絵
第九章 潜影編より抜粋

――いいの?
一瞬、耳の奥で子供のような高さの声が響き、反射的に瞬きをひとつして意識を引き戻すが、伸ばした手は止まらず、そのまま血に濡れた手を掴んだ。
温かい。生きている温度がそのまま指先に伝わり、血で滑るはずの感触の中でも指はしっかり絡み、その近さに肩がわずかに強張ると同時に、胸の奥で何かがほどけかける。
縋れば楽になる――そんな考えが一瞬だけ浮かび、喉の奥で小さく笑いが漏れた。
――何を考えてる。
自嘲するように鼻で笑い、指先に込める力をわずかに強めたあと、そのまま手を振り払うように離す。
温度が離れ、それに引きずられるように胸の奥も固まり、さっきまで触れていた感触だけが妙に残る。
「……手当を」
ぶっきらぼうに言って視線を逸らし、そのまま立ち上がって背を向ける。目を合わせれば何かを受け取ってしまいそうで、距離を取るように足を踏み出した。
「倉庫は俺が片付けとく。このままだとちょっとした事件現場だしね」
床に広がる赤黒い染みを顎で示しながら、無理に口元を持ち上げて笑い、布切れを拾ってしゃがみ込むと、必要以上の力でごしごしと血を擦り始める。
染みは簡単には消えず、擦るたびに赤が広がる。その色を見ていると、さっきまで触れていた体温が頭から離れず、無意識に布を強く押しつけた。
「誓いだの何だの言って、いきなり自分を切るとか……お前、ほんと頭おかしい」
軽口の形を取っていても、言葉の端は僅かに硬いまま、手は止まらずに床を擦り続ける。
「……ここでは、何も、なかった」
手を伸ばしかけたことも、受け入れかけた一瞬も、全部なかったことにするように呟き、さらに布を押しつける。
――お前に赦される資格はない。
胸の奥に冷たい線が引かれ、その感覚に合わせるように背筋がわずかに強張るが、背後の気配には振り返らない。
「さっさと行けよ。血、止めないと倒れるよ」
踏み込ませないための声であり、自分からも踏み込まないための声でもあった。
足音が一歩遠ざかるのを聞きながら、林琳は布を握りしめたまま、誰にも届かないような小さな声で呟く。
「……ほんと、笑える」
乾いた声だったが、離したはずの温度がまだ指先に残っていることには、気づかないふりをした。

























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