術式の解読は、決して容易なものではない。
完成された式が無惨に断ち切られ、断片に砕かれた状態からそれを再構築するのは、まるで複雑な玩具を闇の中で手探りで組み立てるようなものだ。わずか一手でも誤れば、秘められた力は術者自身に牙を剥き、命を奪いかねない。
その危険を知る者は手をこまねいて傍観者に徹し、我先にと名乗り出る者は稀だ。
だが、この世には——そうした無謀な試みに心を躍らせる者も、確かに存在する。
「うーん……」
深々とした洞窟の奥。天井からは僅かな水滴が絶え間なく落ち、足元では清らかな水が泉となって湧き出している。その静けさを破るのは、小さな灯火の揺らめきと、それを見つめる男の呟きだった。
男——林琳は、古びた壁画の前に立っていた。その絵は、明らかに人を象っている。色彩はなおも鮮やかで、繊細な筆致が残る像の足元には、白布が供えられるように描かれている。そこに込められた想いは、ただの装飾では済まないものだった。
すぐ傍らには、朽ちた木材の柱と、欠けた碗が転がっている。わずかな痕跡からも、この場所がかつては神聖な祭壇であったことが伺えた。
「さて、どうしたものかな……」
林琳の視線の先、そこには一体の傀儡が静かに横たわっていた。
洞窟の入口には、万一に備えた結界が張られている。もし術式の再構築に失敗し、傀儡が暴走したとしても、この空間から外へ出ることはない——そう確信していた。
だが、目の前にあるこの壁画を前にして、この場所を実験に使ってよいものか、林琳の心は揺れていた。
他人にとってはただの古びた空間でも、ここを神聖視し、誰かを祀っていた者がいたかもしれない。そんな場所を、己の都合一つで穢してよいものか——。
今までそんな感情に突き動かされたことなどなかった。それなのに、胸に去来するこの重苦しさが、林琳自身を戸惑わせている。
それでも、自らが選んだ結果なのだと自嘲するように肩をすくめた。
わざわざ張った結界も、今となっては無駄な努力に終わった。
「これだけ先に戻すか……」
そして未練を断ち切るように踵を返し、洞窟の薄暗がりから歩みを進めた。重たい傀儡は先に転送陣で別の場所へと飛ばした。
「どこか廃墟があればいいんだけど」
小さく呟きながら、彼は目的地を定める。
ついでに眠気と共に頭を悩ませる失敗の記録を、整理しておこう。そう思いながら、結界を解き、少し下で見つけた湯気の立ち上る水源の方へと向かっていった。
だが——その光が揺れる水辺の端で、林琳は思いがけず、見知らぬ男と不意に鉢合わせた。
「……すぐに去る」
感情の揺らぎを一切含まない、乾いた声だった。まるで風の通り道に置かれた石のように、冷たく、硬質な響きが場を切り裂く。
男が静かに振り向くと、林琳はわずかに目を見開いた。その目には確かに何かを見つけた驚きが浮かんでいたが、それは一瞬のことで、すぐに視線を逸らすように顔を背けた。
自分でも何に反応したのか、明確には理解できなかった。ただ、胸の奥でひとつ、音もなく何かが軋んだのを感じた。
「いや、俺は……その、手を……」
咄嗟に、林琳は傀儡を触った時に付着した黒い汚れを見せた。あくまでもそれを理由にするように、手のひらを少し掲げてみせる。
その仕草はどこか不自然だっただろう。後ろめたさを誤魔化すための言い訳にしか見えない。自分でもそれがわかる。いや、むしろ見透かされることを前提にしたような、わざとらしささえ含んでいた。
「そうか」
男は短くそう返すと、林琳の差し出した手をじっと見つめた。
言葉はない。判断も、詮索も、なかった。ただ、冷静に、静かに見ていた。
沈黙が一拍。
そのまま、男は何も言わず背を向けた。去り際の足音さえも静かで、まるで彼の存在そのものが最初から影であったかのように思わせる。
光が膨らみ、転送陣が作動する。
林琳はただ、その背中を目で追った。どこか現実感のないまま、思考が遅れてついてくる。
白い光に包まれ、その姿が完全に掻き消えるまで、彼は一度も振り返らなかった。
気がつけば、林琳の唇から言葉がこぼれていた。
「……酷い火傷だな」
◇
仕人として必要な能力はいくつかある。まず第一に、心力を己の意思で自在に使いこなせるかどうか。それが何よりの大前提となる。その次に、領域の扉を開けるかどうか。得意不得意はともかくとして、開ければ十分だ。そして最後に、術式を描くことができるか否か。転送陣や結界の発動には、心力を組み込んだ術式が不可欠だからである。
