崇拝する人の未来を変えるために死にまくる救いのない話。
※シリアス/メリバ※
頒布元
①【BOOTH】 https://nobodynanimono.booth.pm/items/6372164
②【pictSPACE-ONE】
◆◇◆◇
人の世は平等にはなり得ない。
遥か昔に唱えたのは、この世界を収めていた——最初で最後となる神である。
神と呼ばれていたが、姿は人間そのもので、四季を運び、人の世に関与して来ないソレに人々は慈しみを込めて主と呼んだ。いかんせんこの主、群を抜いての飽き性である。自然が牙を剥き、穀物が枯れ果て、国が滅びてもお構いなしにどこかで静観している。ソレが当たり前だと気にも留めない。つまり、戦が起きようと知らぬ顔である。そうして滅びた国は数多と知れず。人の世に関与しない、あくまでも主は人が生きる世界を創造しただけであり、滅びようがどうでもいいのだろう。人が知る由もない、戯れだ。
広大な世界で唯一地上から伸びる巨大な塔。万が一塔が倒れればこの世界は滅ぶだろう、そう思える程の巨大な塔だ。人の手で作るにも無理がある。幾ら見上げようとも頂上が見えず、また、雲を突き抜けた先にある国に名は無い。地上で裁きを下さずに主に裁きを問う為に創られた法廷。
今宵も人々は問う「何が善か悪か」
主は溢す「等しいのは善と悪のみ」
被告人は答える「この世に神など存在しない」と。
瞬間、神は世界を飽きた玩具を捨てるように、人間と悍ましい怪奇を残して消えた。
序章 ◆おわりのはじまり◆
「ほら、沢山お食べ」
「わぁー! ありがとう、女将!」
「いいんだよ。お前さんを見ていると、お節介を焼きたくなっちまうし。行く宛がないなら、好きなだけここにいなさい」
幼い頃に親を亡くし、食べることさえままならなかったあの日々から、必死に生きてきた。乞食として命を繋ぎ、清く正しい道を歩こうとする。
それが夢霧だ。
その哀れな子供が今、こうして温かな食事を手にしている。
「でも、返せるものが……」
「こうやって店の手伝いをしてくれるだけで十分助かっているよ」
女将は優しく微笑んだ。
彼は質素ではあるが、手間をかけた料理を口に運びながら思う。
——全くもって、とんだ茶番だ。
賑わいを見せる城下町で、ひっそりと構えたこの食事処へ訪れるのは、常連客か、道に迷った旅人くらいだ。ここで過ごしてかれこれ一年。劉鳴国という国に滞在しているが、目立った事件はなく、退屈な日々が続いている。
大きな戦に敗れ、悲惨な状況から立ち直ることができた劉鳴国。復興に尽力したのは、夢天理という人物の支援があったからだと、誰もが知っている。しかし、その栄光の裏には、誰も語ろうとしない暗い歴史が横たわっているのだ。
それでも、夢霧にとってこの国はどこか奇妙に感じる。再建された活気に満ちた町の中に、ひとつだけ静かな、重苦しい空気が漂っている。そんな不安を感じながら、夢霧は今もこの国に身を置いているのだ。
「そうだ、夢霧。遣いを頼まれてくれないかい?」
「うん、いいよ! どこまで行けばいい?」
「高冥城の蔵書閣に、この本を返してきてほしいんだ。この札を持っていけば、通してくれるはずだよ」
女将から渡された古い札と一冊の書を受け取り、夢霧は大きく頷いた。
「勿論! 今日はお客さんも少ないし、今から行ってくるね」
「ありがとう。気をつけてね」
食堂を飛び出した夢霧は、裏道を幾つか越えて、目的地の蔵書閣へと向かう。道中、ふと手に取った書を開くと、そこには時系列に沿った歴史が記されていた。巷に出回るような簡単な歴史書だ。しかし、夢霧はそれに興味を持つことはなかった。
「神子の御霊ねぇ……」
鼻で笑いながら、彼は黄ばんだ紙をめくる。
「もっと現実的なものを信じた方がいいのに」
そんな言葉を呟きながらも、何の気なしに蔵書閣に足を踏み入れた夢霧は、すぐに目的の棚を見つけ、簡単に本を返却した。そのまま暇を潰すつもりで、古い書物を物色し始める。彼が目をつけたのは、古びた背表紙や一見すると不釣り合いな巻物だ。
「うっわ、こんな場所に系図なんて置いてるし……」
思わず呟いた言葉は、少し驚きとともに漏れた。系図は普通なら王族や貴族の手に渡るべき重要な情報だ。どこかから持ち込まれたに違いないその巻物を、夢霧はそっと戻し、誰も近寄らない場所へと押し込んだ。
次に彼が手に取ったのは、一枚の薄い紙だった。それは蔵書閣に備え付けてある覚書用のもので、隣にあった筆を滑らせる。書き記されたのは短い一言だ。何気なくその紙を近くの書物に挟み込んだが、その行動には一抹の悪戯心が隠れていた。
——次にこの巻物を手にする者は、どうするかな。
悪用するのか、それとも見て見ぬふりをするのか。そんなことを考えながら、彼はその場を離れた。
その時、ふいに声がかかった。
「夢霧じゃないか。蔵書閣に何の用だ? 文字の読み書きが出来ないって言ってたのに……」
「うん、相変わらず読めないし書けないよ。今日は女将のお遣いでさ」
「あー、そうか。女将、最近腰を痛めたばかりだったもんな」
声をかけてきたのは常連客の青年だ。彼は両手に本を山ほど抱えている。
「お前は頭もいいし、すぐに覚えられるだろう。本当に勿体ないな」
「必要になったら、女将にでも頼んで教えてもらうよ」
青年とのやりとりは、気心の知れた間柄だからこそ成り立っている軽口だった。だが、その言葉に夢霧は少しだけ、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。彼がどれほど努力しても、社会の中で自分を完全に受け入れてくれる人は少ない。それでも、青年は彼に対して、何の違和感もなく接してくれていた。
二人は軽い冗談を交わしながら、同じ道を歩き続ける。やがて青年が言った。
「二年後に試験がある。受けてみないか?」
「えー、無理無理! 読み書きもできないし、育ちも良くない。生まれも不明ってなったら、それこそ劉鳴国から摘まみ出されちゃうって」
「だが……っと、すまない」
突然、人混みに揉まれた青年が周りに注意を向ける。誰かにぶつかったのだろう。夢霧も無意識に立ち止まり、周囲に目を向けた。
「夢霧……? どうかしたか?」
青年が夢霧の肩を軽く叩いたその時、夢霧は足を止め、目を見開いていた。目の前に、異様な雰囲気を放つ人物が現れたからだ。身体中を駆け巡る激しい動悸、息が詰まるような感覚に、夢霧の視界は次第に色を失っていく。
一 ◆ いきをひそめて ◆
「名は?」
「夢霧って呼んでください、かみさま!」
「何度も言っているが、その呼び方はやめろ。俺は神ではない」
男の声は低く静かだが、その冷淡さに僅かな苛立ちが滲む。「かみさま」という言葉だけが、どうにも舌足らずに響くのが耳に引っかかる。
「いいえ。あのとき君を見た瞬間に感じました! 君は私のかみさまです!」
夢霧は柔らかそうな頬に両手を当て、腰をくねらせながら片目を瞑る。何とも奇妙な仕草に、男は思わず後退りした。星が飛び散りそうな勢いで迫るその姿には、どこか狂気じみたものさえ感じる。
「家に戻れ、小僧」
「えーん、えーん、戻る家なんてないよぉー!」
