人の世は平等にはなり得ない。
遥か昔に唱えたのは、この世界を収めていた——最初で最後となる神である。
神と呼ばれていたが、姿は人間そのもので、四季を運び、人の世に関与して来ないソレに人々は慈しみを込めて主と呼んだ。いかんせんこの主、群を抜いての飽き性である。自然が牙を剥き、穀物が枯れ果て、国が滅びてもお構いなしにどこかで静観している。ソレが当たり前だと気にも留めない。つまり、戦が起きようと知らぬ顔である。そうして滅びた国は数多と知れず。人の世に関与しない、あくまでも主は人が生きる世界を創造しただけであり、滅びようがどうでもいいのだろう。人が知る由もない、戯れだ。
広大な世界で唯一地上から伸びる巨大な塔。万が一塔が倒れればこの世界は滅ぶだろう、そう思える程の巨大な塔だ。人の手で作るにも無理がある。幾ら見上げようとも頂上が見えず、また、雲を突き抜けた先にある国に名は無い。地上で裁きを下さずに主に裁きを問う為に創られた法廷。
今宵も人々は問う「何が善か悪か」
主は溢す「等しいのは善と悪のみ」
被告人は答える「この世に神など存在しない」と。
瞬間、神は世界を飽きた玩具を捨てるように、人間と悍ましい怪奇を残して消えた。
◆
時の止まった竹林に住む男、林琳は今日も迷い込んでくる魂を諭している。
「は? 不倫されたから自殺した? そんなのさっさと転生でもして、復讐してやればいい」
彼は、未練を残して死んでしまった魂を転生へと促す役目を持つ、所謂「案内人」だ。この世とあの世の間に位置するこの領域では、夜も来なければ朝も訪れない。気候も変わらず、ただ穏やかな風が吹き続け、終わりの見えない竹林が延々と続いている。
その中に、ひっそりと佇む小さな家。周囲を見渡すと、どこから湧き出ているのかも分からない小川がいくつか流れ、そこから生まれた小さな池が静かに広がっている。生き物は一切おらず、青々とした竹に囲まれた平和な景色だ。林琳がこの領域を初めて踏んでから、揺れ動く竹は形を変えず、風に遊ばれている。彼自身もまた、丸い頭に朱色の短い髪、大きく輝く夕焼けの瞳を持つまま、何も変わらない。睡眠も食事も必要なく、ここには口にできる食べ物すら存在しないのだ。
「お前、馬鹿なの?」
出来ることは魂に触れ、輪廻に戻すこと。それでも魂に触れてわかる事はそれ程多くはない。魂の破損が大きければ、知ることも少ないからだ。
林琳は、背より少し短く切り落とした竹を手に持ちながら、見慣れた竹林を歩く。その姿は探し物をしているようにも見え、また何かから逃げているようにも思える。傍から見ればただの散歩だが、形のいい眉を顰めているのを目にすれば、その認識は間違いであるとわかるだろう。
では、一体何から逃げているのか。しばらく歩いていた林琳は、ぴたりと足を止めた。耳に届くのは己の声と、竹が擦れ合う音だけ。すると彼は手に持つ竹を器用に弄びながら、再び一直線に歩みを進めた。
人の俗世から離れた場所に訪れる人物好きなどいなかったのに。
「林琳ー?」
竹は鋭く風を切る。しかし、残念ながらその手応えはない。視界に飛び込んできたのは、上機嫌に笑う男だった。
「この馬鹿! さっさと帰れ!」
名を呼ばれた男は、林琳より少し背が高く、背中に流れる漆黒の髪。上機嫌に笑う口からは犬歯が覗く。犬だ。いや、姿形は人間ではある。それに尻尾も耳もない。だが、犬なのだ。どう見ても。
「なぁ、毎度毎度同じやり取りしてて飽きないか? 俺は飽きたぞ」
「よかったな、俺も同じ意見だよ」
乾いた笑いが零れるが、声の持ち主は目が笑っていない。眉間に寄った皺を何度かほぐすと、竹で仁を小突く。
「いたい!」
「相も変わらず、軽い頭だな」
律動により生み出される音はよく響いた。仁が大袈裟に叫ぶと、林琳は再度鋭く竹を振るうが、呆気なく躱されてしまう。
「避けるな。いい加減無理矢理にでも追い出してやる」
「竹が出す音じゃないよ、それ……絶対かち割れる」
ちょっと止めてよ、小突かれている割に嬉しそうに笑う仁に呆れて手を止めた。
「ほら、行こう!」
「……手を握るな」
「今日は何をしようか?」
「……すり寄るな」
「林琳と一緒ならなんでもいいし」
「触れるな!」
「冷たいなぁ、もう」
口を尖らせ文句を零してはいるが、流石に引き際を理解しているからか、仁は絡めた腕と繋いだ手を放す。腕を組み隙を見せない林琳はむっとしていて機嫌が悪そうだ。
視界に移る朱色の髪が歩く度に揺れる。仁は彼の髪が好きだった。珍しいその色は目立つ事は勿論、柔らかく細い。まるで絹の様だと告げれば、逆鱗に触れるだろう。
この場所へ来た頃は昔とは少し違う身なりに戸惑いはしたものの、彼の大事な部分は何も変わってはいないと知り安堵した。
「お前、いい加減にしないと本当に戻れなくなるぞ」
「それでもいいよ」
何を今更、仁はくすりと笑った。影が落ちる。
「師兄と一緒なら、どこでもいいんだ」
「……師兄じゃない」
「林琳は俺の師兄だよ。それは天に昇っても、地に落ちても、何も変わらない」
「だからと言って、こんな場所まで来るな。さっさと帰れ」
「絶対に嫌!」
——愚かで馬鹿な子だ。
己がなぜこの領域に入り込んだかすら忘れている。だからこそ、林琳は仁に触れたくはないのだ。
「俺はここでやることがあるし、お前に構ってはいられない。それに、あの人を心配させるな」
小屋に向かって歩みを進めると、いつの間にか肩が触れる距離を保ちつつ、仁は傍を歩いていた。背丈が近いからか、楽しそうに笑う声も良く聞こえる。幾度も現れる仁に以前確認したことだが、現世とこの領域では時の流れに差異が発生しており、仁は夏の間だけ迷い込むことが出来るらしい。冬眠ならぬ、夏眠。お前は蝸牛か。
正直なところ、現世が夏だろうと冬だろうと、林琳には関係のないことだ。仁の肉体は生きているものの、林琳の肉体はとうに朽ち果てた可能性が高い。今となっては確認の仕様がない故、何とも断言はできないが。
時を刻む現世で過ごす仁と、時の止まった領域に住む林琳では、生命の勝手が違う。
そんな中、一つの小屋が視界に入った。
「いいか、居座るなら手伝え。手伝わないなら……」
「分かってるって!」
林琳は肺を空っぽにするほどの大きなため息をついた。このやり取りも数えきれない、まるで日課のような光景だ。日が昇って沈む、そんな当たり前の現象さえ、ここでは起こらない。だからか、林琳にとっては昨日のことのように思えてしまう。時間が止まる領域とは、人の世から離れた不気味な場所だ。
建て付けの悪い引戸を強引に動かすと、木屑がパラパラと降ってきた。
「どうせ現世は夏だろう。死因としたら食中毒か、熱中症か……おい、ここ最近の戦はどうなってる?」
「国境の戦は落ち着いてる。確かに現世は夏だけど、不可思議な事が起きてるんだ。」
「は?」
「丁度、その話をしたかった」
仁は林琳の手を握ると、静かに玄関の上がり框に座らせた。
——干乾びた肉体に、髪の抜けた頭。本来であれば眼球が埋まっている場所は、ぽっかりと空いている。
——人の言葉とは思えない音を発し、一見不気味な姿に身構えるが、決して人を襲う事はない。
神妙な面持ちで言葉を零す仁に対し、林琳は指を顎に当て、仁が求めた反応から外れた様子で「うん、想像通りだね」と小さく頷く。
「奇妙な魂が増えてきた」
「奇妙?」
「一部の亀裂程度であれば、何もおかしくはない。怪奇の仕業だって片付けたらいいからね。ただ、破損が大きいんだ。彼方此方が欠けて、あれでは魂とは言えない」
勿論、輪廻に戻ることもできない、そう呟いた。
正真正銘未練を残した魂だとしても、何一つ汲み取ることのできない状態であれば意味がない。お手上げなのだ、完全に。奇妙な魂が徐々に増えてくるものの、仕事が増えるわけでもないし、別にいいかと目を瞑っていた。しかし、不可思議な類は林琳の得意分野でもある。そしてこの世で一番、彼の興味を引く類だ。この領域に来る前にはそういった類を二人で追っていたからこそ、仁はわざと知らせたのだろう。
未だに考え込んでいる林琳を見て、仁はくすりと控えめに笑った。
「笑う要素あった?」
「うん? あぁ、林琳は変わらないなって」
その言葉に、心の奥で何かがほころびそうになるが、同時に重い闇が胸を締め付けた。仁を見上げた大きな瞳は、一層夕焼け色に輝いたが、どこか儚げで無情な美しさがあった。
「昔もそうやって気が付いたら事件を追いかけてた」
途端に顔をそむける林琳を、仁は覗き込む。翡翠の瞳と目が合った。
「気になるなら、一緒に行こう」
「は……?」
「だから、一緒に現世に行こうって事」
その言葉に驚きと戸惑いが交錯する。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。あまりにも馬鹿げた言葉に、林琳の思考は停止する。とんでもない言葉を耳にした気がするが、残念ながら紛れもない事実だ。
腹が立つほどの笑みを浮かべている仁の端正な顔を、林琳はがしりと鷲掴みにし、苛立ちを隠せない。このやり取りも二人の間では珍しくないため、仁は相も変わらず笑っている。ふざけるな、その言葉は震えて音にならなかった。仁は林琳の手を優しく解き、上がり框に腰かけると再び告げる。
「現世で起こる不可思議な現象、破損ばかりで奇妙な魂。師兄はどう見てる?」
「お前と同じぐらいクソだなって思う」
「いやいや! 的外れな答えの上、凄く不満なんだけど!?」
「別に……、今に始まったことじゃないだろ。どこかの宗派が信仰の生贄にしたとか、そんな所だ。万が一怪奇が絡んでいたとしたら最悪だがな」
世界から主が消えたあの日、塔と共に均衡は崩れ去った。戦は終わることなく、人々は血に染まった道を選んだ。「悪はあちらだ」と声高に叫びながら、血で血を洗い流す嘘くさい正義を吐き散らした。権力者たちはまるで壊れた傀儡を弄ぶかのように、民を武装させ、ろくに訓練も施さずに戦場へ送り込んだ。四季の穏やかな夢は遥か彼方に消え去り、かつて作物で豊かに栄えた国は今や荒地と化し、美しい桃源郷はすべて灰燼に帰した。それでも、一部の善良な民が立ち上がり、力を合わせて声を上げ、わずかに均衡を取り戻しつつあった。
同じ志を持つ者たちが集まり、宗派を形成した。組織の中には「宗主」と呼ばれる者と、その弟子たちがいる。いずれも修行者であることが求められ、主が消えたこの世界に蔓延する怪奇に立ち向かうための戦士たちだ。彼らは「仕人」と呼ばれる存在となった。
宗派という名の下に、この世には多様な信仰を持つ者たちが存在する。信仰の対象は自由で、動物や人、物などさまざまだが、それは所詮人間が作り出した一種の枝分かれに過ぎず、争いは絶え間ない。国境での戦いもその一例だ。限られた領土を巡る奪い合い、飢えた民による食物の強奪が繰り返され、均衡の崩壊と共に新たな火種が孕まれていた。
何が神だ、何が……信仰だ。縋ったくせに、収まる事の知らない憎悪が生み出すものは醜い争いばかりだ。神を信仰する愚かな人間が犯す、ただの遊戯だ。心底くだらない。
「じゃあ疑いを持たれている宗派が片燕だとしたら?」
「あり得ない。あの人の管理下でそんなことできるはずがない。お前、ついに脳味噌が破損したのか。さっさと戻った方がいいぞ」
「俺たちは何一つ関わっちゃいない。それでも片燕はいつだって真っ先に矛先を向けられる。今回だってな!」
隣で声を荒げる仁を尻目に林琳は静寂を保ち、何度目かわからないため息をついた。
「それでお前は俺にどうしろと? 俺は……もう部外者だぞ」
「部外者じゃないし。なあ、頼む。真相を暴くためにも林琳の力が必要なんだ」
「お前が暴きたいのは、本当にそれだけ?」
「……今のところは、それでいい」
仁の言葉に一瞬の静寂が訪れた。林琳は、思考を巡らせながら、仁の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥には、焦りと期待が入り混じっているのがわかる。
「やっぱり馬鹿だね。いつになっても嘘が下手」
今まで一度も領域を出る話などしなかったのに。脳裏を過る記憶の中にいる仁は常に林琳を優先し、傍にいる事を決して譲らなかった。
きょとんと首を傾げる仁の頭を軽く撫でると、小屋に一人残して林琳は小さな池へと向かった。徐に袖と裾を捲ると慣れた作業で靴を脱ぎ始める。何事かと後を付いてきた仁を置いて、そのまま池に足を踏み入れた。
仁から把握できる情報は池自体に深さはあまりなく、一番深い場所でも林琳の膝下あたりといった所だ。
林琳は池の中心へ進んで行くと、細い腕で水の中を漁る。コツン、と素足に触れたのは——ここで滅びた魂の欠片だ。うまく輪廻に戻れた者がいる中で、未練を果たす力もなく壊れた魂も存在する。それらの魂は小川を伝い、池に集まる。奇妙な魂も全てここに流れ着き、静かに息をひそめているからか、以前に比べて少し水面が上がった気がする。
傷だらけの魂が声にならない叫びを上げ、儚く壊れる瞬間を何度も見てきた。穴の空いた器では水は掬えず、亀裂の入った魂はいずれ朽ちていく。いつでも祈りは届かないものだと、林琳はここに来るたびに思い知らされる。
世界は今も昔も虚空だ。
「うわっ、なにこれ! 小石? あ、これが魂の欠片ってことか!」
仁は両手で欠片を掬い上げた。
「……馬鹿、迂闊に触るなって」
——虚しさ以上にこの眩い光と過ごした日々が消えないのは何故だろう。
◆
「で、山奥に放り出された弁解はあるか?」
「まさか見知らぬ土地に出てくるとは思わなかった!」
寒い。寒すぎる。
防寒具もなく、真夜中に放り出された二人は珍しく肩を寄せている。特に林琳の薄い唇は小刻みに震えており、色も最悪だ。
兎にも角にも宿がなければ調査もできない。林琳が持っているのは領域から持ち出した竹のみで、役に立つことはなさそうだ。実体があるだけでも感謝するべきだと仁は口に出しそうになるが、思い留まった。口に出した瞬間鉄拳が飛んでくるだろう。
「大丈夫。師匠から色々と預かってる!」
こちらも同じく唇の血色が良くないが、声色とその人懐っこい笑みは、少し空気を温かくしてくれる気がする。
宗主が絡んでいるとなると、仁が折れる気がないのも納得だ。自信満々に風呂敷から、どう見ても禍々しい道具を取り出す姿を見て、仁は「嵌められた」と呟いた。途端に踵を返そうとするが、寒さのせいで思うように動けない。
「林琳! 震えてる場合じゃないぞ!」
「ばっ……か! 急に走るな!」
強引な引きに足がもつれそうになるが、仁が引っ張り上げるように手を引く。腕が痛い。
「少し降りたら城下町がある! そこで宿を取ろう!」
確かに少し高台から見える景色は灯篭の光で暖かい。きっと城下町であれば人も多く栄えているに違いない。ぐっすりと眠れる宿も、久方ぶりの食事も手に入るだろう。少しばかり領域の事が気になるが、先に落ち着ける場所が欲しい。
「ほら、灯りもまだ消えてない。適当な所でいいから声をかけてみよう」
凍えた手を握りしめると、余程温もりが欲しいのか、そっと確かに握り返してくる感触を得る。成人男性二人が手を繋いでいるのは、側から見れば奇妙な光景かもしれないが、仁の外套には袖がなく、肩を寄せ合っている姿はそれほどおかしくない。
灯りのある場所を目で探していると、ちょうど暖簾を仕舞う少し肥えた男が目に入った。おそらく客室が埋まったのだろう。夜も遅く、店主も寛ぐ時間はとうに過ぎている。他にも灯りが覗く宿は幾つかあるが、声をかけるには扉を叩かなければならない。
「夜分遅くに失礼、部屋は空いているか?」
「え……?」
静まり返った中で、驚かせないように声をかける。
林琳は店主の顔をじっと見つめる。年齢はおおよそ四十、少し肥えているが清潔感があり、仁の声にも反応している。紛れもない人間だ。魂を通して見た人間と生きている人間は、やはり違う。寒さに耐えながら余計なことを考えていたが、余計なことを考えなければ凍え死ぬだろう。
店主は下ろしていた暖簾を見せると「申し訳ないね。満室なんだ」と首を掻いた。
「そうか、邪魔して悪かった」
満室であるならば仕方がない、会釈を互いに交わすと次の宿を探そうと踵を返す。月の位置からして子の刻を過ぎた頃だ。
次に目が留まったのは、「桜陽宿場」と書かれた桃色の暖簾がかかる宿。扉を叩こうと近づくと、中からは話し声が聞こえてくる。コンコンと控えめに扉を叩く。これは期待できそうだ。仁の手による軽快な音で叩かれた扉だが、一向に開く気配がない。何度も叩くが、話し声にかき消されてしまうのか、それともこの夜更けに扉を叩く無礼者を追い返したいのか、扉は微動だにしない。
「困ったな」
項垂れる仁を尻目に、林琳はやけに大人しい。
この調子だと、野宿の可能性も捨てきれない。どうしたものかと林琳を見ると、なんと立ったまま眠っているではないか。仁はぎょっとして握っていた手を離してしまう。驚愕したが、いや、目を閉じているだけかもしれない。
「林琳? 大丈夫か? 寒くないか?」
「寒いに決まってるだろ」
やはり起きてはいた。ただ、限界に近いのだろう。うつらうつらし始めている。
完全に意識を飛ばしてしまう前に「しっかりしろ!」と肩を揺すると、勢いよく竹で顎下を突かれた仁は座りこんでしまった。衝撃で上下の歯が衝突した音が響いた。舌を噛んでいたら、宿を取る前に出血多量で死んでいただろう。当の本人は竹に寄り掛かり、再び船を漕ぎ始めてしまった。この際、屋根があれば馬小屋でもいい。藁があれば多少暖は取れるし、二人とも野宿には慣れている。「頼む、もう少し歩いてくれ」とすっかりやる気のない林琳の背中を押していると、目の前から腰の曲がった老婆が歩いてきた。仁は立ち止まり、林琳も気配を感じたのか、気怠げに視線を動かす。
「お前さん達、こんな夜更けに出歩いちゃいかん!」
「宿を探している。旅の途中なんだ」
「どこから来たんだい? この時間じゃあ、どこも開けてくれはしないよ。桃陽宿場は行ったのかい? なんでもっと早く探さなかったんだい。子供じゃないんだから」
初対面のはずだが、完全に子供に対する扱いである。言い返すにも老婆の言葉が刺さって仕方がない。
仁が「これには深い事情が……」とあたふたと手振り身振りで説明しようにも、結局黙ってしまう。どこから来たなんて、馬鹿正直に答えたら牢に放り込まれるか、あの世に送られて、終わりだ。
ふいに、道に迷ったのだとあくびを耐えた声が聞こえた。上手い事誤魔化した林琳を仁は泣きそうになりながら、救世主と心の中で褒め称える。
老婆も責めるつもりはないのか、大きくため息をつき、「ついておいで」と手招きをする。
「客間が空いてるよ。今晩だけ泊まって行きな」
「本当か!」
「そっちの子、震えてるじゃないか。早くおいで。風邪を引いても明日には出て行ってもらうからね」
仁は林琳に己の外套を素早く着せると、手を取り老婆の背中を追った。家に招いてくれた老婆は道中で名を小菊と名乗った。
◆
「お、おいしい!」
まさか暖かい食事まで出てくるとは。
思いもよらぬ、もてなしに仁は老婆に潤んだ瞳で感謝の意を伝えた。
「その様子だど碌に食べてないんだろう。ほら、粥でも食べな」
林琳の前に置かれたのは仁とは不揃いの柄のお椀で、量も少ない。仁の方はお椀と言うよりも、丼だ。
胃に化け物でも住んでいるのか、仁の前に置かれた食事は驚く間もなく吸い込まれていく。老婆も気を良くしたのか、休まずに次々と運んでくるので、仁の箸が机に落ち着くことはなさそうだ。
さて、竹林では食事を不要としていた林琳だが、急に固形物を流し込んで腹を下さないか心配だった。肉体は実態を保っているものの、中身がどうかわからない。それ以前に、食事を受け付ける肉体であるのかすら疑問だった。
目の前に置かれた粥は、さぞかし美味しいのだろう。それに、ただの粥ではない。程良い量の葱が入った卵粥だ。お椀からは暖かそうに湯気が立ち上り、鼻を擽る。老婆の気遣いか、米も形を崩すほど煮込まれていて、食べやすそうだ。幾度か考えた末、思い切って口に運んだ。
「……うん」
とても優しい味だった。以前に比べて味覚が弱まっているのか、寒さで感覚が鈍っているのか判断はつかないが、紛れもなく美味しい、と声に出せる味だ。食事中も口数の多い仁が黙々と食べている理由が分かった。
「あんたは食が細そうだからね。それぐらいにしときな」
鶏の丸焼きも美味そうだと箸を伸ばした瞬間に、目的の皿ごと消えた。行き場のない箸は微かに震えていた。
唖然として固まっている林琳を見た仁はごほっ、勢いよく咽せる。冷めた目を向けてくる林琳に仁は軽く謝罪するとお茶を注いでやった。
小菊は仁の空になったお椀を器用に積み上げ、「うちの息子もそうだった」と呟いて厨房へとまた戻ってしまった。やるせない気持ちになりながらも林琳はこれ以上冷める前にと粥を味合う。忙しなく口に詰め込んでいた仁も厨房から皿を洗う音が聞こえてくるのを知ると、速度を落として黙々と食事を続けた。
「静かな家だよな」
落ち着いたところでぐるりと室内を見渡すと、小菊は一人暮らしなのだろうか、物が少ない。敷居を跨いだ時は灯りもついておらず、生活音も人の気配もなかった。寝静まっているにしても、呼吸音さえ聞こえない。小窓は開けっ放しになっており、そこから響く虫の鳴く声が妙に心地良い。
先程まで船を漕いでいたというのに、林琳は頬杖をついて小窓の外に見える庭をじっと見つめていた。
「外に何かいるのか?」
正面に座る仁は身を乗り出すと、真似して小窓の外を見る。
いたって普通の庭だ。決して大きくはないが、日の差し込む場所には畑があり、根菜が三種類程育ってる。きっと仁が口にした芋もあそこから取れたのだろう。小まめに手入れをしているからか、雑草も見当たらない。
「見てみろ。鍬が二本ある」
「鍬……?」
震えの止まった指先で、林琳は畑の手前にある物置小屋を指した。柄の長い鍬と、それに比べると拳二つ分短い鍬。どちらも雨風にさらされているため、内側が腐食しており、柄の部分には亀裂が入っている。刃の部分も錆びており、いつ壊れてもおかしくない状態だ。「息子がいたんだろう。きっと俺たちと歳の近い男だ」
言われてみれば、この部屋には女性が持つには不釣り合いな置物が戸棚にあった。鍬も、歳をとり腰の曲がった小菊のために短く調整したのだろう。
「姿が見えないけど……」
「三年前に死んだよ」
片付けを終えた小菊は戸棚から質素な木箱を取り出すと、二人の間に置いて見せた。漆喰で加工された木箱は質素ではあるが、美しく蝋燭に灯された火を反射して輝いている。蓋を外し、中にある指輪を手のひらに乗せて、寂しげに見つめる小菊は懐かしそうに笑った。
「綺麗だろう? 最期にあの子が遺した物だよ。優しい子で、お前と同じ食の細い子だった」
幅のある指輪には小粒で美しい石が散りばめられており、小菊が身に着ければ裕福な家に住む女主人だと錯覚するだろう。しかし、側面に引っかき傷があるのが惜しい。
「ここは幸楽美国。全てが手に入る、貿易で栄えた国の城下町」
「幸楽美国!? 世界で一番の貿易量を誇る国じゃないか!」
「ここがどこかも知らずに来たのかい! 正門に書いてあっただろうに!」
門番に拘束されなかったのは奇跡だ、小菊は目を点にした。
「いや、裏山から入った」
背中の筋肉をほぐしながら大きく伸びをした林琳は、悪びれる様子がない。いかんせん、この二人も見知らぬ土地に放り出されるとは想像もしていなかったし、それよりも凍え死ぬのを回避することで精一杯だった。正門なんて関係ない。入ることができればそこはもう入り口として成り立つ、そう考える二人は完全なる暴論だった。
「ま、一度来てみたかった国だ。運が良い」
"幸楽美国"
世界各国から商人が集まり、貿易を展開している国の名である。世界から主が消えると、幸楽美国は真っ先に貿易の門を閉じた。貿易で栄えていたこの国では、いつ刺客が入り込んでもおかしくない状態だったからだ。もちろん、自国の生存を第一に考え、全ての門を閉じることはせず、限られた国の間でひっそりと貿易は続けられた。以降、数十年は平和な日々が続いた。しかし、主の消失から数百年が経ち、世界が新たな均衡を保ち始めた頃、他国からの反感が国を襲う。「門を開け」と初めに声を上げたのは、隣国の者でもなく、ただの旅人だった。旅の仲間が病に罹り、薬を求めにやってきたというのだ。
丁度、幸楽美国は長の代替わりの時期であり、これを機に長年閉ざされていた門を開き、旅人を手厚く看病し、送り出した。こうして幸楽美国は徐々に貿易を再開し、さらに、国内最大の宿場である桜陽宿場を建設した。今の幸楽美国は、貿易だけでなく、旅人の身体を癒す役割も担っている。
問いたいことは山ほどある小菊だが、既に月は傾き始めている。己ももう歳だ。息子と同じ年頃の成人した男に説教をしたところで、疲労を抱えるのはわかりきっている。裏山から降りてきた二人は、もっと疲れているに違いない。小菊は自分のお節介な感情に言い聞かせ、戸棚に木箱を戻した。
「そうかい……もういいよ、客間を用意したから今日はもう寝なさい」
明日はこの手間のかかる客人を送り出し、畑を耕して、家事を済ませたらあの子のいない日常を送るのだ。
「本当にありがとう!」
「礼はいいから早く休みな」
「ありがとう」
申し訳ない程度に頭を下げる林琳が側を通り過ぎ、また静寂が訪れた。ふと、二人の座っていた席に視線を落とす。
小菊は、なんというか、寂しかったのだ。誰もいない家で一人で食事をとり、息子の三回忌を終えた途端に、不思議と涙が溢れて止まらなかった。普段はこんな時間に出歩くバカな真似はしないが、もしかしたらあの子が戻ってきているのではないかと、あり得ない妄想を抱いてしまった。無論、死んだ者は帰ってこない。だからこそ、息子と同じ背丈の二人にお節介を焼いてしまったのだ。
「良い夢を」
それは誰に捧げた祈りなのか、本人もわからない。
林琳たちは小菊が用意してくれた客間を見つけ、体に付着した埃を払い、扉を開けた。用意された客間は一つ。予め言っておくが、別にそこに問題があるわけではない。問題があるのは、綺麗に並べられた布団の距離だ。ほとんど隙間がない。部屋の広さを考えると、布団を二つ並べるのには無理がある。小菊も多少気を遣ったのか、普段置かれているであろう小棚は部屋の隅に押し込まれていた。色々と観察する癖のある林琳は、床の変色具合ですぐに事情を察した。
「師兄と同じ部屋なんて何年振りだろう!」
そんな中、仁は上機嫌に笑って見せるので、折角満たされた腹から沸々と苛立ちが顔を出す。
仁と林琳は腐れ縁と呼べるくらい長い付き合いだが、今では想像できないほど過去には様々な衝突も起きている。今更そんなことを引き出されるのは嫌だと思うかもしれないが、林琳が同室を嫌うにはもう一つ大きな理由がある。
「寝ろ、馬鹿」
これ以上苛立つ前に、林琳は素早く、なおかつ強制的に仁を眠りにつかせた。
それ即ち、気絶である。
◆
穏やかに差し込む朝日の光が、口を開けて気持ちよさそうに寝ている仁の長い睫毛を照らす。天気の良い日だ。うららかな日差しが程よく室内を温め、深い睡魔を誘ってくる。外では市場が開かれ、若い女子たちの楽しげな声が響き賑わいを見せている。時折、子供特有の幼い声も聞こえてきた。
林琳が唯一の窓から外を覗くと、案の定、何人もの子供たちが水遊びをしているのが見えた。この国は比較的気温の変動が穏やかで、一年を通して雨が降る日は両手で数えられる程度だ。これでは庇も意味を成さない。林琳は眩しそうに顔を顰め、陰になっている椅子に腰を下ろした。
既に日は高く昇り、二つ寄り添っていた布団は今や仁が一人で占領している。枕さえも仁の腕の中で、夢の中に旅立っているのか目を覚ます気配はない。形のいい唇の奥には鋭い犬歯が見え、薄く開いた口からは今にも涎が零れ落ちそうだ。まるで子供をそのまま大きくしたような姿で、竹林の領域で外の世界から切り離されていた林琳は、すうすうと奏でられる寝息にため息が出そうになった。
「どこにいても呑気な奴」
視界に映る景色はよく見慣れたもので、衝動的に立て掛けてあった竹で小突いてしまった。人を竹で小突くなんて酷いじゃないか、と思うこともないのが林琳の性格だ。実際、昔からよく物で小突いていたし、今更気にすることでもない。それに、この男はまるで起きる気配がない。寝返りすら打たず、反応さえしない。当たり所が悪かったかと、昨夜無理矢理気絶させたことが脳裏を過る。渋々「早く起きろ、置いていくぞ」と声を掛ける。懐に少額でも金があれば、この男を置いて行ったのに。悲しいことに一文無しでは少し不安がある。現世では腹は減るし、睡眠も必要、適度な運動も必要だ。全てに対して金銭のやり取りが発生する。なんと面倒なことか。
