黒煙と黒い炎が怒号を叫ぶ怪物を燃やし尽くし、一面が焼け野原と化した。
夕焼けを埋め込んだ瞳は濁った色を無垢に反射するだけの存在で酷く冷たく、その視線を逸らすことなく真っ直ぐに炎を見つめていた。
例えば——主が世界を創らなければ。
例えば——怪奇が存在しなければ。
例えば——人間が命を紡がなければ。
混沌とした別れ道に悩むことは無かったのだろう。
じっとりと背筋が凍る視線を感じ、林琳ははっと目を覚ました。
目の前が陽炎で揺れている錯覚に吐き気がし、重たい腕をどうにか動かして視界を遮った。
——嫌な夢を見た。
自分の呼吸が荒いこと、隣にいつもの気配があって、右手が暖かく包まれていることだけが、今の林琳には分かる。喉の奥につっかえた何かが呼吸の邪魔をして、苦しさを誤魔化すために唇を堪えた。
「……魘されてた」
そっと触れた指先から、馴染みの良い心力が伝わってくる。
未だに揺れている林琳の心力に優しく寄り添いつつ、仁は語る。
酷く魘されていたとは言っても、叫び声や呻き声が聞こえたわけではない。心力が異常に揺れたのを感じた仁が目を覚ますと、林琳の指先から微かに黒い炎が漏れ出していたのだ。
本人は気が付いていないのだろう、ちりちりと零れる炎に仁は慌てて手を繋いだ。
心力が無意識に漏れ出すほどの悪夢を見ていたのだろうか。その様子に仁は不安を感じる。
「大丈夫か」
返事はないが次第に落ち着く呼吸に仁は胸を撫で下ろす。
「……問題ない」
漸く目の奥に焼き付いた黒い炎は消えた。
林琳は視界を遮っていた手を薄目で捉え、心力が漏れ出していることに気が付いたのか、慌てて仁が握っている手に視線を移す。途端に冷や汗が目を覚ませと言わんばかりに背中を伝った。
嫌な予感がした林琳は、榻牀の上で後退りする。
「無傷だって。師兄が俺を焼いたことなんて一度もないだろ」
何も心配するなと仁が笑う。
攻撃性のある林琳の心力。珍しい性質に危険視する声もあるが、仁はそう思わない。夢天理にも似た性質を持つ仕人は存在しているし、世界中を探せばもっといるはずだ。
それに、かれこれ十数年一緒にいたが、林琳が人を焼いたことは一度もなく、いつも焼かれる対象は怪奇だった。嵐海宋の猫に向けた時も、彼女の身体にはかすり傷一つ付いていないだろう。
「ほら、無傷だ」
両手を広げて仁はかすり傷一つないことを証明した。
安堵して大きく深呼吸をした林琳が起き上がると、酷い頭痛に襲われた。思わず肘をつくと、無造作に置かれていた仮面が落下して床に叩きつけられた。
「林琳、熱が出てる」
額に乗せられた仁の手は冷たくて心地よい。
「熱……」
言われてみれば確かに熱っぽいなと自覚した瞬間、一気に思考が鈍くなった。
頭の奥で鳴り響く強烈な雑音、視点の定まらない視界、怠い身体に加え、鬱陶しい笛の音と響く太鼓の振動。昨晩までは二人もその輪の中にいたのだが——今は強烈に邪魔だ。
絶賛"劉鳴国"はお祭り騒ぎだ。
国王が王座を退き、新しい国王が即位する。一世一代の節目を目にしようと、人々は四方八方から集まっていた。そんな中、夢天理は来賓として堂々とふんぞり返り、目立つ存在だった。祭りの開催が宣言されて以降、一度も姿を見せていないが、きっと城にこもって豪華な料理を貪り、美女に囲まれて酒に酔っているのだろう。
広場から少し離れた場所で、仁は淡々と酒を楽しんでいた。来賓の紹介が始まる中で、見覚えのある女性が一人いたが、必要以上に気にしていない。これだけの人混みで偶然出くわすことは、ほぼありえないからだ。
「あー、ってして」
「あー……」
雛鳥が餌を求めるように大きく口を開けば、仁が喉奥を見る。
「うん。腫れてるな。今日は一日休んでろ。どうせ朱禍の居場所はわかってるんだし」
「はぁ……最悪」
劉鳴国、国王の住む城、"高冥城"をぐるりと囲む反り返った壁。扉は全部で五つ。
ぽやぽやとした雰囲気の林琳は、劉鳴国の記憶を整理しようとするが、熱の影響かぐるぐると思考が回り続けて纏まらない。
あの馬鹿を高冥城の地下牢から連れ出して、主の所有物である書の解読をさせて、どうせ変死体の情報を持っているから聞き出して——後は、何だ。何をしなければならないんだ。 上半身を起こしただけで眩暈がして、そのまま布団へと倒れ込む。
湿った枕に顔を押し付けて呻く見慣れない黒髪を仁が撫でると、手を振り払われてしまった。困って眉尻を下げて笑う仁は、頭に響かないように囁く。
「医者を呼ぶか?」
「必要ない」
あっち行け、くぐもった声がかすかに聞こえる。
「おい、窒息するからせめて上を向けって」
もぞもぞと楽な体制を探して動くと、布団に包まって完全に引きこもり状態になってしまった。それもそれで息が出来ないだろ、と一言零して規則正しく布団が上下するのを見守る。
「林琳が風邪を引くなんて初めて見た気がする」
幼い頃は仁のほうが頻繁に熱を出していた。
それこそ宗主から「この子は熱で死ぬかもしれない」と比喩される程だ。と言っても身体の土台は丈夫だったのか、声変りを迎えた時には病とは無縁になった。
確実に意識を飛ばした林琳を医者に問答無用で診せると「疲労だね」と診断が下る。
気配を感じたのか、身じろぎする林琳に悟られる前に医者を部屋から追い出すと、怪訝な顔をされた。急に呼ばれて速攻で追い出される医者からすれば、傍迷惑だと察するだろう。しかし、お互いに身の安全を確保しなければならない。
申し訳ない気持ちを抱えつつ多めに硬貨を渡すと、医者は咳払いして満足そうに頬を赤らめた。
「急な環境の変化、身体的な疲労の蓄積……。原因は様々だけど、とにかく休ませておけば大丈夫だよ。流行り病でもないから安心しなさい」
悪化したらまた呼びなさいと言って、小走りで去っていく医者を見送ると、仁は榻牀の傍で胡坐をかいた。目を覚ましたのは一瞬だったのだろうか。深い寝息が聞こえる。外では花火が上がってお祭り騒ぎなのに、この部屋に響くのは林琳の寝息だけで、薄い扉一枚で隔てられた別世界のように感じられた。
領域を出て再び時を刻み始めた林琳の肉体は、知らぬ間に悲鳴を上げていたのだろう。居心地が悪そうに寝返りを打つ林琳を眺めながら、仁はため息をつく。
爪も整えなければ。
頼って欲しい、とは言わない。
元々、人に頼るという概念は欠落している。正確には、他人に仕事を押し付けることはあっても、自ら助けを求めることがないのだ。文句は多いが、本音はぴたりと噤む。嫌い、苦手、鬱陶しい、馬鹿。簡単な感情なら全く問題ない。態度にも口にもよく出る。片燕の中で群を抜いて夢天理に関して愚痴を吐く男だ。それこそ耳を塞ぎたくなるほどの。本人は否定するだろうが、後輩たちの我儘に付き合う情けもある。片燕が危うい立場になると、真っ先に矢面に立つ。
しかし、林琳が見せてくれる優しさには、いつだって無理やり理由がくっついてくる。
重要なのは「心理」だ。何よりも大切なのは林琳の心の有様だろう。誓いやら、罪やら——常に隠し事が多い。仁は今更ながら、熱におかされる師兄の秘密主義に呆れてしまった。
心力の乱れを抑えるためにも、しばらくは眠り続けるだろう。目覚めた時に少しでも活力のつく食事があった方が良い。念には念をと、仁は扉に薄く心力で陣を張ると部屋を後にした。
外に出るついでに、他の馬と喧嘩をしていないか馬小屋を覗く。隣の馬が気を引こうとしているのを小碧は無視し、どこに行くのだと鳴いた。小碧は同種から見ても愛らしいようで、お隣さんからは熱烈な好意を向けられている。もちろん、全て無視しているが。明日には空き地で走らせてやると伝えれば、仁の隣にいつもの旋毛がないことに気が付いたのか、少し身を乗り出して探している。
「師兄は寝てるから、また明日な」
人の心を汲み取るのが上手い動物だ。非常に頭のいい小碧は仁の言葉を理解し、一度だけ頭を鼻で突いた。
宿の外へ出ると、花弁が何処からか運ばれてくる。目を凝らしてよく見ると、それは花びらではなく、染められた紙が織りなす紙吹雪だとわかった。地面にも散らばった紙吹雪は、人の歩みで作られる風で巻き上げられ、再び空へ舞い上がった。次第に人々が捌けていく。
いつの間にか人の群れはまばらになり、「いらっしゃったわ!」と女性の声が上がる。一つ隣の大通りには、純白の神輿が優雅な鈴の音を鳴らして現れた。忙しなく動いていた人の群れから、一斉に視線が移動する。屈強な男が神輿を担ぎ、純白の衣に身を包んだ仕人が鈴を鳴らせば、辺りは厳かな雰囲気に包まれた。
夢天理の管轄下にある劉鳴国には、一風変わった神が祀られている。それはヒトでも獣でも、まことしやかに囁かれる伝説でもなく——。
劉鳴国の神子が宿るとされる御霊だ。
一体それが何なのか、この場にいる者は誰も知らないだろう。風が吹くと、神輿の正面にある絹の垂れ幕が揺れた。閉ざされた扉は厳重に金の鎖で縛られており、目の前で開かれる時は来ないとわかる。一見、美しく金の鎖で装飾されているようにも思えるが、仁にはそれが滑稽に思えて仕方がない。寝込んでいる林琳も同じだろう。——きっと冷めた目をしているに違いない。
御霊に興味のない仁は、人の群れを避けて比較的静かな通りに出た。地元の人間が住んでいるのか、旅人らしき者は少ない。鈴の音が遠くなるのを感じながら、木陰で足を止めた。すると、甘酸っぱい柑橘類の香りが近くから漂ってきた。
仁と同じく騒ぎを避けてきた少女が、腕を摩りながら話しかけてきた。
「相変わらず凄い騒ぎ。お兄さん、これぐらいの犬を見なかった? 鈴に驚いて逃げちゃって……」
彼女が両手で示した大きさは、抱えられる程度だった。
「いや、見てないな」
蘭と名乗った少女は、周囲をきょろきょろと見渡しながら、大袈裟に肩を落とした。手に握られた桃色の布は、どうやら犬の首に巻いていたものらしい。慌てて掴んだが、すり抜けて逃げ出してしまったのだ。
「どこ行っちゃったのよ、もう!」
複雑に編み込まれた髪を肩上で揺らしながら、蘭は頬を膨らませる。その子供らしい仕草に、近くを通りかかった老婆は微笑ましそうに笑った。
「待って!」
突然、蘭に腕を引かれ、仁は体勢を崩した。驚きの声を上げた彼を、蘭はきらきらした目で見上げる。
「一緒に探してくれない? こんなに広い国じゃ一人で探せない!」
仁は、蘭の左右対称でない瞳に気づいた。左目だけが薄い茶色だ。至近距離で覗き込むとその違いがわかるが、注意深く見なければ気づくことはない。
つまり、二人の顔は至近距離にある。断じて年頃の男女の距離ではない。通行人が冷やかしで口笛を吹いたことで、二人はぱっと離れた。
「勿論お代は払うわ! こう見えても私、令嬢なのよ」
金に目を奪われ、詳細を聞くと、蘭は繁盛している絹織物を営む家の娘らしい。言われてみれば、蘭の衣にはきめ細やかな刺繍が施され、きらきらと輝いている。
簪も値の張るものであろう。
「はい、前払い金ね」
「多いな!? そんなもの簡単に渡すんじゃない!」
「え? そう?」
「これだから金持ちは……!」
大した額ではないとは言わせない。この真珠が本物であれば、一年は遊んで暮らせる。足りないのかともう一つ取り出そうとする仁に、蘭は止めてくれと壁に手をついて項垂れた。
——盗人が見ていたら根こそぎ持っていかれるぞ!
「一個で良い。それ以上は受け取れない」
貧乏な旅とは言えないが、資金はあればあるほど良い。節約をしたり、怪奇を祓って小銭を稼いでいる。娯楽はほぼない。林琳だって同じだろう。渋々真珠を受け取った仁に、蘭は顔を綻ばせ、その場で飛び跳ねた。
「手伝ってくれるのね! ありがとう!」
早く行こうと手を引く蘭の手をやんわりと引き剥がして、仁は遅くまでは無理だと予め断りを入れる。林琳が熱を出しているし、日が沈む前には戻りたい。
「蜜柑の匂いがするけど、どこかで食べたのか?」
「え? あ、やっぱり匂いがするのね。実家の山で沢山取れるから、持ってきたの。お腹が空いた時にちょうどいいでしょ。宿にまだあるのけど……蜜柑、好きなの?」
「いや、俺じゃなくて連れが好きなんだ。もしよかったら数個買わせてくれ」
蘭は色違いの目を更に大きくして快く受け入れてくれた。たかが数個、それに売る為に持ってきたわけではないと言う。値段を付けるのも憚れるらしく、無償で分けてもらった。
「はい。これでいい?」
甘酸っぱい香りが蘭の掌から三つ、零れ落ちる。今にも弾けそうに膨らんだ皮の中には立派な果汁がこれでもかと身を顰めていて、実に美味しそうだ。
「さぁ、あのお馬鹿を探すわよ!」
額に切り傷があり、全体が白色の毛で覆われていて、尻尾の先だけが黒い。好物は鶏の骨。名は琥珀、御年5歳の立派な淑女だ。性格はお転婆なのに神経質で、きっと物陰で怯えているに違いない。
蘭が西側を探すと言うので、仁は高冥城とは正反対の東側を探して回った。
まだ日が傾くには程遠く、手に琥珀の好物である鶏の骨を持ちながら、仁は家の物陰を探してみたり、空き家の隙間を覗き込んだが、なかなか見つからない。身を隠して隠れているなら、最早見つけるほうが至難の業だろう。そう遠くには行っていないはずなのに、見かけた人間もおらず、仁は途方に暮れた。これで琥珀が動き回っていたら最悪だ。来た道を戻りつつ、手当たり次第に視線を走らせる。
そうして数刻が過ぎ、ついに日が傾いて沈む準備をしてた頃、蘭とすれ違った。
「お兄さん、見つかった?」
「いいや。そっちはどうだ」
「ぜーんぜん駄目。はぁ、こんなことになるなら紐で繋いでたほうが良かったわ! 危険な目に遭ってなければいいけど……」
桃色の布を弄りながら、蘭は不貞腐れて頬を膨らませる。最後に外の景色を見せようと連れて来たのに、これでは手間が増えただけだ。
「最後?」
「えぇ。私、お嫁に行くから。最後ぐらいお祭りや楽しい景色を一緒に楽しみたいじゃない」
「へぇ、嫁に行くのか」
「うん」
蘭は、家を出て隣国の男へ嫁ぐと言う。屋敷は大きく、双方金銀財宝を惜しまずに晴れやかな婚礼を挙げる予定だ。しかし、めでたいはずの話なのに、彼女の顔色は芳しくない。むしろ結婚を望んでいないと感じ、仁は口籠る。女心は計り知れず、男ばかりの中で育った仁には、この話題がどうも苦手だった。
仁が露骨に視線を逸らすと、蘭は可笑しそうに笑いながら言った。
「ずっと昔に両家で決めたことだから、私が何を言っても意味がないわ」
彼女は、遠くで仲睦まじく手を繋ぐ男女の姿をいつまでも見つめていた。
◆
節々に痛みはあるが、意識ははっきりしている。視界もぶれず、熱っぽさも感じない。
「あー、あー……あー」
何度か声を出して喉に手を当てると、突然せき込んだ。熱は下がったが、喉に違和感が残っている。林琳は、恐らく仁が用意したであろう水を口にし、乾いた喉を潤す。軽く咳払いをすると、少しだけ喉の痛みが和らいだ。
外を見れば丁度夕暮れ時で、昼間とは違った賑わいに変わりつつある。勿論外に出る気はないが、汗の滲んだ体を綺麗に流したい。林琳は凝り固まった体で背伸びをすると、のそのそと風呂の準備に取り掛かった。まあ、用意と言っても宿の係に伝えるだけなのだが。
着替えを手に、沐浴ができる場所へ向かうと、そこは甘い花の香りが漂う蒸気に包まれていた。長く浸かっていると体中に香りが染み付きそうだが、決して嫌な香りではない。
「あー……」
湯に足を入れると、温かな感覚が全身に広がり、次第に溜まっていた疲労が抜けていくのがわかった。首をぐるりと回すと、ぽきんと軽い音が響く。
林琳が湯の温もりに身を委ねていると、どこからか騒がしい足音が聞こえてきた。大股で歩いているのだろうか、湯船が振動して水面に波が立つ。やがて足音は遠ざかり、再び静寂が戻った。
「騒がしいな……」
身体中を揉み解しつつ、林琳は左腰付近にある傷跡を撫でる。遠慮なく宗主の知己に刺された痕跡はこの先も消えることはないだろう。
なぜ朱禍と争ったのか、すぐには思い出せない。自分は記憶力が良い方だが、時折「どうでもいい」と思うことは記憶から抜け落ちる。宗主曰く「人間は無関心なものを忘れる」という。おそらく朱禍との揉め事もその程度のことだったのだろう。それに比べ、片燕や幼少期の記憶は鮮明に残っている。朱禍もまた片燕に深く関わる存在で、当時の彼はとにかく優しかった。
あの頃は、彼に連れられて様々な怪奇を調査し、面白い経験を積んだものだ。朱禍は仕人として優秀であり、夢天理でも重鎮とされていた。彼の知識、心力の扱い、人間関係の構築力、さらには情報収集力——すべてにおいて彼に匹敵する者はいなかった。彼を敵に回す者などいなかった。
それが五年の間で古巣に忍び込む盗人だ。
——そう、たかが五年なのだ。
林琳は、仁が五年の空白にこだわる理由が不思議でならなかった。たった五年だ。長い人生の中では大した価値もない時間に思える。それに、別れは自然と訪れるものだ。宗主と旅をしていた中で仁を拾い、片燕が生まれ、いつの間にか二十年が過ぎていた。
ここ最近は頻繁に過去を思い出す。ざわざわと記憶が揺れて突然現れるのだ。仁と話していると特に。
——"「俺の五年は林琳にとって無駄な時間だった訳?」"
あの馬鹿があんなことを言うからだ。
ちゃぽん。
林琳は湯に身を沈め、膝を抱えた。変死体の謎を解き、片燕への疑いを晴らし、仁の魂が修復され、輪廻に戻れる状態になれば——自分が現世に留まる理由はなくなる。時の止まった竹林で、終わりなき償いを続けることになる。たとえそれが五年であろうが、十年であろうが、百年であろうが、罪から逃れることはできない。
罪を後悔するような馬鹿な真似はしない。だが、その愚かさは理解している。
山雫国を去る直前に朱禍と遭遇した。大切な友人の危機を感じ取って飛んできたのだろう。
風上に運ばれて血の匂いが流れて来る。それが誰の血なのか感覚の麻痺した林琳にはわからなかった。朱禍は耳飾りに触れて迷わずに剣の切先を林琳に向けたのだった。微動だにせず真っ直ぐに向けられた鋭い瞳と切先は、林琳を射抜く。殺されても可笑しくない、憎しみと悲しみをぐちゃぐちゃに混ぜた瞳。ほんの少しの悲しみを孕んだ声。それでも朱禍は林琳に手をかけなかった。心のどこかで絶望を望んでいた林琳は勝手に落胆した。
朱禍ならば罰を与えてくれるのではないかと期待していたのは間違いない。
朱禍とはそれきりで、最高で最悪な別れだった。
かつて生きていた世界は全て壊れたのだ。
人間関係も生きる道も見る世界も。
「俺は何も間違えちゃいない……」
嵐海宋で朱禍と再会したが、それ以外はすべて順調に進んでいる。しかし朱禍のことだ、髪を黒く染め、静かにしていても、心力で気づかれてしまうだろう。次に顔を合わせた瞬間、命を奪われる可能性だってある。熱い湯に身を置いているというのに背筋が凍った。
「……心底、会いたくないな」
その思いは朱禍以外にも同じだ。宗主でさえ、林琳が変死体の件に関わることを望んでいないかもしれない。仁は片燕が林琳を待っていると言うが、林琳自身はそうは思えない。許されないことをしたのだ。あれだけ混乱を引き起こし、最後には捨てたのだから。恨まれることはあっても、歓迎されるはずがない。片燕はそんな生ぬるい宗派ではない。このまま関わらない方が、お互いにとって良いだろう。
汗を流して久々の湯船につかった林琳は、部屋の窓を開けて外を眺めていた。お祭り騒ぎは落ち着いて夜市が開かれている。出店に並ぶ人々をなんとなく目で追って休んでいれば冷たい風が火照った体を撫でて、冷ましていく。
「起きたのか。調は大丈夫か?」
「うん」
「やっぱり夜は冷えるな。湯冷めするから閉めるぞ」
肩にかけられた外套はまだ温かい。
仁が窓を閉め、林琳の肩に外套をかける。まだ暖かい。林琳は机に向かい、出された食事を黙々と平らげた。見慣れた料理——即ち、お粥だが。しかし幸楽美国で小菊が作ってくれたお粥とは違い、野菜がふんだんに使われている。
黙々と食べ続けている間にお椀の中は空になった。
「美味い?」
「うん」
良かった、と仁が笑う。
「熱も下がったみたいだけど、今夜は外に出るなよ」
蜜柑の皮剝きながら仁は話す。
丁寧に白い筋まで取られた実が林琳の手に渡り、そのまま一口で口の中に放り込まれた。もぐもぐと頬を栗鼠のようにして咀嚼する。目を細めて味わう林琳がすかさず催促するので、仁はもう一つ剥いてやり、丸ごと口に入るのを見守った。蘭から貰った蜜柑は想像以上に甘く、旨味も凝縮されている。
「季節外れなのによく見つけたね」
「この蜜柑甘いよなぁ」
日が暮れ始め、仁が蘭を送り届けた直後のことだ。帰り道の途中額に傷がある一匹の犬が道端で丸くなっているのを見つけて、蘭を呼んだ。蘭の声に反応して近寄って来る、白い毛並み。土埃で汚れてしまっているが、怪我はない。「無事に戻って来てよかった」と仁は琥珀を撫でた。蘭は耳を伏せ、尻尾を下げて寄り添う琥珀を涙ながらに抱きしめ、叱っていた。琥珀が身を縮めていた通りは広く、誰も足元に注意を払わない。おそらく、踏まれないように必死に逃げてきたのだろう
そんな出来事を知らない林琳は、お茶をすすりながら仁に問いかける。
「お前、日中どこに出てたんだ?」
渋味の強い劉鳴国の名産物のお茶が、喉を通る。日中、ぐっすり眠っていた林琳は、部屋の隅に積まれた包みが仁のものだとわかっていた。そのほとんどが衣類だということも。
「うん。ちょうど神輿にも遭遇した。高冥城の扉が開くのは神輿が出入りする瞬間だけだ。朱禍のいる地下牢に正面から入り込むのは、ほぼ不可能だろう。しかも、陣が張られているだろうし……どうする?」
高冥城は屈強な戦士たちが護っており、真正面から挑めば首を刎ねられるのは確実だった。仁と林琳は対人戦闘も身に付けてはいるが、仕人に顔が割れている二人が表立って動くことはできない。さらに劉鳴国には、さまざまな宗派が集まっている。
「これであの馬鹿を釣るか。闇市で競売に出せば、のこのこ出てきそうだ」
「何考えてんだよ!?」
主の所有物である不気味な書。得体の知れない所有物を競売に出すなんて邪道である。
「さっさと捨てればよかった」
林琳の炎でも傷一つ付かないその書が、一般人の手に渡れば大騒ぎになるだろう。
「朱禍なら解読できるはずなんだろ。御者の正体だって判明するかもしれない」
「そもそもの話、あいつが生きてたらの話だけどね。高冥城の地下牢は地獄に等しいって聞くし。人間の頭蓋骨、獣の骨が腐敗して血の海に浮かんでるとか」
嬉々として語る林琳は楽しそうだ。
「そうなってくると、ますます朱禍の目的がわからなくなるな」
「朱禍が盗もうとした物が劉鳴国にとっては隠したい存在だったのは確実だ。隠し部屋の存在を知った朱禍が欲した物。あの男がそこまでして欲するものなんて……」
朱禍は富や名声には興味がない。ただ、自分の信念のままに生きている人間だ。それが何故、そんなものにこだわるのか。
「師匠は何か知ってるかも」
「……まあ、あの二人は往来の知己だからな」
口喧嘩さえ見たことがない、と林琳は話した。
「林琳と朱禍が本気で衝突した時、絶縁します、って師匠が激怒したぐらいか」
ゆでた豆を奥歯で噛み砕く。
「絶縁?」
「え、あ、あぁ……林琳、重傷で医務室に閉じ込められてたっけ」
林琳は仁の言葉に眉を顰める。
「朱禍の肩も重傷だったけどね。師匠も頭に血が上ったのか、狙ったように本気で蹴り飛ばしてさ。しかも飛び膝蹴り! いやー、素晴らしい光景だったぞ」
地面に這い蹲って罵詈雑言を投げる林琳が気絶したのを確認し、宗主は朱禍の肩を心力を纏った拳で殴りつけた。剣が交わって甲高い音を立てているのを影から見ていた弟子たちは、その光景に震えた。怒りに我を忘れている宗主を見たのはあの日が最初で最後だろう。——ただでさえ重症の知己を本気で蹴り飛ばすとは! 仁は思い出すだけで小躍りしそうだった。
「でも、ほら、林琳も師匠にこっ酷く叱られただろ。外出禁止令で拗ねてたじゃん」
「お前も罰則を喰らってみたらいい。生き地獄だぞ」
敷地の外には出れず、修行に付き合わされ、厄介な来客の対応。一番弟子として当たり前の仕事を避けてきたつけが回ってきたのだ。何よりも苦痛だったのは怪奇に触れられないことだった。それに情報を仕分けるのが林琳の罰則の一つ。各地の情報が入って来るのに動けないもどかしさに林琳はうげぇ、と苦虫を嚙み潰したように舌を出した。その仕草に仁は軽く笑う。
「三日も目を覚まさない師兄を待つ俺も地獄だったけどなぁ」
「はぁ?」
未だに鈍い林琳は何を意味しているか分からないようだ。
一方で仁もこの鈍さにも慣れてきた。全く、ずっと昔からそうだったじゃないか。宗主でさえ「林琳は恐ろしく鈍い」と頭を悩ませていたし、この反応も今更のことだ。一々説明してたら神経が磨り減る。
「独り言だ、気にするなよ」
根気よく付き合っていくしかないのだろう。
仁は微笑んだまま、林琳を見つめる。そのだらしない表情に、林琳は蜜柑の皮を投げつけた。見事に仁の顔面に直撃する。
暫く二人が他愛もない時間を過ごしていると、いくつかの足音が遠くから近付いて来る。その度に短い間隔で振動で床が跳ねて、顔を見合わせた。すぐ近くだ。同じ宿にやたらと騒々しい人間が泊っているらしい。しかし林琳が心の中で十を数える前に足音はぴたりと止む。丁度この部屋の向かい側で扉が床を擦った。
「昨日までは静かだったのに。客が変わったのか……?」
「灯りがついた日はない。他の部屋は満室で、あそこだけ俺たちが来る前から空室だ」
林琳と仁が薄く扉を開けて覗き見る。小さな黒い頭が二つ凸凹と並んだ。二人が目を凝らしてみても人影は見つけられず、揃って眉を顰めた。確かに足音と扉の軋む気配がしたのだ。聞き間違いではない。
二人の部屋は宿屋の角に位置しており、近くにある部屋は最も値段の張る目の前の部屋だけ。通りに面している部屋であれば、外の賑やかな声が聞こえてくるだろうがそれもない。
騒がしさを感じた時間が一瞬で不気味な程静寂を取り戻していた。
「気のせいだったのか……」
仁が首を傾げて下にある旋毛に話しかけた。
「隙間風で扉が軋んだんじゃないか? 建付けも悪いし、よくあることだろ」
林琳はどこか腑に落ちない様子で、向かいの部屋をじっと見つめていた。
「朝は扉が開いてたのに。風で閉まったって言うのか」
「そんなの一々気にしてたら埒が明かないぞ」
毎日、空き部屋に目を向けるなんてことは、日常ではあり得ない。仁は、お互いが気づかないだけで、些細な違和感はあるものだと言う。どうしても気になるのであれば、明日、給仕の者にでも聞いてみよう。空き部屋なら、直接覗いても変には思われないだろう。
眉間に皺を寄せている林琳を扉から引き剥がして布団へと押し込み、抵抗する腕を無理矢理退ける。病み上がりには睡眠が重要だ。昔のように無茶をするのは頂けない。
これ以上の抵抗は無意味だと理解したのか、林琳は何か言いたげな顔を布団で隠し、壁側を向いた。思い通りにいかず拗ねているのかもしれない。
扉の鍵をしっかり閉め、靴を脱いで寝る支度をする仁の背中に、ぼそぼそと文句が投げられる。それから確かに聞こえてくる規則正しい寝息に驚きつつ、穏やかになった心力を感じた。林琳が仁より先に眠りにつくのは初めてだった。
驚きで寝付けないのもあるが、再び魘されるのではないかという不安が拭いきれずに時折目が覚めては様子を見に起き上がった。そのたびに黒い炎が漏れ出していないことを確認し、安堵の息を吐く。そして、己の心力に人知れず感謝する。対して珍しくもない心力だ。怪奇を祓うよりも、陣を張って心力の持たない人間を護るほうが向いている。攻撃性のある林琳とは真逆の心力だ。林琳のように攻撃に特化した心力は、他の心力と大抵相性がよくないのに、仁との相性は決して悪くはなかった。何故かはわからないが、隣にいることを許されている気がして仁は満たされるのだ。
朝焼けに照らされる穏やかな寝顔が少しでも長く続けばいいと頬を撫でた。
「私があげた蜜柑、美味しかった?」
翌朝、琥珀を連れた蘭が突然宿を訪れた。仁は、自分が身を置いている宿を教えた記憶がなく、訪問に驚きを隠せない
「何? 私の顔、忘れたの?」
心外だわ、と付け足しながら腰に手を当てる。どこから見ても、その表情は不服そうだ。
「一緒に散歩でもどうかしら。どうせ暇なんでしょ」
これっぽっちも暇ではない。
引き攣った頬をどうにか落ち着かせ、「用があるから、ごめん」と断ると、小碧を連れている林琳が目に入った。擦り寄る小碧も林琳を気遣っているらしい。いつもより歩幅は狭く、わざとゆっくり歩みを進めているように思える。
賢い生き物だと改めて感心した。
「ごめん。連れと一緒に馬を走らせに行くんだ」
「私も行く!」
楽しそうだと飛び跳ねる蘭。
騒がしさを感じた林琳と目が合うと、「面倒なものを寄越すな」と林琳の口が動く。弁解しようにも、聞くことすら億劫だと首を振って、先に歩いて行ってしまった。
ここで仁に与えられた選択肢は際どいものとなった。
御令嬢である蘭を突き放して師兄を追いかけるか、蘭を連れて行くかのどちらかだ。蘭は既に一緒に来るつもりらしく、胃が痛い。間違いなく林琳の機嫌を損ねることになるだろう。
雷が落ちるのが確定したところで、足早に林琳の背中を追う。
言い訳を考えている間に、蘭と林琳はお互いに眉を顰めて見つめ合っている。ましてや蘭は下から上まで舐めるように、まるで品定めしていると思えるほどだ。
「連れって女の子だったの」
「誰だ、お前」
「言葉使いも物騒!」
「殴るぞ」
大きく煌めく夕焼けの瞳に、今は黒く染まった丸い頭。奇妙な仮面は念のための変装で、性別の区別がつきにくいかもしれないが、それでも身長は仁より少し低いくらいで、細身だが筋肉は付いているし、女と間違えることはない。胸板だってぺったんこだ。それに、蘭のように爪が小さくもない。指の関節は太く、常に剣を握っていた手だ。
とんでもない誤解をしている蘭に「師兄は男だ」と割って入れば、色の違う瞳が二度瞬きして隠れた。しまった、口を手で覆い隠して「ご、ごめんなさい! あまりにも可愛らしいお顔だったから」とあたふたと謝罪するが、「口しか見えないのにか」と小碧の手綱を握る林琳の眉間のしわは悪化していく。
成人した男が女と間違われるのは、想像以上に屈辱だ。
「小碧、行こう」
林琳は羽織を翻し、手綱を引く。心なしか、足取りは荒々しい。
流石に蘭も反省したのか、意気消沈し、整った眉を下げて困惑している。慌てて仁が追いつくが、呆気なくジロリと睨みつけられ、萎縮した。
「行っておいで」
緑色の草が一面に生い茂る中を、小碧が嬉しそうに駆けて行く。鬣を靡かせて気の向くまま自由を楽しんでいる姿は、暖かく眩しかった。
林琳は木陰を見つけると地面に坐り、口を開いた。
「お前が誰と関わりを持とうが俺には関係ないけど……。あの年頃は面倒なんだ。いつか後ろからぐさっと」
「私はそんなことしないわ。失礼な人ね!」
「おい、盗み聞きか。性格が悪い」
終わりの見えない押し問答が繰り広げられている。林琳も煽るからか、埒が明かない。
仁は蘭を責めたい気持ちをぐっと抑えて、宿の場所が分かった理由を尋ねた。昨日、蘭と別れた後、粥を作るための食材を買って宿に戻ったのだ。後を付けられている気配もなかったし、場所を教えたつもりもない。
すると、蘭は足元で大人しく座っている琥珀を抱き上げ、「この子はとても鼻が利くのよ!」と自慢げに笑った。どうやら琥珀が匂いを嗅ぎ分けて突き止めたらしい。これでは怒るにも怒れず、仁は左右に尻尾を振る琥珀を眺める。
「貴方たち、独り身よね」
「ほら見ろ。面倒な年頃だろ……」
ぼそっと呟く林琳の言葉が耳に入った。当たってはいるが、林琳の機嫌は悪化する一方だ。
「今夜の灯籠流し、一緒に参加しましょう。二人とも暇でしょ」
当たり前のように暇人にされているが、断じて暇ではない。ひたらく言えば、人命救助をしなければならないのだから。
それに、高冥城の扉が開かれるのは三日後だ。一日中寝て過ごしたのが悔やまれる。この機会を逃せば二度と踏み入ることは不可能に等しく、焦燥感に駆られるのも仕方のないことだった。
「死者の魂を弔う時、神子の御霊が彼らの道標になる。共に祈りを捧げれば神子の加護が受けられるの。劉鳴国に遊びに来たくせに、知らないのね」
林琳も仁もれっきとした仕人で、宗派にも所属している身だ。いくら変わり者の集まりと言われても、そういった類には些か抵抗がある。
やんわりと予定がある旨を伝えて断ってみるが、一歩も引かない。最近の女子はやたらと強い印象だ。
「神なんて馬鹿馬鹿しい。一人で参加すればいいじゃないか」
「か弱い女子に夜中に出歩けって言うの。薄情な男ね」
「薄情で結構」
林琳が小碧を指笛で呼ぶ。一直線に戻ってくる賢い馬は、自由に草を喰みつつもしっかりとこちらの音を拾っていた。
「運が良ければ高冥城の庭園に招かれるかもしれないわよ。かつて神子様が愛した庭園。最も神子様に近い場所」
頬を染めて夢を描く蘭は、二人が食い付いたことを確認して腰に手を当てて微笑んだ。
「日が沈んだら集合よ。遅れてきたら許さないんだから。ちゃんと身嗜みも整えてね! 特に林琳!」
言われてみれば、仁が買ってきた淡い衣から一転、彼が纏っている衣は所々ほつれている。新しい衣はどうしたのかと聞くと、着替えるのが面倒だったらしい。折角見繕ったのに勿体無いと、仁は心の中で思う。
「どうせすぐ汚れる」
「……汚すって言ってくれよ」
勝手に衣が汚れるわけではない。怪奇を追いかけてあちこち汚すのだ。小碧を厩屋に戻すため、正門を避けて裏口に向かう
「高冥城の庭園。……昔、朱禍が師匠に話してたのを聞いた」
蘭が言う通り、神子の愛した庭園だ。それはそれは大層美しく、一目見たら夢にさえ紛れ込んでくるような幻想的で神秘的な空間。立ち入ることの許された者はごく僅かで、即位式が行われる当日だけ選ばれた者だけが拝める。
「所詮ただの庭園でしょ。なんの価値があるんだか」
「俺たちには価値がないよなぁ……地下牢への入り口なら是非とも選ばれたいところだけど」
林琳はこくりと頷く。
「……あの女、どこで知り合ったの」
「え? 蘭のこと?」
「他に誰がいるんだよ」
犬探しを手伝ったこと、蜜柑をわけてもらったこと、婚約者がいること。仁は隠す必要もなく全てを話した。
「まさか押しかけてくるとは思わなかった。ごめん」
善意で手を貸したことで今夜の調査が一筋縄では進まないことは紛れもない真実であった。
いつもなら「馬鹿なの?」と即刻反論する林琳は叱られる覚悟をしている仁に対して顔を逸らしてしまう。本人も無意識だったらしく、唯一隠されていない形の良い唇が息を吐いて、誤魔化すように顎に指を添えた。さらに気まずさのあまり小碧の顔を撫でるものだから、仁のほうが余計に言葉が詰まって微妙な空気が流れてしまう。
まだ病み上がりで本調子ではないのだと勝手に決めつけて、小碧の手綱を握っていた林琳の手からそれを取り上げる。林琳は何も言わずに隣を歩き、仁は歩幅を合わせる。
蘭の話をするのは辞めて、昨夜の出来事に戻る。
「空き部屋……朝方は扉が開いていたし、人の気配はなかった」
林琳は今朝も仁より先に起きていた。初めて先に寝付くことができ、目覚めと共に勢いよく起き上がった時、隣に温もりがないことに安堵する。実は仁は、昔から寝ぼけては林琳の布団に入り込む癖があった。それは幼い頃からの習慣で、部屋を分けたりして工夫していたが、同じ部屋に泊まる時は、仁が先に寝るまで意識を飛ばすことを避けていたらしい。どうやら昨夜はお互いに与えられた布団から出ることもなく、無事に朝を迎えられたようだ。
「明らかに昨夜は人の気配がしたのに」
「でも、人の滞在した痕跡がないんだ」
林琳曰く、人が一晩過ごせば多少の痕跡が残るはずだと言う。例えば、靴の砂が落ちていたり、備え付けられた椅子や枕に使われた形跡があったり。余程の綺麗好きであれば、靴についた汚れを払い部屋に上がるかもしれない。しかし可笑しいのは、一晩泊まったのに布団に皺一つ残されていないことだった。眠らずに一晩宿を取る理由など、林琳には思い浮かばない。
「影が騒いでる可能性は?」
捨てきれないと呟く。
「試してみる価値はあるってことか。何か事件が起きた確証がいるよな」
人の影は、人の遺す想いであり記憶だ。簡単に表現すれば、成仏できなかった思念と言ってもいいだろう。結局、影を遺した魂は成仏できないのだから。
案の定、店主を捕まえて聞き出してみれば、やはりあの部屋は一昔前から奇妙な物音がするという。最後に宿泊したのは異国の地から訪れた王妃らしい。体調を崩して療養中だった王妃の呪いだと怯える者もおり、不定期に起こる現象に気味が悪いと客人を通すことを辞めたのだ。最近は落ち着いていたのに、また始まったと頭を悩ませていた。二人の泊まる部屋が最も近く、物音が一番聞こえるのだろう。ちょうど一部屋空きが出たらしく、移動を勧められた。居心地の悪い部屋にお金を払わせる訳にはいかないと店主は頭を下げるが、林琳は首を横に振る。
「荷物も多くて移動が面倒だ。数日ぐらい我慢できる」
人が近付かないならば逆に都合がいい。
「王妃の忘れ物はなかった?」
「忘れ物ですかい? いや、何も残っていませんでしたぜ」
値の張る部屋に泊まる者は中々訪れず、姫の宿泊を最後に清掃した時からそのままの状態だ。
「気になるのであればご自由に見てもらって構いませんぜ。今夜は灯籠流しの日。もしかしたら神子様の御霊に導かれて何かが現れるかもしれませんな」
けたけたと笑う店主に若干の疑問を感じたが早速部屋の中で手掛かりを探すことにする。
店主が話したことは正しく、個人的な私物は見当たらなかった。ありきたりな家具しか置かれていない。やや埃っぽいのは、清掃が行き届いていないことを示していた。
林琳は徐に皺一つない布団に触れる。本来なら遺品等で影を呼び干渉することで想いを知ることができるのだが、怪奇が絡んでいるのであれば話は変わってくる。
意識を集中させるが、何も起こらない。どうやら部屋に怪奇は関与していないらしい。ますますわからなくなってきた。
「最後に宿泊したのが姫だとしても、影の正体が彼女だと決めるにはまだ早い。……やたらと陰の気が高いことは気になるけど」
店主の話を信じるのであれば、この部屋で特別な事件はなかった。人が死んだこともなく、不気味な現象が起こるのは決まってこの部屋だけだった。それに一点、腑に落ちないことがある。
「この国は夢天理の管轄下。幽霊が出るって噂が流れているのに、仕人が偵察に一度も来てないのは妙だ」
「俺も思った。普通だったら恐怖を感じて相談する。怪奇が現れたって騒いでも変じゃない」
「放置したって店主に利点はないだろ」
修行を積んだ仕人以外に怪奇を祓える者は存在しない。大多数の人間は恐怖に染まり、仕人に助けを求めるのだから、店主が何も行動を起こさないのは不自然だ。
林琳は山積みになった荷物を漁り、何かを取り出した。気になって背後から覗くと、仁の記憶にはない物が大量に隠されていた。その中には書物もいくつか混じっており、暇つぶしに買い漁ったのだろうと推測できる。しかし、いつものように、その趣向はどうにも好ましくない。
「選べ」
「いや、待って。選べって言われても、殆ど同じじゃん」
「どこが? 全部違うだろ」
「えぇ?」
仁は並べられた三つのお面を見比べたが、その違いを見抜けなかった。どれも変哲のない白いお面が、静かに選ばれるのを待っている。その味気なさは、冗談のようだった。
「効力の匙加減が違うから」
「何の効力だよ!?」
「付けたらわかるよ」
仁は心の中で叫ぶ。絶対に碌でもない効力だ。顔が吹き飛ぶとか、そんな馬鹿な仕組みではないだろうが、どう見ても怪しい。怪しすぎる。
「いらないの? 折角作ったのに……」
丹精込めて寝ずに作ったと話す林琳は、真ん中のお面を手に取り、玩具のように遊んでいる。仁は、その雑な扱いにぞっとした。
「いいから付けてみてよ。面白いものが見れるよ」
お手本として、林琳は紐を後ろで結び、首を傾げた。正直、不気味だ。本来穴が空いているはずの目元からは、瞳が覗かず、ただ闇だけがこちらをじっと見つめている。林琳に変化はなく、相変わらず首を傾げたままだ。その不気味さがさらに増していく。
仁がなかなかお面を取れずにいると、林琳はそっと腰を上げて扉を薄く開いた。そして手招きで仁を呼ぶ。
「……来た」
視線は一直線に向かいの部屋へと定められている。
その瞬間、明らかに気温が下がった感覚を覚える。
しかし、仁が覗いてみても目に映るのは変わらない光景だ。灯りのない空き部屋で朝と同じく扉は開かれたまま。
「何もいないよ」
扉に手を添えている頭に言葉を落としてみる。空き部屋から目を離さない林琳は一言、「いる」と静かに扉を離れた。林琳は幻覚でもみてるのだろうか。目の前にあるのは、月の光に照らされて反射する池と、虫の鳴き声、この部屋から溢れる蝋燭の光だけだ。未だに足音は消えてはくれないし、持ち主の正体は夜の静寂に溶け込んでいた。
「女だ。髪の毛が絡まって、千切れてる。身体は水分が全て抜かれたみたいに干上がって、擦り傷もある」
否な予感がした仁があっ、と口を開く前に視界が黒く染まる。
「ほら、こうすれば見えるでしょ」
徐々に視界が開けると、仁は己の視界とは違った感覚に一瞬身体が揺らいだ。仁の意思を無視して脳は無理矢理視野を広げて、視点を合わせ、対象物を拡大する。思考が追いついて、漸く仁は辺りを見渡す余裕ができたらしい。きょろきょろと至る所を見渡している。
「覗いてみなよ」
林琳が薄く開かれたままの扉を指差して促した。
恐る恐る仁が覗いたと思えば、直ぐに扉をぴしゃりと閉めて林琳の肩を掴んだ。
「あれ、なに!?」
「俺に聞かないで。でも俺の実験は成功だったってことかな」
「成功って何だよ! 得体のしれない物を勝手につけるな! その前に作るな!」
まさしくその通りである。
両肩を掴まれて揺さぶられる林琳。闇市で手引書を競り落としたと吐くまで仁は気が気ではなかった。いや、闇市と聞いた瞬間から眩暈が加わった。人体に影響は及ぼさないと言われても、問題はそこではないのだ。
「人ならざるものが見えるようになる代物らしいよ」
「師兄。見えてないものを無理矢理見る必要はないと思わないか?」
「怪奇だったら勿体ないでしょ」
「じゃあ、あれは怪奇だって言うのか」
「うーん……」
「せめて悩むなよ……」
実を言うところ、林琳もあれが何か答えを決めかねていた。人の影と判断するには輪郭が鮮明で、干渉してこない存在を怪奇と呼ぶには材料が足りない。曖昧なあれを呼ぶ名がどこにもない。林琳は辛うじて女の形を縁取るあれに接触を図りたいのか、仁の閉めた扉を再度開いて覗いた。
空き部屋に佇む彼女のひび割れた唇がしきりに動いていた。音になって耳に入ると、耐え難い嗄れた声だろう。騒音が止むと、それは空気に溶けて扉をすり抜け、滑り込んでいった。
乾いた肉体に光る首飾りが怪しげに光って、胸元に刻まれた紋様の存在を明かした。仁は首飾りに埋め込まれた神秘的な輝きを持つ石を知っている。それは、千咲国に伝わる古の宝玉、暗華石だ。
林琳は胸元に刻まれた紋様の意味を知っている。それは、人の権利を奪われた奴隷の証だ。
相入れない二つの存在を確かめるべく、二人は謎が潜む部屋へと足を踏み入れようとする。
「いけません。いけません。私は、いけません」
扉を開く寸前に想像通りの掠れた声が中で啜り泣いている。頑なに「いけません」と狂ったかのように譫言を繰り返す。がりがりと何か削れている。細く伸びきってしまった爪で一心不乱に壁を引っ掻いているらしい。
意を決して扉を開くと、それがぴたりと動きを止めて、振り向く。痛みに痛んだ水分の無い髪が顔を隠している。
——視線は合わない。
林琳と仁は女の朽ちた身体が妙に変死体に似ているとすぐに感じ取った。
本来瞳が埋まっている場所はぽっかりと窪んでいて、底知れぬ闇が広がる。彷徨う両手の指の先に土壁の屑が詰まっている。
「いけません、いけません。そちらへは、いけません」
女が声を発するが呼吸はしておらず、この世の者ではないと知る。だが、胸元にある暗華石だけがこの世で未だに形を保っている気がした。
「お前は、誰だ?」
林琳が問う。
それでも女は同じ言葉を繰り返した。
何度も、何度も、何度も。
「どこに行くんだ」
「いけません、いけません」
「一人で行くのか」
「いけません、いけません、いけません」
わかってはいたが、女との会話は成り立たない。
得体の知れない存在は林琳へと触れようと手を伸ばす寸前の所で止まった。仁は咄嗟に女を引き剥がそうと動いたが、「問題ない」と林琳の手によって拒まれてしまう。
「お前は、どこにいる?」
女の指先は次第に震えて力なく垂れ下がる。
「あぁ、つめたい、つめたい。くらいここからは、どこにも、いけません」
金切り声が脳裏に響く。
二人は同時に耳を塞いだが、意味はない。
——のろいです。わたしは、あのひとに、のろわれている。
◆
手掛かりも見つからぬまま、謎は深まる一方で、蘭との待ち合わせの時間になってしまった。
「良かったわ。もしかしたらって心配だったのよ」
蘭は編み込まれた髪に簪を幾つも挿し、立っていた。真っ直ぐに伸びた背筋と頬の紅が見事に花咲いている。何枚も重ねられた衣は、その質感からも良家の娘だと一目でわかるだろう。眉間の皺さえどうにかなれば、だが。
「その変なお面、気持ち悪いわよ?」
「それなら、離れて歩けばいいよ」
林琳は嫌な雰囲気を感じていた。居心地が悪いのは蘭がいるからか、それとも度々すれ違う仕人の気配のせいだろうか。相棒として握った竹は、汗で湿っていた。
「あのぅ……お嬢様、こちらの方々は一体……?」
か細い声を震わせて、蘭の背後から小柄な少女が現れる。
「護衛よ。ご、え、い」
「えぇえ……そんな話聞いてませんよぉ……」
蘭より年下の少女は、旅に同行した侍女だった。見るからに気弱で、じゃじゃ馬の蘭の世話を焼くには不釣り合いだ。仁はすでに蘭の性格を把握しており、気弱な侍女が苦労しているのを見抜いた。
「仁、俺たちはいつの間に護衛になったの」
「師兄、俺も知りたい」
肩を寄せて耳打ちし合うと、蘭に腕を掴まれ、強制的に人の輪に足を踏み入れてしまった。侍女の明月は、三人に比べて短い足を必死に動かして、はぐれないように人の波を掻い潜る。それでもどんどんと遠くなる背中。このままでは完全に孤立してしまう。ただでさえ人見知りの激しい性格だ。不安と恐怖で涙が溢れそうになった瞬間、袖を掴まれた。
——ひぃいい! ひ、人攫い!? 私はお金も無いし、貧相な体で売り物にもなりませんよぉ! そばかすだって顔中に! ただの侍女で御座います! 嗚呼、誰か助けて……!