わざとらしい泣き声に、男の眉間がさらに深く皺を刻む。無言でその場を離れようとするが、背後から夢霧の声が追いかけてくる。
「身内が探しに来るぞ」
「探しになんて来ないよー! だから私と一緒に遊ぼう!」
「俺にはやるべきことがある。お前に構っている暇はない」
「私も手伝うよぅ……」
「よせ、大の男がだらしない」
そう言いながらも、男の持つ白銀の髪は、月光に照らされ絹のように輝いていた。仙人と呼ぶにふさわしい美しさがある。しかし、顔から首筋にかけて広がる痛々しい火傷の痕だけが、その神秘を壊すように浮き立って見える。幸いにも、彼の視線はしっかりと夢霧を捉えていた——運よく失明までは免れたらしい。
だが、何を言ってもこの相手には無駄だ。夢霧は男の言葉をまるで意に介さない。
「ね、私って凄い役に立つと思うよ!」
夢霧は無造作に切りそろえられた髪を揺らし、いたずらっぽく笑う。その身体は小柄で、細く、見るからにひ弱だ。もしも力でねじ伏せられたら、一瞬で終わるだろう。
「行く道は険しい。お前に耐えられるとは思えない」
鋭い言葉にも、夢霧は怯むどころか、じっと男を見つめてくる。その瞳には、どこか決意めいた光が宿っている。
「自分の身は自分で守るし……行く宛てがないんだ」
小さく肩を落とし、眉を下げながら懇願する夢霧。その姿に、男は思わず溜息を吐き、面倒くさそうに踵を返した。
「雲嵐と呼べ」
「ありがとう、かみさま!」
「話を聞いていたか?」
そう呟きながら、雲嵐は歩みを進める。これまで独りで旅をしてきた彼にとって、夢霧は初めての同行者だった。その明るさは鬱陶しい小鳥の囀りのようでありながら、不思議と嫌いではなかった。
しかし、この小鳥は意外にも役に立つ存在だった。
野兎を捕まえる手際は見事なもので、賊にも怯まず、村人たちにはすぐに溶け込む。見た目とは裏腹に、腕っぷしも確かで、どこの村でも別れを惜しまれた。そのたびに夢霧は朗らかに笑いながら手を振るのだ。
「ねぇねぇ、かみさま。かみさまはどこに向かうの?」
「……着けばわかる」
幾月も経つうちに、雲嵐は「かみさま」という呼び名にも慣れてしまった。荷台の上で駄々をこねる夢霧を横目に、彼は村人からもらった書物を読み進める。
それはおとぎ話のような簡素な本だったが、雲嵐にとっては久しぶりの静かな時間だった。隣で騒がしかった夢霧も、やがて藁の上に寝転がり、静かにその時間を共有する術を覚えたようだ。
乾いた風が運ぶ草の匂いと、荷台の揺れる音が心地よい。古びた紙を捲る音が小さく響くたびに、雲嵐の心に小さな安らぎが広がる。
「なに、面白いことでもあったの?」
「……いや、ただ平和だと思っただけだ」
「ふーん」
「不満か?」
「べっつにー」
夢霧が口を尖らせる様子に、雲嵐は思わず目を細めた。その無邪気さが、いつしか旅の風景の一部になっていることに気づく。
「もう半年だ。お前は他にやることがないのか」
「かみさまのお手伝いをすることぐらいかな!」
夢霧の笑顔は陽の光のように明るい。それを見た雲嵐は、ふと目を逸らすように視線を遠くへ向けた。
「くだらん」
雲嵐の返事は短い。冷たい響きに夢霧は口元を緩めるだけで、それ以上は追及しない。
「次はどこに行くの? こんな辺境の地に来て……まさか、お宝探し?」
その視線の先にそびえるのは緑永峰の入口だ。緑に覆われた山塊は、頂をすっかり雲に隠している。世界最高峰と称されるその山は、近寄るだけでも威圧感を放つ存在だ。
「暫く宿を取る」
雲嵐はそう言いながら、緑永峰の陰に隠れるようにして広がる街を指さした。
「あそこが唯一の宿場町だ。国ではなく、大きな街として栄えている」
「へぇー!」
夢霧は荷物の中から望遠鏡を取り出し、街の様子を覗き込む。見渡す限り人で溢れており、屋台や店が所狭しと並んでいる。普段、人混みを嫌う雲嵐がこの街を目指した理由が気になったが、夢霧は黙ってその後を追う。
「……行くぞ」
「はぁーい」
夢霧の間延びした返事に、雲嵐は微かに眉をしかめたが、すぐに足を速める。
宴燐門と呼ばれる巨大な門を潜り抜けた途端、空気が変わった。重々しい湿気が漂い、鼻腔をつく異様な匂いが混じる。遠目に見た賑やかさとは裏腹に、どこか陰気な雰囲気が街を包んでいた。
そんな中、人だかりができている場所が一つある。そこへ向かって雲嵐が足を止めると、夢霧は首を傾げながらキョロキョロと辺りを見回す。
「ねぇねぇ、かみさま。これはなぁに?」
「緑永峰に入るには試練を乗り越える必要がある。四月一日にだけ試練の扉が開かれ、与えられた試練をクリアした者だけが入山を許される」
「へぇ! 頑張らなくちゃね!」
夢霧の声は明るいが、雲嵐の表情は曇っている。その瞳には僅かな緊張と迷いが浮かび、どこか遠くを見つめていた。
「次!」
威圧感のある声が響き、人の列が少しずつ進む。雲嵐と夢霧もその流れに従って進み、やがて受付に辿り着いた。
受付には机が一つだけ置かれ、その上には名簿が幾冊も積まれている。すでに何人もの挑戦者が試練への登録を済ませているようだ。
二人が名を記すと、帳簿が突然浮き上がり、淡い光を放ち始めた。その光景を夢霧は興味津々で眺める。
「夢霧、雲嵐……試練への挑戦を認める!」
試験官がそう告げると同時に、後ろの列から怒声が飛んだ。
「ずるいぞ! 俺たちが失格で、なぜこいつらが許されるんだ!」
怒りに燃える男の言葉に、夢霧は肩をすくめながら小さく笑う。
「心力の差だよ。君たちは……下の下って感じだから、この道具が何かも知らないんでしょ?」
夢霧が指さしたのは、先ほど光を放っていた帳簿だ。それは墟狼衆が生み出した簡易的な心力計測器である。知識があれば一目でわかるはずだが、男たちはそれを理解していない様子だった。
「修行が足りないね。それじゃあ、試練に挑んでも死ぬだけだよ」
「っな……!」
「お優しい試験官じゃないか。君たちの命を救ったんだから!」
挑発的な夢霧の言葉に怒りが爆発した男が掴みかかろうとした瞬間、雲嵐が素早く動いた。その腕を捻り上げ、足を払って地面に叩きつける。
地面に転がった男の姿に、周囲の野次馬が笑い声を上げた。夢霧も得意げな顔でにやにやと笑うが、雲嵐は彼の頭を軽く小突くと、静かにその場を後にした。
試練の開始は三日後——卯の刻だ。
それまでの間、この巨大な宿場町での休息と散策が彼らの短い楽しみになるだろう。
*****
「見て、今夜は天燈上げができるみたいだよ! 一緒にやろうよ!」
「興味がない」
「酷すぎる!」
夢霧がぷりぷりと頬を膨らませる横で、雲嵐は人混みを眺めながら焼き鳥を頬張っていた。見かけによらず大食漢の彼は先程まで山のような饅頭を平らげていたのにも関わらず、隣にはこんがりと揚がった魚が控えている。
観光客で賑わう広場には、たくさんの天燈が飾られ、今にも空へ放たれようとしている。しかし、二人が天燈上げに参加することは結局叶わなかった。
代わりに、手にした酒をゆっくりと傾ける雲嵐の表情には珍しく穏やかな色が浮かんでいる。その姿を見て、夢霧も自然と上機嫌になっていた。
「君がいると、私は空を飛べる気がするんです」
