに通り抜けられる。——ただし、相手が小さければ、だ。
「……気配が、強い?」
目を凝らした瞬間、船体がぎしりと悲鳴を上げた。次の瞬間、船が大きく傾き、甲板を水しぶきが叩いた。
「っち……!」
——渦潮だ。
海が低く唸り、巨大な渦が船の真横で口を開けている。水面が泡立ち、潮の臭いが一気に濃くなる。
「全員船の中に入れ!」
危険を察して飛び出してきた乗組員が扉を開ける。甲板に残れば、波にさらわれてひとたまりもない。
林琳は結界を一気に強化した。結界の膜がぱん、と音を立てる。巻き込まれる寸前で、船はどうにか姿勢を保った。それでも船体は激しく揺れ、帆柱がきしむ。
「飲み込まれるぞ!」
見張りの叫びが霧の中で掻き消される。
普通の人間には、これが海の底へ通じる死の穴に見えるだろう。しかし林琳にはわかる。 ——これは怪奇の領域への扉だ。
しかも、渦はさらに大きくなっている。
この状況で、船に乗る全員を庇いながら戦うのは不可能に近い。
——それなら。
◇
「で、船ごと転送してきたのか!?」
腹の底から響くような声に、林琳は頭の芯まで揺さぶられ、蹲った。
亜紫国に飛んできて以来、嘔吐が止まらない。視界は波打つようにぐらぐらと揺れ、頭の奥で鈍い鐘が鳴り続けている。完全に心力酔いだ。美しい梅林が目の前に広がっているはずなのに、その花の色を確かめる余裕もない。ただ必死に瞼を閉じ、吐き気が過ぎ去るのを待つしかなかった。
突然港に現れた船に、最初に悲鳴を上げたのは杏眠だった。見覚えのある髪色がそこに立っていることに驚きながらも、桶に顔を突っ込む林琳に駆け寄る。
その肩を摩り、背中を支えるのは知己の鵜紺だ。
「うるさい……っ、う……うぉえっ……」
「だからって船ごと転送してくる奴があるか!」
「うっ……」
「全部出した方がいい」
鵜紺の言葉は淡々としている。言われずとも、林琳は吐き続けていた。胃の奥底までひっくり返されるようで、喉の奥が焼ける。涙と汗が混じり、呼吸が苦しい。
「獅宇様の一番弟子が心力酔いをするなんて」
鵜紺の言い分はもっともだった。幼い頃から師の強大な心力のそばで育ったというのに、なぜこうも体が拒絶するのか。
「うっぷ……」
ちりちり、と林琳の毛先に黒い炎が弾ける。
「おいおいおい! ここで火事を起こす気か!?」
心力が制御しきれず、体の内側から漏れ出している。林琳は影璟を片手に握り、砂浜へ突き立てると、海へと心力を流し込んだ。砂が隆起し、海面がざわめき、大きな水柱がどんと天へ向かって伸びる。
「……発散方法が無茶苦茶だな」
爆発音が響き、飛沫が頬を打つ。林琳は深呼吸を一つして、どこか憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。
「落ち着いた?」
杏眠の声にこくりと頷き、ふらつきながらも立ち上がる。
「うっ……」
「ははは」
げっぷの音に鵜紺が笑った。
「改めて……久しぶり、林琳」
突然の再会に驚きはしたが、二人は再び顔を合わせる日が来ることをどこかで予感していた。あちこちで見つかる変死体のことも、彼らが巻き込まれた騒動も耳に入っている。
「……思ったより元気そうだね」
「ん? 後遺症のことか」
「うん」
あの一件で負った深い後遺症は、時間とともに魂を蝕んでいくはずだった。林琳は覚悟していたが、二人は驚くほど健康そうに見える。もちろん、隻眼になったその傷跡を除けば。
「ここは日差しも強い。すぐそこにある市場で少し休もう」
木の卓に、ひんやりとした茶が三つ並ぶ。湯気の代わりに、器の表面に小さな水滴が浮かんでいた。
潮風が市場を抜け、彼らの間をすり抜けていく。賑やかな声や足音が遠くでざわめきながら、ここだけはほんのひととき、静かな島のようだった。
「大きくなったな」
「な。ここに来た時はこんなにも小さかったのに」
「あの頃にはもう杏眠と同じ背丈だったよ」
「えー、そうだっけ」
くふくふ笑う杏眠と穏やかな鵜紺に林琳は妙に落ち着かない。胸の奥がむず痒いような、懐かしさとも違う感情が押し寄せて、居心地が悪い。
「俺たちになにか用があったんだろう?」
鵜紺に促され、林琳が口を開こうとしたとき——。
「もうじき、俺たちは死ぬ」
杏眠の声が突如静かに落ちた。
「ここまで生きられたのも、奇跡に近い。獅宇様に礼を言う」
「師匠……?」
杏眠は僅かに肩をすくめ、遠くを見つめた。
「年に一度、様子を見に来てくれていたんだ。その時に後遺症を食い止める薬も……」
淡い夕光が彼らの顔に影を落とし、長く厳しい道程を思い起こさせる。
「どこから耳にしたかは知らないが、宗主も宝乱石のことを気にかけていた。それに、お前が聞きたいのは宝乱石のことだろ?」
「……うん
林琳は小さく頷き、胸に秘めた疑問と期待を整理する。
宝乱石の情報は朱禍から聞いた。そして、ここへ向かえと促したのは片燕宗主、獅宇だった。林琳の足元には微かな砂利の音が響き、港のざわめきが遠くに感じられる。
「どこまで知っている?」
林琳は目を細め、二人の顔を交互に見つめた。
「墟狼衆の拠点で生まれた不思議な力を持つ石。割れたはずの陶器が元に戻ったり、記憶が消えたり……世の理に反することを起こす。それが原因で二人が後遺症を負ったこと」
言葉の端々に、重みと慎重さが滲む。林琳は息を飲み、心の中でその規模と影響を想像する。そこまで知っているのかとでも言いたげに、二人は乾いた笑みを浮かべた。
「はー……どこから情報が漏れ出たんだ」
鵜紺の眉間に薄い皺が寄る。情報の流出経路は重要だが、今は時間も手も限られている。
「でも、石は二人が砕いたんだよね?」
林琳の言葉に、微かに空気が張り詰める。
「砕いたのは杏眠が創り出した偽物の宝乱石だ」
「偽物……だから二人は死んだことになってるんだね」
「そうだ。もし生きていると知られたら……」
「拷問じゃ済まないね」
林琳はゆっくりと息を吐き、目を伏せる。自分が知ろうとすることの重さを、今、痛感していた。
「……俺が推測するに、石はあの時に生まれたんじゃなくて、誰かが意図的に墟狼衆に落としたんだ」
鵜紺が慎重に口を開く。声には迷いはなく、確信が含まれていた。
宝乱石は偶然の産物ではない。最初から誰かの手によって仕組まれ、特定の人間を狙ったものだったのだろう。林琳はその考えに、薄く背筋を寒くする感覚を覚えた。
「本物の宝乱石は悉が探してる」
鵜紺が険しい表情で言った。
「悉……?」
「悉は夢天理の抱える独立した暗殺部隊だ」
夢天理——表向きは人々を守り導く組織。しかし裏では悉という名の暗殺部隊を抱えている。
「墟狼衆とは違うの?」
「あぁ。墟狼衆はあくまで怪奇の研究を行う組織で、悉と関わりはない。怪奇を相手にするか、人間を相手にするかの違いだ。だが悉は独断で動くことは固く禁じられている」
一本の梅の木が風に揺れ、花びらを散らす。淡い香りが漂い、沈みかけた太陽を優しく飾った。
林琳は懐から、あの時くすねた欠片を取り出した。
「……宝乱石……とは違うが、輝きが似てるな」
二人が欠片を覗き込み、光にかざす。