体術ができるか、武術ができるか——それは後回しでもいい。実際、それができない仕人も少なくはない。けれど、彼らは符を用いて戦う術をもち、前線を支える援護役として不可欠な存在であり、力の質が違うだけだ。ただし、いつの時代も目立ち、称賛されるのは先陣を切り、突破口を開く力を持つ者たちだった。
「林琳ー、そろそろ休もうぜー……」
「あと少し」
「そう言って半日経ってるんだけどな」
仁の呆れたような声も、林琳の耳には届いていない。何かに没頭しながら、彼は筆を走らせ続けていた。あちらこちらに散らばった紙には無数の曲線と記号が走り、まるで蚯蚓が這っているかのようだ。傍目には何をしているのかさえ、判然としない。
「よし、できた……!」
立ち上がる勢いは、長時間の集中の末にようやく迎えた成果に対する熱と興奮そのものだった。彼は何枚かの紙を拾い上げ、朝の光を浴びる窓辺へと移動し、それらを太陽に翳した。透き通った光の中で、幾枚もの紙が重なり合い、補い合い、やがて一つの円環を描き出す。それは、術式の完成を意味していた。床に散らばっていたのは、解読の過程で生まれた無数の失敗と断片。林琳は数日かけてそれを繋ぎ合わせ、ようやく意味ある形へと昇華させたのだった。
ここまで来れば、あとは試してみるだけ。それが成功すれば、この術式は新たな可能性を開くだろう。
「早速……!」
「その前にご飯。ほら、行くぞ」
「はーなーせー! 今から試すんだよ!」
「ご、は、ん!」
仁の手が腕を掴み、林琳は無情にもずるずると引きずられていく。彼の抗議は力強くも、どこか子供のようだった。
「おい! 年上のいうことを聞け!」
「都合のいい時だけ言いやがって!」
子どもじみた応酬に終止符を打ったのは、仁の手に握られた饅頭だった。
強引に口に押し込まれ、林琳は頬を膨らませて呻く。そのもごもごとした姿に、朱禍は思わず頬を引き攣らせる。
「天雪と花月の方が行儀がいいな……」
机の下での小競り合いにため息をつきながら、朱禍はようやく本題に切り込んだ。
「で、術式は解読できたと?」
「この馬鹿が邪魔しなかったらもっと早く終わったのに」
「……んぐっ」
仁が饅頭を飲み下しながら椅子に沈み、がたんと音を立てた。どうやら脛を蹴り飛ばされたようだ。全身から「もう何も言うまい」という気配が溢れている。
「でも、解読……というよりは、無理矢理繋ぎ合わせたって感じかな」
切れ端ばかりだった紙片を重ね、照らし合わせ、どうにか一つの形にした。それが今、林琳の手元にある術式だ。あちらこちらが不格好で、未完成のようにも見えるが、理論上は成立している。
「実際に試した?」
「いいや、試そうとしたらこいつが」
林琳はため息交じりに、隣にいる仁の旋毛を親指で力強く押した。ぐりぐりと押し込まれた仁は呻き声を上げながら、無言で抵抗した。
「賢明な判断だね」
朱禍は淡々と告げるが、その裏には頭痛すら覚える気配が滲んでいた。得体の知れない術式を二人がかりで発動させようという発想そのものが、正気の沙汰ではない。昔から無茶を繰り返すこの男は、年を重ねてもまるで変わらない。いや、むしろ年々酷くなっている気さえした。
「もう一度組み上げたんだ。大体の効果はわかってる」
林琳の言葉には確信があるが、その眼差しにはわずかに不安の影も差している。
「つまり、危険性も伴うと?」
「……そりゃあ、多少は」
素直な肯定に、朱禍の眉が跳ね上がった。
「あー、もう! 君ねぇ!」
手を上げそうな勢いの声に、林琳は慌てて言葉をかぶせる。予想通りの説教の気配に、言い訳が口から先に出る。
「結界も張る予定だったし、万が一失敗しても問題はないって! なんのために廃墟を探したと思ってるの!」
早口で捲し立てながらも、朱禍の顔色がさらに悪化していくのを目にして、林琳は危機感を強める。
「あの術式は発動したところで、人間に対して直接の危害は加えない。問題はその後なんだ。発動した後に、命令を受けて"人間にだけ"その矛先が向けられる」
語る声は淡々としていたが、その内容は冗談には聞こえない。
闇華石と酷似した破片、それはあくまで術式の補助的な役割を果たすにすぎず、単体では塵と変わらないと彼は続ける。