突如として夢霧が静かに呟く。その声には普段の軽さやふざけた調子が感じられず、雲嵐は思わず眉をひそめた。
「あの天燈に負けないぐらい、ずっと高く」
夢霧は空へ手を伸ばし、その指の隙間から満月と揺れる天燈を覗く。その横顔はどこか遠くを見つめるようで、雲嵐の胸に一瞬、不思議な感覚を呼び起こした。
「どこまでも……君と歩んでいきたい」
その言葉に雲嵐は答えず、ただ静かに彼の横顔を見つめる。目の前を一つの天燈がふわりと通り過ぎた。その揺れる光が夢霧の表情に影を落とす。
「嗚呼、ほら、綺麗ですね」
夢霧のいつもの砕けた言葉遣いではない、不思議な響きを持つ声。雲嵐はそれをどう受け取ればいいのか、わからなかった。
「かみさま」と呼ばれることには慣れた。だが、こうして慈悲に満ちた言葉を向けられるたびに戸惑いを隠せない。彼が己に向けるその感情が何なのか、雲嵐にはまだ掴みきれない。触れたと思えば、すり抜けていく。まるで、瞬く間に咲き散る儚い花のように。
「こんなにも心力が穏やかなのは初めてなんです。制御することはできても、荒波が静まったことは一度もありませんでした。でも、君と一緒にいると……こんなにも心が穏やかで、この時を手放したくないと願ってしまいます」
「……飲み過ぎだ」
雲嵐が眉を寄せると、夢霧は自嘲気味に笑った。
「そうかもしれません。だって君が私みたいな存在に微笑むなんて——ありえないのだから」
その言葉に、雲嵐は何かを言いかけたが、思いとどまる。夢霧はふらりと視線を月に向け、続けた。
「きっとこれは錯覚なのでしょう。でも、とてもいい夢です。まるで、あの時に戻ったみたいだ」
どこか遠い記憶を懐かしむようなその声に、雲嵐の胸が僅かにざわめいた。
「君は美しい人。私の汚れた手を握り返してくれる慈悲に満ち溢れたかみさま」
言葉は深く、どこか重い。ずっと昔から雲嵐のことを知っているとでも言うような響きだった。
「おい、お前……出身はどこだ」
雲嵐の問いに、夢霧は瞼を閉じて、小さな笑みを浮かべる。
「秘密です。それだけは、秘密なんです」
そう静かに嘘を吐く。その言い方に、雲嵐は胸の奥にある得体の知れない違和感を覚えた。
「お前は俺を知っているのに、俺がお前を知らないのは不平等だろう」
「あはっ……うん、そう言われればそうですね……。じゃあ、三つだけ、真実を答えます。どうですか?」
夢霧はにひひ、と笑い、悪戯っぽく身を乗り出す。その顔を見て、雲嵐はほんの少しだけ考え込み、やがて頷いた。
「夢天理の人間か?」
「はい!」
即答だが、その明るさの裏にある何かを感じた雲嵐は、続けざまに問いを投げた。
「俺を殺せと指示を受けたか?」
「いいえ!」
予想通りの答えだったが、全てを明かしているとは限らない。雲嵐は慎重に考えを巡らせ、最後の問いを投げた。
「……俺と会ったことがあるか?」
「……はい」
夢霧が目を伏せて首を傾げる。その動きに合わせて巻かれた包帯が僅かに揺れた。雲嵐の目は、包帯の純白さに吸い寄せられるように留まる。その白さが、胸に染み付いた違和感をじわりと刺激した。
どこか——記憶の底で似た白を見たことがある。
緑永峰に向かう途中で、雲嵐はある集落に立ち寄った。そこで耳にしたのは、行方不明者が相次ぐ怪奇の噂だった。集落を訪れた雲嵐の目に最初に飛び込んできたのは、集落の大樹に絡むように揺れていた薄汚れた布だ。
「一年前、この木で花嫁が首を吊って死んだんです」
話を聞いた住民の言葉に、雲嵐は僅かに眉をひそめた。
花嫁は許嫁との婚姻を控え、幸せな日々を送っていたという。しかし、許嫁はろくでもない人間だった。不倫を重ね、挙句には他の女との間に子供を作る始末。その事実を知った花嫁は激怒し、相手の女と子供を殺害した後、自ら命を絶ったという。
彼女が使っていたという豪華な姿見は、唯一の遺品として供養されていたが、ある日忽然と消えた。それ以降、集落では夜な夜な不気味な影が彷徨うようになったという。
住民たちは怯え、ついには得体の知れない旅人であった雲嵐に調査を依頼することになった。
「二日前にも、似たような男が来ましたよ。亀裂の入った狐の面をつけた男です。あの男はこの大樹を調べて、それから……ふらりと消えたんです」
「どこに行った?」
「さぁ……気が付いたらいなかった。たぶん、あそこの洞穴じゃないですか」
青年が指し示した先には、ぽっかりと大口を開けた黒い洞穴があった。
「あまり近寄らない方がいいですよ。あそこには、神がいるからね」
青年は声を潜めた。
「夜になると火の玉が現れるんです。眠れる神を守る使いだとか……それに、取りつかれるなんて噂もあります。不気味な影ってのは火の玉に取りつかれた死者なんだ、とか」
雲嵐は青年の言葉を静かに聞き流しながら、洞穴へ向かうことを決めた。
「不気味な影の正体さえわかれば、住民も怯えずに済む。大した礼はできないが……頼みます」
青年の声を背に、雲嵐は伸びきった雑草をかき分けて進む。
ぽつんと置かれた石碑が彼を出迎えた。それにはべったりと怪奇の痕跡が付着している。
どこを歩いても、丘の上にそびえる大樹の姿が目に入る。集落を一望できるその場所を選んで命を絶った花嫁の心情を思うと、胸に鈍い痛みが走る。だが、今はそれよりも怪奇を祓うことが優先だった。
洞穴に到着する頃には、空はすっかり赤く染まり、夕陽が洞穴の入口を照らしている。足を踏み入れると、雲嵐の目に飛び込んできたのは壁一面に描かれた鮮やかな絵だった。
桃源郷を思わせる風景、天女や仙人、神々に跪く人々。その中でも、特に目を引いたのは中央に描かれた巨大な壁画だった。それは圧倒的な存在感で洞穴の空間を支配していた。
「……誰かいるのか」
雲嵐が呼びかけると、洞穴の奥に漂う青白い灯りが微かに揺れた。その灯りの向こうに、亀裂の入った狐の面をつけた男の姿が浮かび上がる。
男は小柄で、藍と黒が混じった髪が不揃いに切られている。毛先は傷んでおり、ひ弱な印象を与えた。
二人の間に沈黙が落ちる。男は雲嵐を一瞥すると、再び壁画に視線を戻した。
壁画の中には、一人の神が描かれていた。頭頂には花の冠、長く靡く髪には簪が幾つも挿されている。その肩には二羽の小鳥が止まり、伏せられた瞳からは涙が伝い落ちていた。
「君はなぜここに?」
静かに問いかける男に、雲嵐は神妙な面持ちで返す言葉を探す。
「怪奇がいたはずだが……お前が祓ったのか」
「はい」
洞窟に潜んでいたであろう、怪奇の気配は消滅している。
「……あそこをご覧ください」
男が指し示したのは、神の足元だった。雲嵐が符で光を灯すと、細い足首に巻かれた白い包帯が浮かび上がった。包帯はまるで命を持つかのように靡き、どこかへと絡みついている。その先を追うと、それは洞窟の奥底まで繋がっていた。
「ずっと縛られているのです」
男がそっと壁画に触れると、雲嵐の胸の奥で鈍い痛みが走った。
「かみさまは自由であるべきです。少なくとも、私は……かみさまが自由であることを望むでしょう」
「ここの信仰者か」
「いいえ。私のかみさまはたった一人ですよ」
男はそう言いながら、首元の包帯に触れ、静かに微笑む。