遂に地獄からの迎えが来た。いっそのことさくっと殺して欲しい。何よりも痛いのは嫌いだ。今更、見逃してくれはしないか。なにもかも口に出ている。
ぎゅっと目を瞑り、痛みに備えた明月の頬に涙が伝う。
いつまで経っても襲ってこない痛みに、片目を恐る恐る開けば、先程よりも歩きやすいことに気が付いた。想像していた乱暴な手つきではなく、掴まれた衣が優しく引っ張られている。なすがまま連れられて歩けば、人の波に攫われることはなくなった。
明月は手の持ち主が一度も振り返らないのを理由に、知らずに俯いていた顔を上げる。
「……あの、ありがとうございます……」
「別に。あの女が騒ぐほうが面倒だから。それより前を見て歩きなよ。背後から踏み潰されても知らないよ」
「す、すみません」
——ドンッ
「ぎゃあっ!」
注意された側からこれだ。
「お前、群を抜いて鈍臭いなぁ……」
それなりの勢いで躓いた明月に林琳はため息を我慢できない。転ばずに済んだのは林琳が衣を強く引いて受け止めたからだ。前に引かれた反動で思い切りぶつかってしまったものの、体制を崩さなかった林琳に、明月は驚く。細身の肉体には隠れた筋肉。微かに伝わる体温と呆れた声。
胸の奥にふわりと故郷の温もりに似た暖かさが掠める。
明月は身体中の熱が上がって火照って堪らない。血液が全て沸騰しそうだった。頬が、熱い。
明月は、男が面をしていて良かったと心から思う。視線が合えば今度こそ恥ずかしくて逃げ出してしまいそうだ。出来ることなら今すぐに走り、大声で胸の違和感を吐き出したい。
「おーい、聞いてる?」
「へぁ!?」
「灯籠流し、お前もするの?」
「あ、え、はい! やります! やらせてください!」
こんなにも声を張ったのは初めてかもしれない。自分の声が想像以上に響いた気がして恥ずかしくなった。
「あの……林琳様は?」
「興味がないから。ほら、あそこ。空いてるから行っておいでよ」
林琳の指差した場所には僅かに人と人の間隔が生まれている。明月の身体なら丁度収まりがいいだろう。
「お嬢様は……」
そのまま次は右側の橋を指差す。そこには灯籠を持った蘭と仁の姿があり、はぐれてはいなかったのだと安堵する。夜空の下、灯籠を浮かべる二人は談笑していて、側から見れば誰もが羨む関係だろう。一夜だけの護衛と、隣国に嫁ぐ富豪の娘。まるで物語のようだと思った。この先も苦労をするであろう主人に例え一夜限りでも幸せを感じて欲しいと願う。
明月は不意に聞こえてきた欠伸に持ち主を横目に見る。
「なに?」
「えっ、あ、その……」
冷めたはずの頬がまた熱を持つ。
一緒に灯籠流しをしたい、なんて言えるわけがない。初対面の上、興味がないのに無理矢理付き合わせるのは気弱な明月には無理難題で、何も言えずに俯く。
引っ込み思案、気弱、度胸がない、弱虫。
全て明月からすれば慣れた言葉だ。この性格のせいで年下からも見下されて馬鹿にされた。一言、独りは怖いからそばにいて欲しいと言うだけなのに、ただの侍女には不釣り合いだろう。視線は心と共鳴して徐々に足元へと落ちていく。
無言の時間が流れ、明月は息が詰まった。何か言わないといけないのに、言葉が出てこないのだ。嗚呼、心底嫌になる。気の利いた話すら出来ない。ましてや、自由奔放な主人が我儘を言って付き合わせているに違いない。この時ばかりは明月は主人を恨みそうになった。
幾つもの灯籠が水面を滑るように流れ出ていく。
「え……」
差し出された一つの灯籠。
光の灯されていない灯籠に明月は目を見開く。ゆっくりと顔を上げると、ずい、とそれを押し付けられた。
「ありがとう、ございます……」
手招きする老婆に火を分けてもらい、先程より人が少なくなった水辺にそっと浮かべる。不安定ながらも穏やかに進む灯籠。あちらこちらで浮かべられた灯籠は美しく水面に咲く。その光景に見惚れている明月は、人を待たせていることを思い出して振り返る。置いて行かれたのではないか、慌てて水辺を離れて姿を探せば、数歩離れた場所で林琳はまた欠伸を噛み殺していた。明月が浮かべた灯籠が光の群れに加わった時、終了を知らせる花火が上がる。
空を見上げた人々から感嘆の声が聞こえ、明月も例に外れず心を奪われては思わず立ち止まった。夜空に散りばめられた鮮やかな花。自国では滅多に上がらない花火を間近で見ることのできる貴重な瞬間だ。
しかし、どういうわけか明月は林琳のほうが気になって空を見上げることをやめた。
色鮮やかな花火にも興味はないのだろうか。木に寄りかかって微動だしない姿を一番大きな花火が照らした。花火によって隠れていた二つの瞳が煌めいて——明月を射抜く。
心臓がどくん、と暴れようとする。
「……あぁ、どうしよう……、こんなの……なんてこと……」
——お嬢様、わたし、恋をしてしまいました。
柔らかい光が、幼い心へと灯る。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
大きな花火が夜空に咲き誇り、日が変わる前に灯籠流しが終わりを迎えた。
蘭の頬が緩み、心の底から楽しかったと伝えるその声には、嘘偽りのない感謝が溢れていた。その笑顔に仁も思わず笑顔を返した。花火も灯籠流しも、山雫国には縁のない行事であり、流れる光景が一つ、二つと増えていく様子に心躍る。
淡い光が死者の思い出だとすれば、水面に反射した月は神子の御霊のように見えた。まるでこちらへおいでと誘うように、月の梯子が延びている。ゆらゆらと揺れながら、光の欠片たちが一直線に向かう。死者を弔い、愛し続ける文化の尊さに、思わず息を呑んだ。この美しい光景に、林琳は何を感じているのだろうか。
蘭の細い腕を振り払うことができず、心のどこかに不安が残る。侍女の明月もここにはいない。
「あら、案外いい雰囲気ね。言葉が冷たいと思ってたけど、明月が逃げ出さないってことは……根は優しいのかしら」
蘭の視線の先には、仁と明月が肩を並べている。どちらかの肩に人がぶつかれば、二人の肩は間違いなく触れ合うだろう。俯き気味の明月が華奢な肩を震わせながら笑っているのを見て、蘭は心が温かくなる。しかし、仁は言い表せない不快感を覚えていた。
暗い森の中でざわめく木々が、恐怖心を掻き立てて化け物に見える錯覚が胸を締めつける。こんな思いをするくらいなら、灯籠流しなど来なければ良かったと、思わず考えてしまう。
その醜い感情に気づき、蘭の横顔を見た瞬間、仁は自分の心の奥底に蓋をして己を恥じた。 帰り道にやたらと蘭が話しかけて来たが、眠りにつくまで不安定な足元を見ることで必死で、酷く朧げな記憶となってしまったことを後日悔いることになる。
◆
「明月? どうしたのよ、ぼーっとして」
翌朝、蘭は上の空の明月を心配していた。毎朝同じ時間に起き、朝食を用意し、一日中蘭の世話をする彼女の様子が明らかにおかしい。気弱で生真面目な侍女が、今朝はお茶をこぼしたり、磨き上げられた髪飾りを無心で布で拭き続けたりしていた。赤面して口をもごもご動かし、何かを言いたげなのに、決定的な言葉が出てこない。風邪かと尋ねると、彼女は首を横に振って誤魔化す。
「怪しすぎる」
女の勘が警告を鳴らす。
「あの、お嬢様……」
「なぁに」
一つ、蜜柑を啄む。
「君主様より伝令が」
「父上から?」
「明日、高冥城で開かれる即位式に参列するように……と」
「そう、使える手駒が減ったのかしら」
宗派"翠雲"の宗主は千咲国の君主でもある。そして蘭の最も近しい血縁関係。即ち、父だ。
「私が参列したところで状況は変わらないわ。中途半端に中立を守ろうとするからこうなるのよ」
風に遊ばれて髪が靡く。
「自業自得ってね」
嘲笑う蘭に明月は身をわきまえて口を閉ざした。
国の為に隣国の男へと嫁ぎ、国の為に即位式へと赴く。蘭は公主という立場に誇りを持って生きてきた。いかなる時も国の為に生きて、死んで行く。この世に生を受けた時から決まった運命なのだ。争う理由はない。
「失礼ながらお嬢様、君主様の伝令とはいえ、危険ではありませんか?」
「流石に殺人なんて起きないわよ。劉鳴国にとっては大事な即位式よ」
それを見越して君主は参列を望んでいる。
「ですが、公主のご身分は隠せません。万が一のことがあれば……」
「いるじゃない、適任が」
「え?」
「護衛がいればいいんでしょ」
もしかして、と明月が呟けば、蘭はにっこりと笑って頷く。
「暇人二人を迎えに行くわよ!」
明月は道中、蘭をやんわりと引き留めて考え直すように伝えてみたが、すでに約束をしているのだと頑なに聞く耳を持たない。昨夜の帰り道に今日は街を見て遊ぶ約束をしたらしいのだが、確実に一方的に取り付けたに決まっている。迷惑極まりないのに、明月は己の浮き足立っているのを隠せずにいた。
——もう一度会える!
蘭と仁が歩く後ろで、明月と林琳もまた会話を楽しんでいた。あまりお喋りではない明月は、相手が何かしらの反応を示してくれるだけで有り難かった。林琳のぶっきらぼうな言葉遣いでも、無視されることはなく、相槌や短い返事を一つひとつ噛み締めていた。
恋は盲目と言うが、まさしくその通りで明月の頭の中は奇妙な仮面をつけた男のことでいっぱいだった。それでも、蘭には秘密にしなければならない理由があった。国のために愛もなく隣国に嫁ぐ悲しい主人を苦しませてはならない。満足に恋もできず、一回りも上の男に嫁ぐ心労は計り知れないし、己もまた隣国に行くのだから、この恋は少しばかりの幻だと思うことにした。
身勝手に抱いた感情を何も知らない相手に押し付けたくはなかった。心が通うなんて、想像するだけでも烏滸がましい。
様々な葛藤を胸に宿を訪れた明月は、居心地が悪そうに小声で「本当にご迷惑を……」と林琳を見上げ、眉を下げた。
「お前も苦労人だな」
「とんでもないです。侍女はお世話するのが仕事ですから」
「窮屈だって思わないの?」
「思う理由がありません。お嬢様にお仕えできて私の人生は変わりましたから」
「ふーん」
「蘭の瞳は生まれつき?」
「え? はい、私はそう聞いてます」
昨夜と同じように宿へと押しかけて来た蘭が仁と前を歩いている。
「急に護衛をお願いしてしまって、すみません。無理をさせていませんか?」
流石に林琳も唸りかけたが、明月が事情をかいつまんで説明し、高冥城で護衛をしてほしい旨を伝えれば、悩んだ末にこくりと頷いた。いきなりのお願いを受け入れてくれた二人に、明月は頭が上がらない。
「それ以上謝るなら口を閉じて」
「……はい」
不意に名前を呼ばれただけで心臓が跳ね、明月が下からこっそり覗けば、林琳が思い切り欠伸をして首をぐるりと回しているのを目にした。
「寝不足ですか? 昨夜も眠たそうでしたね」
「近くの部屋が騒がしくてね」
「あまり酷ければ店主に話をしたほうが……」
もしかしたら素顔にはのっぺりとした隈をこさえているのかもしれない。
「睡眠を疎かにしてはいけません! いいですか、人の身体は知らぬ間に疲労が蓄積され、思いもよらない時に爆発するのです! 仮に眠れているとしても、その質も考えて……」
どれだけ睡眠が大事かを説いていると、隣から笑い声が聞こえてきた。大声で笑わずに、くすくすと静かに笑うその声に、明月は顔が茹蛸のように真っ赤に染まった。しどろもどろと話す明月が急に饒舌に語るものだから、面白くて仕方ないらしい。顔を両手で隠して俯く明月の口は、音にならない声を溢し続けていた。
「侍女ってみんな睡眠にうるさいの?」
「すみません……忘れて下さい」
確実に揶揄われていると感じる。
「ちょっと、私の可愛い侍女を虐めないで」
「お、お嬢様! 違います、あの、私が……」
ぐるりと勢いよく振り返った蘭は、林琳に詰め寄り、長い爪が仮面に触れた。林琳は仁を見て「どうにかしろ」と訴えたが、目を逸らされてしまった。
——おいおい、お前の担当だろうが。こっちに押し付けるな。さっさと引き取ってくれ。
仁には林琳が思っていることがわかっていたが、何もしなかった。目が合ったことさえないことにして、無視を決め込む。
明月が弁解することで漸く蘭は納得したらしい。
「私の侍女を虐めたら痛い目に合わせるわよ!」
「あー、はいはい」
言い掛かりにしては酷すぎる。言い返せば余計に燃え上がると思い、右から左に聞き流していると、満足したのか軽い足取りで仁の腕を引いた。驚いた仁がこちらを見るが、林琳もまた、くいっと袖を下に引かれて隣を見る。明月か何か言いたいらしい。
「あまり間に受けないでください。お嬢様は私のことを家族のように扱ってくれていて、悪気はないんです」
林琳はばつが悪そうに口を開く明月に対して「知ってる」と肩をすくめた。続けて「理解は出来ないけど」と付け足し、腕を組む。気を悪くしたかと心配したが、大丈夫そうだった。
「明月! ほら、早く!」
「すぐ行きます!」
高冥城で行われる即位式に備えるため、一同は簪や髪飾りを取り扱う名店へと足を運んでいた。自身の髪飾りを買うのかと思いきや、なんと林琳と仁、それに明月の物を見繕うらしい。明月は侍女には恐れ多いと断ったが、人前に出る以上、それなりの格好をしなさいと怒られてしまった。林琳は強く拒否したが、既に蘭が支払いを済ませている。髪の短い林琳には簪は似合わず苦労したが、何度目かの試着で納得のいく身なりになったらしい。少し伸びた髪を多少強引に纏める時に出た短い悲鳴は無視された。仁は長い髪を一つに結い上げ、美しい琥珀の細い簪を挿している。勿論、それなりに値は張る。明月は金額に驚いていたが、己の頭で揺れている真珠と自然の珊瑚で作られた簪の値段を聞いて気絶しかけた。
お手本のように「はふぇ」と情けない声を出したものだから、林琳は馬鹿にしてまたくすくすと笑った。
「夕方になったら引き取りに来るわ」
「はい、毎度ありがとうございます」
高価な物を身につけたせいか、明月は妙に気を張って疲れたのを実感した。買い物好きの蘭に付き添う日も多かったが、今日は特に緊張しているようだった。いつものように人目を気にするのではなく、逆に仕草に気を遣っているからかもしれない。また、ここまで付き合ってもらっている申し訳なさもある。肩身が狭い、といったところだ。
出店を眺めながら通りを歩いていると、蘭が一軒のこぢんまりとした店が気になるらしく、少しの休憩をとることになった。
居心地の良い静かな店だ。扉で仕切られておらず、天井から吊り下げられた白い布が風に揺れ、優しい風が吹くと涼しげに揺れた。こうして間が切られた席は三つだけ。昼時を過ぎているせいか、他に客はいなかった。
一行は穏やかな老父の好意で日当たりの良い席に案内され、当たり障りのない話をしながら食事を楽しんだ。さらには老父の好意で、劉鳴国の名物の菓子と茶で一休みすることになり、話題は高冥城の即位式についての口裏合わせへと変わった。
「つまり俺たちは昔から面識のある間柄で、偶然劉鳴国で再会、心細い蘭の護衛に買って出た……ってことか」
「そうね。それが一番良いと思うわ」
仁が机に肘をついて息を吐く。
「はー……まさか一国の姫様だとは思わなかった」
「嘘はついてないわよ。言わなかっただけで」
金銭感覚のおかしい理由が分かった。出身を語らないが、箱入り娘のお姫様だったのだ。護衛を連れて来なかったのかと聞けば、使用人だけ連れて来たらしい。よく親も許可したものだ。
「即位式で問題を起こす馬鹿な人はいないわ」
参列して挨拶をすれば任務終了で、それ以上のことは何もない。蘭からすると、二人には割の良い簡単な仕事だと思って欲しいようだった。
「万が一、危険を感じたら逃げても良いわよ」
「おいおい。馬鹿にしてるのか?」
仁は片眉を下げて言う。男が女を差し置いて逃げるなんて恥知らずもいいところだ。
「そうね、ごめんなさい。失言だった」
そもそも即位式で騒動が起きたら、夢天理や他の参列者が率先して行動を起こすだろう。恩を売りたいのはみんな同じだ。蘭は驚いた様子で仁を凝視した後、明月を見た。
「何かあればちゃんと守る」
「守るなんて……あぁ、もう! 照れ臭い……」
驚く要素がどこにあったのだろうか。林琳と仁は、頬に手を当てて熱を覚ましている蘭に首を傾げた。明月は何も聞かないで欲しいとそっと首を横に振る。
「それよりも貴方たちの話が聞きたい。いつから二人で旅をしているの?」
蘭が瞳を輝かせて話を急かす。
「物心つく前から、かな」
余計なことを口にするなと咎める視線を受けたが、仁はそっぽを向いてお構いなしに言葉をこぼしていく。らしくない言動に林琳は机の下で彼の右手の甲を爪で引っ掻いた。
興味津々に耳を傾ける二人は聞き慣れない言葉を耳にすると目を輝かせて、日が傾き始めるまで摩訶不思議な語り部は続く。
仁が語るのは林琳と過ごした遠い昔の話だった。片燕に繋がる単語は出ていなかったし、林琳も「確かにそんなこともあった」と記憶を辿って照らし合わせて、心地よい風に身を委ねていた。温かい日差しが差し込み眠気を誘う。
敵地に近い場所なのに心は穏やかだった。
「お嬢様、お時間ですよ」
「あら。もうそんな時間……日が傾くのが早いわね」
「私が取りに行って来ます。お嬢様はこちらでお待ちください。すぐ戻りますから」
一人で大丈夫なのかと蘭が心配する。
「お店はそれほど遠くないですし、何かあれば大声で叫びますから」
任せてください、そう言って拳を握るが、人攫いにでも遭遇すれば頼りない細い腕では到底敵わないだろう。可愛い侍女の身が心配で蘭が腰を上げるよりも早く、「俺がついて行くよ」と一人立ち上がった人間がいた。
「……林琳?」
仁だけでなく、明月までもが驚愕する。
微動だにしない仁を不思議そうに見て林琳は風に揺れている白い布をくぐり振り返った。
「等価交換ってことで」
その場で蘭だけが面白そうに目尻を下げて微笑み、手を振って二人を送り出した。
唖然として間抜けに口をぽかんと開けている仁はさながら抜け殻のような姿だ。
「ごめんなさい、私が教えちゃったのよ」
なにを教えたと言うのだろう。
「蜜柑。あなたじゃなくて、林琳が好きなんでしょ」
迂闊だった。明月は蘭から林琳の好物を聞いて、見てない間に渡したのだ。仁は鈍くなった思考をどうにか加速させ、蘭の言葉を飲み込んでやっと答えに辿り着いた。
「別にいいじゃないの。高価な貢物でもなく、ただの蜜柑よ」
違う、断じて違う。重要なのは林琳に贈り物をしたかどうかなのだ。
変に真面目な林琳は対価なしでは受け取らない。つまり等価交換を真っ先に考える。貰ったものは何であろうと相応しい形で必ず返す、それが贈り物を受け取る条件だ。林琳のことだ。蜜柑に対しても対価を払おうとしただろう。それを明月は拒んだに違いない。蜜柑を受け取ってしまった林琳は宙に浮いた対価を今払う為に付き添っているのだ。
仁は考えれば考える程、眉間に深い皺が刻まれているのに気が付いていない。
「明月も年頃だし、男性と親睦を深めるのもいいと思うの」
「全然よくない!」
「なぜ? 気弱だけどしっかりした子よ。林琳は騒がしいのが苦手でしょう。その面も明月との相性は良いと思うのよね。……ねぇ、ちょっと、そこまで怒らなくたっていいじゃないの」
「怒ってない!」
声を荒げる姿は誰がどう見ても腹が立っている人間の言動だ。癇癪を起こした子供と表現してもあながち間違いではない。仁が腹いせに菓子を口の中に放り込むので、手を付けていなかった明月と林琳の分も消えた。
「あなた、少し怖いわよ」
「ふん!」
口の両端を汚した仁が薄い唇を乱暴に指先で拭うと、包みを一つ抱えた明月と、その二倍の大きさのある包みを二つ林琳が抱えて戻って来た。
「戻りました」
明らかに小柄な明月が一人で持って来れる量では無く、現に明月は額に汗を滲ませている。
「ありがとう」
蘭は間違いなく知っていたのだと仁は持ち前の直感で見抜く。知っていた上で明月を行かせて林琳に手伝わせたのだ。涼しい顔で包みを持つ林琳は機嫌の悪い仁を怪訝な顔で覗き込む。「蘭と揉めたの?」と何食わぬ顔で聞くので、仁はより一層腹が立って口を尖らせる。
どうせ林琳がわざわざ聞いたのも蘭と揉めれば高冥城に足を踏み入れる機会を失うからだ。それも理解している。
「林琳様、お手を煩わせました」
一人では到底持てない大きさで往復すれば良いと思っていた時、横から軽々と持ち上げられて包みが二つ突然消えた。明月がそう伝えると、何か閃いた蘭は明月を呼ぶと耳打ちする。
「今夜、抜け出して夜市を見て回りなさいよ」
「へ!? そ、そんなの、絶対無理ですよぉ!」
「またとない機会よ。逃したら勿体無いわ」
「二人でお食事なんて……粗相をするに決まってます! 食べ物が一切喉を通りません!」
「明月、明日が終わればお別れかもしれないのよ。それでも良いの?」
「お嬢様ぁ……」
良いか悪いかで迫られれば、決して良くはない。もっと話してみたいし、知りたい。蘭が何を言いたいのか、明月は同じ女として良くわかっていて、さりげない気遣いに助けられてきた。いかんせん、恋をしたのはこれが初めてなのだ。
「まったく……はぁ」
「すみません……」
「無理に押し付ける気はないわ。でもね、あなたには自由に恋をして幸せになって欲しいの」
宿に戻ってから蘭は目を伏せて語った。
大切な侍女。理由はどうあれ、蘭にとって明月は家族なのだ。蘭の侍女でいれば不自由のない生活は送れる。ただ、それもついこの間までの話だ。今はもう千咲国の立場は危うく、夢天理に取り込まれるのも時間の問題だろう。隣国に嫁ぐのだって、千咲国の為だ。全ての言動に責任が重くのしかかる。こうやって好き勝手に劉鳴国を満喫する許可が出たのさえ奇跡に等しい。花狐君主からすれば夢天理だけでなく、劉鳴国に付け入る良い機会だと考えているに違いない。
国を支えてくれる国民たちを守る為には、例え自由がない世界だとしても責務を果たすべきだと理解していた。
「私の幸せはお嬢様が自由に生きること。約束しました。ずっとお側に置いてくれると。ですから、この恋は期間限定です!」
「明月……」
「私はとても幸せです。まさか恋が出来るなんて思ってもいなかったから」
明月が蘭の手を取り微笑む。
「宗派翠雲であること、お嬢様の侍女であること、千咲国の国民であること。全部私の誇りなのです。どうか私をお側に置いて下さい」
「……巻き込んでごめんなさい」
「いいえ。私はずっと隣に居ますから」
明日の即位式だって、本来は出席しなくて良かったはず。
ところが千咲国の内情が変わったのだ。無表情の父が何を考えているかわからない。それでも国を治める花狐君主の決定には従う他なく、蘭は窓から覗く橙色の空を見上げた。
凧が空を泳いでいる。凧糸が絡んで、解けて、何度も繰り返しては泳ぐ。まるで入り乱れた運命のようだ。
「母上も同じ景色を見ていたのかしら」
明月は微かに蘭の震える手を優しく撫でて寄り添い頷く。
行方不明となった蘭の母、つまり、千咲国の王妃が最後に訪れたのがこの劉鳴国であった。君主でさえも引き留めたと言うのに、王妃は頑なに拒んで譲らなかった。蘭は母が旅立つ前部屋の中で我武者羅に暴れて花瓶を割ったのをよく覚えている。花瓶は父が母に贈った最初の品だったし、常に花が生けられていたのに。徐々に壊れていく母を父が隠したのと同じで、蘭は泣きながら粉々に割れた花瓶を拾い集めて大切に隠している。
「それなのに手がかりはこれだけ……」
差出人不明で届いた手紙は母の足跡を辿るもの。
得体の知れない手紙を信じてここまでやってきた。
「まだ時間はあります」
「父上は何故、私が劉鳴国に行くことを許可したと思う?」
何も言わずに俯く明月に蘭は笑みを作った。
初めは母の後ろ姿を辿って探すことを父も望んでいるのだと信じていた。心のどこかで父も母を探していて、国を背負う立場では動けないことから、送り出してくれたのだと。婚約も控えている手前、普通ならば許可しないだろうに。優しい父だったのも母が共にいたからだろうか。
「父はきちんと愛してくれたわ。でも、それ以上に国を守らなければならない。そんなことわかってるのよ」
答えは単純明快で、父は母よりも国の存続を取っただけだ。
娘よりも国の安寧を選んだ、それだけだ。
何もおかしくないと言い聞かせる。
「私だって千咲国の公主よ。国を守る責任がある」
きつく握りしめられた手は蘭の強い意志と葛藤を表していて、明月は泣きたくなった。
「全うしてみせるわ。絶対に負けない。それに——皆を護らないと、母上にも顔向けできないわ!」
高冥城ではつけ入る隙を与えずに背筋を伸ばして、堂々と息をする。どんな時だって下を向かずに生きなさい、母の口癖だ。国の中立に強く固執したのも母だ。
悪にも染まらず、正義にも染まらない。千咲国は中立を保ってきたが、このままでは直に取り込まれるだろう。父でさえも夢天理に傾きつつある。
しかし、千咲国は弱くなどない。姑息な真似で脅かされた人々が思い通りに動くと思うな。母が愛した国。父が護ろうとする国。
「——下手に噛みつこうものなら、骨の髄まで毒で犯してやる」
毒姫の肩書は誰にも譲らない。
◆
悪夢を見た日から、林琳の脳裏にはこびりついて離れない記憶がふとした瞬間に姿を見せるようになった。
眠りについているとき、湯船につかっているとき、独りで出歩くとき。
視界の一部に見覚えのある炎がちらつく。見慣れた己の心力である。気のせいではない。この不快な現象が起きるのは初めてではなかったのだ。
ふと目を細め、高冥城を霧が覆い始めたのを見て、林琳は息を吐いた。片燕が山雫国に拠点を構えるずっと前から、この記憶は彼の中に潜んでいた。
一度も己の心力を嫌ったことはない。寧ろ、黒い炎は好きだ。それは腐った世界を渡り歩く中、最も自分を守ってくれた存在だった。恐ろしい現実から自分を包み込んでくれる力。多くの人間がその攻撃的な力に怯えて離れていったが、林琳は追いかけるつもりはなかった。必要なものは、戦う力と怪奇に近づく手段だけだったからだ。
それでも——一度染められてしまった過去は変えられないのだ。
凹凸のある一本道で馬車が跳ねて、林琳は目を開ける。
「霧が濃いな。それに嫌な予感がする」
仁は小窓を開けて周囲を確認した。
昨日までは高冥城の天辺まで目視で確認できたのに、今は前を走る馬車さえ捉えることが難しい。
「ええ。嫌な空気だわ」
着飾った蘭も反対側の小窓から外を覗けば、シャラン、と簪が揺れて音が鳴った。赤く引いた紅が一層蘭の顔立ちを華やかにさせている。
「ほ、本当にこの道で大丈夫なのでしょうか……?」
蘭の美しさには劣るが、明月も柔い色で纏め上げられていて大層可愛らしい雰囲気だ。特に目尻に咲いた花が愛らしい。
馬を操るのは蘭の世話係の男で道に間違いはないと言う。予め下見をしていたし、目印だって存在している。ただ予想以上に霧が濃くて視界が悪く道に落ちている石に気が付くのが遅れて、馬車が必要以上に揺れてしまっているらしい。
不安は募るが前後で馬車の音が聞こえており、他の参列者も同じ道を進んでいるのがわかる。
「しっかり捕まっててください。この先も揺れますから」
そうして高冥城の門を跨いで降りた時、揺れていない地面に安堵した。やや酔っている感覚はあるものの、馬車の揺れに比べれば問題ない。
「着いたわね。即位式の晴れ舞台には相応しくない天候だけど、流石に参列者も多いわ」
あちらこちらで止まっている馬車に目を見張る。中には一面金色のやたら目立つものもあって、他の参列者が一体どんな富豪が来たのかと持ち主を探していた。
蘭と明月が手続きを済ましている間、林琳と仁は周囲に目を光らせて、地下への入り口を探す。奥の本殿に繋がる一本道とは別にそれぞれ大きな宮が存在している。恐らく側室の宮だ。女中が何人か仕事をしているのが薄っすらと見える。数が少ないのも各々の主人が本殿に腰を据えているからだろう。
「なんだ、あの宮……」
黒い靄が立ち込めている宮。
煌びやかな宮が並ぶ輪から外れた建物には人が見当たらず、長期間人が生活してないように感じられた。他の宮に比べて質素な作りで花の手入れすらされていない宮が気になって足を止める。
宮への入り口は林の奥だ。
なぜあんな場所に宮があるのだろうか。
「止まらず進みなさい」
兵士に睨まれた林琳がもう一度宮を見ても黒い靄はなく、後ろに並んでいた人間に半ば押し込まれる勢いで押し込まれた。
巨大な門を通り過ぎても屈強な戦士がぐるりと高冥城を囲むように立っており、人数も桁違いだ。仕人かは定かではないものの、相当の場数を踏んでいるらしい。顔も古傷だらけだ。
「即位式が終われば庭園に移動するはず。その隙を狙って探すしかない」
地下牢は二人の立っているこの下にあるのだ。
必ず通じる道は存在するだろう。
仮面で素顔を隠した林琳と仁は蘭と明月の斜め後ろを付いて歩く。
「ここね」
本殿に足を踏み入れると空気が一変する。
非常に清らかな心力が本殿から降り注ぎ、鈴の音があたりを包む。——嗚呼、恐怖を抱く清らかさだ。
参列者の後方で林琳は天井を見上げて、気味が悪いと呟く。
四方八方で詠嘆の声が上がる中、林琳と仁だけが不愉快だと眉を顰めて即位式が早く終わるのを待つことになった。
林琳は気を紛らわせようと上座に座る人間を盗み見ると不意に一人の女と視線が合った。
正しくは女がこちらを見ている、が当てはまるかもしれない。
——墟狼衆の冽。
来賓紹介で名前が挙がっていたのを忘れていた。だが、公の場に出ることを嫌う性格だったはず。
どうやら仁も気が付いたらしく微かに呼吸が止まる。
かつて冽は墟狼衆の指揮官を務めていたが、十年ほど前に脱退している。心力を一切持たないまま、単独で怪奇を研究する異端の存在だ。それでも、仕人たちにとっては多大な貢献を果たしている、命知らずで厄介な人物だと評されていた
彼女を視線から外すと、次に目に入るのは、三人の麗しい側室たちだ。座る姿勢からして彼女らは現国王の側室であることは間違いない。さらに、正室である王妃が優雅に扇子を仰ぎながら微笑んでいる。豊満な胸元が露わになり、その白い肌が光を反射して輝く。男たちの視線はだらしなくそれに引き寄せられ、熱っぽい息遣いが周囲に漂う。林琳はその光景に嫌悪感を抱く。欲望に忠実すぎる彼らに、彼はうんざりしていた。
「始まるわ」
蘭がそう告げた瞬間、本殿の喧騒が静まり返る。漆黒の長髪を揺らしながら現れた男が、冷静な声で参列者たちに感謝の言葉を述べ、即位式が正式に始まる。
「我が国、劉鳴国はいかなる時も全世界の悪事に立ち向かってきた。血を血で洗う時代から今に至るまで、一度たりとも平和を願わなかった日はない。戦で行く場を亡くした者が我が国に救いを求めれば、掬い上げて来た。この先も変わることはないだろう。しかし、現国王は変化を望まれた。新しい時代を築き上げるのは、次の世代だと」
鈴の音が一層大きくなると、舞台裏から国王が現れ、長年の感謝を長々と語り、二つある椅子のうち装飾の控えめな椅子へと腰を下ろす。正直国王の言葉は殆ど聞き取れなかった。興味がなさすぎる。
不快感を煽る心力だけでなく鈴の音が頭に響く。完全に身体が拒否反応を示していた。
それでも林琳の視線は王座を捉えている。
——大変有難いお言葉だな、さてさて、新国王はどんな人間だ?