ぼんやりと天井を見ていると、間延びした声が聞こえてきた。
「起きたか。とっくに日は昇ってるぞ」
「んー、あさぁ……あさかぁ……」
「お前の頭は夢の中か」
「起きてるって……」
「庭裏に井戸がある、そこで顔でも洗ってこい」
鳥の巣よりも酷く絡まっている長髪を手櫛で解きつつ、だらしなく起き上がった仁の足取りは重たい。腰下あたりまで伸びた黒髪は本人の意思に関係なく絡まってしまう。とりあえず結い上げておくのか手慣れた様子で上手く一つに纏めた。
揃って客間を出ると「小菊さんは?」と聞いてくるので「さっき一緒に朝食を済ませた」とまだ眠気の取れない林琳は応える。お前が起きる二刻にはもう食べ終わっていたぞ。林琳は仁が睡眠を貪っている間に、朝の挨拶を交わし朝食も素早く頂いたのだった。一人置いてけぼりだった事を知った仁から文句が飛んでくるが、全て聞こえていないふりをした。一度は起こしたのだ。そりゃあ、丁寧に肩を揺すって。何度も起きろ、と言葉を投げかけてやったのに、こいつは夢の中。
「夜も遅かったからぐっすり眠れた」
おまけに寝落ちしたと勘違いしている。真実は違うが、林琳は「良かったな」と流す。なかなかの威力で気絶させてしまった。直前の記憶を夢の中に置いているなら、それはそれで良い。
「あ! 小菊さん! おはよう!」
「寝坊助め。ほら、手拭だ。井戸水で顔を洗っておいで。さっき林琳は使ったから、覚えてるね。使い方を教えてやりな。それと、井戸水を持ってきてくれ。水瓶の底が見えててね」
小菊が側にある水瓶に触れる。あそこにある程度水を溜めて炊事や洗濯をする際に使うのだ。小菊はもう腰の曲がった老婆で、井戸から水を汲み上げる動作は体に響くのだろう。それにうっかり井戸に落ちたらひとたまりもない。二人は大きめの桶を三つ預かる。二往復したらあの水瓶は満たされると思う。
庭に出ると昨日見ていた鍬と畑が迎えてくれた。倉庫と反対側に進むと井戸に辿り着き、林琳は使い方を教えた。なんとこの井戸、小菊の息子が掘って作ったものだ。この家の近くに河川は無く、少し上流へと足を運ばなければ水を確保できない。若い頃はそれで事足りていたものの、老いた母を見てどうにかならないかと思い一心不乱に掘り続けたのだ。実際に使えるようになったのはそれから数年後。綱をひき、拳程の錘と鶴瓶が梃子の原理で連動し水を汲み上げる一般的な仕様だ。
井戸水はよく冷える。ばしゃばしゃと顔を洗う仁の手の隙間から溢れた水が飛んできて、まるで水浴びのようだ。肌けた襟の間を掻い潜り、胸元に水が滴って妙に色っぽい。大雑把に手拭で顔を拭くと、寝ぼけていた顔には覇気が戻り、溌剌とした仁の性格がその顔から滲み出ている。仮に、女がこの場にいたら、百発百中で射止められているだろう。
「冬楽……?」
ふと柵越しに目が合ったのは、背丈が林琳たちと同じくらいの青年だった。日に焼けた肌が彼の年齢をあやふやにする。仁が振り返ると、青年は慌てて「す、すまない。人違いだ」と恥ずかしそうに頬を指先で擦った。身なりからして彼は馬丁らしく、隣には毛艶の美しい馬を引いている。
そのまま去ろうとする青年に、仁は興味本位で話しかけた。
「立派な馬だな」
仁は鋭い目を丸くして声を張る。予期せぬ声に狼狽えたのが柵越しに分かった。仁が顔を洗っている間に、水を組み上げていた林琳は、鶴瓶を元の状態に戻す。
仁の声に、青年は驚いたように振り返った。「ありがとう。主人の愛馬なんだ。散歩が好きだからこの時間はよく歩いてて」と、藤と名乗る馬丁は馬の自慢をいくつも挙げ、再び恥ずかしそうに頬を擦った。逆剥けや節々の太い手は、真面目な働き者である証拠だ。
藤が自慢したくなるのも理解できる。目の前にいる馬は鍛えられ、全速力で走らせようとするなら、乗馬する者もそれ相応の体幹が求められるだろう。大人しそうな馬に見えるが、散歩を邪魔された苛立ちから早く歩けと藤を鼻で押し催促する。藤はなだめるように手を添え、馬は満足したのかしなやかな足で数回足踏みをした。蹄から鳴る音すら、軽快で美しい。藤によく懐いており、戯れ合う姿はまた可愛らしい。
催促する馬に急かされて「ごめん、もう行かなきゃ。良い一日を!」そうやって笑うと、軽く手を振り藤は街の中に姿を消した。
二人も水の入った桶を持ち小菊のいる居間へ向かう。
「で、冬楽って誰?」
「知らん」
桶を二つ持った仁と、一つの林琳が、可能な限り水を零さぬように歩く。若干桶の水量が違うが、仁は気にしていないようだ。むしろ、率先して二つ先に手に取ったのは仁で、水量も多い方を選んだのだ。
「それにしても綺麗な馬だったぁ。きっと金持ちの屋敷で飼われてるに違いないぞ」
「金欠のお前が見たことのない料理も出るかもな」
美味そうな酒を見つければ、その場で値段も見ずに金を払う。もし今外で開かれている出店でも見ようものなら、すぐに飛んで行くだろう。そうして夕方になれば賭博に行き、一儲けして懐を潤すのが一連の流れだ。
「その、ちょっと、の度合いが違う。何度お前と同じ部屋に泊まる羽目になったか、思い出せ」
仁は口を尖らせて桶の水を水瓶に流し込む。
「別に良いじゃん……昔は同じ部屋で後輩達と寝てたのに」
未だに不満を垂れる仁に、林琳は「悔しいなら俺に屋敷の一つでも贈ってみろ」と最後に一言添えて、二度目の水汲みに向かう。慌ただしい足音が追い付くと、厨房から小菊の声が飛んできた。
「仁、それが終わったら饅頭を食べな」
「やった!」
甘やかさないでくれ、そんな林琳の心の声は届くはずもなく、流されるまま水汲みを終えた二人は昨日と同じ卓で饅頭を頬張っている。
「うまーい! 小菊さんは料理が上手だな!」
「ははは! そりゃ嬉しい」
二人は側から見れば親子のようだ。来客がきたとしても、仁が迎入れても違和感は感じられないだろう。林琳は時折機嫌よく跳ねる小菊の声に耳を傾けながらそんなことを考えていた。
ところがどっこい、遊びに来た訳ではない。
「世話になった。そろそろ行くよ」
林琳は一口の大きさになった饅頭を放り込むと席を立つ。
「え、あ、そうだったね」
落胆した様子の小菊だが、本来、彼等はこの家に遊びに来たのではない。思い出したのか同じように席を立つ。
「息子の墓はこの家にある? 余所者が立ち入ったんだ、一言挨拶ぐらいしないと。化けて出て来られたら困るし」
首の後ろを摩りながら言う。
「ばっ……」
「よく耳にするだろ。想いが強ければ人の影は遺るんだ」
ましてや一人息子となれば、母に対する思いは一層強いはずだ。
「それは、あの子が……まだこの世にいるってことなのかい?」
信じられない、という風に口を震わせた。
"人の影"
過半数の宗派では、人の想いが強ければ、死後も影となって形を成すと公言している。実体を持つ者として現れることは報告されていないため、影と呼ばれるのが一般的だ。しかし、その影には故人の思いが宿り、時には周囲に影響を与えるとも言われている。
「ま、風の噂で聞いた話だけどな。それで、墓はあるのか?」
理想的なのは肉体が火葬され、埋葬されている墓。しかし、淡々と述べる林琳に対し、小菊は視線を落とし、ただ一言「何もない」と消えそうな声で呟いた。
「挨拶する墓もないんだ。化けて出るなんて有り得ないよ」
「何もないのか」
「ない」
「待て待て。じゃあ何故、死んだと決めつけるんだ。生死さえわかっていないのに、死んだ事にするのか」
林琳は心底理解が追いつかない顔で捲し立てた。
どきりと心臓が跳ねた仁は居ても立っても居られず、小菊との間に割って入り遮る。その行動が機嫌を損ねたのか、冷たい視線を受ける。いつも受けていた絶対零度の視線ではない。それよりも口を震わせたままの小菊が心配だ。能天気な仁にも人と人には踏み込んではならない境界線があると知っている。特に、人の死は。何よりも踏み込んではならない壁だというのに、この男は呆気なく飛び越えるので、肝が冷える。
「林琳、言い過ぎ。一人息子を亡くしてまだ三年だぞ。傷も癒えていないのに」
「気になるからだ。墓も骨もない。死んだ姿も見てないんだろう? 普通、微かでも生きていることを望むだろ」
「林琳!」
これ以上、この男が何か言う前に口を塞がねば、衝動的に手のひらで目の前の口を覆った。一瞬で穏やかな朝の景色が険悪な雰囲気に染まる。
「やめなさい」
終止符を打ったのは小菊本人だった。仁の肩を掴むと、その手を降ろさせる。
「何人も行方不明なんだ。数十年、誰一人と戻って来ていない。——あの子もまた、この国の神に……選ばれたんだよ」
まるで意図せずに飛び出たと言わんばかりの言葉は、林琳の最も嫌いな単語を含んでいた。意味深い言葉に眉を顰めるが、所詮この国も同じか、どこか遠い意識の先で納得する。
「神……? 国の長は知っているのか」
「さぁね。今の世代の長は中々人前には出てこないよ。確か……張・周郗。かれこれ百年は代替わりしていないね。巷では人ではないって噂さ。修行者だから歳を取らない、馬鹿げた噂もある。それでもこの国の政は動いているから、ちゃーんと生きているはずさ」
聞きたいことは今のうちに聞いてくれと言わんばかりの態度だ。間違いなくこちらに非があるのに、怒ることもせずに、疲れた様子で椅子に腰かけた。
「そうか。長はどこにいる?」
「暫く河川に沿って上流に行くと、大きな屋敷がある。ご立派な門があるからすぐに分かるよ」
淡々と返したが、林琳の問いかけを再度頭の中で繰り返していると、一つの可能性が過った。思わず「まさか会いに行くつもりかい︎」と切羽詰まって言う。興味本位だ、笑う林琳を叱りたい気持ちになるが、小菊はグッと耐えて「血の気が引いたよ! いいかい、絶対に、お屋敷に近付くんじゃないよ」と念を押す。
林琳は心が弾むのを抑えられなかった。それは随分昔に戻った感覚で、耐えきれずに口元が弧を描く。怪奇が蔓延っている——白い花が漆黒に塗りつぶされる感覚を覚えたあの日。憎悪に近い愛が、再び林琳の思考を湧き立たせる。
仁は顔が頬が引き攣って、嫌な予感が背筋を冷たく流れるのを感じた。
◆
人の群れが街路を忙しなく移動する。
人々が街路を忙しなく行き交う。
小菊と別れた二人は、出店に視線を走らせながら、幸楽美国の凄まじい賑わいに気を取られていた。周囲には、行き交う人々の声や子供の笑い声が響き渡り、四方八方に華やかな衣装をまとった令嬢たちが、楽しそうに話に花を咲かせている。まるで生きた絵画のような光景だった。
「賭博場はどこだ?」
この賑わいの中に、賭博場が一つや二つ、すぐに見つかるはずだ。しかし、決して賭けをして遊ぶつもりはない。ああいった場では、つい手を出してしまうことが多く、楽しみ方も理解できずに距離を置いている。しかし、賭博場を探す理由は複数あった。頭上の太陽にうんざりしながら、看板の文字を探すと、突然、袖を引かれた。
「林琳、こっち」
「うん?」
「看板ばかり探しても見つからないって。役人に見つからない場所で開かれる事が多いんだよ」
人の流れから抜け出した先で、仁は林琳の手を引いて、風変わりな店に入った。どんな目的があるのか、訝しげに周囲を見渡す。店内は雑多な物で溢れかえり、骨董屋か我楽多屋かも分からない。自由に動けるスペースは入り口付近だけで、動くと全ての物が倒れそうな気がした。天井からは、さまざまな品々が所狭しと吊り下げられている。
「誰かいないか。教えてもらいたい事がある」
奥に見える部屋に問いかけると、店内に置かれていた物達に反響して妙な響きへと音を変えた。薄く伸ばした細長い鉄を極限まで折り、手を離した途端に発生するあの奇妙な音に近い。仁は両手で耳を覆いたくなるものの、顔を顰める事で耐えた。
「気色悪い店だな。師兄、見ろよ、この我楽多」
「もしかしたら高値で売れるかもな。いくつか貰っていくか」
堂々の窃盗発言。近くにあった藍色の壺を手に取ると、底を見たり、中を除いたりしてぬけぬけと言う。この大きさならば夕食代にはなるか。
「ああ! 巫山戯るな! 勝手に触るんじゃない!」
「居留守する奴に言われたくないね!」
「俺は忙しいんだ!」
男の頬には床の木目がくっきりと残っていて、無精髭と無造作な髪型からは、寝転がっていたことがうかがえる。整った顔立ちだが、人前に出る格好ではない。林琳が壺を逆さにしているのを見た男は、顔を蒼白にして狭い店内を掻い潜り、急いで壺を取り戻そうとした。
「あああ! お宝に触るな!」
我が子を抱く姿で壺を抱きしめた。優しく撫で、林琳が触れた箇所を羽織の袖で軽く擦る。
「これだったら役人も近付こうとはしないだろうな」
仁と目が合った林琳は、そのまま男に凍たい視線をやりながらせせら笑った。
「よく聞け、餓鬼。これはな幸楽美国でも数少ない貴重な壺だ。この藍色の塗装を施せる職人はもう存在しない。どれだけ苦労して手に入れたと思ってるんだ」
じっと舐めるように壺を鑑賞した男は、満足したのかそっと元の場所へ戻すと、己より背の高い二人を見上げる。端正な容姿に面食らってぽかんとしてしまった。大切なお宝を取り戻すことに必死で気にしていなかったが、よく見ると二人とも魅力的な男だった。夕焼けを宿した瞳の持ち主は、少し顔色が悪く、健康とは言い難いが、庇護欲をかき立てる。隣の黒髪は鍛えたようで、細身の体にしっかりとした筋肉がついている。普段この場所に訪れる人間とは違う雰囲気を持っていたため、彼らが旅人であることが理解できた。
「突然邪魔したのは申し訳ないけど、居留守するおっさんも悪いよ」
「ふん。……餓鬼が一体何の用だ」
「この国で一番大きい賭博場を……」
賭博場と聞いた男は、目を皿にして、部屋の隅へと逃げた。隅と言っても物で溢れかえっているこの場所ではさほど隅とは言えないが。林琳が「おい、どうした」と声をかけた途端に男の様子がおかしくなる。身体を震わせると「しゃ、借金は来月までに返す!」と意味不明な言葉を放った。心当たりのない内容に二人は首を傾げて、部屋の奥に引き返そうとする男を、仁が素早く男を捕まえた。
「すぐに用意はできないんだ! 頼む、時間をくれ!」
「暴れるな、締めるぞ」
「ひっ……!」
懲りずに暴れる男の横から、林琳が竹先を向けて静止させる。まだ突いていない。一般的な体格にもかかわらず、意外な力で抵抗する男に、仁はその肘を掴み、無理矢理前屈みにさせる。最小限の動きで男を床に押し付け、「どうする?」と林琳に問いかけた。
その瞬間、からんと何かが落ちる音がした。
「札……?」
それは男の懐から滑り落ちた木の板だった。林琳は興味を引かれ、その板を手に取り、じっくりと観察する。林琳の手の半分ほどの大きさで、正方形に近い寸法、非常に軽い。
指先に凹凸を感じたので裏返すと、一面に大きく「伍」と掘られている。何らかの番号を示しているらしい。文字の下には小さく「京」と刻まれていた。ますます怪しくなってきた男を前に、林琳はどうするか悩んでいた。
仁は賭博に関する知識に長けていた。開かれる場所、参加する人間、行われる取引について。宗派の仲間と旅をしていた頃は、情報収集の役割を担っていた。
この店が賭博場ではないととっくに気が付いている。
「へー相当借金抱えてるんだな。使い込みすぎ。一月じゃ返せない金額じゃん」
愉快そうに札を林琳から受け取り、軽々と弄ぶと、男は背中を丸めて蹲ってしまった。腕に古傷があるのは、暴力を振るわれていたからだろうか。
「"伍"ってのは、借金している金額。そうだなあ、藤の連れていた馬を競にかけたら、多分それぐらいの値がつくよ。京はこいつの名前」
仁は林琳に事細かに説明した。普段賭博に興味のない林琳が札をもっと見ようと手元を覗き込むと、さらりと朱色の髪が仁の顎を掠めた。思わず頬が微かに緩むのを感じた。静まれ、俺の頬。このまま形のいい頭に擦り寄ったら、命が危うい。仁は必死に意識を他に向け、林琳が離れたのを察すると、京の前に札を掲げた。
「どこで賭けたんだ? こんなに借金ができる賭博場なんて、並外れた規模さ。教えてくれよ」
黙秘するつもりか、京は依然として口を割らなかった。口を割れば、借金先に殺されるに決まっている。賭博で生じる一群は、心を持たない残虐な人間たち。役人に見つかった酒屋の店主が酷い死に方をしたのは記憶に新しく、京は何としても口を割るわけにはいかなかった。旅人だと勘違いしたことを悔やんでいた。
想像以上に怯える姿に可哀想だとせめてもの情けを仁は与える。耳元で聞こえた忠告に、京は心臓が跳ねるのを感じ、嫌な汗が流れる。
「ご無沙汰だからな、上手くできなくても責めるなよ」
「いや言い方……」
仁は流石にそれはないと頭を抱える。
二人は昔から問題児として様々な宗派から指摘を受けていた。特に林琳の方は人でなし、と罵られたこともある。本人は一切気にすることもなく、余計にその表現が彼に当てはまっていた。
誰がどう見ても脅迫だ。庇護欲なんてちっとも感じない。威圧に京の心はぽっきりと呆気なく折れ、捨て鉢になる。
「妓楼だよ! 通りからでも楼閣の頭が見える。張家の屋敷とは正反対にある妓楼だ」
そこで行われる賭博は違法と言われても弁解できない。聞く話によると、名家だけでなく商人、旅人までもが参加しているため、金の出所は妓楼そのものではないらしい。元締めがいるはずだと仁は即座に理解した。しかし、同時に何となく、元締めの人物は誰も知らないのだろうと察した。
「ちゃんと教えた、返済は待ってくれ!」
「待つも何も、俺達は関係ないけど」
「勝手に勘違いして喋ったのはお前。馬鹿なの? 大方、役人の手先か、元締めの手先だと思ってるみたいだけど」
役人の手先ならもっと情報を搾り取るし、元締め側ならどこで儲けたなど聞くはずがない。度肝を抜かれた様子の京は、弾かれたように立ち上がり、吠えた。
「だ、騙したな!」
「騙したも何も……」
脅しはしたけれど、危害は加えてない。札を京の手に握らせると、仁は京の方をポンと叩いた。同じ賭博好きとして、先程の脅迫を忘れて慰めている。
わかるよ、その気持ち。次こそは勝てるって信じて、負けた分を取り返す為に掛金を上乗せするんだよな。上手くいけば負けなしの勝ち越し。夢があるよな。それでも限度ってものがある、独り身だからって無理をするな。
徐々に説教になっているのを仁は気づいているのだろうか。その前に京が独り身だと決め付けるのも、大概失礼だと思う。変な友情が芽生えている賭博組を尻目に、林琳は退屈そうに中を見て回る事にした。
部類の異なる様々な我楽多に視線が散漫になる。さっきの壺も然ることながら、確かにお宝と評するに値しそうな物も数多くある。その手には詳しくないので、素人目線だが。
その中に見覚えのある木箱を見つけた。漆喰で塗られた、あの木箱だ。何故ここにあるのかと、林琳は木箱を手に取った。小菊の持つ、木箱と瓜二つだ。音を立てずに蓋を開けると、中には想像通り指輪が一つ。小菊は最後の贈り物だったと言っていたし、この辺りで流通していた流行り物かもしれない。しかし、借金をしてまでも我楽多を集めている京が、流行り物を買うだろうか。否、その可能性は多いに低い。特に京は我楽多(京に言わせればお宝)流行り物ごときに金を出す男には見えなかった。
借金を返済するために我楽多を売ることを嫌がっているのだろうか。この木箱はそれほど価値があるものなのか。 ただの流行り物ではないとすれば、母と子、二人で暮らしていた裕福とは言えないあの家に、何故それが存在していたのか。
拭いきれない不信感を胸に、林琳はそっと木箱を先程とは違う場所へと戻した。
◆
馬丁の藤が屋敷に拾われたのは、善悪の判断ができない無垢な幼い子供の頃だった。彼は辺境の地で生まれた孤児で、気が付くとこの国に辿り着いていた。後から聞いた話によれば、人身売買で荷台に隠されていた孤児を見つけたのが始まりだったらしい。しかし、藤の記憶では他にも孤児がいたように思うのだが、主人は頑なに「お前しかいなかった」と言う。彼がそう言うのであれば、それが事実なのだろう。たとえそれが真実でなくとも、ただの使用人の立場では何も言えない。
「藤、こちらへ」
厩舎で散歩から帰った馬を手入れしていると、西廂房(藤の主人が住む場所)から声が聞こえた。純白の衣を纏った二十歳中頃に思える主人が、手招きしているのが目に入った。微笑みを浮かべた顔で、馬の世話で汚れた藤を呼んでいる。
「御主人様」
「今夜、出かける。馬を出しておくれ」
「はい」
「炎希は使えるか」
炎希とは主人の愛馬の名前で、今朝散歩を催促してきた馬だ。正真正銘の牡である。
「はい。旦那様方は別の馬をお使いですので、お出しできます」
北側にある正房(屋敷の主が住む場所)には誰もいない。今この屋敷にいるのは、藤の主人である陳・白琵だけである。白琵はほっとした様子で「良かった」とその眉目秀麗な顔を緩ませ笑う。踵を返す白琵に藤は慌てて礼をすると、炎希の鬣を念入りに梳かした。名の知れた家の子が乗る馬だ。他の者に見下されぬように、細心の注意を払わねばならない。一心不乱に手を動かした。
そういえば、今朝話した男たちは一体誰だったのだろう。見覚えのない顔だったが、長髪の後ろ姿に昔馴染みの面影を重ねた。それにあの家は冬楽の住まいで、母親の小菊が一人で生活していたはずだ。小菊はお節介焼きの性格だと、藤は冬楽から間接的に聞いていた。あの二人は客人だったのかもしれない。
冬楽が消えて、もう三年が経った。
引っかかりのなくなった鬣を、するりと滑った腕が重力に沿って落ちる。長髪を風に照らし、体を河川で冷ます光景が脳裏に弾けた。屋敷に近い、幅の広い河川。冬楽はいつもそこにいたというのに。「藤!」と名を呼ばれることは、もうないのだ。途端に藤は目の奥が熱くなり、胸の奥を抉られる感覚に襲われる。探しに行く勇気も、この屋敷を出る覚悟も、臆病者には持ち合わせていない。自分を恥じることで、藤は余計に……死にたくなった。愚か者の情けない感情だ。藤は足元が揺れるのを、なけなしの自尊心で耐え、炎希の鬣に顔を寄せた。目に沁みる感覚を終わらせるため、ぎゅっと瞼を閉ざして零れ落ちるのを防いだ。そうやって深く深く、抉られている胸にも蓋をした。ああ、早く、収まれ。
どうしたの、何があったの、と湿った藤の背を鼻で摩る。
「お前は優しいね」
細長い耳を傾け、物悲しい声で炎希は鳴いた。
◆
"金桃楼"
すっかり日の沈んだ幸楽美国では、妓楼の金桃楼が人を集めていた。人の流れは大きく二つに分かれ、一方は妓楼へ、もう一方は張家の屋敷へと向かっている。よく見ると、身なりも異なる。
「どうせあいつらもこちら側へ来る。何たって屋敷の門は動かないからな。何が面白くて屋敷なんて見に行くんだか」
酒瓶を逆さまにして微かに落ちてくる雫を楽しむ京。
「別嬪さん! もう一本!」
男を見定めていた妓女を呼び止めたのは京だ。そばには林琳と仁がいる。妓女は無精髭の京に対して嫌そうな素振りを見せたものの、若い男たちに視線を向けると「すぐにお持ちします」と熱い視線を残して去って行った。
「は、見た目で判断しやがって。俺は客だぞ」
「人の金で呑んでるやつが客な訳あるか」
「ここまで案内してやっただろうが!」
「なあ、用済みって言葉、知ってるか? 後ろからつけて来た挙句に、無銭飲食。馬鹿なの?」
「……ふん」
悔しいが、京には返す言葉もなかった。
あれから二人が金桃楼に足を運ぶのを予想していた京は、しっかりと戸締りをしてちゃっかりつけて来たのだ。入り口で妓女に捕まり「三名様ですね」と記憶にない人数で、後ろを振り返ると、多少身なりを整えた京の姿が目に入り、発覚した。
借金に追われているのに敵地に乗り込むような真似をして、脳味噌も我楽多で詰まっているのか。あれだけ怯えていた癖に、妓女に絡むし、とても借金に追われているなんて思えない。林琳は到底理解できないと溜息を吐いた。
「お兄さん、こっちで遊びましょう?」
美しい顔のぽってりとした唇に紅を引いた妓女が、京に視線をやっている仁の頬に指先を滑らせた。どう見ても誘っている仕草だが、仁は己の頬に触れた指をそっと優しくいなすと、妓女が持つ酒を取る。ほとんどが京の腹へと収まっているので、林琳は仁から受け取ると、その酒を一番遠い場所へと置いた。
机には沢山の料理が並び、中にはこの幸楽美国特有の新鮮な果物が鮮やかにその身を輝かせている。林檎はこれ以上赤くなれば、赤色ではなく茶色へと身を腐らせる、そんな色だ。
「ほら、林琳。もっと肉を食べなきゃ。そんな林檎ばっか食べてないでさ」
「やめろ、皿に置くな」
「それ、ちゃんと食べるんだぞ」
聞く耳持たずだ。腹を下しやすい体質を忘れたのか、あるいは、俺の腹は無敵になったとでも思っているのか。山盛りになった皿を(それでも成人男性にしては少ないが)苦い表情で睨む。
「ねぇ、どこからきたの?」
どうやらこの卓についたのか、妓女は林琳の隣に陣取ると酒を注ぐ。その所作までが芸術の一種に値すると京はうっとりと目に焼き付けた。
「そいつには注がなくていいから」
どうにか肉を口へと運びながら、箸先を京へと向けた。「ふふ、わかりました」と艶笑した妓女は一つ、杯へと注いだ。恐らく林琳に対してだと思うのだが、注がれた酒は仁へと押しつけ、妓女がもう一度杯に注ごうとしたのを制する。妓女がぴたりと動きを止めたので、林琳はその酒を奪うと別の杯へと注いだ。もしここがどこか名家の会食の場であれば、即刻罰を与えられる行為だ。だが、ここは妓楼。この程度の無礼は、軽いものだ。全く気にしていない妓女は様々な話を聞いてくる。適当にはぐらかして答えていると、妓楼の雰囲気が一転した。適当に誤魔化して答えていると、妓楼の雰囲気が一転した。隣に座る妓女も惚けた表情をしているので、一体何だとその視線を追うと、妓女を凌ぐ美しい男がいる。妓楼に遊びにきた人々は皆、その男を見ると感嘆のため息を漏らし、賑わっていた空気は全て男のものとなってしまう。
「白琵様、今宵こそ誰かを買われるのかしら? ……きっと誰も選ばれないでしょうけれども」
「白琵?」
「そうよ。張家の唯一の分家、陳家の御子息よ。よくいらっしゃるのだけれど、誰も買わないの。噂では意中の人がいるって話よ」
「へぇ。良いところのお坊ちゃんが、こんな場所に来るなんて、変わってる」
「いつも外交のお付き合いよ。ほら、よく見て」
妓女の目線をさらに追うと、白琵とは違い、商人らしき姿がちらほら見える。身なりもこの場では少し浮いているし、白琵が知性に溢れていると喩えるなら、彼らは武芸に長けていそうな肉付きだ。あれらが外交の相手だろう。白琵は上等な妓女を数人呼ぶと、料理と酒を指示し、二階の奥へと消えていった。
内緒話をしている二人を訝しむ仁は、つまらなさそうに、とろりと煮込まれた肉を摘んだ。
「なぁ、陳家は商人の生業なのか? 外交なんてお偉いさん方の仕事だろ」
「え? えぇ、私はそういった類の話はよく分からないのだけれど……」
妓女、蓮華はたどたどしくも話す。
陳家は張家の唯一の分家でありながらも独立した生業を持ち、国を支えている。それが他国との橋渡し、即ち外交であった。幸楽美国では塩や鉄などの取引も盛んであり、各国から取引が持ちかけられる。それらを陳家と、張家に使える大臣が握っている。また、張家は国の長ではあるものの、皇帝と呼ばれるような一国の王ではない。幸楽美国が今現在まで姿を変えるまでに、国民に寄り添い、親しまれてきたおかげで、長として崇められているのだ。——神として信仰する者さえいる。
「白琵様の従兄弟は国外では、幸せを運ぶ鳥と呼ばれる素晴らしいお人と聞いたわ」
「なんだ、見た事はないのか」
林琳が蓮華を覗き込み尋ねると、ぽっと頬に赤い花が咲いた。
夕焼けを隠した瞳が蓮華の瞳を捉えた時、予想もしない視界の揺れで、体勢を崩して反対側に倒れ込む。ぽすん、と背中から人肌を感じた。
「もういいでしょ!」
頭上から聞こえる声は熱を持ち、肩に置かれた手は、林琳の肩をしっかりと握っている。そこから伝わる熱が鬱陶しく、身動ぎした。
「おーおー。見せつけるねぇ」
目の前に座る京は怪訝な顔を隠さず、虫を払う素振りで「他所でやれ」と声を上げた。京は取り上げられた酒瓶を一瞬の隙をついて掴み取ると、そのまま豪快に美酒を味わった。
先ほどから親しそうに話している二人に対して、仁は幼い感情を隠せずにいた。師兄である林琳は昔から人を寄せ付けない男で、人見知りとよく言われていたが、単純に面倒だからと集団行動を避けていただけである。ただ、片燕だけは許されていたようで、一人話しかければ、後輩たちに囲まれているのだ。本人は仏頂面で逃げようとするものだから、後輩たちはあの手この手で捕まえる。そして、異常なまでの怪奇好きでもある。
「暑苦しい」
仁の胸板に寄りかかっている状態から抜け出すと、肩が触れない距離で胡坐をかく。
