——タン、タン、タン、タン
乾いた空気に二つの足音が規則正しく響く。
自然光が届かない谷底は薄暗く注意深く進むが足元は覚束無い。岩壁は冷たく湿っていてとても寒冷だ。階段らしい造りはなく、林琳と仁は間隔の空いた足場を飛び越えながら下へと降りて行く。進むにつれて気温は下がり、ほう、と吐く息が白くなる。凍死を考える寒さではないものの、身体がじんわりと冷えているのが分かった。
暫くすると岩壁の先に橙色の光が動いているのを見つける。光に近い程人の気配も多く、あれだけ響いた足音さえ気にならない。物陰に身を隠して様子を伺うと、その場にいる人々は揃って様々な仮面を被っている。情報を売買しに訪れた人間の背丈や身なりは様々で、金のある人間だけが集まっている。
「皆さま、嵐海宋へようこそ。ここは情報が武器。暴力は御法度です」
白緑の羽織を翻し、猫の面を身に着けた女が一礼する。
「どうぞわたくしの事は猫とお呼びください。手前の方から順にご案内しますので、お取引は奥の部屋へ。万が一にもこの土地で血を流そうものならば——あの世へと直行して頂きますので。一度取引を終えた方は地上へとお戻りください。嵐海宋は古来より一歩通行でございます。生きて帰りたければ規則をお守りください。では……どうぞ、よしなに」
長く鋭い爪が妖艶に指差した先には岩壁に掘られた階段が存在する。
谷底には地上から岩壁を伝って流れ着いた水が作り出す小さな水溜りがあり、等間隔に置かれた平たい石を渡れば階段が続いていて、屈強な男達が待ち構えている。恐らく中には幾つもの部屋があって、選りすぐりの情報屋が軒並み揃っているのだろう。
林琳達も面を付けると人の輪に加わる。黒い外套は幸楽美国で世話になった小菊から譲り受けた。
輪に加わってから何度も血の匂いが染みついて取れていない人間とすれ違う。多分間者か殺し屋あたりだろう。戦火の火種になる餌を求めて来たのかもしれない。
林琳達の目的は至極簡単、人探しだ。朱禍と名の持つ、一風変わった男。この程度であれば誰かしら情報を持っているだろうと、猫が呼ぶまで順番を待つ。
それにしても非常に暗い。蝋燭の灯りが辛うじて周囲の景色を照らすが、夜になると谷底は月の光さえ届かず、この灯りなしでは歩けない。林琳がつま先で地面を擦ると、比較的乾いている。砂ではなく、意図的に石畳が用いられている。無造作に置かれた岩は、上から降ってきたのだろうか。椅子もない谷底では、各々が適度な距離を保って腰を下ろしている。
半刻以上が過ぎた時、不意に仁が林琳の面を突く。
唯一瞳が覗く部分以外は真っ白で、頬の部分には赤色の線が二本描かれている面だ。暇そうに頬杖をついて順番を待つ間、呼吸の音だけが耳に響く。これだけ静かだと、声を潜めて話しても丸聞こえなのは間違いない。仁にとって、そういった時間は何よりも苦痛だった。暇つぶしの相手をする気のない林琳は軽く足を竹の先で叩いた。
最後の足場は踏まずに飛び越えなければならないのだが、恐らく足を着いたか、飛び越える脚力が足りなかったか。この場にいた人間、全員が一斉に物音の方を振り向いた。二つの白い塊が動いている。
その姿を目にした仁は唖然とする。
「……は?」
隣では林琳は天を仰いだ。
「……ほんっとに馬鹿」
白い衣に付いた汚れを手で落としているのは、紛れもなく片燕の弟子だった。面は辛うじて役目を果たしているが、二人の腰に巻かれた組紐は紛れもなく林琳が作った御守りだ。
「いってぇ……重い……!」
「ごめん!」