「たった一人、私を地獄から救い上げてくれた人です」
——欠けた穴が埋まった。
妙な既視感が一気に晴れる。雲嵐は、脳裏にちらついていた違和感がようやく形を持ったことを感じた。
夢霧は、追及の言葉を紡ごうとする雲嵐の口元に静かに指を当てた。その動きには、どこか悲しみと諦めが混じっているように見えた。
「おしまいです、かみさま」
包帯に縁取られた首元が、どこか白く輝いて見えたのは、月の光のせいだろうか。
夢霧は静かに立ち上がると、旅先では珍しいほどの真剣な声で言葉を続けた。
「調べたいことがあるので、少し外します。かみさまは早く宿に戻って休んでください」
そう言い終わると、振り返ることなく人混みに溶け込んでいった。
盛り上がり続ける祭りの喧騒が、彼の後ろ姿を呑み込んでいく。雲嵐は、何かを追いかけるべきか迷ったが、結局、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
*****
「はぁーあ、口が滑っちゃった」
夢霧は、人気のない路地にたどり着くと、肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
祭りの明かりがぼんやりと届く場所で、夢霧は壁にもたれるようにして座り込む。浮かれて賑わう人々の声が、まるで別世界の出来事のように遠く聞こえた。
「……確かに、気づいてくれたらいいな、なんて思ってたけどさ」
夢霧は、疲れたような微笑みを浮かべながら独りごちる。その瞳には、どこか後悔と諦めが混じっていた。
思い返すのは、旅が始まる前のことだ。夢霧が雲嵐を知ったのは、夢天理に属する者としては自然な流れだった。
夢天理——表向きは人々を守り導く組織だが、裏では「悉」という名の暗殺部隊を抱えている。夢霧は、その「悉」に所属していた。
雲嵐の名は夢天理でも広く知られていた。国師として民を救った彼は、まるで伝説のような存在だった。一方で、彼には「疫病神」という異名も付いていた。
そんな彼が愛した国が滅びたのは数年前のことだ。長く優勢だった戦況が一瞬でひっくり返り、国はあっけなく崩壊した。
夢霧は、その調査のために現地へ派遣された。だが、現地で待っていたのは、「生存者は一人もいない」という報告だけだった。
それでも——夢霧は感じ取った。
その場に満ちる強烈な心力、そして不可解な痕跡。それらは、夢天理が見落とすはずのないものであり、あえて「見なかったことにしている」ことが明らかだった。
だが、夢霧にとって、それを追及する意味はなかった。
「……ただ、生きてるって知れたら、それでよかったんだよな」
夢霧は、手に触れた冷たい石壁に視線を落とした。
生きている。それだけで十分だ。それ以上も、それ以下も必要ない。
夢霧が夢天理に属することになったのは偶然だった。偶然拾われ、偶然訓練を受け、偶然「悉」に配属された。両手を血に染める仕事にも、特に不満を抱くことはなかった。淡々とこなすだけの日々。それでも——彼はいつも、どこかで雲嵐の存在を気にかけていた。
しかし、今は状況が変わった。
雲嵐が夢天理の目に留まることになれば、何が起こるかは目に見えている。一本ずつ爪を剥がされ、鞭を打たれ、冷水を浴びせられる。それ以上のことも、容易に想像がつく。夢霧は、雲嵐がそのような運命を辿ることだけは絶対に避けたかった。だからこそ、夢天理の監視から雲嵐を逃すために、悉から離れ、同行を決意した。
「やけに鬱陶しい人間がいるけど……あの人は特別だからな……」
夢霧は、そっと顔を上げた。その目に浮かぶのは、迷いと覚悟の入り混じった感情だった。
禍の男——朱禍。
そう呼ばれる夢天理の最高指揮官。
緩やかに微笑む目尻の奥には、冷徹な意思が宿る男だ。
朱禍の指揮のもと、遂行される仕事はどれも想像を絶する残酷なものばかりだった。
あの日——雲嵐の国が滅びたあの日、指揮を執っていたのは朱禍だった。
夢霧でさえ分かるほどの心力の痕跡を、朱禍が見逃すはずがない。それでも、徹底的に調べたはずの現場で、なぜか生存者の存在が伏せられた。
「……きっと、あの人は全てを知っている」
夢霧は、小さく呟いた。その声は夜風に消え、誰の耳にも届くことはなかった。
二 ◆ いきをのんで ◆
「日が沈む前に頂上へ辿り着け。お前たちに与えられる試練はたったそれだけだ」
試験官の低い声が、冷たい山風に紛れて挑戦者たちの耳に届く。その声に不釣り合いなほど、内容は単純明快だ。
しかし、この山は「ただの山」ではない。
谷間から立ち上る噴気孔、ひび割れた地面、餌を求めて徘徊する獣。さらに、挑戦者たちは感じていた。空気に混じる妙な圧迫感——それが怪奇の気配であることを、本能で理解していた。
それでも夢霧は試験官の話に興味がない様子で、木に寄りかかりながらあくびを噛み殺していた。
「……ふぁあ」
彼の気だるそうな態度は、昨夜遅くまで起きていたせいだろうか。頭上を覆う木々の葉が風に揺れるたびに、漏れ落ちる木漏れ日が彼の顔に影を落とす。
一方で、周囲の挑戦者たちは、皆一様に緊張した面持ちをしている。筋骨隆々の者や、戦場帰りのような装備をした者ばかりで、どれも戦い慣れた風貌だ。その中で、小奇麗で気負いのない雲嵐と夢霧は目立つ存在だった。
試験官が一言告げる。
「それでは、武運を祈る」
直後、大太鼓が轟音を響かせた。その音が山間に反響し、挑戦者たちは一斉に地面を蹴り出す。草木をかき分け、獣道へと消えていく彼らの姿は、まるで獲物を追いかける猛獣の群れのようだった。
しかし——二人だけはその場を動かない。
雲嵐は静かに山を見上げ、何かを感じ取るように眉を寄せる。一方、夢霧はまだ眠たげにあくびをしながら、のんびりと足を踏み出した。
「みんな元気だねぇ……走ると疲れるのに」
軽口を叩く夢霧の後ろから、雲嵐も歩き出す。
試練は単純だが簡単ではない。この山を攻略できた者は、これまで十にも満たない。
「どうしようね。祓っていたら日が沈むかもしれないよ」
夢霧が呟く。彼の声は軽いが、その言葉に隠された意味は重い。
領域と現世では時間の流れが異なる。領域に迷い込めば、数分が数年に感じられることもある。長居でもすれば、試練どころか年を超えてしまう可能性すらある。
「今回は祓うのが目的じゃない。資格を得るだけで十分だよね」
夢霧は雲嵐を振り返り、同意を求めた。その瞳には警戒と慎重さが混じる。
「だが……そう甘くはないらしい」
雲嵐は前方に転がるものを目にして足を止めた。
一つの死体——いや、半身を失った無惨な肉塊が横たわっている。
その身体からは、どくどくと血液が流れ出ており、土を黒く染めていた。
「……うえぇ」
夢霧は、顔をしかめながら鼻をつまむ。向かい風に運ばれる血の臭いが、鼻腔を強く刺激した。
「参加者は全員仕人だったはずだが……」
雲嵐が低く呟く。死体の近くには護符が散乱しており、いずれも血にまみれていた。これは怪奇の仕業ではない——人間の手によるものだ。
「刺客が紛れ込んでいるのか」
雲嵐がそう判断した瞬間、風を切る音が響いた。
——ヒュン!