今か今かと待っていると、高い天井から紙吹雪が散り始めた。その中を颯爽と歩く人物の姿を目の当たりにして、本殿の参列者は驚きを隠せず、ひそひそと声を潜めて言葉を交わす。次第に本殿は人々の話声で溢れかえってしまった。
前にいる蘭と明月も耳打ちしながら話しており、状況を理解できないのは二人だけらしい。
「蘭、あれは一体誰だ?」
「知らないの!?」
声を潜めたまま蘭が仁のほうに振り向く。
「現国王の養子で、夢天理の幹部よ! まさか血の繋がった息子よりも、養子を即位させるなんて!」
功績を収めてるのは息子の久河で、養子である吟凌は遊び惚けていると話題だった。その割に夢天理では地位を持っている為か一部では強い支持はある。
この場にいる者全て奏張が即位すると思い込んでいたのだろう。足を組み王座に座る吟凌に戸惑いを露わにした。
進行役の男が場を静まらせると、吟凌は不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、準備されていた言葉をつらつらと述べていく。
義兄ある第一皇太子は病に倒れて今は表舞台には立てず、仕方なく己が即位したのだと、吟凌は断じて臨んだ即位ではないと説明した。挙げ句の果てには、久河の為に神子へ捧げる剣舞さえ披露した。これには前国王も深く頷き、参列者含め、未熟者を支えて欲しいと要望した。望んだ即位ではないにしろ劉鳴国の未来は芳しくないだろう。
「折角の機会です。食事を用意しています。是非、皆様も交流を深めましょう」
羽衣を翻して舞う踊り子に、豪華な食事、鳴り響く琴。参列者たちは振る舞われたご馳走やもてなしに満足している。蘭が社交辞令で談笑をしている近くで、林琳は料理を手に取るふりをして地下牢に続く扉を探す。牢屋というものはどこも同じで、頑丈な扉に門番が数人いるものだ。女中が慌ただしく動き回るのを器用に避けては視線を滑らせる。途中で話しかけられればそれとなく話をして、変死体の情報を軽く摘む。すると幾つかの国からも同様の事件が起きていることがわかった。そして共通しているのは、どこもかしこも夢天理が関わっている国ということ。だが松季国も山雫国も夢天理の管轄外だ。どうやら決まった条件があるわけではなさそうだった。幸いにも山雫国が犯人だと決めつける者はおらず、一種の疫病だと判断を下した国もあるらしい。言葉の裏を読み取れば得体の知れない死体に関わりたくないのが本音だろう。
「お兄さんはどこからきたんだい?」
「遠い場所から旅をして来ました」
「へぇ、旅……じゃあ幸楽美国も行ったのか」
「何故?」
「少し前に夢天理が調査に入っただろう。監視対象として初めは管轄下に加わるものだと思っていたが、えらく優秀な仕人が退けたらしい。名前は確か……」
「静鳥様よ。白琵様の従兄弟で、長である周郗様とは昔から親しいお人よ」
「そうそう! あのお方ほど素晴らしい仕人はいないだろう。長期間国外での活動に勤しんでいたが、自国の危機に全て側近に任せて帰還されたらしいな」
「えぇ。流石に夢天理も静鳥様には敵わないようね」
男と女は林琳を差し置いて幸楽美国の噂話で盛り上がり始めたので、そそくさと地下牢探しに戻ることとした。
心強い仕人が側にいるなら京は大丈夫だろう。迂闊に夢天理も手は出せない。夢天理が身を引いたという事実は、白琵の処罰が相当のものだということだ。
合流した仁にも伝えれば、京の身が安全だと知り安堵する。
「連絡を取る手段もないのは不便だ」
「そもそも連絡を取る理由がないからね」
「もう少し気にかけてやれよ……」
「あんなにも豪運なのに?」
同門であれば心力を使って連絡を取ることはできる。最悪時間はかかるが、文を出すことで近況を伝えることもできるだろう。
「通心でもできたら楽なんだけどな」
林琳は、慌てた様子で仁を睨んだ。
「お前……まさか師匠に連絡してないよね」
「してもいいなら速攻してる。でも連絡したら怒るだろ」
怒るどころか絶縁されても仁には言い訳ができない。
「師匠のことだから、俺と師兄が一緒にいるのは認識してるさ。どこにいるかは知らないだろうけど」
敢えて触れてこないのは宗主の優しさか。様々な感情が渦巻いてちくりと胸に棘が刺さった気がした。この感覚から目を背けるのは得意だったのに、この頃は棘は深く刺さるばかりだ。
「あ、これ美味い。ほら、食べてみて」
「盛り過ぎだ」
仁が勝手に山盛りにしてきた蓮根が林琳の皿に積み重なっている。仁の皿は既に空になっており、彼は林琳が好きそうなものを自分の食事から選んでいたらしい。
ぱくり、と甘く煮つけられた蓮根を口に運べば、歯応えのいい食感が楽しめた。そのまま山になった蓮根や鳥肉を完食すれば、腹は満たされていく。——呑気に食事を楽しんでいる場合でないのだが。
「二人共、食事は楽しんでいるみたいね」
声をかけてきたのは蘭だった。彼女の顔には少し疲れが見え隠れしていた。社交辞令というのは神経をすり減らすのだろう。
「疲れたわ。少し休みたい」
蘭の頬は血の気が引いており、どこか腰を下ろして休ませる必要があると林琳は感じた。
「大丈夫ですか?」
水差しを持っている女中が様子を伺ってくる。
「あちらに休憩所を設けております。どうぞお使いください」
「ありがとう」
明月に支えられ、蘭は椅子に座った。大きく息を吐くその姿から、相当疲れていることが伺えた。
「大変だな、一国の姫ってのは」
「当たり前よ。私の何気ない言葉で国の運命が変わるもの。気を張っていないとやってられないわ」
人の群れから離れて四人が休んでいれば、先程の進行役の男が無差別に白い紙を渡しているのが目に入る。
「庭園への案内状よ」
「なんだ、貰ったのか」
明月が右下に劉鳴国の刻印が箔押しされた案内状を持っていた。
「二人も行くでしょ?」
「いや、俺たちは招待されていない。それに、これ以上の厳かな雰囲気には耐えられそうにないな。折角だが遠慮するよ」
「そう。勿体ないわね」
蘭が浮き足立っているのとは対照的に、明月は不安げな表情を浮かべていた。
「どうした?」
「えっ、あ、えっと……」
明月が緊張で硬直しているのを見かねて仁が問いかけると、彼女はさらに縮こまってしまった。
「粗相をしないか心配で……ごめんなさい」
「したところで問題ないわ。罰を与えるのは私だもの」
蘭の言葉は全く慰めになっていなかった。
「明月はやたらと粗相を気にするな。もっと気楽に構えたらどうだ」
仁は腕を組みながら軽く言ったが、明月は首を振った。
「は、吐き気がします……」
明月に案内状を渡しながら蘭はやれやれと首を振り、林琳に向かって「あなたぐらい神経が図太いといいのに」と付け加える。
「安心しろ、お前も相当図太いよ」
林琳は負けじとじとっとした目で蘭を見返した。
「あら。失礼ね」
このやり取りでは埒が開かないだろう。相性がいいのか悪いのか微妙なところだ。
「この後は自由解散らしいわ。二人ともどうするの? 城の中を見学できるらしいけど……」
「そうだな。折角だから少しだけ見てから帰ろうと思う。流石に護衛として置いて帰るのは怪しまれるからな。敷地内でうろうろしてる」
「わかったわ。付き合ってくれてありがとう」
どこか安心した様子で蘭は息を吐いた。
「そんなに長くはかからないと思う。終わったらこの場所に戻ってくるわ」
林林と仁は頷くと地下牢への扉を探すために敷地を見て回ることにした。他の招待客も各々探索しているようだ。立ち入り禁止の場所には兵士が二人体制で待ち構えていて非常にわかりやすい。
「……お前は平気なの?」
「え?」
一体何の話だと仁は聞く。
「ここの心力は気味が悪くて不快だ」
腕を摩る林琳は本殿を見つめている。
「身体の底が騒ついて俺の心力が落ち着かない。……お前は?」
「確かに嫌な感じはするけど、中和してるから特に問題はないかな」
「……そう、それならいい」
林琳は気にするなと告げたが、その身体の奥では微かに心力が揺れ続けていた。
悪夢を見たせいだろうか。
強制的に抑える術は心得ているし今更大きな弊害ではない。林琳は深呼吸をして心力を整えてから、本殿からある程度離れた建物へと向かおうとする。
「よくない」
その時、仁が突然手を取った。林琳は驚き、仁を見上げた。
「本調子じゃないんだろ」
「……止めろ」
林琳は仁の心力が流れ込むのを振り払おうとしたが、仁は手を離さなかった。
結局、林琳は諦めて心力を受け取った。仁の穏やかな心力が伝わってくると、騒ついていた自分の心力が静けさを取り戻した。
「落ち着いたからもう十分だ」
仁はその言葉を聞いて手を離した。
「次隠したら、ずっと手を繋ぐぞ」
冗談ではなく、本気のようだった。四六時中繋いで監視するつもりらしい。
「お前……昔に比べて随分としつこくなったな」
「はぁ?」
林琳は昔の仁を思い出す。以前の仁はもっと可愛げのあるしつこさだった。雛鳥が親鳥を追いかけるような感じだったが、今はどうだ。可愛さなど微塵も感じられない。これではただの執着だ。
「もうお互いに餓鬼じゃないんだ」
林琳が首を振ると、仁はじりじりと歩み寄ってきた。
「ふーん……」
「おい、やめろ、何だその手!」
「いざ!」
「ふざけるな! 馬鹿!」
「おりゃー!」
仁が獲物を捕まえるように飛びかかろうとすると、林琳はさらに距離を取った。二人は互いに縮まらない距離を保ちながら、緊張感の中で向き合う。遠くから蘭がそんな様子を馬鹿にしたように笑っていた。後ろに控えている明月もつられて微笑んでおり、その様子を見た近くの女中までもが何事かと注目し始めた。
仮面を被った二人は仲の良い間柄に思えるのかもしれない。
林琳は、向けられた視線を意識して、後退をやめた。仁の手を真正面からくるりと躱し、そのまま足早に群衆の中を抜け、本殿から遠く、人の少ない中庭にたどり着いた。
その後も二人は軽い小競り合いを続けたが、ようやく仁が動きを止めた。彼の視線は水面に浮かぶ蓮へと向かっている。蓮はゆっくりと水の流れに合わせて互いにぶつかりながら、回転していた。その光景を目にした仁は、何かを感じたのか黙り込んでいた。
林琳も蓮に視線を移し、「無駄に疲れた」と小さく呟きながら柵に手をついて、静かにその同じ蓮を見つめた。白と桃色の二色の蓮は一面に広がっていて花畑と間違えるかもしれない。
重なる蓮の間から、鯉がゆっくりと顔を出した。こちらを見つけては口をぱくぱくと開け、餌をねだっているようだ。
「餌は持ってないぞー……」
林琳が小石を蹴り飛ばすと鯉はそれを餌と勘違いし、吸い込もうとした。
「水草が少ないから、飢えているのかもな」
仁が水中を見下ろしながら、静かに言った。
しばらくして、鯉は人間から餌がもらえないと理解したのか、ちゃぽんと音を立てて水面を割り、蓮の間を泳ぎ去っていった。蓮は水の流れに従ってくるくると回り、ぶつかり合いながら広がっていく。
そこで感じた違和感。
「……師兄、水の流れがおかしい」
一つの蓮だけが他の流れに逆らって、まっすぐ橋の下を通り抜けていった。桃色の蓮が流れに沿わず、まるで意志を持っているかのように動いている。仁はその蓮を見失わないよう追いかけながら、林琳の手を引き、急いで歩き出した。
林琳も引き摺られないように足を動かす。
「どうやら下に続く水路があるみたいだな」
蓮は寄り道をしながら水門にぶつかった。今は閉ざされているが、水の入れ替えをする時に使うのだろう。耳をすませば、ぽちゃん、ぽちゃん、と雫が叩きつけられる音色。間違いなく水の出入りがあるようだ。
「見ろ、あそこに倉庫がある」
仁が指差した倉庫の中には、どうやら水門を開けるための仕掛けがあるらしい。怪しまれないように、蓮を観察しているふりをしながら近づく。仁がこっそりと後ろ手で南京錠に触れると、鍵はかかっておらず、錠前がカチャリと落ちた。
「あっ……ぶないな!」
寸前のところで林琳が掴んだ。
「ごめん」
もし林琳が馬車に置き忘れずに竹を持っていたら仁の頭はかち割れていただろう。きっと青筋が浮かんでいる。面の下は鬼の形相、もしくはあの冷たい顔だ。
仁は静かに扉を開けて中を覗く。滑車に括り付けられた紐は濡れていて上のほうが水の染み込んだ色をしていた。数刻前までは水に浸っていたようだ。
倉庫の中には予想通りの仕掛けがあったものの、今扉を開けば蓮か全て流れ出て大惨事になりかねない。
「別の場所を探そう」
「あぁ」
南京錠を元に戻し、二人は蓮の流れを見つめながら、次の手を考えていた。その時、突然背後から人の気配がした。
「なにをしている」
高冥城の兵士だ。
「……珍しい鳥を見つけて」
林琳は咄嗟に空を指差した。群青色の美しい鳥が空を舞っている。
「鳥だと?」
兵士は二人を怪しむように見つめる。
「ええ、今まで見たことのない鳥でした。この国の在来種でしょうか?」
「そうだ。神輿にも描かれている国鳥だ。お前たちは運がいいな。普段は人間を怖がって、夜にしか活動しない」
「夜行性なんですね」
兵士は深く頷くと二人の後ろにある倉庫を確認しに近付く。南京錠はかかっているが、鍵はかかっていない。
林琳と仁はまずい、と顔を見合わせた。
鍵は元々開いていたが兵士は知らない。二人が何らかの理由で開けたと勘違いでもしたら全てが水の泡だ。上手く誤魔化せるといいのだが、そうはいかないだろう。仁は匕首の柄で兵士を気絶させようと構えた。
その時、不意に別の声が割って入った。
「おい」
「冽殿。いかがなさいましたか」
「そこの二人を呼んだのは私だ。すまないが外してくれ」
「……しかし」
「久しぶりの再会なんだ。頼む」
「はい」
兵士は拱手の礼を冽に向けると、一度だけ振り返って中庭から姿を消した。
残された林琳と仁は助けられたのか、はたまた、このまま捕らえられるのか判断できずにじっと冽の動きを待った。
「禍の男を知っているか」
紅の目立つ唇が呟く。
その呼び名を片燕である二人はよく知っていた。
——試されている。
「えぇ。近朱必赤とも呼ばれる男なら」
幾つもの呼び名を持っている朱禍。だが別の呼び名がある。しかし冽と林琳の口にした名を使う者はごく僅かだ。
「……待っていた」
冽は間抜けな声を出して立ち竦む二人の腕を掴むと、口から鮮血を地面へと吐いた。その血が飛び散ると隠されていた陣を発動する。浮き上がる文字に林琳は舌打ちをした。
使用者の少ない陣だが片燕宗主が得意としている術だ。見慣れた文字で描かれた陣は足元を照らす。
「転送陣!?」
心力の無い人間でも使える術は墟狼衆が生み出したもの。だが陣を描くことのできる人間は仕人のみ。そして発動条件は、陣を描いた仕人と同等の心力を持ち合わせる仕人が近辺にいることだ。つまり、林琳と仁と互角、それ以上の心力を持ち合わせた仕人が近くに存在している。してやられた、林琳は舌打ちをした。
「黙ってろ。舌を噛むぞ」
——景色が切り替わる。
転送陣は非常に便利で画期的な術だ。
飛びたい座標に同じ陣を張るだけ。一度発動したら消える片道通行の術だが緊急時には役に立つ。
では何故、仕人は転送陣を好んで使用しないのか。
答えは至って簡単だ。
「うっ……」
「うぇえ……」
滅茶苦茶に酔うからだ。
赤の他人の心力が込められた陣は相性がわからない。それ故に身内の作った転送陣以外は使わないのが暗黙の了解だった。現に林琳は膝に手をついて吐き気を堪えている。
「やりやがったな……!」
胃の中がぐるぐると暴れていて気持ちが悪い。
林琳は嗚咽を堪えるために手のひらで口を覆うが、腹の底から込み上げるものに何度も吐きそうになる。宗主の転送陣でさえも酔う林琳は完全に三半規管をやられてしまった。
隣にいる仁は顔面蒼白の割にけろっとしているのが余計に気に入らない。
上手いこと中和しているらしい。
「ふざけんな……うぇっ……」
こういう時に別の心力を注げば悪化するだけだ。辛うじて残っている仁の心力が転送陣の心力を防いでいるが気持ち悪さは消えない。
仁は林琳の背中を摩りながら周りを見渡した。
周りは一面石の壁で得られる情報はほとんどなく、劉鳴国にいるかさえ確信が持てない。
「片燕の弟子が情けないな」
連れてきた張本人である冽が、呆れたような口調で言った。普段ならすぐに反論する林琳も、今は吐き気に悩まされ、口を開くことすらできない。どうやら冽は二人が片燕の一門だと確信しているらしい。
仁は一歩前に出て、林琳をかばうように立った。
「俺たちに何の用だ」
冽の鋭い目が仁を射抜く。
「朱禍を探しに来たのだろう」
その一言で、仁は嫌な予感が的中したことを悟る。冽の目は、何かを思い出したかのように険しさを増していた。
「おい。片燕の一番弟子はどっちだ。朱色の髪だと聞いているが……」
林琳の髪は黒く染まっている上に、仮面を付けていてはどちらか見当も付かないだろう。
双方無言を貫いていると冽はお構いなしに続けた。
「一番弟子は等価交換さえ成り立てば手を貸すと聞いた。それは誠か?」
確実に朱禍の入れ知恵だ。
——あの糞野郎……助けに来ると知っていて、わざと巻き込みやがったな……!
吐き気を押し殺し、怒りが林琳の顔を上げさせた。冽は、彼の面越しに覗く瞳に注目していた。
「夕焼けの瞳……。お前が変わり者の一番弟子か」
その言葉に、林琳はさらに苛立ったが、吐き気が邪魔をして声が出ない。
「朱禍を連れ出す手伝いをしてやる代わりに一つ聞きたい話がある」
「待てよ。お前は味方か? 敵か?」
「どちらでもない、と言っておこう。私は真実を知ることができればそれでいい」
「真実?」
冽は仁を軽く押しのけ、林琳にさらに近づいてきた。その鋭い視線が、林琳をじっと見据えている。
「お前は知っているはずだ」
唐突に主語のない言葉を投げかけられ、林琳は眉をひそめた。冽とは今まで接触したことはなく、共通する話題など思い当たる節がまったくなかった。
「この怪奇を知っているな?」
冽が差し出した一枚の絵。その中には、黒く塗りつぶされた背景に、白く浮かび上がる異形の存在が描かれていた。
「ああ、東の果てにある孤島のことか……」
林琳は記憶の中からその場所を掘り起こし、かすかな記憶に基づいて頷いた。
「知っているんだな!」
冽の顔が期待で強張る。
「知っているもなにも、あの怪異を祓ったのは俺と……」
そう、片燕の宗主だったのだ。
「教えてくれ。この二人を見なかったか?」
冽が見せたのは二人の似顔絵だった。 一人はふわふわと癖のある髪をしていて、幼さの残る顔立ち。もう一人は優しく微笑む、長身の男。二人は対照的な印象だが、似顔絵は使い込まれて少し擦り切れていた。
「……さぁ? どうだったかな」
林琳は肩をすくめ、冽を挑発するように答える。
「答えろ!」
「等価交換がご希望なんだろ。いいよ、取引をしよう」
林琳は軽く口元を歪め、冽をこれ以上優位に立たせるつもりはないと態度で示した。
「この国にいる間、俺たちと朱禍の身の安全を保証して欲しい。それが条件だ」
林琳は真剣な目で冽を見据えた。彼らが危険な橋を渡っている以上、何の保証もないまま動くわけにはいかない。
「それが条件だよ」
「……良いだろう。取引に応じる」
冽が一呼吸おいて答えた。
「よし、取引成立だ」
林琳が満足げに頷くと、横で仁が不安そうに口を開いた。
「師兄! 信用できるのかよ!」
「はぁ? できないに決まってるだろ。だから先にあの馬鹿の救出が先でしょ」
林琳は仁に冷静に応じるが、その言葉の裏には、冽に対する強い不信感があった。夢天理と深い繋がりを持つ墟狼衆の元首領である冽を、完全に信用できるはずがない。
「それでは私のほうが不利益だ。本当に二人を知っているんだろうな?」
流石に腑に落ちないと冽は反論する。
それならばと林琳は一つだけ知っている情報を渡すことにした。
「二人とも隻眼だった。それに、この男の手には至る所に傷跡があったよ」
痛々しい傷跡を隠すこともせずに、まだ若い林琳の頭に触れた手を覚えている。微笑みかけられた記憶も——まだ生きている。
それでも十年も前の記憶を思い出すには時間がかかりそうだ。
「いや、十分だ。私はお前たちを信用する」
冽の表情が少し和らぎ、張り詰めた空気がほぐれた。
「で、ここは何処?」
「水門の真下だ。ここから地下牢へお前たちを飛ばす」
「嘘だろ。また転送陣?」
林琳はうんざりした顔をして、軽く息を吐いた。
「それしか方法はない。これも全て朱禍が作った陣だ。文句があるならあの男に言ってくれ」
「っう……」
つまり陣に封じられていた心力は朱禍のものだったのだ。余計に吐き気がこみ上げてきた。
「おい、そんなに酔う仕人は初めて見たぞ。大丈夫なのか?」
先程まで纏っていた刺々しい雰囲気はすっかりなくなり、心配そうに仁に声をかけた。
「昔から転送陣には弱いんだ。そのうち収まる」
一度吐いた方が楽になるが胃の中は空っぽで胃液だけが逆流している。
「もしかして攻撃性の心力を持っていないか?」
冽には林琳の症状に思い当たる節があるようだ。
未だに口元を押さえている手を取ると手首に触れた。不安定に揺れる心脈を診ているのだ。
冽は何か言い淀んで「やはりな」と頷く。
「いくぞ」
「は?」
鋭い針が林琳の手首の真ん中に突き刺さる。
途端に襲い掛かるかつてないほどの吐き気に思わず崩れ落ちた。
その様子に仁は唖然として冽に掴みかかろうとしたが、口元を押さえていた林琳が制止する。
「吐いたほうが楽だぞ」
「うっぷ……」
「心脈の根本を突いた。我慢せずにさっさと吐け」
意地を張っているのか往生際が悪い林琳を捕まえると、仁は林琳の口に無理矢理指を突っ込んだ。
「ごめん」
突然の異物に驚いてあっと口を開けてしまう。仁の行動に林琳は指を噛み切ろうとしたが、それよりも早く指先が喉の奥へと到達する。仁が抵抗する体を押さえつけて遠慮なく吐くように促していると、ついに限界を迎えた林琳は仁を渾身の力で突き飛ばし、遠くに移動して勢いよく吐いた。目尻に溜まった涙が目に染みる。
しかし腹の底から出てきたのは胃液や消化された食べ物ではなく、真っ黒の塊だ。しっかりと吐いたことを確認した冽は細い針で自分の指先を刺すと、血の雫を生み出す。
「よし、次の転送陣を発動させるぞ」
「鬼か! お前は! 鬼か!」
口から零れる唾液を拭って林琳は吠えた。
気持ち悪さは綺麗さっぱり吐き出したがそれとこれは別問題だ。
「それだけ元気なら問題ない」
遠慮なく陣を発動させようとする冽。
「本当に待って。無理に飛ばしたら転送陣ごと燃やすから」
冽の前で素顔を隠す必要性を失った林琳は仮面を外し、特大の深呼吸を三回繰り返した。深く息を吸い込むと冷たくなった空気が心地よく肺に入る。
「あんたと朱禍の関係を教えてくれよ」
仁はまだ落ち着くのには時間かかると思い疑問に思っていたことを尋ねる。
「夢天理を抜けた朱禍と墟狼衆がどうやって連絡を取った? ここ一年は片燕さえ居場所が掴めなかったのに。連絡を取りたい時こそふらふら放浪してるし」
「ふん。あの男が接触してきたんだ」
「朱禍が?」
「劉鳴国に捕らわれた自分を必ず助けに来る仕人がいる」
——"「君の知りたい真実を持っている子だ」"
朱禍は、助けが来ると信じて、転送陣まで準備して大人しく捕らわれているらしい。何ともご苦労なことだ。
「やっぱり放っておくか。そのまま野垂れ死ねばいい」
「同意」
林琳は肩を落とした。先を読むことに長けている朱禍は、領域を出た林琳の動きを察知していたのだろう。それだけでなく、おそらく片燕宗主も絡んでいる。何も接触してこなかったのは、宗主と朱禍が長い間裏で繋がっていたからだ。朱禍はどこまでも得体が知れない男だった。
幾つになってもあの二人には敵いそうにないと林琳は肩を落とす。
「朱禍が宝物庫に忍び込んだ理由は?」
冽は首を振り、「知らない」と答えた。
「とにかく、私は真実を手に入れる為に協力するだけだ」
「ねぇ、似顔絵の人は一体誰なの」
林琳が口元を拭いながら聞く。
冽は答えるか悩んだ末に義理の弟だと語った。
「私はあの子に取り返しのつかないことをした」
冽の手が震えていた。何も掴めないその手が、無力に下がる。
「居場所が知りたい。少しでも近付きたい……だから一番弟子、お前の持つ情報が欲しいんだ」
林琳は、冽が真実を知ればさらに苦しむかもしれないと思った。あの悲惨な光景は、片燕宗主をひどく悲しませた。それが身内である冽なら、なおさら耐えられないだろう。
それでも知りたいと言うのならば仕方がない。
林琳は小さく息を吐き、真実を口にしようとしたが、冽の表情を見て一瞬言葉を飲み込む。
「もういいか? 早くしなければ気付かれる」
見張りがいる地下を歩くよりも転送陣の方が都合がいいのは確かだ。
「ほら、林琳。捕まって」
林琳は彼の衣を右手で掴んだ。
「こっちだろ」
仁が林琳の右手と手を繋ぐと転送陣は発動し再び景色が切り替わった。
林琳はまたしても吐き気を感じ、前に倒れそうになるが、仁が支えた。やがて壁に両手をついて、うめくように声を漏らす。
「うぇ……」
「またか。情けない」
冷んやりとした壁にもたれかかって再び吐き気を堪える。
先程よりは些か楽なほうではあるが気分が悪いことに変わりはなかった。
——おいおい……もしかして帰り道も転送陣か?
想像するだけでゾッとする。いっそ一人で帰り道を探してもいい。林琳は腕を摩りながら、そんなことを考えた
「物音が聞こえなかったか」
「俺も聞こえた。侵入者……いや、あり得ないな。ここに辿り着くには水門を開ける必要がある。ほら、中庭の水も流れ込んでいない」
地下牢にある窪みには水が溜まっていなかった。どうやら見張りは、彼らの存在に気づいていないようだ。
「仁……うっ……始末しろ……おぇっ……」
林琳は懐から小瓶を取り出し、仁に手渡した。
「はいはい」
音もなく気配を消して背後から忍び寄る仁。素早く手刀で気絶させ、すかさずに隣にいるもう一人も片付けると、二つの身体を引き摺って隅に寄せる。そのまま軽い毒薬を鼻から吸い込ませれば当面目は覚まさない。昏酔したような状態に陥る毒薬を摂取した体からは今日一日の記憶も失われるはずだ。酒に酔った錯覚に犯されるのだ。
「手慣れているな」
「これ? 林琳から教わっただけさ」
「一番弟子も、お前も……仕人だな」
毒薬を持ち歩く仕人。
冷たい壁で額を冷やしている姿を見て冽は眉を顰める。
「変わり者と聞いていたが、ただの餓鬼じゃないか」
林琳が時折聞かせる乾嘔は、子供っぽくて苦笑いするしかなかった。本人は必死に吐き気を堪えているが、それが伝わってくる。
「おーい、見張りの交代時間だぞー」
遠くから聞こえる声に、林琳は息を潜めて身を低くした。曲がり角から警戒もせず現れた男の背後に回り込み、首を絞めて小瓶を口の中に突っ込む。毒薬が回った男はその場に倒れ込んだ。林琳は手についた砂を払いながら、その場を整え、剣を拾い上げると、「これも頂いていくか」と小さく呟いた。
今は折れてしまった黒典に比べると、品性のかけらもない剣だ。それでも手持ちの武器が毒薬だけでは不安が大きい。量産されたものだが、何度か振ってみれば癖はよくわかった。刃毀れが目立つが、仕方がない。
「ふぅ……」
酔いは覚めないが、まっすぐ歩けるまでには回復した。
薄暗い地下を歩いて行くと次第に道は狭くなっていく。地上にある中庭から滴る雫が薄く地面に流れているが、一行は足音を立てずに進む。
地下は冷え切っていて、氷の保管庫としても活用しているようだ。一面に高く積まれた氷の山は、まるで無機質な彫刻のようで、圧巻だ。これほどの氷を隠しているとは思いもしなかった。冷気が白く床を這い、足元に薄い霧を立てている。長時間この場に居座れば、体の芯から凍えて死ぬだろう。
「……?」
ふと、目の前を黒い靄がよぎった。
初めは黒い靄だったものが段々と形を成してついに人影へと変貌する。目を細めて注視していれば影は一層濃くなる。
林琳は影を目で追っている。ついに振り返った不気味な人影と初めて視線がかち合った。
——あの女……!
奴隷の証を持つ女だ。
「いけません、いけません、あぁ、どうしよう、つめたい」
痛み切った髪の毛を長い爪で掻きむしる女。その姿は恐怖と絶望が交錯している。彼女は何かから逃れようとしているように見えた。
「おい、まて……!」
冷たい暗い場所から逃げられないと繰り返しながら、女は聳え立つ氷の奥へすり抜けていく。
「師兄?」
「一番弟子、そこまで変わり者だとは思わなかったぞ」
仁と冽には、女の姿が見えていないらしい。急に独り言を話す林琳を、二人は奇異な目で見つめている。しかし、林琳の視界には、女が氷へと飲み込まれていく光景がしっかりと刻まれていた。
「いや……」
転送陣で揺らいだ心力のせいかも知れない。
だか存在がやけに鮮明すぎる。
どこにも行けないと口にした女が何故地下深くを漂っているのか。あの客室に固執する理由があるのか。
そもそも女の存在を何と呼ぶべきかわからないままだ。
もう一度氷を眺めてみても女の姿はなく、林琳は引っかかる気持ちを無視して後を追う。
冽はなるべく見張りのいない道を選んでいるのだろう。すれ違う見張りは少ない。
やっとの思いで長い通路を抜けると、辛うじて日差しの届く場所に出た。高い位置に設置された小さな格子から、僅かに陽の光が差し込み、辺りを照らし出す。その光の中で、ホコリが舞い上がり、比較的明るい空間を形作っていた。
「着いたぞ」
想像以上に落ち着いた雰囲気を持つ空間だが、見張りはいるようだ。重そうな装備を身につけて警戒している兵士が四人、周囲を見張っている。
ここまでこれば多少手荒な真似をしてもいいだろう。
林琳は身を低くして兵士の懐に入り込み顎を蹴り上げる。剣は逆手に握っている。異変に気付き他の三人が反応して林琳に切先を向けた。林琳はそんなことはお構いなしに真正面に迫り来る切先を紙一重で避けると柄の部分で胸を突く。強い衝撃に膝をついた兵士の胸ぐらを掴み、顎を抑えている兵士へと投げ飛ばすと団子になって倒れ込んだ。暴れる体を押さえ込み、すかさず仁は毒薬を嗅がせた。最後に林琳が身動ぎする兵士の足を払い体制を崩させ、鳩尾に剣の鞘を突き立て強制的に意識を飛ばす。
「顔に似合わず暴力的だな」
武術とは言い難い動きに、冽は驚愕したようだ。
「うるさい」
昔からよく言われていることを否定する気もなく、呆気なく倒れた兵士の意識を確認していると、背後から「お見事」と笑う声と乾いた拍手が響いた。
「やぁ、待ってたよ。久しぶり……って、林琳、君は相変わらず転送陣に酔ってるのかい? 心力の乱れがここからでもわかるよ」
囚人とは思えない態度だ。
それに簡易的な寝台や椅子机に食事まで用意されていて、どう見ても牢屋とは思えない待遇。
整えられた寝台に寝転んで落花生を口に運ぶ男。
林琳の中で何かがブツン、と引き千切られる。
逆手に持ち直された剣は迷いなく男の首筋を狙うが、それよりも早く男が立ち上がる。急所に定められた剣は男の手によって鞘を掴まれ受け止められてしまった。それならばと再び剣を逆手から持ち直して強引に押し込もうとすれば、強い力で下へと力を流され、足払いをすれば男がたん、たん、と足音を立てて後ろに着地した。
「……糞野郎、老化はまだ先か」
「またそんな言葉使って」
仕方のない子だ。
子供をあやすような柔い口調で「獅宇が聞いたら怒るよ」なんて馬鹿にする朱禍は、酷く懐かしそうに目尻を緩ませて微笑んだ。
「冽もありがとう。助かったよ」
朱禍は軽く手を挙げて、冽に挨拶を交わす。薄暗い地下牢の中、朱禍の言葉はどこか軽やかに響いた。しかし、冽の表情は硬く、彼の言葉を受け止める気配が感じられない。
「……私は情報が欲しいだけだ。お前たちに対する情は一切ない」
「それでも助かったことに変わりはないからね」
朱禍は微笑みを浮かべながらも、冽の冷淡な態度には少し気圧されていた。
「ふん、早く出るぞ」
冽はぶっきらぼうに言うが朱禍は首を横に振った。
「見て」
朱禍の手首に巻かれた包帯が波打って解かれていく。包帯が取れるにつれ、彼の肌が紫色に変色していくのが見える。そこには、呪いの痕跡がくっきりと残されていた。それは、祟りと呼ぶに相応しい不吉な色合いだ。
「おいおい、冗談だろ……!」
「うっかりしてて、呪われてしまったんだよね」
その言葉は冗談に聞こえたが、朱禍の表情には真剣さがにじんでいた。どうやら、想像以上に厄介なことになっているらしい。
「林琳、折り入って君に頼みが」
「絶対嫌だ。断る!」
「まだ何も言っていないじゃないか」
朱禍が口にしようとしている言葉が予想できる林琳は、強い拒否を示す。
「呪い? 何の話だ。説明してくれ」
「今は禁忌とされている術の一つ。心力を用いてその名の通り人を呪う。でも……指南書は全てこの世から葬り去られているはずなんだ」
仁も呪いをかけられた人間を見たのは初めてだった。見るだけで、嫌な気配を感じる。
「術者は誰だ?」
「わからない。ただこの呪いがある限り私はここからは出られないんだ。ほら、こうやって日の光に触れれば……」
——バチッ
電撃が朱禍を襲う。
「この通り」
呪いをかけられた朱禍は、鉄格子の向こう側には出られない。薄く差し込む光さえも、彼に反応してしまうようだった。今は軽い電撃で済んでいるが、片足でも外へ踏み出せば全身を電撃の嵐が襲い、心臓に達して死ぬだろう。
朱禍は困った表情を浮かべながら、備え付けられた椅子に腰を下ろした。その姿には、どこか哀れみすら感じられる。
「別に私は囚われている訳ではないよ。呪われたから地下牢から出られないだけで……だから、衣食住には困っていない。多少寒さはあるけどね」
「隠し部屋に忍び込んだって話は?」
「それは本当」
「なぁ朱禍。順を追って話してくれないか。師兄も俺も混乱してる」
「そうだね」
朱禍はなるべく簡潔に答えることにした。
当初は劉鳴国から不気味なモノが現れるから祓ってほしいと依頼されて訪れたのだ。彼の声は、地下牢の静寂を破るように響く。
「懲りずに裏で手を貸してるの? 馬鹿みたい」
「違う。ほら、病にふせてる皇太子がいるだろう。私は彼に呼ばれて来たんだよ。だから正式な依頼だ」
そして、謎を追っているうちに隠し部屋へ足を踏み入れてしまった。恐らくその時に呪いを受けたのか、何故かこの地下牢以外ではまともに生活ができなくなってしまったのだ。
「冽とはどこで? って、あんたも嘘をついたな!」
「嘘は言っていない。お前たちが聞かなかったんだろう」
「うっ、それはそうだけど……」
「私は情報収集で来ていただけだ。来賓として紹介されたが……高冥城の内部を調べる為に承諾したに過ぎない。朱禍とは捜索中に居合わせた」
そこで二人は互いの利益のために手を組んだ。冷たい空気が流れる中、彼らの間には微妙な緊張感が漂っていた
「俺たちが探しに来るってわかってたの?」
「林琳。君、嵐海宋で札を燃やしただろう」
烏の部屋に吊るされていた怪奇避けの札。その中に一部欠落品が紛れていたと思っていたが、違うらしい。
「あれは私の作った追跡用の札だ。いやぁ、覚えのある心力で驚いたよ!」
徐々に近付く心力が強くなると準備に取り掛かった。
地下牢から出られない朱禍はすぐに冽へと伝えた。冽が欲している情報を林琳が持っていると知っていたのも功を奏した。
等価交換であれば手を貸すことも勿論知っている。朱禍の表情には、少しだけ期待の色が見えた。
結果、二人の思惑は遠くの物事を進めていった。
「城の中にいてくれたのは運が良かった。誰と来たんだい?」
「蘭って名の公主だ」
「蘭……名前だけじゃ、どの国かわからないね」
少し考える素振りをした朱禍は、両手をぱちんと合わせ、両手首を回して「問題はここからだ」と言った。
彼の表情には、どこか不敵な自信が漂っている。続けて、朱禍は話を戻す。
「話を戻すね。まず、呪いを解く方法は主に二つ。呪いをかけた仕人が死ぬか、かけられたほうが死ぬかだ。前者が最も望ましいけど……残念なことに術者を知らないからね。それに私が死ぬのは論外」
禍は頬杖をつき、にこにことした表情から一転、怪しげに目を細めた。
「ねぇ、林琳、仁。君たちは私の力が欲しくて嵐海宋まで行ったんだろう。勿論協力してくれるよね?」
朱禍の言っていることは的を得ている。
主の所有物である書に記された内容を解読できるのは、恐らく朱禍だけだ。知己である片燕宗主に力を貸さないような男ではないし、変死体の件を独自で調べていることは明らかだった。拒否する理由はどこにも見当たらない。
「でも呪いを解く方法は今の二つだけなんだろ」
仁は首を傾げて他に方法がないのか確認する。
本当に物騒な術だ。
「さあ、どうだろうか」
朱禍が視線を移すと、残された目が林琳の背中をじっと見つめた。林琳は膝をついて兵士の身体をくまなく調べていたが、まるで完全に聞こえないふりをしているかのようだった。彼の意識は、恐らくこちらに向いているだろう。
「一番弟子なら、呪いを解けるのか?」
「どちらかというと……呪いを打ち消すって感じだけどね。出来るはずだよ」
朱禍は椅子から立ち上がり、林琳の背後に立って黒い旋毛を眺めた。鉄格子の先にある旋毛を突くことは叶わないが、気配を察した林琳は身を固くした。
「無理。俺にはできない」
「やりたくない、の間違いだろう」
朱禍は優しく、しかし確かな口調で言った。
「林琳、私は君を信じているし、あの頃とは違う。君なら今度こそ上手くやれる」
「嫌だ。自分でどうにかしろ」
「あのねぇ……君も知っているだろう。呪いをかけられた仕人は心力が封じられるんだ。他者がやるしかない」
朱禍は呪いの印が浮き出ている両手を突き出したが、林琳は振り返ることすらせず、「方法なんて知らない」と、鉄格子の向こう側から断固として動かなかった。
「君は相変わらず変な所で臆病だね」
駄々をこねる林琳に朱禍は呆れたように告げる。
「うるさい」
そうだ。本当は知っている。
この場にいる誰よりも呪いを解く方法を熟知しているのは己だ。朱禍もそれを当然知っている。
しかし情けない話林琳には自信がなかった。
「今は仁がいるだろう。万が一も怖くないさ」
朱禍は笑い飛ばして言うが林琳はそうはいかない。
強制的に心力で呪いを抉るのだ。
上手くいけば呪いは解かれるだろう。しかし、失敗すれば——。
「大丈夫だよ、師兄」
刹那、馴染みある心力が林琳の中に飛び込んできた。
手を差し伸べる仁の瞳は爛々と輝き林琳を射抜く。
昔よりも一層強い意志を宿して語り掛けて来る瞳は誰よりも林琳が良く知る輝きだった。僅かな光さえ逃しはしない。
「……まぁ失敗しても死ぬのは俺じゃなくて朱禍だし、別にいいか」
「それは流石に酷くない?」
◆
「はー! 外の空気は別格だね!」
無事に呪いを解かれた朱禍は、両手を大きく広げ、澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。すでに日は暮れ始め、霧に覆われた中で薄暗さが増していた。しかし時折霧が晴れると、柔らかな日の光が差し込み、ほのかな温もりを感じさせる。それでも、天気は不安定で、どこか薄気味悪い空気が漂っていた。
地下牢を長時間歩き、隠し通路を抜けた先には、一つの宮が建っていた。主人がいなくなってから随分と時間が経過しており、劣化した柱からは木屑が次々と産まれている。その宮は、林琳が気になっていた場所だった。
人の気配が一切消えたその宮には、不気味な静けさがまとわりついており、冽は眉をひそめた。
「羅宮は立ち入り禁止だ。見つかれば即刻地下牢戻りだぞ」
「道に迷ってしまったんだ。仕方がないだろう」
「その言葉二回目は通じないと思ったほうがいい」
恐らく隠し部屋でも同じ言い訳をしたに違いない。
「なんだいその目は」
林琳と仁から向けられる冷ややかな視線に、朱禍は不満そうに眉をひそめた。しかし、付き合いのある二人からすれば、「こいつ、懲りずにやるな」と思うのはごく自然なことだった。
「君たちこそ獅宇に連絡はしているのかな」
片燕宗主の名前が出ると、林琳は視線を逸らし、仁は首を横に振った。
「ま、獅宇のことだから全部お見通しだろうけど。劉鳴国から拠点までは相当かかるね。いつ山雫国に戻る予定?」
「戻らない」
「え? 本気?」
正気かと問いかける朱禍を無視して、林琳はずんずんと羅宮の探索を始めた。指先で触れると、細かい木屑が落ちる。柱の劣化は最近始まったわけではないようだ。扉はすべて閉ざされているが、建て付けが悪く、風が吹くたびにガタガタと音を立てていた。無理に開けようとはせず、小窓や隙間を探してみるが、中を見ることは叶わない。
林の向こうには、高冥城の本殿が顔を出していた。
「冷宮か」
宮の主は消えてしまったようだが、かつて人が生活していた痕跡が残っている。置きっぱなしの水桶や、中途半端に刈られた雑草、枯れた花の苗木。そして、極め付けは、ぶら下がったままの御守りだった。
「効力はまだあるな」
触れるような真似は断じてしてはならないと、林琳は前屈みになりながら、まじまじと御守りを観察する。しかし、それは至って普通の御守りに見え、首を傾げた。
「なんでこんな所に御守りなんて……」
仕人が作る御守りは貴重なものだ。複数の組紐が絡み合い、一つの菊結びになっている難しい御守りは、林琳の背丈の半分もあった。
「はいはい、おしまいおしまい」
朱禍が林琳の肩を掴む。
「触るな馬鹿」
「気になるのはわかるけど、それよりも高冥城に戻らないとね」
林琳は強い木にしがみつくが、強制的に引き剥がされた。
無駄に整った道なりを進む。冽と朱禍が先を歩き、その二人の髪が左右に規則正しく揺れているのを眺めていると、林琳は徐々に睡魔に襲われた。大口を開けて欠伸をすると、誘われた仁も同じように欠伸をこぼす。それもそのはずだ。呪いを解くために心力をほとんど使い切ってしまったのだ。叶うなら、今すぐにでも身体を休めて、睡魔に従いたいと思っている。
「だるい……ねむい……」
仁が繰り返し口にすると林琳が横からその頬を摘む。
「ぎゃ!」
「餅みたいな頬だな」
今回失敗をしなかったのは仁のおかげだろう。弾力のある頬を満足するまで弄んでいると、騒がしいと冽から指摘が飛ぶが、睡魔から逃れようと二人は中身のない会話を続けた。恐らく、半刻もすればその記憶は消えるだろう。呪いから解放された朱禍は鼻歌を歌いながら上機嫌だ。腹いせに小石を蹴り飛ばせば、またもや冽から行儀が悪いと言われた。
「……口うるさいのがまた増えた」
「それは私のことか?」
独り言が冽に届いたらしい。
「誰かが見てるわけでもないのに、気にする必要はないでしょ」
「君の場合はどこでもそうだけどね」
「その口縫い付けられたいの」
朱禍は大袈裟に怯える。
「仁が林琳に似なくてよかった。本当に獅宇と君が面倒を見ていたのか疑いたくなるよ」
それには林琳も同感だった。会合や来客の対応は専ら仁が担っていた。厄介な事案が起きた場合は宗主、もしくは林琳が表に出ることが多いが、人当たりの良い仁の方が出番は多かった。
「林琳はすぐに煽る。宗主の獅宇は異常に好き嫌いがはっきりしてるから態度に出やすいし。片燕は君以外みんな素直だ」
林琳はふと思い出した。
「嵐海宋で花月と天雪に会った。おい、あいつらに変なことを吹き込んだだろ」
「心外だよ。私は北の外れに存在する深い谷底にはこの世の全てが集まる、としか口を滑らせてない」
「滅茶苦茶滑らしてるな」
部外者の冽までもが朱禍に引いてしまう。
「花月も天雪も師兄を探してたんだ。遅かれ早かれ……」
「そういう問題じゃない。余計なことに首を突っ込ませるな」
仁が口を開く前に、朱禍が振り返る。その表情には、不安と期待が交錯していた。
「あの子たちも大人だ」
「お前は黙ってろ」
朱禍の言葉に、林琳の声が冷たさを帯びる。彼はこのやり取りを終わらせたかった。自分の背後に迫る不安を振り払いたかった。
「数え年で十七になった。一人前だよ」
朱禍の反論に、林琳は心の中で苛立ちが募る。
「それを決めるのはお前じゃない」
「君でもないだろう」
朱禍はその言葉に食い下がる。彼の目には挑戦的な光が宿っていた。
「人生において余計なことなんてないよ」
朱禍は目を細め、誠実な眼差しを向ける。
「勝手に決めつけるのは君のよくない癖だ。誰もが選ぶ権利を持っている」
彼の言葉には、理想主義的な信念が垣間見えた。
「馬鹿馬鹿しい。昔から言ってるけど、俺に教えを説くのは辞めて。反吐が出る」
次第に林琳と朱禍の顔つきが厳しくなり、仁は一触即発の状況を避けるべく間に割って入った。彼らの周囲には、嫌な空気が漂っていた。それに敏感に反応したように、近くにいた鳥が鳴く。緊張感が高まる中、仁は心の中で一瞬の静けさを求めた。
「……君も甘やかすのはやめたほうがいい」
林琳の視界には広い背中が広がっていて、仁の顔色を窺うことはできないが朱禍の声色が硬いのがよくわかる。
「おい。揉めるなら私のいない所でやってくれないか」
「おっと、失礼」
朱禍はけろりと態度を変えて、冽の望み通りに口を閉じる。
「むかつく……!」
「ちょ、林琳! い、痛い!」
「あの馬鹿絶対に揶揄ってる!」
林琳は仁の両肩を掴んで顔を出す。相当の握力で掴まれた肩には、爪が十本垂直に刺さっている。雑に並べられた物騒な言葉を、彼は苦笑いして耐えていた。