馬乗りになった天雪は、下敷きにした花月から即座に退いた。視界の悪い面のせいで足を踏み外した天雪が、花月を突き飛ばしたのだ。しかも空中で。後ろから勢いよく突き飛ばされた花月は、受け身を取る暇もなく谷底へと一直線に転がり落ちた。
腰を叩いて痛みに耐えていると、花月はそこで初めて視線を集めていることに気が付いた。しかし、少しすれば一つ、二つと視線が外れていく。興味が失せたようだ。
二人は恥ずかしさを隠しながら近くにあった大きな岩に腰を下ろす。
「面、外れないようにしっかりつけろ」
「わかってるよ」
お互いに紐が緩んでいないか確認し、ほっと息を吐く。
暗い谷底で、人影が幾つか浮かび上がっている。深い谷底に行くためには複雑な回路を通って下らなければならないが、危険な道を通ってまでも情報を手に入れたい人間がこれほどまで多いのか。派手な登場を決めた二人は、冷え切った空気の中で肩を寄せ合った。
◆
"一ヶ月前"
「天雪、師兄が戻って来たって本当なのか?」
「さぁ……でも、仁先輩がこれだけ連絡を送ってこないのは、大抵師兄と一緒の時じゃない? ほら、師兄と一緒だったら、僕たちに構っている暇もないでしょ」
山河を渡りながら、天雪が話す。林琳が消えてから早五年、天雪と花月は三年前から世界中を飛び回っていた。あの師兄のことだ。怪奇の傍にいるに違いない。どうせ純白の羽織を砂埃で汚して現れ、「師匠には黙ってろよ」とか「仁に言うなよ」とか、何事もなかったかのように眉を下げて言うのだ。そうやって考えていたら、早くも三年が過ぎていて、二度と会えないのではないかと不安になっている最中だ。
片燕の一番弟子である林琳は相当な変わり者だが、それ以上に同門からすれば敬愛の対象だった。稽古場は半壊する。好き勝手に怪奇を追う。字は汚いし、群を抜いて気まぐれ。実は裏では片燕のことになると夢天理にも噛みついている。そのせいで夢天理に問題児と呼ばれているのだが、本人は関係なく力でねじ伏せるものだから、目の敵にされている——これに関しては林琳だけでなく、心当たりのある同門も何人かいると思う。断じて喧嘩早いわけではないのだが、まともな人生を送っていない家族は、他の人間と比べて少しばかり過激だったりする。
「あっちが何かにつけて擦り付けて来るから悪いんだ」
やれ、怪奇が逃げ出しただの。やれ、宝物庫が消えただの。宝が消えるならまだしも、宝物庫ごと消えるわけがないだろう。馬鹿か。
「暇なんでしょ。うちだけじゃなくて、管轄外の宗派には当たりが強いのは昔からだしね」
一隻の小振りな船を買い取った二人は河を櫂で漕いで下っていく。
「山雫国で変死体が見つかったのが……本当に運が悪い。戦のない国で死体なんて老衰や病死ぐらいだったのに」
「山雫国は片燕を疑っていないけど、周辺の国は嫌な目をしてる」
「疑いを晴らすしかない。でもさ、国から追い出されないだけ良かったよ……一時はどうなるかと思ったけど」
「まぁな。師匠の顔の広さに救われたね」
こんな時に師兄がいてくれば良いのに。
二人の大きな溜息には同じ心情が含まれている。
「師兄、早く戻ってこないかな」
「ね。あと半年もすれば花園も満開になるのに」
「師兄が死んだって噂は出ていない。それにあの人は怪奇を追うために生きているんだぞ。この世に怪奇がいる限り、絶対に死なないだろ。仁先輩だってそう言っている」
林琳は密かに"生粋の怪奇愛好家"と呼ばれているのだ。言い出したのは勿論仁だ。
「しぶといだろ、うちの偉大なる師兄様は。その内会えるさ」
「うん。早く逢いたいね」