恐らく白琵が談話しているであろう個室を何気なく見る。丁度林琳たちの卓からは、固く閉ざされた扉だけがわずかに見えており、中は伺えない。
「気になるのか?」
「黙って飲んでろ」
「飲む酒がない。そうだなぁ、追加でこれだけよろしく」
指が五本、天を指している。
ぎょっとして仁が「おい、俺の金だぞ」とその指を折る勢いで掴むが、蓮華は名残惜しそうに林琳を横目で見て立ち上がると、甘い香りをふわりと残した。勿論、仁は美しい女が離れたというのに目もくれない。
林琳の目線が一定の場所で留まっているのを京は見逃さなかった。林琳の皿に積まれた肉を横取りしつつ、京は賭博の話を持ち掛けた。
「今日はどれだけ賭けるんだ? これだけ食ったんだ、それなりに資金はあるんだろう」
食ったのも飲んだもの、半分以上がお前だぞ。おまけに賭博まで催促か。それに林琳の肉を食うな。泥棒が。どいつもこいつも、気に入らない。罵詈雑言が飛び出しそうになるのを、仁はぐっと耐えた。
妓楼内を優雅に客を探している妓女の中で、京がある特定の妓女を呼び止めた。他の妓女や蓮華に比べて装飾が多く、手首には煌びやかな腕輪が付けられている。翡翠の腕輪が女の細さを際立たせた。「如何なさいましたか?」と、蓮華とは違った完熟した妖艶さを見せる。
「これを」
何やら懐から紙切れを取り出し、その妓女に手渡す。
恋文か、身請けか、と二人が見ている前で、妓女は他の客に見られぬように器用に目を滑らせる。どうにか見ようとするが、妓女は傍にあった蝋燭で紙切れを燃やしてしまった。一体何が書かれているかわからないが、賭博場への入り口だと答えが少し間を置いて脳裏に浮かんだ。
「承りました。では、こちらへ」
妓女の唇が、挑戦的に弧を描いた。
最上階の一番奥、絶対に日を拝むことのできない、四方を妓女の部屋に囲まれた一風変わった場所。林琳たちは幸楽美国最大の賭博場に身を置いていた。目の前で繰り広げられる、多額の賭博のやり取り。金だけではなく、価値のありそうな掛け軸、衣、宝石が賭博の結果で次々と持ち主が変わる。まさか妓楼内で行われているとは誰も思わないだろう。林琳たちは京から渡されていた外套を頭から深く被り、素顔を隠す。街道を歩けば注目の的だが、この場では何もおかしくはない。おおよそ半数は素顔を隠しているからだ。
京はすでに戦場についており、早速運との戦いを始めるようだ。
——賭ける金があるなら酒代を返せよ。
ごもっともである。
賭博場はさほど広くはなく、いくつか置かれている行燈からの光で照らされている。薄暗い中で微かに照らされる世界では、扉の外にある世界とは天と地の差。仁はこういった場に慣れているのか、得意な賭け事を探しているようだ。
「勝ち目は?」
「八割」
「残りの二割は?」
「取り返せる」
懐から銀を取り出すと、双六勝負に身を投じた。万国共通ではない賭博でも、双六は基本的に動きが同じようだ。まず、双六の個数を決める。最も少ないのが三個、最も多いのが六個だ。個数は交互に決める。その後、全ての双六の目を足した数字を予想し、賭ける金額を伝え、実際に振る。簡単な流れだ。申告した数字と出た目が同じなら相手の賭け金ごと返ってくる。逆に、相手が目を当てればこちらの賭け金は相手の懐へ。ちなみに一対一の勝負である。双方外せば賭け金は賭博の元締めへ。仁はよく分かっている。この手の勝負には必ず不正が隠れていると。もし目の前に座る小太りの男が不正なんて愚かな行為をしたら、懐に隠した匕首で切り刻むかもしれない。ぎらぎらと獲物を射抜く視線に、男は脂汗をかいていた。
仁から個数を決める。
「五つ、目は十九」
「目は十五」
双六を振る。
——十二
「四つ、目は十」
「目は十三」
双六を振る。
——七
「……六つ、目は三十」
「二十五!」
——三十
「ご馳走様」
悔しげに賭け金を投げつける男。その様子を見ながら、仁は何度も双六を繰り返し、次第に懐が潤っていく。林琳は物珍しそうにそれを眺めていると、京がふらっと後ろから覗きに来たのに気づいた。どうやら彼も今回は相当儲けているらしい。心なしか少し浮き足立っている。
「兄さんもやってみるか?」
参加するか否か、答えを決めかねていると仁と席を変わる形で、舞台に上げられていた。最大限声を小さくして、「さぁ、個数を決めて。大丈夫、勝っても負けても問題ない」と囁くものだから、一つ頷いて双六を三個振る事にする。こちらの出目は十、相手の出目は七。双六を振る。
面白い事に林琳が双六を振れば振る程、連敗する。本人を差し置いて、勝手に盛り上がっている外野に嫌気を覚えつつ、林琳は最後の双六を振った。完全に出目を期待していない仁と京の視線が双六を捉えた。
「お前、とことん運がないな」
「……これでお終いにしよう」
やめろ、肩を叩くな。勝っても負けても同じだと言っただろう。林琳は目深に被った外套の隙間から仁を恨めしそうに睨む。若干軽くなった仁の懐に対して申し訳ない気持ちはまったくなく、お前のせいだぞと小言を漏らしたい気持ちでいっぱいだ。
賭博場に来たのも、こんなふざけた遊びのためではない。情報収集が目的だ。役人の目をかい潜って行われる賭博に姿を現す人間は、碌な生き方をしていないだろう。賭け金が正当な金であるかどうかも誰も知らない。実際、京の持ち金が本当にこの男のものなのかすら不透明だ。
周囲の人々はそれぞれに賭博を楽しんでおり、中には設けられた卓で怪しい取引をしている者もいる。豪華な箱からは真珠の装飾品や、見たこともない異国の薬草が取り出されている。禍々しい色合いの薬草は、各国で問題視されている阿片だ。過剰に摂取すれば幻覚や幻聴を引き起こし、最終的には中毒になることもある。治療用に少量を用いる場合もあるが、継続的な使用は禁じられている。少し下の階で白琵が外交の取引を行っているというのに、その上では阿片の取引や大規模な賭博が行われている。国の長や張家の人間が見たら、卒倒するに違いない。
さりげなく聞き耳を立てていると、左の卓から突然言い争いの声が響いた。
「でたらめを言うな! 出目は八だった!」
「よく見てみろ、この場に出ている出目は二十だ!」
「確かに八だった! 目を離したすきにすり変えたんだろう!」
「くだならい負け犬が吠えるな、さっさと金を出せ!」
男は今にも掴みかかり、殴り殺そうとする勢いで、周りも玩具を見つけたように囃し立てる。これではいつか殺人が起きると思ったが、無論止める事はしない。暫くそうやって遠くで傍観していると、今日はもうお開きの雰囲気を察して人がまばらに消えていく。ただ、一斉に扉から大勢の人が出てしまうと通常の客に怪しまれる可能性があるからか、何名かが外の様子を確認して、捌ける。言い争う二人が屈強な男達に、引きはがされているのを尻目に、呆れた京が間合いを二人に見て声をかけた。京も仁も懐が潤っているから、あんな目を向けているが、立場が逆であればまた違うのだろう。林琳は何が面白くて賭博をするのか、連敗をした身からは見出せなかった。
流れに沿って賭博場を後にすると、突然ドン、と何かにぶつかる。
「いっ……」
おまけに足を踏みつけられ、林琳は我にもなくその背中を追いかけそうになる。しかし林琳よりも早く、仁が長い足を使い器用に引っかけるが、予測していたようで、易々と逃げられてしまった。じくじくと鈍く襲う痛みと、踏みつけられた痛みに林琳はその場にあった香炉を力任せに投げつける。真っ直ぐ軌道を変えずに飛んだ香炉は、鈍い音を立て、直撃する。隣から煽てた口笛の音がする。怯んだ隙にもう一発と、別の香炉を手に、先程よりも素早く投げた。狼狽えた人影は避けようと身を翻すが、避けた先は木彫りの扉が全開で、そのまま妓楼の外へと転がり落ちて行った。瓦にぶつかる音が微かに響いたが、それもぴたりと止む。
思いがけない出来事に、京は狼狽えた。彼は扉の近くまで駆け寄り、下を見下ろす。変わり映えのない、妖艶な景色が広がっていた。人が倒れていないか、目を細めて必死に探す。もし最上階から落下したのなら、どこかに引っかかって救助を待っているか、あるいは地面に叩きつけられて血の海と化しているだろう。瓦はいくつか剥がれているが、人の姿は予測した落下地点から遡っても見当たらなかった。街からは悲鳴も上がっていない。死体が出来上がっていないと知った林琳と仁は、心の中で「ざまあみろ」と嘲笑っていた。
「師兄の投擲、最強だな!」
京の米神に怒りの印が浮かび上がり、怒りの圧を受けて木彫りの扉が軋む。
「悪餓鬼共が!」
爆発したように怒る京が二人の首根っこを掴み、脅威の速さで人目につかない階段を駆け降りると、妓楼の裏口から放り出された。そこは我楽多屋敷までの抜け道だった。
「もし死んでいたらどうする! 役人に見つかって、このお宝も奪われるところだった!」
我楽多屋敷に戻るや否や、京はこの怒り様だ。耳にたこができるほどの叱責だった。小部屋で着古した衣に着替えながら、京は二人を叱りつける。
「その時はあんたを餌に逃げてたよ」
うんざりした表情で仁が言い返す。もうかれこれ半刻、この状態が続いている。叱られる身になりたいものだ。
「結局、収穫なしかぁ」
すっかり聞く耳を捨てた仁と林琳はどうしたものかと天を仰ぐ。
消えた小菊の息子、姿の見えない国の長。張家の開かずの扉。怪奇の匂いで充満した事件は、簡単には尾を見せてはくれないらしい。何人も消えているというのに、この国は怯える事なく、普通を装って生活している事が変に思える。賭博場で耳を傾けても、それらしき言葉は現れず、無駄足だったと舌打ちする。うっかりこちらが巻き込まれるところだった。
「この国に一体何を探しに来たんだ? 貿易以外に取り柄のない国だぞ」
飲み直すことにしたのか、京は酒瓶を二本取り出し、投げて寄越した。パシリと右手で受け取り、林琳と仁は剥げた長椅子に腰を下ろす。京は仁側の肘掛けにもたれて座った。
仁は答えに迷い、さりげなく酒で誤魔化した。潤った懐によって気分が高揚している中、下手に口を開けば余計なことを口にしてしまいそうだった。
「怪奇探し」
長い脚を組み力が抜けたように、林琳は背もたれへ体重をかけ、天井を見上げて告げる。異常に疲労感が凄い。現世に戻ってから想像以上の時間の流れに接していたからだろうか。このまま眠りそうになるが、意識ははっきりとしている。
「は……? 怪奇?」
急に長椅子が揺れ、反動で傾いた。
「お前達……どこかの宗派に属しているのか」
なんてことだ。京は身体中の血液が冷えていくのを感じ、現実と夢の境目が曖昧になる錯覚に陥った。滑り落ちた酒瓶はとうに割れ、甘い酒の匂いが充満するのさえどうでもよくなっていた。沸き起こる感情に名前を付けかねていると、足の先から堪えられない悲哀が身体中を巡る。
「今更、何をしに来た」
冷えた腹の底を振り絞り出した言葉は静かで、そう言わなければならない、まるで義務で溢れた音色だった。
「何人も消えた。子供を亡くした親は、自ら命を絶った人間もいる! 大勢の人間が死んだ……どうして、もっと早く来なかったんだ!」
「五月蝿い」
林琳から叩きつけられる感情のない言葉に、仁は背筋が凍った。
「じゃあ聞くけど、長である張家の人間は助けを求めたのか? 誰かが声を上げたのか? 怪奇を隠しているのは、この国だ。無責任に仕人を頼るな」
目を瞑ったままの林琳は興味がなさそうにしていたが、京を蔑む目で見つめていた。
「また勝手に勘違いをしているけど、俺は仕人じゃない。ただの旅人だ」
その言葉に反応した仁が林琳に何かを言いかけるが、京に遮られる。
なぜ仕人でもない人間が怪奇を探すのか。隣にいる男も旅人か。またこの国は怪奇に襲われ、それを隠して歴史を刻むのか。京は己を締め付ける思考と、林琳からの鋭い意見に何も言えなかった。
「夢天理が来てくれれば……」
"夢天理"
複数の宗派が同盟を結び、出来たのが夢天理と呼ばれる組織だ。宗派は勿論、宗主は皆平等の位置付けである。故に、時に大きな怪奇には手を組み調査にあたる。謂わば、世界で最も大きな組織である。
林琳はその名を嫌というほど耳にしてきたので、さらに疲労感が増した。林琳を問題児と呼ぶのは主に夢天理の人間だからだ。それに、昔から付き纏ってくる目障りな男を思い出す。二度と会いたくない男だ。今世で二度と会わないように努力できるなら、辛い修行よりも精進してみせる。
「なぜ怪奇を隠すんだ。国民は気付いてるだろ」
「……気付いていないから、問題なんだ。怪奇じゃなく、神への生贄に選ばれたと信じている。だから、終わったことは誰も口にしない」
「その神が怪奇だと知らない……張・周郗は何をしている? 阿片の取引なんざ、そうそう見ないぞ」
「さぁな。今でも屋敷で寛いでるんじゃないか。どうでもいいのさ、この国のことなんて」
何十年と怪奇が棲みついて人が喰われている。もう何をしても無駄だと冷笑する。神が人を攫い、喰うものか。人々は張家を神と祈り、国の繁栄を願う。犠牲となった人間は生贄として供養され、残された家族には多額の金が陳家から極秘に贈られた。
「陳家? 分家の一族が払うのか」
「正確には張家の指示のもと、陳家が代理でな」
「長の姿がないだけで、人間は屋敷に存在しているのか」
「当たり前だろ。この国の政を動かしているのは張家だ。陳家は外交を担っているだけで、国の政は関与できない。新しく法令が決まれば、長に仕える大臣が伝令を出す」
「陳家と張家は……人間が人知れず消える現象を怪奇の仕業だと知った上で、隠しているのか」
「怪奇の住み着く国と……外交したがるぶっ飛んだ国がいるなら、見てみたいっての」
確かに、と仁は三回頷いた。
怪奇に巻き込まれたら最期、碌な死に方をしないからである。それこそ、林琳が竹林で見つけた奇妙な魂がいい例だ。誰しも死後の世界が気になるものである。できる事なら、苦しみから解放され、穏やかな世界を望むだろう。輪廻転生の渦に戻ることが、正しい死に方なのだ。
「怪奇を隠すなんて……それは国を滅ぼすのと同じだろ。今までに何人も行方不明になっているなら、怪奇に気付く人だっているはずだ。身内を失った家族だっているはずなのに、……この国の人々は幸せそうだ」
街路で見た人々を思い出す。甘美な衣装、賑わう人々、嬉しそうに舞う花びらたち。全てが完璧で、国民は幸せであるかのように見えた。
「洗脳だ」
林琳は初めからそこに答えがあったように笑った。
怪奇を神と思い込ませる。神がいなくなったこの世界で、各地で人々は縋る先を見失っていた。幸楽美国では、国の長を神として崇め、縋ったのだ。何事も“神"の仕業だと言い訳にして、都合の良い物語に消化する。“神に選ばれたのだ"と何十年も教え込まれてきたのだから、受け入れてしまうだろう。洗脳さえ解けなければ、神に守られた国だと信じて疑わない。縋る先を見失った人々にとって、甘い蜜の罠だった。
国を去った者たちは、洗脳に犯されていた事実に気付いてしまった。人は弱い。大切な人間が生贄にされた現実を隠して生きていく。何十年も真実を抱え込んで目を背け、この国に縛られる。想像するだけで反吐が出そうだ。
「逃げ出せないのか」
「……洗脳を知った人間は軒並み処刑された。表向きは神に逆らった故に受けた罰だと晒されて」
限りある儚い命を、神ごときで消化していいものなのか。
「愚かだな。実に愚かで醜い生き物だ。怪奇に喰われて滅びる、典型的な流れだな」
「国なんて、そんなものだ。美しい物語だけを見て、臭いものには蓋をする。声を上げたら逆罪として死刑は逃れられない」
「だから誰も訪れる仕人に助けを求めなかったのか」
「そうさ、この国は国としては強くても、人としては未熟。側にあるものを見ようともしない」
「あんたはどうなんだ」
林琳は口をつけていない酒瓶を差し出し、京を覗き込み問う。
「俺達が仮に仕人だったとしたら、あんたは……どしてた」
いや、実際仁は片燕の仕人ではあるのだが、己は破門された身であるため、ただの人間でしかない。追及すれば実態があれど、純粋な人間と答えるのは心なしか難しい。困ったぞ。万が一、古顔に出会ってしまったら。破門された一番弟子について回る二番弟子。今思えば、至る所で問題しかない。あまり仕人の話をするのは避けた方がいいかもしれない。怪奇を追ってきた訳であって、他の宗派、ましてや夢天理と顔を合わせるつもりは毛頭ない。特にあの男に遭遇なんてしたら……寒気で身震いした。
しばらく無言の時間が流れた。外では武候鋪(消防組織)が声を出し、歩いている。
京は仕人を見つける度に、何度も声を掛けたくなった。しかし恐怖に打ち勝てず、諦めて、賭博で五感をわざと狂わせた。
言いたかった言葉を漸く伝えられるのかと興奮し、わなわなと口を震わせた。
「もし……もし、仕人だとしたら。怪奇を取り除いて欲しい。この国が怪奇に喰われる前に」
爛々と強い意志を持ち、輝く瞳。その瞳の奥には燃える魂が垣間見え、林琳と仁は目を奪われる。
「相手は得体の知れない存在だ。陳家を犯人にするには情報が少ない。……国を敵に回すのが怖くないのか。下手をしたら怪奇に喰われるかもしれない」
「国が滅ぶ方が恐ろしいだろうが」
京は語る。怪奇に襲われ、次々に国民が消えていく。この国が、隠し通せる訳がない。各国から愛され、支えられてきた幸楽美国が、怪奇を隠していたとしたら。国民がこれ以上消えてしまったら。関係諸国から責任を問われ、この国は戦場と化すだろう。張家が滅びようとも、陳家が奈落に落ちようとも構わない。それでも、国民は路頭に迷う末路しかない。洗脳されている国民は、被害者であり、何も悪くないのだ。
「あんまりだろう……この国に税を収め、国外の人間にも優しく接する。真っ当に生きている人間だ。国が守ってやるべき存在だ」
林琳は何も言えなかった。
世界に蔓延る怪奇を京の視線で見た事がなかったからだ。林琳にとって、怪奇とは愛おしく、そして憎い存在。誰が死のうと、関係はなかった。巻き込まれる方が悪いのだ。戦う力のない者は、怪奇に近付いてはならない。主が消えたこの世界を生きていく上での決まりだった。
「あんたはただの、国民だ。被害者の一人にすぎない。そこまでする義務がどこにある」
ましてや、敵に回すのは国だけではない、悍ましい怪奇だ。
「……この国に生まれた義務がある」
終わりがなさそうなやり取りに痺れを切らした仁が立ち上がり、口を開く。
「師兄、これも何かの縁だ。俺たちは怪奇を探す、おっさんは怪奇を取り除きたい。たったそれだけだ」
悪くない協力関係じゃないか、仁が林琳の前にしゃがみ込み説き伏せる。京は過剰に反応し、仁と林琳を交互に見た。きらり、瞳に僅かな希望が宿った。林琳は眉間を揉み、唸ると手に負えないと項垂れた。
こうして、突如三人は手を組むことになった。
◆
三日後の昼、彼らは大通りから外れた場所で羊肉を貪っていた。集まったのは、互いの情報を共有するためである。林琳は目の前に積まれた羊肉を恨めしそうに見つめ、全部食べたら胃の底からありとあらゆるものが逆流してくると感じた。大変行儀が悪いと思いつつ、箸を突き刺すと、がぶりと噛みついた。ほろほろと崩れる肉を気合で飲み込むと、喉がごくりと鳴った。
この三日間で分かったことがある。時を止めていた肉体はどうやら通常の人間と同じ構造らしく、三大欲求は失われていないようだ。ただし、性欲に関しては、以前同様に皆無なので確かめようがない。
「はー、質素な飯。味が薄い」
京が言う。
「お前が借金取りに追われていなきゃ、料亭で旨い飯が食えたのにな」
三日前に賭博で儲けた金はどこへ行ったのか。半分は返済ができる金額だったはずだ。まさか、次の賭博で一瞬にして溶けたというのか。
「あの金は別で使う予定がある。人様の金に文句をつけるな」
「黙れ引き篭もり」
林琳たちは、我楽多を磨きながら怪しい笑みを浮かべる京を引っ張ってきたのだ。辛気臭いあの屋敷では気が滅入ってしまうと仁が言った。
京が林琳の皿に手を出したのを仁が叩く。
「それで? 引き篭もりのあんたは収穫があったのか?」
林琳はもう食べる気がないのか、小さな丸椅子に胡坐をかいて聞いた。蝶結びの腰紐が体制上苦しく、飲み込んだ羊肉が飛び出しそうになる。片足だけ地面につけて落ち着いた。
「金桃楼で面白い取引を見たぞ。今まで見たことのない取引だ」
三人は顔を寄せ、話の内容が漏れないように細心の注意を払う。
「人身売買だ」
「は?」
「それも一人、二人じゃない。辺境から奴隷を仕入れるらしい」
人身売買は強盗や窃盗、殺人の比にならないほどの重罪である。即刻死刑、もしくは見せしめで斬首されることもある。幸楽美国では人身売買の取引は一切禁止されており、見つけ次第切り捨てられた事例もある。その言葉に、空気が凍る。
「そんなの……成功する確率が低いだろ。危険をわざと犯す馬鹿がいるってのか」
はたまた、必ず成功する糸口があるのか。
京は続けて説明する。
仕入れた奴隷は幸楽美国から、更に先の国へと売り飛ばされる。つまり、幸楽美国は経由地点でしかない。様々な経路に綻びがいつの間にか生まれており、潜り抜けられたのだろう。貿易国故に逆手に取られた可能性が浮上した。万が一、取引が公の場に出たとしたら、犯人は幸楽美国へ擦り付けるつもりだ。陳家は責任に問われ、張家は没落。国としても滅びの道へと一直線だ。
「何もかも最悪の状況だな」
「想像以上に面倒な事になりやがった」
林琳からしてみれば、人身売買の件に関して手を貸す気はないのだが、怪奇が絡んでるなら仕方がない。一度手を組むと決めたのだ。怪奇だけを片付けて、京を見捨てるのは仁が許さないだろう。
「そっちはどうだ? 何か分かったか」
「あー……実は」
「歯切れが悪いな。まさか収穫なしか?」
「今夜、桜陽宿場に忍び込む」
再び空気が凍った。
京は林琳の報告にあんぐりと口が開いたままだ。顎が外れていても誰も気付かない。
今日だって桜陽宿場は門が開いていた。何人も出入りする姿を目にしているし、忍び込む理由がない。疑わしい物があるならば、正面から行けば応えてくれるだろう。
「何を考えてやがる」
林琳はこの三日間の出来事を踏まえ、一つの疑問を話す。
「何事も悪事が働くのは夜が静まってからだ。あそこは金桃楼よりも客が多いし、気になる点もある」
裏山から凍てつく寒さを耐えながら辿り着いたあの日を思い出す。京は興味深そうに前のめりになり、耳を傾けた。今度は仁があの夜の出来事を掻い摘んで話した。
「俺達はこの国に来た時、宿を探して桃陽宿場の扉を何度か叩いたんだ。中からは話し声がするのに、誰一人応えない……翌日、女将と話したが、扉を叩いた音は聞こえてこなかったらしい。それに、あそこは一日中客を受け入れている。気になってこの三日間、決まった時間、子の刻にわざと扉を叩いた」
怪談を聞かされているような気持ちになりながら、京は羊肉を箸で細かく割いて相槌を打つ。林琳は「おかげでこの三日間、寝不足だ」と瞼を擦った。眼精疲労がひどいが、全く同じ行動をする仁はやけに元気で、余計に疲れが加わった気がする。
「怪奇ってのは、あいまいな存在だ。例えばお前の我楽多が一つ無くなったとして、犯人が見つからなければ、ただの紛失。手に持っていた我楽多が突如消えた、それが怪奇だ。まぁ、簡単に言うと信じられない現象って事」
「桃陽宿場に怪奇が棲みついてるってか!」
「確率は半々」
二本指を立てて仁は言った。怪奇が棲む場所は人が集まるところが多く、桃陽宿場はその格好の住処になり得るが、まだ怪奇と決めつけるには判断材料が不足している。
「その一、全てがただの偶然。その二、怪奇を含め何かしらの理由で扉が開かない」
「ま、後者であれば人間が絡んでいる可能性が高い」
怪奇に人間が絡むことは多々ある。面白半分で手を出して喰われて終わり、では済まない。怪奇は人の影を喰う。人の影とは、死に際に遺された人の想いである。簡単に言えば未練だ。それを数え切れないほど喰らった怪奇は歪な姿に変貌し、人を喰らう意志を持って、恐ろしい怪奇へと生まれ変わることもある。——怪奇は稀に成長する。それは現段階で唯一判明している情報だ。文書によれば、主がまだこの世界に居た時代には、怪奇はほとんど見られず、被害も少なかったらしい。暇を持て余した主がせっせと掃除をしていたのかもしれないと仁は笑い飛ばした。
「この先、怪奇と遭遇して喰われても文句はなしだぞ」
仁は念押しで早口になりながら、淡々と怪奇について説明した。
「お前たちは怪奇にやたらとに詳しいな……外の国では常識なのか? それに忍び込むなんて、普通に宿泊した方が安全だろう」
「勘違いする前に言っておくが、京、あんたは泊まるんだ」
林琳は当たり前だという風に肩を竦めた。
「子の刻になったら、仁と中から裏門を開けろ」
「殆ど犯罪じゃねーか!」
「俺も!?」
仁と京から異議の声が上がった。二人はすぐさま立ち上がって抗議するが、林琳は無視して机の上に銭を置いた。二人は林琳から見て左右に座っていたため、双方からの騒がしい声が降り注ぐ。
「座れ」
あまりの喧しさに随分と怒りを溜めたのか、威圧感がすごい。虎でも尻尾を巻いて逃げるような視線だ。
林琳が冷めた目をするのは珍しくないが、他人を威圧的に睨みつけるのは稀だ。仁は昔と同じく躾けを受けた気持ちになり、口を尖らせて座った。京も林琳の外見で威圧的な声が出されるとは思っていなかったのか、萎縮してしまう。無駄に視線をあちこちに動かすと、ようやく大人しく座った。
「俺は今から用がある。仁と京は先に部屋を取って、内部を捜索しろ。結果は期待しないから、気楽にやればいいさ」
棘のある言葉を投げかけると、林琳は早々にその場を去った。
残された仁は肩の力が抜けたのか、机にへたり込んでしまった。その際、三人分の食事代と宿代が置かれているのを知り、さらに表情が失われていく。どうやら、仁の知らぬ間に銭を調達していたようだ。一体どうやって——そんな疑問は林琳に対して無意味だ。三日もあればそれなりの資金を調達してくる、要領のいい男なのだ。
「へーへー、長のご意志のままに」
腹いせに茶化した京は、林琳が置いて行った銭を掴むと、店主へ支払った。もちろん、残りの宿代はきちんと取ってある。勝手に使うなんて馬鹿げたことをしたら、今度はあの竹で躾けられるに違いない。
「……長」
京の何気ない言葉に反応したのは皺の刻まれた老夫婦であった。
「懐かしい響きじゃな」
林琳は独り言だと思ったが、京はその言葉が自分に向けられていると理解した。仁は一体何の話か分からずにいる。
「長は本当にこの国におられるのか」
「お姿をお見せ頂けないのは、何かご病気だからではないのか」
「大臣等は何も言わぬ」
徐々に他の客も不満を零していく。今まで塞き止めていた壁に亀裂が入ったのか、老夫婦に感化されて店主も思わず「我々がこうやって平和な日常を送れるのも、張家と陳家のおかげさ。白琵様だけでなく、長にも直接お礼がしたい」と心から呟いた。
老夫婦をよく見ると、煌びやかな装いではないが清潔感があり、初対面でも好印象を与える雰囲気だ。顔に刻まれた皺も年相応に見える。
「建国の祝いすら、長は忘れてしまったのかもしれん」
そうだ、京はふと思い出した。半年程先ではあるが、建国を祝う祭りが開かれる。その日ばかりは貿易の門を閉ざし、幸楽美国だけで祭りを行うのだ。色鮮やかな花火が上がり、人々は張家に祈りを捧げる。随分と前の記憶で、その光景を京も忘れてしまった。
「いいじゃねーか、国は平和だ。仮に長が居なくとも、陳家がいる」
京は無意識に吐き捨てる。
「……若造、お前は分かっとらん。長である周郗様がどれだけ慕われておるのか。あの方は誰よりもこの国を想い、育ててきた。豪快に笑うお姿は、薄く張り詰めた不安を吹き飛ばす」
老夫婦はたった一度だけ目にした周稀の姿を、瞼の裏で描いた。藍色の衣に白い花が大きく咲いた衣。傍には数人の大臣がおり、的確に指示を飛ばしていた。歳を取り忘れた記憶の中で、幼い二人が焼き付けたその姿だけが、鮮明に刻まれている。
「百年も代替わりしてねーんだぞ……」
「長寿なだけじゃ。わしらと同じでの。ましてや、修行者ならば、心強い」
ふぉふぉふぉ、老人特有の笑い声にしんみりとしていた空気が和らぐ。仁もつられて頬が緩むのを感じた。店主も老夫婦と目が合うと、愛おしそうに微笑む。手が止まっていた客も食事を再開し、話し声が弾み始めた。
林琳がいれば、あの冷めた目で羊肉を突いていたのだろうと想像し、一人笑いそうになる。
仁は日の傾きからそろそろ動くことを決めたのか、京へ声をかけようとする。しかし、京は身体を固くして突っ立っているではないか。仁に背中を向けているため、表情が分からない。やけに広い背中だと、今さらながら思った。
「京?」
一呼吸置いて、京は静かに振り返った。仁は目を見開く。
——泣いている……?