朱禍も朱禍だ。林琳の引いた境界線を易々と飛び越え、膨れ上がっている爆弾に触れる。面白半分かは定かではないが、知った上でやるものだから、たちが悪い。
「蘭と明月が待ってるから早く合流しないと」
「面倒臭い……先に帰る」
「駄目に決まってるだろ!?」
底をつきそうな心力は腹が減った感覚によく似ていた。日が暮れているのも相まって身も心も休む体制を整え始めている。
帰る、駄目、帰る、駄目。
すっかり脱力している林琳と押し問答をしていれば高冥城はすぐ目の前に迫っていた。
「一つ聞いてもいいか」
「うん」
「呪いを解く手段を何故知ってたんだ?」
この世から呪いについて書かれた書は消滅しているはずだ。耳にするのは決して扱ってはならない術だということ。しかし現に呪いをかけられた朱禍がいるのだから、術者は消滅していないのだろう。
林琳は目を見開き、首巻きを鼻まで引き上げて「……偶然」と口にする。
「嘘だよ。君の師兄は嘘をついている」
朱禍が再び割って入った。彼の声には挑戦的な光が宿り、冷たい空気が周囲を包み込む。
「偶然? そうやって獅宇の前でも同じ嘘をついたんだろう」
どうやら聞き捨てならない言葉に反応したらしい。
「学ばないな」
その言葉は、林琳の心に鋭い刃物のように突き刺さった。
「そうやって、また終わらせるのか」
朱禍の言い方には、抑えきれない怒りがにじみ出ていた。林琳はその瞬間、彼に掴み掛かる。
「黙れよ」
襟をぐしゃぐしゃにして怒りを露わにした。整っていた襟は見るも無惨に形を崩していく。
「林琳……嘘なのか?」
「それを知ってどうするの?」
「どうするって……」
「知った所でお前は何もできないでしょ」
仁にも怒りの矛先は向く。もはや八つ当たりだった。感情の自制ができない。
「いらないことを知ろうとしないで」
強い力で襟を握られたままの朱禍が咎めようとすれば「朱禍もいい加減にして。いちいち口を出すなよ」と乱暴に手を離される。
「いいか。俺は変死体の謎を解く。それは怪奇が絡んでいるからだ。俺のことを探る前にやるべきことをやれ。そもそも一度世界を捨てた俺に……何も期待するな」
嗚呼、氷のように冷たい。
頭の奥も、心の底も、体の底も。すべてが冷え切っていく。
「二度と同じことを聞くな。知ろうとするな、考えるな。」
そうやって、幼い頃と同じように仁に言い聞かせた。
その口振りに仁が頷くと、林琳は疑わない。しかし、昔であればの話だ。
「……知ろうとしない林琳には、知らない恐怖も不安も……何一つわからないよな」
「おっと、嫌な予感がする」
朱禍が小声で呟けばそれは瞬く間に的中した。
「もういい。師兄には何も聞かない」
「……あっそ」
「俺は……昔から師兄のそういうところが嫌いだ」
林琳が、は、と顔を歪める前に仁は背を向けた。その背中が遠く感じる。
手を伸ばして外套を掴もうとするが、手は届かない。
明確な拒絶に、林琳の動きが止まる。
「君が悪い。まぁ、ずーっとそうだったけどね。あの日も警告したのに、君は聞く耳を持たなかった」
様子を見ていた朱禍の嫌味にさえ反応しない。
「それじゃあ、私は皇太子に話があるから一旦お別れだ。仁から宿の場所は聞いたから顔を出すよ」
背中を一度叩かれて漸く林琳は立ち竦んでいたのに気がつく。開いた口も塞がらぬまま力なく瞬きする。
あの仁が林琳に対して拒絶を示した。
否定や反対をしても、今まで拒絶をしたことがなかったのに。必ず味方になってくれていた仁と確実に対立した。初めて嫌い、と言われてしまった。
流石に言いすぎたとは思うが、そこまで腹を立てるようなことだっただろうか。一体どの部分が癪に触ったのか林琳は頭を悩ませる。去り際に朱禍が何か話していたが一切耳に入っては来なかった。
「俺が悪いのか……?」
全く答えが掴めない。
その場に一人残された林琳は混乱する頭の中を無理やり整理した。心力の少ない身体ではまともな思考も抱けない。
林琳が遅れて合流するとすでに蘭と明月は仁と談話を楽しそうにしていた。
何故か林琳はその輪に加わることが億劫で、離れた場所で壁に背中を預け、目を瞑る。
睡魔はすぐに訪れたが、意識が飛ぶことはない。立ったまま寝るのは得意だが、無駄に脳が冴え渡っていて、中々微睡むことさえできず、瞼の裏では蓮がぐるぐると回っている。その蓮の光景は、まるで彼の心の中に潜む違和感の象徴のようだった。
「とっても綺麗だったわ!」
高揚した蘭は、目を輝かせながら仁に近づき、まるでその庭園の美しさを伝えたくてたまらないようだった。一面に咲き誇る色とりどりの花々に囲まれ、兎や鳥、さらには猫までもが人々と共に安らいでいる光景。小鳥たちの囀りが響き渡る中、蘭と明月は穏やかな時間を過ごしていたのだ。神子が愛した庭園を凌駕する神秘的な美しさがそこには広がっていた。
「でも、どこか見覚えのある構造だったのよね……」
あの場にいるとき、蘭は美しさに心を奪われていたが、どこか既視感があることに気づいた。だが、その引っかかりを思い出せずにいるようだった。
「絵や本で似たものを見たのかしら」
文字で読み取った光景を、あたかも実際に見たかのように錯覚してしまったのかもしれない。蘭はそのことを気にする様子もなく、林琳の姿を探し始めた。
「あんな所でなにしてるの?」
人の少ない壁際で、林琳は腕を組み、空を見上げていた。仮面のせいで目を瞑っているかのように見えたが、その存在感は異様な距離感を醸し出していた。明月はその様子を見て、すぐに声をかけた。
「明月、呼んできて頂戴」
「え、あ、はい!」
小走りで明月は林琳の元へと向かった。
近寄ると、林琳の雰囲気に明月は一瞬戸惑った。
「……あの」
暫く無言になってしまったのは明月が林琳の変わった雰囲気に戸惑ったからだ。
何と言うか、こう、萎びている。
溌剌としていたわけではないが、静かに凛と咲いた花のようだった雰囲気が異常に重たい。まさしく萎びたと表現するのが正しいだろう。
仁が林琳を呼びに行こうとしなかった時点で何か起きたのだと明月も察していた。だから蘭は仁に声をかけなかったのだろう。
——喧嘩をするような間柄には思えないのに。
どこからどう見ても仁は林琳に特別親しい感情を持っている。それを愛と呼ぶのか判別は難しい所だが、仁が林琳に対して甘いというのは蘭も話していた。
まさかそんな二人が喧嘩なんて、と明月が思わず口にするとぶつかる音と一緒に林琳が突然消えた。
「り、林琳様! 大丈夫ですか!?」
「……何でもない」
彼は、勢いよく木に衝突し、蹲っていた。隣で明月は驚き、慌てている。林琳の仮面には、まるで稲妻のように亀裂が入ってしまっていた。
「お怪我は……?」
亀裂をなぞる明月の手を拒むことなく、林琳は画面の上から額を摩った。もろに衝撃を受けた額が鈍く痛むらしい。仮面の下は赤くなっているはずだ。
「冷やしたほうがよろしいかと」
明月は手拭いを水で濡らして使えるようにと差し出す。
「大丈夫」
血が出ているわけでもなく、林琳は断りを入れた。
「ちゃんと冷やしてくださいね? 痕になったら大変ですから」
明月は心配しながらも、何度もぶつかりそうになる林琳を引っ張って保護した。心ここに在らずの状態で、明月は気が気ではなかった。
目も合わせない林琳と仁に挟まれた蘭が口を開く。
「何よ。あなたたち喧嘩でもしたの?」
明月も先ほど林琳に声をかけたが、覇気のない声で問題ないというものだから、余計にどうしたらいいか分からない顔をした。
蘭と明月を送り届けた後も、二人は口を利くこともなく帰路につく。
林琳は、これまでに経験したことのないほどの耐え難い空気に包まれた。お喋りな仁が黙るだけで、こうも静かになるとは思ってもみなかった。まるで息苦しさが心にのしかかる。
疑う余地もなく、仁は怒っている。建前でもいいから謝っておけばよかったのに、と林琳は思う。しかし、仁が上辺だけの謝罪を受け入れるとは思えず、下手をすれば今よりも悪化するだけだ。
仁の外套を掴もうとして——止めた。
「俺は……間違えてない……」
人には知られたくない過去があるだろう。
触れられたくない痛みがあるだろう。
暴かれたくない道があるだろう。
林琳は何となくもう一度手を伸ばしてみたが、先を歩く仁には届かず、柔らかな髪が指の間をすり抜けていくだけだった。
——ほらみろ、どうせ届かない。
いや、違う。こんな手は届かなくて当然だ。立ち止まれば、仁の背中はどんどん遠くなる。
「……仁の、ばか」
林琳は仁の進んだ道を通らず、人混みに紛れて闇市へと逃げ込んだ。真っ暗な空間に浮かぶ薄明かりにすがりつく。
——そうだ、昔は明るい場所が苦手だったじゃないか。こっちのほうが、ずっと居心地がいい。
その日の夜も、次の日も、そしてそのまた次の日も、林琳は宿に戻らず、闇市のくだらない遊びをして気を紛らわせた。独りの夜は久しぶりで、肌寒い気がしたが、むしろそれでよかった。寒い夜には昔から慣れている。
冷え切った指先は温もりを取り戻せず、異様な騒音と人々の叫び声が夜の帳を下ろしていく。帳が上がれば、そこは血の海と化す。幾度も見た光景だ。温もりを与えてくれるのは、降り続く血の雨だけだ。そして、己もその中で生きていた。
血に染まった両手と、周囲を燃やし尽くす黒い炎は、夢ではなく現実として過去にしっかりと刻まれている。
「お兄さん、次の酒はどうなさいます?」
「いっとう強い酒を」
ぼんやりとした林琳は、酒を傾け続けた。酔いがだいぶ回ってきている。
「なぁ、聞いたか? 羅宮に幽霊が出るって!」
「いやいや、違うぞ。怪奇が住み着いてるって噂だ!」
「なんだって? 俺は歩く死体が出るって聞いたぞ!」
「挙げ句の果てにその死体は恐ろしい形だったらしい!」
男たちは声を顰めることもなく話す。
様々な情報が渡り歩き、噂が噂を作り、表の世界へと流れ出す。善も悪も存在しない。闇市とはそんなものだ。
「どこも一緒だ」
林琳は自嘲気味に呟いた。再び酒を注ぐ。
心力の尽きかけた身体に酒を押し込むなんてこと、本来では愚か者のする行為だろう。
「師匠に叱られるなぁ……」
思わず、師匠の顔が脳裏に浮かぶ。拳で殴り飛ばされるかもしれない、外出禁止令が出されるかもしれない。そうなれば仁だけでなく、年少の者たちも部屋に押しかけ、可憐な花が咲いたとか、美味しいものを買ってきたとか、修行をつけて欲しいと騒がしくなる様子が目に浮かぶ。常に外へ出ている林琳が外出禁止令を受けると、寄って集って離そうとしないのは目に見えていた。
林琳は酒を思い切り煽り、唇から溢れた雫を指で拭った。
「……馬鹿らしい」
——二度とそんな未来は訪れない。過去の夢のような日々は、もう手の届かないところに消え去ってしまった。どれもこれもまやかしだ。捨てればいい、簡単なことだ。
一度やったことなのだから、何を悩む必要があるのか。
林琳は自分の存在が、闇市の一部となっていくのを感じながら、また一口、酒を喉に流し込んだ。ただ単に喉に張り付く痛みだけが残る。今宵も余興として、くだらない遊びへと身を投じるのだ。
◆
——"「お前背が伸びたね」"
変わったのは俺のほうだ。
動いたのは世界のほうだ。
——"「五年の差があるんだ」"
そして、変わらないのは林琳だけだった。
変わって欲しいと願うのは我儘なのだろうか。
「仁、君が弱気になってどうするんだい」
「絶対嫌われた。三日間戻ってきてない」
「嫌いって言ったのは君だけどね」
「あれは! つい頭に血が上って……」
「漫言放語。私はあれが君の本心だと思ったよ」
林琳のいない部屋で、仁と朱禍は膝を突き合わせていた。仁は項垂れたまま、自らの無力感に押しつぶされそうになっている。朱禍はそんな仁の頭を、まるで子供をあやすように優しく叩いた。
「悪いのは林琳だ」
「師兄の悪口を言うな、ぶん殴るぞ」
それは聞き捨てならないと仁が睨む。
「情緒不安定すぎない? 暴力的な所は似なくていいんだよ」
「……今日も戻ってこなったら探しに行く」
「問題ないと言っているじゃないか。ちゃんと林琳の心力は近くに存在してる」
恐ろしいほど存在が薄くなっていることを、朱禍は伝えられなかった。もし伝えたら、仁は血相を変えて飛び出していくに違いない。朱禍は林琳と過ごした時間を思い出し、彼が抱えている闇の深さを感じ取っていた。それでも呪いを解いてもらえたのも、少なからず情があったからだと信じたい。
常に潤沢に巡っていた心力が、限りなく薄くなってしまっている。身体を休めることなく、どこかをほっつき歩いているらしい。問題児とは名ばかりではないと朱禍は苦笑する。
「君も君だよ。いつまで林琳を甘やかしたら気が済むんだ」
「甘やかしてない。林琳のほうが俺たちを甘やかしてる」
「そんなわけあるか」
朱禍にとっては、明らかに林琳の我儘がこの亀裂を生んでいるとしか思えなかった。原因は過去に囚われ、知ろうともしないただの阿呆にある。
「今までよくもまぁ衝突しなかったものだよ。君だけじゃない、片燕の懐の広さには感服するしかないね」
口ではそう言うが、積み上げられた岩で成り立つ足場は見ていて危なっかしい。
「折角捕まえたのなら、無理矢理にでも繋ぎ止めればいいだろう」
引き摺ってでも山雫国に連れ帰る方法は幾らでもあるのに仁は林琳の好きにさせている。朱禍がなぜそうしないのかと尋ねれば「林琳は望まない」と仁は答える。
望んだ、望まないの話ではないだろうと朱禍は頭を抱えた。
「君は知りたくないのか」
「……知りたいに決まってる」
でも、それを林琳は望まない。
だから林琳が話すのを待つ。
「いーや、あの子は絶対に話さないよ。期待するのは無駄さ」
こうなるとどっちもどっちだ。
「それでも林琳の口から聞くのが大切なんだよ」
「意地っ張りはどっち譲りなんだか」
「林琳」
「だろうね」
仁は「うー……」と頭を抱えると立ち上がって「……やっぱり探しに行く」と吹っ切れない顔で言った。
「それは辞めたほうがいい。君がそうやって甘やかすとまた繰り返す羽目になるよ」
「別に甘やかしてないだろ。そんなに言うなら具体的にどの部分か言ってみろよ」
「……そうだね。今、君と林琳は違う感情を抱いていると思う。君は怒りや悲しみ、そして後悔だ。じゃあ林琳はどうだい?」
少し悩んで仁は首を横に振る。
「多分だけど、あの子は君が思う以上に悩んでいる。ずーっと君が迎えに来てくれたから、自分自身の感情や、相手の気持ちを考えることをしてこなかったんだと思うよ。だから君が迎えに行っても……それは林琳の為にはならない。君が与えるのではなくて、どうすべきだったのか考えさせるべきじゃないかい?」
朱禍は立ち上がったままの仁に座るように言った。
「あれ、御守り? 君が付けるなんて珍しい」
朱禍の目に入ったのは手首に巻かれた荒さの目立つ組紐。
さっと後ろに手を隠したが朱禍は興味津々に手首を掴み取りまじまじと観察した。
「へぇ。林琳……だけじゃないね」
「は?」
「薄く別の心力が混じってる。これまた興味深いことをするよね。うん、やっぱり虚狼衆から遠ざけて正解だった」
摘んで確かめていれば仁はむっとして今度は手のひらで覆ってしまった。
「それに上手く調和が取れてるし、君によく馴染んでて面白い」
もっと見せてくれとせがむ朱禍とは裏腹に仁の顔色は曇っていく。
仁は林琳が与えてくれた組紐をゆっくりとなぞった。形に残るものを林琳は与えたがらないのに、なぜ今さら手に入れることができたのか。過去の記憶が呼び起こされ、彼は心を乱す。
「仁?」
切れ長の瞳がさらに吊り上がっている。
どこからどう見ても不貞腐れて、状況を悪化させた気がする。
嫉妬ではなさそうだと朱禍もまた眉を顰めた。
林琳が絡むと途端に扱いにくくなるのはいかがなものか。彼を慕うのは大変素晴らしいことだが度を超えている。
朱禍は釈然としない仁の態度に重々しく口を開く。
「世界は常に変化するものだよ。昔に戻りたいなんて浅はかだ」
仁は息を呑んだ。
突きつけられた答えは仁を酷く動揺させる。
「君は林琳をどうしたいんだ」
己の師からも与えられたその問いに、仁は最後まで答えられなかった。
◆
「それでぇ、明月ったらぁ、派手に転んだのよぉ!」
「……はぁ」
「しかもねぇ、顔から田んぼに突っ込んだからぁ」
「……そうか」
「お父様もお母様も……笑いを堪えなくてねぇ……」
なんだ、この飲んだくれは。
頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳を隠そうともしない蘭は、林琳の持つ酒を横から奪い取り、そのまま一気に煽った。豪快な飲みっぷりだが、到底ご令嬢らしくはなかった。むしろ山賊のような飲み方だ。しかも、蘭が飲み干したその酒は、かなりの高級酒。林琳が渋々開けたのに、まるで安酒のように扱われては、ただ空になるのを呆然と見守るしかない。
林琳はふらふらと揺れる蘭を見て困り果てていた。すでに空っぽになった酒壺は、片手では数えきれないほど。かれこれ一刻も飲み続けている。
しかも、ここは闇市の外れにある、狭くて荒くれ者たちが集う酒場だ。
「お嬢ちゃん、大丈夫か? こんな青臭い坊主なんか放っといて、俺と一緒に風に当たりに行かないか」
無防備な蘭を見つけると、こんな連中がすぐに近づいてくる。林琳は「またか」と溜息を吐き、銀の箸を男の顔すれすれに突き出した。
「潰されたくなかったら、さっさと消えて」
一歩でも前に進めば、熱を帯びた汚い瞳に突き刺さる距離だ。
「お前も早く帰れ。ここは、お前みたいなやつが来る場所じゃない」
「なによぉ。あんただって、仁と一緒にいないじゃない」
「いつも一緒なわけないだろ。こっちはもう大人の男なんだぞ」
図星を突かれた林琳は誤魔化すように蓮の実を口に運んだ。
「わたしだって、やるべきことがあるのよ……ちゃんとやらなきゃ……」
「今のお前じゃ無理だ。諦めて、さっさと明月のところに帰れ」
蘭の支離滅裂な話に、まともな会話が成立しない。仕方がない、宿まで送り届けるしかなさそうだ。
林琳は蘭の二の腕を掴んで立たせようとしたが、蘭は嫌だと駄々をこねて動こうとしない。この様子は……林琳は、五日前の自分を思い出した。やけ酒だ。
明月と何かあったのか、それとも家のことで問題が起きたのか。原因は幾つも思い浮かぶが、今の蘭から聞き出せる状態ではない。
ただでさえ林琳も酒を浴びるように飲んでいたので、世話をする気力もない。昨日は朝から晩まで死んだように眠り、やっと酒が抜けてきたところでこの有様だ。酒による頭痛なのか、精神的な疲労からくるものか、もはや区別もつかない。
「いやよ、私もここにいるわ!」
「我儘娘かよ……」
蘭の駄々に呆れつつも、帰らせるのを諦めた林琳は水を汲んで蘭に手渡した。酔っ払っていても、水ぐらいは飲めるだろう。
「ほら、さっさと酔いを覚ませ。明日の朝になったら、宿まで送ってやる」
もし、闇市を出た後に蘭が何かあったら、最期に一緒にいた自分が疑われるに違いない。それだけは避けたい。
林琳が蓮の実をつまんでいると、むくりと顔を上げた蘭が「……だって、あなた寂しそうよ」と、口を尖らせて見上げてきた。
酔っ払いの戯言だ。
林琳は鼻で笑い、窓の外に月を探したが、薄い雲が白く光っているだけで月は姿を見せない。月が見えないのは久しぶりだ。
じっと外を見つめる林琳の横顔を、蘭は装飾品のように感じた。林琳の本心は見えないが、その姿はまるで、月を覆う雲のように曖昧で、風に流されそうな輪郭だ。
蘭がかける言葉を探していると、「そういえば……」と林琳が呟いた。薄く目を開けたまま、蘭は続きを待つ。
「……昔、月の浮かばない奇妙な国を訪れたことがある」
満開の梅に包まれた幻のような孤島だ。常に温暖な気候で、"春国"と呼ばれるにふさわしいその場所。海の上に浮かぶ大きな島国に足を踏み入れたのは、突然届いた依頼のためだった。
「月がないの?」
「あぁ。星空はどこよりも美しく鮮明なのに、月だけは姿を隠し続けているんだ」
「ふぅん……」
興味をそそられた蘭が、目を輝かせて続きを催促する。
「人々は温厚で俺たちを何も疑わずに受け入れた」
「仁とあなた?」
「……いいや。違う人だよ」
「へぇ、あなた仁以外にも親しい人がいたのね」
「お前本当に失礼すぎない?」
少し言葉を濁した林琳にも非はあるが、さすがに蘭の言い方は酷すぎる。話をやめようとした林琳に、蘭は軽く謝って、再び続きをせがんだ。その様子は、母に物語をせがむ子供のようで、林琳は何とも言えない気持ちになる。
ため息をつき、記憶の扉を開いた。
「昔々の話だ」
酒にも飽きてきたところだ。蘭が寝付くまでの暇つぶしには、ちょうどいいだろう。思い起こすのは、甘い香りの漂う島国。舞い続けるのは花びらで、そこは俗世とはかけ離れた景色だった。
"亜紫国"
「林琳、起きなさい」
微睡の中で、優しく揺すられて目を覚ました。
「着きましたよ」
黒典を抱えたまま壁に寄りかかっていた林琳は、頭上で燦々と輝く太陽に眉をひそめた。さっきまで斜めに見えていた太陽は、いつの間にか真上まで移動している。
「眩しい」
「お前はいつも寝すぎです。そのまま豚になるつもりですか。ほら、行きますよ」
「……はい」
身軽に船から飛び降りた片燕宗主、獅宇の後を追い、林琳も軽々と地面に降り立った。獅宇の目を覆う白い布が風に靡いている。結び目が緩んでいるのに気付き、林琳が声をかけた。
「師匠、待って」
「どうかしましたか?」
「解けそうだよ」
「あぁ、すみません。結び直してもらえますか」
林琳は一つ頷き、丁寧に布を結び直す。細工が施された目隠しを結ぶのは、林琳の役目だ。
流石は孤島。目の前に広がる砂浜は、絹のようにきめ細かい。反対側の海岸は、崖がそびえ立ち、船を寄せることなど到底できない。波戸も簡素で、船がぎりぎりつけられる程度のものだ。
本当にこの平穏な島に怪奇が現れたというのだろうか。
林琳は見渡す限り桃色に染まる風景に落胆した。確かに美しい景色ではあるが、期待していたものとは違った。
「師匠、本当にここなの?」
「間違いありませんよ」
肩を落として歩く林琳を叱責しながら、獅宇は半開きの扉を指差した。
「ひとまず中に入りましょう。清氏から預かったものは持っていますね?」
「うん」
半月前、獅宇の元に一人の男が訪れた。名は清。特に目立つところもない、どこにでもいそうな男だった。唯一印象に残ったのは、眉間に刻まれた深い皺と目の下の隈だけ。
林琳にはそれほど興味を引く相手ではなかったが、獅宇は一目で彼が墟狼衆の者だと見抜き、林琳と仁以外の弟子を下がらせた。片燕派は人間同士の争いごとには加わらない主義だからだ。墟狼衆は夢天理との関わりが深く、余計な火の粉が降りかかるのは避けたかった。
だが清は墟狼衆ではなく、「大切な友を助けてほしい」と頼んできたのだ。最初は断ったものの、清は四六時中扉を叩き続け、修行に支障を来すほどだった。ついに林琳が怒り、黒典を抜いて清に突きつけた。
「墟狼衆ならお抱えの仕人が沢山いるでしょ。他を当たって」
それでも怯まず説得しようとする清に、獅宇が話を聞いてやろうと受け入れてしまった。まったく、お人好しすぎる。結局、手を貸す羽目になった。
「師匠、お人好しすぎるよ……放っておけばよかったのに」
「これもまた縁。それに彼はいい人です」
「どこで判断してるの? 俺たちを騙してるかもしれないよ」
警戒する林琳の頭を、獅宇がふわりと撫でると、雑にまとめられた髪が少し整った。
「私を疑うのですか?」
「……そうじゃないけど」
獅宇のお人好しに振り回されるのは、朱禍の役目だったはずだ。林琳は、怪奇現象に興味があるからついて来ただけで、人助けにはまったく興味がない。
「これだけ大きな梅林は珍しいですよ。お前も花を慈しむ心を持ちなさい」
「ただの花でしょ……」
獅宇は軽い足取りで、指先で梅の花に触れた。
興味を持たない林琳は、何も考えずに後ろをついて行く。博識な師の話を何とか聞きながら歩いたが、足取りは重い。今すぐにでも帰りたい気分だ。
深い梅林を抜けると、開けた場所に出た。獅宇は地面に複雑な陣を描き始めた。何重にも連なった円は、やがて一つの大きな円陣を作り上げた。
「これでよし」
「なんで転送陣?」
「あの子たちも行きたがっていたでしょう。片付いたら迎えに行きます」
拠点を出る前、同門たちが羨ましがっていたことを思い出す。望むなら代わってやると言ったのに、誰も手を上げなかった。まったく自由な奴らだ。
早く帰るために獅宇が張った転送陣を見て、林琳も力を合わせる。獅宇は満足そうに頷いた。
「さてと、お二人の住む家を探しましょうか」
——ドンッ!
「……師匠、確実にあそこじゃない?」
爆発音と共に、細長い煙が空高く昇っていく。一般の民が山奥であんな爆発を起こすわけがない。
「おぉー、また派手にやってんなぁ」
畑を耕す農民たちが手を止めて、口を揃えて笑った。
林琳と獅宇は顔を見合わせ、急斜面を登った。たどり着いたのは、瓦礫や岩が散乱する奇妙な建物だった。民家とは呼べず、屋敷とも言えない。素人の手で継ぎ接ぎして作られたような建物で、敷地の境界すら不明だ。しかも、煙臭い。
林琳が渋い顔をしていると、背後から声がかかった。
「誰だ?」
林琳と同じぐらいの年齢の男が、煤まみれの頬でこちらを見ていた。まん丸の瞳に、小柄な身体。表情は硬い。
「山雫国、宗派片燕の獅宇とこちらは弟子の林琳。突然の訪問となり申し訳ありません」
獅宇と林琳は揃って拱手の礼をとる。
きょとんとした男は、名を名乗り礼を返したが、戸惑っている様子だ。
「清氏のご依頼です」
「清?」
その名を聞くと、男は顔色を変えた。「少し待て」と言い、立て付けの悪そうな扉を力任せに開けた。その瞬間、息を吸い込んで——林琳は耳を塞ごうとしたが間に合わなかった。
「清の遣いだと!? 何か聞いてたか?」
右耳から左耳まで突き抜ける、騒音のような大声。
背の高い男が羽織を脱ぎながら奥から現れ、羽織を三度叩いて汚れを落とす。
「清が? 俺は何も聞いてないけどな」
右耳から左耳まで突き抜ける、騒音のような大声。
二人は揃って首を振ったが、獅宇が清の話をすると、ようやく納得したらしい。家の扉という扉を開け放ち、煙を逃がしつつ、手際よくお茶を出してくれる。清との温度差が気になり、林琳は不思議に思った。
それよりも鼻がむずむずして——くしゅんっ。
「大丈夫ですか?」
「うん」
くしゅんっ、くしゅんっ。
「あぁ、駄目だ。外で話そう」
動く度に舞う埃に控えめなくしゃみをする林琳を見兼ねて鵜紺が外に誘う。
快晴の空の下、白い蕾をつけた一際巨大な梅の木を屋根にして鵜紺が一冊の本を取り出した。
さぁ、ここからが面白いところだ。
話の流れが盛り上がる――そのはずだったが、静かに寝息が聞こえてきた。蘭がついに限界を迎え、眠りに落ちてしまったらしい。
林琳はふと我に返り、口元に手をやる。胸の中に広がる焦燥感に気付き、引き攣った息を吸った。
——何を話した?
——師匠の名前を出してしまったか?
震える手で水を飲み干すと身勝手に高揚していた心は次第に落ち着きを取り戻した。
片燕に関する話題は全て口にしないようにしてきたつもりだったのに、どうして。
らしくない自分に対して苛立ちが募るばかりだ。無防備に夢の中へと旅立ったお転婆娘にも、少なからず怒りを覚える。もちろん、それが的外れな感情だと理解してはいる。それでも林琳は、蘭の旋毛をぐりぐりと人差し指で抉った。
仁だけではない。蘭や明月にも、無駄に信頼されてしまったことを後悔している。一時的な協力関係に過ぎなかったはずなのに、そんな信頼を抱かれても困る。抱いて欲しくなかった。
林琳は、変死体の謎を解くためだけに領域を出ただけだというのに、周囲の人々がずかずかと踏み込んでくる境界線に、調子を狂わされていた。公主の身分を持つ身でありながら、赤の他人にこれほど無防備な姿を晒す蘭が信じられない。
「ははうえ……」
蘭は、夢の中で母を呼んでいるらしい。あれだけ酒を飲んだのだ。今頃は心地良い夢に包まれているはずだが、目尻に光る涙が一筋こぼれ落ちる。
その雫を、林琳はそっと指先で拭った。
夜はまだ、明けそうにない。
◆
「花月と逸れたぁ!?」
「すみません……」
「片燕一、いや、山雫国を代表する超方向音痴のくせに!?」
仁は意気消沈している片燕の弟子、天雪を信じられない目で凝視していた。
「どこで逸れたんだ」
「劉鳴国に入った途端、姿を消して……」
「通心は?」
「繋がりません」
「強烈に嫌な予感がする。ほら、鳥肌が立った」
ぶつぶつと両腕に浮き出たものを見て、天雪はさらに肩を落とした。
「嵐海宋からお二人を追いかけてきたのですが、またご迷惑をおかけしてしまい……申し訳ありません」
「はぁー……。林琳がいなくてよかったな。拳骨じゃ済まなかったぞ」
「どうか内密に」
天雪は苦笑いを浮かべたが、彼の勘の鋭さから隠し通すのは無理があることを悟っていた。余計な嘘をついて墓穴を掘るくらいなら、(それこそどこぞの師兄みたいに)素直に答えた方がましだと判断した。
「師兄はどこに? 早くお会いしたいです」
ちなみに、これまでの経緯は話していない。ひとまず林琳のことは朱禍に託してある。非常に悔しいが、あの男は林琳と切っても切れない繋がりがあり、お互いに気に入らないところがあるものの、どこか通じ合うところもあるのだろう。朱禍からは微かに宗主に似た雰囲気が漂っているから、ますますそう思うのかもしれない。
「こんなに広い国でどうやって探せばいいんだ。待ち合わせも目印も……もう、方向音痴には通用しないぞ」
せめて通心が使えたらよかったのに。久しぶりの再会がこんな形になるなんて、と二人が引き攣った笑みを浮かべていると、不意に仁の外套が力強く引っ張られた。
思わずよろけた仁が振り返ると、目を真っ赤にした明月が立っていた。
「驚いた。帰るって言ってたのにどうした?」
明月は首をぶんぶんと横に振った。
「お、おじょうさまが……!」
「蘭? そういえば姿が見えないな」
四六時中一緒にいるはずの蘭が見当たらない。天雪は明月の尋常ではない顔色に手拭いを差し出した。額に滲む汗は大粒だ。
「どこにもいないのです!」
慌てふためく明月をどうにか落ち着かせて話を聞くと、仁は頭を抱えた。
蘭を連れて国へ戻るように指示を受けた明月。嫌がる蘭を無理矢理連れて帰るわけにもいかず、何度も説得を試みたが、全くの無駄だった。それならば、蘭の方から直接説得してくれと頼んでみたが、当然うまくはいかず、明月は仕方なく荷物を片付けて出発の支度を整えた。しかし肝心の蘭がいない。辺りを探して見つけた時、蘭は山ほどの衣を抱えて仕立てを依頼していた。「仕立て終わるには一週間必要だって」「それまでは帰れないわ」と言っていた。絶対にわざとだ。間違いない。明月は蘭の意思を何よりも尊重したかったが、そうはいかないのだ。明月はただの侍女で、国主によって管理されている身。歯向かうことは許されない。明月が強引に取引を片付けようとした時、蘭が怒りを爆発させた。「私の意思を無視するのね!」と。ずっと一緒に過ごしてきた主が何を気に入らないのかはよくわかっているし、本心はいつも蘭の隣にある。しかし、蘭の放った言葉により、明月も我慢していたものが爆発した。
「それで、わた、わたし……」
「喧嘩なんて子供染みた……」
天雪がぼそっと呟いた横で、仁が咳払いをする。
「お風邪ですか?」
「いや、気にするな」
天雪は知らないが、仁も絶賛同じ状況にある。
「それなら仲直りしたらいいのでは? もう一度説明して、わかってもらうんですよ。お互いに大切なら伝わるはずです」
青褪めた顔を上げた先には、微笑む天雪がいた。
「でも、お嬢様の居場所が……!」
「俺が蘭を探すから、天雪は花月を探してくれ。見つけたら通心で知らせろ」
「わかりました」
「明月はどうする?」
「も、勿論行きます!」
超方向音痴の人間に家出娘が加わって、どんどん問題が増えていくのは気のせいだろうか。嗚呼、待て待て。最大の難関がまだある。考えれば考えるほど眩暈がしてきた。
「あの犬に匂いを追わせることはできないのか」
「見失いました……」
「……はぁ」
片っ端から探すしかないらしいが、花月と同様、通心が通じない状態でどこを探せというのだろう。
「通心……心力……っあ!」
仁が頭を抱えて途方に暮れていると、天雪がまるで閃いたかのように目を輝かせ、手を挙げた。
「これが使えるかもしれません!」
「眼鏡?」
「明月さん、蘭さんの心力が込められたものはお持ちですか?」
天雪は明月に尋ね、彼女の返事を待たずに前に進み、明月から組紐を受け取った。彼はその組紐を優しく手のひらで包み込むと、眼鏡と組紐に淡い光が灯る。周囲の空気が一瞬、穏やかな波に包まれたように感じられた。
「何か見えませんか?」
明月は眼鏡をかけ、戸惑いながらもその問いに答える。
「え、なにかって……あ!」
「蘭さんの心力が跡を残しているはずです。その跡を追えば辿り着きます」
明月の目に映るのは、桃色の細い糸だ。彼女はその糸に魅了されたように目を見開いた
「見えます!」
古びた眼鏡に秘められた機能が明らかになる。天雪が満足そうに頷く一方で、明月は眉を下げ、申し訳なさそうに眼鏡に触れる。
「でも、天雪様も人を探しているのに……」
持ち主を差し置いて抜け駆けするのは忍びないと感じていた。
「気にするな。蘭と違って花月は方向音痴なだけだ。自分の身は守れるし、多少放っておいても問題ない」
それよりも蘭の居場所を掴むことが急務だ。明月は心の奥底で、もし蘭が何かの事件に巻き込まれていたら、自分の首が刎ねられることになると恐れた。仁や林琳にすら、その矛先が向かうだろう。
明月は未だに遠慮する素振りを見せ、隠さずその気持ちを伝えると、少しだけ顔を強張らせて頷いた。
「天雪、それで花月は追わなかったのか?」
「実はこの眼鏡、癖が強くて。一度記憶させた心力は二度と使えないんです。だから……花月もそうですが、師兄も探せませんでした。まぁ、眼鏡を作ったのは師兄なので、ご自身の心力を探知できないようにしていそうですけど」
仁は天雪の言葉に苦笑いをした。
「試作品だとおっしゃっていましたが、僕にとっては大切な繋がりですから」
明月の不安な様子に目をやり、天雪は仁に目配せをして、正反対の道を小走りに駆けて行く。
天雪のように形に残る物がなくとも、本来繋がりなんてものは目に見えないもので、時と場合に応じてあったりなかったりする不安定なものだ。不思議な出会いがあれば、突然の別れもある。巡り続ける回路の中でどれを選ぶかは己が決めること。
触れられる距離になった途端に逃げるだけの答えは、もうやめて欲しい。違う選択をすれば、林琳の知る景色さえ変わるはずなのに。
選択肢は有り余るほどあると気がつくのはいつになるのか。
仁は明月が進む後ろをついて歩きながら、ふと考え込む。
突き当たりを右に曲がった明月は立ち止まり、彼女の視線が鋭くなった。
入り組む回路を進んだ先からは賑やかな音が届く。心地よい音とは程遠く、聞き慣れない不協和音が何重にもなり、正しい音を聞き分けることはできない。
「え……ここって……」
「闇市の入り口だ。どれだけ無鉄砲なお嬢様なんだ」
足を踏み入れれば、命の保証はない。
鼠の死骸に乾燥した薬草、何よりも鼻を突くのは湿った異臭だ。明月が短い悲鳴を上げる前に、仁がすばやく手で視界を覆う。
「弱みを見せたら終わりだぞ。怖いなら羽織ってろ」
仁が外套を被せると、お互いの手首を短い紐で繋ぎ合わせる。
「明月まで迷子になったら俺は過労死するかもしれない」
「気をつけます……」
歩くのに支障がない範囲で繋がれた二人は、野暮なちょっかいをかけてくる輩を素通りして歩く。
明月が指さす方へ歩みを進めると、途中でぽっかりと空いた穴を見つけた。何かが祀られているようだが、穴の中には光が入らず、かすかに捉えられるのは石碑の影。どうやら名前も掘られているらしいが、影に隠れて読み取れそうにもない。
誰かの手によって綺麗に磨かれているようで、多少の苔や藻が生えていても見窄らしいとは感じず、それよりも定期的に参拝者がいることに驚きを覚えた。
しかし、闇市には様々なものが集まっていおり、目を引かれてしまう。
酒に溺れて座り込んでいる老人はぶつぶつと譫言を繰り返し、我を思い出すと頭を抱え、再び酒に手を伸ばした。
その隣では、奇妙な干物を並べて男が笑っている。彼の笑い声は場の雰囲気をさらに薄汚くしていた。
さらに奥の方では、大きな舞台で競りが行われており、次から次へと商品が切り替わる。
いくら表の世界が祝福をあげていても、裏側はいつもと変わらない日常が繰り返され、世の 中から剥離された場所に過ぎない。皮肉なものだ。
「酷い……」
高価な値で取引される悍ましい物を目の当たりにした明月は、腰が引けてしまったようで、一歩後退りする。すると、強制的に仁も後ろに下がることになるが、観客が多く、背の高い男と肩がぶつかる。
「わる、い……」
「構わん」
整った顔に、思わず口を開けて見入ってしまった。間違いなく阿保面で滑稽な表情をしていた。半開きの口がいうことを聞いた頃には、その男は人混みに消えてしまっていた。そして仁は、信じられないほどの美男子がこの世には存在するのだと感嘆の息を漏らす。
冷徹な雰囲気を纏いながらも、高潔な人格が滲み出ている。微かに感じた心力も、その男に似合うひんやりとしたものであった。
しかし、どこか見覚えのある顔だ。正確には、誰かに似ている。
あれほどの絶世の美男子を忘れることなんてあるのだろうか。ぱっと思い出せないが、どこかで似た人間を見たことがある気がする。いや、絶対にある。隣には能天気な青年がいたような——。
仁が頭の雲を晴らそうと唸っていると、腕がくいっと引かれ、明月が扉が開いたままの店を指さした。橙色の灯りが柔らかく揺れている。
「お嬢様!」
明月は机に突っ伏している桃色の女に駆け寄った。
心地良さそうに頬を赤らめて眠る姿に胸を撫で下ろし、明月はその場にへたり込んだ。
「よ、よかったぁ……」
明月の声は震えていた。蘭が怪我もせず、ただ酒に酔って眠っているだけでほっとしたものの、彼女の無防備な姿に心が痛む。周囲の客も、同じように酔いつぶれ、夢の世界に漂っている。机に散らばった酒を数えれば、明らかに相当な量を飲んでいた。
仁が近くの盃に目を向けたその瞬間、蘭が身じろぎし、彼女の動きが周りにある酒を掻き乱す。ひとつの盃が倒れそうになった時、仁はすかさずそれを掴み取った。残った酒が跳ね、仁の手を濡らす。
ひとまずこの酔い潰れたお嬢様をどうにかしなければ。
仁は、明月と共に椅子に腰掛け、蘭を揺すり始めた。明月の声が切迫し、彼女の手が優しく蘭を叩く。だが、蘭は動かない。
仁は目の前の盃をじっと見つめる。——誰かがいたのだろうか?
「おい、お前たち。その子の知り合いか? それなら早く連れて行ってくれ。たんまりと金は落としてくれるが……護衛が野蛮すぎる。争いごとはごめんだ」
店主曰く、蘭に近寄る者がいれば目を潰そうとし、触れる者がいれば箸を手のひらに突き刺す。
常連客は気にせずに飲み続け、面白がった客は見物にやってくる。昨晩はいよいよ血の海になりそうだったと店主が話す。
「ここに座っていた人はどこに?」
「さぁ、わかるわけないだろ。急に出て行った。ほら、お前たちもさっさと行きな」
店主は手で厄介者を追い払う仕草をし、机の上を片付け始める。
「お嬢様、起きてください!」
明月の声はますます必死になるが、蘭は眠りから覚める様子がない。明月の表情は、だんだんと不安に変わり、最後には涙声になってしまった。
徐々に明月の声は情けないものに変わり、ついに涙声になってしまった。
「うぅ、私のせいです……」
「ははは……ほら、泣くな、泣くな。ただ寝てるだけだ」
仁は蘭を担ぎ上げて明月の涙を拭う。
「こっちの扉から行きな。そんな格好じゃ襲われぞ」
厳つい顔を持った店主は顎で裏の扉を指示する。
「ありがとう」
「っは、あの餓鬼がたんまり金を落としたから特別だ。二度と来るんじゃねぇぞ。真っ直ぐ進め。途中に三本に分かれた道があるが、真ん中を通るんだ。わかったな? ……はあ、全く。なんで俺が餓鬼どもの子守りなんて……」
仁は店主の愚痴を背中に受けながら、蘭を担ぎつつ明月の手を繋ぎ、細い抜け道を歩く。手に持つ蝋燭の光が頼りなく揺れ、暗闇を照らしている。
歩幅が異なるため、時折お互いの距離が開いてしまうが、明月は小走りになりながらも仁に寄り添う。
「明月は度胸があるな」
「え?」
「闇市なんて、侍女やお嬢様が入る世界じゃない。怖いはずだろ」
仁は明月が怯える姿を想像していたが、彼女はそれに反して、真っ直ぐに心力の糸を追いかけ、脅されてもそのまま進み続けている。
「怖いですよ。今だって、こんなにも震えが止まりません」
明月は、蘭の手をしっかり握りしめながら、涙を溜めた目を伏せる。
「それでもお嬢様を独りにする方が何倍も怖い」
躓きながらも、彼女は蘭の手を離さず、力強く踏み出す。
「どんな時もお側にいると約束しました」
汗が滴り落ちるが、彼女はそれを拭うことなく進み続ける。仁は明月の勇気に感心し、心が温かくなる。
明月は自身を臆病で意気地なしと貶していたが本質は違うだろう。蘭はそれを見抜いて側に置いているのかもしれないと仁は目尻を緩ませた。
天井の低い道を少しだけ前屈みになって頭をぶつけないように細心の注意を払うが、腰への負担が凄まじい。できることなら早急に目を覚ましてほしい。
無言で歩く中で仁は天雪に通心を繋げて、案外早く合流できそうな旨を伝えると、あっちは未だに走り回っているようで、時折通心が途切れる。
明月が借りた眼鏡で無事に見つかったことを伝えれば、天雪の安堵した声が脳内に流れてくる。
「相変わらず変なものを作るなぁ……」
不思議な物を作るのは林琳の十八番だ。興味本位で作っているのか、気まぐれの暇つぶしなのか、最終的に生まれた道具の用途さえ話さない。
《僕と逸れたら国で一番大きな書店に集まるようにしていたんですけど》
この国で最も大きい書店を教えてほしいと尋ねれば、誰しもが案内してくれるだろう。やましいことなど一切ないのだから、賢い方法ではあった。
《この国、書店が一つもないらしくて。あるのは高冥城が管理する蔵書閣で、国民である証がないと入れないんです》
実際に門番に尋ねて判明したらしい。
どうしたものかと頭を悩ませ、同じ年頃で同じようなことを聞いた人がいなかったか尋ねると、「いない」と望んでいない答えが返ってきた。もし門番が「いた」と答えてくれれば、虱潰しに探す手間も少しは減ったのだが。ずっと高冥城で立ち竦むこともできず、すれ違いにならないことを祈りながら、天雪は人伝に花月を探しているようだ。
「花月の行きそうな場所……」
《行きたい場所にさえ行けない方向音痴ですから、人伝に姿を探すしか……》
「今までどうしてたんだよ」
二人で各地を回っていたはずだ。旅の道中に逸れそうになることも多々あっただろう。
《花月が僕の姿を認識していれば大丈夫だったので。今回みたいに人混みに流されてしまうことも中々珍しいのです》
「で、唯一の待ち合わせ場所には入れず、ってか」
《……はい》
「はぁ。蘭と明月と別れたら俺も手を貸す。もし見つかったら早めに通心で繋いでくれ」
仁は想像以上に長い抜け道を歩いていた。闇市に入った時の二倍の時間はかかっているだろう。元の場所に出るよりも、別の場所に繋がる道なのか。
仁は蘭を背負い直し、僅かに差し込む光を見つけた。手に持つ蝋燭も必要ない。細い息を吐いて火を消した。
「出口だ」
「はい……!」
格子を力一杯にあげて外に出ると、そこは紙吹雪の舞う街中だった。人気のない裏路地に出たらしい。
蘭を背負ったまま、仁は明月をぐいっと引っ張り上げる。
「ありがとうございます」
しかしまた変な場所に出たものだ。明月たちの宿まではどのぐらいだろうか。遠くなければこのまま蘭を背負っていくのだが、場合によっては一旦休憩を取った方がいいかもしれない。荒い息で汗を拭う明月は、これ以上歩けなさそうだ。
仁は明月に周りを見てきてほしいと頼み、日陰になっている木の下で蘭を下ろす。
「いたたた……」
中腰で人を背負い続けていたからか、全身が凝り固まっていて、仁が大きく背伸びをすると、体中から空気が弾ける音がした。前屈をしたり、横に伸びたりと忙しく体を動かす。弾ける音がなくなると、ようやく溜まっていた息を吐いた。 一つ片付いたとして、次は花月の方だ。
一つ片付いたとして、次は花月の方だ。早急に捕まえて天雪にくくりつけてしまおう。
次から次へと些細な問題が飛び込んでくることには慣れていたが、今回に関しては事情が違った。もちろん、林琳のことだ。ちゃんとご飯は食べているのか。どうせ食の細い身体だ。まともに食べていないだろう。睡眠はとっているのか。店主の話を元に推測すると、飲み続けていたはずだ。
勝手に遠くに行ってはいないか。朱禍の様子を見ると、辛うじて心力が感じられるらしい。
不安要素が積もり募って怒りに変わりそうだと仁は引き攣った笑みで、木の幹に拳を心のままにぶつけた。二人が揉めた時にするお馴染みの合図さえなかった。
——臍を曲げすぎだろ!
