仁の朝は、片燕の誰よりも早い。まだ薄暗い空の下、寝起きの空気をかき分けるように身支度を整えると、宗主である獅宇が目を覚ます時間に合わせ、静かにその寝室の前で待つ。それが、弟子としての仁の日課であり、自然と身についてしまった習慣だった。
朝食の準備にも余念がない。湯気を立てる炊き立ての白米を艶やかに盛り付け、全員に行き渡るよう分量を調整する。そして、年下の弟子たちに配膳を任せた後は、自分にとって最大の課題に取り掛かる。
それは、一番弟子である林琳を探し出すことだった。
「どうせ、また朱禍に振り回されて朝方戻ったんだろうな……」
仁は苦笑しながら拠点内を探し回る。演舞場、蔵書閣、花園、裏山、洞窟……片燕の広大な敷地には隠れられる場所がいくらでもある。それでも林琳の姿が見つからないと、仁はふと立ち止まり、眉をひそめた。
「もしかして、まだ帰ってきていないのか……?」
不安を抱えたまま、仁は宗主のもとへと急ぐ。
「師匠、師兄の居場所をご存知でしょうか?」
「林琳ですか? 朝からずっと花園にいますよ」
獅宇の答えに仁は首を傾げる。
「花園……? でも、朝に見たときには誰もいませんでした」
「ふふふ、あそこをよく見てごらんなさい」
獅宇が指差した先に目を凝らすと、純白の花園の一角、小さな亭の中で白い塊のようなものがもぞもぞと動いている。
「あれは……師兄?」
仁は驚きつつも小走りで花園に向かい、声をかける。
「師兄!」
林琳が慌てて顔を上げる。目の下には疲労の影が色濃く刻まれているが、その手は泥だらけになりながら花壇の世話を続けていた。
「ちょ、そこ踏むな!」
仁が花壇に足を踏み入れようとした瞬間、林琳が素早く飛び上がり、彼の肩を押し返した。その勢いで仁は尻餅をつき、林琳は自然と仁の上に覆いかぶさる形になる。
「足元を見ろ、馬鹿!」
あと一歩遅ければ、林琳が丹精込めて植えたばかりの黒い花が潰れてしまうところだった。
「昨日まで花壇なんてなかったのに……」
仁がぼんやりとした顔でつぶやくと、林琳は泥に塗れた手で彼の頬を摘み、眉間にしわを寄せた。
「師兄、朝餉は? 他の者は済ませたけど、師兄の分は厨房に残してあるよ。冷める前に食べて」
「別にいい」
「でも」
「朱禍にたらふく食わされた。これ以上胃に物を入れたら確実に死ぬ」
そう言うと、林琳は欠伸を漏らし、仁の上で力を抜いた。
「くそ……眠い。眠すぎる……」
彼の頭がかくん、かくんと揺れる様子に仁はため息をつきながら心の中で数を数える。一、二、三——ついにぷつん、と糸が切れたように林琳は仁の胸に倒れ込み、「ぐぅ」と寝息を立て始めた。
仁が林琳の背中を優しく撫でていると、背後から音もなく獅宇が現れ、静かにしゃがみ込む。
獅宇の手が林琳の朱色の髪をそっと撫でる。微笑むその表情に、すべてを把握していたことが伺える。
「この様子だと半日は起きないはずです。目を覚ました時にお粥でも出してあげて下さい」
仁はひとつ頷くと器用に林琳を抱き上げて自室まで運んだ。不規則に揺れる揺籠に居心地が悪く唸るが仕方が無い。
林琳は獅宇の予想通り、陽が傾くまでぐっすりと眠り続けた。静かな寝息を立てながら眠り続けるその姿に、仁は一度ため息をつくと、部屋を出て花園へと足を運んだ。
この花園はもともと獅宇が林琳に贈ったものだ。だが、手入れの大半を担っているのは仁や他の弟子たち。林琳も最初は張り切っていたが、どうにも向いていないのか、手を加えると不思議と花が枯れてしまった。それ以来、彼はほとんど関わらなくなった。
だが今、目の前には黒い花が堂々と咲き誇っている。林琳が不器用に植え替えたものとは思えないほど、たくましく息づいていた。
「なんの花だろう……」
仁がしゃがみ込み、黒い花弁をじっと見つめていると、背後からふわりと紺色の衣が揺れた。
「ただの花じゃないよ」
振り返ると、朱禍がにやりと笑いながら花弁を指先でなぞる。その仕草はどこか優雅で、それでいていたずらっぽい。
「これは薬草の一つだ。黒い花弁を擦り潰して香に混ぜて燃やせば、悪夢さえも消し去ってくれる」
朱禍は指先に付いた花粉をふっと吹き飛ばす。
「悪夢……?」
仁は首をかしげた。その響きに、なぜか胸がざわつく。
「そう。毒の耐性がある者でも、この粉を吸えば深い眠りに落ちる。それほど強力なものだよ」
——でも、なんで林琳がこんな花を……?