林琳は劉鳴国で起こった事件も、沈星演舞祭の開催中に起こった傀儡の暴走も、包み隠さず話した。言葉の端々に、出来事の重みと自らが背負った責任が滲む。
「その石が心臓部に埋め込まれてた」
傀儡に仕込まれた術式に、石が核として組み込まれ、意思を持ったかのように動き出していた。林琳の視線は夜の闇に揺れる光の粒に向けられ、胸の奥に冷たい緊張が広がる。
「仕人の術式は専門外だが……調べてみるか」
鵜紺は項垂れ、沈黙を背負ったまま視線を落とす。杏眠は欠片を指先で転がし、夜の光に透かして冷静に観察していた。微かに揺れる光の反射が、三人の間に静かな緊張を増幅させる。
「あの時、何人もの研究者が行方不明になった。領域に取り残された者もいたし、俺も全員の生死を把握しきれていない。でも、確か……領域外で待機していた研究者が一名失踪していたはずだ」
「失踪?」
「あぁ。てっきり巻き込まれたと思っていたが……」
夜の梅林がざわめき、花びらが静かに落ちる。木々の葉擦れが、まるで事件の記憶を運ぶかのように耳に届く。
「元々同じ研究所だったの?」
「違う。爆発が起きる数日前に、別の研究所から異動してきた……そうだな、丁度お前と同じぐらいの背丈だ」
彼は林琳の頭頂に手をやり、比べるように背丈を確認する。
「うん、同じぐらいだ」
杏眠が小さく頷くのを見届け、再び記憶を遡るように口を開く。
「ふざけた様子で常にけらけら笑っていて、何を考えてるか良く分からないやつだった」
思い出されるのは、どこか頭が壊れたような、不安定な人間の姿。
「その研究者が意図的に杏眠の前で宝乱石を落とした可能性は?」
「……ないとは言い切れない」
何年も昔の出来事を振り返るにつれ、杏眠の心には違和感が積もる。あの頃から、何かがおかしかった——小さな齟齬の積み重ねが、今になって鮮明に浮かび上がってくるのだ。
「もし林琳の憶測が真実だとしたら」
「石は何としてでも破壊しなければならない。惨劇を繰り返すだけだ」
「でも、どうやって……」
海風が微かに吹き、三人の髪や衣を揺らす。
「ここで話していても埒があかないな」
鵜紺が立ち上がり、杏眠が林琳を静かに見やる。
「林琳、宿は取ったか?」
「今から探すよ。最悪その辺で野宿でもいいし」
「折角来たんだ。狭いだろうけど、泊まっていけよ」
林琳は一つ返事で頷いた。
彼らの家は決して広くはなかったが、温かな火が灯り、虫の声と遠くの水音が響く。人の営みから切り離された、小さな安心の世界。窓から差し込む光に、外の不安定な夜とは違う、穏やかな時間が流れていた。
借りた部屋で月を眺め、林琳はゆっくりと息を吐いた。
責務があるのに、心は焦らず、ただ時間が流れていく。外の夜風が窓の隙間から入り込み、羽織の裾をそっと揺らした。
伸ばし放題の髪を指先で梳く。山雫国の名で公の場に出るときはきちんと結うが、今日はただの旅人だ。束ねる必要も、誰かに見せる必要もない。
「くぁ……」
心力酔いのせいか、眠気はないのに生あくびばかりがこぼれる。横になっても、まぶたは重いのに意識は冴え、なかなか眠りに落ちない。昨夜はきちんと眠ったはずなのに、頭の奥が霞がかったように重たい。
休んでいるのに、休まっていない――そんな感覚がじわじわと体の奥に広がっていく。
羽織を手に取り、林琳はそっと部屋を出た。
「ねぇ」
「ん? 眠れないか?」
蝋燭の揺れる灯りに照らされた二人が顔を上げる。静かな夜に、声が少しだけ響いた。
「昔、師匠と来た時に連れて行ってくれた梅林はまだある?」
二人は一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
夜の梅林は灯籠の光で淡く染まり、風が葉を揺らすたびに小さな音が重なった。
こんなにも美しい景色だっただろうか。
いや、こんなにも鮮やかだっただろうか。
あの頃はただ、通り過ぎる景色に過ぎなかったのに。
林琳は空を仰ぎ、さらりと流れる髪を払った。
隣に誰もいないことには、もう慣れたはずなのに。
旅も戦いも、一人でこなしてきたはずなのに。
——嗚呼。どこか、寂しい。
その思いが、静かに胸を打ち、夜の梅林の静けさと混ざり合った。
◇
「暫く滞在するのか?」
「うん。あの船が戻るまではここにいるつもり」
「梅林に獅宇様が残した転送陣があっただろう? 一度帰国したらどうだ」
海から吹き上がる風が林琳の髪をさらりと撫で、乾いた土の匂いと潮の匂いが入り混じって鼻を掠めた。遠くで波の音が砕け、昼間の熱を抱えた大地の上を、涼しさを帯びた風が駆け抜けていく。
木陰でうたた寝していた林琳は、まぶたを閉じたままそれ以上反応しない。狸寝入りだとわかっていながら、鵜紺は苦笑して隣に腰を降ろした。草の葉がかさりと音を立て、土の柔らかさがじんわりと体重を受け止める。
「なぁ、林琳」
呼びかけると、草むらがざわめき、風が一層強く吹いた。遠い波音と混じり、どこか不穏な気配を含んだ空気が漂う。
「あの方にここの居場所を教えたのは何故だ?」
沈黙が落ちる。耳に残るのは風と遠い潮騒ばかり。林琳のまつげがかすかに揺れ、やがて閉ざされた瞳の奥に遠い記憶が蘇る。
――"「……会いたいなら、会いに行けばいい。彼らは亜紫国にいる」"
――"「……でも、杏眠は誰かに会いたそうだった」"
――"「東の果てにある孤島だったけど、小規模ながら他国と交流はあったみたいだし。……転送陣を残した宗派を探したら? 因みに俺に頼ろうとしても無駄だよ」"
「……さぁね」
ようやく開いた唇から、気まぐれのような声がこぼれた。風にさらわれて遠くへ消えていくその言葉に、鵜紺はふっと笑みを漏らす。
「ふはっ、相変わらずの反応だな」
笑い声が木々に吸い込まれていく。二人は胡坐をかいて同じ木の幹に背を預けた。背中に伝わる木肌のざらつきと、葉を揺らす風音が心地よい静けさをつくり出す。
「お前のおかげで、わだかまりは溶けたよ。でも二度と会わないって約束をしたらしい」
鵜紺の声は穏やかだが、どこか遠い響きがあった。
「あれだけ大切に想っていた家族なのに、どうして?」
「お前と同じだよ」
短い答えに、林琳は顔を上げて下から覗き込む。
「近くにいれば傷付けてしまう。それなら、離れていた方がずっといい。最後に見た姿が綺麗であれば、思い出として後悔なく進んでいけるだろ」
「……冽はそれを受け入れたの」
「受け入れるしかなかった」
誰よりも大切にしていた義弟に別れを切り出された時、彼女は何を想ったのだろう。絶望か、悲しみか、それとも過去の自分への懺悔か。
「林琳にとっての片燕と同じだろう」
問う声に林琳は視線を落とした。鵜紺も杏眠も、彼を見たのはもう十数年前のこと。滞在こそ長かったが、林琳は口数も少なく、話しかけられることも稀だった。獅宇の眼差しを思い返すだけで、林琳の背負う過去が普通ではないことは察せられる。
「じゃあ、鵜紺にとっての杏眠はどうなの」
林琳の問い返しは、答えを探し切れていない証だった。
「もし死ぬならあいつの隣がいい」
「うわっ、なにその重たい告白……」