あの日の帰り道、仁は少なからず期待を抱いていた。林琳が眉を下げ、唖然とした表情を浮かべている様子は、まるで路頭に迷った子猫のようだった。だからこそ、仁は彼が外套を掴んで引き止めてくれるのではないかという希望を持っていたのだ。
しかし、我らが偉大な師兄様は一筋縄ではいかない。変わり者と呼ばれ、問題児として指を指される彼は、「それで? 暇なの?」という一言で全てを終わらせてしまう男なのだ。無関心は、例外なく身内にも及ぶことを再確認させられた。
昨晩、朱禍が林琳の様子を見に行くと口にしたことが、余計に仁を苛立たせた。任せたのは己の判断ではあるが、正直なところ嫉妬している。年齢が一回りも離れた師の知己に対して、腑が煮え繰り返るほど明確な敵意を抱いていることを認めざるを得なかった。
朱禍ばかりに怒りが湧いているのではない。林琳もまた同様だ。たった一言、引き止めてくれれば良かったのに。そんな簡単なことが、どうしてできなかったのか。
「仁様!」
「うわ!」
明月の声に驚いた仁は、思考の沼に沈んでいた自分を思い出す。
「お疲れですか? 何度か声をかけたのですが……」
思考の沼に嵌っていた仁は明月の声に気が付かなかった。「ひとまず新しい宿を取りました。お嬢様が目を覚ましたら、色々とお話ししようと思います」と明月が続けた。彼女が話せる相手がいるということが、今の仁には羨ましかった。
仁が何かを言おうとする前に、明月が食い気味に「仁様は林琳様と喧嘩をしたのですか?」と痛いところを突いてきた。
「あの日、林琳様の様子が変だったので」
まさに心ここに在らずという状態だった。
明月は気を紛らわせるように指先を弄ると口を開く。
「えっと……宿に、その……林琳様はいらっしゃるのでしょうか?」
視線を彷徨わせる明月に、仁は平静を保とうと自身の長い髪を指先で梳いた。「なんでそんなことを聞くんだ」と口に出した後、仁は言葉の冷たさと意地悪な回答をしてしまったことを後悔する。
「すみません……」
すっかり萎縮してしまった明月に、仁は言い訳もできず、微妙な空気が流れた。何か言わなければ明月も萎縮したままだろう。だが、この少女は林琳に恋をしている。仁は林琳のように鈍感ではない。彼からも「顔だけは良い」と太鼓判を押されている仁は、容姿端麗で好意も寄せられやすく、恋する乙女が抱く熱い想いを手のひらで転がすように理解していた。「わたし、あの……そんなつもりじゃなくて!」
盃が一つ多かったこと、ぶっきらぼうに蘭を守ろうとしたこと、抜け道を使えるように金を落としたことも、全て林琳の仕業だ。のらりくらりと現れては消えていく彼に、ただ単純に恋をしているだけの少女に何ができるというのだろうか。
「探しに行きなさいよ」
仁と明月が驚いて下を見れば、蘭はじっと空を眺めていて、風に攫われた葉を掴み取る。
「探して、捕まえてしまえばいいのよ。簡単じゃない」
「お嬢様……!」
挑発的な目が仁を捉えて離さない。泣き声を上げる明月の手に触れた蘭は、衝動的に八つ当たりをしてしまったことを詫びた。溜まった鬱憤や焦り、父への反抗心が一気に爆発したようで、今は冷静に物事を捉えられるまで落ち着きを取り戻したようだ。
「ごめんなさい。怖い思いをさせたわね」
蘭は、目をしっかりと合わせて謝った。その表情には少し不安がにじんでいた。
「お嬢様は悪くありません」
明月は蘭の気持ちを理解しようと努めていた。
「あなたもありがとう」
「え、あ、あぁ」
「はぁ。お水が飲みたいわ……それにお湯に浸かりたい」
蘭は、ふと我に返ったように言った。体が疲れ切っていることを感じているのだろう。
「すぐにご用意します!」
「あら、宿はどうしたの?」
「あそこの宿を半月ほどとりました」
きょとんとした表情で、蘭は糸が切れたように笑った。おかしくてたまらないと、身体を広げて大の字になった。笑いのあまり目尻に浮かぶ涙を指先で拭い、身体を起こすと、先に宿へ行って湯を張るように指示した。
「……お嬢様」
明月が不安そうに言う。不安を抱えた手を解き、仁は明月の肩を撫でる。
「大丈夫よ、すぐに行くわ」
「……はい」
二度振り返った明月に手を振る蘭は、仁の方を一切見ずに独り言のように話し始めた。初めは相槌を打っていた仁も、彼女の話が長くなるにつれて、聞いて欲しいのかどうかも分からなくなってしまった。
早口で明月に対する溺愛ぶりを永遠と聞かされ、反応の種類が尽きかけた頃、蘭は両手をぱちんと合わせて嬉々として話す。
「明月を守ってくれてありがとう」
「見ているこっちが戸惑うぐらいに大号泣だった。ほどほどにしろよ?」
「悪戯心が魔を刺したのよ。二度としないわ」
「だからって闇市にいくやつがいるか!」
「迷ったのよ!」
呆れて言葉も出ない仁に対して、負けじと蘭は噛み付いてくるが、仁は捩じ伏せるように闇市がいかに危険かを言い聞かせる。徐々に熱がこもり始め、二人は額を突き合わせて口論に発展していった。
「師兄がいなかったら今頃闇市でくたばってた!」
「何よ! 私だって自分の身は守れるわ!」
「酔い潰れた奴が言うな!」
ああ言えばこう言う。闇市は一歩間違えれば命を落とす場所。か弱い女子が一人で彷徨うなんて命知らずか、類い稀なる馬鹿しかいない。言葉を選ばない仁は本気で怒っていた。
二つの荒い息が交差した。
「ねぇ、こんな話を知っているかしら」
怒りに震える唇。
「月の浮かばない島国の話よ」
「……は?」
「林琳は昔話を語るのが下手くそね」
それはつぎはぎの語り方で、人に聞かせるような話の構築とは無理をしても言えない。
だが中身は大層不思議な話だったそうだ。
「誰かは教えてくれなかったけど、林琳はあなた以外にも親しい人がいるようね」
「本当に林琳が話したのか」
「えぇ」
林琳が昔話を口にするなんてあり得ない。仁は心の中で何度も何度もそれを否定した。ふざけた冗談はやめてくれ。あの林琳が誰かに過去を話すなんて、今まで一度もなかったのだから。
いや、まて。そうだ、どうせ酒に酔った蘭の勘違いだ。浮かない顔をする仁を差し置いて、蘭は続ける。やけ酒がもたらす甘い酔いに身を任せ、夢心地で耳を澄ませながら、瞼の裏に情景を描いては満開の梅林を一目見たいと強く願った。酒よりも甘い香りを一度でも味わえれば、今後も幸福をもたらしてくれるに違いない。きっと梅の花で作った紅は、鮮やかで情熱的な愛に満ちているだろう。
「途中で寝てしまったから、結末を聞けてないの」
話の続きを知っているかと問われたが、それは微妙なところである。知っているとも言えるし、知らないとも言える。
結末を知っているのは林琳と片燕宗主だけだ。もしかしたら蘭は空想上の物語だと思っているのかもしれないが、夢のような梅林も、人を惑わすような甘い香りも、遠く離れた孤島に変わらず存在している。
転送陣の先にあった一面の梅林は、今まで見た景色の中で最も美しく、記憶に深く刻まれている。特に、顔中に擦り傷を作りながら不貞腐れた様子でこちらに目も向けず寝ている林琳の光景が、より一層印象に残っていた。
仁は今まで脅かされることのなかった空間に、第三者が土足で踏み入ろうとしているのを唖然として受け止め、奥歯をきつく噛み締めた。
「そう。じゃあ林琳に聞くしかないのね」
明月だけじゃなく蘭までもが林琳に惹かれている。
極めて面白くない。
——"「折角捕まえたのなら、無理矢理にでも繋ぎ止めればいいだろう」"
そんなことを林琳は望まないし、何よりも縛られることを嫌う。自分で出した答えに今さら違和感を感じた。変死体の謎を解くために半ば強制的に連れ出してきたのに、どうして周りには癖のある人間ばかりが集まってくるのだろう。必要だから協力関係を結んだだけ——いや、よく考えれば、変わり者を好く人間もまた同類かもしれない。
「……お姫様なんだから調べさせればいいだろ」
わざわざ林琳に尋ねる必要はないはずだ。
「馬鹿ね。そんな子供みたいなことしないわ。それに忘れたの? 私、結婚するのよ。林琳に聞いた方がずっと早くて効率的じゃない」
晴れやかな式を挙げて隣国の男に嫁ぐ。ずっと昔に両家が決めた婚姻だと、確かそんな話をしていた気がする。表情が曇っていたのを見て、乗り気ではないのだろうなと仁は軽く思ったが、改めて考えるとそれは人生を決める大きな分かれ道だった。
「早く仲直りしなさい。あんな辛気臭い声じゃ語り部なんて務まらないわ」
仁は妙に納得して、回りくどい話の着地点に溜息を吐いた。これから花月を探さなければならないというのに、無駄に挑発されたせいで、どっと疲れが押し寄せてきた。
足取り軽く背を向けた蘭が急に振り向き、仁はまだ何かあるのかと身構える。
「でも、明月の恋が優先よ!」
鼻息荒く宣言し、ビシッと指先を向けて得意げに片目を瞑った。
「恋する乙女は強いわよ。取られないように覚悟しなさい」
「余計なお世話だ!」
◆
間一髪。
抜け道から外に出て行った人影を確認した林琳は、ほっと胸を撫で下ろし、背を壁に預けてずるずると地面に座り込んだ。
彼は断じて意地を張って避けているわけではない。心の奥に秘めた明確な理由があって、闇市を転々としていたのだ。途中までは確かに酒を浴びるように飲み、くだらない遊びにも加わっていたが、それも全て情報収集の一環だった。そして、あのじゃじゃ馬が飛び込んでくるまでの話なのだ。
「……行こう」
ここは抜け道の途中にあった分かれ道の一つだ。
「あぁ、あぁ……ここはくらい……」
暗闇が恐ろしいほど深いと言うので、林琳は手のひらから炎を灯し、その小さな明かりが先の道を照らす。やがて、薄明かりの中で道がわかる程度に視界が開けた。
地下で目にした女の姿が、闇市を彷徨いていたのだ。ろくに睡眠も取れず、適当な店を飲み歩いていた林琳。目の前を通り過ぎた蘭に言葉を失い、無意識にその後を追ったとき、蘭の周りをうろうろと彷徨う女がいた。初めは疲れ果てた自分の目が幻覚を見ているのかと思い、思わず目を擦ったが、ざんばら髪にやたらと伸びた爪、極めつきに胸元に残された奴隷の証が揃ってしまえば、答えはすぐに出た。これは幻覚でも錯覚でもない。彼女は宿でも見た女の姿そのものだ。
蘭を引きずって酒屋に連れ込み、彼女の話を聞いていると、女はするすると壁の中へと消えて行った。
あの奥に抜け道がある。
それから林琳は、大枚をはたいて店主に詰め寄った。
——"「大昔に使われていた皇族の避難経路だ。闇市は抜け道が多く残されているからな」"
あちこちに張り巡らされた抜け道がどこに繋がっているのか全てを把握している人間は少ない。店主曰く、この抜け道は迷わずに進まなければ、最後には外に出れず、路頭に迷ってしまうらしい。石ではない物を踏んだ林琳が足元を照らすと、あちこちに白骨化した骨が散らばっているのが見えた。これでは、まさにこうはなりたくないと思う。
不気味に揺れて歩く女の後ろを、一定の距離を保ちながら林琳は歩いていたが、何度目かの分かれ道で立ち止まる。もうだいぶ歩いてきただろう。すでに帰り道はわからない。
「次はどっちだ」
女が選ぶ道を進むだけの簡単な作業に思えるが、二人の意思疎通が測れているとは言い難い。
林琳は、人の影と呼ぶには実体がはっきりしすぎている女を死霊として定義づけることにした。寧ろ、他に呼び方があるなら教えて欲しいと思った。
死霊については片燕宗主が得意とする分野であり、一番弟子である林琳は、なぜか一切興味を示さなかった。しかし、こうも接触するとなると真面目に蘊蓄を聞いておくべきだったかもしれない。しかし、宗主は座学を開くこともせず、ただ暇つぶしになればと遠征や調査の道中に語る程度で、耳を傾けていたのはごく僅かだった。
ちなみに林琳は、度重なる長期遠征の帰りに合流することが多く、ほとんど寝ていた。まともな睡眠を取らずに怪奇を追いかけ回していたのだから、一度訪れた睡魔には抗えず、簡単に報告を済ませた後は器用に馬に跨りながら寝ていた。
つまり、分かれ道を右に進んだ女の知識は皆無に等しい。真面目に座学を受け、宗主の言葉に耳を傾けていた仁ならば多少の知識は持っていたかもしれないが、どうせすぐ忘れることだろう。
靴の先が水溜りに触れて跳ねる。
「……水の音?」
一一歩、また一歩と壁に触れながら進むと、冷んやりとした空気に触れる。乾いた空気ではない。何かが冷気を放っているのだ。
肩から下げた鞄を握り直した瞬間、遠くからごうごうと嫌な音が響き、林琳は一歩後ろに下がったが、遅かった。
「おいおい、嘘だろ」
足場が派手に崩れた。
無駄だと知りながらも岩肌に手をかけようともがいてみたが、指に触れた岩肌は湿っていて無慈悲にも掴むことは叶わず、真っ逆さまに落下する。
こんな時に黒典があれば、岩肌に突き立てて体制を整える余裕ができるのに。とうの昔に砕け散った剣を思い出し、場に似合わない笑いが込み上げてきた。
このまま叩き付けられれば肋骨か背骨の一、二本は確実にお陀仏だろう。流石に即死は免れるだろうが、痛みにのたうち回る未来が容易に予想できる。
潔く諦めて受け身を取ろうと体制を変えようとした瞬間、真上に向かって強い力で引っ張られた。
「っと、危ない」
宙ぶらりんになった林琳を、たった一本の腕で持ち上げると、安全な場所まで引き摺った。小石が背中に擦れて痛むが、その手の主人が誰であるかはわかっているため、素直に任せることにした。
「……朱禍」
「間に合ってよかったよ」
何故ここに、という言葉は朱禍の他に感じる気配によって閉じ込められた。背丈は林琳と似ているが、佇まいが正反対だ。真っ直ぐに伸びた背中には、まるで針金でも刺さっているかのようにピンと張り詰めている。
眉間に描かれた赤い花が目立つ二つの真っ黒な眼。
林琳は朱禍に視線を送る。
「あぁ。こちらは劉鳴国の皇太子様だよ」
「皇太子……?」
落下の衝撃で耳がおかしくなったのか、驚愕に目を見開いたまま、彼の言葉を聞き取ることができない。朱禍のくつくつとした笑い声で我に帰る。
「劉鳴国皇太子、久河様」
「なんだって? は? 本物の皇太子?」
「皇太子様だね」
「は?」
病に臥せている皇太子が、自分の足で立っている。
失礼極まりないが、まじまじと足先から天辺まで舐めるように見上げた。ついでに宝石の数も数えた。
真っ黒な眼とかち合うと、久河が先に口を開く。
「避難回路を使ったのか」
足場を失った入り口を指さして「迷わず歩いてこれるなんてあり得ない」と自ら否定する。艶やかな髪が左右に揺れた。
勘違いするのも無理はないが、実際は迷わずに歩いたと言うよりも、ただ死霊の後を勝手についてきただけなのだ。
そこで林琳は、不気味な存在を思い出す。
まずい、死霊がいない。
「あー、迷い込んで悪かった。じゃあ、俺はこれで……」
そそくさと退散しようと、折角ここまで追って来たのが水の泡だと踵を返す。
この高さであれば、飛び降りても問題はないだろう。
林琳が底を覗き込んで体制を整えると、背後から久河が歩み寄った。
「案内人がいるだろう」
死んでいる人間でも該当するなら、答えは是だ。それも曰く付きの死霊ではあるが。
渋そうな顔をする林琳に、久河は厳しい口調で問い詰めた。
「回路を全て網羅しているのは皇族、もしくは神子様だけだ。お前のような一般人が立ち入れる場所ではない」
その言葉は、林琳に敵意を向けるものであり、まるで彼が不法侵入者であるかのように感じさせた。「普通に不法侵入だからね」という声が響く。
「答えよ」
久河はさらに詰め寄る。
皇太子の言葉は冷徹で、彼の短い言葉はまるで刃物のように林琳の心に突き刺さる。身振り手振りで朱禍までもが「正直に答えろ」と促す中、林琳は肩を落としてため息を吐いた。
「女の死霊を追ってたんだけど……」
その言葉に、朱禍の目が輝いた。
「へぇ! 君が怪奇じゃなく死霊を追いかけるなんて!」
小馬鹿にした口調に、林琳の心の奥に殺意が沸き上がる。心底、黙っていてほしいと願った。
「死霊は君の師匠の専門だろう。それなのに君の頭の中は怪奇ばかり」
朱禍はあれこれと口を挟み、次第に叱言に変わっていく。彼の説教じみた口調は出会った時から変わらず、ついに林琳の沸点に達した。
「お前、本当に黙れ!」
言い争う二人の中で、久河だけが眉を寄せて不快感を露わにしていた。死霊という単語は、仕人でない限り耳にすることはほぼない。もちろん、彼の反応も理解できる。
「俺はちゃんと伝えたから。あとは朱禍に聞いて」
皇太子に背を向ける林琳に、久河は苦言を呈した。
「死霊とはなんだ」
「だから俺に聞くなよ」
「無礼者が」
押し問答は続いた。
「私の身分をお忘れか」
久河の感情の無い声色は、林琳の背中を突き刺した。
全く嫌になる。皇族というものは、積みあがった屍を踏み台にしてその上に立っている。偶然手に入れたような身分で権力を振り回し、地獄のような異臭を放つ血の海に身を投じることなく、指先を振るだけで戦が始まる。どいつもこいつも心底憎くて仕方がない。
奥歯をきつく噛み締め、林琳はくるりと振り返り、なるべく穏やかに言った。
「皇太子さま。お言葉ですが俺は死霊については詳しくありませんよ。そこの付き人の方が適任だ」
顎で朱禍を示すと、久河は「否。見たものを話せば良い」と言い、林琳は諦めて淡々と事の経緯を話す。だが、その話は「くだらん」と切り捨てられ、「他にはないのか」と続けられた。まるでわがままな子供のような皇太子だ。
質問にはすべて答えたはずなのに、林琳の命は握られたままだ。この状況は拷問に近いだろう。
「死霊とは……人の形をしているのか」
「元を辿れば生きていた人間だから、そりゃそうだけど」
「私が見ることはできるか」
「久河様。死霊はある一定の条件が必要なんだ」
「……申せ」
大前提として、仕人の修行を積んでいること、そして最も重要なのは「人の死に触れたか否か」である。
「人の死か」
「逆に自分自身が生死を彷徨っても視えるらしいけど」
林琳は朱禍の説明に付け加えた。
「ふむ」
久河は納得したように頷いた。
一時期、生死を彷徨っていた久河だが、仕人としての修行は積んでいない。つまり、たとえ死霊が避難経路を彷徨いていても、彼には認知できないのだ。「では、そなたは人の死に触れたことがあるのか」なんとも無作法な質問だ。
鼻で嘲笑った林琳は、三度目の正直だと言わんばかりに勢いよく飛び降りた。付き合うだけ時間の無駄だ。
大体、皇族である皇太子と放浪者の朱禍が彷徨っていること自体が不自然ではないか。
久河は病に伏せていると言っていたのに、この場の誰よりも健康そうだ。林琳に続いて、底へと足をつけた。その後を、朱禍もついてくる。
まだ用があるのか。林琳はげんなりした様子で項垂れる。
「お喋りはここまでにしよう。林琳、死霊はまだいる?」
ぐるりと見渡してみたが、目に付く範囲には姿がなく、首を振った。
「君が死霊を追うには訳があるんだろう。見知った顔だったのかな」
「そっちこそこんな地下に遊びに来たとは言わないよね」
朱禍は皇太子に依頼されて劉鳴国に訪れたはず。
「片付いたの?」
「まーったく。現在進行形で調査中ってところ」
「人ならざるモノって、怪奇でしょ? 領域への入り口を探して祓うだけなのに」
皇太子直々の依頼に随分と呑気なものだ。
「少し事情があってね。そう簡単にことを進める訳にはいかないんだ」
「それなら俺に構う暇も惜しいでしょ。放っておいて欲しいんだけど」
興味本位で追いかけるべきではなかったが、闇市から追ってきた死霊を見失った原因は、彼ら二人にあると文句を言いたかった。
「私たちの用事もこっちなんだよ」
「……じゃあ俺はこっちに」
「迷わず行けるのか? 死霊とやらは消えたのだろう」
不気味な案内人は不在だった。無数に空いた穴の先には張り巡らされた道が繋がっているのだろう。なんとなく風の通り道を感じるが、穴の中で途切れている可能性もある。
「そなたの面倒を見ている暇もない。ついてこい」
案内人を失った今、外に出るには二人と一緒に行動するのが最も合理的だ。
「よし。久河様、行きましょう」
頷いた久河は迷わずに歩みを進める。頭の中に全てが叩き込まれているのは本当らしい。
「林琳、体調はどうだい?」
「……要らない心配をどうも」
万全とはいかずとも八割は回復した。心力も完全ではないが、怪奇と遭遇しても難なく祓える分は巡っている。たとえ死霊や怪奇が襲ってこようとも乗り切れるだろう。
林琳が何気なく黒い炎をちらつかせていると、久河の持つ心許ない灯りがこちらを向いた。
「そなたは神子様の御霊を見たか」
久河の問いかけに、林琳は一瞬戸惑った
「御霊?」
彼の細い指の甲が無意識に唇に触れる。
「人が寄って集って歓声が上がっているのを街中で見なかったかな」
「あぁ、あれか」
騒がしい人の群れにぴんときた。
「あの中に入っているものがなんだと思う」
「何ってそりゃあ神子様の御霊とやらじゃないの」
「否」
久河は懐から小型の砂時計を取り出し、無造作に地面に叩きつけた。割れた砂時計からは細かい砂が流れ出し、瞬時に地面が薄く光を放ち始める。砂は自らの意思を持ったかのように、周囲を囲む陣を形成していく。
「ここでも転送陣かよ!」
朱朱禍が和やかに林琳の腕を掴もうとしたが、彼は足を突っ張って拒否した。あの猛烈な吐き気と再び戦うのはもう嫌だ。せっかく回復してきた体力が根こそぎ奪われるのではないかと思うと、身震いがした。
それでも引きずられるようにして、林琳は無理矢理その陣を右足で踏む羽目になった。最悪だと思いながらも天を仰いでいると、突然、頭の中でがんがんと鐘の音が響き渡り、鈴の音が遠くから聞こえる。甲高い女の叫び声が混ざり、全ての音が一瞬にして消えたとき、どこかでごとんと重たいものが落ちた。
数日ぶりに訪れた強烈な吐き気に、林琳は蹲り込む。転送陣にはもう飽き飽きだ。血の気のない顔を見て、朱禍は「笑えるぐらい耐性がないね」と手を差し伸べた。
どうにか立ち上がり、目眩を必死に堪えて、林琳は一度だけ目を閉じてから再度焦点を合わせる。瞼越しに透けて見えた光の正体は、部屋の中央に掲げられた大きな鏡だ。様々な方向から差し込む細い光が、鏡に当たって乱反射している。
その現実とは思えない光景に、林琳の吐き気は一瞬消え去った。「ようこそ。神子様の御霊に守られし国、劉鳴国の最深部へ」と久河が声をかける。彼は二人にさらに一歩前に寄るよう指示した。
「この部屋は歴代の神子様が祈りを捧げてきた場所である。皇族以外の立ち入りは許されていない」
「ちょっと待って、おい、朱禍。お前、滅茶苦茶な依頼を受けたな!?」
久河と朱禍の間で交わされていた依頼に巻き込まれている気がしてならない。部外者として、国の最深部に招かれた理由を探してみても、全く見当もつかなかった。
「本来であれば神子様自身が世継ぎの神子様を選び、お役目を終えられる。しかし、先代の神子様は……」
久河は巨大な鏡に触れ、彼の表情が歪む。
「儀式の前日……行方不明になってしまった」
御霊と神子が消えたことを知るのは、皇族である久河と先代の国王、そして僅かな側近たちだけである。日頃から夢天理の拠点に居座ることが多い養子の吟凌には知らされていないのだ。
「皇太子様が自由に動けるように国王は吟凌を即位させたってことか」
今も昔も察しがいい。朱禍は深く頷く。
「先代の神子様を探せば御霊もきっとそこにある」
「御霊って形あるものなの?」
林琳は疑問を抱く。死霊とは正反対の清き魂だとしても、一目見て判断ができるようなものなのだろうか。いったい誰が御霊だと証明するのだろう。劉鳴国が祀る存在に口出しするつもりはないが、その存在が曖昧すぎると林琳は苦言を呈した。
「愚問だ。人々が信じ、願い、愛する。それだけで存在証明になろう」
なんとも、まあ、薄い答えだ。
だが主が消えた世界ではごく普通の思想である。
真相を確かめるためにも、いち早く見つけ出す必要があると、事情を聞けば聞くほど、林琳の中に芽生える感情は一つだけだった。
「……まぁ、頑張って」
微塵も関係ないし、どうでもいい。
朱禍には、御者から押し付けられた古書を解読してもらいたかったが、どうもこの様子ではこちらに手を貸す暇はなさそうだ。そうなれば、朱禍に用はない。
最悪なのは、この馬鹿のせいで仁との間に要らぬ亀裂が生じたことだ。朱禍に助けを求めたことを心底後悔している。
「おーっと、そうはいかないよ。君は国家最大の秘密を知ってしまったわけだ」
「無理矢理だろ!」
林琳は反発する。
「知ってしまった事実に変わりはないだろう。協力して欲しいとは言わない。君に頼みたいことはただ一つだけ」
少しだけ前屈みになった朱禍が、林琳の耳元で囁く。
——あの領域に神子様の御霊がいるか確かめて欲しい。
「なんで俺が……」
林琳は不満を口にしたが、その声はどこか虚ろに響く。彼が足を踏み入れたのは、まるで時間が止まったかのように静謐な領域だった。周囲には何もない、ただ無限に広がる空間。林琳は自分の悪態をつぶやきながら、漂っている魂を片手間に送り出すことにした。
耳にするのは、柔らかな笹の揺れる音。まるでその音が頭の中に冷静さを取り戻させてくれるかのようだった。誰一人として人間の存在しないこの空間で、彼は自分がいることを再認識し、胸の奥に詰まっていた重苦しい塊がようやく吐き出され、呼吸が楽になった。この領域は林琳にとって、まさに救いの場であった。
唯一無二の素晴らしい世界。
そこは、唯一無二の素晴らしい世界。林琳が望んだ哀れな空間であり、現世と来世を繋ぐ唯一の通り道だった。数多の魂が抱える後悔や未練を解消し、輪廻に戻るための最後の手段である。彼の仕事は、成仏できずに迷い込んだ魂を誘導し、安らぎへと導くことだ。
かと言って、破門されてすぐに領域に辿り着いたのではない。何もかもが偶然だ。偶然が偶然を呼び、林琳は領域の存在を知った。無論領域がいかにして生まれたかもわかっている。
始まりを知れば叱っても立ち入ることを辞めなかった仁が聞けば白目をむいて失神するだろう。
容易に想像がつく。
彼は目を閉じて心を落ち着け、視界の奥に流れる情景を探ったが、劉鳴国が映し出されるものは何もなかった。むしろ目に飛び込んできたのは、奇妙な死に方をした魂たちであり、時には自らの死に方を忘れてしまった魂までもがこの領域に紛れ込んでいる。
それでも、想像していたよりも魂の数は少なく感じた。林琳が留守にしている間に誰かがその役割を果たしていたのだろうか、と思うほど閑散としていた。
——"「のんびりしないで早く戻ってくるんだよ。また五年も待たされるのは……ねぇ?」"
この空間では、時間の経過が実感しづらい。半刻が現世での数年に等しくなることもあるのだ。林琳は砂時計を確認し、その半分以上の砂が落下しているのを見て、時間が迫っていることを痛感した。これは朱禍が久河に頼んで借りたもので、心力は何も宿っていないただの砂時計だが、領域の中でもその役割を果たしていた。
兎にも角にも、神子の御霊が見つからなければ、それでよいのだ。無理に探す必要はない。早々に切り上げて扉を開こうとしたその瞬間、一つの魂がふわふわと漂って近づいてきた。
彼の両手の上に乗った魂に優しく触れると、まるで本がめくれるように、ゆっくりと情景が視え始める。空から舞う紙吹雪の中を手を引かれて歩く細い腕。子供の目線だ。手を引く女とは親子と間違えるほど年齢が離れていた。その笑い声はとても楽しげに響いていて、唯一二人の間に血の繋がりがないことだけが、記憶として伝わってきた。
次の瞬間、景色が変わる。手を引いていたはずの腕は血塗れになり、暗い道を必死に走り抜ける二つの影。今度は目線が近く、子供が成長して追いついたことを感じる。振り返りながら引きつった悲鳴を上げ、何かから逃げようとしている。
一人が地面に砂時計を叩きつけて転送陣を発動させると、再び景色は強制的に切り替わる。次に現れたのは、巨大な鏡だ。魂の持ち主は、その眩しさに目を閉じる。林琳にもその感覚が直に伝わり、目の奥が痛んだ。
その間に耳に入る声は、言葉として認識できない。読唇術を少し学んだだけの林琳には、その内容を読み取ることすら難しい。魂を通して見る情景に、自由は効かない。実際に持ち主が体験したものが映し出されるため、見るか見ないか、それだけが林琳に与えられた選択だった。
つまり、女が短剣を突き刺そうと振りかぶる瞬間すら、林琳はそれを受け入れるしかなく、迷いなく心臓を貫かれる瞬間を目撃することとなった。
ぐしゃぐしゃになった衣に突き刺さる短剣。あちこちに鮮血を付着させた腕には、静かに微笑む女が骨壷を抱えている。彼女が俗に言う神子様であろう。蘭が劉鳴国の巻物を見せてきたときに、彼女と同じ衣を着ていたことを覚えている。
それならば、神子が貫いたこの魂は誰なのか。骨壷は一体誰のものなのだろう。親しい友か、それとも親族か。久河が鏡の前で見つけた死体について語っていたことを思い出す。
もしそうであれば、魂の持ち主は世継ぎとして選ばれた神子であり、彼女を刺し殺したのは間違いなく神子自身だ。林琳が視点を下げると、胸元を貫く短剣は急所を刺し、最期の瞬間が訪れると悟る。短剣が引き抜かれた瞬間、彼女はぐらりと体制を崩し、倒れ込んだ。
悲劇の幕が上がったはずなのに、何故か二人は幸せそうに笑っている。その笑顔は、まるで全てがうまくいくかのような、無垢な喜びに満ちている。彼女たちの周囲では、暗い影が静かに迫っているというのに、その笑い声は耳の奥に響き、まるで現実から切り離された幻想のようだ。 ゆっくりと沈む体、彼女の表情が次第に失われていく。鮮やかな笑顔が消えゆく瞬間、閉ざされる情景は、彼女の命の光がゆらゆらと消えかける様を映し出している。まるで時間が止まったかのように、林琳の視界は彼女たちの姿に釘付けになった。
——バリン
林琳には到底理解の追いつかない出来事だ。
「……無駄足になったじゃないか。神子の居場所ぐらい教えろよ」
「それ、見間違いじゃないの?」
「じゃあお前が死んでこい。そしたらあの世で会えるんじゃない?」
ありのままを語ったのにこの有様だ。
心臓あたりに虫が這っているような気持ち悪さが拭えず、林琳は思わず胸を何度も叩いた。
どうかしたのかと朱禍が不思議そうに見ている。
「……別に」
領域での透視の影響を受けているようだ。実際に自分の心臓を刺されたわけではないが、胸を貫く短剣の感覚が現実味を帯びて蘇り、錯覚から抜け出せずにいる。
痛みはないのに、歪な不快感が胸に重くのしかかり、林琳は落ち着かない。
「心力が揺れてるね。……ねぇ、そろそろ仁と腹を割って話したらどうなんだい? こっちまで居心地が悪い」
「勝手に探知するな。はしたない」
精度の高い能力を持つ朱禍に対して反発したい気持ちはあったが、彼でなくとも一流の仕人であれば誰でも気づくような心力の乱れなのだ。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
朱禍は上等な茶を口に含むと、その芳香を楽しみながら喉を潤した。
「皇太子は?」
「調べごとができたからって高冥城に」
「ふうん」
馬鹿にした朱禍の言葉とは裏腹に、久河は心当たりがあるようで、彼は回路を使って自宅へと帰ってしまった。
林琳と朱禍は、久河の隠れ場所である妓楼で、劉鳴国の市民に馴染み深い茶菓子を楽しみながら、神子についての情報をまとめていた。しかし、林琳は御者から押し付けられた古書の解読を頼みたいのに、朱禍は何かと理由をつけて仁の話を持ち出してくる。
「君は昔よりも不誠実だね」
朱禍が肩にかかる髪を払った。
「私はあまり宗派の内情へ口を出したくないけれど……それなりに君たちへの情もあるし、優秀な仕人として、人生の先輩として言わせてもらう」
彼は菓子を指先で摘み、一口に頬張った。
「変死体の謎は君たちだけじゃ決して解けない。複雑に張り巡らされた何かがある」
「人為的なものだと?」
「私と獅宇はそう判断した。疫病とは到底思えない。こんなにも世界各地で似た死体が現れるなんて奇妙すぎないかい? 獅宇も同じ考えだよ」
「……宗主は黙っているのか」
「片燕に疑いの目が向いていることに対しての質問かな」
林琳は次から次へと運ばれてくる料理に目を向けて、頷くこともせずに視線を合わさない。
「仁に聞きなよ」
至極当然のように言うな。
その言葉が彼の心に重くのしかかる。
大体、あの馬鹿がおかしいのだ。死者の魂が舞い込む竹林の領域に自由に出入りできるなんて、どこからどう考えても変だ。扉は林琳だけが開けるはずなのに、仁は当たり前のように入り込んでくる。出口でさえこじ開けてしまう。
仁に手を引かれて領域を出たときでさえ、林琳は扉を開いていないのだ。そう、扉は林琳の力なく——勝手に開いた。
それだけではない。
仁は手を握ったり、抱きついてきたりと、人の温もりに触れようとする節が昔から多々あった。林琳は肌が触れ合うのを極端に嫌う。その度に手を上げて拒絶していたが、成人して多少は受け入れられるようになった。それまでは指先が触れただけで何度も何度も水で濯いだ。べっとりと血が付着する幻覚から抜け出せない長年の癖であった。
しかしここ一年の仁の触れ方ときたら、想像を絶するものである。
まず、昔よりひとまわり大きくなった手で林琳に信じられないほど優しく、壊れ物のように柔らかく触れる。それは怪我の治療だけでなく、いかなる時もだ。
その次に、林琳が少しでも無茶をすると、仁は必ず引き止める。怪奇を次々に祓い、小銭を稼ぐ際でさえ、仁は彼が先頭に立つことを快く思っていないようだった。林琳にとって、己の心力を使えば怪奇を祓うのは容易なことだ。しかし、仁が後ろにいると、まるで庇われているような感覚があり、思うように動けず憤りが募る。過去には、誤って炎を燃え上がらせそうになったこともあった。
「鈍感……」
朱禍は小さく呟いた。
「は? 黙って聞け」
とにかく林琳が言いたいのは、仁がおかしい、それに限るのだ。無意味だがそわそわして堪らない。
「俺がいない間に怪奇にやられたのか……?」
それしか考えられないと林琳は胸を摩って頷く。
「馬鹿言うな。あの子は君のいない五年間でどれだけ苦労したと思う? 傾いた片燕を一人で支えたんだぞ。わずかな時間を見つけてはひたすらに君を探していた。勿論、仁だけじゃない。色々な人が巻き込まれて……嗚呼、もう、獅宇の許可があれば君を殴り飛ばしてしまいたい」
朱禍はこぶしを握り締め、耐えている様子だ。彼の端正な顔は、怒りを抑え込むためにかすかに歪んでいる。どうやら、その冷静さを保てているのは、宗主の慈悲のおかげのようだ。
「これ以上私に言わせるな」
その言葉には明らかな苛立ちが込められている。林琳は面倒くさそうな目をし、頬杖をついた。
——俺なんかに執着するよりも、もっと好きに生きるべきじゃないか?