ふと胸に浮かぶ疑問に、仁の表情が曇る。もしかして林琳は、何かに苦しんでいるのだろうか。
「ただね、この白い花弁を一緒に燃やすと話は変わる」
朱禍は目線を移し、花壇を覆う真っ白な花々を指差した。
「幸福だと感じた記憶を呼び起こし、夢に映し出すことができるんだ。害もなく、安心して使えるよ」
その説明を聞き、仁の視線が再び黒い花へと戻る。
「……やけに急いでいた理由がこれだったのか」
朱禍がぽつりと漏らしたその時、低い音がぐぅっと響いた。
「たらふく食べたんじゃないのか?」
「ううん? 食べてないよ」
「え?」
仁の驚きに、朱禍は苦笑いを浮かべた。
「だって林琳、私を置いて転送陣で真っ直ぐ帰ろうとしたんだよ。それに朝方じゃどこも開いてなくてさ……お腹空いたなぁ」
疲労を抱えながら、苗を大事そうに抱えて戻った林琳。自室にも戻らず、真っ先にこの花壇を作ろうとした姿が目に浮かぶ。
「君には記憶がないだろう? 林琳は、夢の中なら君が……忘れてしまった誰かを思い出せるかもしれないと思ったんだよ」
朱禍の穏やかな言葉が、静かに心に染みる。
「まったく、獅宇にそっくりなお人好しだよね」
彼は立ち上がり、仁の頭を軽く撫でた。
「さぁて。私は獅宇とお茶でも楽しもうかな」
彼の声が遠ざかると、仁は一人、花壇を見つめてそっと息をついた。
林琳は焦っているのだろう。それを仁は感じ取っていた。
記憶を失ったまま成長してしまった自分に対し、林琳がどれほど気を揉んでいるか——仁には痛いほどわかっていた。それでも林琳はいつも無愛想な顔をして、不器用に手を差し伸べる。
「師兄は、本当に馬鹿だよなぁ……俺の家族は、ここにいるのに」
仁は勢いよく立ち上がり、倉庫に行くことにした。手頃な木の板と馬糞の混じった栄養満点の肥料を肩に乗せて、その瞳に闘志を燃やす。
兎にも角にも、この花を守らねばならない。
——不器用な師兄の世話から、何としてでも!
◆
そうだ、結局、あの日見た夢は——。
腕の中が、柔らかな温もりで満たされている。
仁はその感触を失わないように、そっと包み込む。ほんのりとした体温が指先を通して伝わり、そのたびに胸の奥がじんわりと暖かくなるようだった。喉をくつくつと鳴らして小さく笑うと、その音すらも温もりの中に溶け込むようだった。
外では、雪が静かに降り続いている。一面の銀世界が窓の向こうに広がり、風の音さえも聞こえない。部屋の中では火鉢がじゅうじゅうと小さく燃え、ほんのりと赤い光が二人の影を壁に映し出している。それでも冬の寒さは完全には追い払えず、微かに肌寒さが残っていた。
そんな中で、仁の腕の中にいる彼はとてもか弱く見えた。寒さにも暑さにも弱いその体は、かすかに揺れる炎よりも儚げだ。彼は微かに身動ぎすると、うっすらと目を開けた。
「……林琳」
昔に比べて幾分か良くなった顔色。眉間の皺はなくなり、目尻は僅かに緩んでいる。けれど、どこか無防備で幼げなその顔は、未だに心配を手放せない。
寝苦しそうに手探りで枕を抱き寄せるその仕草を見て、仁は小さく問いかける。
「嫌な夢でも見たか?」
返事をしようとする林琳が、少しだけ目を細めて仁を見た。その顔には、どこか眠気を隠し切れない曖昧な表情が浮かんでいる。
「……さぁな」
静かな声が返ってきた後、林琳は小さく息を吐いた。そして少し考えるように間を置きながら、ぽつりと続ける。
「ただ……悪い夢じゃなかった」
寝惚けた目を擦るその姿に、仁の心がじんわりと満たされていく。林琳がもう一度布団に潜り込む姿は、どこか子どもっぽく、けれど愛おしい。布団にくるまった彼の顔には、安らぎに満ちた微笑みがほんの僅かに浮かんでいた。
火鉢からぱちりと音が響く。炭が弾けるその音が、部屋の静けさの中に柔らかく溶け込む。
——この世で一番暖かい、大切な記憶へ。
仁はそっと息をついた。その音すらも静かに吸い込まれるこの部屋の中で、彼は自分の腕の中の温もりを確かめるように抱きしめる。
「……ああ、悪い夢じゃないなら、それでいい」
どこか言い聞かせるように呟くと、仁もまた、ゆっくりと目を閉じた。
外の雪が降り続ける中、仁は林琳を抱きしめながら、温もりの中で夢の世界へと散歩に出かけた。

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