とんでもないものを聞いた顔をしている林琳の頭を、鵜紺はくしゃりと撫でた。
「で、お前は?」
逃げることを許さない問いが落ちる。鵜紺は、林琳自身の言葉で確かめなければならなかった。
「片燕は……俺が全部滅茶苦茶にしたんだ。赦されるなんて考えてもいない」
林琳は遠くの地平線を見やり、淡く笑った。
「だから、できる限り……皆が生きていきやすいように……」
——人の死が転がる荒野を歩く必要がないように。
「……俺がいなくても、進んでいけるように」
——二度と、帰りを待たなくても平気なように。
「死ぬのが惜しいって少しでも考えてくれたら、それでいい」
片燕に拾われたことで、塵のようだった世界が少しでも変わったのなら、その人生に意味があると笑ってやれる。
「そうか」
林琳の横顔はどこか晴れやかで、夏が明けた朝露のように澄んでいた。鵜紺も同じ方向へ視線を向ける。果てしない海、終わりのない空。今も昔も、この世界は変わらずそこにある。
「林琳は彼らが大切なんだな」
わからない。ただ、己が片燕の一番弟子でなければ、彼らはもっと穏やかな波に乗れたのかと、答えの出ない問いを繰り返すことが増えた。
「知らないふりをするのはよせ」
気が狂った一瞬の感情だったのかもしれない。それでも、林琳の心は確かに情を選んだ。
「お前も、俺も……この世界で生きてる」
くだらない型にはめられても、生きてる。
「いいか、林琳。何があっても……自分自身から目を逸らすな」
深い色を帯びた声に、林琳は目を瞬く。
「鵜紺?」
「お前はお前だ。何者でもない、お前自身だから。それを忘れないでくれ」
そう言い残し、鵜紺は立ち上がってもう一度林琳の頭を撫でた。
「杏眠は? 朝から見てないけど……」
いつも二人は一緒にいると思っていた。
「体調が良くないんだ」
彼らを蝕む後遺症は、杏眠を先に連れて行こうとしている。
「まあ、俺たちも慣れたものだから心配しなくていい。薬もちゃんと煎じてある」
そう言う鵜紺の顔色も、決して良いものではなかった。林琳は後遺症の知識こそ浅いが、それでも彼らの命がそう長くはないことだけは、嫌というほど理解できてしまった。
「ここにいても退屈だろ? 東にある街に行くといい。面白い骨董品が出回ってるぞ。片燕の子供たちはよく遊びに行って夜中まで帰ってこなかった」
鵜紺の言葉に背を押され、林琳は一人、島で最も大きな街へと足を運んだ。
港を抜けると、石畳の道がまっすぐ街の中心へ続いている。潮の匂いが風に混じり、通りには行商人の呼び声と、どこか懐かしい楽の音が響いていた。
言葉通り、その街には目を奪われるような骨董品が所狭しと並んでいた。古い羅針盤、欠けた仮面、旅人の誰かが置き去ったであろう異国の皿──明らかに元の持ち主の気配が残る品々に、林琳は足を止める。少し不穏にも思えるが、それも含めて面白い。
ふと、通りの奥でひときわ人だかりのある店が目に入った。宝石店らしい。
興味に引かれて足を踏み入れると、そこは二階建ての建物で、天井からは色とりどりの飾りが吊るされ、客の熱気でかすかに揺れていた。
並べられた宝石を眺めていると、ふと目を引く簪があった。細い簪の先は三日月のように象られ、翡翠が淡く光を反射している。女物とも男物ともつかない中性的な意匠は、仁が好きそうだと自然に思う。
「お、誰かへの贈り物かい?」
気がつけば会計を済ませており、自分でも驚いた。
「お目が高いね。きっとお相手も喜んでくれる」
店主はにこりと笑い、丁寧に細工の施された袋をつけてくれた。彼は簪を一度空へ掲げ、光を透かして見せる。雫の形をした翡翠は、角度によって群青色に変わり、夜明け前の海のように深い色を見せた。
林琳は思わず息を呑み、それを胸元に大事にしまいこんだ。
◇
それからしばらく、林琳は彼らと共に時を過ごした。
体調の優れない杏眠と外へ出かけることはなかったが、毎朝顔を合わせるのが日課になった。
というのも、林琳が理由をつけては小さな手土産を持って訪ねてくるからだ。杏眠にとっては見慣れた物でも、彼はまるで宝物のように喜ぶ。その笑顔は、見ているこちらの胸を詰まらせるほどだった。
杏眠自身も、これが最期の時期だとどこかで悟っていたのだろう。
雨の日は一層体調が悪く、外で降りしきる雨音だけが部屋の中を満たしていた。湿った空気が肌にまとわりつき、やけに静かで、時間が止まったように思えた。
そんなある日、杏眠は寝台の上からひとつだけ願いを口にした。
「消えない灯りが欲しい」
林琳は一瞬だけ難しい顔をしたが、やがて「やってみよう」と頷く。
心力は持ち主が死なない限り消えることはない。あるいは重篤に陥らない限り、効力は持続する。
つまり、心力で灯すだけならば造作もないことだった。
だが、杏眠はそれを「持ち運べるようにしてほしい」と言った。
「何に使うの?」
彼が悪用するなどとは少しも思わない。だが用途が見えない分、どんな形に仕上げれば良いのか迷ってしまう。
「今は俺だけだけど……鵜紺もいつか体調を崩す。そんな時に火事なんて起こしたら、とんでもないだろ?」
その言葉で、林琳は杏眠がいずれ訪れる別れに備えようとしているのだと悟った。
それならばと、東町で透明な硝子玉を求め、灯りを閉じ込めることにした。
何度か失敗して硝子玉が溶けてしまったが、数日もあれば形になった。
林琳は、仕上がったそれを掌に転がしながら、胸の奥で微かな安堵と焦燥が入り混じるのを感じた。
外では相変わらず雨が降り続いている。
ぽつり、ぽつりと地を叩く音が、まるで時を削るように耳に響く。
続く雨の中で杏眠はさらに弱っていった。
それは、林琳が見てもわかるほどだった。寝台から身を起こす力もなく、目を閉じている時間のほうが長い。
枕元で息づく気配が、少しずつ遠ざかっていくような気がして、林琳は思わず拳を握った。
日が沈む前、林琳はずぶ濡れになりながらも急いで彼らの住まいに灯りを吊るした。
硝子玉の中で小さな光がひとつ、またひとつと灯る。雨に濡れた窓硝子にその光が淡く反射して、暗い部屋を星空のように照らした。
手持ちの提灯も用意し、いつでも使えるよう枕元に置く。
灯りの揺れを見つめながら林琳はしゃがみこんで問いかけた。
「これでどう?」
ふわりと灯りが揺れ、硝子玉の中に淡い光が満ちる。
それは雨に沈んだ部屋に、小さな星を灯したようだった。
「綺麗だな」
強すぎない柔らかな光は、部屋全体をやさしく照らし、心を落ち着かせる。
「まるで蛍みたいだ」
「赤く光る蛍なんかいないでしょ」
「例えだよ、例え。それぐらい幻想的だって」
隻眼の彼に映る世界は、自分のそれとは少し違うのかもしれない。
それでも、きっと彼は孤独ではない――林琳はそう思った。
寝たきりのまま、杏眠は顔を上げて微笑む。
その笑顔がどこかくすぐったくて、林琳は思わず声をかけた。
「痛みは?」
「鵜紺の調合した薬が効いてるからかな。今は大丈夫」
「……師匠を呼ぼうか?」
転送陣が生きていれば、呼べばすぐに来るだろう。林琳の師はそういう人だ。
だが杏眠は首を横に振った。
「自分の身体のことは自分が一番分かってる」