乱雑に纏められた前髪の隙間から除く瞳は潤んでいないし、目尻も赤くはない。見間違えだとすぐに分かった。
「……なんでもねーよ。ほら、行くぞ」
その場を逃げるように、林琳に取り残された二人は桜陽宿場へと足を向けた。
◆
「二名? 部屋は一緒で良いかい?」
桜陽宿場の四代目女将・淅漓は、名簿と部屋番を記入しながら目の前の宿泊客に尋ねた。彼女の手際の良い作業に、客たちは流れるように宿へと吸い込まれていく。
仁と京は構わないと頷くと、女将は一枚の用紙を渡した。
「注意書きだよ。しっかりと読んで規律は守る事」
その用紙には、この宿に宿泊する際の注意事項が記載されている。仁はさらっと読み進めるが、京は初めてのせいかじっくりと時間をかけている。特に気になる点はなさそうなので、仁は紙をしまい、林琳からの代金を女将に渡した。隣に立っていた給仕がそれを受け取り、部屋番の札を手渡してくれる。宿の案内は給仕が引き継ぐようだ。
「ご利用は初めてでしょうか?」
腰の低い話し方をする給仕は二歩前を歩きながら、すれ違う客に会釈をする。
「運のいいお客様ですね。今回のお部屋は幸楽美国を一望できる場所なんですよ」
案内された部屋は確かに一望できる高さの階で、その部屋からは張家の屋敷が見える。他の屋敷よりも三倍大きく、構えられた門は屋敷を守る立派な造りだ。距離がある故に中までは全く見えないが、あの大きさだ、相当の人数の使用人が住んでいるのだろう。
京は興味がないのか、寝台に寝転んでいる。
「靴ぐらい脱げよ!」
身なりは崩れているものの、京から悪臭はしないので、風呂には入っているはず。それでも汚れた履物のまま寝台に上がるのは如何なものか。仁は年上の京の靴を強制的に脱がせた。京はされるがままに、大きく伸びをしつつ目を瞑る。仁は思わず彼の靴を窓の外に投げてやりたい衝動に駆られた。
「では、ごゆっくりとお休みください」
給仕は最後まで丁寧な言葉で、部屋の薄い扉を閉める。鍵はもちろん内側からのみ使える仕組みで、給仕が去ったのを確認して施錠する。人も多く、動きにくい状況だ。仁は寝台に腰を下ろし、一息ついた。
林琳は今頃何をしているのだろう。用があると言っていたが、詳細は仁にはわからない。林琳は勝手に行動することが多く、仁はいつの間にか彼の姿を探すようになった。怪奇の匂いを嗅ぎつけると、林琳はどこにいても追いかける。そして、その林琳を追いかけるのが仁だった。数年、彼の背を見つめ続け、いつの間にか背丈を越し、力も強くなった仁は、ようやくその手を握れるようになった。それでも仁は林琳を優先する。ずっと昔から、そうしてきたのだ。
寝不足の頭で思い出に耽るうちに、意識が遠のく感覚がした。まずい、このまま寝入ってしまう。ぶんぶんと頭を振り、飛び起きた。
「おっさん! 起きろって!」
もうとっくに申の刻を過ぎている。仁は京の肩を揺すり、支度をさせると、施錠した扉を開けて廊下へと出た。
林琳との約束の時間までに建物内を探索することに決めた。林琳が期待していないからこそ、何か成果を得たいと思ってしまうのは、昔からの癖だ。
行き交う給仕たちは皆楽しそうに働いていて、接客にも手を抜かない。その姿から、女将の教育がいかに丁寧であるかが伺える。
金桃楼とは異なり煌びやかな飾りはないが、清掃が行き届いており、所々に置かれた花が程よい甘い香りを漂わせている。このお香とは違った甘い香りに、客は心の奥底から安らげるだろう。
外に出ると、客たちはそれぞれにくつろいでいる。敷地に設置された長椅子に腰掛けて酒を楽しむ者や、街へ遊びに出かける者が行き交っている。中には大荷物を持っている者もおり、長い旅路の途中だと見て取れた。本当にこの国一番の宿場だと実感する。
「えーっと、裏門は……」
大きな池には九曲橋が架かり、いくつもの太鼓橋がその上を通っている。水面下では鯉が悠々と泳いでいる。仁はその池の先に倉庫を見つけた。九曲橋を渡り、実際に倉庫へと辿り着くと、付近に人がいないことを確かめる。倉庫の隣では、洗濯物が心地よさそうに風に揺れていた。日が暮れかけている。給仕が片付けに来る前に探さなければならない。しかし、倉庫付近を調べると、すぐに何かを見つけることができた。
「これか」
随分と頑丈な錠が扉を締め付けている。無論、鍵は見つからない。
「約束の時間までに鍵を探さないといけないぞ」
仁は肩を落とし、腰を曲げて鍵穴をじっと観察した。おそらく、給仕か女将が持っているのだろう。
「貸してみろ」
後ろから伸びてきた腕が仁の手を退け、その錠を掴む。仁は扉の前から移動し、京の手元を見守る。京は不意に靴裏から細い金具を取り出した。先端は針のように鋭利で、長さは人差し指ほどだ。靴裏にそんなものを仕込んでいたのかと驚く間もなく、京は金具を鍵穴に突っ込み、かちゃかちゃと弄り始めた。数分もしないうちに、音が変化する。
——ガチャン
「お粗末な仕組みだな」
「本物の犯罪者じゃん!」
「馬鹿……、お前! 声が大きい!」
京は金具を素早く靴底に隠し、仁の頭を掴んで慌てて物陰に隠れる。幸い、こちらに気を取られている人はいないようで、胸を撫で下ろす。中腰のまま手に持った錠を再度扉に戻し、「これでいい」と満足気に呟いた。一見した限りでは、さっきと変わりなく思える。
「細工をしたから、鍵がかかっている状態に見えているだけだ。少し叩けば外れる」
「へぇ……」
「お宝の入った箱を開ける際によく使うのさ。骨董品ってのはな、中身が分からずに出回る事も多い。鍵がなけりゃ、こうやって開けるだけだ」
あの我楽多屋敷にある物の半数は、京が己の手でこじ開けたものだ。中身を傷つけないためにも、槌で壊すのはなるべく避けたい。最初の頃は苦戦したが、何十年もやっていると手先の感覚で覚えてしまった。
「林琳は裏門の場所をわかってんのか?」
「あー、多分?」
「何だよ、多分って」
「林琳の事だからなぁ」
解っていないようで、実は解っている。解っているようで、実は解っていない。今回に関しては、本人が子の刻に裏門でと明確に約束をしているので、前者だと思われる。まぁ、大丈夫だろう。そんな曖昧な回答に、京は呆れた様子で目を細め、小馬鹿にした表情で溜息を吐く。
「俺達を餌に怪奇を呼び寄せる……あいつを疑う事すらしねーのか」
「誰が? 誰を疑うって? ははは!」
今度は仁が小馬鹿にして、腹が破裂するのではないかと心配になるほど笑った。体をくの字にして笑うため、呼吸と笑いの間隔が狭くなり、咳き込んでしまう。
「餌役でも結構! 師兄が望めば何だってやってみせるさ!」
ひとしきり笑い終わると、生理的に浮かんだ涙を指で拭う。呼吸を整えるために清々しく深呼吸をする仁に対して、京は目の前にいる男が恐ろしく思えた。淀みのない翡翠の瞳が、水面に反射した夕日を吸い込むように輝いている。その瞳が、この場にいない林琳を捉えている錯覚に、京は目を逸らした。
「そこにいるのは誰?」
少女の声がすぐ近くで問いかけてくる。二人は倉庫の裏に身を隠し、声の持ち主を探した。親とはぐれたのか、幼い少女が不安そうに眉を下げている。薄桃色の可愛らしい衣に似合う、頬が丸いとても愛らしい少女だ。
二人は顔を見合わせ、どうしたものかと悩む。いきなり姿を現せば、少女は驚いて叫び声を上げ、気が付いた給仕や客が押し寄せるかもしれない。少々心苦しいが、このまま少女が離れるのを待つ。倉庫は二人の体をすっぽり隠し、気付かれる気配はない。
「どうかしたの?」
太鼓橋で鯉を眺めていた青年が話しかける。仁はその青年に見覚えがあった。
少女は正反対の方面から聞こえた声に驚き、その場で飛び上がると恐る恐る振り返る。しかし、その親しみやすい佇まいに落ち着きを取り戻す。
「お、お兄ちゃん誰?」
「え、あ、えっと……」
「怪我してるの?」
「え、あぁ、これ?」
仁は馬丁である藤の頭に巻かれている包帯を見て、同じことを考えていた。後頭部を強くぶつけたのか、真新しい包帯がぐるりと巻かれている。
「馬の世話をしていたら、思いっきり柵にぶつけたんだ。はは、恥ずかしいな」
藤はそう言って頬を擦った。
「お馬さんがいるの? 触りたい!」
「今日は連れていないんだ。ごめんね。ご両親はここに泊まっているの? 心配してると思うけど……」
促す藤に少女は、はっとして走り出す。
「あ! 危ないよ!」
あの年代の子供は行動の予想がつきにくい。小さい体で池にでも落ちたら大変だ。藤は少女を軽々と抱き上げると、ゆっくりと九曲橋を進み、地面へと少女を降ろす。いつも見る景色と違って面白いのか少女はずっと無垢にはしゃいでいた。長椅子に腰かける男女は両親だろうか。幼い手を藤へと振ると、両親の元へと駆けて行った。
仁と京も頃合いを見て倉庫裏から離れ、普通を装い太鼓橋を渡る。京が藤の事を面倒見の良い青年だと褒めるので、仁は藤との出会いを話した。
「馬丁か。どこの屋敷だ? 畜生、馬さえ見ればわかるってのに」
京が言うには、乗馬の際に馬が身に着けるあおり革には、名家であれば独特の印が刻まれているらしい。馬が美しければ美しいほど、名家の裕福さが垣間見えるのだ。しかし、残念ながら今日は馬を連れていないらしく、仁たちは藤の仕える屋敷を知ることはできない。
「でも、なぜ藤が桜陽宿場に……?」
ふと、誰もいない亭で足を止める。馬丁である藤には屋敷内に使用人としての住処があるはずだ。衣食住に困っているとは思えず、仁は藤の姿を再度思い浮かべて小首を傾げた。もしかして、藤の頭に巻かれた包帯は、彼の主人が手を上げた結果か。それで屋敷を追い出され、ここにいるのか。思考が重たく沈んでいく。もしそうであれば、敷地内にいるはずだ。
「藤……」
居ても立っても居られない仁は、京の静止の声を振り切って探しに行ってしまった。置いてけぼりを食らった京は、このまま別行動になるのは面倒だと、無精髭を撫でる。素性の知れない男二人に振り回される一日。慣れというものは怖いものだ。自然と足が進む。
こうして他の人間と過ごすのはいつ以来だろう。食事を共にし、同じ目的のために手を組む。はるか昔、我楽多屋敷に住む前の記憶が甦る。幸せだったかと問われれば、答えに困るだろう。常に気を張っていたし、自分の身は自分で守るしかなかった。身なりも今は見窄らしいが、昔はそれなりの格好をしていたはずだ……と思う。
「変わった外套を着た男を見なかったか? 歳は俺よりも一回り下だ。人探しをしていたと思うんだが」
何人もの給仕に尋ね回ると、京達を案内していた男が控えめな足音で寄ってくる。
「お客様。お連れ様でしたら、あちらに……」
給仕の指を追ってみる。明らかに談笑をしているではないか。
軽く給仕へ「助かった」と礼を述べると、給仕は頭を下げ、通り過ぎて行った。
「酷い怪我じゃなくて良かった」
「あははは……」
仁の心配は的外れで、馬の飲水を替えようとして頭を打ったらしい。余計な心配をかけてしまったと藤は謝罪する。むしろ、変な勘違いをした仁が無理矢理引き留めていることに気づく。申し訳なさを感じつつ、仁は藤の頭に巻かれた包帯を無意識に見つめた。触れるとまだ痛むのだろう。これまた立派なたんこぶだと仁は冗談交じりにからかう。藤は「主人にも笑われたよ。一瞬で屋敷中に広まったし」と頬を赤らめ、包帯を優しく撫でた。そして初対面の京に自分の名前を伝えた。お恥ずかしい姿を、と目を伏せる。
それならこの男、京も相当恥ずかしい姿だが……藤が穏やかな人間で良かった。
「主人……そうだ、藤はどこの屋敷に仕えているんだ?」
藤の話を聞く限り、きっと優しい主人なのだろう。怪我をした藤を案じて休みを与えたのかもしれない。心の中で、まだ見ぬ藤の主人の評価が上がっていく。
藤は「どうしてそんなことを聞くのか?」と不思議に思いつつも、隠す理由がない。まるで親しい友人を自慢するような声色で、するりと教える。
「陳家の御子息、白琵様だよ」
それだけなら良かった。しかし、少女を抱き上げた際に緩んだ風呂敷から、藤も気づかない速さで荷物が溢れ出し、狭い廊下に散らばってしまった。
「あぁ、しまった!」
鈍臭いってよく怒られるんです、すぐに拾いますから、羞恥心で言葉数が増える藤が落とした荷物は、庶民には手の出せない贈り物が多い。それに一個ずつ傷を確認して風呂敷に置くからか、一向に片付く気配がない。
この鈍臭さでは慣れた馬の世話で後頭部だってぶつける。
「手伝うよ」
藤は遠くに転がってしまった筒状の物を拾いに行ったので、仁が足元に転がった物を拾おうとする。世話が焼けるなぁ、くすくすと笑いつつ、気軽に手に取った箱。中では小物が転がる音が響いている。
仁は小菊の元で、京は己の持つ我楽多の中で、それを、知っている。
——漆喰を纏う、その木箱を。
血相を変えて奪い取ったのは——京だった。
京の行動に仁は咄嗟に反応し、腕を掴む。仁の力は一般的な成人男性よりも遥かに強く、振り払おうとした京には痛みが走る。
「何の真似だ」
「いや? 盗む気なのかなって思ってさ」
流石に仲間の盗難を見過ごすわけにはいかない。なんて出鱈目を口にしながら、じっと木箱を観察する。間違いない、小菊の元で見た木箱と同じだ。中には小粒の美しい石が散りばめられた指輪が入っているはずだ。
仁は京の動向を探る。無意識に力の籠った腕、額には脂汗。木箱を見たことで気が動転している。きっと京は何か知っているし、隠していることがある。それも重大な何かだ。
双方譲らずにいると、藤が眉をハの字にして戻って来た。遠くに転がった品を纏めて風呂敷の上に置き、紛失した物がないか何度も確認している。仁は怪しまれないように京の腕を離した。
「ちゃんと全部ある。あとは……」
京の持つ木箱だけだ。
血の気の引いた顔で木箱を睨む京は、鋭い視線を持ち主へと移す。場の空気は混沌としている。藤は木箱を返して欲しいのだが、血管が浮き出る強さでに掴んでいる京の顔を見て、迷ってしまう。少しでも触れようものなら怒りが爆発するのではないか、そんな張り詰めた糸が切れる気がする。
「京、そんなに気に入ったのか?」
仁が肘で突きながら、任せろと藤に合図する。藤は緊張感が少し和らぎ、その時に自分の掌が汗で湿っていることに気づいた。
「綺麗な箱だけど……怒られるのは藤なんだぞ、返してやれよ」
「……見たことのない物だからな、お宝かと勘違いしてしまった」
強張っていた顔の筋肉が微かに解け、肩の力を抜いた京は木箱を渡した。贈り物が揃ったことに安心した藤は、風呂敷を縛り直し、廊下を塞いでしまったことを詫びる。
「お騒がせしました。では、これで」
「お大事にな! 頭、ぶつけるなよー!」
「揶揄わないで……でもありがとう」
去り際に拱手し、藤は二階の方へと階段を登って行った。
「で? あの木箱に見覚えがあったのか?」
返答はなく、背を向けた京を仁は厳しく追及する。
「怪奇に喰われたいなら勝手に喰われてろ。手を組んではいるけど、お前の生死は……関係ないし」
無情な態度の仁を京は初めて目にした。基本的に温厚で情に厚い男だと思っていたが、目の前にいる人間は獲物を狩る眼差しをしている。冷徹さが全身を包み込み、心臓を揺さぶる。どうやら踏んではならないものを踏んでしまったらしい。京は先程とは違う緊張に襲われ、倒れたくなった。
「いいんだよ、答えなくても。ただ……」
林琳の妨げになるなら、お前との縁は今すぐに切る、絶縁の提言を仁は目を細めて言い放った。
一方、京は描いていた未来から突き落とされた。人々が大切な人を奪われずに生きていく——それはありきたりな未来だ。諦めかけていた未来を再び描くことができたのは、二人のおかげだったのに、裏切るような行為をしてしまったのだ。「覚悟のない人間とは手を組めない」と、感情の消えた刃が深く突き刺さる。——覚悟のない人間。仁が言う覚悟とは何だろう。怪奇やこの国と向き合う覚悟か、死ぬ覚悟か。いや、違う。そう気づいたのは、仁の靴が横を通り過ぎようとした時だった。
「俺は、お前たちを裏切りたくない」
裏切られた心がどれだけ脆くなるか、京の頭には記憶と共に刻まれている。様々な思いが去来し、脳を引っ掻き回され、吐き気がした。
「必ず話す。だから……林琳と一緒に聞いてくれるか」
仁の足が止まったが、京は後悔と情けなさで顔を上げられずにいる。幾つになっても裏切りとは恐ろしいものだ。一回りも歳の離れた男の愚かな姿を見て、仁は呆れただろう。虚勢を張り、本当は覚悟が備わっていないのだ。京は二人の立ち姿をよく考えた。仁と林琳は全てにおいて恐怖を抱いていない。堂々と背筋を伸ばし、前を向いている。そもそも備わっているものが違ったのだ。
下がったままの視線が、おずおずと仁に焦点を合わせようとした。その時、視界に映り込むのは、真っ直ぐに差し出された手。
「師兄は俺より厳しいぞ?」
「……ああ、お手柔らかに頼む」
京は覚悟を決め、仁もまた覚悟を受け入れたのだ。
◆
「嗚呼、長よ。どうか商売が上手くいきますように、お守りください」
仁と別行動をとっている林琳は、張家へ向かう人混みに紛れ込んでいた。目の前の商人が開かずの扉に祈りを捧げる姿を、腕を組みながら興味なさげに眺める。商人だけでなく、他の国民も多く集まり、扉の前はほとんど隙間がない。閉ざされた大きな扉が開かれる気配はなく、旅人たちはやがて来た道を戻って行く。流れの中には妓楼に向かう者もいるだろう。
張家の屋敷の周囲を見回ったが、塀に囲まれているため中の様子はわからない。途中で陳家の屋敷が目に入ったが、あちらは扉が開かれていて、使用人たちが汗水を流しながら働いていた。
林琳がここに来たのは、ただの暇つぶしに過ぎなかった。神と崇められる悲しき人間の住まう屋敷。その前で祈りを捧げる人々を見て、林琳は憐れみを感じて溜息を吐いた。
「長よ、神に選ばれた息子を誇りに思います。人の影にもならず、報われた事でしょう」
隣で幸福に満ちた声で呟く一人の参拝者。林琳は洗脳が想像以上に深く染み付いていることを実感した。
「林琳様?」
「……蓮華」
いつもとは違う装いに、町娘と勘違いしそうになる。金桃楼の妓女、蓮華だ。紅は控えめな紅梅色で、随分と雰囲気が変わったように見える。小振りな簪と耳飾りがよく映え、年頃の町娘にしか見えない。
「仁様とはご一緒ではないのですね」
刺繍の施された箑(団扇)で優雅に仰ぎながら、にこやかに笑みを浮かべる。
「あんたも何か祈るのか?」
「ふふふ、そうですねぇ」
蓮華が見上げる大きな扉は、彼女が生まれてから一度も開いたことがない。三年前、彼女が妓楼に身を置くことになったきっかけは、大きな嵐だった。
「大きな嵐が襲ってきたのです。民は皆、神のお怒りだと言います。しかし、その年は神に選ばれた者も多く、何が理由で神のお怒りに触れたのかはわかりません……私の両親も含め、再び神に選ばれた者によって嵐は静まりました。ですから、こうやって張家へ赴くのです。どうか、輪廻に戻れますように。神はきっと導いてくれますから、そう思いませんか?」
お手本のような信者だ。うっとりとした表情で張家を見つめる彼女を見て、林琳は込み上げる不快感に耐えなければならなかった。それ以前に気になることがある。
「嵐?」
「林琳様は旅のお方でしたね。幸楽美国では……三年前に突如として大きな嵐が訪れました。酷い嵐で、全ての貿易の門は閉ざされ、三日三晩、人々は神へ祈るだけでした。幸い、国民の過半数は無事に乗り越えることができましたが……」
これ以上は口にできないと、彼女は首を振る。桜陽宿場に身を寄せられるのはごく僅かで、陳家ですら匿えるのは数十人だった。災難だったと、人は口を揃えて言う。
小菊の息子は神に選ばれたのだろう。
「なによりも悔いていたのは白琵様でした。救える命を犠牲にしたと。また、長の住まわれるこの屋敷も被害に遭い、当時は大変だったらしいですよ」
こちらへ、と蓮華が扉の前へと林琳を誘う。首を真上に向けて、やっと全てを視界に捉えることができた。
「わかりますか?」
林琳は食い入るように変色した扉を見る。隙間なく閉ざされた扉の右上には、妙に削れている箇所がある。そこは他の部分と比べて若干色が剥げており、外から抉られた痕跡だ。意図的に目を凝らさなければわからないだろう。
群がる人々を少し強引に押しのけて、扉にそっと触れる。造られてから相当の年月が経っているのか、所々亀裂や雨風でやられ、脆くなっていた。指先で擦れば、安易に剥がれ落ちる。
側から見ればただ触れているだけだろう。
しかし、林琳は僅かに目を見開いた。
そっと触れて意識を集中させる。指先に触れる感覚が曖昧になり、冷たく鋭い痛みがじんわりと林琳の身体を蝕む。本来この様な物質に対してやる方法では無いのだが、致し方ない。小菊の家で息子の亡骸も骨灰も保管されていないのだから、どうせ他の犠牲者と同じだろう。仁や片燕の宗主が林琳の行動を目にしたら、拳で殴るかとんでもない威力で張り手を飛ばしてくるに違いない。正直言って無謀な行動だ。が、林琳の中では無謀には該当しない為、ずん、と重たくなる感覚を気にせずに、指先からその痕跡へと意識を繋ぐ。
仕人は人の亡骸や骨灰から人の影を探ることができる。痕跡から怪奇の足跡を追うのだ。修行の練度によって探れる段階は異なるが、林琳の場合、人ならざるもの、つまり人以外の物質からでも感じ取ることができる。
「人ならざるものが嵐を呼んだと」
じっと意識を潜らせていると、灰色の靄が視えてくる。随分と昔の話だが、仁が初めて潜った時には、この靄が蚊柱のように見えて気味が悪いと泣いたことがあった。しかしこの気味の悪い靄が——怪奇の痕跡だ。
「どうかなさいましたか?」
不審に思ったのか、蓮華が声をかける。
「蓮華。誰に聞いたか覚えているか? もしくは、他に覚えていることはあるか?」
「私もお相手も相当昏酔していて……初めは面白い嘘だと思っておりました。ただ、どうにも気になって翌日、冗談混じりで参拝ついでに見上げてみたのです」
蓮華は昏酔してしまったことをこっ酷く叱られたが、あの話が嘘ではなかったのだと驚いた。
「顔は覚えてないか」
「顔、ですか……」
人前に出るのが不甲斐ないほど酷く昏酔していた。愛想の良い客ではなく、若い男でもなく、商人でもない。名家とは思えない作法で、どちらかと言えば野蛮人の印象が残っている。口は悪く、次から次へと酒が消えていく。すると、ぽんっと一人の姿が脳の奥深くに浮かぶ。
「今思えば京様によく似ています。背丈も、格好も……」
長年の悩みが腑に落ちたと、まんまるの瞳をより一層美しい形にした。
「間違いありません。京様です」
蓮華は、今まで思い出さなかったことが不思議だと付け加えた。昏酔していた京と共に卓を囲んだのは初めてのことだった。お互いに何を話したのかさえ覚えていない。ただ、売り上げは驚くほど多く、貯蔵庫を確認した給仕が慌てて買い付けに走ったことだけが記憶に残っていた。
「どうして京様がそこまで飲まれたのかは分かりません。次にお会いした時には、何も語りませんでしたし」
それがあの場の決まり事だと、蓮華は微笑んだ。全ては一夜の記憶となり、詮索を避け、双方の距離を守ることが暗黙の了解だった。
「ここで話した事は内緒にして下さいね」
口元を隠し年相応の笑い方をする蓮華に、こくりと頷くと、用ができた旨を伝え、足早にその場を去った。
蓮華が引き留めようと裾を掴もうとした瞬間、林琳は忽然と踵を返した。蓮華は思わず呆れて言葉を失った。
「はぁ……忙しい人ね」
女性の扱いがなっていないと感じつつも、媚びない男に対して嫌悪感は抱いていなかった。ふんと拗ねた様子で朱色の髪が遠くに消えていくのを見送り、日がすっかり暮れたこの国で、蓮華は祈りを捧げた。
◆
静まり返った夜、桜陽宿場の扉は閉ざされている。池の鯉が水面を揺らし、月の光を弄び、庭園には人影が見えない。待ち合わせの時刻、子の刻が訪れた。
仁と京は人目につかない倉庫裏に身を潜め、裏門の錠を軽く叩いて外した。錠が落ちて音を立てないように、両手で受け皿を作った。仁の手に重みがかかる。
「これで問題はない」
ちゃんと錠は外れているし、倉庫によって二人の姿も隠れているだろう。
「後は林琳が約束を忘れていないか心配だが」
今か今かと待ち構えているが、一向に扉を叩く音がしない。すでに子の刻は過ぎている。京は湿った目で仁を責め立てる。ただ、少し前の京であれば自分が嵌められたのだと感じただろうが、今は違う。もし林琳が約束を破ったとしても、何とかしてみせる。それに、この二人を信じると決めた。京はじっとその時を待った。
——ギィィ
古びた扉が軋む音と共に開かれる。
「馬鹿な面して何してるの?」
装いが少し変わった林琳が、素頓狂な声を上げる。用事とは織物屋だったのか。珍しいことだ。
「面白いことが分かったぞ」
興奮が押し寄せているのか、喜々としており、いつも以上に覇気がある。真っ暗な空間では林琳の瞳は表現できないほど濁った色だ。それでも、爛々と輝きを増している。裏門の扉を開けたままに気づいた京は、中に入るように促すが、林琳は必要がないと首を振る。
「は? じゃあ何の為に……」
「扉を通ってみろ。ほら、早く」
林琳は竹の先端で、扉の枠を叩いた。意味を理解できない二人は小首を傾げながらも指示に従い、腰を折って扉を潜った。しかし、何も起こらない。
