夕暮れの空に、群青色がじんわりと広がる。
涼やかな風が頬を撫で、林琳は静かに歩みを進めていた。山雫国の広大な陣を巡る見回り。その任を宗主から預けられてから幾度目の夕暮れだろうか。
巨大な陣が張られたこの国では、滅多なことが起こるわけではない。それでも年に数回、影と呼ばれるものが現れるため、こうして半月に一度巡回するのが常だ。
林琳にとって、この見回りは単なる責務以上の意味を持っていた。
足元に枯れ葉が音を立てるたび、彼の心は少しずつほどけていく。この時間は、自分自身と向き合うための貴重な一人旅だった。
拠点での生活に不満があるわけではない。宗主も弟子たちも良き存在だ。けれど、その温もりの中にいても、彼の心には埋まらない隙間があった。
誰にも届かない声が胸の奥で響くような孤独が、時折彼を包み込む。
突然心の整理がつかなくなる日がある。それは溢れ出すようなものではない。ある日、茶杯が何の前触れもなく割れるように、静かに心が軋む感覚だ。だからこそ、この孤独な見回りの時間が彼を救っていた。
林琳の孤独は、けれど、人々の笑顔に温められることもあった。
「林琳様! 今年は作物が豊作です! 宗主様にもお伝えください!」
「うん」
「一番弟子様! 先月家族が増えました!」
「うん」
街を歩けば、住民たちが声をかけてくる。やたらと目立つ朱色の髪のせいだろう。林琳の存在は、どこにいてもすぐに見つかってしまう。
ふらりと立ち寄った飯店では、女将が大盛りの粥を差し出してくる。
「また痩せたんじゃないかい? もっと食べなさい」
常連客に引っ張られて、彼らの家で見せたいものを見せられることもしばしば。以前なら全力で拒否していた林琳も、今では慣れたもので、適度にいなし、時には相手の好意に甘んじている。
「お、久しぶりだな。面白い絵巻が手に入ったから見ていけよ」
馴染みの顔に囲まれながら、彼は心の中でそっと息をつく。
「これは温かい。でも、完全には溶けない。」
そんな感覚が彼の胸にある。
やがて、向日葵畑にたどり着く。
老婆に言われた通りの道を進むと、そこには老夫婦が手入れする見事な畑が広がっていた。夕陽に照らされた向日葵の花々が一面を埋め尽くし、まるで黄金の海原のようだ。
「種を用意するから、少し待ちなさい」
杖を片手に休む老父が、穏やかに微笑む。そのそばには茶杯が二つ。置かれた茶葉の香りが風に乗って漂う。
「うん」
林琳は小さく返事をして馬を撫でた。向日葵を啄もうとする食いしん坊の馬に苦笑しながら、気まぐれな悪戯をそのまま許す。
「師兄!」
明るい声とともに、向日葵畑の中から仁が顔を出す。麦藁帽子を深く被り、手を振る彼の頬には泥が付いている。
「……叱られる前に顔も洗ってきなさい」
眉を寄せてそう告げると、仁は笑みを浮かべて「ありがとう!」と無邪気に応じた。
老父から向日葵の種の大袋を受け取ると、それを馬具に括り付ける。豊作の種に満足げな老父が、林琳に声をかけた。
「宗主様にもよろしく伝えておくれ。枯れる前に子供たちを連れて遊びにおいで」
「うん。師匠に言っておく」
夕陽に染まる帰り道。
仁が上機嫌に鼻歌を奏でながら歩く。その無邪気な姿が、この穏やかな時間の象徴のように思えた。林琳はふと、背後を振り返る。
老夫婦がこちらを見送っていた。沈みゆく太陽を背に、ただ小さく手を振るその姿は、何も語らずとも温もりを伝えてくる。胸の奥に、じんわりとした熱が広がるようだった。それでも、彼の中に静かに横たわる孤独がその熱を全て覆い尽くすことはない。温もりと孤独は重なり合い、奇妙な均衡を保ちながら彼の中に留まっている。
ふと足元に目を向けると、草むらに野花が揺れている。風にたなびくその姿は儚く、しかしどこか力強さも感じさせた。けれど、林琳の目には、それらがまるで過去に散った命が咲かせたもののように映る。この土地もまた、かつては戦場だった——そう考えると、空の赤ささえ血の記憶を呼び起こすようで、胸が締め付けられる。
「……行こう」
小さく呟き、林琳は歩みを進める。背後の老夫婦に軽く会釈を返し、仁の鼻歌を背に受けながら、いつも通りの道を辿る。影が長く伸び、地面に溶け込むように消えていく中で、夕陽はその赤い光をなお強く放っていた。
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