「かなり薄いけど、怪奇の痕跡が残ってる。術式はその痕跡を呼び起こすもので……」
「……なるほどね。つまり、傀儡の身体には怪奇の痕跡が沁みついていて、術式はそれを呼び覚ますための鍵。破片は傀儡を動かすための核ってことかな」
朱禍の理解の速さに、林琳は静かに頷く。
「そう。しかもこの破片、人の影が閉じ込められてる」
「はあ!?」
その一言に、朱禍の声が一気に跳ね上がる。あまりの音量に、今まで黙って聞いていた仁が耳を押さえてよろける。
「う……うるさ!」
「もう成仏させちゃったけど……確かに中にいたよ」
林琳の声は、今までになく静かだった。小さな影の中で、幼い子供が母の名を呼びながら泣いていた。その光景は未だに脳裏に焼きついて離れない。
「なあ、仁、覚えてるか?」
林琳は仁の頭を小突いた。
「……幸楽美国の指輪」
「そう。白琵が使ってたあれと同じだ。指輪に人の影が封じ込められてて、それを怪奇に食わせてた」
記憶に叩きつけられた過去を思い出すのは決して心地よいことではない。だが、今話すべき事実だった。
人の影を意図的に封じるのは外道だ。それ以上に、人として、いや、仕人としても許されない行為である。処刑されても文句は言えない。それでも、似た手法がまた用いられていた。
「用途は違えど、方法は同じ。人の影を使って、なにか……災いを起こそうとしてる」
林琳の目に、かすかな揺らぎが宿る。その感情は、過去の自分に向けた悔しさにも似ていた。
「……本当に最悪な外れくじを引いたね」
朱禍がそっと目を閉じる。胸の奥に浮かんだ情景を払うように、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
——俺と同じことを考えている人間がいるなんて。
林琳の胸中に広がる不快感は、憤りというよりも絶望に近かった。
「この事件、俺が請け負うよ」
その決意は静かで短く、けれど確かな熱を孕んでいた。はっきりと言い切った彼は、迷いなく欠片を懐にしまい込む。
その行動を見た仁と朱禍は、驚きの色を隠せずにいた。これまで一度として、自ら面倒ごとに首を突っ込むことなどなかった彼が、率先して事件を請け負うと言い出すなど、まさに異変だった。
「元々は片燕にかけられた疑いを解いてほしかったんでしょ」
「それはそうだけど……」
「そんなに驚くこと?」
林琳の微笑みに、仁は返す言葉を失った。
たしかに、最初の目的は片燕にかけられた疑念を晴らすこと。それは今でも彼の中で優先事項に違いなかった。勿論、事件が終わればその役目は果たされる。ならば、その後——彼は、どこへ行くのか。
仁の中に、静かな恐怖が芽生えていた。
彼を繋ぎ止める理由が、一つずつ消えていく。
「事件が解決したら、君はどうするんだい」
朱禍はわざとらしい口調で問いかけた。だがその裏には、仁と同じ懸念が潜んでいた。
「……その時に考えるよ」
林琳はどこかぼやけた声で答える。
「やけに曖昧だね」
「今はまだ、やるべきことが多すぎる。お前が早く怪傀神書を解読しなきゃ、俺は一生この書に憑りつかれる羽目になるんだぞ。夢天理に渡されたくないなら、早くやれ!」
「解読するにも、山荘にすら戻れていないんだけど……?」
朱禍が肩をすくめる。忙しいのは何も林琳たちだけではなかった。
「そうだ、朱禍。劉鳴国の件、進展はあったのか?」
仁がふと話題を切り替える。そういえば聞きそびれていたことだった。
「九河様は無事だよ。今は……避難してもらってる」
「……おいおい、夢天理じゃないだろうな」
仁の声がわずかに低くなった。聞いてはいけない答えを恐れるように。
「違う違う。千咲国」
——カラン。
「は? なんて言った?」
林琳と仁、二人そろって持っていた杯を取り落とす。微かな衝撃音が響き、空気が張り詰める。
「正気か?」
疑念と驚愕が混ざった声に、朱禍は肩を竦めるでもなく、平然と茶を啜る。
千咲国。かの国の王妃は劉鳴国で悲痛な最期を迎えた。死霊となって現れたことでも世間を騒がせ、さらには神子との文通まで発覚し、公主である蘭を混乱へと導いた。
今となっては、関われば泥をかぶるのは必至。仁は思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。
「花狐様と九河様は面識がある。王妃の件は不幸だけど、千咲国にとってはまたとない機会だ」