二人が外に出たのを確認した林琳は、扉を閉めた。これで三人とも桜陽宿場から出たことになる。
「開けてみろ」
ほら、と顎で指図する林琳に、目上に対する態度を叱責したくなった。完全に舐められている。そんな京を差し置いて、仁は素直に扉に手をかける。
——ガタ
「……開かない」
「そんなはずはない! 錠はお前が持っているし、他に鍵は……!」
何度も扉を押したり引いたり、少し持ち上げて開けようとしてもびくともせず、扉が地面に突き刺さっているのではないかと思った。仁が諦めかけたその時、「鍵ならあるさ」と上機嫌な林琳が何気なく扉を押す。手には鍵らしきものは握っていない。そもそも、錠は仁の手の中だ。それでも、あれだけ必死に開けようとして動かなかった扉が、最も簡単にすんなりと開かれた。
「ほらな。ちなみに正門でも同じ結果だった」
「正門には錠はなかったぞ……門番が一人いたけど」
「門番だって? 誰もいなかったぞ」
「厠にでも行ったのかも。夜間に出入りする際には、門番の持つ名簿に記入しろって規則があって、当番制らしいよ」
仁は折り畳まれた紙を取り出す。何行かにわたって記された規則には、"夜間外出時の規則"が確かに存在する。林琳が正門で同じことを試した時、門番はいなかった。お陰でこっそり中を覗けたので、門番が不在だったのは幸運だったのかもしれない。
「それじゃあ、何で林琳は扉を開けるんだ?」
興味津々で扉を触ったりしてもさっぱりわからず、仁は頭を悩ませた。京が錠に細工を仕掛けたように、扉にも仕掛けがあるのかと叩いてみるが、それらしき反応はない。
「鍵を持っているからに決まってるだろ」
鍵穴もないのに、使える鍵が存在するのか。
「鍵……? まさか……、お前……」
京は息を呑み、信じられないという表情で林琳を見つめた。
林琳はゆっくりと首にぶら下げた紐を摘む。編み込まれた組紐は急いで作ったもので、その先には小粒の石が埋め込まれた指輪が通されている。
「小菊さんと同じ指輪!」
いつの間に手に入れたのか、林琳の持つ指輪は正真正銘、小菊のものと瓜二つだった。
「京はよーく知ってるだろ」
反論する余地もなく、京は開かれたままの扉を自ら閉じ、暗闇の中を進んだ。見回りをしている役人に見つかれば大事になる。どうやら場所を変える必要があるようだ。林琳と仁も後を追う。
河川に着くまでの間、誰も口を開かず、その静寂は京の心を落ち着かせるには十分だった。精神は温かい空間に留まっている感覚があり、不安と恐怖を退けるこの暖かさは、やがて訪れる解放を知っているのかもしれない。
「二十年前、陳家が人身売買を摘発した事件があった。全て裏で処理され、当時の詳細を知る者は白琵だけだ。大きな手柄で、俺は白琵に贈り物を渡した。大した物じゃない、鳴き声の愛らしい鳥だ。半月後、お礼だと指輪をもらった」
「おっさん、面識があるのか!?」
「向こうは俺が死んだと思ってるけどな」
「おい、待て。白琵は一体幾つだ? 二十年前なんて、十歳にも満たないだろう」
林琳が驚愕して京を遮る。
「あいつ、四十は越えてるぞ。俺と一緒で立派なおっさんだ」
二人は金桃楼で見た白琵の容姿を思い出す。二十歳中頃でも通用するし、とても倍の人生を生きているようには見えない。逆に、目の前の京は年相応だ。
「陳家の御子息と贈り物をする間柄って……」
無精髭で所々解れた衣、髪は栄養不足で乾燥しているし、我楽多屋敷に住んで、おまけに賭博中毒者。借金は多額。京のような名家の人間がいてたまるか、仁は白い目で河川の丸石を蹴飛ばした。ぼちゃんと驚いた魚が跳ねた。
「俺を殺そうとした白琵の方が、人間じゃないだろうが」
「は?」
諦めと悲哀がせせらぎに流れ、仁は蹴飛ばした丸石が沈んだのを、京に重ねた。
桜陽宿場で秘密の話があると呼び出された日。白琵は優秀で、様々な責任を背負わされていた。京は彼の肩の荷を心配していた。その日も両親のいる自宅では話せないような相談があるのだと信じて疑わなかった。人身売買の事件の片を付け、白琵が疲弊しているのもあって、役に立てればと快く誘いに乗った。二人は歳も近く、唯一無二の知己だった。隠し事はなく、夢を語り合った。神に選ばれ、遠くへ行ってしまっても、知己は変わらないと。また来世で逢えるから、何も怖くはなかった。
長い間話し込んでいたのだと思う。あまり記憶がないが、子の刻になり、もう夜も更けてきたので、桜陽宿場で床に就いた京は、悍ましい何かに襲われた。それを世間では怪奇と呼ぶものと本能で感じ取った。見たことのない存在に、隣の部屋にいるはずの白琵に助けを求め、戸を開けた。しかし待ち構えていた白琵は京の様子を馬鹿にして笑い、怪奇の方へ突き放した。京は知己に裏切られたのだ。
ぎょろぎょろと動く充血した六つの目がこちらを覗き込んでいた。京は必死に走った。何度も転んでは立ち上がり、身を隠そうとする。ここはどこだ。無我夢中で足を動かし、逃れようとする。桜陽宿場の内観と同じなのに、他の人間の気配がしない。ずっと同じ迷路に迷い込んだ感覚で、精神が音を立てて崩れていく。六つの目は獲物を見つけると、にんまりと笑い、口では表現できないほど巨大な闇で飲み込もうとしていた。身体を引き裂く音と血の噴き出す音、痛みで頭が狂いそうになった。助けを呼ぶ声も出ない。死に物狂いで桜陽宿場を飛び出し、目に入った空き家で一夜を過ごした。今でもどうやって逃げ出したのか、自分でも分からない。何よりも震えが止まらず、出血も多く、死を覚悟した。幸い、空き家には処置する道具があったので、素人ながら汚い縫合で血を止めた。痛みなど、恐怖で麻痺して感じなかった。生きることに必死で行った処置は無謀で、化膿し、その後何日も寝込むこととなった。
「白琵との関係は知らなかったけど。……お前の腕にある古傷は全て、怪奇に襲われた傷。よく生きてたな、お前」
普通なら即死だね、と林琳は言った。本来であれば指輪も怪奇に喰われて残らない。面白い人間もいるものだと笑った。
怪奇の不気味さを知る仁は、どこを切り取っても笑える話ではないと心底思った。むしろ、よく精神を保てたものだと褒め称えたい気持ちだ。愛国心でここまで生き残ってきたのであれば、凄まじい忍耐力と精神力だ。是非仕人への転職を勧めたい。
林琳は京の我楽多屋敷で小菊の持つ指輪を見て疑問に思った。裕福でない小菊が持つ指輪と、お宝を目利きする京が持つ指輪を同じ物だと考えたとする。しかし共通点が見つからなかった。
偶然蓮華が語った三年前の出来事がきっかけとなり、林琳は妙な違和感を覚えた。
酷い嵐がもたらした数多くの犠牲者。扉に付いた怪奇の痕跡。林琳は京が怪奇に襲われたことがあるのではないかと考えたと。それに、三年前は冬楽の消えた年と一致している。何よりこの指輪に微かについた傷は、張家で感じた怪奇の靄と類似していた。
「あー……参った、参った。お前は一体何処まで辿り着くんだ」
林琳の推理は一言一句、間違えていなかった。関心を通り越し、尊敬の意を表す。
「罵詈雑言、多少の暴力だって……何でも受け入れる」
京は隠していた事を心から詫びた。信用していなかったのではなく、目を逸らした過去に向き合う覚悟と、二人に向き合う覚悟が足りなかった。
二、三発、殴られる体制でいたが、想像していた痛みは襲って来ず、京は仁の顔色を窺った。困った事に、仁も林琳の顔色を窺っているではないか。林琳の興味は既に怪奇に向かっており、どうも、京に関しては気にしていないみたいだ。仁は京を肘で小突いて、よかったなと耳打ちする。あの竹で殴られてみろ、明日は完全に立ち上がれなかったぞ。
「これからどうする?」
「次の人身売買の取引はいつだ」
京は首を横に振った。取引の情報は目にしたが、日時までは検討がつかない。まだ情報が足りない。賭博場で得られる情報には限界があり、辺境の地へ赴くのも一つの手だと京は言った。待ち構える作戦だ。
その言葉に林琳は問題がまだあると制止した。
白琵はもう一度指輪を造り出し、怪奇に喰わせるつもりだ。林琳の予想では、桜陽宿場の敷地内に怪奇はまだ存在している。子の刻に扉が開かないのは、怪奇が徘徊しているからだ。部外者を拒み、指輪を持つ餌を見定めているのだ。
新たな指輪が造られるまでは、大規模の犠牲者は出ないはず。わざわざ辺境の地から奴隷を仕入れるのだ。
「奴隷を使って指輪に彼らの影を仕込む気だね。怪奇は人の影を餌にするから、指輪を受け取った人間は真っ先に狙われる」
だが指輪が残っていること自体が不思議だった。怪奇は持ち主を丸ごと喰らうはずで、指輪が小菊の元に届いた状況もおかしい。指輪に遺る人の影は、怪奇がその持ち主を喰らっていない証拠だ。運良く逃げ延びたのか。
林琳は指輪を持ち上げ、月に反射させて側面に付いた傷を今一度確認する。怪奇が付けた傷で間違いないが、浅すぎる。まるで、京の受けた傷に比べるとかすり傷のようだった。
京がこの世で息をしているように、小菊の息子も生きている可能性が出てきた。これが吉と出るか、凶と出るか。
——人間がわざと怪奇を呼ぶなんて。
林琳は厄介な事件に首を突っ込んだことを、今更ながら自覚し、指輪を衣の中にしまい込んだ。この指輪に遺っている人の影を餌にして誘き出すのも悪くはない。ただ、白琵の目的が不透明な今、幸楽美国全体を危険に晒すのは避けなければならない。下手をすれば国全体が飲み込まれるかもしれない。そうなれば流石の林琳と仁でも太刀打ちできず、共倒れだ。万が一の場合、夢天理にでも見つかれば、片燕の仕人である仁はどうにか切り抜けられても、自分は……無理だ、考えただけで鳥肌が立つ。
三人はそれぞれ無駄に大きいため息をついた。
「指輪だって足が生えている訳じゃない。水面下で流している人間がいる。そいつを見つけ出すのが先だな」
——仁と京は、一人の男が思い浮かんだ。
◆
とっくに夜は更け、微かな雲が月の光で影を作っている。街路から逸れた河川は森の木々に覆われ、普段の賑やかな街とは一変して不気味な雰囲気を醸し出していた。時折草木が音を立てるのは、野生の動物がいるのだろうか。
林琳は河川の岩に腰を下ろし、仁と京が掻い摘んで桜陽宿場での出来事を短く説明するのを聞いていた。二人が滅茶苦茶に話すため、情報が混乱した林琳は仁を黙らせてしまった。拗ねた仁は隣に座り、いじけているが、京は真正面に腰を据え、順を追って話し始める。
「陳・白琵の馬丁が藤で、木箱を持っていて、桜陽宿場に現れた?」
情報量が多すぎて、林琳は詳細を聞く気を失い、「もういい」と視線を落とした。一度軽く会話した間柄ではあるが、悪事に手を染めるような人間には思えない。何より愛馬を散歩させている姿は楽しそうで、純粋無垢な男だった。疑うにも、疑いきれない。それは仁も同感だった。
「白琵は人を操るのが上手い。勿論、他の名家の人間でさえ、絆された者も多い」
自分もまた、絆された側だったのだが。
「はぁ、幸先不安ってやつ」
藤を訪ねるにしても、どうしたものか。突然訪ねて怪しまれるのは間違いない。京にとって、この好機を逃すわけにはいかず、何が何でも怪奇を取り除きたいのだ。
「なぁ京。いつから怪奇が現れたのか、知らないか?」
「ずーっと昔だ。幸楽美国の歴史は外の人間が知っている程度。あの嵐で城下町にあった書物は全部廃棄された。必死に復元を試みたが、泥や土で無理だったからな。調べるにも……」
城下町にある書房に置かれている歴史書は、陳家の地下室に保管されていた書を複写したものだという。
「それより古い書なんて、張家の宝物庫ぐらいだ」
これまた難易度の高い場所に保管されていると仁は項垂れた。片燕の本拠地にも厳重に保管された書房は存在するが、入り口を知っているのは一部の弟子だけである。林琳と仁はそのうちの一人だ。他所の宗派にも本拠地はあるが、今はもう各地に分散されてしまった。戦に巻き込まれ、古書を紛失した宗派も多いと耳にする。
「俺が行く」
衣に付着した砂を叩き落とし、立ち上がった京が言った。昔使われていた避難用の抜け道があり、そこを通れば張家の宝物庫の隅にある物置小屋に繋がっているはずだ。
「詳しすぎて逆に怖いんだけど」
仁は京を名家の息子とは信じていなかった。白琵との関係が本当だとしても、仁の勘が名家の息子の匂いを察知しない。名家とは違う、独特の匂いだ。
「逆に聞くが、お前たちは本当に仕人じゃないのか?」
また等しく、京も二人が一般人ではないと思っている。
「あー、やめだ、やめだ。お互いの素性を知らずとも、大して弊害はないだろ」
仁と京が互いに探り合っている中、林琳は一切興味がなく、いつもの冷めた目で無限に転がる丸石を見て口を開く。
「人の心は知りえない。知己だろうと、伴侶だろうと……」
人間の心は移り変わる。愛した人を憎み、憎んだ相手を愛する。愛とは不確かな存在であり、翻弄されるのが人間だ。
「隣にいた仲間が明日には敵になる」
——迂闊に信用するから、痛い目を見るんだ。
仁の頭の中では、愛おしい声が響く。迂闊に信用するな、人は裏切る、特に愛などは面倒なものだ、その言葉は林琳の口癖だった。
「お前、人間に関心がないのか」
小石で遊びつつ、げんなりとした京が聞く。
「怪奇と人間だったら、怪奇の方が面白い」
「……はぁ」
怪奇怪奇と変わったやつだ。どんな育て方をしたら、怪奇好きになるのか。親の顔が見てみたい。
「抜け道の地図は頭に入ってる。どうする、いつでも行けるぞ」
自らの頭を指差し、米神を二度叩く。二十年も前の記憶だが、迷う気はしない。意気揚々としている京は俄然やる気だ。
一方で林琳は顎に手を当て考え込む。虫の鳴き声と河川を流れる透き通った水、青々とした葉が擦れる音だけが辺りを包んでいる。耳をすませば動物の寝息も聞こえるかもしれない。薄気味悪さを感じているのは、林琳と仁だけだった。
——見られている。
林琳は瞬時に京の頭を無理に押し下げ、比較的大きな岩の側へ押しやった。背中をけ飛ばされた際に痛みを伴ったのか、声を荒げようとした瞬間、急に肌を刺す緊張感が京を襲った。
「……来るぞ」
林琳は仁の外套を掴み、貸すように訴えると、体温の残るそれを京と頭から羽織る。やや視界が見にくいが、支障はない。すっぽりと覆われた二人は闇に溶け込んだ。
月の光を切り裂いて、銀色の矢先が向ってくる。羽根の風を突き抜ける音と矢先が目の先に現れた刹那、滑らかな闇が舞う。素手で矢を掴み、くるりと身を翻すと、仁はそのまま遠心力で矢を返す。人間離れした動きに京は岩陰で度肝を抜かれた。再び月の光を切り裂いた矢が一直線に飛んで来る。仁は臆する事なく、身近にあった丸石を蹴り上げ、手に掴むと、追い込む様に同じ方向に投げた。金桃楼で見た光景によく似ている。
河川を挟んだ向こう岸で、何かが落下する音がする。断じて軽い音ではない。重たい物が重力に逆らえずに叩きつけられた、そんな音だ。京は目を凝らしてその姿を見ようとするが、月夜の光だけでは木々に覆われた森は果てしない闇だ。眠っていた鳥が数羽夜空に羽を広げて飛び立つ。
「ここにいて」
仁は林琳と京にその場で待機する様に伝えると、所々飛び出ている岩を器用に足場にして、岸にたどり着いた。匕首を構え、腰を低くして少しずつ歩みを進める。矢の方向と落下位置的に半径三米(三メートル)にいるはずなのだが、息遣いがない。代わりに残されているのは、抉れた土と、木の幹に突き刺さった矢。仰向けで倒れている黒い影。仁の返した矢が首を掠めて仕留めている。声を発する事なく息絶えたのだ。
「死んだか」
後背で林琳が覗き込み、死体を確認する。
「うん。尾行してる気配は感じなかったけど」
「こっちの岸に来るには先回りしないと無理だ」
地面に残る足跡の数は一人分。この者が犯行者だろう。口を覆う布を剥ぎ取り、素顔を暴くが見覚えのない顔だ。白琵の手先か——いや、こちらは藤以外に接触はしておらず、白琵に関しては金桃楼で遠目に視界に入れた程度。藤が白琵と繋がっている可能性は捨てきれないが、林琳にはどうしても納得のできない理由があった。
どす黒い液が木の幹に付着している。林琳が触れると、指先にはまだ新しい血が付着した。仁が放った矢が切り裂いたのだろう、雑草にも血が飛び散っている。首の急所を勢いよく掠め、血が吹き出したのだ。指に付着した血の匂いを嗅ぐと、人間の血の匂いで合っている。鉄臭い。
そのまま服の裾で拭こうとするので、仁が慌ててゴシゴシと林琳の指先を布巾で拭う。じっと死体に視線を奪われている林琳は大人しくされるがままだ。拭っている本人の顔には不機嫌とかかれているが、手つきは優しい。
「もう、ちゃんと拭いてよ。洗うの大変なんだぞ」
大雑把にも限度というものがあるだろうに。ぶつぶつ小言を漏らす。ある程度綺麗になったのを確認すると、手を取り川で洗い流す。林琳はこんな事ぐらいで、と思うが、仁にとっては重要な事だった。
今はもう悪意の視線は感じない。動物が警戒しているが、襲ってくる気配もない。
さて、この死体をどうするか。結果人の命を奪った事にはなっているものの、正当防衛で林琳達に非はない。埋めてやるのが一番だろうか。
「はぁ、はぁ……お、置いていくな……」
しまった。すっかり京の存在を忘れていた。
戻らない二人を心配した京は息を切らして岸を渡ってきた。一面に飛び散る血を目にした京は、悲鳴を上げそうになったが、仁の両手がそれを防いだ。二人は死体や怪奇に慣れているが、京はそうもいかない。仁は死体を隠すようにさりげなく一歩前に足を踏み出し、「埋葬するから、先に宿場へ戻るといい」と促す。しかし、京はごくりと喉を鳴らし、仁を押し退けて血飛沫に濡れた死体の顔を凝視した。
「……干䈎」
何やら見覚えのある顔らしい。友人に手を下してしまったのか。矢を放った仁は気まずそうだ。正当防衛であっても、顔見知りを殺してしまったのだ。しかし、京には悪いが、息絶えた事実は変わらない。
「昔……うちの家に居座っていた人間だ。血の繋がりは一切ない。悪知恵を働かせた結果、勘当されて姿を消したが……陳家の管理下に置かれた。まさか死体となって再会するとは思ってもいなかったがな」
京の口調は他人事のようだった。縁を切った男に対して情は持ち合わせていないということだ。
「白琵の手先だとしたら、俺の生存が疑われているな」
二十年も経った今、白琵の中にはわずかでも自分が存在している。それは知己とは呼べず、被食者としての存在だとしても。六つ目の怪奇に襲われたぐらいだ、多少命を狙われた所で恐れることはない。生きている限り、命があれば全て擦り傷だ。絶対に生きることを諦めるものか。——白琵の目的を知るまでは。
◆
翌日、京と仁は夜間の規則違反により、桜陽宿場に倍の支払いを余儀なくされた。この件に関しては、林琳から追加の資金が出されたおかげで、なんとか丸く収まった。湯水のように金を持っている林琳に、二人は目を丸くした。この短時間でどうやって資金を集めたのか、ぜひ教えてほしい。
京が知っている抜け道は、金桃楼の舞姫・風蘭の私室に隠されているという。三人は賭博場には向かわず、一般市民に紛れて芸を披露する妓女たちの演技を楽しんでいた。露出度がなかなか凄い。胸元は大きく開かれ、肩に沿って赤色の衣が広がり、金魚の尾ひれを連想させる。細い腰を強調する銀の腰飾りが、舞う度にしゃらんと音を奏でた。その中で、一番目を引くのが風蘭だ。妖艶に誘う姿に、林琳もすっかり釘付けになる。彼女はくるりくるりと足先で回り、腰を揺らし、口元には弧を描く。男の客から感嘆の息が漏れ出している。
酒を頼もうと、京が顔見知りの蓮華を探していると、姿が見えないことに気づいた。
「あぁ……昨夜から私室にいないのです」
通りかかった妓女を引き留めると、どうやら昨夜から見当たらないらしい。
「失礼する!」
突如として野太い声が金桃楼内に響き渡り、客人を含め、周囲の人々が何事かと眉をひそめる。五人ばかり連れて現れたのは、この場には似合わない役人たちだ。
風蘭は颯爽と彼らの前に立ち塞がり、何の用かと睨みつけた。
「蓮華という妓女はいるか」
「……彼女に何か御用で?」
「答えよ。この中に蓮華はおらぬのか」
高圧的な役人の前でも、風蘭は一歩も引かない。胆の据わった女子だ。
「今朝、身元不明の亡骸が見つかった。この装飾品は、蓮華の持ち物で間違いないか」
役人は黒い布を開く。昨日、蓮華が身に着けていた控えめな耳飾りだ。
「えぇ、そうですね。よく露店でも売られている品ですよ。ほら、あの娘も付けております」
芸を披露していた妓女の中に、色違いの耳飾りを持つ女子がいる。流行物ではあるが、様々な色彩で彩られており、光の反射具合では色見が変わる。外の国で商売でもすれば大儲けできそうだ。
「では、こちらの簪はどうだ」
風蘭は手で口元を覆い、はっと息をのんだ。その簪は、風蘭から贈られた唯一のものである。広い世界で一人でも生きていけるようにと、可愛がっていた蓮華に贈ったのだ。こちらも林琳には見覚えがある。
眩い輝きを持っていた簪は、血に濡れて錆びてしまっていた。血液で花の装飾部分は真っ赤に染まり、一部は欠けて形を崩している。蓮華が還らぬ人となったのは事実だった。
「亡骸はどこに……」
「見せられん。損傷が激しい、女子には耐えられぬだろう」
ついに風蘭はその場で崩れ落ちてしまった。涙が流れることもなく、ただ、赤く染まった己の爪先が嫌に目に入った。赤色の好きな子で、花嫁が身に纏う衣装を着たがっていた。心の底から愛した人と一緒になり、あの赤い衣装を着るのが夢なのだと。そんなものは夢のまた夢だと笑う仲間とは違い、風蘭はその夢を叶えることができればいいと思っていた。とても優しい子で、傷ついた風蘭の傍に寄り添い、共に涙を流してくれた。彼女は風蘭を姉のように慕っていた。
「あの子は……神に選ばれたのですか」
せめて神に選ばれたのであれば、報われるだろう。恋しがっていたご両親の元へと。風蘭の希望は一瞬にして、役人の鋭い言葉で消え去った。爪が床に傷をつけるのと同時に、光の消えた瞳から雫が流れ落ちた。ぽた、ぽたと流れる寂しさを慰めてくれる彼女は、もういないのだ。蓮華と似た年齢の妓女が風蘭に歩み寄り、宥めるが、その手は振り払われてしまった。
膝を折り、役人は風蘭に二つの遺品を渡す。亡骸を見せられないせめてもの償いだろうか、丁寧に黒い布に包み、床をきりぎりと引っ掻く手の傍へ置く。
「必ず犯人を探し出す。供養してやってくれ」
正義感の強い役人だ。赤の他人の死と、死を悼む者に寄り添える人間なのだろう。仁と京は痛ましい光景から視線を外せなかった。
痛ましい出来事に心を痛める中で、亡骸の状態を見たいと考えているのは、林琳だけに違いない。意識は既に蓮華の亡骸まっしぐらだ。裾で口元を隠し、こほんと聞こえない程度で咳払いをする。
「お役人さん……蓮華さんは……本当に……」
めそめそと涙を拭う素振りで林琳は接近した。あからさまな嘘泣きに「何をするつもりだ」と仁は林琳の豹変ぶりに眉を顰める。余計な事に首を突っ込むなと言い聞かせても無駄なのは今に始まった事ではない。宗主の管轄下でも林琳だけは気まぐれに動いていた。せめて正装で行動しなさい、その言いつけだけは守っていたが、外套を駄目にする。特に林琳の外套は純白で、彼方此方に泥や煤、時には血痕まで付いている。宗主が何度叱っても懲りずに汚すものだから、最終的には自腹で繕っていた。
「嫌な予感しかしない」
仁は林琳が引き起こす面倒を予感し、肩を落とした。林琳の冷めた瞳は影を隠しながら潤んでおり、目尻も赤く染まっていた。
「猫の皮を被るってのはあいつの為にある言葉だな」
愛らしい美貌からは想像できない破天荒さと自由人っぷりに、京は頭を抱えそうになる。手間がかかるのは仁だけではなかった。
役人は林琳をまじまじと見つめ、怪しむように鼻を鳴らした。
「蓮華さんは僕に優しくしてくれて……最期にお別れはできませんか……?」
すべて真っ赤な嘘であった。林琳はそれなりに背丈が高いが、それ以上に大きい役人を見ると、自然と上目遣いになる。くりくりとした夕焼けのような瞳で役人はじっと視線を絡ませていた。熱を持った、まるで恋をした獣のような目だ。
林琳の背筋にぞぞぞと虫唾が走った。
大事な師兄に向けられた視線に、飛び掛かりそうな仁を抑える京は、蓮華と親しかった風蘭が嘘を暴露しないか不安で冷汗が止まらない。二人の妓女とは長い付き合いの京でさえ、風蘭が涙を流す姿は初見である。感情のままに林琳の嘘っぱちを暴露されては、疑いの目は一直線にこちらへ向けられるだろう。彼女は賭博場での借金の件も知っている。弱みを握られている以上に、命まで握られている京は、心臓の音が激しく踊り、口を開く瞬間を待った。
「お役人様。こちらの方は蓮華と親しかったのです。どうか、私の代わりに……彼女に最期の挨拶をさせてやってください。彼女には身内はおりませんし、何卒、お目溢しを」
意外な援護に驚き、ぎょっとして風蘭に視線を向けると、その瞳には悲しみと怒りが浮かんでいた。女の憎悪は激しいと聞くが、まさにその通りである。
「そうか。貴様は粗相をする軟弱者ではなさそうだ」
「ははは、とんでもない」
じっとりとした視線が鬱陶しい。この役人、察しが悪い。林琳の目は一切笑っていないのに、恍惚としている。
「では、御同行願おう」