拾われる前の記憶がないため、仁は雛鳥のように林琳の後をついて回る。その巣立ちの日が来るのは、いったいいつのことだろうか。心の中で愚痴をこぼしながら、目の前にいる彼の逆鱗に触れないように慎重に言葉を選ぶ。そんな彼の気配を感じながら、本題に入ろうと林琳は肩から下げていた鞄から問題の古書を取り出した。
その古書は、焼いても刺しても傷一つつかない不気味な革で覆われている。中に刻まれた文字は古代から残されている主の文字であり、背の部分には変わった金具がついている。朱禍は興味津々でその金具に指を這わせ、慎重に一枚ずつめくり始めた。
「……どこでこれを?」
「うざい上に怪しい御者に押し付けられた」
「ただの御者じゃないだろう」
林琳は肩をすくめ、彼の疑いの目を軽くかわした。
「俺にもわからない。でもあいつ、確実に普通じゃないよ。あ、そこの文字、朱禍なら読めるでしょ?」
「うーん……」
怪奇によく似た奇妙な絵を林琳が指差して「これは塔に刻まれていた文字だよ」と言えば朱禍も頷いて「正しくその通りだ」と険しさの残る声色で応える。
「遥か昔、私たちが生まれるずっと前、数千年以上前から語り継がれている物語において、塔は裁きを下すための通り道とされてきたと記されている。その塔が倒れた時、主が消えてからは誰も近づくことを禁じられていた。それが解かれたのはずっと前のことだけど、主の所有物が出回り始めたのも同じ頃だ」
朱禍が紙を捲る。
ここまでの話は誰もが知っていることであり、彼はその内容に少し飽きてしまった。満足な睡眠をとっていない彼にとって、当然のことだった。
「そして塔には主が使っていた文字が刻まれていて、私たちが使う文字に進化した」
突然、朱禍が林琳の額を指先で軽く叩く。その拍子に、彼は椅子の背にもたれ、豪華な装飾で縁取られた紗幕を眺める。
「この書は間違いなく主の所有物だ。それも夢天理が血眼になって探していた——怪傀神書」
「……なんだって?」
林琳は初めて聞くその言葉に、思わず口をへの字にする。
「怪傀神書、だ。平たく言えば主の手記と言った方がいいかもね。……あれ、林琳、ここの部分破れてるけど」
「俺じゃない」
疑いの込められた目で黒い煤が付着した指を見せられても困る。あれだけ燃やそうとしても燃えなかったのだ。
「何が書いてあるの?」
「そうだね、解読には時間がかかるけど……例えばこの文字。これは法廷を表すものだ。ここにはきっと塔の先に存在していた法廷のことが書かれている」
「ふーん。でも、たまに描かれてる絵は怪奇じゃない?」
林琳は紙を捲って前の方に遡ると、人とも動物とも思えない絵が現れた。その絵は、世界中を渡り歩いた中で付け足された子供の落書きのようにも見える。
「まだわからない。解読を進めれば糸口は見えてくるとは思うけどね」
「じゃあ朱禍が持っていたらいいよ」
林琳も強引に押し付けられたのだから、持ち主が移ろうとも文句はないだろう。元々厄介ごとを押し付けられたようなものだ。
「その前に聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「私が解読できるってどこで知ったのかな」
朱禍はにこりと笑い、一定の速度で机を指先で叩く。その目の奥は想像通り笑っていない。
「……お前の山荘にある書庫で似た文字を見た。俺も塔まで足を運んだことがあるから、文字自体は知っていたし、すぐ横に置かれていた書物に書き記されているものがお前の文字だと気づくのは普通でしょ」
山雫国から離れた山にひっそりと造られた山荘は、一人で生活するには丁度いい広さだ。地下に設けられた貯蔵庫の半分が書庫と化しているが、置かれている本は市場では出回らないような物ばかり。
林琳は滞在中、偶然見つけた書庫に入り浸っていた。それを朱禍が容認していたのだから、己に非はないと思うが——。
「わざわざ隠してあるものを手に取るやつがいるか!」
「だって好きに読んでいいって言った」
封印もかけられていない書を開くのは簡単な話だった。しかし金庫を開くのには朱禍の心力がなければ不可能で、林琳がなぜ開くことができたのかと言えば、訳あって少しばかり心力が混じっていたからだろう。触れれば自ら鍵が解かれた。
「……ああ、もう……うん、そうだね。私が悪い」
責める気力を削がれ、彼は肩を落とした。
「怪傀神書は私が預かるよりも君が持っていたらどうだい。君に託されたのは何か意味があるのかも」
「意味なんてない。ただの押し付けだ」
「御者は古書が怪傀神書だと知った上で君に託した可能性が高い」
「何で俺なんだよ……夢天理が欲しがっているなら、そっちに流した方が」
朱禍が食い気味に冗談じゃない、そう叫んだ。
「古書には言い伝えがある」
林琳の言葉を遮るように、朱禍は真剣な表情で口を開いた。
目の前にある古書、主の手記と題されたその本には、特別な力が秘められているという。持ち主を選ぶこの書物は、この世界を生み出した主が最も身近に置いていた所有物であり、力がその本に宿るのは自然なことだ。何千年もの間、世の中を渡り歩いた古書が、激しい損傷もなく、本としての役割を果たしていることには驚かされる。
「ここ数年夢天理はきな臭くてね。嫌だろうけど君が持っていて欲しい」
朱禍の言葉に、林琳は眉をひそめた。
「……益々手放したいんだけど?」
「それこそ何が起きるかわからないよ。それに解読を進めるとなると私も君たちについて行った方が無難だね」
「はぁ!? 絶対嫌だ!」
「他に解読できる人間はいないだろう。解読が終わったら案外早く手放せるかも。勿論変死体の調査も手伝うし、君にとっても悪くない条件だ」
「お前の存在が嫌だ!」
「獅宇の前に突き出してもいいかな!」
ついに、朱禍の拳骨が林琳の脳を揺らした。
「師匠、師匠、師匠ってうるさいな! 二言目にはそれか!」
「私の知己で君の師匠だからね!」
「子供扱いするなよ!」
「臍を曲げて意地を張る! これのどこが大人だって? っは、駄々をこねる子供だろう」
さっさと仁に話せばいいのに、頑なに拒む様子を見ると、片燕宗主の情けなく困った顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられた。宗主はもっと厳しく躾けるべきだった。そうしていれば、あの日の惨劇も起こらず、誰も壊せない雑然とした関係にはならなかっただろう。二度と解けないまでに複雑に絡み合った因果の糸。全てを欺き続けたこの愚か者に責任があるのは明確だというのに、宗主は「あの子はこのままでは救われない」と、まるで己が巻き起こした地獄のように話す。心を病み、誰にも姿を見せずに胸の奥に杭を打ち続けて出した答えがそれか。思い出すと腹が立つ。
昔から林琳はどこか達観していて、世界から外れていたのを朱禍は理解していた。余所の人間は変わり者、問題児、奇才と呼んで嘲笑うが、それは間違いではない。朱禍の結論も最終的にはそこに至るものの——根本的に生死に対する視点が異なるのだ。林琳の歪みが朱禍との亀裂を生んだこともあった。その結果、お互いに激しい損傷を負う羽目になり、朱禍の肩には火傷の痕がしっかりと刻まれている。
世界で唯一、宗主だけがその歪みの始まりを知っている。彼は頑なに林琳の過去を口にしようとはせず、仁すらも林琳の深い暗闇に触れたことはないと言っていた。しかし、朱禍は林琳の中にある弱い部分を、最期の日に知ってしまったと自負している。
次第に弱まる宗主の心力と、覆い隠そうとする黒い炎の異変を察知したのは、ごく普通の穏やかな昼下がりだった。転送陣をいくつも経由して山雫国に辿り着き、役場に繋がれていた馬を借りて竹林を一直線に駆けた。
風上に立つ血生臭い人間を目にした瞬間、朱禍の足先から頭に血が上り、目の前が怒りで染まった。迷わず剣を鞘から抜いたのは防衛本能ではなく、真実を問うためだったが、林琳は明確な敵意を受けているにも関わらず、一歩も動かずそこで立ち竦み、光を許さない夕焼けの瞳を歪ませて——笑ったのだ。
誰よりも宗主に愛され、命を育んだ弟子は、誰にも悟られないまま心から終わりを望んでいた。誰よりもその時を待っていた。そして、朱禍は彼が奥底に隠し続けてきたものを垣間見てしまったのだ。
「少し席を外す」
「戻ってこなくていいし、さっさと行け」
それはそれとして本当に可愛くない。
それはそれとして、本当に可愛くない。朱禍が大きな独り言を落として視界から消えると、林琳は頭のてっぺんにできたこぶを撫でながら、一人残された妓楼の二階で、大広間を自由に踊り回る踊り子たちを眺めた。一人、二人、三人と増える踊り子と見事な演奏が相まって、妓楼独特の甘美さが辺りを包み込み、下の階では男と女が仲睦まじく触れ合っている姿もあった。
ぺたぺたと女は男に触れ、べたべたと男は女に触れる。妓楼はそういった場だ。ありふれた光景。
賭博でもあれば少しは楽しめただろうが、皇太子の目が行き届く妓楼にそんなものが存在するはずもなく、闇市の方が面白い。興覚めだ。
何度目かの溜息を吐くと、先程まで静まり返っていた気味の悪さが波に乗って向かってきた。朱禍のいる手前、ああやって誤魔化したが——例え透視だとしても、貫かれた感覚はそう簡単には抜けない。現実と透視の乖離がもたらす違和感で脳味噌が掻き乱され、しばらくの間、くらくらとした緩やかな幻覚が残されるのだ。数えきれないほど繰り返してきたのだから、初めの頃こそ発狂しそうになっていたが、耐性は自ずと身についた。殴られても、蹴り飛ばされても、足の先から燃やされようと——昔の記憶との区別はつけられるようになった。人は慣れるものだ。痛みにも、苦しみにも、そして忘れていく単純な生き物だ。
今回に限っては、心の準備もなく視てしまったのだから不可抗力というもので、いっそのこと血飛沫をあげて貫いてもらった方が少しは楽だったかもしれない。
「朱禍のやつ……」
別に揺さぶられた心力を落ち着かせるために借りる心力は仁でなくても良い。緊急事態であれば朱禍だって許容範囲内だ。性根の腐った男がわかっていて貸さなかったに決まっている。呪いを解いてやったのに身勝手すぎるし、挙げ句の果てに皇族の厄介ごとに巻き込まれつつある。
溜息の回数が異常に増えたのは朱禍のせいなのか、それとも仁とのいざこざが原因なのか。兎にも角にも、劉鳴国に来てからは、まるで踏んだり蹴ったりの毎日だ。
「妓楼だなんて良い趣味をしているな」
紗幕の奥から現れた冽は、朱禍の退いた席にゆったりと腰を下ろし、長い脚を優雅に組んだ。その仕草には、いかにも余裕があるように見える。
「くそったれ、次から次へと!」
不満がこみ上げ、思わず口に出す。
「呑気に豪遊か?」
冽の言葉には軽蔑が混じっている。女たちはいつもそうだ。妓楼を敵視し、そこに潜む美しさを理解しない。美しいものは美しい。それを楽しむことに何の問題があるというのだろうか。手軽に情報を集めるための場所としても、実に適しているのに。
林琳は、その発言がまるで自分の思考とは異なることに気づかず、椅子の上で片膝を立て、頬を乗せながら引き攣った顔で冽を見つめていた。
それに良い趣味を持っているのは皇太子である。
大広間で湧き上がる歓声と声援を一瞥した冽は、懐から一枚の絵を取り出し、隣に二つの札を並べた。
「劉鳴国の国民が持つ身分を表す札だ。これで約束は果たした」
手触りの良い磨かれた札には、劉鳴国で産まれた証が掘り込まれている。細かく掘られた文字を読むのを諦めた林琳は、それを腰に下げた鞄へと押し込んだ。整理されていない鞄の中では、すぐに行方不明になるだろうと思いながら、彼は絵を手に取った。
「そうだね。どこから話そうか」
ぽつんと浮かぶ桃色に染まった孤島に辿り着くのは、果てしなく難関だ。
かつて片燕の一番弟子であった林琳は、宗主と共に遠路遥々山雫国から足を運んだ。その発端は、四六時中扉を叩き続けた男の迷惑行為から始まった——。
「男の名は?」
「清だよ。墟狼衆の人間だから冽も顔ぐらい知ってるはず」
「清……」
「傍迷惑な男だったよ。この二人を助けてくれって」
怪奇を祓って欲しいとしか言わず、深い話は語らなかったが、彼がえらく焦っていたのが印象的だった。
「で、実際に現れた怪奇がこれだったわけ」
不思議なことに、怪奇を祓ったのは林琳と宗主であったが、その姿形が絵にして残されているとは。
他の仕人が祓わずに逃げ出したのだろうか。これでは指名手配のようだと首を傾げる。
「二人とは亜紫国で世話になったんだ」
「……息災だったか」
「どうなんだろうね。でも……穏やかな人だったな」
夜な夜な島を探索する林琳を心配して付いてきたこともあった。寝付けないなら、面白い場所に連れて行ってやると言われ、一番高い丘で流星を共に眺めた夜がある。その夜の光景は今も鮮明に思い出される。梅林よりも遥かに幻想的で、空から降り注ぐ星々が海へと吸い込まれていく様子を、林琳は飽きることなく見続けた。
「孤島だからできないことも多いけど、それぐらいが幸せだって言ってたよ。俺は退屈で死にそうだったけどね」
「そうか、そうか……それなら……」
片眉を上げた林琳。
冽は己が杏眠の義姉にあたり、仲違いをしたまま何年も連絡が取れておらず、後悔の念に駆られたまま過ごして来たことを赤裸々に話す。
「私が会いに行っても苦しませるだけだ。息災ならば良い」
てっきりもっと根掘り葉掘りと語らねばならないと思っていたが、冽のあっけらかんとした態度に少々驚く。
「俺が二人を見たのはもう十年も前の話だよ」
果たして彼らは生きているのだろうか。
天才と秀才を蝕んだ後遺症は残酷なものだ。
異常な後遺症に、宗主は清の依頼を聞き入れ林琳を連れて亜紫国へ赴いた。しかし、二人は己の身を犯す後遺症を理解していたのだ。何が起きていて、この先どうやって死ぬのか、迫る終わりを受け入れた上で、"いつかその日は来る"と林琳の頭を傷だらけの手で何度も何度も、宥めるように撫でた。小生意気な林琳は例外なく振り払ったが。
まるで彼らは、春に流されて来た花びらのようだと、宗主は月の浮かばない空に手を伸ばして独り言をこぼした。
林琳にはよくわからなかったが、宗主がそう思ったのなら、それが真実なのだろう。
杏眠はこっそり教えてくれた。
唯一心残りなのは、遠く離れた土地に大切な家族を一人残してきてしまったこと。きっとそれは冽を指している。心配性の義姉が泣いているかもしれない。酷い仕打ちを受けているかもしれない。悲しみに沈んでしまったかもしれない。そして、己の死を知った時——。
「一番弟子?」
林琳は冽に急かされるまで、ぼうっとただ二人の似顔絵を視界に入れていた。
——"「家族ってのは、血の繋がりだけが全てじゃないぞ」"
家族の定義は難しいものだ。
「……会いたいなら、会いに行けばいい。彼らは亜紫国にいる」
「……だが、私は」
適当な嘘をついた方が良かったのは明らかだ。しかし、林琳はそれを選ばなかった。杏眠に対して特別な恩があるわけでもなく、縁はとっくに切れているにもかかわらず、答えをあやふやにすることにはどうしても抵抗が生まれた。
「冽も薄々気付いていると思うけど、後遺症を負った人間は長くは生きられない」
後遺症の度合いを三つに割ったとすれば、最も死に近い部分に位置する。彼らは仕人ではないのだから、その結末は避けられない。
「杏眠が、死ぬ?」
ころころと愛らしく笑っていた義弟が死ぬ。
馬鹿なことを言うな。そんなこと——あってはならない。あの子がどれだけの犠牲を払って生きてきたと思う。
かつて杏眠と鵜紺が生活していた拠点はある日を境に、初めから存在しなかったように消えた。調査で分かったことは怪奇の暴走による領域、座標の消失。拠点を飲み込んで全てが滅び、杏眠と鵜紺の姿も見当たらず、暴走に巻き込まれたのだと片付けられた。あの時、我を忘れて杏眠の願いと望みを突き離さなければ違った未来があっただろう。
後悔なんて言葉だけでは熟した痛みを言い表すことができないのだ。
「そりゃあ、遅かれ早かれ人は死ぬからね。唯一平等に与えられたのは終わりだけだよ」
林琳の声には冷静さが漂っているが、その言葉は彼女の心に冷たい刃物のように突き刺さる。人の心を踏みにじる正論に、冽は拳をぎゅっと握りしめ、今更恥ずかしくなって俯いた。懺悔をするぐらいなら、もっと早く気が付けばよかったのに。
「……でも、杏眠は誰かに会いたそうだった」
その言葉が口を衝いて出た瞬間、冽は驚いたように顔を上げる。
うっかり、うっかり口を滑らせてしまった。
「東の果てにある孤島だったけど、小規模ながら他国と交流はあったみたいだし。……転送陣を残した宗派を探したら? 因みに俺に頼ろうとしても無駄だよ」
期待していた冽がやや驚いた様子で何故だ、と口を動かすのをどこか冷めた目で見つめながら、林琳は底から顔を出そうとする感情に「破門されてるからね」なんて肩を竦めて蓋をした。
「だから会合に顔を出さなかったのか!」
「声が大きい……!」
因みに、会合に顔を出さないのは前々からのことで、退屈で無駄な会合が行われる意味がわからない。出席したらしたで、難癖を付けられ、目の敵にされるのが目に見えている。面倒な案件を丸投げされて、悪いことだらけだ。円満な関係を築きたい相手の対応を仁が担当する傍ら、質の悪い相手を担当するのは林琳だった。つまり、夢天理だけでなく、他の宗派までもが片燕の扱いに手を焼く原因は、林琳という最恐の問題児がいるからである。仕人としての能力の高さから無下にもできず、親が親なら子も子、宗主という遥か上をいく曲者が背後にいる。
「夢天理がお前たちを厄介者扱いする理由がわかった」
「最後に悪口ってやめてくれない?」
約束はお互いに果たした。
本人もすぐに亜紫国へ向かう支度をするだろう。
どこからともなく現れた朱禍に目配せをすれば、やれやれと渋い顔をするので林琳は目を逸らしてそっとその場を離れた。
「また君はそうやって」
紗幕の裏で、林琳と朱禍は向き合う。朱禍の声にはどこか呆れが混じっている。
林琳はまた叱言が始まるのを察知し、きつく睨む。
「何が悪いの? 事実だよ」
本来、一番弟子と呼ばれることすら憚られる立場にありながら、慣れ親しんだ名称に反応してしまう自分に少なからず呆れていた。
林琳と朱禍は、容姿端麗な女たちの相手をせず、適当にあしらって階段を降り、肩を並べて歩いた。
「ずっと気になってたんだけど」
「うん?」
「俺があの怪奇を祓ったって誰から聞いたの? それに、二人と面識があるなんて誰にも話したことはないし……」
「風の噂……ってのは冗談で、亜紫国の梅の枝を貰ったことがあってね。あそこで咲いた花は枯れることもなく咲き続ける。君の部屋にもずっと綺麗に咲いている枝があったから、もしかしたらと思って」
なるほど、腑に落ちた。
書で溢れかえった自室の片隅に、亜紫国で拾ってきた梅の枝を生けていたのだ。土産が欲しいと強請った馬鹿に渡したはずなのに、気がつけば林琳の自室に置かれていて、何年も枯れないのはその枝の生命力と仁の細かい世話の賜物だと思っていたが、根本的に違ったようだ。
林琳は街中を歩きながら、紙の四つ角を折ったり曲げたりしてはひっくり返し、何やら細かい作業を始めた。たまに舌打ちをしながらも手を休めることはなく、闇市で拾った(不躾な野郎から掏った)とても小さい切先で重なった紙に切り込みを入れ、色々な角度で切り落としていく。
「確か、こんな感じだったような……」
杏眠が作れば一目で答えがわかるだろうが、手先が不器用な林琳にはこれが精一杯だ。寧ろなんとなくそれっぽい形にはなっているし、上出来ではないかと自分を納得させる。
毎晩飽きずに作るものだから、自然と見て覚えてしまったのだ。
梅の花弁を漉して作った紅色の液に浸された紙は、仄かに甘い香りを漂わせる。あの家はどこもかしこも梅の匂いで満ちていた。
「剪紙? 時期外れだよ」
林琳は小さく折り畳むと心力を込め、開け放たれた窓に投げ入れた。弧を描いて吸い込まれるのを確認すると、素早く人の流れに体を滑り込ませ、賑やかな街中を抜けていく。
二枚の札を手に、向かう先は高冥城の蔵書閣だ。
「皇太子に羅宮のことを聞きそびれた。御守りを置くのは百歩譲ってわかるけど……冷宮にあんな大きなものを置く必要があるのか? 人の気配もなかったのに」
「冷宮だからだよ」
国によって待遇に差はあれど、寵愛を失った妃にとっては監獄と同じようなものだ。
「隠の気は怪奇を呼び寄せる」
「飽きて手放すぐらいなら初めから娶らなければいいのに」
「世の中の皇族はそうはいかないんだよ。数多くの子を残さなければ国が滅ぶ」
「じゃあ劉鳴国はそろそろおしまいってところか」
純潔な血を引く皇太子は久河一人だけ。
水面下の騒ぎが収まれば王座に座るとしても、世継ぎを作るならそろそろ妃を貰う歳だ。
「本人にその気がないからね。一応、継承権のある側室の子も大きくなって来ているし、いざとなればどうにかするさ。それにいずれはいい相手が見つかると思うよ。だって大国の皇太子様だからね! すり寄る女は多いはずさ」
小躍りする朱禍の性格の悪さに少し引き気味の林琳は、隣の大通りから子供の悲鳴を耳にして立ち止まった。
間を置いて、荒々しく男が立ち上がり、服に散った麺を子供へと投げつけ、その巨漢を揺らしながら近付く。
跪いて立ちあがろうとしない子供の様子に、林琳は眉を顰めた。
ただの餓鬼に姑息なことを。
足を引っ掛けて無理矢理転ばせたのだ。
子供を憐れむ気持ちは持ち合わせていないが、純粋に男に対して嫌悪感を覚えた。金もろくに持っていないだろうに、全く脳のない馬鹿な男だ。
辺りにいた人々は我先にと店を離れ、子供はぽつんと一人取り残されてしまった。
どうせ横にいる男が割って入るだろうと横目で盗み見たが、彼はばちっと目が合い、「大丈夫だよ」と腕を組んでいる。その顔は、出る幕もないと言いたげだ。林琳も同様に目を細め、壁に背を預けて観察する。
人の輪の中心に子供が一人。
心細いだろうが、よく泣かないものだ。
すると人々が後ろを向いたり横を向いたりと騒がしく動き出す。役人が騒ぎを聞き付けたのか。そうなれば見物するのもやめにしよう。
騒ぎを越えたその先に高冥城が存在しており、林琳はすれ違うように通り過ぎようとした。
「やめないか!」
その瞬間、林琳は青年から感じる僅かな心力の香りを嗅ぎ取り、眉をひそめた。
颯颯として眉間を突き抜けた力を忘れることなど到底できない。たった一瞬の出来事に泣きたくなるぐらい強制的に心を揺さぶられて、林琳は青年から視線を逸らせず、親指の爪を噛んだ。
その仕草を偶然目にした朱禍は、幼子の行動に驚きの目を丸くした。
知己が悩んでいた原因を思いがけない場面で目の当たりにしたからだ。
最近、弟子の爪の状態が酷く、薬を塗ってもすぐに剥がれてしまう。庭いじりもしないのに。確かに筆よりも剣を握ることが多いが、親指だけが捲れているのは奇病だろうか。そんな相談をしてきた知己に言いたくなる。子供の頃から染み付いた癖を大人になってもやっているぞ、と。しかも無意識にだ。
硬いものを噛む音がして、朱禍が声をかけようとしたが、林琳は既に頭ひとつ飛び出た野次馬の外にいる男を捉えて我に返っていた。
「あいつ……」
◆
晴天のもと、仁は野次馬の真ん中にいる青年を、まるで死んだ魚のような目でじっと見つめていた。普段は緩やかに曲がっている口角も、今回は硬く引き結ばれている。鋭い八重歯がちらりと覗くのが、なんとも不気味だ。
見間違えだと自分に言い聞かせていたが、隣にいた天雪が青年の名を呼ぶことで、夢ではないと実感した。あれほど揉め事を起こすなと言っていたのに、彼は早速渦中にいるらしい。
片燕、表には出てこないくせに根っから血の気が多すぎる。
誰に似たかはこの際だ。隅に置いておこう。
「お前がその子にぶつかったんだろ」
やたらと正義感の強い花月が、頭二つ背の高い男と対峙した。男の姿は俗に言う、荒くれ者そのもので、厳つい顔と腕は花月の二倍はある太さを持っていた。丸い饅頭のような頭には、傷跡がいくつも見受けられ、その巨大な手で抑え込まれたら、ひとたまりもない。頭蓋骨すら潰されてしまうだろう。天雪は、助けに入るべきか悩んでいるようで、拳を握ったり離したりしながら冷や汗を流している。
足元に庇っている幼い子供は、花月の足にしっかりとしがみついていた。両膝を擦りむいているのは、大男とぶつかった証拠だ。まだ足元のおぼつかない子供にとって、大男は巨大な壁でしかなく、勢いに負けてひっくり返ったのかもしれない。仁は、子供の尻に付いた泥を見つけて思った。
「天雪、頼めるか?」
「承知いたしました」
天雪が一つ頷くと、渦中の中へ飛び込み、花月の肩を叩いた。迷子になっていた当の本人は、何事もなかったかのように「やっと会えた。探したんだぞ」と振り返って肩を叩き返す。逆である。探されていたのは花月で、探していたのは天雪だ。方向音痴の花月には残念ながらその自覚がなく、天雪は苦笑いを浮かべた。
子供の顔に影ができると、ぎゅっと目を瞑り、花月の衣を強く握った。驚かせてしまったようだ。慌てて目線を合わせると、子供の頭を撫でる。突然伸びてくる手に驚いた様子だが、己の頭に優しく触れる手に、子供は自ら手を重ねた。
「怪我はない?」
うん、と震えた声で答えた子供は天雪に正面から抱きついて離れようとしない。がっちりと右膝にしがみついている。天雪が軽々と抱き上げると、子供は一層強く抱きついて瞳に大きな雫を浮かべ、しっかりと支えられる身体に安心したのだろう。息を吸い込む音がした束の間、空を突き抜ける泣き声が辺り一帯に響いた。
そのとんでもない声量は、道行く人の視線をますます集め、大男に注目が集まり始めた。それは軽蔑するような目であったり、非難する目、好奇心の目など、様々なものであったが、どれも大男に向けられていた。多くの視線を集めていることに漸く気づいた男は、その身に合った酷い言葉を吐き捨てて去っていった。子供も泣き止み、野次馬をかき分けて走ってくる女性が子供の母だと確信した天雪は、背中を撫でて囁く。子供も母の姿を見つけたようで、腕を伸ばして温もりはあっさりと移動した。
何度も頭を下げる女性に「気にしないでいい」と微笑みかける。子供も頬を突かれて笑っているし、大事にならずに済んだようだ。
「仁先輩!」
満点の笑みを浮かべて走り寄る花月に対して、仁も口元を上げる。そして——。
「天雪から離れるなって言われてるよな?」
「ふぁい」
口元から覗く鋭い歯に食い込むまで、力強く掴む。ごりごりと頬の肉が擦れて、花月は鼻を啜った。
「ふぇも、ふぉへふぇふぁっふぇ」
「花月。真面目に謝ったほうがいいよ……僕にも」
天雪は、あちこちを走り回ったのに、花月はきょとんと首を傾げている。
人通りの多い通りだけでなく、離れた集落、そして山道だって登ったのだ。闇市には仁が明月を連れていたからこそ行かなかったが、一人だったなら迷いなく探しに入ったことだろう。
「どこにいたの? 通心が繋がらないなんて……」
花月とは片燕で最も付き合いの長い家族で、遠征している最中でも通心を使って頻繁に連絡を取ることができていた。
揉みくちゃにされた両頬を恐る恐る撫でる花月に、天雪は腰に手を当ててご立腹だ。
安心して欲しい。そうそう人間の頬は千切れはしない。
「いやぁ……その……」
「ん?」
「怪奇の領域に……」
歯切れの悪い花月は、忙しなく視線をうろうろと遊ばせたかと思えば、矢継ぎ早に言葉を続けた。
書店を探して高冥城まで歩いた花月は、門前払いを喰らって引き返した。真っ直ぐに来た道を戻った——はずなのだが、道を進むうちに、自問自答を繰り返す。
「あんな宮あったか?」
木々の茂みから、瓦の屋根がちらりと見えた。
廃れた宮の前を通り過ぎた時、ふと気がつくと足を掴まれる感覚がした。瞬間、景色が一転し、彼は凍てつく氷の世界に落とされ、巨大な氷の壁に囲まれていた。知らぬ間に、領域の境界線に踏み込んでしまったらしい。
瞬きする前は山道を歩いていたのに、目を開ければ氷の洞窟だ。
足元以外が全て氷で覆われている。
冷たさに指先が痛む中、花月は氷を砕こうと剣を突き刺したが、亀裂さえ入らず、切先は弾かれて強い反動に襲われた。
それならばと、試しに心力を込めてみると、意外にも氷は簡単に砕け散り、地面に山を作り上げた。しかし、氷以外の世界は一向に現れない。
「ど、どれだけ分厚い氷なんだよ!」
息も絶え絶えに、花月は地面へと大の字で寝転がった。
もしかして、このまま外に出られない……?
師兄を見つけることもできず、天雪に借りた金も返せず、怪奇の餌食になる。あぁ、なんて最期だ!
悲観的な思考に囚われていると、氷に反射した己の姿が情けなく思えて、反対側を向いた——そこにもまた氷があったが、少しおかしい。透明度の高い氷だが、白く濁っている。
花月は視線を下から上に流し、「へぁ?」と間抜けな声を漏らす。
氷の中には一人の女が閉じ込められていた。柔らかい髪がふわりと広がり、水中に浮かんでいるかのように存在している。何よりも、その豊満な胸元に釘付けになった。
決して、たわわな実りに触れたいと思ったわけではない。彼はただ、胸元に咲く紋様を見るために、さらに一歩下がって女の姿を観察した。
身に纏う衣は質素な割に生地は高価なもので、艶のある質感を持っている。派手な装飾こそないが、三枚に重なる衣は大層なものだ。細かすぎる透かし模様にどれだけの時間を割いたのか、考えるだけでも途方もない。
花月は剣を大きく振りかぶり、女を閉じ込める氷へと叩きつけた。
氷の中から倒れ込む女を抱き止めた瞬間、領域は強い揺れに襲われた。立つことすら難しいほどの大きな地震だ。
氷が軋む音と共に、花月は四方八方から巨大な氷が雪崩れ込んでくるのを察知した。女を担ぎ上げると、剣で氷を叩き割りながら、冷や汗を流す。
「あっぶねぇー!」
破片になった氷を払い、隙間から顔を出すと、氷の柱はすべて崩壊していた。領域を掌握する本体がどこにいるのか予想もつかず、ひたすら警戒するしかなかった。
女は一向に目を覚まさず、担がれたままでいた。怪奇が襲ってくる気配もないため、ひとまず床に寝かせて起こそうと試みたが、ちらりと視界に入った紫色の汚れに気がつく。
細い首と肩の先にある女の手首には紫色の痣が浮かんでいて、ごしごしと拭ってみても落ちない。皮膚の深層まで染み込んでいるようだ。
「痣だと思ったんですけど……触るとぞわぞわして、こう、指先から蛇が登ってくるみたいな……」
——呪いだ。
仁は花月の語りに確信を得た。朱禍の受けた禁忌術で間違いない。
「こっちに戻ってきたってことは怪奇は祓えたの?」
「それが! 何も覚えてないんだよ!」
花月の言葉によれば、再び足を掴まれて景色が一変し、外に放り出されたと思えば、高冥城から程遠い丘に落っこちて、ここまで必死に走ってきたらしい。迷わずに辿り着いたのは奇跡だった。
「女性はどこに?」
「知るかよ! 俺の方が聞きたいって! それにずーっと脳内に声が響いて、やっと落ち着いたんだ」
暗い、痛い、寒い、助けて。繰り返し、直接脳内に叫び声が響く。
女が人間なのか、影なのか、それとも怪奇の本体だったのか、その存在に名前を付けるのは——。仁は、はっと口元を震わせた。脳裏に色濃く残る女の姿が一つあり、花月が耳にした言葉と瓜二つだった。
「花月。女はこんな首飾りをしていなかったか」
劉鳴国に漂う得体の知れない存在。
「はい。珍しい色だと思ったのでよく覚えてます」
「……暗華石」
千咲国に伝わるこの世で唯一の宝石。独特な輝きを放つその宝石に、花月はさらに気になることがあると言った。
「視線を感じるんです。有り得ないけど……宝石の奥に誰かがいるみたいに」
怪奇には怯まないくせに、幽霊や怨霊のような曖昧な存在には滅法弱いのは不思議だ。しかし、残念ながら有り得ないことはない。
暗華石は千咲国が建国された時から代々受け継がれてきたもので、人々の生死と常に共にあった。人の影がうつろうのは、何らおかしな話ではなく、むしろごく普通なことだ。
花月に異常は見られない。仁は二人に僅かな心力を渡す。
「劉鳴国に現れた怪奇について調べて欲しい。あまり大っぴらには調べずに、旅人を演じてうまいこと聞き出せ」
もちろん、危険だと感じれば即刻退避だ。無理に聞き出すのではなく、自然に話題をすり替えて誘導する。若い店主が最も聞きやすいだろう。長く生きている老人は厄介だ。愛国心の塊で気難しい人間が多い。
仁が幾つか要点をまとめて指示を出す。二人はその内容を頭に叩き込み、視線を合わせて頷いた。
「先輩はどこへ?」
女の正体は千咲国の人間でほぼ間違いないだろう。暗華石は千咲国の皇族しか身につけることを許されていない。しかし、胸元に残されたのは奴隷の刻印だ。天と地の差に隠された秘密を暴かなければ、怪奇の領域に囚われた女の正体も不透明なままだ。
天雪と花月に問題が起きたら、通心を繋ぐ約束をして、仁は人の多い通りを外れ裏道へと消えていった。
「なぁ、仁先輩から少しだけ師兄の心力がするけど……肝心の師兄は?」
敢えて聞かなかった質問を、天雪へと投げかける。
「今回は別行動をしているみたい」
「別行動だって!?」
花月はふるふると首を横に振り、天雪に「よく考えてみろ」と伝える。
「……喧嘩だ」
「え?」
「あの様子……師兄と絶対に喧嘩したぞ」
「いつもみたいに師兄が折れて終わると思うよ」
「折れる前にまた消えたらどうする!? 忽然と消えて、師匠も仁先輩も行き先がわからなかったじゃないか! 別行動って状態が一番恐ろしいだろうが!」
目に入る場所にいればどうにでもなる。しかし、別行動となれば、再び忽然と消えてもおかしくはない。花月が両手で顔を覆い悲観的な発言を繰り返すのを見て、天雪は控えめに笑った。
天雪は林琳と仁の性格をよく知っている。口では厳しいことを言う林琳だが、片燕には兎に角甘い。決して身内の粗相を許すような甘さではなく、最後の最後に救いの手を差し出してくれるのだから、結局、本人は嫌がりつつも揉めごとをいとも簡単に丸く収めてくれる。時には力技の時もあるが、宗主が認めているのだから問題はない。
そして仁は林琳にこれでもかと執着する。片燕が創立する前に林琳と宗主に拾われた仁にとって、林琳は兄のような存在であり、宗主は父のような存在だったはずだ。途中で入門した者も林琳と仁を良き兄と慕い、宗主を偉大な父だと思っている。しかし、仁は違う色の執着を見せる。
「師兄が消えて、仁先輩が目を覚ました日のこと覚えてるでしょ」
ろくに動かない身体を無理矢理動かして、馬を走らせ、転送陣を張った場所に飛び続けた。心力が尽きて気絶するまで繰り返し、意識が戻れば血を吐いても立ち上がった。手当たり次第に領域の扉を開いて探す姿は、見ていられなかった。
宗主も痛手を負い療養中、仁は自暴自棄になり、拠点は血の海で、普段は関与してこない山雫国の女帝さえ様子を見に来た。隈が酷くなる一方で、真っ黒になるまで悪化させたのは間違いなく片燕だ。もちろん、後日きちんと謝罪に伺った。
幸いにも、宗主の知己が片燕を支えてくれたお陰でどうにか立ち直れたものの、仁の執着は執念を纏い、明らかに変わった。「仁先輩は絶対に師兄を逃さないよ」
ふらふらと風に吹かれて消えてしまう師兄には丁度いいのかもしれない。
「きっと師兄は気付いていないだろうけど」
不器用で鈍感な師兄は、仁先輩の前では酷く穏やかに笑い——眩しそうに視線を逸らすのだ。
◆
「……これも違う」
林琳はため息をつきながら、一冊の本を棚に戻し、隣の書物に手を伸ばす。この作業をかれこれ半日も繰り返しているが、探している書は一向に見つからない。集中力はとうに尽き、欠伸が自然とこぼれた。
すでに日は暮れかけ、空は黄昏色に染まり、劉鳴国最大の蔵書閣も閉門の時刻が迫っていた。この蔵書閣には膨大な量の書物が所蔵されており、その数は一年では到底読み切れないほどだ。書物は分類されてはいるが、それでも探すという行為そのものが林琳にとっては億劫で、気が遠くなるような作業だった。
ふと、二つ隣の本棚に目をやると、朱禍が劉鳴国の皇太子久河と肩を寄せ合いながら何かを話し込んでいた。彼らが話している内容までは聞き取れなかったが、棚に貼られた目録を見て、どうやら二人は歴史書を調べていることだけはわかった。
どうせ今から新しい棚をしらみ潰しに探しても見つからないだろうと、林琳は自分の好みの書を探し始める。
仕人、主、怪奇、領域、心力……神子——あった。
他の書に比べてだいぶ薄い書ではあるものの、間違いなく神子に関する記述がありそうだ。
手に取ったその書物は、他のものに比べて薄いが、神子に関する記述が載っていることは間違いなさそうだった。林琳は透視によって得た記憶の断片に、どうしても納得がいかない部分があった。神子は本来、国を護るために御霊へ祈りを捧げる存在であるはず。それなのに、彼女は自ら選んだ世継ぎの命を躊躇うことなく奪ったのだ。
林琳自身は神や宗教を信仰しているわけではなく、何かを崇拝したこともない。しかし、主が消えたこの世界で、人々が心の拠り所として神聖な存在を求めるのは理解できる。だからこそ、神子が後継者にあたる世継ぎを手にかけたことが、どうにも腑に落ちなかった。普通なら、後継者は国を守るために大切にされるべき存在のはず。それなのに、あの神子は——。
「国を憎んでいない限り、こんなことはしない……」
林琳はその考えに至ると、手に取った書をめくり始めた。
「……神子が世継ぎを選ぶ基準は誰にもわからず、代々神子同士でのみ伝えられてきた……側室の妃から産まれた赤子が産声を上げた夜、劉鳴国が大きな戦に勝利した……神子の始まりはここからか」
紙をめくるたび、神子と世継ぎにまつわる奇妙な事実が少しずつ浮かび上がってくる。赤子は"奇跡の子"として神子に選ばれ、大切に育てられた。そして、その子は国に勝利を呼ぶ存在となったという。神子の情報はここまでで十分だ。林琳は、次に側室の妃についての情報を探そうと決めた。
系図があれば最も簡単に事が進むだろうが、一般市民が入ることのできる蔵書閣に皇族の詳細な系図があるはずがない。そんなことを考えながら流し読みしていると、最後の項でひらりと一枚の紙が落ちてきた。四つ折りにされた紙を広げてみると、そこには系図の在処を示す記述があった。
「同じ考えの奴がいたってことか……」
紙に書かれた通りに三つ階段を上り、三段目の右から二つ目の巻物を取り出すと、それは驚くほど分厚く、内容も皇族の出身地や身分まで細かく書かれていた。巻物は"植物の栽培"という分類で棚に置かれていたが、その中身は全く異なる内容だった。
——いいのか、これ……。
林琳は疑問を抱きつつも、巻物を抱えて窓際の席に腰を下ろした。その重さに片手では持ちきれず、膝の上に置いて慎重に読み進めていく。
中身は期待していた系図とはやや異なっていたが、それでも神子に関する重要な情報が含まれていた。歴代の神子は皆、二十歳を迎える前に亡くなっている。原因は不明だが、全員が短命だった。
「……あった」
ずらりと並ぶ側室の名前の中に、一際目立つ"神子"の名があった。林琳はその名を指で追いながら、その母親である側室の妃が、ちょうど神子の代替わりと同時期に亡くなっていることに気づいた。
「はぁー結局力技か」
林琳は深いため息をつき、死霊との対話を決意する。相手は死者の魂であり、領域に迷い込む魂とは異なるが、それでも魂であることには変わりない。林琳自身の魂がどれだけ影響を受けるかは未知数だが、多少の負荷には耐えられるだろう。
「只今より半刻後、閉門致します。速やかに退出をお願いします」
司書の声が響くと、林琳は素早く巻物を棚の奥深くに戻し、人目に触れぬように隠した。
「おや、今日は宿に戻るのか」
「うん」
坂道を降りながら、朱禍は安堵した様子で「良かった」と呟いた。久河はすでに蔵書閣で別れを済ませ、帰路についていた。
「真っ直ぐ帰るんだよ」
「子供扱いするなって……」
肩を何度か叩かれ、林琳はいい加減にしろと朱禍の手を振り払う。
「じゃあ、また明日」
「あ、待って」
林琳が衣をくいっと強く引くと、朱禍が振り返った。
「どうかしたかい」
「符を分けて欲しい」
「符……? 別にいいけど何に使うんだい。危険なことをするなら予め教えてくれ」
朱禍は懐から符を取り出しかけながら、不安げな視線を向ける。彼はいつも通り、林琳の無謀な行動を懸念しているのだ。林琳はその視線に気づかぬふりをして、きっぱりと言った。
「死霊と対話する」
その一言で、朱禍の動きが止まる。取り出しかけていた符を強く握り潰し、驚愕の表情を浮かべる。
「なんだって?」
朱禍は今にも息が止まりそうなほど、固まった。林琳が言おうとしていることが、どれほどの危険を伴うのか、一瞬で理解したのだ。
「林琳、死霊は死者の魂だぞ。人の影とは違う。魂自体がこの世に存在しているんだ」
彼は厳しい口調で説得しようとしたが、林琳の意志は揺るがない。
「死霊だろうが、魂に変わりはない。透視できれば得体の知れない女の正体だってわかる」
変死体によく似た身体に奴隷の証と暗華石。
このまま地団駄を踏んでも時間は進むだけだ。こんな所で足止めされるぐらいなら多少の危険は背負うべきである、滅茶苦茶な林琳の言い分だ。
——ああ、もう、どうしてこの子はいつもこうなんだろう。
最終的に零か百の選択に至る。
「少し方法を考えるから明日まで待っていなさい。いいかい、君は早く寝て身体を休めるんだ。今の君はまともな判断ができていない。気を張りすぎている。よく見てみなさい。ここには君を脅かす存在はいないだろう」
朱禍は深いため息をつき、仕方ないと頭を振った。
橙色の灯りによって照らされた世界に住むのは、力の持たないただの一般人だ。ひたすらに明日を生きる弱い命だ。余所者の二人に敵意を向ける暇もないと言い聞かせた。
張りつめていた空気が微かに和らぐのを感じる。
林琳自身自覚のない緊張感があったらしい。
何日間も闇市に居座っていたと思えば、劉鳴国の皇太子と鉢合わせし(断じて朱禍の意図ではない)虚勢を張る裏でひっそりと緊張の糸を張っていたのだろう。
極めつけに天雪と花月が劉鳴国に辿り着いた現実を目の当たりにし、彼らを護る片燕宗主の心力を浴びてしまったからだ。一目散に走り出した林琳の行動は焦るどころか逃走であった。
第一、仁がいればこうはならない。
後で一言文句を言っておくとして、朱禍は林琳の頭を撫でた。
「いいね。今日は大人しく休むんだ」
もの言いたげな様子で目配せするのを無視して両手を前に出す。
「ほら、手を出して」
素直に差し出される手を両手で取ると、ゆっくりと馴染むように心力を送り込む。じんわりと流れ出ていく心力は僅かなもので、林琳の心力と混じり合うのを確認して手を離した。
「これは一時的な処置でしかないからね」
あくまで五感をほんの少し鈍らせるだけ。一晩寝れば効果は消えてしまう、ただの一時的な安らぎだが、あとは仁がどうにかしてくれることを願う。いや、早急に何とかしてもらわないと非常に困る状況だ。
皇太子からの依頼を受けたのは、夢天理が水面下で不穏な動きを見せ始めたからに他ならない。幸運にも劉鳴国には夢天理の重鎮たちが集まっている。この機会に彼らを探るため、皇太子を利用しているのだ。少し申し訳なく感じるが、古巣の夢天理の下劣さを知る自分にとっては、優先すべきことが明確にある。
そして林琳の持つ怪傀神書。
あの書は、世界中を巡り、幾度となく恐ろしい災厄を引き寄せてきた代物だ。正直なところ、林琳が正気を保っているのが奇跡に思えるほどだ。興味本位で手に取った者は、消息を絶ち、奇妙な死体で発見されたという。中には発狂し、辺り一帯を血の海に染め、一国を滅ぼしたという噂まである。
そんな恐ろしい書物を持ちながら、林琳が平然としている姿を見たとき、朱禍は肝が冷えた。
しかし、兎にも角にも怪傀神書の持ち主が林琳であるなら、今のところは安心できる。彼は他所の問題で手一杯のようだが、書物の影響を受けていないのなら、しばらくは何とか持ちこたえてくれるだろう。
「ああ、こら、そっちじゃない」
五感が鈍っている林琳が、真逆の方向に歩き出すのを見て、朱禍はすぐに修正する。彼の肩を軽く押し、正しい道へと誘導した。
心力の回復が追いつかない状態で無理に領域に戻らせたのも、自分の責任の一部だ。死霊については——まあ、知己の力を借りるとして、最近は連絡を取っていなかったが、このタイミングで報告がてら相談するのも悪くない。
「おやすみ」
ふわあ、と力のない欠伸をする林琳が軽く手を挙げたのを確認して、朱禍も久方振りに宿へと戻るのだった。
「え、林琳……?」
ふらふらと部屋に戻ってきたのは、数日ぶりに見る林琳の姿だった。足元はふらつき、鞄を肩から投げ捨てると、そのままこちらに歩み寄ってくる。仁は驚き、そして何よりも安堵が胸に広がった。言いたいことは山ほどある——けれど、準備していた言葉は喉に引っかかり、泥を噛むような苦さを感じる。
ごめん、言い過ぎた。心配したんだぞ。どこにいたんだ。
しどろもどろしている仁に一言も発さない林琳が近付く。体を起こした仁が林琳を見上げれば、瞳はとろんと微睡んでいて、意識の半分以上が飛んでいるらしく、かくん、かくんと揺れる頭に何度も瞼が閉じては開く。
「う、っわ」
突然、林琳の体がぐらりと傾いた。仁は反射的に彼を抱き止めた。すると、林琳は何事もなかったかのように、仁の胸の上で安らかな寝息を立て始める。その無防備な寝顔に、仁の視線は釘付けになり、心臓が速く打ち始める。
「えぇ……嘘だろ……」