まるで商機でも見つけたかのように朱禍が続ける。彼の声は落ち着いているが、その裏に計算の影がちらつく。
「……恩を売りつけて、ってことね」
「その通り!」
にこにこと頷く姿が、返って薄ら寒さを呼ぶ。林琳は、穏やかに笑うその顔をぞっとした目で見つめた。
冗談とも皮肉とも取れない空気に、仁も小さくため息をつく。
「九河様も千咲国へ赴いて謝罪をしたいと仰っていたし、いい機会だろう?」
口ぶりはあくまで理知的だが、仁は思う。——かき回したいだけなのでは、と。
外交のあれこれにまで首を突っ込む余裕がどこにあるのか。気苦労が絶えず胃が痛む。
思考を切り替えるように、林琳は鞄から新しい紙束を取り出す。
今度は術式の話にうつるようだ。
「じゃあ、説明するね」
「師兄、今回は読める字で書いてくれよ」
仁が言葉を添えるも、紙の上に記されたのはやはり、墨の蚯蚓が這ったような線。もはや"文字"と呼べるのかすら怪しい。
「……下手くそすぎて何が書いてあるかわからない」
線が交差し、ぐにゃぐにゃと曲がるその図形は、見方によっては陣形にも見えるし、子供の落書きにも見える。仁は頭を抱えた。
「これが俺。で、これが朱禍と仁」
説明を続ける林琳は、気にする様子もなく、三点を結んだ三角の図の中心に黒く塗りつぶした印を指差す。どうやらそれが傀儡の位置を示しているらしい。
「術を発動させるのは俺。欠片はもう使えないし、怪奇の痕跡も抜け落ちたから……代わりにこれを使う」
静かに取り出された二枚の札。その気の流れは、林琳が練り上げた術式をなぞるように緻密だった。
安全性は高い。仮に失敗しても、砕けるのは札だけ。理屈としては、だが。
「危険性は?」
朱禍が問うと、林琳は間髪入れずに答える。
「あるよ。俺の術式が間違ってれば……三人揃って心脈が崩れる」
その言葉が持つ意味は、術者全員の内側が引き裂かれることを意味していた。最悪の場合、再起不能になる。
「怖いならやめても……」
そう言いかけて、一瞬だけ目を伏せた。迷いの影が過ったが、すぐに口調を戻す。
「……後々俺の責任にされたら困るから、強制参加で」
照れ隠しのようなその一言に、朱禍と仁は顔を見合わせて、ふっと笑った。
「この面子でいくと獅宇に怒られるのは私かな?」
朱禍は空になった杯を片付けながら、諦めにも似た笑みを浮かべた。だが、そこにはどこか誇らしげな色も見えていた。
それぞれが位置につき、林琳は小さく呼吸を整える。そして、最後の注意を口にする。
「重々承知だと思うけど、少しでも異変を感じたら、すぐに離れて」
その声には緊張が含まれていた。誰かが倒れることだけは、絶対に避けなければならない。
「じゃあ、始めるよ」
静かに目を閉じた林琳の中で、複雑な術式が緻密に組み上がっていく。
綻びがないように。無駄がないように。緩みのないように。
脳内に張り巡らされた構造の中で、彼の髪がふわりと舞い上がる。心力が解き放たれた合図だった。
深紅の灯りが一つ、また一つと浮かび上がり、それらは静かに中心へと集まり出す。やがてそれらは傀儡の"心臓"に吸い込まれ、異様な音とともにその体がかすかに震える。
——カタ、カタ……
空気が歪む。術式が動き始めた。ここまで来れば、術式が破綻することはない。
林琳は安堵と共に、傀儡へと視線を向ける。次の指示を出そうと口を開いた、その刹那だった。
ぷつり。
異音と共に、傀儡の身体が崩れ落ちた。まるで糸が切れたように、力なくその場に横たわる。
はっとして顔を上げた瞬間、林琳の胸に激痛が走った。心臓を鷲掴みにされたような、息が止まるような衝撃。
「……仁!」
叫びは反射だった。嫌な予感が、脊髄を這い上がる。
視線を向けた先には、顔をしかめながら膝をつく仁の姿があった。
「これぐらい、大丈夫だ……!」
無理やりに笑みを作ろうとする仁。だが、その表情には余裕のかけらもなかった。彼の身体を巡る心脈が暴れ、内側から軋むような苦しみが全身を蝕んでいく。気分が悪いのではない。体の芯が拒絶している。
どうにかして立ち上がろうとするも、膝が、肩が、視界が言うことをきかない。
そして——意識が、ゆっくりと、沈んでいった。
「仁!」
再び、林琳の声が空気を裂いた。
◇
「玥!」
林琳の声には、いつになく切迫した気配が滲んでいた。