見栄を張っているのだろうか。男は大袈裟に踵を返した。林琳の迫真の演技は通用したようだ。
我慢ならないと仁は京の腕に噛みつき、悲鳴を無視して林琳の腕に引っ付く。先を歩いていた役人の男は、片眉をぴくりと上げ、何者だと問う。仁が口を開く前に、「友人です」と即答した。嘘偽りのない返答の速さに、男は仁と林琳の絡む腕を見る。腕を組むなんて友人の距離であればおかしくはない。傍から見ても距離感の近い友人だ。
京は憐れみの目で噛まれた腕を摩る。袖を捲ると、くっきりと歯形が残っていた。古傷の上に犬歯が刺さった痕もある。
「ゆ、友人か」
男は腹の底から安堵したように見えたが、仁の怒りは冷静さを保つことを許さなかった。
「こいつにも、蓮華さんには良くしてくれて」
余計な事言ったら殴るぞ、爪で手の甲を摘まれている仁は明確な殺意を感じる。荒れ狂う心境など役人は露知らず、一緒にいいですか、そうやって情けない顔をする林琳にすっかり騙されている。
あぁ、もう、林琳のこの性格が嫌だ。たちが悪い。変態と二人きりにしたら、獣に食われるに決まっている。想像するだけで、うっかり手を出してしまいそうだ。
「検視官が調査中だ。作業の邪魔はするな」
「勿論です。お別れをしに来ただけですから」
亡骸にかけられた布を捲ると、無惨な姿と化したものが置かれていた。辛うじて女体であることが判断できる。風蘭を止めた役人の判断は正しかった。
「な、んだこれ……」
現場に慣れていない京は真っ青な顔をして後退している。だから来るなと言ったのに。仁は心の中で呟いた。
「保護者のお主が狼狽えてどうする」
歳が離れた京と仁は遠い親戚。置いていかれそうになった京が吐いた嘘が、支離滅裂な設定を巻き起こした。最悪なことに、我楽多屋敷に住む男が仁の保護者という馬鹿げた話になっている。金桃楼での憐れみの目は、決して忘れないだろう。借金まみれの男が保護者……君に幸あれ、と仁に投げかけた身なりの良い男を思い出すと、腹が立つ。
一行は芋蔓式に安置所に入り込んだが、想像していた亡骸とは全く異なっていた。
「もう十分だろう。別れを済ませよ」
「……はい」
またもや嘘泣きが始まった。涙を拭う仕草で役人の同情を引き寄せ、「こんな酷い死に方は、あんまりです……」と、言葉にするのも心苦しい素振りを見せる。
「私達だって初めてですよ。何をどうしたらこんな姿になるのやら」
検視官は亡骸を元の形に戻し、「本当に困った」と繰り返した。
「何が困るんだ? 蓮華には身内はいないだろう」
「困るのはそこではありません。事件性がある中で犯人が見つからないことが問題なのです。しかし、この状態では死因が分からないでしょう」
刺された跡、打撃を受けた痕、毒を摂取した跡——考えられる全ての要因が葬り去られてしまった。自殺と考えるには、気になる点がいくつもある。第一に、身内のいない蓮華が金桃楼でそれなりの待遇を受けていたこと。特に風蘭のお気に入りで、他の妓女に特別嫌われることもなかった。先日の様子を見ても、自殺に至るとは考えにくい。
亡骸が置かれている台座から、右手だけが零れ落ちている。繊細で細長い指先は黒く汚れており、変色した爪の間には土が詰まっていた。
何かを掘り起こそうとしたのだろうか。左手にも同じ汚れがあるのではないかと、こっそり触れようとする林琳を、検視官は「これ以上損傷したらどうするつもりだ!」と、尻込みしそうな剣幕で怒鳴りつけた。死体安置所は密閉された空間であり、検視官の声は鼓膜が破れるほどの大音量になった。林琳たちは、その声に頭がぐらりと揺らぐ。
困った、本当に困った。陳家にどう説明すればいいのか。検視官はそわそわと歩き回る。
煩い、困ったのはこちらも同様だ。風蘭は真相を明らかにすれば、京の借金を肩代わりして帳消しにすると言った。さらに、林琳と仁の嘘も全て見て見ぬふりをすると。裏を返せば、借金まみれの男と嘘つき男、一歩間違えれば役人に逮捕される。
「別れを済ませたなら、行くぞ」
役人はうわ言を繰り返す検視官に首を振り、今一度亡骸に深く礼をした。
「どうか、輪廻に戻られよ。来世でよき人生を全うすることを祈っている」
京も役人の傍で唇を噛みしめ、頭を下げた。年頃の女子が酷い死を遂げた事件が心苦しい。仕人ではない京には、これが怪奇の仕業か判別がつかない。人の心を持たぬ殺し方だ。
嵐嵐に襲われた三年前から、蓮華は金桃楼に身を置き始めた。当初は妓女らしからぬ町娘の顔立ちで、一年また一年と年月を重ねるにつれて成長を遂げた。傍で見守っていたのは風蘭で、京は彼女から蓮華の話を聞かされていた。
お嫁に行く頃には私は老いているわ、花嫁衣装は何がいいかしら。とびきりの美しい衣装を用意しなきゃ、門出だもの。きっとどんな衣装でも似合うわ。それに最近、気になる男の子がいるみたいなの。私は会った事がないけれど……嵐の日に亡くなった幼馴染に驚くぐらいそっくりなんですって。幼い頃は文を交わして良い関係だったらしいわ。ただ、徐々に疎遠になって……寂しさから最初は幼馴染に重ねてしまうことを嘆いていたけれど、休暇になると一緒にお散歩をするらしいの。無口で、何を考えているかわからないって怒るのに、会いに行くのよ。愛い、とても愛い。その家に嫁ぐのかしら。寂しくなるわ。
それが風蘭の口癖だった。本人もまだ風蘭と過ごす日常を望んでいたのに、母親目線でよく語った。年齢的には姉妹が似合うが、蓮華を見ていると母性が沸いたのだろう。
大切な子を失った風蘭の瞳に怒りの火が燃え上がったとき、蓮華のためにも事件の犯人を捕まえなければならないと京は自然に思った。
◆
「現場は城下町郊外の山奥だ。手入れが行き届いていないから、普段誰も近寄ろうとはしない」
発見されたのは早朝。郊外に住む農民が逃げ出した牛を捕まえに山奥へと入った。その際の状況に関して農民は無罪で釈放されている。牛が逃げたのは狼が迷い込んだからで、他にも羊や豚が逃げ出したという情報が上がっている。山に獲物が居なくなると、狼は人里に降りてきて家畜を襲うのだ。未だに狼が潜んでいるかもしれない。その農民は犬を連れて牛を追っている最中、真っ黒に焼け焦げた亡骸を発見したらしい。現在は立ち入り禁止で、検視官と捕吏が調査にあたっている。事件性も捨てきれないが、損傷が激しい上に山奥となれば、自殺として処理される可能性が高い。
役人の西周は感情が高ぶり、拳を握りしめて我楽多屋敷の壁を殴った。
「馬鹿野郎! 崩れるだろうが!」
無惨にも土壁がぱらぱらと剥がれ落ち、振動で建物自体が揺れた。元は空き家を修復して継ぎ接ぎした屋敷だ。ちょっと雷でも落ちれば、天井に穴が開くのではないかと仁は柱に捕まって思う。落ちてきた木屑が林琳の頭に散らばった。
「すまない」
西周は親切心から手を伸ばすが、「あぁ、気にしないでください」とさっと避けた林琳は、距離を取り胡坐をかいた。頭を振り、落ちてきた木屑を払った。その中には大きめの木屑もあり、劣化が進んでいる。虫の死骸と思われる黒い塊が西周の肩で跳ねた。ちょうど仁と対面する位置にいる林琳は、鬼の形相で西周を睨みつけた。
早くこいつを追い出せ、林琳は口の動きで伝えたが、仁からは顰めっ面が返ってきただけだった。
元は林琳が釣り上げた者だ。京は仁の保護者的立ち位置になっているし、仁と林琳は友人だ。西周にとっては別に変な関係ではない。しかし、異常に距離を詰めたがるのはそれが理由かもしれない。この貼り付けた笑みも、限界を迎えつつある。情けなく下がる予定だった眉は平行だし、目の奥は底冷えする冷たさを宿している。
「ところで、お主等は蓮華殿の友人だと聞くが……。自殺を仄めかす様子はあったか?」
西周は手記を取り出し、事情徴収を始めようとしている。これは気が遠くなるぞ、林琳はじっとその手記を見つめていた。刑部侍郎か、役人とは知っていたが、役職まで知らなかった。死体安置所や事件現場の情報を持っているので、刑部尚書の関係者だと想像していたがまさかの大物だ。
「特に。この間お会いした時は普通でしたよ」
その言葉の裏には、「刑部侍郎なら忙しいだろう、さっさと出て行ってくれ」という思いが隠されている。
「むむむ、そうか。お主等も急な出来事に気が動転しているであろう」
呑気に座ったままの京に林琳は「早く見ろ、手記に記されている役職名を!」と目線で訴える。
西周の管轄外なのか、京の借金を知らぬのが幸いだが、知られたら即刻逮捕で道連れだ。
様子のおかしい林琳の視線で京も手記に気が付き、その顔は土壁と同じ色に変わった。瞳孔が開く。ひくひくと口元が痙攣していて、悲鳴を上げる準備ができていた。既に内心では強烈な悲鳴を上げているのだが。
「些細な事でも構わん。情報を教えて欲しい。事件の判明こそ、彼女の救いだ」
どっしりと構える西周。二人の頼みの綱は林琳のみだ。ごくりと喉が鳴る。
——よし、腹を決めろ。
「西周さん、僕疲れちゃったよ……今日は蓮華さんを弔う時間が欲しいな」
肌が粟立つとは紛れもないこの状況を表す。林琳は吐き気を感じながら、必死になって気が重そうな雰囲気を作り上げる。否、気が重いのは事実だ。
「大丈夫か? 気が優れぬなら……」
「あー! 俺も疲れたなぁ! 叔父さん、奥の部屋で休んでもいい?」
再び西周が林琳に手を伸ばそうとしたので、仁は駄々っ子の振りをして大声を出す。さながら番犬だ。
「……失礼した。ゆっくりと休まれよ」
安置所で恐ろしい亡骸と対面し、更には大事な友人を失った。心身ともに苦しいだろう。西周は己がいかに配慮が足りずに居座ったのかを恥じた。拱手をお互いに交わして、西周は朱色の旋毛に触れたい気持ちを押さえつけ、建付けの悪い扉から仕事へ戻って行った。
——ゴンッ
間もなくして、勢いよく林琳の頭が地面に向かって落下した。
疲労困憊だ。如何せん、西周の距離感と視線が気色悪い。よく手が出なかったと己に拍手でも贈りたい気持ちだ。あぁ、吐き気がする。嘔吐しそうな吐き気ではなく、身体中を節足動物が這いまわる気持ち悪さ。打ち付けられた額に小石が突き刺さった気がする。
「師兄、自業自得だぞ」
「煩い、黙れ、馬鹿。お前がさっさと追い返さないから……」
「はぁ!? 獣に食べられる寸前なのを、防いだのは俺じゃん!」
「獣……!? 俺があんな馬鹿みたいな人間に負けるとでも!?」
「そうは言ってない! あり得ないけど、絶対に考えたくないけど! 押し倒されたら……」
「変な妄想するな、気色悪い!」
林琳は頭を上げた反動で、おえぇ、と嘔吐しかけた。よく見ると額に擦り傷ができてしまっている。出血はしていないが、皮が剝けて子供の擦り傷になっている。林琳はひりひりと痛む額で余計に気が立った。
二人の幼稚な言い合いに、京はどこか安心する。二十代半ばの成人男性にしても、異様に大人びている印象だったのだが。怪奇にも臆せず、腕もたつ。己より賢く、逞しいのは目に見えている。言動も場慣れをしていて、金桃楼での出来事でさえ顔色一つ変えない。仁の方は幼い……と表現するよりも、活発な性格なのか、同年代と時間を共有する事は苦ではなさそうだ。ただ、林琳の方はどうだろうか。ざっくりと性格は見えてきたが、何を考えているのか予想もできない。先程の行動がまさしくそれだ。仁と己を無視して勝手な行動をとるし、相談もしない。が、手を組んでいる事実上、協調性が欠けているとも言い難い。現に指輪を調べ、張家に張り付く怪奇の痕跡まで辿り着いたのは林琳。仁と比べてこちらは苦労するだろう。他者から理解されない苦しさを感じた過去もあるのかもしれない。未だに騒ぐ姿を見て京は思った。
「あの男は絶対獣だ。目つきで分かる、隙あらば師兄を……」
「お前、本当に馬鹿なの!?」
想像を絶する不愉快な発言に、ついに西周への鬱憤も込めた拳が出た。仁が身を翻すが、数多の感情がのった拳は鳩尾を貫く。見事に命中した拳は仁を吹き飛ばし、倒れこんだ体はぴくぴくと痙攣している。岸辺に打ち上げられた魚だ。
——"「あの竹で殴られてみろ、明日は完全に立ち上がれなかったぞ」"
仁の言った通りだ。あぁ、身を挺して結果を見せてくれた仁に感謝する。
「蓮華、蓮華……いるなら応えてくれ」
真っ黒に染まった紙がふわりと浮かんだ。隙間風ではない——紙が自ら浮いた。
「もう……、知らん!」
殴り飛ばした張本人は、鳩尾を抑える仁を視界から外し、京に紙と筆を貸せと言った。意味が理解できずにいると、置かれているお宝の絵画を紙扱いするぞと脅されてしまった。仕方なく、奥底に眠っていた物を引っ張り出す。埃をかぶっているが、墨には問題がない。筆も軽く水を通せば多少筆先が荒れるだろうが、使えるだろう。気が立っている林琳は普段以上の力で墨を磨り続け、小さくなっていく硯が気になった。硯の方が削れている気がする。
ある程度の量を磨り終えると、紙を床に敷いて墨を一定の速度で落とす。何をしたいのか余計に分からない。墨をたっぷり吸った紙は、どろりと重たそうだ。仁なら分かるのかもしれないが、隣でまだ蹲っているのが見える。かなり痛むらしい。
林琳が何やら口を動かしている。しかし、音としては何も聞こえず、京にできるのは彼を見守ることだけだった。
「風蘭から預かっている。頼む、話を聞かせてくれ」
腰に下げた巾着から現れたのは錆びた簪だ。紙にそっと簪を置くと、そのまま静かに浮遊した。
この現象に目を見張る。もしこの世に信じられないことがあるとすれば、それは六つ目の怪奇に襲われたあの日と、今、目の前で目撃している摩訶不思議な浮遊だ。
「損傷が激しいな……」
数回林琳が問いかけると、浮遊した簪は鈍く光った。確実に会話をしている。
開いた口が塞がらない京を見かねて、仁が起き上がる。鳩尾を撫でながら「影を呼んでいるんだ」と、聞き慣れない言葉を口にした。
「あの死に方じゃ、人の影になりやすい。簪が錆びているのは蓮華自身の血が付着したから。血は影を呼ぶのには一番簡単な方法なのさ。それに、想いの積った品であれば、影は自然と表に出てきてくれる」
「死者と話しているのか……?」
「違うんだな、これが。人の影は、強い想いだって説明しただろ? 想いは記憶さ。師兄が聴いているのは、蓮華の遺した記憶だ」
「記憶……」
「俺も混ぜて欲しかったな」
途中で介入しようものなら二度目の拳を受けるだろう。嫌な汗が噴き出た。完全に吐血するぞ、臓器は大切に扱え、全身で拒否反応を起こしている。特に鳩尾が主張している気がした。
林琳は首を縦に振ったり、横に振ったり、時に溜め息を吐く。擦り傷になってしまった額を撫でて、人差し指と親指で眉間を摘む。
「……善処する」
暫く浮遊していた簪が、一度だけ煌めいた。先ほどとは正反対の、陽の光を反射した輝きだ。簪自体が輝いたのではない。遺された影が成仏したのだ。影との干渉を終えた魂の行方は知り得ないが、この地に留まり、怪奇の餌となるよりは良いだろう。
片燕の作法に則り、林琳は目を閉じる。今更、自分の古巣の作法を守る必要など——ないはずなのに。深く記憶にも身体にも染み付いたものは、意識せずとも出てしまう。滑稽で、心底笑える話だ。仕人の力を使用する度に、嫌でも思い出してしまう。捨てたのは自分自身だろう。
——カラン
浮遊していた簪は力尽きた様に地面へと叩きつけられ、粉々に割れてしまった。
「終わったみたいだ」
いつの間にか墨で濡れていた床は、綺麗さっぱり元通りになっている。
「風蘭、姐さん……何度も繰り返して、親を亡くした子供みたいだ。後は男の話……意中の男がいたらしい」
まだ頭の中で反響しているとぼやきながら、簪の破片を丁寧に集めて一回り小さな巾着へ詰める。
「彼女に掘り起こそうとした記憶はない。そもそも、山奥へ赴いた記憶すらない。恐らく城下町を出る前に蓮華は息を引き取っている。自分の死よりも、風蘭のことが心配で影になったみたいだな」
全く風蘭も蓮華も似た者同士だ。
「死体に怪奇が取り付く……そんな事、あるのか?」
京は怪奇についての知識が少ない。この二人から与えられる情報が、唯一の頼りだった。
「怪奇は信じられない現象を引き起こす。俺たちの想像を超えた、そのものが怪奇だ」
「そうそう、何でもあり得るってこと」
蓮華の件に関しては怪奇の仕業に違いない。検視官に邪魔さえされなければ、亡骸に触れて直接視ることができたのに。必ず亡骸には怪奇の痕跡がある。もし取り憑いていたのなら、想像を絶する濃い痕跡が残っているはずだ。俄然、やる気が出てきた。
「どちらにせよ張家の古書を調べたい。任せるぞ、京」
京は避難用の経路を使い、張家の宝物庫で古書を探すことになった。幸楽美国の長、張・周郗の宝物庫へと侵入するその危険性と重要性を、京は誰よりも理解していた。これは京にしかできない仕事だ。
「お前たちはどうする? この屋敷で泊まってもいいが……現場へ行くんだろう」
京は、林琳と仁が山奥の現場に赴き、状況を把握するだろうと見越していた。
林林と仁は頷く。
「気をつけろよ。次に会うのが処刑台では笑えないからな」
我楽多の中を漁りながら、京は箪笥の中から匕首を取り出し、林琳へと渡した。仁の持つ匕首と比べて少し短い。
「貸してやる。家宝だぞ。一級品で珍しいんだ。きちんと返しに来い」
匕首の鞘には紅の宝石が埋め込まれており、柄は程良い太さで手に馴染みやすい。
「棺に返す事になるのだけは勘弁してくれよ」
林琳は匕首を懐に仕舞うと、巾着から白い組紐を京の手首へと巻いた。編み方が滅茶苦茶で、歪な組紐だ。正直に言って不格好だが、きつく結ばれた組紐は手首で二重に巻かれ、外すには切り落とすしかないだろう。
「一度だけ怪奇から身を護ってくれる。二本切れたら遠くに放り投げるか、燃やせ」
怪奇は精神を崩壊させる。京は修行を積んでいないし、二度目の奇跡的な逃走は望めないだろう。仕人でさえ、怪奇と対峙して精神崩壊に陥った事件もある。修行を積んだ身でも自殺に走る者も多い。
「分かった」
「自ら切り落としたら、一緒にお前の腕が落ちるからな」
もはや御守りではなく呪物だ。真顔で笑えない冗談を話す林琳に、京は小さく何度も頷いた。
「案外不器用なんだな」
「やっぱり返せ」
不器用なのは変わらず。仁は歪な組紐を見て思った。片燕の中で最も優秀な師兄は、この組紐だけは上達しなかった。きちんと効力は蓄えられているが、不格好な点は変わらず。と言うか、修行さえしていなかったのだろう。
"十年前"
「師匠〜! 全然理解できない〜!」
二本の白い紐と灰色の紐が安定しない間隔で編まれている。灰色の紐が長く余ってしまっていて、どこかで編み漏れたのだろうと仁は匙を投げた。
「姿形は何でも良いんですよ。ちゃんと念を込めて、怪奇を払う御守りになれば、三つ編みでも効果がありますから」
頬を膨らませてそっぽを向く仁に片燕の宗主、兼、仁の師はくすくすと笑って小さい頭を撫でた。
御守りとしての効力は十分だ。他の弟子達はその域には達していないし、仁の編まれた組紐は寧ろ上出来だった。
仁は編んだ組紐を指先でくるくると振り回す。
「何でこんな下手くそなんだろう。不器用じゃないと思うのに……」
本来、仕人は己の身を護る為に組紐を編み上げる。人の心に宿る強い意志を"心力"と呼ぶ。心力を込めて作り上げられた御守りは怪奇と対峙する仕人にとっては、必要不可欠な物だ。御守りとしての効力を発揮しない組紐では、一人前としては認められず、単独行動は許されない。完璧に編み上げて、漸く一人前として怪奇と対峙する機会が与えられる。それはどの宗派も同じだろう。上手く編み上げる事のできない成長途中の仕人は、師匠や師兄から組紐を授かり、身を護る。それはあくまで、仕人として修行を積んでいる者に対しての話で、一般人が持つ代物では無い。少しでも修行を積んでいれば、狂う精神を抑制し、怪奇の渦から逃れる術を持っている。御守りは効力の一つとして、精神統一の手助けをしてくれるのだ。無論、上級者であれば御守りに頼らずとも、怪奇と対峙した程度で精神が崩れる事は起きない。仁は納得がいかず、もう一度編むことにした。
「先生、師兄はまた外に?」
一人の弟子が問う。
「そうですね。早ければもうじき戻るでしょう」
昨晩は小雨が降っていた。風邪を引かずに戻るといいが。宗主は雲一つない晴天の空を見上げている。
「仁、諦めずに頑張りなさい。今度は長さが分かりやすいように、対になる色で作ると良いですよ」
宗主が渡す紐を退屈そうに受け取る。白と黒の柔らかい素材だ。
きっとどこか手順を抜かしたから不格好になったのだ。ちゃんと集中して編めば大丈夫だ。気合を入れたその時、「林琳!」と宗主の珍しい大声が響き、仁は思わず飛び上がった。
「っげ……」
「師兄!」
朱色の髪を持つ青年、林琳は至る所に擦り傷と汚れを付けている。普段大声を出さない宗主が珍しく声を荒げたのには理由があった。泥だらけの足元だ。宗主は目を布で覆っているが、微かな足音の違和感で気が付いたのだろう。大きな中庭を挟んで距離があるため、仁たちは林琳の足音にすら気が付かなかった。
林琳は気配を消すつもりだったが、宗主の声に驚いて項垂れる。
山の麓にある片燕の本拠地では豊かな水源が至る所で湧き出ている。さっと泥を洗い流し、手の汚れも落とすと、林琳は宗主の元へ足を向けた。
「戻りました」
拱手する際に仁を含む弟子たちが編んでいる組紐を一瞥する。宗主は顎に手を当てると少し考えて、「お前も作りますか?」と首を傾げた。林琳は既にこの技術を取得していた。初めに教えた頃は効力を伏せて修行させたため、御守りだと知った時には二、三日部屋から出て来なかった。修行させるには手っ取り早かったが、まさかこれほど不貞腐れるとは思いもよらなかった。挙げ句の果てに、開口一番「二度とやりません」と言い放った。
「別に要らないです。そんなの付けてたら、あいつら寄って来ないし」
片燕の一番弟子、林琳は怪奇好きの変わり者だ。片燕そのものが変わり者の集まりとは言われているが、色が濃いのは宗主、林琳、そして仁の三人である。
御守りは持つだけでも効力を発揮する。弱い怪奇は寄り付かず、強い怪奇には身を護る盾を一度だけ張る。仕人であれば誰しもが持つべき御守りだった。
「寄って行くのはお前の方でしょう」
林琳はふらふらと怪奇の匂いを感じ取っては、一直線に飛んで行く。今日も早朝から門を潜っていたのを宗主は見ていた。もちろん、林琳は宗主に気が付いて、隣に立っていた男に掴み掛かると、一言二言告げてこちらに挨拶に来た。拱手をすると「明日には戻ります」とだけ告げた。こちらも「はい、気をつけて」と交わす言葉はそれだけだ。恐らく、こちらが気付かずにいたら何も言わずに行ったのだろう。一番弟子である林琳がふらりと出て行くことは多々あるので今更だが。待たされている男は、盛大な欠伸をしつつ呑気に手を振っていた。迎えに来たのか、待ち伏せしていたのか定かではないものの、頼りになる男だ。ただし、愛弟子が大怪我でもして戻ってきたら、真っ先にあの男を半殺しにする。
いつもの男がいない様子を見ると、今日の怪奇巡りは終わったらしい。純白の衣は本来の白さを忘れ、薄汚れてしまっている。先ほど足元の泥は落としたが、朱色の髪には砂埃が付いたままだ。沐浴場まで近道をしようとしたところを、運悪く組紐を習っている仁たちと遭遇してしまったのか。
「身を清めに行きます」
仁が手を止めて追いかけようとすると、林琳は明らかに鬱陶しい顔をした。すっかり集中力が切れたのだろう。仁は林琳の背を追って去ってしまった。宗主と残された弟子たちは気にした様子もなく、黙々と組紐を編み続ける。どうせいつものことだ。数刻もすれば捕まった師兄が気を立てて戻ってくる。仁の頭に大きなたん瘤があると思うと、次第に気が抜けてしまった。先程と比べて少しだけ和気藹々とした空気の中、お馴染みの結果を想像しながら、まだ若い仕人は修行に励んだ。
◆
埃臭さが鼻をつき、蜘蛛の巣が邪魔をする。小枝に蜘蛛の巣を巻き取りながら、随分と使われていなかった避難経路を辿る。地下に掘られた通り道は薄暗く、目を凝らしてやっと先が見えた。
舞姫の自覚と誇りを持つ風蘭は、今宵も舞台に上がる。風蘭の部屋に隠されている入口は、彼女が舞を披露している間にこっそりと使わせてもらった。
久しく使っていなかった抜け道は、京の心を蝕む。知己だった白琵との思い出が、嫌でも湧き上がるのだ。道を違ったのはお互いに若かったからだろうか。それとも、己だけが勘違いをしていたのだろうか。二十年考えても、答えは目覚めてはくれない。偽りの知己だとしても、京は白琵のことを大切に思っていたのは事実だ。
この国から外の世界へと逃げる道もあった。それでも——心の片隅には白琵がいて、情けを捨てきれず、時間が経つのをじっと待っていた。
少しだけ前に進めた気がする。夢に見た仕人が味方にいるのだ。とびきりの変わり者と、真っ直ぐすぎる男の二人だけれども。
相当の距離を歩き、頭に叩き込まれた回路通りに進めば、行き止まりだ。順路を誤ったのではなく、隠し扉が存在しているのだ。靴の底から細い金具を外し、受け継がれたからくりの解除を行う。一つ、一つ、外れていく度に、京は己の秘密を暴いていく感覚がした。