飛来した鉄片を、雲嵐は即座に躱す。
「……あそこかなぁ」
夢霧は小石を蹴り上げ、それを掴むと、目にも止まらぬ速さで背後に投げつけた。
カラン、と大きな音を立てて何かが崩れ落ちる。
「怪奇だったら、こんな死体にはならないからね。ちょっと見てくる」
夢霧は血溜まりを飛び越え、短剣を片手に構えた。
刺客の反応は早かった。次々と放たれる暗殺具が夢霧を襲うが、彼はそれを短剣でいなしながら間合いを詰める。
「ただの刺客が私に敵うわけないだろ」
一瞬の隙を突き、夢霧は短剣を刺客の左太腿に深々と突き立てた。
「っな!」
刺客は怯まず反撃を試みるが、夢霧はその手を首元で制し、力強く締め上げる。そして、覆面を無造作に剥ぎ取った。
「お前……!」
夢霧の瞳に驚愕が浮かぶ。
刺客の顔一面には酷い火傷が広がり、首元には特徴的な刺青が彫られていた。それを目にした瞬間、夢霧の脳裏に過去の記憶が蘇る。
——まさか……!
夢霧が刺客に止めを刺そうとした瞬間、刺客の体から爆発的な心力が放たれた。
「疫病神が! 死ね!」
刺客の心力は暴力的な力で雲嵐に向かう。
「くっ……!」
雲嵐は心力で相殺しようとするが、衝撃波が雲嵐を吹き飛ばし、受け身を取って激しく転がる。夢霧は舌打ちし、刺客の顎を蹴り上げると同時に崖下に投げ捨てた。
「かみさま!」
夢霧は、吹き飛ばされた雲嵐の腕を掴む。
崖の縁に引っかかる雲嵐の身体は完全に脱力しており、ずしりとした重みが夢霧の全身にのしかかる。
「おっも……!」
夢霧は短剣を地面に突き刺し、足を固定すると、全力で雲嵐を引き上げた。
ピキン——嫌な音が響く。夢霧の筋肉に無理がかかり、全身が悲鳴を上げる。そして、ついに雲嵐の身体がわずかに持ち上がった。重みが少し軽くなり、崖の縁から顔が見える。夢霧はその瞬間、息をつく暇もなく、さらに力を込めて引き寄せた。手のひらが滑りそうになり、恐怖が脳裏をかすめるが、ついに雲嵐の身体が完全に崖の上へと引き上げられる。
夢霧はその瞬間、力尽きるように膝をつき、荒い息を吐いた。心臓が激しく鼓動しているが、ようやく安堵の感情が広がり始めていた。
「……使い物にならないな」
地面に突き刺した短剣の刃が折れているのを見て、夢霧は呟いた。
——かみさまの命に比べたら……あんなもの、塵同然だ。
*****
「やっと目を覚ました! 死んだかと思ったじゃないか!」
夢霧の声に、雲嵐はうっすらと目を開けた。
視界がぼやけ、少しずつ焦点が合ってくる。泥だらけの夢霧の顔が目に飛び込んできた。薄暗い山道の中で、彼の白い包帯と乱れた髪だけが妙に際立っている。
雲嵐は何度か瞬きをし、重い頭を少し動かしてみた。
後頭部がずきずきと痛む。どうやら強く打ったらしい。その痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと身体を起こそうとする。
「……試練は」
雲嵐の第一声に、夢霧は少しだけ微笑んで応じた。
「まだ終わってないよ」
空を見ると、日は随分と傾いている。だが、完全に沈むにはまだ時間がある。間に合う——急げば、きっと間に合うはずだ。
夢霧が差し伸べた手を、雲嵐はしばらく見つめた。
「さぁ、行こう!」
その声は明るいが、どこか無理をしているように聞こえる。本当は雲嵐を安静にさせるべきだと、夢霧はわかっている。できることなら、このまま下山してほしいとさえ思っていた。
だが——彼は知っていた。雲嵐がそんな決断を良しとしないことを。
「間に合うよ、きっと!」
夢霧の声にこめられた必死さは、彼自身の覚悟の表れでもあった。満身創痍なのは雲嵐だけではない。夢霧自身もまた、この試練に全力で臨んでいる。雲嵐のために。
「早く!」
雲嵐が躊躇しているのを見て、痺れを切らした夢霧が強引に彼の手を掴んだ。
「お、おい……っ!」
不満を口にする間もなく、夢霧は彼の手を引いて走り出す。その小柄な背中に揺れる、乱雑に切りそろえられた髪が目の前で翻る。それを見つめる雲嵐の目には、わずかな驚きと戸惑いが混じっていた。
二人は息を切らしながら亀裂を飛び越え、山道をひたすら駆け上がる。
「この山頂をっ……超えなきゃ……っはぁ、意味がない……っ!」
夢霧は、山道に仕掛けられた罠を片っ端から壊しながら進む。雲嵐に余計な負担がかからないように、途中で拾った剣を一心不乱に振るい、道を切り開いていく。
「なんだ、ここは……」
雲嵐が呟く。その視線の先には、無数の頭蓋骨が転がり、地面には赤黒い液体が広がっている。
「気にしてる暇はないってば! ほら、足を動かして!」
夢霧が振り返り、鋭い声を飛ばす。頭蓋骨や血の匂いなど、ここではささいな障害でしかない。
「君は緑永峰に登るんでしょう! こんなところで……諦めるなんて許さない!」
夢霧の言葉に、雲嵐の胸の奥で燻っていた何かが弾けた。
「……あぁ」
雲嵐は自ら腕を振りほどき、驚いた様子の夢霧の手を掴む。その瞬間、視界が大きく揺れた。
「えぁ? えぇー!」
次の瞬間、夢霧は雲嵐の腕の中に抱え上げられていた。
「口を閉じてろ。舌を噛むぞ」
それは俗に言うお姫様抱っこだった。
「いや、あの、かみさま……私、走れますから! おろしてください! お願いします!」
夢霧の顔は真っ赤だ。動揺を隠しきれず、外套で顔を覆う。羞恥心と熱気が全身を駆け巡り、彼の頭の中は沸騰しそうだった。
「かみさまぁ……おろしてください……」
しおらしくなった夢霧の様子に、雲嵐は思わず笑いを漏らす。そして一気に速度を上げ、山道を駆け上がった。
夢霧はその強い腕に抱かれながら、彼の香りにくらくらと酔いそうになっていた。しっかりと鍛え上げられた胸筋に頬が触れるたび、顔の熱がさらに上がる。
耳元で風が唸り、地面がえぐれる音が響く。その中で、雲嵐の規則的な呼吸音だけが心を落ち着ける子守歌となっていた。
山頂にたどり着いたとき、夕陽は西の空に沈みかけていた。
「おめでとう。君たちが初めての生還者だ」
試験官が手に持った灯りが、二人を照らす。
「……負傷者か」
夢霧はここぞとばかりに寝たふりを決め込む。だが、心臓の高鳴りが止まらない。顔がさらに赤くなるのを感じ、外套の奥で唇をぎゅっと噛んだ。
「他の挑戦者はどこだ」