雨粒が傘を叩きつける音が響く中、その隣にはいつも仁が寄り添っている。周囲は薄暗く、しっとりとした空気が漂い、花々の色が雨に濡れて鮮やかさを増している。宗主は、二人の背中を微笑ましそうに見守りながら、静かな筆の音を立てている。雨が上がれば天雪や花月が街に行こうと二人に強請って、嫌そうな顔をする林琳を仁が連れ出す。最終的に酔いつぶれる仁を放置して、先に店を出る林琳。翌朝の朝餉には林琳を除いて全員に高級なお菓子が並べられている。宗主が面白がって強引に食べさせようとするのを林琳が断固拒否して、慌ただしい一日が始まるのだ。それがお決まりの日常だった。暗い過去が遠くへ消える、そんな時間がずっと続くと思っていた。
「……泣いてないかな」
——"「こんな場所まで来るなんて。お前、馬鹿なの」"
「独りが嫌いなくせに」
仁先輩の手を離した師兄の方が馬鹿だ。
◆
「貴方達の欲しい情報は?」
「人探しをしている」
「そう……、ではこちらへ」
五つの扉の中から、黒い札がかけられた扉を開く。猫と共に中に入ると、一人の老人が蝋燭を机に置き、椅子に座っていた。周囲は殺風景で、冷たい空気が漂っている。天井から吊り下げられた札に当たらないように避けながら、林琳は猫に続いた。
——怪奇避けの札だ。
林琳は赤い血文字で木の板に文字が書かれているのを横目で確認する。
「この部屋には貴方達と烏しかおりません。納得のお取引が出来ましたら、鈴を鳴らして扉の外へ」
猫は鈴を仁に手渡し、告げると席を外した。岩壁を無理矢理掘って作られた部屋は、比較的涼しく、外套や面をつけていても息苦しさは感じなかった。烏は、この老人の仮名だろう。真っ黒な面はまるで烏そのもののようだった。腰を下ろす場所もなく、早速取引が始まった。
「人探しをしている。名は朱禍。仕人だ」
「朱禍……あぁ、夢天理の……」
「居場所が知りたい」
烏が持つ情報は必ず正しい。誰よりも正確であると猫は言った。
「ふむ、いいだろう」
「待て待て、価格は幾らだ? こちらも払える金額には限りがあるからな」
蒼羽からたんまりと金を貰ったが、情報は高値で取引される。ましてや朱禍は元々夢天理の人間で、破格で渡される可能性が高かった。価格も聞かずに情報を得てしまえば、外にいる屈強な男に磨り潰される羽目になる。谷底で死ぬ虚しい未来は勘弁してほしい。
林琳は怪奇避けの札を観察していると、効力が薄くなっているのに気が付く。何十年も放置されていたのか、込められた心力は少なく、不安定だ。それに、こんな谷底に怪奇が住み着くとは思えない。谷底には人の住処もなく、人影すら見当たらない。天井を埋め尽くす札の存在意義がわからなかった。
烏は白い顎髭を撫でて唸りながら熟考しており、その隙に林琳は札に触れた。指先が触れた途端、札が燃え、勢いよく吹き出したのは黒い炎だった。怪奇除けの札だと思っていたが、どうやら違ったらしい。仁が唖然として固まる中、烏は平常心を保ち、燃えた札を一目見る。
「お主……獅宇の子か」
林琳は「は?」と烏を見て目を見開く。その名を知っているのは限られた人間だけだった。
黒い炎に包まれて燃えた札を見つめ、烏は夕焼けの瞳を悲しみに染めた。子供が知らぬ間に大きくなったものだと懐かしむ。何人もの仕人と出会ったが、この珍しい心力を忘れたことはない。傘を背負い、獅宇と荒れた戦場を歩く身体は頼りなく幼かった。
烏が仮面を外すと顔には大きな三本の切り傷が刻まれていた。命を奪うつもりだったのだろう、襲われた傷は痛々しく、烏の片眼を潰してしまっている。