予想外の展開に、仁はただ呆然とする。林琳の頬が仁の胸に擦り寄り、その感触に鼓動が一層早まる。耳元で囁き、肩を揺すってみるが、林琳は全く反応せず、すっかり深い眠りに落ちていた。無意識に、仁の手は林琳の頭を優しく撫で、そして強く抱きしめた。
どれぐらいそうしていたのかわからない。
寝苦しそうに眉間に皺がよるまでじっと幼い表情を目に焼き付けた。
流石に固い体の上では居心地が悪いだろう。
仁はなるべく振動が響かないように注意を払い、林琳を優しく寝かせる。
身動ぎした林琳は手で布をかき寄せて小さく縮こまると、落ち着いたのか、布で作った即席の枕に顔を埋めて再び寝息を立て始めた。余程疲れていたらしい。
殴り飛ばされる未来を覚悟の上で、そっと腕を回して包み込めば、林琳は唸って額を仁の首元に当てる。かつて林琳がしてくれたように丸まった背中を優しく叩けば眉間の皺はゆっくりとほどけて、温かい息が仁の首に当たった。それから一度大きく息を吸い込むと、ぐりぐりと頭を擦り付けて息を吐いた。
嗚呼、愛らしいことを——。
抑え込んできた不浄な感情が掻き乱される。
「……駄目だぞ、師兄。馬鹿で愚かな師弟は昔と変わらず忍耐力がないんだ」
夢にまでみた生殺しに思わず自分の頬を抓って正気を取り戻そうとしたが、意中の相手は呑気に寝ているし、一瞬でどうでも良くなった。時間の無駄だ。勿体無い。今はできる限りこの状況を噛み締めようではないか。
少し前まで悶々としていた心は一瞬で有頂天、不貞腐れていた心も吹き飛び、愛しい彼の帰りを喜ぶ犬だ。それにただの犬じゃなく、忠犬だ。
とくん、とくん、と林琳の体を伝って響く鼓動。
「はー、温かい……」
人の温度を持つ身体。
血の温もりではなく、人の身体が発する体温。
林琳はわかっていない。
愚かな師弟は夜を越すために幸福な激情を今から殺さなければいけないのだ。何度も何度もそうやって夜を越してきた。
「師兄は忘れちゃったのか?」
あどけなさが残る顔立ちに触れる。
価値のない命を掬い上げたのは林琳だろう。
何も望まないから、どうか目の届く場所にいて。置いていかないで。遠くに行こうとしないで。取りこぼした物は俺が拾うから、怖がらずにこの手を取って。
罪を犯したのなら共に償うし、片燕に戻りたくないのなら一緒に旅をしよう。
——どんな場所だって、師兄となら怖くない。
「独りは寂しいって……教えてくれたのは師兄なのに」
愛しい人の額にそっと口付けを落とす。眠る彼を包み込むようにして、仁は静かな夜に溶け込んでいくのだった。
◆
"羅宮"
「ここは大昔に使われていた宮だ」
羅宮が冷宮と称されるのも訳がある。
久河がこの世に生を受ける前よりもずっと前まで話しは遡る。
四つの国が対立し、巻き起こった大戦について聞けば、誰もが何となく一つの歴史に辿り着くだろう。そして敗戦国は三つ。劉鳴国はその内の一つに当たる。夢天理が劉鳴国と親密な関係にあるのは、再建を手伝ったからだ。
「四つの国は協定を結んでおり、婚約を結ぶという名目で人質となった妃がいた。大戦が起ったことにより当時王の寵愛から外れた妃が暮らしていたと聞いている」
「妃は、その後どうなったんだ?」
「王からの寵愛から外れ、冷やかしの目で見られる。祖国が無事かどうかもわからない。気が狂いそうな環境で生きていけると思うか?」
花月は恐怖に満ちた目で羅宮の扉が開かれるのを見つめていた。
「立ち入ることが禁じられているのは、犠牲となった者たちの眠りを妨げないためだ。遺骨や灰は全て祖国へと戻ったが、想いは遺り続けているのだろう。昔から羅宮に近付いた者は不幸に見舞われ、歴代の国王にも襲い掛かったと言い伝えられている」
「この大きな御守りはいったい誰が?」
「先代の神子様が仕人に頼んだらしい」
仁は触れるなと天雪と花月に注意して、羅宮の中へと足を踏み入れる。
「随分と埃が……。手入れもしていないようです」
鼻を衣の裾で覆って隠すが日の光に照らされて埃が縦横無尽に舞っているのがよくわかる。それなりに大きな造りではあるが、置かれている小物や家具は貴族が持つものとはかけ離れていて、ぞんざいな扱いを受けていたことが見て取れた。
床は想像通りぎしぎしと嫌な音を立てている。床が抜け落ちてしまわないか不安になるぐらいだ。あと一人でも多ければ間違いなく床が抜けるだろう。出来るだけ均等に負荷がかかるように分かれて持ち場に立った。
「よし、やるか」
床の強度がかなり心配だが、陣を貼るには避けては通れない。
まじまじと観察する久河に若干のやり難さを感じながら、仁は手を動かした。
「やっぱり先輩の陣は美しいです」
天雪はうっとりと規則正しく並んだ文字を見つめる。
「当たり前だろ。先輩の陣は師匠に負けないぐらい固いんだからな」
「聞いていなかったが……お主たちはどこの宗派だ?」
朱禍の身内だからと気にしたこともなかったが、よくよく考えれば素性を知らない。
林琳を筆頭に全員同じ宗派であることは確かだろう。
「なんだ。渋るようなことか」
うんともすんとも言わなくなった三人に九河は眉を潜める。やましいことでもあるのか。
揃ってうなった後「うーん……師兄に殺される気がする」と仁が言い、「師兄が絶対怒る」と花月が、天雪に限っては「絶縁されかねない」と言ってみせる。
「素性を隠すのがお主たちのやり方か。卑怯だぞ」
「言われ慣れすぎてこれっぽっちも刺さらない」
「余計に恐ろしいぞ! どこの宗派だ!」
多少言い返してくるだろうと踏んでいた久河は仁のあっけらかんとした返しに鋭く突っ込む。
「私はもしや厄介な宗派と関わっているのではないか……?」
大変残念だが大正解である。片燕は自他共に認める問題児の集まり。
まず第一に朱禍が贔屓にしているあたり、他の宗派とは若干のずれがあるのは明確だ。
久河が自問自答を繰り返していると陣が不気味に浮き上がって揺れ始めた。
「おっと、どうやらお出迎えみだいだな」
怪奇が反応している証拠に仁は頷く。
「皇太子様、ここからは仕人の仕事です。宮の外で待っていてくれませんか?」
怪奇の領域に一般人が踏み込めば無傷で返ってこれる保証もなく、九河も三人に任せることを納得している。
「……あぁ。後は頼んだ」
「何も心配はいりません。きちんと祓って参りますから」
領域には天雪と花月も同行することになっている。
これは二人の腕試しといった所だ。あくまで仁は後方から見守り、問題が生じれば助太刀する程度。
三人だけになった空間で花月は口を開く。
「で、師兄とは仲直りしましたか」
「ごふっ……お、お前」
「別に俺は師兄と先輩が昔みたいに訳の分からない問題で揉めてるのはいいんですけど……折角再会したのに、わざわざ喧嘩してるのかなって」
「喧嘩じゃない」
「じゃあ何ですか。師兄がここまで怒るのって珍しいですよ」
「花月、止めなよ。仁先輩が色んな意味で堪えてるから」
「っう……」
心にぐさぐさと刺さる発言をどうも有難う。
花月や天雪に言い訳をするのも大人げないが、仁にも言い分は山ほどある。
布団に潜り込んできた林琳に完全敗北したのだ。
もういっそ己が頭を下げて謝った方が手っ取り早いという答えに辿り着いた。翌朝にでも謝ろうと考えていたのに、当の本人は目を覚ます気配もなく、すやすやと夢の中。それが三日も続くとなれば話しが変わってくる。
朱禍が林琳の心脈に小細工をしたのは知っていたし、様子を見に来てもらって開口一番「やりすぎたかも」なら誰だって諦めも付くだろう。
火種が林琳なのは譲れないが、あんな姿を晒されたらどうでもよくなってしまう。
—―愛い。
「怖いです、先輩」
脳裏に浮かぶ光景に頬はだらしなく弛んでしまりがない。
仁はこれ以上根掘り葉掘りいじられる前に領域への扉を開くことにした。
「ほら、下がれ下がれ」
揺れる陣の端っこを引っ掴んで手繰り寄せるようにすると、天井から黒く濁った液体のようなものが滴り始める。そして瞬きする間もなく、視界は暗転した。
花月が目を開けるとそこには二度目の景色が広がっている。
仁と天雪は氷に触れてみたりして状況を把握しているが、花月は一人の人間の姿を探していた。
しかし見当たらない。
「来るぞ!」
全員が戦闘態勢に入ると氷が陽炎のごとく揺らめき、人ならざる者を映し出す。
氷の中を飛び回るのはぐちゃぐちゃに潰れた鳥のような生き物——怪奇だ。
四方八方を氷で囲まれている三人が一斉に氷を砕きにかかると、怪奇は氷を抜け出して上昇を始めた。——何かいる。
氷が砕けた先に見えた美しい庭園に目を奪われる暇もなく、あたりを吹き飛ばす勢いの突風が三人を襲った。
——ピュイピュイ
鳥が鳴く。 喉元が膨らんでは囀りが轟く。段々と可愛らしい囀りとはほど遠くなり、鳴くたびに鳥の身体はどろどろと溶けていった。内臓を溶かし、骨を溶かし、いつの間にか鳥は形を保てなくなったのか、べしゃり、と地面へと落下する。
花月が剣で鳥を突いてみるが反応はなく、力尽きたようにも思えたがか細い声で鳴き続けている。
さっさと祓って例の女を探そうと天雪が剣を振りかぶった時、庭園は一気に暗くなる。
仁が空を見上げれば日差しを遮る巨大な影を目撃した。
——ピュイ、ピュイ。
囀り、否、地鳴き。
これは仲間を呼ぶときの鳴き声だ——。
「上だ! 伏せろ!」
巨大な羽音に花月は転がりながら右へと避け、物陰に身を隠す。
まさに危機一髪。
「でっけぇ……」
それにしても躰の大きさが尋常ではない。
翼を広げれば片翼で川を渡る小船を覆い隠すだろう。翼の大きさに比例して嘴も巨大で長く、人を丸飲みするのはいとも簡単だろう。
柱の陰に身を潜めながら仁はじっくりと陣を張り巡らせる。
短剣の黒紫よりも、花月と天雪の長剣の方が相性が良さそうだと目配せをすると二人が怪奇の気を引く間に四つの角に印をつけて囲いを作る。心力で覆われた鳥籠だ。
「師兄だったら鳥の丸焼きとか言いそうだよな」
「止めて花月。笑わさないで」
安易に想像が付くな、仁は笑った。
おどけながらも怪奇の片翼が花月によってぼとりと切り落とされる。
体制を崩した怪奇はそのまま一直線に庭園へと着地して、柱にぶつかると、何度も藻掻いて立ち上がった。その隙を天雪は見逃さず、残された翼を切り落とした。小振りになった怪奇は丁度陣の真ん中に位置している。
薄い膜を帯びて陣が発動すると、悲鳴を挙げて暴れるが、翼の失った怪奇はただの鳥に過ぎない。じたばたとのた打ち回る光景の中で、ふと、鳥がえずき始めた。何かを吐き出そうとしているようだ。三人は体勢を低くして鋭く見据える。
—―カラン
黒い液体に包まれて陣の外へと吐き出された掌の収まる大きさの石。
天雪が指で拭って磨いてみると、見方によっては虹色にも輝く宝石だった。
「私たちが以前祓った怪奇の中にも、こうやって石を吞み込んでいる個体がいました。それこそ、不思議な力を持っていると謳われているものです。何か理由があるのでしょうか?」
陣の中に閉じ込められている鳥は未だに暴れている。二度と羽ばたくことも叶わぬその躰が光り始めたのは一瞬のことで、鳥籠の中で爆発した。
「う、わっ……!」
爆発を皮切りに領域が崩壊を始める。
地面は割れ、庭園は荒れた土地と化し、空は暗闇を覗かせて裂ける。
転がり出た宝石を掴もうとするが、あちこちに空いた裂け目に転がり込んですっかり見失ってしまった。
まずい、まずいぞ。
あまりにも大きな爆発で領域は急加速で崩壊していく。幸いにも陣の効力で吹き飛ばされる事はなかったものの、領域に対する損傷は激しいもので、足場が殆ど存在していない。
天雪と花月も境を探しているが苦戦しているようだ。
仁は二人の襟——首根っこを掴んで引っ張り上げると一つの亀裂へと放り込んだ。滑り込むように消えた二人に安堵して、仁は別の出口を探す。
すでに領域は暗闇に包まれており、ちかちかと光る粒が優雅に泳いでいるだけ。
嗚呼、星空みたいだ。
ふと、頬をかすめた淡い光が仁の目の前で制止した。一度だけふわりと浮かぶと、付いておいでと一つの亀裂へ飛んでいく。最も遠い場所に生まれた亀裂だが、仁は器用に瓦礫を足場にしてそこへと向かった。
亀裂の前で光は仁の指先に止まった。道案内をしてくれたらしい。
「ひとつ聞いてもいいか?」
光は頷くように動く。
「呪いを受けただろう。そのことを覚えていないか」
光はぴたりと止まってじっと動かなくなった。
「知り合いが劉鳴国で呪いを受けた。術者を探したいんだ。あなたの身体にも痣があったと聞いたし、覚えていることがあれば……」
——のろい
「あぁ、そうだ」
——つめたい、つめたい。
繰り返し響く声に仁は頭を押さえる。言葉にもならない絶叫が途切れることなく流れ込んでくる。暗い、冷たい、寒い、痛い。思い出すこと自体を魂が本能的に拒絶しているようだ。怪奇に感化されて己さえ見失い、記憶までもが侵されている状態では打つ手はない。
段々と狭まる亀裂に猶予はなく、仁は光を抱えて飛び込んだ。
◆
微睡みに逆らわずに目が覚めた。いつの間にか深い眠りについていたようだ。そういえば、朱禍と別れる前に心力に小細工を加えられた気がする。身体から朱禍の心力がすっかり抜けているが、あれだけ荒波を立てていた心力が静まっているのを感じ、欠伸を堪えて目を擦った。余計なことをしてくれた。
起き上がろうと布団に触れると、隣には微かに温もりが残っていて、林琳は小首を傾げた。足元にはご丁寧に新しい衣が置かれていて、広げてみるとどこか片燕を彷彿とさせるものだ。げんなりした気持ちがこみ上げる。十中八九、仁が用意した衣だろうが、白はやめろと言ってあったのに。恐らく明日には着れないほど汚れているだろう。無駄に質が良いのも、身幅がちょうど良いのも、わざと仕立てた可能性がある。その金があるなら酒をたらふく買ってほしい。
《おはよう、起きたかい?》
着慣れない形の衣に手間取っていれば通心が繋がる。
ぎゅっと黒い帯を締めれば自然と背筋が伸びて林琳はそばに置いたままの薄い羽織を身に纏った。
《うんうん。すっきりしたみたいだね》
雑音も今はただの音に成り下がった。
《丸三日寝てたけど……》
「は? 三日?」
《そうだよ。通心の応答がないから仁に確認したらずーっと寝てたらしいじゃないか。腹が減っただろう、上にいるからおいで》
ドタバタと足音を立てて飛び出せば朱禍が呑気に手を振っている姿を見付け、一段飛ばしで階段を登った。
慌てて引っ掴んできた竹の先が何度かぶつかっているが気にしない。
「朱禍!」
「やぁ、元気で何より」
「死霊は!?」
「少しは落ち着きなさい。ほら、取り敢えず席に着いて」
「あの馬鹿……! わざと放置したな……むかつく……! くそ、起こせよ!」
「行儀が悪い」
並べられるだけの罵詈雑言を片っ端から言い切る林琳に、朱禍は頭を抱える。やれやれ、これでは仁が可哀想だ。憎まれ役を買って出るのは結構だが、その後の処理をしてくれないだろうか。今日に限って八つ当たりが激しい。情緒不安定、思春期の女子か。どうにかして林琳を座らせた朱禍だが、誰が見てもご機嫌斜めの態度に、店主までもが柱の後ろに隠れてしまった。
今なら朱禍が何を語っても逆鱗に触れそうだ。
「ほら、まずは食事をしよう。なんだか君と食事をすると毎回お粥のような気がするな。いや、今日は汁物もついてるからまだいいか……」
卓に並んだ料理は胃に優しいもので、林琳のために作られたと言っても過言ではないだろう。
「うまい! また腕を上げたな」
柔らかくほぐされた鶏肉を突きながら林琳を見る。蓮根もすかさず口に運んだ。
鼻でくんくんと匂いを嗅ぐと食欲がそそられたのか、何も言わずに散蓮華でくたくたに煮込まれた米を掬って口に運ぶ。程よく冷めたお粥だが塩と出汁で味付けされたものは薄味で林琳の好みだった。先程とは打って変わって無言で食事をとる林琳を眺めながら朱禍はため息を吐く。
——普通、厨房を借りてまで食事を作る師弟がいると思うかい……。
病み上がりではないが、三日間食事を取っていない身体を驚かさないためどれだけの時間鶏肉を煮込んだのかなんて考えなくてもわかる。
どうやら餌付けには成功しているらしい。
「で、仁は?」
「久河様と羅宮の調査に向かったよ。覚えているだろう、巨大な御守りのあった冷宮だ。花月があそこで怪奇と遭遇したらしくってね。久河様も心当たりがあるみたいで同行してる。勿論天雪も一緒だ」
「死霊は?」
「病み上がりのくせに質問攻めだな……」
お椀の底がのぞいたところで朱禍は口を開く。
あれから死霊の姿は見ていない。
朱禍が久河に頼んで同行を依頼して手当たり次第探してはみたのだが、一度も鉢合わせをすることはなかった。そもそも久河は死霊を認知する条件が備わってはおらず、実質一人で見て回ったもの同然なのだが。試しに死霊が好む札を張ってみたが何一つ反応はなかった。
そこで辿り着いた答えは死霊が消滅した、もしくは偶然すれ違うことすらしなかった。この二択だ。
だが後者の可能性は限りなく低い。
朱禍の心力は非常に便利なもので表立って派手な戦闘を繰り広げるようなものではないが、自身の心力だけではなく、他者の心力を弄って別のものに作り変える。謂わば——林琳と同様、非常に面倒な性質を持っている。
それでも死霊が姿を表さなかったのであれば、消滅したと考えるのが妥当だ。
林琳は納得のいかない様子で朱禍をじっと見つめる。
そして視線を左に動かして、また朱禍に視線を戻す。
「妙に自信があるみたいだけど……」
「そりゃあ……」
つい半刻前まで話し込んでいたなんて言えるわけがない。
「とにかく! 死霊に関してはおしまい! さぁ、早く食べて支度して!」
「どこに行くつもり?」
「これだよ、これ」
朱禍は一枚の紙を取り出して机に広げて置く。
「どうだい、興味深いだろう」
"霊廟"
神子の亡骸を祀る場所。
「お前、またきな臭いことしてるんじゃないよね?」
「失礼だな。ちゃんと久河様の許可を得ているよ。正式な依頼だって教えただろう。まぁ……久河様も足を踏み入れたことはないらしいけどね。それと目上に対してその口の悪さは駄目だって何度言えば……」
ぐちぐちと文句を言われることにも慣れてきた林琳はそっぽを向いて箸を指先で回すと朱禍に額を指先で小突かれる。かくん、と揺れた頭で黒い髪の毛がさらりと揺れた。
「いつ髪を切ったんだい。それに真っ黒だ。仁が驚いただろう」
「あの色はどこにいても目立つから。……清々した」
「勿体無い。みんな好きだったのに」
まんまるの頭を流れる朱色の絹。宗主だけではなく、朱禍や他の友が訪れるたびにその頭を撫でては笑っていた。林琳も流石に師の友に反抗することはなく、不貞腐れた様子でなすがまま。その日は一日中不機嫌になるのは毎度のことだ。ちなみに、触れた途端に黒炎がちらつくのは朱禍だけだ。
「好都合でしょ、その方が」
「そうだね。君にとっては好都合だ。でも天雪と花月は君に辿り着いた。仁は君と一緒にいることを二人には教えていなかったし、片燕にすら連絡を入れていない。あの子たちは自分の意思で君を探していたんだよ。変死体のためじゃない。ただ、君に会いたいと思って」
「会ってどうするの」
「会いたいんだよ、君に」
「違う。知りたいんだ、あいつと同じで。あの日何があったのか、お前だって本当は知りたくて堪らないんだろ」
「びっくりするぐらい昔より卑屈さが増してる」
全部見透かしていると言いたげの林琳に朱禍はもういいと手を振った。
「卑屈じゃない。真実だ」
「じゃあ君は教えてくれるのかい。何もかもが壊れたあの日の惨劇を……って、ちょっと! どこ行くんだ!」
我関せず。
見向きもせずにすたすたと歩く背中。
「あぁ! こら、返しなさい!」
机に広げていた霊廟を記した紙は林琳の手の中に。
してやられた。
手癖の悪い子供だったのを今更思い出して、朱禍も大慌てで追う羽目になるのだが、内心、どこか林琳の雰囲気が柔らかくなっていると胸を撫で下ろしている。
卑屈さは確かにある。突き放すような物言いも健在。
だが底を這う冷たい鋭さはあまり感じられず、寧ろ、卑屈さが子供のような我が儘にさえ思えてしまう。
不思議なものだ。
「獅宇の言う通りだね」
"あの子は自分自身の価値を見出せずに生きてきました。だから、仁が林琳を探して領域に辿り着いた時でさえ復讐をしに来たのだと馬鹿な考えに至るのです。そして、天雪と花月に対しても同じ。あの子は自分に向けられる感情には必ず別の問題が間に挟まっていて、繋がった先にいるだけだと錯覚している"
ぐちゃぐちゃに絡まった縁の中に偶然繋がってしまっただけ。
問題が片付けば全ての縁が切れると思っているのだ。つまり、変死体の謎が解ければ林琳は再び姿を晦ますだろう。
仁が上手く留めさせることができたら良いのだが、仁も仁で問題がある。
林琳の話では仁の魂も中々の痛み具合だそうで。
仁の手首に巻かれた組紐の意味を理解したのも最近のことだ。質の良く清らかな心力に織り込まれた微かな炎で修復を促しているようだが、効果はあまり見受けられず、これ以上の損傷を防ぐだけの御守りだ。気休めにしかならない。
実のところ林琳が過ごしていた領域のことを詳しく知るのは本人だけで、朱禍ですらよくわかっていない。
どこで見つけてきたのか、なんのために生まれた領域なのか。
そして仁がなぜ辿り着くことができたのか。
全てを知るのは林琳ただ一人。
片燕の問題児と呼ばれた幼い子供が随分と遠くに道を外れてしまったものだ。
「はぁ……やることが盛り沢山で目が回りそうだよ」
「手を動かしてから言ってくれる?」
霊廟を閉ざす大きな扉を開くため、纏わり付いている蔦を引っ張って剥がし続けている林琳に嫌味を飛ばされる。扉に描かれた国鳥の印が現れるまでだいぶ時間がかかった。想像通り重たい扉を押して中に入れば、辺りは静まり返り、蜘蛛の巣に指先を掠める。
蝋燭の一本さえ灯されていない空間はまるで墓地のようだ。幾つも並んだ大きな箱には名前すら刻まれず、淡々と鎮座している。祭壇に灯をつければどういう原理か一気に光が広がった。それでも蜘蛛の巣や虫の死骸、挙げ句の果てには埃を被った棺が露わになり、神聖な存在が眠る場所だとは思い難い。
林琳が棺に触れると、長い間誰も訪れなかったのか、ぶわりと埃が舞い上がった。ごほごほと咽せた林琳は衣の裾で鼻を覆う。他に道は見当たらず、四方八方行き止まりだ。
朱禍は明るく照らされた霊廟をぐるりと壁に沿って奥の方まで回ってみることにした。霊廟は円を描くように地中に掘られているようで、石壁の隙間に小石や砂利が敷き詰められ、強度を上げている。高冥城の近代的な作りに比べ、かなり古い作りだ。
「一番真新しいのは……」
乱雑に開かれた棺。
微かに残る人間の足跡。
「まずい……!」
きらりと鈍く光るナニか。
「林琳!」
朱禍が名を呼ぶ前に林琳はぎりぎりの所で身を翻して避けるものの、頬に一本切り傷を刻んだ。ピリッと走る鋭い痛みに気を取られることはなく素早く朱禍と共に体制を整える。二人の足元には細く鋭い針が岩畳に突き刺さったままだ。
ぐいっと頬を拭って林琳は気がつく。
——しまった、面を忘れた!
「ッチ!」
切り傷とは別の痺れに林琳が唸る。
残念ながら待ち伏せされていたのか用意周到、痺れ薬が仕込まれている。
「大丈夫かい?」
「うん。掠っただけ」
「点穴に刺さったら即死だろうね。……はぁ、どうして君はそんなに問題を引き寄せるのかなぁ」
「異議あり。お前のせいだろ?」
誰も神子の墓を暴こうなど考えつかない。
背中合わせに周囲を見渡すが埃が舞って視界が悪い。軽口を叩く割に二人の表情は引き攣っており、林琳は頼りない竹を握る。
——ガサガサッ
「クソが!」
「林琳!」
「こっちはいい! 早く陣を!」
どうにか竹で剣身を受け止めてはいるが、確実に軋んでいる。それもそのはず。林琳が握るのはただの竹だ。鋭く研がれた負荷に耐えられるわけがない。
足元も不安定なまま、林琳は反撃に出る。意図的に体勢を崩し、相手の重力を利用して引き寄せ、そのまま足を引っ掛ける。予想通り、相手は足場を失い、すっ転ぶ。しかし、彼は手をついて再び剣と貧弱な竹が交わる。
「黒典はどうした!?」
左の方で朱禍が声を荒げた。
「死ぬぞ!」
そんなことわかっている。
人殺しの道具に竹が勝るなんてこれっぽっちも思っていない。
「……悪く思わないでね」
男の外套を掴んで黒炎を纏えば一気に衣を伝い燃え上がる。悲鳴が響く中、林琳は男の剣を奪い取ると黒炎を宥めて、一気に切り裂く。木で作られた面が割れて地面へと落下した。
目元に光る不気味な三つの切り傷。
青白く輝く光に林琳は目を見開いた。
「お前は誰?」
「……」
「どこの手先?」
「……」
「どうしてこの場所を知っているの?」
「……」
「"それ"はなに?」
何一つ答えない男に苛立ちが募る。
灰になった外套では身も隠せないだろう。
林琳が切先を喉元に突きつけて男の顔を上げさせれば、その眼は林琳を捉える。
「我が神は蘇る」
「なにを……」
勢いよく男は血を吹き出し倒れ込んだ。
「……!?」
毒だ。
口の中に毒を仕込んでいたのだ。
瞬く間に広がる血の海は徐々に地面へと吸い込まれていく。亡骸は次第に灰になり忽然と姿を攫ってしまった。
指で掬ってみれば灰と言うよりも砂のような質感で、人の面影は無に消える。
「戯言か……」
神が蘇る?
男の残した砂を朱禍も訝しげに触れた。
「……嫌な術だ」
「目元に三本の光る傷があった。こんな感じの」
林琳は砂の上に三つの傷を描いて朱禍に確認させた。
「青白い光だね」
「知ってるの?」
「……一昔前の拷問でよく使われていたんだよ。呪いとは違うけど、二度と逃げられなくするための証さ。特に……夢天理の好む術だ」
「お前に送られた刺客か」
「いや……狙いは主の所有物だろう」
朱禍の視線の先にある砂山の部分に手を突っ込むと、大きな水晶が手に入った。
「これ? どこにも力は感じられないけど」
「主の所有物で間違いない。君の持つ怪傀神書と共鳴しているからね」
言われてみれば水晶に近づいてから怪傀神書が小刻みに揺れているような気がする。
「神子の墓を荒らす理由が見当たらないね。この水晶を探していたんだろう」
夢天理が主の所有物に拘ることを考えれば不思議と違和感は浮かばない。
「ふーん……」
林琳は開けっぱなしにされた棺の中へ水晶を元に戻そうとした。
ゆっくりと近づいて棺を覗き込む。
干乾びた肉体。
髪の抜けた頭。
眼球のある場所にはぽっかりと空いている——。
「変死体だ……!」
「なんだって?」
白骨化した肉体は辛うじて原型を留めていたが、それは自然な腐敗の姿ではなく、明らかに人の手が加えられたものであった。
林琳は遺体が纏う衣にひどく見覚えがあった。
「あの時視た神子と同じだ!」
世継ぎに胸を貫かれた神子。
穴の間の位置も同じで間違いない。
「……見ろ。術式の跡が残っている。嫌な予感ほど当たると言うが……まさか仕人の仕業だとは……あぁ、また面倒なことになるぞ。君たち片燕が疑われているのに、仕人の仕業と確定でもされてみろ! 女帝でさえ庇えきれない……!」
苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せて朱禍は拳を握った。
「ただでさえ夢天理と君たちは犬猿の仲だ」
責任を押し付ける標的にはうってつけの存在だろう。
「私はあの組織の汚さをよく理解している。獅宇にも用心するように伝えてはあるけれど……」
「うだうだ話が長い。そんなの簡単なことでしょ」
何が難しいと言うのだ。
「夢天理よりも早く犯人を見つけて全部吐かせればいい」
「簡単だって? 誰を敵に回すかわかっているのか? 今や夢天理の管轄に入ったのは力無き宗派だけじゃない。大国でさえも言うがままだ! 分が悪すぎる……!」
普段は慎重に行動する林琳だが時に力技に頼るのが育ちの悪さを思い出させる。否、育ちは良いが、生まれが悪い。野犬の方が賢いかもしれない。
「力でねじ伏せる気なら、素直に争えばいい」
「はぁ!? 戦争でも起こす気!?」
「なんでそうなるの……」
「君、女帝の性格を忘れたのかい? 自ら槍を持って戦に赴くような人間で、その上一振りで大地を割る最強の戦士だ。懐に置かれている片燕に厄災が降り掛かろうものなら木っ端微塵にするに決まってる……!」
林琳はそれならそれでいい気がすると心底思う。
出る幕なし。
しかし片燕の粗相を肩代わりした女帝が怒りに震え、真っ二つに割れた宮殿を思い出し林琳は口を噤んだ。
「証拠がなければ流石の夢天理も動かない。逆に先手を打ってこっちから手を出せばそれこそ終わりだ。それに、夢天理が犯人と決まったわけじゃない」
林琳は棺の中に水晶をそっと戻して朱禍を見る。
「火葬してやろう」
惨い亡骸に触れた先から黒炎が流れ出して穏やかに包み込む。腐敗臭さえ犠牲となり棺の中に残されたのは神子の衣のみ。
「君は誰のために彼女を弔うんだい?」
神を信じず、祈りを捧げることさえ嫌悪する仕人。
そのくせこうやって供養じみたことをするのだ。
朱禍はごく自然に林琳へと問いかけた。
「……さぁね」
意図を組んでか林琳の瞳がきらりと輝いて瞼に隠された。
死んでもなお世界に囚われたまま。
遺された想いだけが繰り返し地獄を彷徨い、終わりを望んで待っている。こちらの呼びかけに答える力さえ残っていないのだろう。
「朱禍は自分が死んだら輪廻に戻れると思う?」
「あぁ。そう信じてるよ」
「美しく清らかな魂でしか輪廻には戻ることができない。少しでも欠けていればそこで終わりだ。仕人は常に怪奇と対峙しているのに……本当に正常な魂だと信じてるの? 後遺症を負っていないと言い切れるの?」
「心力があるのはそのためだろう。この地に蔓延る怪奇を祓い、人々が怯えることなく穏やかに生を終える。それが私たち仕人の責務だ」
「責務ねぇ……」
そんなこと一度も考えたことがない林琳には朱禍の言っている意味が何一つピンと来なかった。
「君もれっきとした仕人だろう」
「俺は誰かのためにやってるんじゃない」
己のためだ。
己が、己であるための、残された手段だった。
「大切なものすら守れない人間にはそんな大役務まらないよ」
薄暗い霊廟の空気以上に凍えた声だった。
その帰り道。
「あなた、林琳ね?」
嗚呼、なんてことだ。余計なものに捕まった。
「誰でしょうか。人違いでは?」
「しらを切ったって無駄よ。あなたのその目、見覚えがあるもの!」
「俺はあなたのこと知りませんね。それでは」
くるり。
林琳は見事な回れ右を見せ、後ろでやいのやいのと騒ぐ高い声に表情は抜け落ちている。
「やっぱり可愛い顔をしているじゃない!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて覗き込む蘭は頬を赤らめて林琳に言った。
程よい肉のついた頬に大きな瞳。一般的に凛々しいと呼ばれる成人男性とはやや外れた顔立ちをまじまじと見つめる。
もし嫁ぐ相手がこの顔立ちなら喜びに舞い上がるだろう。明月も中々いい男を見つけたじゃない、と肩を叩く。
隣で笑いを押し殺した声が聞こえると林琳はそのまんまるな瞳を一直線に細めた。
「殺す」
「足を踏むな!」
くっきりと残った靴底の跡に鼻を鳴らす。
面識のない男に蘭が首を傾げた。
「あら、そちらのお方は……」
「麗しきお嬢様、初めまして。朱禍と申します」
和かな笑顔を浮かべた朱禍が丁寧な拱手を捧げると、林琳は鳥肌が立つのを感じた。馬糞を踏んだ時よりも不快だ。
「あ、あの……林琳様……!」
弱々しく上擦った声に林琳が視線を右に移すと、これまた顔を赤らめた明月がこちらを見ている。
「お、お、お元気でしたでしょうか!?」
言葉が勢いよく飛び出してきた。
響いたその声に通行人は何事だと立ち止まり明月はやってしまったと言わんばかりに挙動不審となり、しまいには後ろへと倒れてしまった。
幸いにも河川敷の茶屋で休憩をとっていたからか、足がもつれてた先にあった椅子にもたれかかるように落ち着き、朱禍と蘭、そして林琳は目を丸くして立ち竦んでいる。
「すみません……」
蘭だけが意味不明な笑みを浮かべて、朱禍も触発されたのか同じように笑い始めた。
「あとはお若い二人でどうぞ」
「そうそう。私たちはここで涼んでいるからね」
林琳と明月はそれぞれ背中をグイグイと押されて、かつて灯籠流しが行われた河川へと追い出されてしまう。
朱禍を見ると、これまた満面の笑みで手を振っている。
「なんなのあいつら。まさか朱禍のやつ、蘭に惚れたのか……?」
朱禍は中々面食いだ。男女問わず、顔のいい人間にはああやっていい顔をする。どうせ金の匂いを感じて近づいてやろうといった魂胆なのかもしれない。
「こ、困ります! お嬢さまはすでに婚約が……! 劉鳴国を発った後、千咲国の公主として嫁ぐのですから……!」
どうにかしてあの男を引き剥がさなければ。お嬢様の貞操は私が守る、なんて口にしていることも気が付いていないまま、めらめらと燃える闘志に明月は拳を固く握る。
「ねぇ」
「は、はい」
「二人は千咲国の出身なの?」
「はい。その通りです。お嬢様は千咲国の公主でございます」
明月は鋭い眼光を朱禍に向けたまま離さず、林琳は楽しげに笑う蘭を見つめる。
恐らく蘭は母親を追ってきたのだろう。
即位式に呼ばれたとするなら、出国した時に必ず護衛をつけている。しかし蘭は明月だけだ。恐らく何か別の事情で劉鳴国に訪れ、即位式への参加は突然決まったのかもしれない。
そう考えれば蘭が妙に劉鳴国へと拘る辻褄が合った。
ここにきて足りなかった欠片が埋まっていく。
一人林琳が考え込んでいれば「あ! 忘れてた……あの……これ」と先ほどと打って変わって情けない声が届く。
「お嬢様を守って頂きありがとうございました」
手渡された水色の風呂敷と直角に下がる頭を呆然とした様子で見つめる。
「仁様から聞きました。私たちが見つけるまでずっと一緒にいてくれたと……なんとお礼を言ったらいいか……」
風呂敷一つでは足りないぐらいだと明月は言う。
「じゃあ俺の質問に答えて欲しい」
「質問ですか? はい! お答えできるのでしたら!」
高冥城で開かれた即位式で千咲国王妃の噂を聞いた。身体を壊しているのだとか。はたまた、意識不明の重体だとか。際どい部分を林琳は嘘を交えて問いかけると、明月は視線を逸らして茶屋を見つめた。
「……口外することは禁じられているのですが、林琳様には御恩がございますので……どうぞ、内密におねがいします。千咲国の王妃……お嬢様の母君は劉鳴国にて療養をしておりました。しかし、ただの病ではございません。ある日突然、人が変わったように錯乱状態になり、時にはお嬢様にも手を上げるようになりました。そして譫言を繰り返し、劉鳴国に行かねばならないと……」
「王妃は劉鳴国と繋がりがあるの?」
「……私も詳しくは存じておりません」
「なぜ劉鳴国なんだ。生まれも育ちも千咲国でしょ?」
「いえ、千咲国の御生まれではないはずです。瞳の色が鮮やかな空色をしていらっしゃいましたので。稀に文が届くことはありましたが、差出人までは私も……」
死霊としての姿しか知らない林琳からしてみれば、それよりも胸元に刻まれた証が気になる。
奴隷の証はそうは簡単に消えない。焼印が刻まれるのだ。嫌でも一生をかけて背負わなければならない。
「私が話したことは」
「大丈夫、内密にする」
些細な情報でも大きな進展だ。死霊の正体がわかると徐々に糸が解けていく。
「わ、私からもお聞きしたいことが……」
明月は控えめに手を挙げる。
「林琳様には、その、意中の方が……い、いるのでしょうか……」
その問いを自ら発しながら、明月は心の奥底でぐるぐると渦巻く感情に苦しんでいた。林琳の美しさ、知性、そして周囲を惹きつける魅力は、まるで林琳を神格化するかのようだった。それを目の当たりにするたび、明月の心は重苦しい悲しみで締め付けられた。
林琳と出会ってから街中で無意識に姿を探すようになった。訳の分からない不気味なお面に微妙に猫背な姿勢。街中ですれ違えば誰よりも先に見つける自信があった。眠る時はその声を思い出し、主人の衣を見繕う時は、少し豪華な帯を自分用に買ってみたりして。苦手だったお化粧も時間をかけてゆっくり丁寧に。毎日が楽しく色鮮やかに花開いたのは恋をしたからだ。
しかし、同時に苦しくなった。天が許さない叶わぬ恋をしてしまった。
それでも気になって仕方がないのだ。今更理由なんてどうでも良くて、女心の問題だ。
おずおずと顔を上げて想い人を見つめれば、瞳は細く歪んで明月を捉える。
「誰かを好きになったことも、愛したことも、ない。これからもずっとね」
「……気になる人は……いないのですか?」
心が震えた。林琳が自分のことをどう思っているのか、知りたいという思いと、それが叶わない現実に対する恐れが交錯する。
「昔から好意を抱かれるのが嫌いなんだ」
その言葉は、明月の心に冷たい水をかけた。
嫌い。嫌い、なのか。
「人を好きになるなんて無駄なことだよ」
その言葉が耳に響き、心に重くのしかかる。ああ、聞かなければよかった。たった一言が自分の存在を否定するように感じられた。
——私は上手く笑えただろうか。
無理に笑顔を作ろうとしたその瞬間、明月は心の奥で何かが壊れていく音を聞いた。
◆
―—バタン、バタン。
扉の閉まる音がする。
林琳は最近止んでいたその音に吸い寄せられて部屋を訪れた。
「……消滅したんじゃないのかよ」
ガリガリと壁をひっかく鋭い爪。草臥れた風貌。
こうして近くで見てみると実に面白いものだと林琳は前のめりになりながら観察を始める。害をなすわけでもなく、一心不乱に壁を抉る光景は中々見ることは出来ないだろう。怪奇現象に人々が怯えるのは、目視できない奇想天外なモノがいるからである。
「ねぇ、あんた、千咲国の王妃でしょ。その身体になる前のこと覚えてる?」
勿論答えは返ってこない。
本来であれば死霊と会話を試みたい所だが、うるさいのが一人増えたことによって渋々諦めることにした。誠に遺憾である。
林琳は近くの椅子を手繰り寄せて杳として死霊を眺めた。
違和感。
何かが足りない。
胸元に暗華石がないことに気が付くのはすぐのことで、椅子から身を乗り出して眉をしかめる。あるはずのものが無くなっている。
あれだけ動き回っていたのだ。どこかに落としたのか。
死霊がぴたりと手を止めた。その瞬間、林琳の脳内に花火が咲いた。まるで心の奥深くに眠っていた記憶が一気に噴き出すかのようだった。林琳は死霊がなぜ自分にだけ寄ってくるのか、その答えをつかんだのだ。
興奮と期待に胸が高鳴り、嬉々として待ち構える。
死霊は林琳を認識したのか、身体の向きをゆっくりと変え、まるで導かれるようにこちらへと歩み寄ってくる。薄暗い空間の中、その存在は一層際立ち、冷たい空気が二人の間を包み込む。細長い指が目前に差し迫り——林琳は、その指を掴んだ。
真っ暗の中、散らばった木材を素手で掘り起こす。
完全に外観に騙された。扉を開いて目に入ったのは腐食した柱に崩れかけた壁で、手入れなどされていない無法地帯だ。どこを触っても天井は不気味な音を立てる。
「本当にここなの……?」
相変わらず死霊は何も言わない。
ぱらぱらと降ってくる木屑に不安が煽られた。万が一天井が崩れでもすればひとたまりもない。
急がなければ。
痛みきった木材から飛び出た棘が手に刺さって舌打ちするが、手を休めることはしなかった。無心で邪魔な瓦礫を退けていれば開け放たれたままの窓から差し込む鈍く月の光がきらりと地面で輝いた。二本の細い柱が重なり合ったその下に暗華石が落ちている。無理矢理腕を捩じ込んで拾い上げると、遠くから響く足音に素早く身を隠し、河川敷に向かった。
白くなった空を追いかけて日が登ろうとしている。
血だらけの手をどうにか洗い流して、ゆっくりと揺れる水面をぼうっと眺めていた。きらきらと反射する暗華石を水面に翳して、どうしたものかと片膝を抱えた。
どちらに転んでも林琳にはどうでも良いことなのに。
「嗚呼……めんどくさ」
劉鳴国に手を貸す必要があるのかよくよく考えれば理由はないし、手を貸す義理もない。朱禍が久河に対して勝手にしたこと。
面倒だ。何もかも。
棒きれの手を取って暗華石を乗せてみたが、握る素振りもなく、だらんと降ろされた腕によって石ころへと紛れ込んでしまう。溜息を吐いて拾ったのはこれで四度目だった。
「お前も早く消えなよ。俺にはどうしようもできないから」
死霊は答えない。
「可哀想だね。どこにも行けず、ただこの世に捕まっている哀れな魂だ」
死霊は答えない。
「死にきれないどうしようもない屑だ」
死霊は——答えない。
「……俺と同じだね」
人の寄り付かない河川敷に響く虫の声が、ゆっくりと意識を夢へと誘う。林琳はそのまま思考を停止させ、夢の中でさえ逃れられない闇に沈んでいく。
死霊は、林琳のそばを離れない。
「こんな場所で昼寝なんてして、風邪引くわよ」
「……眩しい」
「それもそうでしょうね。太陽は真上よ。見えないわけ?」
蘭が腰に手を当ててこちらを覗き込んでうまれた日陰にごろりと寝返りで逃げ込む。
「こら、起きなさいよ」
隣には例外なく明月がいて、さらにその隣には死霊がいる。当然だが蘭と明月には死霊は見えていないのだろう。
林琳は蘭と死霊を交互に見て深く考え込む。
「……千咲国ってどんな国なの?」
「あら、知っていたのね」
「即位式に出ただろ。それぐらい知ってる」
蘭は林琳の隣に座ると小石を一つ拾って川へと投げ込んだ。
「小さな国よ。それなりに豊かな国だったけど、最近は色々とあって……夢天理に縋らなきゃ、守れないぐらい。私が嫁ぐことで何か変わるのかも微妙なところよ」
「母親はどうした。止めないのか」
「その母親を探しにきたのよ。ねぇ、あなた何か知らない?」
俺の真後ろに立ってる死霊が多分お前の母親だ、なんてことは到底言うこともできず。林琳は蘭を真似て小石を一つ投げ捨てた。
「どんな人なんだ」
「そうね、あまり外に出たがらない人だったわ。その代わり手紙のやり取りは多くて、筆を取るのが楽しそうだったわね。だから右手の指にはたこがあって….」
寝転がったまま死霊を盗み見ると、一部だけ凹凸の激しい指があり、死霊は千咲国王妃であることが証明され、蘭の母親でもあると確信を得る。
林琳は思い出を語る蘭に小菊を重ねた。
——"やっと受け入れられた気がするよ"
ぽっかりと空いた穴を埋めるのは哀れみや同情ではないらしい。
林琳は相変わらずわからないままだ。
「……どいつもこいつも知りたがりだな」
「それって私に言ってるの?」
上機嫌に話していた蘭はむっとした表情で林琳の頬をつまんだ。
「知らない方がいいことだって沢山あるだろ」
「例えば?」
「……親しい人の死因とか。人間の醜い部分とか、色々」
「馬鹿ね。人間ってのは無知でいればいるほど、自分を見失うのよ。そんなことも知らないの」
隣に死霊と化した母親がいても同じことを言えるのか。
死霊になるぐらいだ。十中八九まともな死に方はしていないだろう。林琳でさえ悍ましい姿だと感じるのに、蘭が目にすれば発狂だけでは済まないに決まっている。良くて気絶、最悪——ああ、考えるのも憚れる。
「そんなのは甘えよ、甘え」
林琳は小石を放り投げようとしたが、蘭の言葉に手を止めた。
「それに、知らないでほしいって考えは逃げたいからよ。怖いのよ。真実を知られるのが」
蘭はわざと誇張して話した。
「あなたもそうよ。仁だけじゃなくて、私たちにも隠し事をしているわ」
それこそ、出会った時から。
「ずっと何か言いたそうにしていたもの。……いいえ、違うわね。言わないことを選んだけれど、それが正しいのか迷っているわ」
図星だった。
関係者かもしれないと疑いを持った時点で言うべきだったと朱禍は林琳に対して酷く落胆した。ずるずると引き伸ばしにした結果、増々ややこしくなった頃にはもう遅い。どう足掻いても最悪な結果しか訪れないのはよくわかっていたのに、林琳には修行を積むことよりも難しいことだった。
「嘘を吐いて自分の身を守るのは誰だってできる楽な生き方。それでも時には真実を誰かの為に話すことだって必要よ。戦も終わらない世の中で独りよがりで生きていくなんて無理」
一年後に戦が始まるかもしれない。
一月後に平和が壊れるかもしれない。
明日、死ぬかもしれない。
「後悔するのは誰?」
真実を隠した人か、はたまた、隠された人か。
振り返ってみると嘘ばかり吐いてきたものだ——己にも他人にも。それを生きるためだったと片付けてしまえば簡単なのだが、誰かを不幸にする嘘も数えきれないほど抱えている。自らの師を欺いたのもその一つ。いや、あれは嘘ではなく、騙したのだ。滅茶苦茶になるとわかっていてやった。"他の方法"を考えることさえしない、紛れもない確信犯だ。
「だからお母様を探すの。結果がどうであれ、後悔しないために」
「……わかった」
そこまで言うなら上手くいくか半々ではあるが試してみる価値はあるだろう。
林琳はやっと重い腰を上げた。
「付いてきて」
状況があまりつかめていない明月はあたふたと蘭と林琳を交互に見ている。
「……今は破門されてるから所属している宗派はないけど、昔はちゃんと仕人として任務を受けてた。それなりに腕は立つ自覚もある。これでいい?」
「今更自己紹介!? それに破門ってどういうことよ!? あなた、仁と同じ宗派じゃないの!?」
「五年前に破門されてる。今は目的の為に手を組んでるだけ」
開いた口が塞がらない。
どう見ても仁は林琳を意識しているのに、相手は利益の為だと言う。あまりにも仁が不憫で泣けてくる。
「破門って……相当の問題を起こさないと、そうはならないわよ」
「起こしたから破門されてるんでしょ。意味わかる?」
「ぶっとばすわよ」
もう首が絞まっているが気のせいなのだろうか。首巻で締めあげられている林琳に明月は止めにはいってくれたものの、より一層絞まっている。身長差で苦しくはないが、確実に圧迫感は感じているのだ。