雲嵐が試験官に問いかける。その声には微かな怒りが混じっていた。
「言っただろう。ここでは全て……自己責任だと」
試験官の言葉は冷たかった。
生きるも死ぬも、すべては己次第——それがこの試練の掟だ。
夢霧は、雲嵐がわずかに息を詰めたのを感じ取った。
——かみさまは優しい。命を落とした挑戦者のことを気にしているんだ。私とは違う……かみさまは慈悲に溢れた人だから。
だが、それは無駄だと夢霧は思う。
死んだ人間は戻らない。そう言ったのは、かみさまだったじゃないか。夢霧は唇を噛み、滲む血で感情を抑え込む。
そのとき、雲嵐の手が僅かに強く夢霧を掴んだ気がした。夢霧は動揺しながらも、気づかないふりをして目を閉じるしかなかった。
*****
緑永峰に一歩足を踏み入れた途端、空気が変わった。
風が肌に触れるたび、ひやりとした感触が骨の奥まで染み込む。霧が薄く漂い、陽の光は木々の間を抜けることなく、空は灰色に沈んでいる。
「嫌な匂いがする……」
夢霧は鼻をつまみ、眉間に皺を寄せた。その表情には警戒心がにじんでいる。
「あぁ。人の影がそこら中に漂っている」
雲嵐の言葉には、冷静さの裏に隠れた厳しさがあった。足元の土は黒く湿り、空気に混じる血の匂いが鼻腔を刺激する。この場所には、生者と死者の気配が入り混じっている——確実に、怪奇が潜んでいるのだ。
夢霧は雲嵐に目をやり、唇をかすかに動かした。
「……前人未踏の山、だよね。ここ」
その言葉には、これから進む道への恐れがほんの僅かだけ含まれているように聞こえた。
雲嵐は答えず、提灯を手に取ると静かに灯りをともした。
灯りは穏やかに揺れる。薄暗い道を照らす小さな光。それは風に揺らめきながら、温かな輝きを放っていた。
夢霧の目が提灯に向けられる。淡い光が彼の頬に映り込むと、どこか幼さが戻ったようにも見えた。
——「この明かりは主の加護を受けたもの。どうかあなたたちを護りますように」
遠い記憶が、夢霧の胸の中で静かに蘇る。誰がそう祈ったのか、夢霧自身も覚えていなかった。ただ、その言葉と提灯の光が、胸の中に奇妙な安らぎをもたらしていた。
「で、かみさまの目的は……」
提灯の灯りを見つめながら、夢霧が軽い口調で尋ねる。
「主の所有物を破壊する」
その答えに、夢霧は一瞬だけ動きを止めた。
主の所有物——それは、この世に存在してはならないもの。
主が消えた日、崩れた塔の中から次々と発見された奇妙な道具の数々。用途不明の機械、馬鹿げた絵画、そして何よりも人の手に負えない力を持つ物たち。
それらは「主の所有物」と呼ばれた。主の力が込められたそれらは、主以外の手に渡るべきではない。
しかし、そんなことを知る者は少なかった。人々はその特別な力に憧れ、求め、そして命を落としていった。主の所有物はこの世に散らばり、時には取引され、時には隠された。それらを取り戻し、そして破壊しようとする者はほとんどいない。
「破壊って……正気なの? 持ち帰って質屋に入れたら相当儲かるだろうに」
夢霧は、少し笑いを含ませながら言った。その声には、わずかに好奇心が混じっていた。
「……俺の成すべき責務だからだ」
雲嵐の声は静かでありながら、確固たる意志に満ちていた。
「誰かの依頼なの?」
「いや……俺の意志だ」
それ以上の説明を求めようとする気配はなかった。夢霧は肩をすくめ、再び歩き出した。
「こんな大きな山のどこに主の所有物があるっていうんだろう。片っ端から探してたら見つからないよ」
夢霧が目を輝かせながら言うと、雲嵐は冷静に答えた。
「問題ない。共鳴反応を追えばいい。そのために主の所有物を持ってきている。それが道を示すだろう」
そう言って雲嵐は胸元から小さな指輪を取り出した。
「これだ」
夢霧の目が釘付けになる。
金で作られたその指輪は、提灯の灯りを受けて、まるで生きているかのように輝いている。指先でそっと触れれば、微かに温かさを感じるような気がする。
「わー! きれいな指輪……これが主の所有物なんだね!」
夢霧の声には興奮が滲んでいた。その輝きの中に、何か特別な力が宿っているのを彼は感じ取ったのだ。
だが、雲嵐はそれ以上その指輪を見せることなく、胸元へしまい込んだ。
「お前なら、これぐらいの品、どこでも手に入るだろう」
その冷ややかな言葉に、夢霧は思わず頬を膨らませた。
「もう! またそんなこと言って……!」
夢霧は頬を赤らめながら手を動かした。細く、輝く糸で二人は結ばれた。
「これで君がどこにいても見つけられるよ! 名付けて迷子防止君!」
夢霧は笑顔で言う。
「……馬鹿者め」
雲嵐が呟き、心力で作った糸を軽く引くと、夢霧がすぐに引き寄せられた。
「ぎゃあっ!」
強引な引き寄せに驚きながらも、夢霧はどこか楽しそうに微笑む。その手首に巻かれた糸は、二人の命を繋ぐ小さな絆のようにも見えた。
山は高く、道は険しい。
挑むは、世界最高峰の緑永峰。
風はさらに強さを増し、霧は濃く、視界はほとんど利かない。何が待ち受けているのか、二人には知る由もない。ただ、足元の道を踏みしめながら、二人は静かに前を見据えた。
*****
緑永峰に聳え立つ果てしない階段を登りきると、目の前に立派な城がぽつんと姿を現した。
古くから続く宗派がかつての拠点として残した建物——そう伝えられているが、それにしてもこの大きさは尋常ではない。
山肌には教訓のような文字が彫られていた形跡があったが、時の流れと共に崩れ落ち、その多くが失われている。それでも城そのものは驚くほど頑丈に保たれていた。雨風に晒されながらも大きな損傷はなく、その佇まいは威厳と神秘を漂わせている。
「おじゃましまーす」
夢霧は門をくぐると、軽い調子で言葉を放った。その声が静かな空間に響き渡り、城の中へ吸い込まれていく。
一歩足を踏み入れると、夢霧は思わず感嘆の声を漏らした。
「……わぁ」
目の前に広がる光景は、予想を遥かに超えていた。
「文明が時を止めている」
雲嵐も提灯の灯りを掲げながら、静かに呟いた。
今では見かけることのない道具の数々や、珍しい中庭の構造。至るところに護符が貼られ、清らかな空気が漂っている。
道中で感じていた嫌な気配は、ここには一切存在しない。まるで時間が止まり、現実から切り離された浮遊空間のような不思議な感覚に包まれる。