古い記憶の中で、戦火に巻き込まれていた国を林琳は突然思い出す。蚊帳の外の仁が頬を膨らませるのを見て、林琳は「お前を拾う前の話だ」と順を追って話し始めた。辛うじて息のあった敗戦国の将軍を宗主は手厚く介抱した。林琳自身は見捨ててしまえばいいと反対したのに、宗主が「彼は二度と戦場には戻れない。争いに身を投じる事もないでしょう」と右腕の損傷を見て言うものだから、林琳も仕方なく世話をした。右腕と片目を失った将軍は戦意を喪失し、国も亡びたと言い、大人しくされるがままだった。世話と言っても身体を拭う程度で、他の世話は全部宗主が請け負っていたのだ。まさか、情報屋として別の人生を歩んでいるとは思いもしなかった。
「生きてたのか」
すっかり息絶えたかと思っていたと、林琳は呟く。完治する前に食料と金を置いて、林琳達は旅路を再開した。生きるか死ぬかは、烏の気力と意思に委ねられているのだ。
「朱禍の情報が欲しいと言ったな」
あの時救われた借りがあると烏は口を開く。普段は貸し借りを嫌う林琳だが、今回ばかりは甘んじて受け入れる事にした。
「劉鳴国の地下奥深くに捕らわれておる。隠されていた部屋で込み盗みを働き、この谷底と等しい暗闇に投獄された」
仮にも元は夢天理に所属していた人間なのに重すぎると仁が呟く。
「劉鳴国は昔から夢天理の管轄下だ。朱禍も好き好んで近寄らないはずだけど……」
夢天理を抜けた後、放浪していた朱禍が意図的に劉鳴国へと行く意味がないのだ。林琳も仁も朱禍に限ってそんな馬鹿な真似をするとは思っていない。いや馬鹿ではあるのだが、その類のバカではない。
——絶対に理由がある。
「他に知りたい情報があれば、この先は有料だ」
黒尽くめの情報や変死体の情報を得ようとするが、烏は首を振った。情報を持ち合わせていないのかと尋ねるが、そうではないらしい。出そうと思えば情報は山ほどある。変死体の現れた場所、遭遇した人間、黒尽くめの人間が宗派に間者として紛れ込んでいた話、旅人が襲われた話——各国から情報は集まっている。
「情報の錯乱が意図的に起こされている。確実ではない情報は売らない主義だからな」
生真面目な所は生きる道を変えても健在らしい。
「いや、朱禍の居場所だけでも十分だ」
放浪癖の朱禍は時に情報屋よりも手持ちが多い。
兎にも角にも、朱禍に会えば足踏みする現状も突破できるだろう。思わぬ再会があったが朱禍の居場所は判明した。それに先を急がなければ、朱禍の命が危うい。本音を言えば多少痛めつけられていると有難い、林琳は心の隅で拷問されている光景を想像する。三回に一回は癪に障る言い方をする朱禍。長期間一緒に行動を取ると、これでもかと言うぐらい精神的苦痛が伴う。死なない程度に拷問でもされていればあの減らず口も黙るだろう。あいつの空っぽの頭を殴る時間も発生しない。
ぼろ雑巾の朱禍を見るのは何とも素晴らしい一興だろうか。
林琳が鈴を鳴らす様に促すと、しゃらん、と仁は手首を振った。
扉を押して外に出ると猫が滑らかな所作で出口へと案内する。入口の階段とは別で、直接地上に繋がっている階段だ。相変わらず暗い。林琳が猫に心ばかりの真珠を渡せば機嫌よく踵を返した。女は光る物が好きだと聞いたことがあったが、本当だったとは。
上に繋がる階段へと足を踏み出した刹那、怒声が谷底を反響して空気が揺れた。林琳と仁は立ち止まって顔を見合わせる。
「花月と天雪の声だ!」