「……そっか」
「義姉さんにも会えたから。心残りはないよ」
己の死が近いことを、どこまでも穏やかに受け入れている。それがかえって、林琳の胸を締めつけた。
外ではまだ雨が降り続いている。ぽつ、ぽつと硝子玉にあたる雨粒の音が、時を刻む音のように聞こえた。
「それに、実は……獅宇様にも別れは済ませてある」
だからこそ、獅宇は林琳を急いで向かわせたのだろう。
杏眠と鵜紺が愛弟子の助けになれると信じて。
「俺に時間があれば……もっと話したかったな」
その呟きは、雨音の向こうから聞こえてくるように遠かった。
杏眠の声はかすれ、まぶたは重たげに閉じかけている。白い肌は青白く透け、細い指先は冷え切っていた。
林琳は香を焚き、窓をそっと閉じる。
湿った風が遮られ、部屋には灯りと香の匂いだけが残った。
それでも外では雨が降り続き、硝子玉に当たる雨粒が小さな音を立てては、時を刻むように響いている。
その一音ごとに、杏眠の命が削られていくようで、林琳の胸は締め付けられた。
落ち着こうとしても、心のざわめきは消えない。
林琳は立ち上がり、深く息を吐いた。
雨音に背を押されるように、彼は久しく訪れていなかったあの領域へと足を向けた。
* * *
領域の空気は、しっとりと肌にまとわりつくほど湿っていた。
普段は変わり映えのしないこの場所に、今日は珍しく雨が降り注いでいる。
その雨音が、やけに寂しさを募らせる。
林琳は思わず腕をさすった。
冷えた水滴が髪先から雫となって落ち、足もとに小さな輪を広げる。池の水かさはいつもより高く、欠片を弄ぶ。その水面が、かすかに揺れながら波紋を描いた。
まるで、言葉にできない胸のざわめきが、静かに広がっていくかのようだった。
「戦が各地で起きてるな」
魂に触れた瞬間、戦場の光景が脳裏をよぎる。
林琳は表情を曇らせ、拳を握りしめた。
夢天理の騒動で均衡が崩れたのは明らかだ。幸い、大規模な戦には至っていないが、各国の関係は張り詰め、破れれば一気に火が広がるだろう。
仕人が干渉すべきではない問題だが領域のこととなれば、話は別だ。
山雫国を発つ前、朱禍と林琳は幾度も言い争い、ついには殴り合いにまでなった。
「だから問題ないって言ってるでしょ!」
「問題ないだって!? 得体の知れない領域が!?」
「はぁ~!? その領域に行けって言ったのは誰!?」
「あれは君から領域が生まれた経緯を知る前の話じゃないか!」
互いに一歩も譲らない声が響く。
獅宇は呆れ果て、深く溜息を吐いた。
「お前たちは仲が悪いのか良いのかどっちなんですか……はぁ。どちらにせよ、二人とも他所でやってもらえますか? このままでは花園が台無しです」
獅宇は背後で風に揺れる白い花を一瞥し、穏やかに微笑んだ。
「ちなみに私は……」
二人が掴み合おうとした瞬間、彼は軽やかに言った。
「朱禍に一票、ですよ」
林琳は恨めしそうに獅宇を睨む。
そして静観していた仁へと視線を向けた。
「俺?」
お前も領域に立ち入っただろう、と問われて、仁はばつが悪そうに視線を逸らす。
「あれは師兄に会いたくて……」
「俺が来るなって言っても来たよね?」
林琳が指を突きつけると、仁はにっこり笑い、獅宇の方へ一歩寄った。
「俺は師匠に一票かな」
「おまえぇ……!」
「これで三対一ですね」
獅宇は両手をぱちんと鳴らし、議論を強引に終わらせた。
「……初めから答えが決まってたじゃないですか」
「あははは」
朱禍の笑いが癪に障り、林琳は軽く蹴りを入れた。
結界の張られた領域を歩くと、足音が湿った地面に吸い込まれる。
どこからか視線を感じた。ここに溢れかえる魂の圧力だろうか。
「……ここに眠る魂からしてみれば俺の方が余所者か」
獅宇と朱禍の意見は単純だった。
ここは元から存在していた領域で、林琳が踏み込んでしまったにすぎない。
あの世とこの世の狭間にある場所に人間が留まるのは危険だ。だから離れるべきだ、と。
だが林琳は、ここに迷い込む魂の悲惨な過去を知ってしまった。
輪廻に戻れる最後の分かれ道が崩れてしまったら——仁はどうなるのか。
——"「……はるか昔、罪人は、とある領域で罪を償ったそうです。行き場の無くした魂を送り出し、輪廻の渦へ導けば、もう一度塔の先へ踏み入れる資格を得る、そんな迷信を信じて」"
林琳は宗主にそう告げたが、それは迷信ではない。
塔には確かに刻まれていたのだ。古代文字ではなく、仕人が慣れ親しんだ文字で——。
だが今となっては、塔の先などどうでもいい。先を知ったからといって、生きている世界が変わるわけがないだろう。何故あの頃、あれ程まで貪欲に求めていたのかもう忘れた。
しかし、仁が命を絶とうとした事実は深く心に残っている。
一度知った恐怖は、もう消えない。
もし再び同じ選択をされれば、行きつく先はまたこの領域だ。
獅宇と朱禍の気持ちもわかる。
ただでさえ怪傀神書という重荷を背負っている仁に、これ以上負担をかけたくないのだ。
「師匠は……怒るだろうなぁ」
結局、なにもかも自業自得だった。
けれど、仁を治療した玥は林琳の味方だ。
彼女は情を挟まず、仁が生きるための術を教えてくれた。
「互いの心力に干渉しない、かぁ……」
攻撃性の高い心力を持つ林琳と、他者と混じり合うことで莫大な力を発揮する仁。唯一の救いは、「干渉してはならない」のが林琳だけだということ。
それさえ守れば仁はこれまで通り生きていけると玥は言った。
彼女は苦渋の決断だったと告げたが、林琳は違った。他の誰でもなく、自分で良かったと心底安堵したのだ。
これ以上、仁から何一つ奪いたくない。
「うまくいかないものだね」
輪廻へと還っていく魂を見送りながら、林琳は目を細める。
触れた指先から、まだ微かに残る温もりが遠ざかっていく。
「いっそのこと、縁なんて切れてしまえばよかったのに」
そう願いながらも、心のどこかでそれを拒んでいる自分がいる。
すべてを置いて進めば、きっと楽になれるはずなのに——。
林琳は胸の奥を爪で引っかかれるような痛みに耐え、ただ黙って魂の消える先を見つめ続けた。
それはもう取り返せないものを、いつまでも追いかけているかのようだった。
◇
「今日は起きて大丈夫なの?」
「あぁ。天気もいいし、比較的身体も楽だ」
翌朝、林琳はいつものように手土産を持って彼らの住まいを訪れた。
戸口に立つ杏眠の姿に思わず小走りで駆け寄ると、少し下にあるその顔を覗き込む。頬はまだ青白いが、昨日よりもわずかに血色がよく見えた。
手にしていた土産を鵜紺に渡し、林琳は胸を撫で下ろす。
「支度は済んだか?」
「うん」
今日は亜紫国滞在の最後の日。一刻後には船便が出る。
これが最期の挨拶になると確信していた林琳の足取りは、知らず重たくなっていた。
しかし、そんな彼の胸の奥の重さを知ってか知らずか、二人は肩を寄せ合い、穏やかに微笑んでいる。
その光景が、かえって林琳の胸を締めつけた。
「渡したいものがある」
「……なに?」
杏眠が差し出したのは、片手に収まるほどの軽い円盤だった。
星座盤のようにも見えるそれを、彼は慎重に林琳の手に乗せる。