呼びかけに応じて顔を上げた玥の瞳が、彼の姿を真っ直ぐに射貫く。白髪が目立つ髪を手早く結ったその姿は、年齢以上に落ち着いた風格を纏っている。
「診てほしい奴がいるんだ」
林琳はわずかに息を詰めたような声音になる。言葉の端ににじむ焦燥に、玥もすぐに異常を察知した。衣を羽織りながら問いかける。
「患者か?」
「……そう。術式を発動させた瞬間に、いきなり倒れたんだ」
「仕人か」
「うん」
二人は転送陣を抜けて、山の小さな離れへと足を踏み入れる。土の感触がしっかりと足元に返ってくると、目の前には朱禍の姿があった。朱禍は既に仁の額へ手をかざし、心力を注ぎ込んでいる最中だった。深い皺が眉間に刻まれている。
「安定はしているけど……目を覚まさない」
「そうか」
朱禍が静かに首を振るのを確認しながら、林琳は仁の姿から目を離さなかった。どこか、罪悪感のようなものが、彼の影を濃くしている。
「ところで、あなたは……?」
「しがない医者だ」
玥は無愛想に答えながら、荒い呼吸を繰り返す仁へと指を伸ばした。その指先から、静かに心力が流れていく。
「林琳、お前に心当たりは?」
——ある。
林琳は視線を落としたまま頷くこともせず、ただ、その問いに沈黙で答えた。すでに思い当たる原因があった。竹林の奥、あの領域——時間が止まった世界。
そこから受けた損傷に違いない。珊來の心力を織り込んだ組紐を持たせていたのに、それでも足りなかったのか。
「……問診だ。答えろ」
玥の声には鋭さがあるが、それは責めるものではなかった。林琳は少し唇を噛んでから、口を開いた。
「変わった領域がある。そこは時間が止まっていて、行き場を失った魂が彷徨う場所だ。生きた人間が足を踏み入れることは、本来禁じられている。……あとはお察しの通りだ」
言葉を選びながらも、林琳は何とか事実を伝えようとする。朱禍が眉を寄せるのを横目に、玥は仁の顔を見下ろしていたが、次の瞬間に視線を跳ね上げ、鋭く問い返す。
「おい、まさか……」
林琳がわずかに視線を落とす。それだけで、玥は確信した。
「馬鹿なのか、お前は!」
思わず声が上がった。魂が損傷すれば、完全な修復は困難だ。時間をかけて少しずつ補い、穏やかに戻すしかない。魂というのは、肉体よりもずっと脆く、そして唯一のものなのだ。
「忠告を聞かない馬鹿に、これ以上何を言えと?」
林琳は、まるで自分を罵るようにそう吐いた。肩を落とし、項垂れた姿には、自嘲と悔しさが滲んでいる。
鬱陶しい、縁は切れた——そんな言葉で林琳が仁を追い払ったのは、軽い理由ではないのに。もっと別の、どうしようもなく不器用な理由があったことを目を閉ざしている男は知らない。
「そのことを獅宇は?」
朱禍の問いに、林琳は何も答えず、ただ仁の頬にそっと触れた。わずかに冷たい肌の感触に、胸の奥がきゅっと痛む。
「仁が話していれば」
恐らく、話していない。何も言わないまま、全部を抱え込んだに違いない。
「いや、あの人なら……気付いていたかもね」
朱禍は苦虫を嚙み潰したように表情を曇らせた。
「……最悪なのはそれだけじゃない。劉鳴国で俺が寝込んだ時、こいつはずっと俺に心力を流していた。……混じったんだろうな、俺の心力と」
その時、林琳は気づかなかった。いや、気づけなかった。
朝日が昇るまでのわずかな時間ではなかった。幾刻も繋がっていた心力は、互いの中に深く馴染んでしまったに違いない。
「玥、取り除ける?」
「あぁ。だが、問題は魂の方だ。浸食は食い止められているが……修復が追いついていない」
玥は指を離し、眉をひそめて仁の顔色をじっと見つめる。その表情から、容体の深刻さは容易に察することができた。
「どうすればいいの」
林琳の声には、わずかな震えがあった。
「……砕けるほど弱っているわけではない。いいか、私が言うことを絶対に守るんだ。できるな?」
一切の迷いなく頷いた。
◇
「じゃあ、頼んだよ」
「はい、朱禍様」
すっかり日は沈み、夜の帳が町全体を覆っていた。宿の一室に差し込む光は、小さな蝋燭の炎ひとつきり。その淡い光が、寝台に横たわる仁の頬をゆらゆらと照らす。呼吸は安定しているが、その胸の上下には目立った変化はない。
花月と天雪は、静かにその寝顔を見つめていた。光が揺らめくたびに、不安が二人の胸を微かに締めつける。
どうして仁は目を覚まさないのか。その理由を、彼らは知らされていなかった。