仁が岩壁から顔だけ出して覗くと、どうやら情報屋と揉めている訳ではないらしい。谷底で三つの影が団子になっている。嗚呼、何故こうも簡単に騒ぎを起こすのだろうか。今揉め事に加われば谷底に集まった得体の知れない人間の注目の的だ。どうしたものかと頭を悩ませる間にも、騒ぎは大きくなっていく。
先程まで機嫌の良かった猫が腰に備えていた鞭を手に地面に叩きつけると、林琳と仁は勘弁してくれとばかりに揃って頭を抱えた。
「離してもらえますか?」
言い掛かりに胸倉を掴まれた天雪はじっと耐え忍ぶが、握った拳からは血が滴り落ちている。隣の花月も深呼吸をして煮えくり返る怒りを鎮めている。声を荒げることなく穏やかに語り掛ける天雪は、これ以上片燕を貶されれば背負った剣を向ける覚悟は出来ていた。二人が後ろで手を組むのは怒りを自制する為だ。
天雪と花月にとって片燕こそ帰るべき家である。易々と存在を貶された上に、敬愛する宗主や家族を"塵箱"呼ばわりされては黙っていられない。だから言い返してやったのだ、「弱者の自虐か」と。決して煽っているつもりもなく、無意識に飛び出した言葉だった。ちゃんと「あぁ、すみません。こちらの話です、お気にせず」と付け足したのに、勝手に間に受けた男が逆上しているだけで、天雪と花月は手を出していない。怒りに任せては男と同類に成り下がってしまう。しかし、目線を下げて胸ぐらを掴む手が怒りに震えているのを見ると、天雪は笑い出しそうになった。
——図星って事か。
「この……っ、餓鬼が!」
視界が白く点滅したのと、脳天に走る痛みで殴られたのだと思考が追い付く。拳にしては痛みが鋭いと思えば、隠し持っていた石の角で殴られたらしい。血が目に入り、殴られた振動で脳が揺れて視界が定まらない。膝をつく天雪に花月は男へと飛び掛かろうとした。
「……!」
「よせ、手を出したら駄目だ」
嵐海宋の規則を破ってはならない。手を上げた方が負けだ。これしきの痛み擦り傷以下、問題ない。天雪が視界をどうにか定めようと集中していると猫の声が聞こえた。
「掟を破るか、不届き者め」
鋭い鞭が谷底を叩きつけ亀裂が深く走る。ここでは猫の設けた規則を守るのが生きて地上へ戻る術だと宗主は口酸っぱく教えた。少しでも血を流したり、争いを起こせばより深い谷底へと突き落とされる。無情な女に気をつけろと。
だから天雪は耐え忍び然るべき罰が下るのを待っていた。
「や、やめろ! 来るな!」
男が悲鳴を上げ奈落の底に突き落とされるのを多くの視線が見送る。恐怖に慄く者はおらず、くすくすと笑い声まで耳に入った。人の身体が潰れる嫌な音を笑って手を叩く狂人もこの場にはいる。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう」
額から流れていた血は既に止まっている。
花月の手を取り立ち上がろうとしたその時、顔を上げた拍子に面が地面に叩きつけられた。殴られた振動で傾いてしまったらしい。男を奈落の底へと葬った猫がもう一度大きく鞭を打ち付ける。間違いなく天雪と花月を狙っている動きに、「まずい」と花月が呟く。鞭を避ければ天雪の素顔が晒されてしまう。
万事休す、覚悟を決めたその時、いつまで経っても訪れない痛みに目を開けると、視界に映り込み裾が靡く外套が二つ。
「え……?」
猫の元に鞭が跳ね返されるのを目撃し、驚愕する。どちらかの心力が壁となって猫の攻撃を防いだ。猫の素早い一撃を凌ぐ、一瞬の出来事だった。庇われたのか、そう思う間もなく、花月が面を素早く結ぶ。耳元で花月が小言を放つが、それどころではない。