震えているのが自分でも分かった。この先に進めば、もう戻れないのだと、本能が警告する。二人が素性を隠したように、京にもまた隠さねばならない素性があった。全てが終わったら、お気に入りの庭園でご馳走を振る舞おう。仁が林琳の皿に大量の肉を置く。林琳が嫌な顔をしながらも渋々と口にする姿が自然と浮かんだ。ふっと口元が緩む。手首に巻かれた組紐をそっと撫でると、蝕む心が溶かされ、震えは消えた。
からくりの扉を開けると、そこは数え切れない古書が保管されている張家の宝物庫だった。
ぶわっと埃が舞った。埃を吸い込む前に、咄嗟に腕で覆い防ぐ。少量目に入ったのか、痛みが走り生理的な涙が浮かぶ。細かな粒子が目に沁み、相当の期間手入れがされていないことが分かった。
宝物庫の中には所狭しと古書や法具、絵画、宝石、金銀財宝が置かれていた。一見すると京の屋敷と似た造りである。それもそのはず——京の我楽多屋敷の配置や内観は、張家を参考にして改築されたのだから。
「古書……歴史書の棚? それとも張家の家系図か……?」
張り紙も劣化して解読ができない。手当たり次第に探すしかないのか。京は莫大な量の古書を見て溜息が出る。溜息で埃が舞うものだから、呼吸すら気をつけなければならない。それに、ここは張家の宝物庫で、れっきとした侵入者である。宝物庫は限られた人間しか開けられない。外側からは鍵を持つたった一人の大臣以外に、誰も入ってこないだろう。生きていれば八十をとうに越えて隠居している可能性だってある。
記憶の中では、丁度この付近に歴史書が並べられていたはずだ。歴史書とは別に、六省から提出された重大な記録も残されている。日の差し込まない宝物庫では、古書や絵画が日焼けすることはなく、保存状態は良好だ。京は歴史書の横に、歴代の大臣名簿が置かれているのに気づいた。昔はもう少し整理整頓が……いいや、昔そのままの形跡だ。整理整頓をする人間は昔からいなかった。それに、人の出入りがなくなるだけで、どれだけ価値のある宝も古書も、忘れ去られていくのだ。人もまた同じだ。
京が本を捲る音だけが静寂を破る。外の時刻が分からず、時間の経過を知る術もないまま、何冊も古書が積まれていく。
その中で、気になる古書を見つけた。表紙に埃が被っていないのだ。まるで、誰かが触れて、埃を落としたかのようだった。加えて、製本方法がこの国と異なる。——幸楽美国で作られた本ではない。嫌な予感がして恐る恐る項を捲っていく。やけに手に馴染む古書は、手から離れず、京の意思を無視して捲り続ける。
紙がめくれる度に、古書から放たれる微かな香りに包まれる。その香りはどこか懐かしく、同時に不安を掻き立てる。何が記されているのか、内容に対する期待と恐怖が入り混じる。指先がページに触れる度に、背筋に冷たいものが走る。記憶の中の過去が、目の前で再生されるかのようだ。
京はその瞬間、何かが迫ってくるのを感じた。手が勝手に動く。古書の中に隠された秘密が、自らの運命を左右することを知っているかのように。彼は立ち尽くすことも、目を背けることもできなかった。古書に吸い寄せられるように、さらに深く引き込まれていく。
"宗派 琉雅"
京や白琵がこの世に生を受ける、ずっと昔の話が淡々と綴られていた。異国の地の歴史と、そこで生まれた怪奇、そして宗派の物語。聞いたこともない道具の名前が次々と登場し、京は飛ばし飛ばしで読み進める。読み取れない文字もあった。おそらく国柄や土地柄による特殊な記号だ。暗号はこの国にも存在する。
目で文字を追ううち、巨悪な怪奇に立ち向かう仕人たちが意気揚々と活躍する様子が描かれ、心が躍る。時間を忘れて、ページを次々と捲る。永遠の魂を得た国王は、生涯の知己と共に国を治め、平和を齎した。摩訶不思議な物語に浸り、まるで夢の中にいるかのように、世界から切り離されていく。
だが、徐々に足元が凍りつく感覚が広がり、心の奥に冷たいものが忍び寄る。六つ目が、覗く。
ここはどこだ。
お前は一体誰だ。
何のために生きて。
この世界にいる、俺は。
——誰だ。
その問いが心の中で反響し、京の意識をさらなる混乱へと導いていく。彼の内面に渦巻く不安と孤独は、まるで暗い深淵から這い上がろうとするかのように、彼を苛む。
何かが足りないと自我を取り戻した時には——もう、遅い。
◆
事件現場を離れた木の上から眺めている林琳と仁。二人は一つの根から幾つも枝分かれした木の上で胡坐をかきつつ、屯っている人間を観察していた。考えることは同じで、彼等もまた蓮華が何を掘り起こそうとしたのかを調べるのだ。辺りを掘り起こしている捕吏達は全身汗だくで、林琳はむさ苦しい集団を見るのも飽きつつある。
「何も出てこないぞ」
仁も落花生を食べつつ、退屈そうに殻を剝く。豆は流れ作業の様に口に運ばれていく。時折、差し出される手に豆を置けば、林琳が眠気覚ましに食べ始める。落花生の殻の量からして、相当の時間が経過していた。そろそろ底が見えかけ、変わり映えしない光景に変化の兆しが見えた。
この暑さの中、調査隊もお手上げなのか、「無理だ、意味がない、諦めよう」といった声が上がり始めた。掘り起こした土が山となっている。約三米の範囲をかなり深く掘ったので、今度は埋めなければならないだろう。土砂崩れの要因になりかねず、水が溜まれば地盤も緩み、下に住む農民たちに危害が及ぶ。
落花生が全て空になった頃、山積みになった土を乱雑に埋め終わったのか次々と山を降りていった。白色の細長い布で木と木を結び、目印にしている。何も出てこない地面を相手にするのは骨が折れる。一旦切り上げる事にしたのだ。あの中に蓮華の謎を解こうとしている者は、さて、いるのだろうか。
辺りに人影が消えたのを確認し、二人は木から飛び降りた。ふわりと二人の正反対の色を持つ衣が広がった。仁の純白の正装と、林琳の黒を基調とした衣が対照的だ。木々で覆われた山奥では、急斜面で足場がかなり悪い。仁は林琳の前を歩き、踏み固めて安全な道を選ぶ。細長い布に注意を払いながら、掘り起こされた後の地面を見つめる。男達が乱雑に掘り返した為、この場所だけ土の色が違い、違和感がある。近くに立って見渡してみるが、これといって気になる点はない。
木々が空へと枝や葉を伸ばしているぐらいだ。盛り上がった地面に林琳はしゃがみ込み土に触れる。じっとりと湿っている。ここではない別の場所に何かあるのか、と両手で土を掬い、首を傾げる。土を捨てて立ち上がり、軽く手を擦り、土を落とす。一部、また土が盛り上がった。
仁は林琳の捨てた土から、突然閃いた。彼の肩に手を置き、地面を指差す。
「師兄! 蓮香は掘り起こそうとしたんじゃない! 埋めようとしたんだ!」
何かが埋まっているのではなく、逆に何かを埋めようとして彼女は穴を掘ったのだ。いくら掘れども見つからないのは、埋まっている物が本当に何もないからだ。
そうなると次に生まれた謎は、"何を"埋めようとしたかだ。
蓮華の亡骸を脳裏に再現してみる。焼け焦げた身体では、性別の判別も難しいが、風蘭から贈られた唯一無二の簪が手に握られていた。それ故に蓮華の身元と繋がったのだ。仁はもう一つの違和感に気が付いた。
「蓮華の亡骸は焼け焦げているのに、草木が燃えた痕跡がない……!」
木の太い幹や雑草、周辺に焦げた痕跡が見当たらない。亡骸は確かに焼け焦げていた。それこそ、京が後退りする状態で。しかし見渡せる範囲には焦げた跡がない。多少でも煤が付くとしたら——。
仁は身軽に木を登り、枝や葉に付着している煤と紙屑を発見した。紙屑は女子が好んで使う文で、甘い香りがした。蓮華の肉体と共に燃えたのか、血で濡れて赤く変色してしまっている。もう少し上に登り、目線を遠くへ合わせていくと水の流れる景色が見えた。昨夜、三人が襲撃された河川だ。
腰に手を当てた林琳の声が下から届く。
「何かあるか?」
「煤と紙屑だ。ここからあの河川が見える」
「距離は?」
「詳しくはわからないけど……」
急斜面が多く、直線的な距離が把握できない。経験値から大体の距離を測定し、伝える。郊外に出ると幸楽美国とて田舎だ。片燕の自然豊かな本拠地と似ている。心地良い風が髪を遊ばせて汗に張り付き鬱陶しい。
「蓮華以外にも人間は山程いる」
金桃楼には妓女は他にもいるのに、彼女が選ばれた理由とは。
蓮華の遺した影は己の最期を知らない。影から記憶を辿れば事件の真相に一歩進めるのだが、そうは上手くいかない。簪はとうに壊れ、影も消滅した。林琳はふむ、と指で顎先を摩るとその長い睫毛で影を作る。地面に足を付けた仁は、伏せられた瞳と合った。
「蓮華は自分の意思ではなく、操られていた。それに、彼女は洗脳に染まりやすい人間側だ。張家への信仰も凄まじい」
「死ぬ間際の記憶はないけど、最後の記憶はあったの?」
仁は興味を持つ。
「……俺と別れた後に、誰かと肌を重ねてる」
「は……?」
「だから、動物的に言う、交尾を」
「あー! 言わなくていい!」
両手で耳を塞ぐ仁に、林琳はお前が聞いたんだろうと軽蔑した目を向ける。刺激的な夜だったな、と付け加えた。欲に溺れるというのは見ていて面白いし。そう言うと、今度は仁から軽蔑の目が向けられた。解せない。
「意中の男だろう。不快な感覚はなかった」
「相手の顔はみたの?」
やけに食いつきが良いと思いつつ、林琳は首を横に振る。
「お前とよく似た黒髪の長髪。かなりの細身で、腕は棒の様で人と表現するよりも抜け殻の方が似合う。彼女自身の記憶が顔を認識できていないのか、靄が……」
見ていないならそれで良い、寧ろその方がいい。快楽に堕ちた男の顔など知らないでくれ。もういい、これ以上は大丈夫だと制する。精神が擦り減ってしまうからやめてくれ。今後も靄がかかったままであれ、そう仁は思った。
「仁、好いた男の顔を忘れるなんて事あるか?」
林琳がごく普通に聞いてくる。色恋に興味のない男だ、真っ当な疑問だった。
「そんな馬鹿みたいな事……仕草や表情、癖だって覚えてる」
「幼馴染によく似た男だぞ。蓮華の記憶に靄がかかっているのは……彼女が認識できていない訳じゃない。俺が認識できていないのか……?」
林琳が問い返す。
「林琳は人の顔、すぐ忘れるから……」
身体を重ねる相手の顔を忘れるなんて通常は考えられないのに。影との干渉をしている最中は蓮華の方に意識が取られて気に留めなかった。
簪は砕け散ってしまったし、彼女の影はもうない。再度、影と会話を試みるのは不可能だ。男の名前と、幼馴染の名前さえ分かればと後悔する。
「完全に鈍ってる」
仕人には怪奇と接触しても戦う術がある。本来は怪奇を祓う為の存在だ。修行で得た能力で怪奇の残した痕跡を辿れるし、影へ干渉し、会話も可能だ。無論、能力差はある。上・中・下と能力差に区分をつけるのであれば、この二人は上。片燕の宗主は上を超えた、その先だろう。非常に恐ろしい存在だ。夢天理にも逸脱した仕人が存在しているが、片燕の宗主が一番恐ろしい。どの点においても、超える仕人は見たことがない。
「蓮華には男が人間の姿で、林琳は靄で認識が不可能……」
はっと顔を見合わせると、二人の脳裏に過った答えは同じ様だ。
「靄……怪奇か! 蓮華の相手は怪奇の取り憑いた男だ!」
では蓮華と肌を重ねた男はどこへ消えた?
——ブツン
突然、林琳の脳内で意識が裂ける。軋む音と甲高い悲鳴が交差し、思考がぐちゃぐちゃに引き延ばされ、頭の奥に酷い痛みが走った。六つの血走った目と視線が交わったのは、気のせいか。視界が左右に揺れ、三半規管が潰される。途切れ途切れになる思考回路に、あぁ、組紐が切れたのだと感じた時には、既に傍にあった幹の太い木に肩を預けていた。
怪奇からの跳ね返りが起きたのだ。林琳の怪奇に対する耐性は異常値で、跳ね返りすら虫けらと同等のはず。組紐の効力が低かったのか——有り得ない。
「……ああ、くそ、煩い」
些細な音でも脳内がかき乱されそうだ。
しかし、このままでは大変なことになる。京が怪奇に再び襲われた。林琳の御守りが多少の時間稼ぎはするだろうが、いつまで持つかは検討がつかない。六つ目の怪奇がいる場所は間違いなく、張家の宝物庫だ。向かう入り口は風蘭の私室。山奥から随分距離があり、二人は転がるように下っていく。
辿り着いた金桃楼をくまなく見渡す。仁は膳を持って移動する給仕を捕まえた。
「風蘭は?」
「申し訳ありませんが、私室でお客の相手を……」
「今すぐに取り継いでくれ」
「できません」
給仕の男は頑なに首を縦に振らず、疑いの目で二人を見る。
「陳家の御子息様と対談中です」
最悪だ、間の悪いことこの上ない。京がいなければ、賭博場に入って騒ぎを起こす事さえ不可能だ。だが目立つ事は極力避けたい。どうすればいい、何をすれば、白琵を風蘭から離せるんだ。気持ちが先へと焦る。焦る時間が勿体無い。京の身が危ないのだ、どうすれば——。
「助けが必要か?」
背後から聞き覚えのある声が届く。
「……西周!」
振り向いた林琳に「ちょうど金桃楼に用があってな」と西周は言ったが、その目は熱を帯びている。やはり間が悪い奴だ。
「お恥ずかしいお姿を……蓮華さんの事で、少し。あの、あそこの部屋で一緒に食事でもどうですか?」
林琳が指差した部屋は——賭博の行われている部屋だ。お前に構っている暇はない、限界突破した林琳のどす黒い笑みが炸裂した。
そのまま賭博場で行われる取引を暴け!
外交を担う白琵はきっと素通りできない。そうなれば風蘭の私室に篭ってもいられないだろう。いいからさっさと頷け、断る資格はないぞ、林琳から放たれる無言の威圧に給仕は逃げていった。それに全く気にしていない西周は頬を緩ませ、快く、寧ろ嬉しそうに受け入れた。
「先に上がって下さい。料理を頼んでから行きますから」
「そうか、すまないが頼んだ」
あはは、なんて笑っている余裕はない。林琳は奥歯をぎりぎりと噛み締めた。此方は怪奇を相手に忙しいのだ。京から預かった匕首で刺し殺しても良いだろうか。ついさっきまで浮かべていた笑みは消え去った。
西周を見送り、林琳と仁は風蘭の私室の隣にある衣装部屋へと身を潜めた。これから起こるであろう騒動に備えて息を潜める。西周は正義感の強い人間だ。それは蓮華の亡骸に祈りを捧げる姿を見れば誰しもが思うことだ。
「京、大丈夫かな?」
「組紐に微力ながら跳ね除けの呪を組み込んである」
だから二重に巻いたのか。御守りとしての効力と、跳ね除けの効力。実に、末恐ろしい師兄だ。流石片燕の一番弟子、怪奇への対策は群を抜いている。跳ね除けの効力まで組み込む芸当は、熟練の技でしかないと感心していた。
「ま、上手く作用しているかは不明だけど。死んだ気配はないから大丈夫だろ」
「え?」
「守りと跳ね除け、正反対の効力だ。俺だって使ったことがないし」
あいつ、豪運の持ち主だな。軽々と言って退けるが、仁はそんな代物を一般人にもたせたのかと空いた口が塞がらない。加えて、危険性の高い無茶に腹が立った。宗主の耳に入れば、形のいい唇を僅かに緩ませて大爆笑間違いなしだ。
「何をしている! 人身売買は国家法律で禁じられている!」
待ちに待った騒ぎが一つ上の階で始まった。どうやら金桃楼に偶然居合わせた役人が数名いたようだ。刑部侍郎である西周の他に数名の声が響いている。人身売買の取引現場と遭遇したらしい。金桃楼の中は騒然としている。
それでいい。騒然とすればするほど、都合が良い。
さて、白琵はどう動く。外交を担う陳家の汚名を払拭するには、この騒動をどう収めるかが鬼門だろう。辺境から連れてこられる奴隷を知らぬふりはできないだろう。異変に気がついた隣の部屋でがたりと椅子が倒れた様だ。そろそろ部屋を飛び出すだろうと耳を傾け、白琵と風蘭の動きを探ろうとしたその時——。
「駄目だよ、邪魔をしたら」
青年は頬を指で描きながら、露骨な表情で眉を顰める。
「藤……」
「嗅ぎ回っている犬が君達だなんて残念だよ、でも、どうしようもないよね、君達が邪魔をするんだもの。外の国から来たのに、首を突っ込むから駄目なんだ。自業自得だよ。……この国を滅ぼしたいの? そっと気付かぬふりをしてくれれば、蓮華も死ななかったのにね」
馬を愛していた男の面影はそこにはなく、林琳は冷笑する。藤の凍てつく鋭い瞳に、笑いが込み上げる。自業自得だと。どの口が言うのだ。
小さく鋭い針が、林琳を襲うが、針は仁の頬を掠めた。じわりと血が滲み、頬を滑る。
「冬楽に似た男を蓮華に近づけたのも、お前か」
「あはは、似た男じゃない。あれは、冬楽だ」
今はまだ不完全だけど、と付け足す。
「もっと怪奇に影を喰わせれば、冬楽の魂は戻って来る。だって身体は生きてるんだもの! だから、僕達の邪魔をしないで」
藤は言う。冬楽の魂は怪奇の中で彷徨っていて、沢山の影を怪奇に食わせれば、冬楽の魂は再構築されて戻って来るのだと。今回の人身売買は失敗してしまったけれど、人間なんて山ほどいる。誰だって良いのだ。指輪に影を閉じ込め、怪奇の取り憑いた冬楽に喰わせる。現に、冬楽の体は動く。順調に回復している証拠だ。もう少しで——元通りになる。
「……愚かだな」
仁は血を親指で雑に拭った。
一度壊れたものは、二度と元には戻らない。
「彼がお前の名前を呼んだか? 想い出を語ったか?」
例え身体が冬楽でも、意識は怪奇だ。魂が再構築されるなんて幻想だ。怪奇は悍ましい存在で、精神を壊すモノ。
「冬楽の体を弄ぶな」
「五月蝿い!」
正気を失った藤は腰から剣を抜き、仁へと切先を向け、飛びかかった。そして藤の放った針が再び襲う。仁は匕首を握り、一つ残らずに弾き飛ばした。ひゅう、口笛が後ろから楽しそうに鳴る。仁は片燕の弟子で、相手にしたのは怪奇ばかり。対人など赤子の扱いに過ぎず、剣を去なすと背中を蹴り飛ばし、壁に刺さっている針を抜き、藤の右手に突き刺した。左手に握られていた剣はいつしか仁の右手に収まっている。仁は向けられていた切先を藤の喉元へ押し付けた。避けた皮膚から血が流れ、痛みに呻き声も上がったが外では人身売買の騒動で滅茶苦茶だ。どうせ聞こえてはいない。
「おい、殺すなよ」
「はーい」
間延びした返事を溜息で返すと、ようやく風蘭の私室から気配が消えたことに気づいた。
白琵と西周を中心に賭博の参加者が言い争う言葉と、客や商、妓女の困惑した声が飛び交う。
「あれは冬楽じゃない。良い加減に認めろ」
「有り得ない! 白琵様は仰った、冬楽の魂は戻ると!」
頑なに認めない藤はうわ言を何度も繰り返し、奇妙だ。——自身に暗示をかけているのだ。
「間違えちゃいない。僕は、正しいんだ……! 彼の為に、僕は永遠に生きる魂を作る」
「寄せ集めた影で作った魂。それは……本当に冬楽なのか? 彼の記憶は、経験は、感情はどこにあるんだ」
震える唇は色を失い、凍てつく瞳にはもう力がない。
「彼を壊しているのは……藤、お前自身だ」
怪奇に取り憑かれた冬楽を使って、蓮華を陥れた。怪奇と肌を重ねた蓮華は、自然と怪奇に喰われ、精神崩壊を避けられなかったのだろう。精神だけでなく、肉体まで京が負った傷とは比べ物にならない。焼き爛れた肉体は、怪奇が彼女の中で暴れ回った証だ。
「それでも彼女は精神を壊された状態でも冬楽の事は忘れなかった。軋む体を必死に動かして、精神を蝕む怪奇から逃れ、誰も近寄らない山奥へと向かった。蓮華が埋めたかったのは……冬楽と交わした想い出の残った文だ。簪も同じ。誰にも暴かれないように、隠そうとしたんだろう」
結局は全て燃えてしまったけれど、彼女は怪奇に精神を侵されようとも、大切な人との記憶を忘れなかった。しかし、今の冬楽はどうだ。怪奇が持つ自我は、影で構成された紛い物で、そこに冬楽は本当に生きているのか。
「……冬楽は、戻ってくる……そのために僕は……」
「この世に永遠は存在しない。死んだら、終わりなんだよ。二度と戻ってこない」
心地よい穏やかな太陽の下で、藤の記憶の中の冬楽が笑う。目尻を細めて、髪を遊ばせ——くだらない話を、沢山して……そう、沢山……沢山って何だ。
「どんな話? あれ、冬楽と何を話したっけ。彼はなぜ死んだんだっけ。冬楽は、ずうっと、僕は、本当は……」
「何年間も怪奇といるからだ。とっくにお前の魂や精神は蝕まれている」
錯乱した藤は両手で顔を覆い、ただ冬楽の名前を呼び続ける。三年前に死んだ大事な友は、戻ってはこない。
「恩がなんだってんだ。結局お前は駒でしか無かったんだよ。二十年前お前は辺境の地から、怪奇の餌として連れてこられた。白琵が駒として育てるため唯一生かされた。お前以外は餌となり喰われていった。知っていただろう。白琵の側で見てきたはずだ。この国で巻き起こっている現実を」
しかし、白琵が冬楽を選ぶとは思っていなかったみたいだがな。
——"「藤。異国では永遠に生きる魂を作れるらしい。愛した人と永遠に同じ時を過ごせるんだ」"
「幸楽美国の洗脳には染まっていなくても、大事なご主人様には洗脳されていたのさ」
冬楽はこの世には存在しないのだと、突き付けられた現実を藤は受け入れられなかった。身体は生きているのに。そこに、彼の魂はいない。二度と、笑わない。
この三年間、一体何のために生きてきたのだろう。白琵の屋敷から逃げることもできず、今まで生かされた恩に縛られ、多くの人を殺してきた。賭博場に忍び込み、白琵の指示に従い、人身売買の手筈を整え続けた。あと一回、あと一回だけ——怪奇に喰わせれば冬楽は戻ると、彼は一心不乱に信じていた。しかし、三年が経った今も、藤の名前を呼ぶ声は一度も聞こえない。さらに、白琵が従わなければ、冬楽は動くことさえなかった。
初めから、間違えていたのか。
「僕は、謝りたかっただけなのに……」
仁の制止を振り切って、切先に自ら首を滑らせ、藤は思い切り掻き切った。
目の前で血飛沫が火花の如く咲く。突然の行動に林琳も息を呑み、駆け寄る。
どさりと倒れる藤は生暖かい血で染まっていく。妓女の衣装は血で濡れ、鮮やかだった衣装部屋は血の海と化した。
仁は唖然として、とめどなく流れる血から目を逸らせなくなった。意図せぬ死に思考が止まったのだ。林琳は何か言葉を掛けようとしたが、言葉が見つからず、ただ、首に下げたままの指輪を血の海へと放り投げた。血が跳ねる中、指輪は鈍く光を帯び、煌めく。
「怪奇に蝕まれている身体だ。視えるだろう」
既に瀕死で救いようの無い藤は、死へと向かって薄れていく意識の中で幻を見る事となる。
——藤。
「……と……、う、らく」
——蓮華が先に待ってる。俺も行かなきゃ。
ずっと、そこに居たのか。指輪の中に、ずっと一人で。嗚呼、怖かっただろう、痛かっただろう。一人遺されて寂しかっただろう。
「ご、めん……」
——もう、いいよ。終わりにしなきゃ。
そうだ、終わりにするのだ。愚かな感情を。
僕は初めて会ったあの日から冬楽が好きだった。僕に向けられる笑顔が好きだった。太陽に包まれる、心地良い、香り。
でも、今の冬楽は……笑わない。冬楽と違って無機質で、勝手に冬楽の面影を重ねて錯覚したのだ。
最期に目の前にいる愛おしい人に触れたい。そう願っても、腕に力が入らない。当たり前だ、身体はもう焼け爛れ始めた。きっと人の身体を成していないのだろう。
——藤、さよなら。
幾度となく求めていた存在が、優しく触れてきた気がした。これ以上の幸せは望まない。目の前が闇に包まれ、静寂が訪れる。
しかし、瞼の裏には冬楽が笑顔で名前を呼んでいる。
唯一の心残りは、冬楽の身体だ。怪奇に取り憑かれた彼を解放しなければならない。ずっと抜け殻のまま、この世に縛り付けてしまったのだから。せめて彼の身体だけでも小菊の元へ届けたい。そんな悲しい願いは天に届かず、消えていく。
藤にはもう意識がない。怪奇に蝕まれた彼らの魂が輪廻に戻ることはないだろう。
影となった冬楽は安心したのか、目尻をさらに下げて拱手する。仁は優しく手を振った。
——ありがとう。
指輪が血の海の中、美しく輝きを放った。閉じ込められていた冬楽の影は成仏し、消えてしまったのだ。
「……善処するって約束したからな」
最初は指輪をひっかけるための組紐だった。しかし指輪を通して身につけていると、影が宿っている気配がした。試しに心力を込めた組紐に取り換えると、予想は的中。指輪へ閉じ込められた影は、一部を怪奇に汚されつつも、形を保つことができた。
血の海で真っ赤に染まった指輪は砕け散ってしまっている。蓮華の簪同様、役目を果たしたのだ。
「うっわ……血がべっとりだ」
下を見ると足先から胸元まで真っ赤に染まってる。汚れた衣を隠す為に、その場にある外套を二人して拝借する。流石に血を受けた衣で人前に出るのは避けたい。
「蓮華と約束でもしてたの?」
白はやめろ、黒か紺を寄越せ。仁の差し出した純白の外套を一瞥する。
「さぁな」
「教えてよー!」
「引っ張るな!」
「しー! 声!」
埒が開かない。何が何でも聞き出すつもりだ。ぐいぐいと外套ごと帯を掴まれる林琳は、京の身が危ないことを仁は忘れているのではないかと思った。
外に出ると騒動は大方静まっていたが、金桃楼の一階中心部では西周と数名の男達、そして白琵が対峙している。その周りを二階席、三階席と上から覗くように見ているものだから、人の壁が出来上がっていて、風蘭の私室に入る事は安易だった。そっと扉を開き、滑り込む。事前に京から教えられていた床を剥がすと、確かに隠し路へと続く階段が現れた。京はこの先の宝物庫にいる。
林琳が備え付けの手燭を持ち、先を照らす。階段はかなり下まで続いている。
「いざ、怪奇の元へ」