そして、師兄——林琳もまた、何も教えてくれなかった。
それが、悔しくもあり、どこか寂しくもある。まるで子ども扱いされているようで。自分たちにはまだその「核心」に触れる資格がないのだと、突き放されているようで。
——しがみつけば、近づけるのだろうか。少しでも、あの背中に……。
天雪の思考は、堂々巡りの中で深く沈んでいく。
「どうした、天雪。師兄みたいだぞ」
花月がわざとらしく眉間に皺を寄せ、茶化すように言う。彼なりの気遣いだった。
「師兄の秘密主義は今に始まったことじゃないし……」
「そうだけど、仁先輩が倒れるなんて……」
これで、二度目だ。
あの時の光景を思い出すたびに、胸がざわつく。忘れようにも、忘れられるはずがない。
「でも今回は師兄がいるし、心配事なんてないって」
花月の言葉はどこか自分自身を励ますようでもあった。
「……そうかな」
それでも天雪の返事は、どこか心許ない。
沈黙が続く。
そして、花月がぽつりと口を開いた。
「なあ、天雪」
声にはいつもの軽さがなく、どこか重く沈んでいる。
「朱禍様はどっちの味方だと思う?」
「……急に何?どうしたの?」
唐突な問いに天雪は眉をひそめ、身構える。あのふざけた花月が、こんな真面目な声を出すことは滅多にない。
「片燕の味方か、師匠の味方か……俺は判断がつかないんだ」
その言葉には、長く溜め込んできた葛藤がにじんでいた。
「朱禍様に救われたのに、なんでそんなこと……」
かつて片燕が揺らいだ時、仁と共に宗派を支えたのは朱禍だった。宗主を立ち直らせたのも、情報を先んじて流してくれたのも。感謝してもしきれないはずだった。
「わかってる。でも、夢天理の重鎮だった人が、なぜ俺たちに肩入れするのか……気にならないか?」
「それは……師匠の知己だから、でしょ?」
「本当にそれだけの理由だと?」
天雪は答えに詰まり、口をつぐんだ。何かを感じてはいた。しかし、それを言葉にするのが怖かったのかもしれない。
「あの人が采配を振るえば、どんな戦況でもひっくり返る」
冷静で、正確で、無慈悲なまでに鋭い戦略。その力は、戦場を幾度も沈黙させてきた。
「水面下に潜ませた間諜がどれだけいると思う? そして、彼らが朱禍様を裏切らない確証は?」
「……ない」
ようやく、天雪は静かに答える。
「そうだろ。だからこそ、俺たちが自分の手で山雫国ごと宗派を護らなきゃいけないんだ」
林琳が去り、獅宇は閉関し、仁は倒れた。短い時間の中で、次々と支柱が消えていった。何もできなかった無力な過去。その悔しさが、花月の言葉に芯を与えていた。
「うん。そうだね」
「朱禍様を信用していないわけじゃない。でも、頼りすぎるのは駄目だ」
天雪は深く頷く。
「この件が片付いたら、俺たちは宗主のそばに控えていた方が良い」
「怒られないかな?」
「誰が怒るって言うんだ。一番おっかない師兄に関しては、俺たちを叱る立場じゃない」
最後にふっと笑って、花月は元の調子を取り戻す。無邪気な笑みに戻ったその顔に、天雪も釣られて笑った。
夜は静かに、更けていった。
◇
「こちらです、仕人様」
腰の引けた青年が、重そうな鉈を片手に案内したのは、村の外れにある古びた井戸だった。すでに日は暮れかけ、辺りを包む薄闇が静けさに拍車をかける。井戸の蓋を鉈の柄で叩くと、こつん、と乾いた音が響いた。
「夜な夜な声がするのです。中を覗いてみましたが、見えるのは……ただの闇だけで」
井戸の縁に腰を屈める林琳。その視線は、まるで底がないかのような深淵を見つめていた。
「だいぶと深いな」
「えぇ。この辺りは水源がかなり下にあるもので……初めは、誰かが落ちたのかと思ったのですが……さすがに、二月以上も声が止まぬとなると……森の祟りか、怪奇の仕業ではないかと……」
青年の声は途中でかすれ、何かに怯えるように周囲を見回す。
「最近、妙な死体を見たことは?」
林琳の問いに、青年は顔を上げた。
「妙な死体……例えば?」
「全身が干からびていて、まるで人の仕業とは思えないようなものだ」
その一言に、青年の喉がごくりと鳴った。
「……それは、あの噂の……死体、でしょうか」
「なんだ、知ってるのか」
「えぇ……こんな田舎にも、風の噂は届きますよ。各地で変死体が見つかってるとか。疫病だって、皆言ってます……あれと何か関係が……?」
——疫病、だと?