「傀儡に埋め込まれていた石はその盤を用いて破壊できるはずだ」
あまりにも濃い情報に、林琳はこめかみを押さえる。頭の奥でじんと痺れるような感覚が広がった。
「変死体、傀儡、宝乱石……。三つに共通するのは、人の命を弄び、魂や命を人の手で作り変えようとしているということだ」
杏眠の声は低く、押し殺した怒りで震えていた。
「命は道具じゃない。誰かの都合で削ったり、継ぎ足したりしていいものじゃない」
言葉を吐き出すたびに、硝子玉の炎がわずかに揺れた。
「そんなことがまかり通るなら、人も心も――すべてがただの道具に堕ちてしまう」
鋭い風が再び三人の頬を打ち、林琳は息を呑んだ。
「でも……きっと石を破壊する手段は存在する」
杏眠は迷いを押し殺すように、硬い声で言い切った。
「俺たちの予想では、石と心力は相克するはずだ」
攻撃性の高い心力。
仕人の心力は怪奇や邪を祓うために存在する。謂わば、変死体や傀儡、宝乱石のように人の理を踏み外したものに対し、正反対の力として働く。
それこそが石を砕く鍵であると、杏眠は言外に告げていた。
「でも、俺のは浄化には適してない。破壊するか、燃やすか……それこそ師匠の専門だ」
林琳の声は硬かった。自らの力を信じられず、ただ壊すことしかできないと信じ込んでいる。
「いいや。それはお前がそう思い込んでいるだけだ」
鵜紺が遮るように言う。
「いくら攻撃性をもつ心力でも、根源は同じだ。人の心から生まれた力に過ぎない。恨みや憎しみだけじゃない。人を慈しむ心だって、そこにある」
杏眠の瞳は真っ直ぐに林琳を捉えていた。
「そうでなければ、心力は主に従わない」
林琳は息を呑んだ。
壊すことしかできないと思ってきた力に、慈しむ心など本当に宿っているのか。答えは出せない。けれど、目の前の二人の言葉が、迷いに沈む心に微かな灯をともしていた。
「獅宇様や片燕の存在があるから、お前はその心力に飲まれない」
鵜紺の声は落ち着いていた。
偉大な師のもとで学んだことも大きい。だが、結局のところ林琳が闇に呑まれずにいられるのは、彼自身の心がそう易々と壊れないからだ。
「……この前の頼み事って、それを確かめるための?」
林琳は視線を落とし、無意識に拳を握り締める。
「いやいや、あれはあれで助かってる」
飛んで行ってしまいそうな笑い声に、林琳はぎゅっと盤を握った。
からん、ころん、からん——。
「あの灯りを見ると、不思議と落ち着くんだ」
軒先の硝子玉が、海からの風に揺られて澄んだ音を響かせる。それはまるで、静かなこのひとときを惜しむかのようだった。
出立までの残された時間は、あとわずか。去らなければならないと分かっていても、足はその場に根を張ったかのように動かなかった。
硝子玉がぶつかり、涼し気な音をたてた。
「俺たちとお前が出会ったのは……運命だったのかもな」
杏眠は息を吐き、静かに言葉を重ねる。
「良くも悪くも、選びようのない運命に、な」
その声音には、皮肉と哀しみが滲んでいた。
「もし石を見つけたら、盤を発動させろ」
「発動って言われても、どうやって……」
「盤は術式を何倍、何十倍にも膨れ上がらせる。お前の心力でしか反応しないように作ってあるから安心しろ」
昨夜、杏眠と鵜紺は長い沈黙の末に、彼へ盤を託すことを決めたのだ。
「俺たちが未熟なばかりに押し付ける形になることを、許してほしい」
その声音には、後悔と苦味が深く滲んでいた。
林琳は二人を見つめ、ゆるく首を振る。
それは「拒むため」ではなく、「受け止めるため」の仕草だった。
「いいや、違うよ」
不安げに表情を曇らせる二人に向かって、彼はかすかに笑った。
「これは等価交換だ」
「等価交換? 俺たちからは何も差し出してないぞ」
「ううん。ちゃんと貰ってるよ」
彼らの善意を、心遣いを——彼は知らず知らずのうちに受け取っていた。
「俺は一度しかここに来なかったけど……師匠は何度も来てたでしょ? 手土産の中に見かけない書がよく混じってたから。仁はああいう類は手に取らないし、師匠も気にしない。そうやって考えれば、あの馬鹿気た書は二人からだって……ここにきて気付いたよ」
「馬鹿気たって……著者に向かっていう言葉か?」
二人が揃って不服そうな表情を浮かべる。その真剣さがかえっておかしくて、林琳は肩を揺らして笑った。
「だってそうでしょ。あんな怪奇だけに視点を向けた研究書、他に流出したらとんでもないことになるよ」
怪奇の特徴だけでなく、対処法や領域内での研究結果、後遺症の発生確率まで——恐ろしいほど細かく書かれていた。
冷たい紙の手触りを、林琳はいまもはっきりと思い出せる。
「お前なら大丈夫だって思ったんだ。それに、いつか役に立つだろうって……二人で話して決めたんだ」
杏眠の声音はどこか誇らしげで、それでいて少し寂しそうでもあった。
林琳は言葉を失い、ただ指先で円盤の縁をなぞる。
「林琳は知らなかったかもしれないけど、まだ出来たばかりの宗派に、変わり者な奇才がいるって噂が立って」
「それ以上の情報は流れて来なかったのが不思議だけどな」
「そうそう、無理やりもみ消されてる感じ」
杏眠と鵜紺が顔を見合わせて苦笑する。噂の断片だけが宙を漂うようで、真実は霧に包まれていた。
「無理はするなよ」
不意に鵜紺が声を低め、林琳の顔を覗き込む。
「そんなことしないよ。俺がそういうの嫌いだって知ってるでしょ」
「違う違う。何もかも全部ひとりでやろうとするなってこと」
柔らかな声に、林琳の瞳がわずかに揺れる。
円盤を握る手に力がこもり、沈黙が落ちる。
杏眠は胸の奥でそっと謝罪した。
——本当はもっと一緒に歩んでやりたいのに。
「俺たちが助けてやれるのはここまでだから」
ずきん、と胸の奥を突く痛みを、林琳はぐっと押し殺した。喉の奥がひりつくように熱い。泣いてはいけないと、ぐっと息を呑む。
彼は盤をそっと懐にしまい込む。
布越しにひやりとした感触が伝わるたび、これが彼らから託された最後の願いなのだと胸に刻みつけるようだった。
「林琳」
杏眠の手が肩に置かれる。
まだ命を宿した温かいその手が、林琳の強ばった心をそっと押さえ込んだ。
「ろくな世の中じゃないけど、物事は大抵うまくいく」
その言葉は不意に心の奥を震わせた。
「天才と秀才の言葉だぞ? ありがたく受け取れよ!」
嗚呼、彼らも怪奇によって運命を狂わされた人なのに。なぜこんなにも温かく、強いのだろう。不安定に揺れてばかりの自分とは大違いだ。
「おいおい……まさか泣くなんてことしないよな」
別れという終幕は、これほどまでに苦しいものなのか。
「っは、泣くわけないでしょ」
心臓を握られたような痛みが、今になって鋭く迫ってくる。
「……しょうがないから、引き受けてあげる」
それが、彼にできるせめてもの強がりだった。
二人はどこかぎこちなく笑い、互いの顔を見つめ合う。
船へと向かう足取りは戸惑うことなく進む。
「……さようなら」
——二度と会えない人たちよ。
林琳はせめてもはなむけに、大きく宙へ術式を描いた。