「いや、京の元へ、だ。思いっきり対象物が変ってる」
「怪奇も京も同じだろ」
「違うだろ!?」
おっと、無意識に口に出ていた。目的地は変わらないんだから、気にするなと林琳が言うのを受けて、仁はやれやれと呟きながら下を覗き込む。
林琳が一歩踏み出すと、仁も手燭を持って続いた。
「人の影は想い……想いは記憶。冬楽に林琳との記憶はないでしょ?」
やや急な階段を降りながら尋ねる。仁はそのことが気になって仕方なかった。通常、人の影はその人が遺した想いや記憶である。面識のない林琳に対して冬楽が拱手したのは不思議だった。
「……ただ、冬楽によろしくと言われただけだ」
「蓮華の影は干渉してきた林琳を仕人だと理解したのかな」
指輪に懐かしい記憶を持つ影が宿っている事も、感じ取っていたのかもしれない。蓮華も冬楽もお互いを想っていた。藤だって同じだ。形は違えど、三人共、愛を抱えていた。
「藤も蓮華も……忘れた方が楽だっただろうな」
「忘れないさ」
「……何故?」
「一緒に過ごした日々が積み重ねる記憶は消えない。過去は消えないんだ。もし相手が忘れても俺は共に生きた日を絶対に忘れないと思う」
仁は艶やかな髪を揺らし、振り返る。
——"「師匠! 師兄! こんな大きな大根が採れた!」"
——"「師兄!」"
向日葵がちらつく。心臓がどくりと音を立てる。ああ、この感覚は好きじゃない。理解できないものは全て——心底不愉快だ。染まる世界も、すべてが。忘れられることが羨ましい。いつも忘れる側は自由に羽を広げて飛んで行く。俺だって、忘れてしまいたかったのに。
「大切な物は絶対に忘れちゃいけないんだ」
沈黙を貫く林琳の表情は、手燭の灯りで影になり、読み取れない。
「……馬鹿みたい」
一言だけ残し、張家へと繋がる通路に足を向けた林琳に、仁は困った様子で笑うだけだった。仁の大切な者は、今も変わらず忘れたがり屋だ。
◆
埃の積もった石畳に、足跡が一つ。京の足跡で間違いない。一直線に続く足跡は、宝物庫の前へと二人を案内した。
扉のすぐ近くにいるというのに、二人は小競り合いをしている。
「そっちのはお前の方が得意だろ」
「うーん……得意なだけで、好きじゃないんだけど」
「やれ」
「横暴だなぁ、もう……!」
怪奇の領域に入り込むのは仁の方が得意だろう。林琳だって単独で動く時は自ら開く。無理矢理だが、扉を開けばいい。その反面、仁は繊細な開け方をするため任せた方が早いと思ったのだ。
渋々仁は扉に手を置き、心力を込めて怪奇の渦をこじ開ける。
開かれた渦の中には、宝物庫ではなく広大な敷地を持つ屋敷の景色が広がっていた。後ろを振り返ると、聳え立つ張家の正門が見える。空は真っ黒で、一面が墨で塗りつぶされたようだ。どうやら、うまく入り込めたらしい。
「京ー! 無事かー!」
仁が力いっぱい声を張り上げる。この空間には、彼らと怪奇以外の生き物はいない。
「無事な訳あるか!」
火傷を負った京が、足を引き摺りながら木の影から現れる。手首に巻かれた組紐の片方は切れていた。
「豪運すぎて怖いぞ、お前……」
林琳は鳥肌の立つ腕を摩りながら、京の生存率の高さと並外れた精神力に感服する。組紐の効力もあるだろうが、それにしても素晴らしい根性だ。生きていれば問題はないと言いたいところだが、火傷の痕は痛々しい。これ以上無理に身体を動かさない方がいいだろう。仕人は精神的な保護はできても、傷を治す力は持っていない。京の治癒力を信じるしかない。空間には僅かに亀裂が入っていた。それは人がこじ開けた入り口とは別だ。組紐の跳ね返りが怪奇の逆鱗に触れたらしい。己を祓おうとする心力に対抗しているため、怪奇も傷を負っている。しかし、怪奇の姿は見えない。普段の怪奇であれば、侵入者を一目散に喰いに来るのに。
仕人の二人は京の身体に触れる。確かに怪奇に襲われた痕跡がべっとりと染み付いている。京は思いついたように、一冊の古書を取り出した。仁は疑わしげにそれを受け取る。年季の入った古書は四隅が破れ、背表紙は黒く汚れていた。固まった血液が付着している。
「宗派琉雅……?」
覚えのない宗派だ。数多の宗派が生まれた中で、これほど古い宗派であればどこかで見かけているはずだ。中を開こうとしても、固く閉ざされていて開く気配がない。仁が回しても同じで、糊で閉じられているのか、力を入れても無理だ。
京は古書の製本方法が幸楽美国の技法ではないと説明し、中に書かれていた物語を簡潔に語り始めた。張家に伝わる歴史書を開く。
古書は海を渡って、遠いこの土地へと流れ着いた。異国の地から運ばれた古書は、当時幼かった張家の長の子供が海辺で手にした物。劣化した紙を剥がす為に修復を試みるが、上手くいかない。長が変わる度に古書は引き継がれ、次第と忘れ去られた。ある日、陳家と張家の子供達が宝物庫で古書を見つけ、当時の長に再度修復を依頼したが、許さなかった。長は仕人の修行を積んでおり、古書に怪奇が潜んでいるのを知ったからだ。仕人の長は祓う為、本の中へと飛び込み続け怪奇と闘った。酷い火傷は長の身体を徐々に埋め尽くしていく。その翌年、長は宝物庫内で酷く火傷を負った状態で見つかる事となる。手に握られていた古書だけは無傷のままで、恐れ慄いた長の息子は古書を陳家の当主と共に海へと捨てた。それ以降の記録は破られていて、次の記録は三代前の時代から始まっている。
「この時代を知る者は……いない。どの歴史書にも記されていなかったし、破れてる」
「都合の悪い記録を破った人間がいるってことだな。幸楽美国の洗脳が始まったのはその頃だろう」
「どちらにせよ、この空間を壊して、六つ目の怪奇を祓えばいいだけだ」
そうすればこの国の馬鹿げた話も終わる。
「怪奇はこの空間にいる。今は御守りの効力で寄り付かないが……誘い出せばいい」
林琳と仁は足元に何やら解読のできない文字を書く。丸く書かれた陣にある文字は京の見知らぬ形をしていて、首を傾げた瞬間——ひたひた、と裸足で歩く音がする。人の姿をしているそれの腕には、六つの目がぎょろぎょろと蠢いている。宝物庫の前を歩いていたそれは、仁が拍手を二度鳴らすとぐるりと振り返った。
「冬楽の体だ、返せ」
足元の覚束ない冬楽の身体は陣の近くへとゆっくり歩いてくる。六つの目は探し物をしているのか、忙しなく充血した目を動かす。
「お、おい、大丈夫なんだろうな?」
京は足が震え、動けない。二人の顔色を伺うが、彼らは冷静に怪奇を見据えている。陣に触れようとした京に、林琳は告げる。
「ここにいれば安全だ。少しでも出たらお前、死ぬよ」
その言葉は真実だ。心力の籠った陣から出れば、既に火傷を負った京は確実に喰われる。
彼の穏やかな表情は失われ、粘土で作られたような温かみのない傀儡の顔がそこにある。六つの目は三人を捉えておらず、仁の鳴らした音を頼りに近づいてきた。京はその様子を見つめ、不安が胸に広がる。
恐怖心が足の先から心を蝕み、あの日の悪夢が蘇る。息が荒くなり、体が硬直する。果たして、彼の意識は、今どこにあるのか。これから何が起こるのか、京はただその恐怖に飲み込まれそうになっていた。
「手間のかかる……」
林琳が人差し指で京の額に触れる。心力を分け与えているのだ。
じんわりと暖かくなる額に心地よく、意識が微睡む。六つ目の怪奇に対する恐怖心が腹の底へと沈んでいく気がした。
「返せ」
陣を飛び出し、仁が冬楽を全力で殴り飛ばす。冬楽の体には申し訳ないが、匕首で貫く以外の方法ではこれしかない。握りしめた拳が見事に冬楽の顔面を捉え、めり込む。人間の顔の作りでは決してあり得ない現象が起こった。——顔が剥がれ落ちたのだ。顔を形成していた粘土が剥がれ落ち、蹌踉めく体、六つの目は消え失せ、冬楽の身体は焼け爛れてその場に残された。
「終わったのか……?」
「本体がまだだ」
仁は冬楽の肉体を担ぎ上げ、陣の中にそっと置いた。首から上は一切なく、腕には六つの目も存在しない。冬楽の身体を失った怪奇は瞬く間に黒く塗りつぶされた空へと飛び込む。桜陽宿場で襲われたあの日と変わらず、怪奇はこちらをにんまりと見て笑っている。こうなれば陣の効力は効かないだろう。林琳と仁は、京と冬楽を背に匕首を構える。林琳の持つ匕首は京から拝借した物だが、不思議な程良く手に馴染む。伝わってくる微弱な心力は、気のせいではない。
空で見下ろしてくる怪奇を一体どうやって祓うというのだ。匕首では届きようも無い、と京はぎゅっと組紐を握った。
「京、古書を貸せ」
先ほど力ずくでも開かなかった古書を、林琳は受け取ると、力を込めて匕首を突き刺した。切先と接触した部分が激しく燃え上がる。古書からはどろどろとした黒い粘り気のある液体が染み出し、火花が飛び散る。炎とともに染み出した液体で、匕首の切先は削れ始めた。
瞬く間に六つの目は憎しみと怒りに染まり、あの日と同じく大きく口を開いた。空から------飲み込まれる。
頭の奥に響く人の悲鳴、嘆き、怒り。怪奇が喰らってきた様々な感情が、混ぜ合わせた異物となって襲いかかる。我を失ってしまった方が楽ではないか、そう考え、目を瞑った瞬間、再び額に林琳の指先が触れた。
「仁! 早くしろ!」
「わかってる!」
「お前も意識を飛ばすな、馬鹿! 死にたいのか!」
意識が朦朧とする中、林琳の横顔がぼやけて目に入る。突き刺した古書は抵抗しているのか、炎が巨大になり、林琳の握る匕首を燃やそうとする。耐えきれなくなり、冬楽の隣に倒れ込んだ京に舌打ちの音が聞こえた。残った力で視線を林琳に向けると、心配そうな瞳とは正反対に、激昂の色が宿っている。結局、二人の足手纏いになってしまった。不甲斐ない感情で唇を噛みしめる。
陽炎で揺れる世界の中、炎の中で靡く朱色の髪が白琵の姿を思わせる。地獄の状況になっても、彼のことを忘れられないのか。怪奇は彼が育てたと言っても過言ではないが、裏切られたのも事実だ。また、彼の犯した罪は数多い。賭博の元締めも、元を辿れば人身売買の取引に白琵が絡んでいる。元凶は全て白琵だと知りながら、思い出すのは幼い彼の姿。神童と呼ばれた彼は、古い本を持って読み聞かせを強請った可愛い子だった。文字の読み書きに苦労していた白琵は、歳上の京に強請り続けた。彼が吸収していく知識は、将来の道を照らす武器となるはずだった。
——"「周郗兄さん! 御本読んで!」"
——"「次はなんだ、政の教本か?」"
——"「ううん! これ! 異国の宗派だって!」"
怪奇の潜む古書を読み聞かせたのは、今と同じ風貌の俺だった。永遠の魂なんてあり得ない御伽話だと貶した俺は、一心不乱に学問に励んだ白琵が何を考えていたのか、知ろうとはしなかった。ただ、長として座った時に、彼が片腕として支えてくれるという素晴らしい夢を描いていた。
眠っていた記憶は、幼い白琵の姿を崩し、成人を迎えた姿へと変わった。——静かに泣いていた。拭うこともせず、涙を流している。血走った六つの目は弧の字に歪み、背後で白琵を嘲笑った。一つ、二つ、三つと、血走った目が閉ざされる。ついに全ての目が閉じ、白琵の流す静かな雫が古書へと降り注いだ刹那、京は己の心臓から炎が燃え上がる感覚を知る。
◆
次に目を覚ました時、京の身体中には包帯が巻かれていた。重たい身体をどうにかして上半身を起こし、まだ冴えない頭を触ると、そこにも包帯が何重にも巻かれているのを感じた。腕にも包帯が巻かれ、皮膚が引き攣って痛みが走る。火傷の跡はきっと残るだろう。
徐々に覚醒する思考と視界の中で、京は自分が寝かされている寝台が張家のものであることに気付いた。見覚えのある天幕に大きな龍が描かれている。首を横に向けると、寝台の横に匕首が置かれていた。——張家の家宝だ。
京は勢いよく飛び起きたが、林琳と仁の姿は見当たらない。それに、六つ目の怪奇はどうなったのだろう。何故、自分が張家の寝台にいるのか。溢れ出す情報に居ても立ってもいられなくなり、地面に足を下ろした。ひんやりとした冷たさが伝わる。未だに怪奇の中に閉じ込められているのかもしれない。逃げなければ。京は足を引き摺りながら必死に動き出した。
「周郗様!」
「……お前」
懐かしい顔が目に入る。二十年の歳月を経て老けてしまったが、確かに大臣の一人である男が立っていた。
「よくぞお戻りで!」
身体中酷い怪我なのです、寝台にお戻りください、押し返そうとする大臣に京は困惑を隠せない。それに、その名を聞くのは久しぶりだった。
「何故俺はここにいる? 一体何があった」
「宝物庫から騒音がすると使用人が言うので、勝手ながら鍵を開けさせて頂きました。そうすると周郗様を見つけたのです! 一体全体、二十年も旅行をするなんて、何を考えていらっしゃるのです!」
周郗は首を傾げた。
「旅行だと?」
一言も口にした覚えはない。名を変え、衣は見窄らしい物へ、言葉遣いも変えたが、ずっとこの国にいた。大臣が何を言っているのか理解できなかった。困惑する周郗を差し置いて、大臣は口を開く。
「白琵様が二十年前に、船を出し旅に出たとご報告にいらっしゃいました。政は全て大臣に任せると……勿論、私どもでは無理があります故、白琵様にもお手伝い頂きました」
余計に周郗は困惑し、体制を崩して寝台に座り込んだ。鏡に映った自分の顔には無精髭はなく、適当に切り揃えられた髪は手入れされている。素顔を見たのは久しぶりだ。大臣は「少し、窶れましたね」と寂しそうに微笑んだ。
「そうだ、白琵は何処にいる!?」
腰を屈めて水を汲む年老いた大臣の肩に手を置く。
告げるかどうか迷ったのだろう、声色は深刻だ。西周が金桃楼で行われる巨大な賭博場を発見した。取引元を拷問で吐かせれば、白琵の名が上がった。国民が戸惑う中で、動揺する素振りもなく、牢への道を素直に従ったと言う。陳家の者は無関係で、白琵個人の犯行。外交を担っていた人間が、行った犯罪の取引。幸楽美国は大きな危機に直面してしまった。
「本当なのでしょうか。白琵様が、そのような事を……」
信じられないと大臣は繰り返す。
「赤毛の子と長髪の美しい男を、見なかったか」
「いいえ。旅のご友人でしょうか?」
仕人の二人は一体どこへ消えたのだ。気を失った後の話が聞きたい。匕首をそっと手に取り、鞘から抜くと切先が折れて無くなっている。古書に突き刺した際に、炎の熱で折れたのだ。あの記憶は現実だ。怪奇は祓えたとしても、二人は無事だろうか。特に炎に焼かれてしまった林琳が心配だ。折れた匕首を眺めていると、鞘に一枚の紙が挟まっているのが目に入る。
「少し、休む。他の者には迷惑をかけたと伝えてくれ」
「周郗様、一週間後に白琵様の裁判が行われます。従兄弟の兄君も戻られますよ。それに、夢天理の方も……お見えに」
この先、体が幾つあっても生きていける気がしませんと愚痴を溢し、大臣は杯に水を用意する。若くない老いぼれでは、お役に立てませぬ、とくすくすと笑う大臣に「苦労を掛ける」と周郗は苦笑いする。大臣はそっと微笑むと一歩下がり、拱手を捧げ部屋を後にした。
裁判にかけられるのは己も同じだろう。白琵は人身売買と賭博の元締め、己は長でありながら怪奇を隠していた身として。当然の結末だし、望んだ結末でもある。二人から学んだ覚悟は、確かに生きている。
京は鞘から挟まれていた紙を取り出した。小さく折り畳まれた紙には達筆な字で、怪奇は完全に祓えたこと、無事であること、京の指輪は壊してしまったことが記されていた。その隣には殴り書きで「全て忘れろ。口外禁止」と書かれていた。恐らく林琳の筆跡だろう。癖のある字は、組紐と同じく歪で斜めになっている。意外にも達筆なのは仁の筆跡か。紙からはみ出しそうな場所に、かなり崩れた蛇のような文字がある。辛うじて読み取れた最後の文は——。
「……ははは、あの餓鬼らしい!」
——周郗を奮い立たせるには十分過ぎる言葉だった。
◆
「師兄、良かったの?」
揺ら揺らと揺れる藁を積んだ馬車の荷台で酒を飲みながら尋ねる。青空の下、暑い日差しが肌を焼く。時折、大きめの小石にぶつかり、荷台が跳ねると、酒が少し溢れた。
「俺の目的は怪奇を追うことで、あいつの目的は国から怪奇を取り除くこと。六つ目の怪奇は祓ったし、後は幸楽美国が決めることだ」
俺たちには関係のない未来だから、もう用済みだろう。林琳は大きな欠伸をし、口元を手で覆う。
「……火傷」
「そのうち治る」
細い手指には包帯が巻かれ、五本の指先には穴の空いた黒い手袋が付けられている。本人は気にしていないようだが、両手を覆う包帯は相当痛々しい。それは仁も同様で、衣の下は右肩から指先にかけて包帯で覆われている。二人とも無事ではあるが、無傷とは言えない。怪奇との対峙後、二日間を小菊の家に匿ってもらった。何も言わずに受け入れてくれた小菊には感謝でいっぱいだ。
「あんまり、無理しないで」
指先に触れた仁は、包帯を優しく撫でる。
あの時、古書を突き刺した匕首には心力が込められていた。林琳の心力とは違い、練度の低い心力は張家で仕人の修行を積んだ長の力だ。か弱い心力ではあるが、京に心力を割いた林琳にとっては、丁度いい度合いで拝借した。あの匕首には、もう心力は秘められていない。切っ先と共に葬り去られてしまったのだ。
「百年代替わりしてないって言っていたのに、京は百歳を超えてないよな。四十そこらだろ」
「馬鹿なの、お前。普通の一般人が怪奇の領域をがむしゃらに逃げて出られると思う? 強運も程がある」
二十年前に襲われた時には既に七十を超えている。
怪奇に精神を蝕まれた結果、修行者だったことを忘れてしまったのだ。
仕人は修行の影響で肉体の衰えが比較的遅く訪れる。
無精髭が生えたのも、皺を刻み始めたのも、それが原因だ。無事百歳を超えるのは数年後のことだ。一方で白琵も怪奇に蝕まれ、幼い頃に周郗に読み書きを教わったことを忘れてしまった。お互いに同い年だと勘違いしている。白琵が永遠の魂に夢を抱いたのは、幼き頃の感情が根深く存在したからだ。
「京の方は……修行者の記憶は戻らないのが残念だね」
「怪奇に蝕まれた物は戻らない。寧ろ……その方が良い」
荷台は揺れる。
数日後には小菊の元へ冬楽の亡骸が帰る。世話になった恩と、藤の願いだ。大手柄を立てた役人の西周に手筈を頼んである。
"五日前"
「小菊、息子の名前は冬楽だな?」
「……そうさ。冬の寒い日に産まれたんだ。決して冬の寒さに負けずに、前を向いて生きる。そう願って付けた名だよ」
埃の被った部屋。生前は活発な男だった冬楽の部屋は手付かずのままで、小菊は壁に吊るされた解れた帯を見る。虫に喰われている痕跡が見当たらないのは、息子を想う母が丁寧に手入れをしているからだ。
「藤という名の男を知っているか?」
「……馬丁の子だね」
冬楽は藤の話をあまりしなかった。小菊の知っている藤は、お屋敷の馬丁で、時折河川で話をする青年、その程度だった。遅くに帰ってくる日は頬を緩ませ、酒を嗜んで寝床に入る。機嫌が良い時は大抵藤と落ち合っていた。人見知りをする冬楽にとって、良き友だったので、小菊はいつか家に招いて欲しいと思っていた。
初めて顔を合わせたのは、冬楽が神に選ばれ、母元を去ってしまった数日後のこと。
「ずぶ濡れで……最初はどこの子かわからなかった。でもね美しい馬を連れていたから……炎希って名の馬さ。だから自然とわかったよ、この子が藤だってね」
酷い嵐の夜だった。必死に馬を走らせて来たのだろう。全身を雨に打たれ、ぐしゃぐしゃに泣いていた。言葉にならない吐き出した音は、小菊の愛おしい息子の名を紡いだ。幼い子供でも、もっと上手く言葉を紡ぐだろうに。
「見ていられなかったよ。跪き、何度頭を下げたと思う? 数えきれないよ、止めなければ……。朝まで叩頭していただろうね」
小菊は帯を見つめて語る。
「何が起きているか……ただね、馬のあおり革に刻まれていた印を見て……」
「陳家の遣いだと知ったのか」
小菊は帯から目を離し、林琳を見て頷いた。
「金類は受け取らなかった。……あの子の命を価値のない物に、変えてしまいそうで……怖かったのさ」
遺体でもいいから、この腕の中に戻って来て欲しかった。張家の財産なんていらない。息子の生きた証を返して欲しい。母の願いはそれだけだ。
小菊は雨に打たれながら、咽び泣いた。泥だらけになりながら、声を押し殺して。
残酷に降り注ぐ雨と絶望の中で、藤は信じられないと驚いた様子で小菊を見たのを鮮明に覚えている。
林琳は、驚愕した面持ちで小菊を見る。
「神の生贄……信じちゃいないよ。教えておくれ、冬楽は殺されたんだろう?」
震える肩ときつく噛み締めた唇。目に浮かぶ涙は、今にも頬を伝いそうだ。林琳は小菊と対峙している。三年も閉ざした心の奥を開いて、小菊は真実を求めているのだ。林琳は頭を抱えたくなった。心を晒す小菊に、林琳はどう対応すればいいのか何も浮かばない。林琳は——心の開き方がわからない。小菊の求める答えは分かっているが、それを伝える術を知らない。もう面倒事になってもいいから、仁を連れてくるべきだった。心底後悔している。きっと仁や師匠なら、上手く宥めたり意識を逸らしたりして、心を救ってくれただろう。仕人として、責務を全うするのだろう。
ろくな人生を歩んでいない林琳に小菊の心を救うのは到底不可能だった。
考え抜いた結果、林琳は「怪奇を知っているか」と問いかけた。小菊が知っていることは、本当に僅かな一部だけだった。さらに頭を抱えた。
怪奇の餌になったと思われます、いや、これは駄目だ。怪奇に喰われました、もっと駄目だろう。国に殺されました?
——一番駄目だ。
ついに、涙が小菊の頬を濡らした。ぽたり、ぽたり、それを林琳は見ているだけだ。人肌の雫は、無惨にも流れ続ける。
小菊の求めている答えが、林琳にはどの修行よりも難関に感じた。
それでも林琳の表情から読み取ったのか、たった一言「ありがとう」と静かに涙を拭った。
「……何が?」
「ずっと……この心を隠して生きるつもりだったけど……やっと受け入れられた気がするよ」
きっと誰かに認めて欲しかったのだ。くだらない神に捧げられた命が、世界で最も尊い命だったことを。部外者である林琳たちを受け入れた日、心のどこかでは救いを求めていたのかもしれない。
「持ってお行き。……私には必要ないからね」
指輪を預かった林琳は組紐に通す。
「気を付けるんだよ。藤は悪い子じゃない、本当は優しい子なんだ」
優しい声だった。宗主と同じ、暖かい声。何も教えられない林琳の立場を察して、小菊はそれ以上何も言わなかった。本当は事細かく聞きたいはずだったのに。
林琳があの夜、京と仁と別行動を取ったのは、冬楽の指輪を譲ってもらうためだった。
冬楽の亡骸は小菊の傍で弔ってやるのが良いだろう。焼け爛れてしまった亡骸を見せるより、骨灰を渡した方が救われると提言したのは西周で、二人は快諾した。とびきりの笑顔でお礼の言葉を述べた林琳の大根役者は今思えば傑作だったが、もう二度としないで欲しい。また変なのが釣れる。
小菊は山になる程の饅頭と飲み水、少しの着替えを二人に渡した。この国を出て、遠い親戚に身を寄せるらしい。あの家は取り壊すことにしたと言うので、衣類を処分する際には譲って欲しいとこちらから頼んだ。実を言うと、中々の金欠なのだ。風蘭に真実を告げた時、彼女は蓮華の件を受け止めてくれた。これから幸楽美国では大きな壁にぶつかるだろう。それでも前を向いて生きて行くのだと。割れてしまった簪を手渡し、別れを告げて金桃楼を出た……はずだった。「お待ちなさい」と引き止められ首を傾げていると、「借金は帳消しにするけれど、それとこれは別よ」と血にまみれた衣装部屋を指さす。返す言葉もない。おまけに腐敗した死体の処理にも時間がかかった。衣装部屋の弁償により一気に懐が軽くなってしまった。林琳の懐でさえ空に近い。
国を出る前に小菊が持たせた三つ目の饅頭を頬張りながら、仁は藁を枕にする林琳に聞いた。
「西の方角だけど、何処に向かってるの?」
「さぁな、知らん」
「え? 山雫国の方だよな?」
片燕の本拠地がある国、山雫国までの道のりは遠い。幸楽美国で捕まえた馬車は、確かに山雫国の方へ走るはずだ。出発する前に厠を済ませた仁が戻ると、林琳は既に荷台で横になって休んでいた。荷物は積まれていて、なけなしの金も払った後だった。酒を片手に完全に長旅の準備だったし、無論、仁も同じ荷台に乗った。
「じいさん、山雫国の方角ってどっち」
荷台から顔を出し、馬を引く御者へ尋ねると、山雫国に向かうには山を超えるのが早いのに、川を渡る遠回りの経路を話す。これでは当初の予定の代金の二倍になってしまい、払える手持ちはない。
「嘘だろ!?」
「代金はちゃんと貰っとるよ」
ほれほれ、と巾着袋を見せつける。
仁の計画ではゆっくりと酒を飲みつつ、本拠地へ戻り、宗主と落ち合う予定だったのだ。疑われている片燕も一番弟子と宗主の力があれば解決に繋がる。
それを分かった上でこの変わり者は遠回りする馬車にわざと乗っていたらしい。仁が何やら文句を言っているが、林琳はごろりと寝返りを打つ。揺れる荷台と爽やかな風は最高の揺籃で、昼寝に最適だった。上下に規則正しく揺れる肩に寝息が聞こえる。
「師兄ー!!」
一際大きく揺れた荷台で仁の怒りが爆発する声が響いた。
幸楽美国編 完
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