林琳の眉がわずかに動いた。
本来ならば片燕にかけられていたはずの疑念が、いつの間にか"疫病"という形にすり替わっている。それは、こちらにとっては都合の良い話だ。だが、あまりにもすり替わるのが早すぎる。
「仕人様……?」
青年が不安そうに問いかけるが、林琳は井戸の闇をじっと見つめたままだった。
「……井戸の水を組み上げても?」
「もちろん、ですが……二月以上も使っていないので、濁りがあるかと。飲み水なら別の井戸から汲んできます」
「いや、いい。水の状態を見たい」
林琳は滑車の縄を手繰り、桶をするすると井戸の中へ降ろす。ゆっくりと滑車が唸り、水に触れた瞬間、ぽちゃん、と柔らかな音がした。そして、ぐっと手に重みが伝わる。確かに水はある。
ゆっくりと桶を引き上げる。次第にその輪郭が見えてくる。だが、異変はすぐに明らかになった。
桶は、真っ黒に染まっていた。
それが墨ではないことは一目で分かる。油のようにどろりとした黒が、水面から滴り落ちる。
「ひぃっ……!」
青年はその光景を見た瞬間、腰を抜かして尻餅をついた。手にしていた鉈が、がしゃんと地面に落ちて跳ねる。
林琳は、冷ややかな目でその液体を見つめる。
「……まあ、そうだよね」
間違いない。これは、怪奇だ。
しかも、かなり厄介な部類。
林琳の脳裏に、面倒という文字が浮かぶ。これはただの井戸ではない。恐らくは、現世の底に巣をつくった怪奇だ。
「こんな深い井戸でどうやって扉を開くか……」
地上ならば簡単だ。扉の存在を認識し、開くだけでいい。だが、この井戸の底にそれがあるなら話は別だ。領域と現世の座標が違いすぎる。目の前にある扉を叩くのとは訳が違う。これでは接触が難しい。
「仕方ない、飛び込むか……」
林琳は腰を上げ、井戸の脇に転送陣を描き始めた。万が一の保険だ。
「こ、この井戸にですか!?」
青年の声は上ずる。林琳は無言で帯を解き、さらりと外衣を落とす。靴も脱ぎ、すぐそばに並べる。
残されたのは肌着だけ。剣を手にしたその姿に、青年は思わず背を向けた。
自分が見てはいけないものを見てしまったような、そんな感覚にかられる。
「さっそくの大仕事だ」
林琳は、剣の柄をきゅっと握り、慣れた手つきで刃を構える。
そして、何の躊躇もなく、闇へと飛び込んだ。
井戸の口をくぐり、林琳の体は狭い垂直の闇を真っすぐに落ちていく。
空気が喉を擦り抜け、耳元で風が悲鳴のように鳴いた。深く、果てしなく、落ちる。
そして——どぽん。
水に入る鈍い音が、耳の奥で弾けた。
瞬間、林琳は即座に術を展開した。体の周囲に球状の結界を形成し、水の中で身を守る。泡が弾けるように彼の周囲だけが異空間となり、その中で彼は体勢を整える。
「うっわぁ……」
視線を落とすと、己の身体の輪郭すらわからないほど、全身が漆黒に染まっていた。
ただの水ではない。粘性を持ち、わずかに蠢くその液体は、領域全体を支配している。ここは、まさしく怪奇の巣。
林琳は結界の内側から目を凝らし、周囲を見渡す。だが、そこにあるのは"黒"のみ。形も、動きも、視覚に映るものは皆無。ただ、肌に感じるのだ——この空間には、確かに「いる」と。
——バリバリバリッ!!
突如、結界が強烈な圧力で歪んだ。
「……っち!」
周囲の水が震え、結界の球体が軋む。何かが——否、何か"巨大なもの"が、外側から結界を包み込み、押し潰そうとしている。
「おいおいおい!ちょっと待てよ……!」
結界越しにかすかに見えたそれは、鱗に覆われた異形の魚のような巨体。だが、その姿は魚とは似ても似つかず、むしろ悪夢の断片のようだった。
顎を開けたその怪奇は、結界ごと林琳を丸呑みにしようとしていた。
その口の中には、ありえない方向から牙が突き出ていた。天井にも、舌の裏にも、生えている。
「標本にしてやりたいね!」
冗談でも言わねば、何かが潰されそうなほど、異様な光景だった。
林琳は即座に結界の強度を上げ、内側から補強する。すでにひびの入りかけていた結界が再構成され、ぎりぎりのところで保たれる。
怪奇は、それを察したかのように、一度口を閉じて距離を取る。
「視界が悪すぎる……」
黒の海に沈んでいるようなこの環境では、目に頼ることなど不可能だった。自分の呼吸さえ聞こえにくい。
バシンッ!
尾鰭が横から叩きつけられ、結界がぐらりと揺れた。まるで硝子玉を玩具にするかのような力加減だ。
「う、うっざ……!」
挑発するかのような怪奇の行動に、林琳の中で冷静さが次第に削られていく。
「あぁ……もう、面倒だ!」
静かに息を吸い、次の瞬間、彼は一閃の決断を下す。
刹那、林琳の剣が怪奇の口内に向けて一直線に突き立てられた。
狙いは、その脳天。外が見えぬなら、中から破壊するまで。
彼は剣先に心力を込め、一気に爆発を引き起こした。
——ドゴンッ!!!