指先から放たれた光が淡い弧を描き、心力を宿したそれは夜空に咲く花のように広がる。きらきらと輝く無数の光の粒は風に乗り、彼らの住まいへと吸い込まれていった。薄く張られた結界がやわらかく脈動し、まるでその光が彼らの痛みをやさしく包み込んでいくかのようだった。
——せめて、彼らに残された僅かな時間が優しいものであるように。
林琳は一度だけ振り返り、深く頭を下げる。長い髪がさらりと肩から滑り落ち、潮風に舞った。
「知らないうちに立派な仕人に成長したな」
遠ざかっていく彼の背を、鵜紺は寂しげな瞳でじっと見送る。
「主が消えて数千年間、世界は平和じゃなかった。それでも人々は手を取り合って進んできたのに……誰がこんなにもかき乱してるんだ」
ぽつりと呟くと、海鳥の鳴き声がかすかに返事をしたように響く。
静かな波音が二人の間を満たす。海風が湿った香りを運び、心に残る感傷をかき混ぜるようだった。
「鵜紺は清の言葉を信じているか?」
清は確かに清であったはずなのに、最後に見た彼はまるで別人だった。あの眼差しの冷たさを、どうしても忘れられない。
「俺は清と墟狼衆で過ごした時間に、嘘はないと信じてるから」
「ははっ、そう言うと思った」
杏眠がわずかに笑い、肩の力を抜いた。
得体の知れない何かを見たとしても、積み重ねた日々は決して偽りではない——その思いだけが、二人を前に進ませる。
——"これは、あの子の物語"
——"あの子の選択が全てを決める"
「なぁ、鵜紺」
「ん?」
杏眠の声は波打ち際に落ちた石のように小さく、しかし確かに鵜紺の耳に届いた。
「あの子が何も背負わずに、自由に生きることは許されないのかな」
遠い空を見上げながら呟く。人並みの幸せから遠い場所で生きてきた少年は、今や国命を背負い、かき混ぜられた運命に翻弄されている。肩にのしかかるものの重さを思うと、胸が痛んだ。
「……林琳は強い子だ」
鵜紺は短く息を吐き、杏眠の横顔をそっと覗き込む。その声には、励ましよりも祈りの色が濃かった。
「そうだよ。獅宇様の一番弟子だ。そんなこと知ってる……だから、心配なんだ」
杏眠の声はかすかに震えていた。いくら奇才でも、彼らから見ればまだまだ手のかかる子供だ。
「自分一人でやる必要なんてないのに」
その言葉は、かつて鵜紺が杏眠自身に教えてくれたことだった。記憶の奥から浮かぶその瞬間に、胸の奥がじんと熱くなる。——早く、それに気付いてほしい。
杏眠はそっと鵜紺の肩に頭をこてんと預ける。夕暮れの風が頬を撫で、二人の影が長く伸びた。
「悉も動き出したとなれば、一人で動くのは危険だ。無茶をしないといいけど……」
鵜紺の声にはかすかな焦りが混じる。
「無理はしないけど、無茶はしそうだよな」
「同感」
短い会話のあと、静寂が落ちる。波の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが耳に残った。
——どうして世界は、不器用な彼をここまで弄ぶのだろう。
杏眠は胸の奥でそっと願う。いつか彼が人並みの幸福の中で、自由に羽ばたいていける未来を——。
◇
預けていた小碧を引き取り、林琳は貿易港へ戻った。
休むことなく次の目的地へ向かう。胸の奥でまだ燻る何かを、振り払うようにただ前だけを見据える。
「春に一声かけてやってくれ」
去り際、鴬朗が声を投げた。
視線を向けると、あのやせ細っていた春の頬は今ではふっくらと丸みを帯び、歳の近い子供たちと無邪気に駆け回っている。
甲高い笑い声が潮風に乗って、港の喧騒の上を軽やかに通り過ぎていった。
小碧が気づき、鼻先で林琳の背を軽く押す——行け、と言うように。
林琳は短く息を吐き、迷いなく手綱を引いた。馬首は港ではなく、春とは逆の方角へ向く。
長く留まるべき場所ではない。置いていくべき名残は、ここに残していく。
「お兄さん!」
小碧に跨がり、手にした書物を気まぐれに開いていたとき、不意に後方から声が飛んできた。
乾いた港の石畳に声が跳ね返り、背中を叩いたように響く。
「僕も国に戻る予定なんだ! よかったら案内するよ!」
蒼曜はぱっと顔を輝かせ、拳を握った。
「用は済んだの?」
「あぁ! たんまりと報酬もね!」
にこにこと満足げに笑う蒼曜を横目に、林琳は小碧の手綱を握り直す。
「どうせ行く先は同じだろ? 一緒に行こうよ。こう見えて僕は顔が広いんだ!」
胸をどんと叩く蒼曜の無邪気さに、林琳は小さく息を吐いた。
「公主の友に何かあったら僕が叱られるかもしれないだろ?」
「それは……」
千咲国は迷宮の森の奥にあるという。初めて行く自分が迷わず抜けられる可能性は低い。そうやって考える素振りを見せると、蒼曜はひょいと背に回り、肩を押した。
どうやらここからそう遠くはないらしい。半月もすれば森に着くのだという。
「入国には特別な合言葉がいるんだ」
「合言葉?」
「そう。まあ、毎日変わるし、答えられるのは千咲国の国民だけ。僕と出会えて運が良かったね」
数日一緒に行動すれば、蒼曜の人となりがよく分かる。手先がやたらと器用で、逃げ足だけはやたらと早い。そして、信じられないほど運が悪い。彼が外に出れば雨が降り、歩けば枝が落ちてくる。林琳は呆れながらも、少しだけ面白くなってしまう。
そんな彼が今、何か小さなものを踏もうとしていた。
「馬鹿、踏むな……!」
「へぁ……?」
——カチリ。
耳障りな音が足元で響いた瞬間、世界の空気が変わった。草木のざわめきが止まり、遠くの鳥の声も消える。林琳の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
「な、何の音……?」
小碧が耳を伏せ、警戒するように茂みに身を潜めた。
「小碧、そこにいろ!」
そう言い置き、林琳は蒼曜の腕を掴んだが、次の瞬間、地面がぱっくりと口を開け、彼らを丸ごと飲み込んだ。
土と草の匂いが一気に遠ざかり、風が背中を押すように吹き抜ける。落ちる。底が見えない。胃の奥がひっくり返るような感覚が全身を支配し、林琳は瞬時に剣を抜いたが、壁に突き立てようとした刃は鋭い音を立てて弾かれた。
結界が張られている。
それは、まるで「出るな」と告げる見えない手のひらのように、彼らを閉じ込める。
風が強まり、耳の奥で低い唸りが響く。灯りを灯すが、光はすぐに闇に呑み込まれ、周囲の輪郭すらわからなくなる。ただ落ち続ける感覚だけが、際限なく続く。
「ひ、ひいいいい! 死ぬ死ぬ死ぬ!!!!」
「黙れ!」
叫び声は風にちぎれて遠ざかる。落下が止まらないことが恐怖を増幅させ、胸の奥が凍りつく。出口はどこにも見えず、ただ深く深く、闇の底へと引きずり込まれていく。
影璟に心力を纏わせ、結界に叩きつけるように突き立てる。裂ける音と共に、体が一瞬ふわりと浮き上がるが、それは束の間で、すぐに再び下へと落とされた。
今度はさらに速い。視界が霞み、風は皮膚を削るように鋭い。耳の奥で血が脈打つ音が響き、息が苦しくなる。
林琳は必死に平静を保とうとするが、胸の奥でじわじわと恐怖が芽吹く。もし、このままどこまでも落ち続けるのだとしたら。もし、出口が存在しないのだとしたら。
——ドボンッ。