「どこかにあるはずだ」
雲嵐が提灯を持ちながらそう言うと、二人は自然と別行動を取ることになった。それぞれが城内のどこかに隠されている「主の所有物」を探し始める。
夢霧が選んだのは、大広間で風の通る広間に足を踏み入れた。開け放たれた扉の向こうからは、埃の匂いに混じって仄かに白蘭の香りが漂ってくる。
陽の光が薄く差し込む中、彼はその空間に足を止めた。
ここでは、多くの仕人たちが切磋琢磨し、力を競い合い、共に支え合ってきたのだろう。そんな光景が容易に想像できた。
だが——彼らはなぜ忽然と姿を消したのか。
力を持つ宗派が山を去ったのは随分前のことだ。その時期、特に災害が発生した記録もない。宿場町が栄え始めたのは宗派が去った後の話であり、彼らを脅かす存在がいたとは思えない。
それに今となっては現在もこの山を管理している宿場町によれば、試験を乗り越えた者は片手で数えられる程度しかいないという。それでも山に挑戦しようとする者が後を絶たないのは、彼らに伝わる伝説ゆえだろう。
夢霧は光に舞う埃をぼんやりと目で追いながら、首を振った。
「私が気にすることでもない」
彼はまるで誰かに言い聞かせるように呟くと、壁を手で触れながら歩き始めた。
どこかに隠し扉がある——そう直感した夢霧は、手探りでその痕跡を探す。そして、一箇所だけ床の木目が微妙に歪んでいる部分を見つけた。
「かみさまぁー! こっちこっちー!」
夢霧が手招きをすると、雲嵐は別の場所で開きかけていた扉をそっと閉め、彼のもとへ向かってきた。
提灯の柔らかな灯りを頼りに歩く雲嵐。その白銀の髪がふわりと靡くたび、彼の全身がこの空間に溶け込むように見えた。
白を基調とした内観の中で、彼の羽織もまた雪のように純白だった。
夢霧は柱に寄りかかりながら、その姿をじっと見つめる。
——なんて脆い気配なんだ。
痛々しい火傷の痕を持つ彼は、近寄りがたい冷気を纏いながらも、どこか儚さを漂わせている。まるで悪戯な風に攫われてしまいそうだ——そんな思いが夢霧の胸をかすめた。
「……そうしていると……お前はここの弟子に見えるな」
静かに口を開いた雲嵐の言葉に、夢霧はきょとんとした表情を浮かべる。
「へ?」
黒く雑に切り揃えられた髪、闇に溶け込みそうな色の衣服、そして身体に染みついた匂い。それらが彼の姿を仕人の弟子のように見せているのだろう。
「面白いことを言うね! 私がどこかの弟子だって? あははは!」
夢霧は笑いながら目を細めた。
「素顔であれば、お前も……ただの子供だということだ」
その言葉に、夢霧の身体が僅かに固まる。
「幼いお前が、その優れた才能を開花させた場所が……暖かな場所であれば良いと思った」
雲嵐の声はどこか寂しげだった。
「だが、それは俺の勝手な希望に過ぎない。それでも……私はお前に——」
「も、もう、やめてよ、辛気臭いなぁ!」
夢霧が彼の言葉を遮るように、少し怒った調子で声を上げた。
「昔の話はやめよう?」
穏やかな風が大広間を抜け、夢霧の黒髪を揺らした。その瞳には、わずかに憂いを含んだ光が宿っている。
——あの日、彼と出会わなければ世界は輝かなかった。薄暗い暗闇をさ迷い続けて、復習の業火に身を投じたに違いない。そりゃあ、今だって私は彼らが憎くて堪らない。いっそのこと、この手で殺してしまえば楽に生きてこられたって思う。それでも——私のかみさまは復讐を望まない人だから。私は、かみさまが嫌う存在にはなりたくはないんだ。彼の前では私は……正しくありたい。
「私は今幸せだから。過去なんてどうでもいいんだよ」
夢霧の軽やかな声が広間に響く。その言葉には、過去の傷や痛みを全て飲み込んだ者の強さがあった。
雲嵐はふと夢霧に目を向けると、微かに微笑んだ。
「お前らしいな」
彼の視線は再び木目がちぐはぐな壁へと移る。その壁に剣の柄を突きつけると、音もなく一枚の板が奥へ沈んだ。
沈む板の代わりに現れたのは——一風変わった羅針盤だった。
「これが鬼羅針?」
夢霧は目を輝かせながら、雲嵐の手元に目を向けた。
「あぁ。漸く……見つけた」
雲嵐の手の中にあるそれは、ただの羅針盤ではなかった。
中心部には、夜を閉じ込めたかのような丸い玉が浮かんでいる。その玉は、重力から解放されたように空中でくるくると回転し、その中には星空をそのまま閉じ込めたかのような細かな光が散りばめられていた。
夢霧はその美しさに思わず釘付けになる。
「この鬼羅針にはどんな力があるの?」
その問いに、雲嵐は少しだけ躊躇してから答えた。
「……時を巻き戻すと言われている。かつて主はこの鬼羅針を使い、荒れ地を元に戻した。その地には美しく迷夢花が咲いたらしい」
「へぇ、迷夢花が? すごいね!」
迷夢花——その名を聞いて、夢霧の表情がさらに輝く。それは年に一度、限られた土地で朝日の昇る僅かな時間で咲くとされる、極めて希少な花だ。
「それが本当ならどうして壊してしまうの。有効活用したらいいと思うけどなぁ」
夢霧が不思議そうに首を傾げると、雲嵐の目に冷たい光が宿った。
「愚問だ。時は正しく刻まれるべきで、人は流れに逆らってはならない」
「……難しいこと言わないでよ」
「人は死ぬ。それが世の理だろう」
鬼羅針を見つめる雲嵐の手に、微かな力が込められる。その掌に収まるそれは、間違った手に渡れば世界そのものを破壊しかねない危険な存在だった。鬼羅針が持つ力——時を巻き戻すという力は、人間の手に負えるものではない。主が消えた今、その力を放置することは許されない。
「……そんなの、他の人がやればいいじゃん!」
夢霧は言葉を重ねる。鬼羅針を破壊することがどれほど危険か、彼自身も十分に理解していた。
「それが俺の仕事だからだ」
「誰が決めたの!」
「俺が、やるべき仕事だ」
その言葉に込められた確信に、夢霧は返す言葉を失った。
「もう!」
夢霧は怒りを吐き捨てるように声を上げた。不気味な獣の声が風に乗って耳をかすめる。湿気を帯びた風が乾燥した空気と交じり合い、遠くから雷鳴が響いた。
鬼羅針が現れた瞬間から、風向きが明らかに変わった。まるで、この地そのものが目を覚ましたかのように。
夢霧は息を吐き出し、手の中で鬼羅針を見つめ続ける雲嵐を見た。
——正気じゃないのは、かみさまの方だ!