二つ並んだ背中に見覚えがあった。背丈、足音、気配。何度も身を挺して盾となってくれた広い背中が思い出される。気のせいだ、脳が衝撃を受けて混乱しているだけだと、視線を落とした天雪は右側の男の足元に黒い炎が微かに漏れ出しているのに釘付けになった。花月は支えた肩が強張っていることに違和感を感じ、天雪の視線を追って息をのんだ。
脳が処理を追いつかせられず、ぼんやりとした視界の中で天雪は走馬灯のような記憶が駆け巡る。花月が肩を強く叩くと、やっと天雪は息を吐いた。いつの間にか呼吸が浅くなっていたらしい。
「……出口へとお戻りを。二度目は御座いません」
鞭を叩きつけて作り出した亀裂の先は外壁の階段へと繋がっている。二人が既に取引を終えていたのは一目瞭然だった。
「ま、待って!」
声を聞きたくて天雪が外套を掴もうとしたが、呆気なく翻され、二人は屈強な男に連れられて出口へと進んだ。乱暴に捕まれた腕を捻り上げる姿は、やはり記憶に叩き込まれたものだった。立ち眩みの中で知らないふりをして手を伸ばす天雪を、花月が腕を掴んで止めた。
「迷惑をかけるな……!」
震える花月も二人の正体を見破っていて、必死に歯痒い気持ちを押し殺していた。探し求めていた存在がそこにあるのに、追いかけて抱きしめる事は許されない。心がぐちゃぐちゃになって震えている。
それでも鎮静した空間で真っ直ぐと前を向く。
「追いつくぞ、絶対」
「うん」
今はただひたすらに——離れていく背中を目に焼き付けるだけだった。
◆
「素直じゃないよなぁ……全くさぁ」
軽快な歩みで進む小碧に跨ってだらしなく前屈みになる仁。よくその体制で落馬しないものだ。
猫の鞭を防いだのは紛れもない林琳の炎だった。
「やっぱり林琳って俺たちに甘いよ」
仁は早歩きで先を歩く林琳を見て思う。情がないなんて嘘だ。
そうじゃなきゃ、天雪と花月を庇う訳がないし、心力を使ってまで猫に威嚇をしないだろうに。仁は林琳の心を本人よりも知っている自覚がある。自惚れではなく、長年の付き合いで己の心を誤魔化すのを見て来たからだ。
人一倍心の痛みに敏感なくせに、都合のいい解釈を添えて冷徹であろうとする。林琳こそ最強の意地っ張りと呼ぶのだ。
「さっさと自覚してくれたら……この心労も報われるのにな」
仁は最後の木の実を与えて馬の小碧に語った。
◆
「朱禍を連れ出すにも劉鳴国は夢天理の管轄だ」
——"「一月後、国を挙げて祭りが開かれる。新国王が王座に就くための儀式だ。勿論夢天理も同席する」"
——"「その日限りは五つ全ての門が開かれる」"
祭りに合わせて紛れ込むしかないだろう。
仁の反対を押し切り、目立つ朱色の髪を黒く染めた林琳は、真新しい衣に着替えて話す。 淡い紫の衣と帯、羽織は白色。どこからどう見ても祭りへ遊びに来た男のようだ。因みに仁が調達した衣は毎回着替えるのが非常に面倒で、帯を締めた林琳はげんなりしている。無駄に疲れた。それにしても色合いが若すぎやしないか、もっと深い色が良かった。
文句を言いながらくるりと鏡の前で回ると、鏡越しに仁と目が合い、呻き声が上がった。
「うぐっ……、淡い衣が滅茶苦茶似合う。でも! 勝手に黒髪に染めたのはあり得ない! 一言あるだろ!」
泣いたり怒ったり情緒不安定な奴だと思いつつも、林琳にはもはや殴る気力もない。
「うう……悔しいぐらい良い、黒髪も良い!」
後ろで一人騒ぐ仁を尻目に痛んだ髪を払う。
「……お前そんな性格だったか? 暑苦しいな」
「はぁ!?」
仁の心労が報われる日は遥か遠そうだ。
嵐海宋編 完
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