思考が凍りつくより早く、冷たい水が全身を包んだ。息を飲む間もなく肺の奥まで冷気が刺し込む。
意識を飛ばした蒼曜がそのまま沈んでいくのが見える。林琳は水面から顔を出して大きく息を吸い込み、再び潜った。透き通る水の中では蒼曜の姿もはっきり見えた。力なく沈む腕を掴み、胸へと抱き寄せると、水の抵抗を切り裂くように必死に水面を目指して泳ぎ出す。
意識を失った身体は、想像以上に重たい。全身に絡みつく水が動きを鈍らせ、筋肉に鋭い痛みを残す。心力に頼りがちな林琳にとって、この作業は骨が折れた。頭の隅で、もしここに仁がいれば二人まとめて軽々と引き上げただろう、などと場違いな考えがよぎる。
やっと水面に顔を出すと、肺が焼けるように痛む。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸を押し殺しながら岸へ上がり、蒼曜の胸の動きを確かめた。微かに上下する胸に、安堵の息を吐く。白い吐息が闇に溶け、洞窟の冷気が肌を刺した。
灯りを再び灯し、蒼曜の身体に心力を注ぎ込む。小さな光が彼の皮膚に滲み、凍えを和らげていく。
だが、林琳の灯した光とは別に、周囲は淡い蒼白い光でぼんやりと照らされ始めていた。岩肌から染み出したような光が広がり、どこか現実離れした世界を作り上げている。
「どこだ、ここ……」
水滴が岩に落ちるたび、一定のリズムで音が響く。その音が妙に規則的で、まるで誰かが遠くで歩み寄ってくるかのように聞こえる。
その時、蒼曜が咳き込みながら目を覚ました。
「げほっ……」
蒼曜が陣を踏み抜かなければこんな事態にならなかったのは事実だが、林琳に彼を責める気はなかった。あれほど見えにくいものなら、自分でも注意を怠れば見逃していただろう。
「気分は?」
「だ、大丈夫……」
「そう。立てる?」
必要最低限の確認だけを済ませると、林琳は周囲に視線を巡らせた。生き物の気配は一切ない。風も通わない。閉じられた世界のような静寂が支配していた。
「……結界がある。しかも、この空間ごと」
指先で壁に触れれば、ビリリと弾かれる感触。
通心を試みるも、林琳は即座に遮断した。煩わしい声が頭の奥を揺らし、余計に苛立ちが募る。
「助けを呼ぼうよ!」
「誰に」
「え?」
真面目に聞き返され、蒼曜の方が戸惑った。
「とりあえず移動するぞ。ここにいたら余計に身体が冷える」
そう言った瞬間、林琳の頭に他者の心力が流れ込んできた。
《林琳! 無事かい!?》
「……ちょっと、いま忙しいんだけど。後にしてくれない?」
《はぁ!?》
脳内に響く声があまりに大きく、林琳は思わず目をきつく瞑った。
《急に君の心力が途切れて驚いたのはこっちだよ! どこにいるの!?》
「知らないよ。今それを確認しようとして……」
《私の符がこんな簡単に遮断されるはずがない! 嗚呼、もう、なんでそんなに毎回変なのに捕まるんだ!》
林琳の米神にぴしりと稲妻が走る。
「おい……」
《それに邪魔されて詳しい位置がわからない……!》
朱禍が慌てた様子の一方で、林琳はふつふつと怒りがこみあげてくる。
「お前、勝手に追跡する術をかけたってこと!?」
《勿論! だって、君が》
「死ね」
続く小言を強制的に遮断し、通心を切った。林琳の口元に、わずかに苦笑が浮かぶ。目は呆れた光を帯び、顔の筋肉は緩みつつも、苛立ちと冷静さが混じった微妙な表情となった。
「はぁ…あいつ、勝手な真似を……」
頭にずんと反響し続ける朱禍の声を振り払おうと止まった足を進める。
「やっぱり通心は繋がるんだ! 助けを呼ぼう!」
「無理」
「え?」
蒼曜は再び眩暈を覚えた。
「……今、会話していた人は……その、仲間……じゃないの?」
「仲間?」
怪訝な顔をする林琳に、蒼曜は唖然とした。
「え、えぇ……じゃあ、その相手は一体何……?」
「いや……師匠の友人」
「それってつまり、仲間じゃない!?」
「は?」
「なんなら滅茶苦茶嬉しい助けじゃない!?」
「はぁ……?」
二人の認識は平行線のままだ。
外の状況が分からない以上、少しでも助けを求めるべきだと蒼曜は思う。
だが林琳は首を横に振る。
「どこにいるかもわからないのに? お互い時間の無駄だよ」
その声音は落ち着いているが、冷たくも聞こえた。
「で、でも……きっとその人は君が心配で繋いできたんだろう? その対応は……少し可哀そうな気がする」
「心配? あぁ、面倒ごとを起していないかって?」
寧ろあちら側も許可なく追跡の術を仕掛けていたのだから、どこか不安材料でもあったのだろう。どうせ監視目的に違いない。
林琳はぶつぶつと文句を零す。
「……なんでそうなるんだぁ」
核心が伝わらないと悟り、蒼曜は黙り込んだ。かみ合わない会話に、蒼曜の方が頭を抱えた。だが今は言い争うより先へ進まねばならない。足元の水が冷たく、長くここに留まれば体温が奪われる一方だ。二人は光の差す方へと慎重に歩みを進める。
やがて、光が強まる出口のような場所に辿り着いた、その瞬間——。
林琳の灯した火が、ふっと吹き消された。
「おやおや、生きていたか」
甲高い声が洞窟に反響し、背筋を氷の刃で撫でられたような感覚が走る。影璟を構えるより早く、目にも止まらぬ速度で短刀が飛んできた。
「っ……!」
右腕に鈍い衝撃と熱が走り、林琳は歯を食いしばった。鉄の匂いが鼻をつく。
じわりと滲む血が、冷え切った肌をさらに冷たくする。
「無礼者」
洞窟の奥から、凍りつくような声が響く。薄明りがゆらめき、漸く周囲の光景が鮮明に浮かび上がった。
「り、林琳……! ここ……墓地だよ!」
震える蒼曜の声が、湿った岩壁に反響する。
「戯け! ここは世界で最も清らかな地底湖だ!」
声の主は即座に言い返した。その響きは水面を這う冷気と混じり、どこか愉悦を含んでいる。
だが、蒼曜の視線は恐怖で釘付けになっていた。
光の揺らめきに照らされた洞窟内には、いくつもの墓石が無造作に並んでいる。
水面に映る影が揺れ、骸骨の白がぞっとするほど鮮明に浮かび上がった。
「じゃあなんで墓があるんだよ! おまけに白骨化した遺体まで……!」
蒼曜の声はひび割れ、耳の奥で反響する。足元にも散らばる骨が、踏めば小さく乾いた音を立てた。
「姿を見せろ!」
林琳が叫ぶと、洞窟内の闇がざわりと揺れた。
「ふん、そう喚かずとも……じきにおぬしらもそこに名を刻むことになるのだ」
ゆらり、と漂う光が一つの墓石に止まり、刻まれた名が青白く浮かび上がる。
ぞわりと背筋を這い上がる感覚。蒼曜は喉を鳴らした。
「書に選ばれた哀れな子よ。人の屍を踏み荒らし生きる術を持って生まれたその運命に嘆くが良い」
挑発にも似た声が洞窟の奥で笑った。
「それ、師匠の前で言ってみてよ」
林琳の声は低く、しかしはっきりと響いた。
「そうだな。お前の首を持ち帰り、捧げてやろう」
どうやら相手は本気のようだ。夢天理から遣わされた刺客だろうか。はたまた、杏眠の言っていた悉という存在か。
どちらにせよ、ここでくたばってしまっては元も子もない。
「……生憎と勝手に死んでもいい命じゃなくなったんだ」