「お前は自由が似合う」
突然、雲嵐が呟いた。
その言葉に、夢霧は置き物のように立ち竦む。
「……ねぇ。今日のかみさま、なんか変だよ」
夢霧は、どこか不安げに彼の顔を覗き込む。その瞳に映る雲嵐の表情は、どこか柔らかく、けれど遠い。
やけに饒舌で——まるで、何かを悟っているみたいだ。
「さあ、始めるぞ」
夢霧の頭を軽く叩き、雲嵐は陣を描き始めた。破壊の手順はすでに何年も前に頭の中に刻み込まれている。手が動くたび、空気に淡い光が生まれ、それがゆっくりと形を成していく。薄暗い空間に陣の輪郭が浮かび上がり、どこか不気味で荘厳な雰囲気が漂った。
「……かみさま。かみさまは明日からどうするの?」
夢霧の声が、不意に張り詰めた空気を破った。雲嵐の手が止まる。
「次はどこに行くのかなって! ほら、一応は目的を達成するわけだし、これからのこと、考えてる?」
「……これから、か」
雲嵐は眉をひそめ、じっと視線を落とした。言われてみれば、この件を片付けてからのことを考えていなかった。彼はこれまで、ただ目的に向かって進むだけの存在だった。道中で困ったことはなかったし、食べ物や寝床もどうにかなってきた。金銭的な心配も特にない。それでも、目的がなくなった今、自分が何をすればいいのか見当がつかない。
行く末が真っ白に染まり、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。
「じゃあ、私と一緒に食い倒れの旅をしようよ!」
夢霧の声が明るく響いた。彼は楽しそうに指を折りながら、行ってみたい国の名前を次々と挙げていく。その瞳は陣が完成していないことなどすっかり忘れたかのように輝いていた。
「世界中の珍味や、ほっぺたが落ちるくらい美味しい料理を食べ歩こうよ! きっと楽しいよ!」
「そうだな……お前と旅をし、人助けをするのもいいかもしれない」
夢霧の声に応じるように、雲嵐は静かに口を開いた。
「……また人助け? 折角だから、もっと自由に生きようよ!」
夢霧が少し不満げに口を尖らせる。それを見て、雲嵐の口元がわずかに緩んだ。
「どうせ暇になる。それなら人助けをしていればいい。当面の目的はそれで十分だ」
「えぇー……」
夢霧は肩を落としつつも、どこか諦めたように笑った。その様子を見て、雲嵐はふっと視線を遠くに向ける。
「だが、まだ知らぬ国へ行き、食を楽しむこともできるだろう。それも悪くない」
その言葉に、夢霧は一瞬きょとんとした後、パッと顔を明るくした。つまりそれは、彼との旅を続けるという意味だ。
雲嵐はそんな彼の表情を見つめながら、静かに心を定めた。それは目的でも、都合のいい妄想でもなく、確かに自ら選んだ未来だった。
「……だらしのない顔をするな。気が抜ける」
「え、あ、うん、ごめん!」
夢霧は慌てて背筋を伸ばしたが、心の中では拍子抜けしていた。彼の中では、半ば一方的だった旅がこんな形で続いていくとは夢にも思わなかった。
二人は対照的な人生を歩んできた。
夢霧は、過去に人を殺める組織に身を置いていた。そんな自分が雲嵐に受け入れられるとは思っていなかった。むしろ、軽蔑されるのではないか、とずっと心のどこかで怯えていたのだ。
けれど、雲嵐はただ静かに言った。
「これからは善い行いをしろ」
最後の文字が刻まれ、陣が完成する。
「お前ならできると信じている」
その声は、不思議と優しかった。夢霧の胸にじんわりと温かいものが広がる。彼はその温もりを抱きしめるように、小さく頷いた。
陣が完成した瞬間、雷鳴が轟き、稲妻がまるで命を得たかのように鬼羅針へと降り注いだ。その光景は、自然の摂理を超えた破壊そのものだった。巻き込まれれば、命がいくつあろうと足りないだろう。致死量の電流が渦巻き、一瞬で肉体を焼き尽くす。
しかし、刹那——。
細い稲妻が陣の外へと漏れ出した。それは徐々に形を変え、不気味に膨張していく。ついには天を切り裂くほどの光の柱となり、山の静寂を粉々に打ち砕いた。
酔い痴れたようにその光景を眺めていた雲嵐は、その異変に気づいていない。
「かみさま!」
夢霧の叫び声が響く。彼は咄嗟に雲嵐の体を突き飛ばした。
その直後、鬼羅針の指針がまるで自我を持ったかのように、高速で回転を始めた。鈍い音を伴い、恐怖を煽るように凶暴な動きを見せる。
「ああ、畜生が……!」
夢霧はかすかな呻き声を漏らし、次の瞬間には岩壁に叩きつけられていた。全身が強烈な衝撃に襲われ、痛みが思考を奪う。視界には無数の星がちかちかと踊り、自分がどちらを向いているのかすらわからない。
脳裏に浮かぶのは、無関係な罵詈雑言だった。まるで目の前の苦境を嘲笑うかのように、心の中の声が次々と文句を並べ立てる。浅い呼吸を繰り返し、ようやく身動きが取れるようになると、夢霧は朧げな視界の中で体を起こした。
冷たい風が頬を打ち、どこからともなく雪が舞い降りる。
「……雪だ」
震える声で呟く。山頂に近いこの場所では、雲から生まれる雪が絶え間なく降り注いでいる。白い息が空に溶け、彼の頬に触れる雪は冷たく、やがてヒリヒリと痛みを覚えさせた。
焦りを胸に、夢霧は視線を巡らせる。だが、見えるのは見知らぬ景色ばかりだ。あまりの衝撃で二人は離れ離れになってしまったらしい。
しかしあの時張った糸が役に立つ。絶賛したいほどの準備だ、と皮肉めいた微笑みを浮かべながら糸を巻き取りつつ走り出す。やがて、山の斜面に黒い塊が目に飛び込んできた。
「……かみさま!」
夢霧は駆け寄る。その黒い塊は、仰向けに倒れた雲嵐だった。だが、彼は微動だにしない。その様子に、嫌な汗が夢霧の額を伝う。
「起きてよ、かみさま」
彼の肩を叩き、揺さぶる。けれど反応はない。雲嵐は、いつもの冷徹な表情のまま、眠るように静かだった。
「お寝坊さんだなぁ!」
冗談交じりに言いながら、夢霧は手を滑らせる。その瞬間、手のひらに生ぬるい液体がべっとりと付着した。鮮やかな赤。血だ。驚きに息を呑み、彼の体を改めて見ると、首元には深い傷。そこから絶え間なく血が溢れ出し、夢霧の足元を赤く染めていく。
「……はは……質の悪い冗談だよね?」
震える声で夢霧は呟いた。だが、いくら肩を揺らしても、叩いても、彼は目を開けない。
——かみさまが死んだ?
それはすとん、と夢霧の胸の中に落ちた。しかし、その事実を受け入れるのを、彼の心が拒んでいる。周囲には誰の姿もない。立ち入るべからずとされる縁永峰は、ただ夢霧の声だけを寂しく反響させる。
「起きてよ……」
呟く声はか細く震えた。そこに答えるものは誰もいない。ただ、足元に転がる鬼羅針が指針から血を滴らせながら、不気味に光を放っているだけだった。
破壊を試みた雲嵐は、鬼羅針の放つ衝撃で命を奪われたのだ。
その瞬間、夢霧の中で何かが切れた。絶望と理不尽さに突き動かされるように、彼はふと鬼羅針に目を向ける。
「……そうだ!」
彼は唐突に笑い出し、踊るようにその場を回った。理不尽な現実など消し去ればいいのだ。最初からやり直せば、こんな結末は存在しなかったことにできる。
「またね、私だけのかみさま」
鬼羅針に手を伸ばし、彼はカチリとそれを動かした。
そして、世界は——暗転した。

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