「まぁいいわ」
「ぐえっ……」
「私は千咲国公主の蘭。宗派は翠雲。別名で毒姫とも呼ばれているわ」
「えっと、同じく宗派翠雲の明月と申します。あ、あまり戦闘は得意ではありません……!」
「ごほっ、ごほっ……だろうね。領域に入った時点で真っ先に死にそうだし」
「失礼ね! 明月は優秀よ!」
「はいはい……」
両手で耳をふさぐ林琳にもうそれなりに会っているのに今更自己紹介なんておかしい話だと蘭がくすりと笑った。つられた明月も控えめだが声を出して笑った。
「それで、どこに行くの?」
「……お前が見たいものを見に」
そうして連れて来られたのは小汚いぼろ小屋だ。鼠が数匹住み着いている小屋に一体何があるのか。
「あなた……想像以上に字が汚いわね」
「うるさいな。ちゃんと発動してるんだから口を出すなよ」
辛うじて読み取れる陣に林琳は足を踏み入れると、二人に問いかける。
「これを知ってるはずだよね」
「暗華石……!」
「……どこでそれを」
「俺はちょっと目の良い仕人ってこと」
「あなた、本当に何者なの」
蘭が手を伸ばして暗華石を手に入れようとするが林琳はひょい、と引っ込めてしまう。
「私のお母様のものよ! 返して!」
「だーかーら、これを鍵に試したいことがあるんだよ」
死霊は陰の気に強く、陽の気にめっぽう弱い。
この世には陽の気が多く流れており、死霊の気は押さえつけられている。死霊が地下奥深くを徘徊していたのも、陽の気から逃れるためだと林琳は考えた。そして、林琳の傍を離れないのは、陰の気が人よりも些か強いからだろう。死霊にとっては心地よい気の流れ。
「お前たちは入ってこないでね」
そう言うと林琳は二度手を鳴らす。
顔にかかった痛み切った髪を揺らして、一歩ずつ陣に近寄る死霊。
よし、死霊が反応した。
第一段階は成功だ。
次に心力を纏い陣を発動させる。
死霊が薄い陣の膜へ触れるとびりびりと細い稲妻を生んだ。林琳が一歩下がって陣の淵へと吸い込まれるように死霊は脚を踏み入れる。暗華石だけを陣の中へ落して林琳が陣から抜け出すと、石は光輝き、死霊の足元から浮き上がった。
息を吸う短い悲鳴。
「見たかったんでしょ、母親が」
「……ふざけているの」
こんなもの、母親のわけがない。
艶やかで柔らかった髪は見るも無残で、頬はこけて、瞳もなく穴があるだけ。
蘭は激怒した。思い付く限りの言葉で林琳を罵った。
だが対照的に淡々と林琳は真実を述べる。
「俺たちは変死体について調べている。この人を追っていたのは、変死体の謎に近づけると踏んだから。千咲国の人間なのはすぐに分かった。暗闇華は千咲国の宝玉で、この世に一つしかない石だからね」
でも誤算だった。
「ただの一般人が手に入れることは不可能。でも俺たちは暗華石よりも、なぜ彼女が変死体の姿をしているのか、その答えを見つける方を優先した。面白いよね、調べれば調べるほど変死体からは遠ざかって……きな臭い問題ばかり表に出てくる」
死霊を見つけたのだって偶然だ。
自我もなく陣の中に立ち続ける悍ましい姿から蘭は目をそらした。
望んでいたのは穏やかに微笑み、抱きしめてくれる母親だ。
しかしどうだ、目と鼻の先にいるのは——歩く屍だ。
「あなたが優秀な仕人だということは分かったわ。でも、お母様だという証拠はどこにあるのよ」
「元々暗華石は王妃が持っていた」
「誰かが盗んだのよ! この人は盗んだ石を持っていただけだわ!」
「手を見てみろ」
蘭は細長い指を横目で見る。
「一部骨が変形してる。筆を良く握る人間の手だ」
蘭の脳裏に過ぎる光景。
風通しの良い庭園で一人筆を走らせる母。頬を赤く染めて綴る手紙の中身はきっと手本のように整った字なのだろう。終始母は楽しそうだった。そして丁寧に紙を畳んで便箋に入れると祈りを込めて自ら遣いを走らせる。
「……蘭。知らないままの方が幸せなことだってある」
むやみやたらに知ろうとするな。
林琳が陣を底で踏み潰すと陣は消滅し暗華石だけが取り残された。
二人には死霊がゆっくりと顔を上げたことすら見えていないはずだ。
「後悔したか?」
「……あなたは、いつもこんなことを?」
それはどちらの意味だろうか。林琳は首をかしげる。
「……いいえ、なんでもないわ。もしかして、即位式の時に姿が見えなかったのは変死体を追っていたからなの?」
「いや、あれは……まあ、そんなところかな」
ぶつぶつと意味の分からない文句を零す林琳に蘭は少しづつ落ち着きを取り戻し始めたらしく、胸に手を当てて大きく深呼吸をした。
「……変死体ならうちでも埋葬したことがあるわ」
五年前から不気味に噂が流れ始めた初めの頃。
まだ千咲国の王妃が健在だった時の話しだ。
千咲国の周辺で変死体が見つかった。不気味に持ち込まれた死体を当時は怪奇に襲われた一般人だと考え仕来りに沿って埋葬した。しかし、同時期に千咲国以外でも奇妙な死体が見つかり始めた。他国が怯懦になる中で花狐当主が検死を行うべく手を上げると——。
「夢天理が名乗り出たの。お陰様で変死体は全部回収されちゃった」
蘭は肩を竦めて言う。
「どうして変死体を調べているの?」
「……興味本位」
「それはやめておいた方がいいかもしれません。千咲国だけではなく、他の国も手を引いています」
「仕人が変死体を妙に気にしないのはそれが理由か」
それならば納得がいく。
「ただ、どこだったかしら……夢天理の圧力を押し切って検死を始めた国があったわ」
あれだけの力をもつ夢天理に怯むことなく、検死を独断の判断で行なった国。
「お嬢様、"祇双国"です」
「ごほっ」
「……汚いわね」
"祇双国"と言えば、国王は冷徹極まりなく、斬首はお手の物で冷静沈着の貴公子とも呼ばれている。林琳も耳にしたことのある名前だ。
「もしかすると変死体の検死結果が保管されているかも知れないわ。行ってみたら?」
「お嬢様、僭越ながら……祇双国は非常に危ない国で御座います。祇双国は巨大なからくりで出来ており、入国にはそれ相応の危険性が伴うとされています。実態を把握できていないため、関わらないのが身のためです」
「あら、そうなの。明月は物知りね」
「……花狐当主がよく口にしていましたよ」
「お父様のお話は長いもの。聞き逃すことだってあるわよ」
蘭と明月が会話を重ねていると、開けっ放しになっている戸を叩く音がした。
片手に剣を携えた久河と朱禍だ。
朱禍が視線を下げる前に、とっさに林琳は雑に踏み潰した陣を今度は綺麗さっぱり跡形もなく揉み消した。
「物音がすると思って様子を見に来たら……こんなぼろ小屋で密会かい」
「落とし物を探しに来ただけだよ。もう見つかったし」
「そこの二人は友人か」
「いや全く」
「とことん最低な男ね!」
蘭は「腹の底を割って話した仲でしょう」と林琳の背中を力強く叩いた。
「初めまして。千咲国の蘭よ。こっちは侍女の明月。えっと、あなたは朱禍よね。そのお隣は……」
「九河だ」
蘭と明月は顔を見合わせると同時に首を傾けた。
「おかしいわね、聞き間違いかしら。劉鳴国にその名を持つ人は一人しかいないはずだわ」
「劉明国皇太子久河と申す」
「……ちょっと、冗談でしょ」
明月は即座に膝をつき、蘭も膝を折ろうとしたが九河が不要だと二人を立たせる。
「ねぇ、怪奇はどうなったの」
社交辞令の挨拶を済ませているのを尻目に肩を寄せて小声で話す。
「厄介な問題が発生中でね。仁を見かけなかったかい? 花月と天雪を領域の外に出してから連絡が取れないんだ」
「通心は?」
「繋がらないね。大規模な崩壊だったみたいで、別の場所に飛ばされたのかもしれない。君からも通心を試してもらえないかい?」
「……はぁ」
朱禍が試みて無理だったのに意味があるのか。林琳は胸の中で不満を溢し小屋の外で呼びかけてみる。
《おい、馬鹿。返事しろ》
いつもなら間を置かずに戻ってくるくせにうんともすんとも言わない。
「やっぱり駄目か……まだ領域の中にいるのかもしれないな」
「まぁ、通心は現世でしか繋がらないからね。それにそこまで深く考えなくても大丈夫だよ」
「心配じゃないのか?」
これっぽっちも。
林琳はそう言いながら、鞄の中をごそごそと探り始めた。その手がやがて一枚のお面を掴み取る。そのお面は、夜中に目撃すれば誰もが絶叫するような、不気味さを放っていた。
「こっちにいるよ。どこを彷徨ってるかまでは分からないけど」
「また変な物を作って……」
「変な物って言わないでよ。れっきとした道具だよ」
林琳が持っているお面。それは劉鳴国に訪れて間もない頃に作った三枚のうちの一つだ。
無理矢理仁に付けさせたのには正当な理由があったのだ。
「領域にいればお面は黒く染まる。今は白いからこっちにいるってこと。それに、便利なんだよ。死霊だって認知できるようになったし」
だから余計な心配は無用だ。
因みに地下で九河と遭遇した時も持っていたらしい。なぜ貸さなかったのかと尋ねれば、唯一大きな問題点があるからだと言う。
「心力がないと無理。普段視てないものを視るんだから、精神崩壊するに決まってるでしょ」
林琳の無関心な態度に、朱禍の口元は微かに震えている。いずれにせよ、通心は通じないのだから、宿に戻って待つしかないと林琳は考え、頭の後ろで手を組んで欠伸をした。半日野宿したせいで、身体の節々が痛む。
小屋の外から中を覗くと、蘭の目には涙が浮かんでいるのが見えた。隣に立つ明月は青ざめ、様子が明らかにおかしい。
「おい、皇太子様が変なこと言ったんじゃないよね」
「……さぁ?」
「最悪!」
せっかく物事がうまく収まりそうだったのに、馬鹿野郎、出過ぎた真似をしやがって、林琳は一気に感情が高まり、くらりと眩暈がした。
「ひとごろし」
その一言が久河の心を突き刺す。
林琳が「ほらみろ馬鹿」と呟くとすかさず朱禍が「修羅場だ。黙ってくれ」と裾を引いて、再び小屋の外へと引きずり出す。火に油を注ぐな。
「せめて、宝玉だけでも……」
「二度と私の前に現れないで。千咲国にも関わらないで……!」
林琳の足元には、振り払われて叩きつけられた暗華石が鈍く光っていた。明月を一瞥したが、視線は合わない。悲しげに伏せた瞳が久河を睨み、蘭の肩を掴む手は小刻みに震えている。暗華石に対する思いは、明らかに特別なものであるはずなのに。
「……蘭」
「騙したのね」
いや、騙してないし、これに関しては完全な巻き込み事故である。逆に円満にことを終わらせようとしていたのに。
無惨にも置物と化した暗華石をそっと拾い上げると蘭に手渡そうとしたが、それすらも拒まれて宙を舞う。
——ぽちゃん
あ、っと林琳が手を伸ばしたが暗華石は大きく弧を描いて浅い川へと落ちてしまった。
蘭は暗華石に目もくれず明月に支えられながら振り返ることもなく去る。それは明らかな拒絶だった。
「一応聞いとくけど、何を言ったの?」
「……昨晩、神子の自室から千咲国王妃との手紙のやり取りが見つかった。そこに記されていたことを」
「神子と王妃が? 繋がりがあったのか」
「千咲国王妃は幼少期を劉鳴国で過ごしている。先代の神子とは同じ場所で育ったらしい。……想像を絶する劣悪な環境だ」
結果最悪な部分だけが蘭の耳に入ってしまったということか。
「それ以上は聞きたくない。これ以上国家機密に値することを俺に聞かせないで」
林琳は両手で耳をふさいだ。
「でも仕方がないよね」
朱禍の咎める声に聞こえないふりをして林琳はお構いなしに続け、「話して受け入れてもらえると思ったなら大間違いだよ。蘭は失った者で、あなたは得た者。……まぁ、刺されなかっただけ良かったんじゃない?」と現実を受け入れられない久河にとどめを刺す。
「千咲国公主としての立場を守ったんでしょ」
この中にいる誰よりも蘭の強さを実感している。
母を求めて侍女一人と数少ない使用人を連れて遥々やってきた。結婚を控えたその身一つで何ができるかを模索しては、泣き言も漏らさずに即位式に臨む不屈の精神力。
蘭なら乗り越えることができるだろう。
「私は一日でも早く神子を見つけ出し、必ず真相を暴く」
「もう俺たちは用なしだね」
林琳はやっと楽になれると背伸びをする。
「元々俺たちは朱禍を探しに来ただけだし。特に劉鳴国は夢天理と親密な国だ。長居する意味もない」
次はどこを目指そうか。
手元に残ってしまった怪傀神書。
夢天理が血眼になってまで探していた主の所有物を易々と渡すわけにもいかず、林琳は目頭を揉む。
山雫国は論外だ。無理無理。
「私は引き続き手を貸すよ。今みたいに近くで……とはいかないけど。神子の真相も気になるし、乗りかかった船だ。それに夢天理が絡んでいるなら、私がいた方が有利だろう」
お茶目に片目を閉じて手を差し出す朱禍に久河は安堵した様子で握手を交わす。
「すまない。私もできる限り神子については調べるが、手の届かない範囲には遣いを出す。その時はよろしく頼む。……お主たちも神子の情報が入った際には連絡をくれるか。こちらも変死体に関する情報が手に入れば共有する」
「わかった」
話がひと段落している横で、林琳だけが頭を悩ませていた。
林琳にとっての問題はまだまだ山積みである。
第一に怪傀神書のことを仁に告げていない。
ここで一度仁と今後の話しをするべきなのかもしれないのかもしれないが、きっと付いてくると言って聞かないだろう。あの性格だ。凡その予想は付く。
林琳としては変死体の謎を解き、仁の魂の修復を図る。それだけのことだったのに、厄介すぎる怪傀神書が舞い込んできた。なぜこうも順調に進まないのか。無性に腹が立つ。
「まーたそんな険しい顔して。ほら、さっさと仁を迎えに行くよ。天雪と花月も一緒だろうから、これからのことを話そう」
「……いいよね、お前たちは前向きで」
「前しか向けないからだよ」
林琳は目を見開く。
それは朱禍が初めて林琳に見せた表情だった。
「君はいつまで過去に縋るんだろうね」
皆が前を向いて歩いている中で林琳だけが取り残されていく。その先に待つのは途方もない孤独だけだ。
「君は無関心でいられないのに、無関心であろうとする。それがどれだけ愚かなことなのか理解していない」
朱禍は感情の抜けた抑揚のない言葉を紡いだ。
「仁が血反吐を吐きながら片燕を守り続けたことも、獅宇が心を蝕まれてしまったことも……君は….たかが五年と言い捨ててしまうのか」
それは、それは——あまりにも無慈悲だ。
「……話を蒸し返さないで。終わったことでしょ。今はお互いに目的のために手を組む、それじゃ駄目なの?」
「駄目だ。私は許さない。曖昧な縁こそ最も危険な繋がりだからね」
朱禍は林琳を逃す気はない。まさしく、ひと段落したところでついに堪忍袋の緒が切れたというところだ。
「曖昧でいい。俺を深く知る必要なんてないんだよ」
「そうだね、君はわかっている。心に住み着いた暗闇を、君が自ら抱え込み、隠していることを……無かったことにしようとしているのは、他でもない君自身だ」
滅茶苦茶にして壊してしまえば楽になれるのに、忘れてしまおうと足掻くのだ。
本当は知ることが怖かったのだ。
暖かいものが増えるたびに失う恐怖に苛まれていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ、何度だって数えた。溢れたものがないか確かめ続けた。日に日に増えていくと世界は色を変えて見え始め、泥水を啜った過去が酷く滑稽に思えるのだ。今までの悲しみも、憎しみも、叫びたかった苦しみも全部、無駄だと突きつけられた。
外の景色を知る機会なんていつでもあった。
それでも変化していく世界に踏み出す勇気はなく、誰かが呼ぶのを待っている。臆病なのは自分が一番わかっているのだ。
仁は無理に教えようとはせず、林琳をいつだって優先した。くだらない話をするくせに肝心なことは何一つ語らなかったのは、臆病な本質を見抜いていたからだろう。
「世界は変わる。善くも悪くも、私達はその渦に囚われて生きているんだよ。だからこそ世界が憎いなら……君自身が変わるべきだ」
誰しもが孤独を抱えている。
それでも世界は立ち止まってはくれないのだ。
穏やかな時はすぐに過ぎ去るのに、消し去りたい過去は心を蝕み足を掴む。
「……変わったところで」
「またそうやって逃げ道を作ろうとする」
「……」
償いきれない罪を犯してしまった。
後悔はしていないけれど、いつか仁が知った時どの面を下げて向き合えばいいのだろう。
嘘で塗り固めて欺き続けていくのだろうか。
軽蔑されるのは構わない。罵られることにも慣れている。貶されることも、無下にされることも。痛みだってとうの昔に捨ててきた。
地獄で立ち上がることなんて当たり前のことだっただろう。
「道に迷うくらいなら、独りでよかった」
「……そうだね。でも、君は知ってしまった」
手を差し伸べてくれる人がいて、気にかけてくれる人がいて、寄り添ってくれる人がいる。人の温かさに触れてしまったのだ。心底嫌いだったはずの人間に。
「君はなぜ仁の手を取ったんだい?」
ずっと嫌いでいたかったのに。
「なぜ、この世界に戻ってきたんだい?」
あの子が向日葵を咲かせて笑うから。
「どうして彼を遠ざけないんだい?」
過去に縋り続けた手を迷わず引いて前に進むから。
林琳はついに目を逸らし続けた過ちに気が付いてしまった。
「……林琳。君は無関心ではいられない、中々のお人好しなんだ」
怪奇に引き寄せられたのは嘘ではない。紛れもない真実だ。しかし仁の魂に傷が入っていることを感じた時、得体の知れない恐怖が襲い、足元が消えてしまうような感覚にぞっとした。
脅かされるとはこの感覚を指し示すのだと知った。
現世とは違う領域だ。何度も出入りをすれば魂に負荷がかかるのはおかしくなかった。懲りずに入り込む仁はいつか壊れてしまうだろう。目の前で砕け散り二度と輪廻には戻れなくなる可能性だってある。もしかしたら、現世に戻った途端に粉々に飛び散るかもしれない。
たかが五年だと切り捨てた愚かさを知る。
「うるさい……」
俯いたまま林琳は拳を握り締めた。
「それに! 君は驚くぐらい獅宇とそっくりだよ」
「……師匠?」
「獅宇はとんでもないお人好しだろう?」
「あの人はお人好しの先の領域だよ……だからお前みたいな変なやつを引っ掛けてくるんだ」
「酷いなぁ。君だって同じじゃないか!」
敗戦国の孤児だった林琳を拾い、暴走していた制御不能の心力を押さえ込む術を教え、弟子として受け入れた。それなのに林琳は寝首を掻こうとしたこともある。
戦場に立っていた名残りだろうか。瞬きもせずに身構えていたのだ。闇市で売り飛ばされる子供を見てきた。泣いても叫んでも助けは得られない。意思を持つことを許されない奴隷になるぐらいなら、死んだほうがマシだ。毎日乱暴に髪を掴まれ、投げ飛ばされ、目を開ければ血の海に沈んでいた。
無駄に生き延びていたが、どうせいつか殺される運命だ。生かすだけ生かして酷い死を迎えるのだ。戦に身を投じた者は、呆気なく死ぬ運命だと幼いながらに理解していた。まともに生きることも許されず、死に方も選べない。自業自得だ。与えられるのは、誰かを踏み台にして明日を生きる道だけだったのだから。
林琳は常に死と隣り合わせの世界で我武者羅に息をしていた。
だからこそ対価を必要としない平穏な日常は林琳を戸惑わせた。
この世に神なんていない。
存在しているのは血生臭い私利私欲で成り立つ人の争いだ。世界はそうやって作り上げられてきた。
師に拾われてから精神状態が安定せず試すような行為を頻繁にするようになった。ろくに人と関わって来なかった林琳にとって大きな変化だろう。
うっかり黒炎で食料を燃やしたら笑われ、すれ違った貴族の財布をくすねたら頭を叩かれ、やっと手に入れた古書をぼろぼろにしたら困ったように頭を撫でられ、転がっていた死体を蹴飛ばしたら逆に投げ飛ばされた。賊に村が襲われていた時、追い返したら褒められたが、無茶をするなと頬を引っ張られた。
そんな行為は一年が経つと次第に落ち着き、手を繋ぐことすら当たり前になった。この世に生まれて初めて当たり前を手に入れたのだ。擦り切れそうな心と身体を大切に抱きしめ、守ってくれたのはいつだって偉大な師だった。
暴走する心力に蝕まれる身体を優しく抱いて、身を守る術を教え、繋がりを与えて、決して離れないと約束をした。
「……やっぱり師匠はおかしい」
「うん。君は素晴らしい恩師を見つけたね」
朱禍はすっかり意気消沈してしまった林琳の頭を乱暴に撫でる。
「思い出してごらんよ。君こそ仁の手を離さなかったじゃないか」
記憶の抜けた仁の手を引いたのは紛れもなく林琳だった。ふらふらと歩く仁が離れていかないように手を繋いだ。守らなければ死んでしまう。初めて手に入れた暖かい命は林琳にとって眩しい未来だったのだ。冷たくなった命とは違う、明日を生きる小さくか弱い光。雪の如く真っ白ないのち。
「与えてもらったものを……誰かに与えたいと思うのは罪だろうか」
朱禍は人が賑わう夜市を眺めて林琳に問う。
「人々はそうやって紡いできたのだと私は思うよ」
人は決して一人では生きてはいけない。
林琳が反吐が出ると吐き捨てた朱禍の教えは誰かから紡がれたものだったのかもしれない。
綺麗なモノが壊れるのは誰だって怖いはずだ。
手に入れた暖かい場所が壊れるのが恐ろしくてたまらない。結局全てを壊したのは自分自身だったのだけれど、誰かに壊されるぐらいならそれで良かった。
「獅宇もそうだったけどね。君はもっと自分自身の心に向き合うべきだ」
とうの昔に麻痺した感覚は二度と戻らないと思っていた。
「向き合う……?」
人に愛されたこともない、人を愛したこともない、慈しんだこともない。他者から与えられる感情は明確な殺意。戦場に身を投じた結果、残されたのは傷跡だけだった。そして守ってくれたのは己の心力だけだ。
でも、それは遠い昔の話。
「怖ければ、怖いと言えばいい。苦しいなら助けを呼べばいい。その為に存在するのが片燕だ。獅宇は君のために、君たちのために、そして獅宇自身のために片燕を作ったのだから」
朱禍の言葉に林琳は赤くなった目を見開く。
今まで考えたこともなかった。
片燕の始まりは宗主と林琳、それと仁の三人だったのは覚えている。しかし作られた理由を聞いたことはない。慌ただしい日常が過ぎて、人が増えていったのだから、組織というものはそういうものだと思っていた。聞く暇も無く気がつけば宗派として存在が確立されていたのだ。
「まぁ、知らなくても無理はないよ。獅宇も肝心なところで無口になるから」
朱禍は呆けている林琳を見続けた。
「多分仁は聞いてると思うよ。獅宇が酔った勢いで口を開いたから……いや、待てよ。そういえば天雪と花月も知ってたような」
歯切れの悪い中途半端な答えを誑かしてわざとらしく腕を組んで首を傾げている。
どうやら林琳だけが片燕の根源を把握せずに一番弟子として悠々過ごしていたらしい。
拠点を空けることが多かったから、なんてことは理由にはならないだろう。ただの言い訳だ。
「……ごめん」
途端に罰が悪くなってつい過ちを認める言葉を口走る。
そうすると朱禍は意地の悪い笑みを浮かべて、一人の男を手招いた。
「それは何に対しての謝罪だろうね」
木々を揺らして隠れていた国鳥が飛び去る。
嗚呼、畜生が。
騙されたと林琳が気が付くのは早かった。
◆
「師兄」
燕の描かれた衣は、かつて林琳も身に纏っていた仲間の証だ。林琳は翼を広げて空へと飛び立つ燕の群れが好きだった。記憶のない仁が唯一追いかけた弱き鳥だ。
空に浮かぶ白く濁った三日月が滲んでいるのは気のせいではない。
「俺たちが嫌いか?」
「……嫌いじゃ、ない」
「そうだよな。知ってる」
記憶をなくした仁にとっては林琳と宗主だけが世界だった。眠りにつくまで手を握って、熱を出せばそばで見守ってくれる。夜が怖くて泣きつけば振り払わずにされるがまま。暗闇に怯えた日は炎を出してあやしてくれた。
ずっと一緒にいたくせに触れられない距離があり、いつか話を聞かせてくれると待ち続けて——臆病な大人になってしまったことを悔やんでいる。それが悲しい、仁は林琳の頬に触れた。
「……俺は、お前にわかって欲しいとは思ってない」
口にすることすら憚る過去も沢山ある。特に仁には暴かれたくないことをしてきた。何よりも身体を巡る数多の黒く醜い心を理解されたくはないのだ。どうかこの先も知らぬままでいてくれれば、どす黒い心も救われる気がした。綺麗なものだけを大切に抱えていてほしいと望むのは想像以上に難しいのだろうか。
おずおずと林琳は顔を上げると仁と視線がぶつかる。
きゅう、っと心臓が痛くなって林琳は胸元を握りしめた。
治ると思っていた痛みは鼓動と一緒に加速していく。
五年の月日は長すぎたのだ。すっかり痛みの抑え方も忘れてしまった。
触れようともしなかった時の流れによって生まれた曖昧な輪郭。宙ぶらりんになっていた時の差が少しずつ縮まる。
目を背けた時間を知らなければならない。
朱禍の言葉が脳裏を駆け抜け突き刺さる。
——"「人生において無駄なことなんてない」"
嗚呼、そうだ。その通りだ。朱禍は正しい。
訪れる全ての出来事に意味はある。
だからこそ見たくないものを余計なものと決めつけて捨てた。それを拾い集めるのは仁だとどこかで期待して、嫌いなものを押し付けた。全てが自分のためだった。
林琳は頬に触れた手を包み込むようにそっと握りしめた。
「……あんな餓鬼だったのに」
一回り大きな手。二度と追いつけない背。
「馬鹿だなぁ!」
「う、わっ、……な、なに!?」
勢いよく抱きつかれた林琳は、仁の力に圧倒されて後ろに倒れそうになる。頬に触れたのは柔らかな漆黒の髪。頭を強く打たずに済んだのは、仁の手がしっかりと支えてくれたおかげだ。
「もう師兄の背を追い抜いた!」
仁は林琳を抱き上げるとその場でくるくると踊り子のように回った。どこからか飛んできた紙吹雪が二人の頭上を舞っている。
喜劇の舞台に上がったようだと林琳は胸元にある仁の頭にそっと縋った。
散りかけた命だったのは昔々の話。
「……そうだね」
束の間の幻だって構わない。
全てが片付く時まで少しばかりこの世界で生きていくことを許して欲しい。一度捨てた世界で足掻けるならたった一年だって寧ろ十分だ。やるべきことを成し遂げる。
初めから逃げ道はどこにもなかったのかもしれない。
独りで生きていく力があっても、独りで生きていくことはできないのだと、初めて知った。無責任に生きてきた代償は現実を捉えて吐き気を覚えるまで心を抉り、声を上げて泣けばいいと背中を押す。
脳裏に焼きついた地獄に心が擦り減った夜は人々の怒号に紛れて涙を流した。声を上げて咽び泣き、この世を呪った。遥か昔に涙は枯れたはずだったのに。
嗚呼、このままでは愚図の泣き虫に戻ってしまう。
ゆっくりと仁の頭を撫でると一層抱きしめる力が強くなり、耳元を掠める啜り泣きに戸惑う。
まるで己の代わりに涙を流しているようだと林琳は指先で暖かな雫を拭う。
「どこにもいくな」
仁の消え入る声を上書きするかのように遠くから天雪と花月が泣きながら走ってくる。何を言っているかさっぱり聞き取れないが二人ともぐしゃぐしゃに泣いていた。ぼろぼろになった衣に付着するのは怪奇と争った痕跡だ。
あの子たちも、もはや子供ではないらしい。背丈が伸びた天雪と花月を、林琳は寂しそうに見つめた。怪奇に怯えていた姿も思い出すには時間を要するだろう。
「大きくなったなぁ……」
感嘆の声が漏れ、仁がそれを受け取る。
「今度は俺たちが林琳を守るよ」
きつく抱きしめられた林琳は仁の肩に顔を埋めて小さく笑った。
さぁ、空白を埋めるために何から話そうか。
◆
林琳はうとうとと船を漕ぎながら大門の前に立っていた。隣には死霊が当たり前のようにいるが、慣れたものだ。
ちなみに朝ではない。日が登り始める前の夜明けのほうが正しく人は疎だ。
「……あなた」
「やっと来た。足が棒になるかと思ったよ」
「何よ、見送りに来るような性格じゃないのに……」
「ほら、忘れ物」
「え?」
林琳が蘭へ投げて寄越したのは片手に収まるであろう小包。
蘭の腕の中で小包は何度か跳ねて収まり、訝しげな目で小包を開けて瞠目する。
暗華石を守っていた石座は砕けたはずなのに、そこには朝日を反射する細く繊細な銀が花を咲かせていた。
「……無くしたと思っていたわ」
二度と戻らないと思っていた。
寧ろなくなったことで、全てが夢だったのだと片付けて、水に流してしまえると考えていた。頭の中でぐるぐるとかき混ざる憎悪の矛先を、劉鳴国へと向けることができたらどれぐらい楽だったのだろう。いっそのこと憎しみに溺れて手を汚す毒姫だと認めてやればよかったのに。一思いに楽になれたかもしれない。
蘭は涙を流すこともできないまま暗華石を強く抱きしめ、痛みに耐えている。林琳はその様子をただ見ていた。
「大事なものなんでしょ。手放したら駄目だよ」
気がつく前にいつか壊れてしまうのだから。
「……皇太子も悪気があったわけじゃない」
寧ろ林琳と仁が巻き込んだようなものだった。
久河が暴こうとしたのは神子の行方と真実で、千咲国王妃の最期ではなかった。
「それでも! お母様を殺したのは……劉鳴国だわ! 知らないですって? 違うわ、都合の悪いことから目を背けただけよ! 今更何よ! お母様は……っ、二度と帰ってこないのよ!」
泣いても、喚いても、温かい日々は戻らない。抱き上げてくれた腕の温もりを思い出しても、叶わぬ空想に虚しくなるだけだった。
悲しみを超えた憎しみを押さえ込むなんて不可能だ。
「蘭、俺は皇太子を許せとは言わない。許すべきだとも思わない」
蘭の言葉は何も間違えていないのだ。
公主に皇太子。二人は常に生と死が隣あった世界にいる。だから蘭は怒りに震えている。その怒りは母の死だけでは無い。一国の主としてのしかかる重荷を他人に任せて、逃げている無責任な皇太子に対しての怒り。何も成し遂げることができない愚かさ。哀れみ。嫉み。
「失ったものは戻らない」
「この国がなければっ……神子なんていなければお母様は……!」
「そうだよ。劉鳴国がなければ王妃は死ななかった。でも……神子が王妃を千咲国に逃したからお前は産まれたんだ」
一番初めに命を救われたのは王妃だ。
そして心の痛みを癒しながら宿った命。蘭がこの世に生を受けたのは神子が王妃を逃したからだ。
「だから何よ! 恩を感じろと言うの!? お母様が死ぬ理由にはならないわ!」
幸せそうに笑う街娘も、穏やかな余生を過ごす老夫婦も。王妃と蘭が辿る道だったかもしれない。奪い取られてしまった悔しさが消えないと蘭は嘆き歌う。
「別に良いんだよ。誰を憎んでも、蘭の自由だ」
身分を縛られても、心は縛られてはならない。
暗華石を握りしめる手は白く震えている。
「でも、お前はそんな女じゃないでしょ」
蹲ったままの姿なんてらしくない。
「俺が知ってるお前は負けん気が強くて、馬鹿みたいに千咲国が大好きで……侍女を二度も泣かせたりしない」
あの夜、蘭は語った。
父の偉大さ。母の寛容さ。国民の強い意志。平和を願う優しさに侍女の幸せを願う心。国を背負う人間が蘭のように気高い魂を持っていれば愚かな争いは火種で済んだのかもしれない。
林琳は過去の記憶に浮かぶ顔を思い出してはそっと笑う。
一国の御姫様とは思い難い酔い方だった。非常に酒癖が悪い。
「……あなた、そうやって笑うのね」
初めて見たわ、と呟く蘭の涙は大きな一粒をこぼして止まっていた。驚きのあまり涙さえも引っ込んでしまったようだ。
明月が林琳のことを触れてはならない凛として咲く花に例えてみせたことを思い出す。
「なに、俺が笑ったらおかしい?」
「……いいえ」
さながら風に吹かれて飛んでいく花のようだ。
ふわり、ふわり——揺れる。
穏やかで密やかな笑みは母の香りとよく似ていた。
様々な植物に囲まれた狭い幸せな箱庭。
「……庭園に見覚えがあると言ったでしょう。あの造りは千咲国の職人が得意とするものよ」
「神子が王妃の話しを聞いて真似たんだろう」
神子に隠された謎は多くある。
なぜ王妃が錯乱状態に陥ったのか。
それを知るのは行方不明になっている神子だけだ。
劉鳴国の冷宮に閉じ込められていたことは紛れもない事実。夢天理の仕業だとしても、前国王だけではなく久河にも責任はのしかかるだろう。
「私たちは先を急ぐ。……お礼ができなくてごめんなさい。いつかこの借りは返すわ」
母の死に隠された真実を告げるのも蘭次第だ。
この先、蘭と明月——千咲国がどのような立場に立つのかはわからない。結婚を控えた身で何ができるのだろう。言わなくても良いことを伝えてしまったのかもしれないと林琳は視線を下げた。
「……あまり、深入りはしないで。劉鳴国にも、夢天理にも」
きな臭く嫌な予感がするのは林琳も同じだった。
「あなた達もね」
「……お嬢様、出発のお時間です」
目尻に涙を浮かべた明月に林琳は軽く手を振った。明月が千咲国の出身だと話さなけばここまで片は付かなかっただろう。
上手くいったとは言い難いが、夢天理が関与していることは確実となりつつある。
「訳ありなんでしょう? 私にできることがあれば遠慮せず連絡して頂戴」
「うん」
「……それと」
耳元に残された短い言葉に驚き、固まる。
「お、おまえっ……余計なお世話! さっさと行け!」
蘭は悪戯が成功した子供らしく笑い、徐々に熱を持つ林琳の頬を指先で突いた。
「またね!」
林琳は適当に翡翠の耳飾りを鞄に押し込んで、さっさと行けとそっぽを向いておきながらも二人が旅立つのを最後まで見送った。
しつこかった死霊は再び姿を消した。
どこに行ったのかはわからないが、いなくなったのならそれでいい、指先を擦り合わせて小さくくしゃみをする。
その可愛らしいくしゃみを陰で聞く者が二人。
「獅宇そっくりだ」
「師兄らしいだろ」
どちらも否定せず、肯定もしない。
林琳は両者を知る者として、第三者としてそこに立っている。
「虚しくなるぐらい優しいんだよ、俺の師兄は。絶望の淵に立った人間には情けをかける。ずっと不器用なだけだって思ってたけど……」
心と思考がちぐはぐすぎるのだと漸く理解した。
「君は林琳の生い立ちを知っているかい?」
「俺を拾う前の話だろ」
「そうだよ。そして獅宇が林琳を拾う前の話だ」
「……朱禍は師匠から聞いたのか」
「いいや。獅宇は頑なに話さないから私も諦めたよ」
二人だけの秘密。開けてはならない箱だと言わんばかりに宗主は徹底的に話題を避けてきた。
そして——悲劇が起こる。
「何故私と林琳が争ったのか知りたいだろう」
朱禍は鮮明に思い出した。真っ黒な炎が足元で揺れ、夕焼けの瞳を黒く染めたあの日を。
「私も君も振り回されてばかりだ。少しぐらい秘密を共有したっていいと思わないかい」
仁が身構える中で「私もまだ若かった」と付け足す。
「あの子はね、私が害をなすと思ったらしい」
師匠に、師弟に、片燕に。
誰にも打ち明けずに未熟な身体一つで抱えられる全てを守ろうとしていた。
物心ついた時から無知でいればいいと林琳は語った。そうすれば何も見ずに済むのだと——耳障りな騒音も、目障りな情も消え失せるから。生きていくなら、切り捨てる必要もある。
知っているようで、何も知らない。哀れなものだ。
仁は今になって失笑する。
「当時の私は夢天理を抜けてから随分経っていたが……関わりが全て切れていたわけではない。情報を手にするために最低限の種を蒔いて、時折受け取っていたからね。勿論君たちを危険に晒すつもりはなかったし獅宇も容認していた」
だが林琳だけは違った。
「私のような存在が後々不幸を呼ぶのだと」
危険分子を取り除こうとした林琳との接触は、思いもよらなかった。
「じっくりと長い目で……見定めていたんだろうね」
林琳にとって片燕は唯一無二の存在なのだ。
壊されてなるものかと切先を向けたのは、己よりも幾分生きた仕人。力の差は歴然としていても、怯むことはなく、どこまで通用するのかと腕試しをする勢いであった。
どちらに転んでもいい。勝敗に関わらず林琳には意味のある戦いになる。
「まぁ、勿論私の圧勝だったけど」
お互いに消えない傷を残して衝突は終わりを迎え、それ以降、林琳は朱禍を仕方なく受け入れたようで、大きな衝突は無くなった。
「私は林琳に言ったんだ。君が自分自身の歪みを理解しない限り、いつか取り返しのつかないことが起こると」
二人の間に流れる空気は重く暗い。
仁が言葉を選びながら口を開こうとしたその時、朱禍が静かに言葉を続けた。
「でも、今なら断言できる。君が林琳を見つけたことで……確実にあの子の選択が変わった」
その瞬間、静寂が二人の間に広がる。時が止まったような感覚の中で、仁はその言葉の重みをじっくりと噛みしめた。
朝日が昇り始め、暖かな日が頬を摩ると「確実に朝からする話ではないな」と仁は呟き、静かな空気の中で笑った。朱禍はその反応を受け、微笑んだまま仁を見つめ続けた。
◆
「沈星演武祭?」
「はい! 不定期に開催されている演武大会のようなものです。今年は二十年ぶりに開催されるようで、みんな浮き足立っていますよ!」
花月と天雪が詳細を説明しているが林琳は首を傾げて眉を顰める。片燕は他国との関わりは愚か、必要最低限の会合にしか足を運ばない宗派だ。静かな片燕の中で、祭りの話題が浮上すること自体が異例である。
「俺に何の関係があるんだ」
「片燕も招待されて……宗主の意向で参加することに」
珍しいですよねと言って天雪は頬を照れ臭そうに掻いた。
「……仁。お前黙ってたの?」
「俺もさっき聞いたんだってば!」
仁だってここ一年は片燕と音信不通だったのだから、半年前の出来事には関与していない。林琳にいくら小突かれても答えは一緒だ。
「師兄も来ますよね?」
「いや、俺は……」
林琳の心情は複雑である。
破門された弟子が足を踏み入れるのは誰がどう見てもおかしいだろう。普通実家と縁の切れた人間が子供の誕生祭やらなんやらで再び宴会に参加するだろうか。否、絶対にない。
期待の籠った3つの眼差しに林琳はその場にあった適当な書で顔を隠した。
表現が難しいが、天雪と花月に強請られて渋々遊びに付き合わされた日に戻った感じがして胸の奥が変な気持ちだ。この場合は仁が横から助け舟を出すのが相場だ。
「各国から様々な宗派が集まるらしいぞ。きっと変死体の話題だって出る」
「きっと師匠もそのつもりで参加を決めたんだと思います」
「朱禍様も足を運ぶってことは夢天理は来ないはずですよ」
手を組まれては逃げ道なし。
だが極力公の場に姿を現すのは避けたい。
「あのさ、簡単に言ってるけど……俺は……」
派手にやらかした自覚はある。
血の海に倒れる宗主に、ぼろぼろに砕け散った黒典。
五年間姿を表さなかった一番弟子。
明らかに何か問題を起こして破門されたのだと察しがつくだろう。それなのに仁だけではなく天雪や花月までもが何ら変わらずに接してくるのは何故だろうか。
恨まれてもおかしくはないのに。
「僕たちには話せない事情があるのでしょう」
「師兄と師匠の間にある隠し事なんて、別に今に始まったことじゃないし」
「こういった表現が正しいのかわかりませんが、こう……その……僕たちは……」
「今更気にしてないです。流石に虚しくはなりますけどね」
「花月!」
「なんだよ、本当のことだろ」
それでも花月は本当に気にしていないようで、林琳に追加で看板商品の豚肉の醤油煮込みを食べていいか尋ねた。呆気に取られた林琳が許可を出せば、ぽんぽんと注文を始める。遠慮という言葉を知らない花月に天雪が頭を抱えて咎めるが、運ばれてきた角煮を見て、ごくりと生唾を飲む。
角煮が輝きを放っている。
我慢できずに箸で持ち上げれば身は崩れ、柔らかい脂身が露わとなった。確実に美味い。
「それで師兄は来てくれるんですよね?」
頬をこれでもかと膨らませた花月が身を乗り出して聞く。
林琳は角煮で誤魔化そうとしていたようだが、無駄である。いくら食に対して貪欲な花月でもこればかりは譲れない。
不意に左手に違和感を感じて視線を動かせば、一回り大きな手が絡んでいた。
地味に痛い。潰れるとは言わないが、穏やかに微笑んでいる顔には到底似つかない力だ。
林琳が仁の足を蹴飛ばしても何食わぬ顔をして笑っている。
離せと訴えても力は強くなるばかりで、この馬鹿を思い切り突き飛ばしてやりたい。
「花月、我儘を言ってはいけない。師兄も仁先輩も忙しいんだ。こうして一緒に食事ができることを幸せだと……」
ぽろり。
天雪の目から雫が落ちる。
「あれ、どうして涙なんて……あはは、すみません」
拭う仕草もせず涙を流し続ける姿にぎょっとしたのは林琳だけでなかった。
隣の卓に座っていた老夫婦が冷めた目で林琳を見ているのだ。言葉にしなくとも言いたいことがひしひしと伝わってくる。
「わかった、わかったから! どこかで見てるから!」
じっと逸らされない視線に林琳は半ばやけくその勢いで酒を飲み干して空になった盃を叩きつける。
「ほ、本当ですか!」
「やったぜ!」
幸せに満ち足りたような表情をする仁を怪傀神書で殴り飛ばすと、そのまま足早に林琳は店の外へ飛び出し、小碧の手綱を引いてありったけの酒を買い込んだ。旅路は長い。
「この店で一番高価な酒を」
勿論、仁の銭だ。
林琳は上機嫌に浮足立って歩いている。
可笑しなことだが大病を患っていたわけでもないのに不思議と身体が軽かった。
空を舞う紙吹雪に目を奪われて酒を一つ空にしてしまったが、それもまた一興。
手綱を握られている小碧も楽しそうに蹄を鳴らしては、林琳の後頭部を口で遊ぶ。伸びた髪の毛が玩具にされようとも林琳は気にしない。悪戯っ子な性格だと扇葉九から説明されている間も小碧は林琳の髪を齧って遊んでいたぐらいだ。
「あら、お兄さんいい顔してるわね。うちで遊んでいかない?」
「可愛いわ! 是非一緒に遊びましょ!」
「上等なお酒があるわよ。おいで」
大通りに出ればこれだ。真昼間からご苦労なことだ。
馬を引いているというのに頻繁に声を掛けられるのは、林琳の纏う雰囲気が幾分柔らかくなったからだ。言うまでもなく本人に自覚は無い。
鼻歌でも零れそうな勢いで歩いていると、反対側から歩いてきた男とぶつかる。
——ぱしん。
「臭い」
「は…?」
前触れもなく、右手首を掴まれた。栗色の髪を左耳の上で軽く結び、尻尾のように揺らしている青年が、細い手首をしっかりと握り締めている。
「人の怨みや嫉みが染みついた匂い。足の先から頭の天辺まで、べったりだ」
強引に引き寄せられたと思えば匂いを嗅がれ、青年の手を振り払って距離を取る。小碧も驚いて後ずさりしていた。
「面白い! ねぇ、あんた名前は?」
意気揚々と林琳の周りをくるくると回っては顔を覗き込んでは 隙を見て触れようとする青年に林琳は得体の知れない不快感を覚える。右手に持った小碧の手綱は意図的に手からすり抜けて、林琳は鳥肌の立った腕を摩りつつ躱しているが、青年は気にする素振りもなく黒い髪に触れた。
そう、林琳が距離を取ろうとも同じ速度、歩幅、距離を保っている。間合いを詰めることもなく、淡々と。
「染めてるの? なんで?」
微かに触れた髪先に青年が首を傾げた。
「手触りが良くない」
まるで新しい獲物を見つけた子供だ。
男の瞳は欣喜に震え不気味な輝きを放つ。
そして林琳は弄ばれる側に立つことが大嫌いである。ああ、心地よく酔いが回っていたのに本当に心底反吐が出る。
林琳は手に持った竹を突きつけて威嚇し、両手を上げる青年に「近寄るな」と声を荒げた。
「へぇ、それが武器? 面白いね」
バキンッ。
「は……?」
「次は何が出てくるのかな?」
「お前っ……!」
驚愕と恐怖が交錯する。青年は片手で竹をへし折り、その桁外れの力に冷や汗が背筋を流れる。ケタケタと引き笑いをする彼から数歩下がり、理解不能な距離をとったところで、林琳はその気味の悪い顔を目に焼き付けた。
「お兄さんはどこの宗派なの? 早く名前を教えてよ」
頭の後ろで手を組んで口を尖らせ再び近付いて来ようとする。林琳はゾッとして思わず今まで避けていた人混みに飛び込んだ。折れてしまって役に立たない竹は小道に捨てた。小碧の手綱を強引に引くと、嫌がることもなく後を付いてくるものの、真っ黒の瞳が不安に染まっている。怖がる必要はない、お前は賢い子だと林琳は鼻を撫でた。
男の背中に描かれた灰色の外套、その上には独特な植物が描かれている。かつて主が愛したとされる神樹だ。その巨木は塔を包み込み、大地に根を張り、世界の命とも呼ばれていた。まるで青年の姿が、その神樹に宿る暗い力を象徴しているかのように感じられた。
「そんなに焦ってどうした?」
「早く出るぞ。どこから匂いを嗅ぎつけたか……夢天理が集まってきた」
外套を深く被り直した林琳は、小碧の手綱をしっかりと握り締める。小碧の背に荷物を乗せ、一行は沈星演武祭の開催国"瑠峰香国"へと出発した。その道中、気まぐれに怪奇を祓い、変死体の噂を追いかける中で、どこか不気味な静けさが心を締め付けるように漂っていた。
日々の旅は、空白を埋めるかのように優しさを漂わせていたが、その裏には常に何かが潜んでいる気配があった。風は冷たく、空には重たい雲が立ち込め、先行き不安な気持ちを増幅させる。過ぎ去った日々の影が心の奥に潜んでいるようで、ふとした瞬間にその影が顔を覗かせる。
そして、半月後の沈星演武祭前日、ついに耳を疑う噂が流れ込んできた。
——劉鳴国皇太子が崩御した。
その言葉が林琳の心に冷たい波紋を広げた。背筋に走る寒気は、ただの噂とは思えなかった。国の未来を担うべき立場が失われ、混乱と混沌が忍び寄ってくるのを感じる。周囲の空気が一瞬で重くなり、皇太子である久河の存在が消えたことで、世界が一層不安定になっていく予感がした。
◆劉鳴国編 完結◆
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