「では、今までお前の手によって散らされた命は? お前にとってはどうでもいい命だったのだろう?」
その言葉は鋭く突き刺さる。林琳に否定の余地はない。過去の血と灰が胸の奥で鈍く疼くのを、彼は押し込めるように呼吸を整えた。
「子供といえど、善悪はついたはずだ」
人を殺すことに戸惑いすら感じなかった。それでも、どうにもならない過去を抱えながら、前を向くと決めたのだ。
犯した罪も、愚かな選択も——全て。
「はっはっは! そうか、そうか! 開き直ったか! 数多の人間をその業火で燃やし、戦を駆け抜けた小童が! のうのうと人として生きようと思うのか……!」
声の主の嘲笑は、骨を軋ませるような不快な響きを帯びていた。
「お前は哀れではあったが、逃げる手段を持っていたのにも関わらず……血の道を選んだ!」
蒼曜が林琳に呼びかけるが、林琳は静かに指先を上げて制した。声の反響を頼りに、相手の位置を探っているのだ。
かなりの距離を落ちたと勘違いしていたが、天井には岩肌から漏れる光が存在している。
「獅宇に拾われたからなんだ? 優れているから許されるのか?」
声は次第に怒りで掠れ、洞窟の空気がさらに重くなる。
「朱禍様に気に入られ、慈悲を受ける価値があると……言うのか!」
林琳は吐息を一つ吐き出す。
「……俺に言われても困るよ」
「嗚呼。そうだろうとも! いくつもの戦場を駆け抜けたお前は……ただ命令に従い剣を振り翳した!」
声が震え、荒い息遣いの合間に、かひゅう、と悲鳴にも似た呼吸音が響いた。
「世を糺さぬからお前のような哀れな子が生まれるのだ」
その言葉に、林琳の指先が止まった。影璟を握る手が一瞬だけ硬直する。
——可哀そう。哀れ。虚しい。不憫。
耳の奥で何度も繰り返される言葉。だが、彼は舌打ちと共に迷いを振り払った。
「じゃあ、思い出させてみろよ。お前が誰なのか」
指先から心力が溢れ出し、火の粉が散る。
小さな火花は次第に黒炎へと変わり、闇を照らす焔となった。
「お前の悍ましさを知る俺が、何も準備していないとでも? っは、相変わらずの傲慢さだ」
足元に陣が浮かび上がった瞬間、地底湖を包む結界がひび割れるような音を立てて瞬く間に組み替わっていく。反射的に術式を打ち消そうと符を切ったが間に合わず、指先までじりじりと痺れる感覚が走り、術は霧散した。
「これで一つの悪が葬り去れる……」
洞窟に響いた声は次第に祈りにも似た響きへと変わり、湿った空気が重くのしかかる。
「邪魔者は消える。これで、あの方は……ふふふ、嗚呼、朱禍様……これが正義なのです……」
その瞬間、悲哀と怨念が混じった声が洞窟全体を満たし、水面が細かく震えて足元の陣が脈動する。
「朱禍様……俺は、あなたを崇拝していたのに……」
林琳は眉を歪め、耳に届いた名を噛み殺すように舌打ちした。
——朱禍絡みかよ、糞野郎!
「ふざけんな! 直接あいつに言えよ!」
陣は林琳を中心に完成へと近づき、標的が自分一人であると嫌でも理解させられる。咄嗟に蒼曜の足元へ影璟を放り、黒炎の結界を展開。火花のような光が弾け、地底湖を覆う結界が一瞬だけ歪んだが、すぐに収束し、林琳の足元だけが切り取られたように輝きを強めた。
結界の領域を広げようとしたが、林琳に触れる寸前で弾かれる。
「……最悪なんだけど」
吐き出した声は低く乾き、冷たい汗が背をつたう。穴に落ちたときと同じだ——嫌な予感が確信に変わる。
「り、林琳……!」
蒼曜が縋るように腕を掴んだ。林琳はその手をやんわりと引きはがし、背中を押して突き飛ばす。崩れ始めた天井からぱらぱらと石片が落ち、水面に落ちるたびに波紋が広がった。
——流石にやばいな。
そんな自分の思考を、どこか他人事のように感じる。
次の瞬間、鋭い痛みと焼け付くような熱が全身を駆け抜け、肺から息が押し出される。視界が弾けるように白く染まり、そのまま林琳の意識は深い闇に沈んでいった。
◇
「ねぇ、××」
少年が手を伸ばした。
その仕草は震えていて、血に濡れた手が虚空を掴むように空を裂く。
「ほんとうに?」
掴んだのは白い外套だった。小さな指は真っ赤に染まり、爪は剥がれ、皮膚は裂けている。
痛みに耐えて握るその力は、必死の訴えそのものだった。
「ほんとうに、いいの?」
幼い声が空気を震わせる。
その響きには悲しみだけでなく、怒りと絶望が混じっていた。
「おれはわすれられないよ」
歯の根が合わないほどに震えながら吐き出される言葉。
忘れたいのに忘れられない、そんな矛盾が胸を裂いている。
「いまさら、かわれるわけがないだろ」
××は淡々と答えた。
けれどその声の奥にはわずかな痛みが滲んでいた。
「こんどは……おれのことをわすれて、しらないふりをするの?」
少年の瞳が揺れる。
負わせた痛みの分だけ、負った痛みがある。
その重さを置いていくのかと、少年は××に問いかける。
「ひとりのほうがらくだったのに」
吐き出す言葉は苦い毒のようだった。
「……そうだな」
××はかすかに笑った。
そして、ボロボロに傷んだ少年の手を取り、ゆっくりと包み込む。
その温もりは、怒りを鎮めるよりもむしろ、胸の奥の痛みを鮮やかにした。
「じかんがないよ」
少年は低く告げた。
「時間……?」
××が問い返すと、少年は彼の胸の中心――心臓を指差した。
「こわれてしまうまえに、いそいで」
その声が、ふっと途切れる。
次の瞬間、まるで何者かに隔てられたかのように、二人の距離が遠ざかっていった。
揺れる視界、崩れていく足元。
声を届けようと口を開いても、もう音が出ない。
最後に見えたのは、遠ざかる少年が黒く燃え上がる姿だった。
◇
「目が覚めたかしら?」
柔らかな声が、遠くから水面に落ちる雫のように響いた。
額を、何か細いものが掠める。ひやりとした感触に、身体がびくりと震えた。
「あら、まだ起き上がらないほうが良いわよ。表は繋いだけれど……中の方がかなり……」
声の主は楽しげにも聞こえ、同時に、深い憂いを含んでいるようでもあった。
視界は霞んでいる。何か薄い膜を通して外の世界を覗いているようで、輪郭は曖昧だった。薄ぼんやりと見える姿は女のもので、ふわりと漂ってきたのは甘く、酸味を含んだ夏の果実の香り。
「良かったわ、間に合って」
窓らしきものが片方だけ開かれており、そこから入り込む風が頬の熱を撫でる。
ひどく乾いた喉がその冷たさを貪欲に求めた。
「これで借りは帳消しよ」
声は軽やかだが、その裏に何かを秘めているような響きがあった。
ここがどこなのか、この香りが誰のものなのか、思考は霧の中でまとまらない。
身体の奥に鈍い痛みが走る。指先一つ動かそうとしても、まるで他人の身体のように重く、言うことをきかない。
息を吸うだけで胸が焼ける。
「暫く休むといいわ。そのズタズタな中身が回復したら……お話ししましょう」
耳元でそっと囁かれ、まぶたが再び重くなる。
意識が暗い底へ引きずり込まれていく直前、どこかで嗅いだ香りだけがしつこく鼻先に残った。
完結
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