暴発した結界内に膨れ上がる衝撃波が、周囲の空間を軋ませる。
虚空が震え、漆黒の水が瞬時に吹き飛び、周囲の暗闇が波紋のように揺らぐ。
その爆発が引き金となり、領域そのものが亀裂を見せ始める。
空間がねじれ、黒の中に一筋の"光"が走った。
それは、現世との境界。
崩れた領域から、林琳の身体は吸い込まれるようにして、現世へと押し戻されていった——。
「悪いんだけど……水浴び場を借りてもいい?」
「いえ、すでに風呂を準備してあります……!」
青年は誇らしげに胸を張った。どうやら林琳が井戸に飛び込んだ瞬間から、既に準備を整えていたらしい。彼なりの誠意なのだろう。
領域から生還した林琳は、夕暮れの中を心配そうに待ち続けていた青年に導かれて、村でも一際大きな家の玄関をくぐった。
井戸水である程度は汚れを落としたが、髪に絡みついた泥は手強く、指にまとわりつく感覚が抜けきらなかった。かつては短く整えられていた髪も、今では肩を越えて流れるほどに伸びていた。手入れの手間を思うたびに、切ってしまおうかと頭をよぎる。
湯舟に身を沈めると、全身を包む温もりが疲れた筋肉を優しく解していく。真水とは違う、温かいものに包まれる感覚は、日頃は決して得られない癒しだった。
肌着は、青年の姉が新しく用意してくれたものを借りることにした。柔らかな布地が、肌に心地よく馴染む。
強引に怪奇を祓った結果、井戸は半壊してしまった。林琳がそのことを詫びると、青年は激しく首を振った。
「あんな井戸、もう使えないです。怪奇がいたって分かっただけで、もう水も飲めませんし……」
むしろ、完全に壊してくれてよかったとでも言いたげな表情だった。
「ありがとうございました。これで、ゆっくり眠れます」
深々と頭を下げる青年に、林琳は一つ忠告をする。
「軽く怪奇除けはかけておいたけど、必要であれば専門の仕人に頼んでおいた方が良い。定期的に見てもらえる」
「はい。ありがとうございます……!」
まだ微かに湿った髪を結い上げながら、林琳は玄関先で一つ息を吐いた。
これで烏から引き受けた仕事は全て片付いた。手元にはそれなりの資金も残っている。これでやっと一つ片付いた。
大きく背を伸ばすと、空を見上げる。
そこには、雲一つない澄み切った空が広がっていた。風が葉を踊らせ、土と花の匂いが鼻をくすぐる。
——空って、こんなに広かったっけ。
長い間、下ばかりを見ていた彼は、忘れていた感覚を思い出した。
「さて、あとは傀儡の方を始末しなきゃ」
足取り軽く廃墟へと戻る。
術式の解読をまとめ、朱禍へ託す手引き書も完成させた。
本来であれば仁に任せるつもりだったが、彼は今も休養中だ。花月と天雪では理解も発動も難しい。そうなれば、選ばれるのは自ずと朱禍しかいない。
書類を手にして振り返ると、空間に微かな揺らぎを感じた。領域と現世を隔てる結界が開かれる感覚。
丁度いい。
彼はそそくさと観客側へ戻ろうとし、背後の気配に向けて声を投げた。
「朱禍、それを持って術式の復元を——」
だが、言葉は途中で途切れる。
風上から漂ってくる香りが、朱禍のものではない。
ふと、林琳は違和感に気づいた。
この気配は、いつもの彼ではない。似ているようで、どこかが違う。ほんの僅かな違和感が、彼の本能を刺激した。
林琳の目が、警戒の色を帯びる。
「久しいですね、林琳」
——嗚呼、最悪だ。
◇
「挨拶の礼儀も忘れたのですか」
形の良い唇から紡がれた一言。その音が空気を震わせるや否や、林琳の背筋に氷のような感覚が走る。まるで、冬の夜明け前の冷気が肌を刺すように、足元から静かに体温が奪われていく。
己の名を呼ばれた瞬間に押し寄せたのは、懐かしさと恐怖の入り混じった感情だった。記憶の底から無理やり引き上げられるような不快な感覚に、林琳は身体をこわばらせた。
「……お久しぶりです」
どうにかして拱手の礼を取ったものの、その動きはぎこちなく、どこか引きつったものだった。背後に刃を突きつけられたような緊張が、背中に張り付いて離れない。
「復元は進みましたか?」
冷静で感情の揺らぎひとつ見せない声が、その恐ろしい——落ち着きが、逆に林琳の心をざわつかせた。まるで何もかもを見透かしているかのような眼差しが突き刺さる。
「……はい」
喉の奥が乾いて、言葉を搾り出すのにも苦労した。
「では、検証を」
言外に逃げ場を許さぬ命令のようなその言葉に、林琳は深く息を吐いた。そう、これが宗主のやり方だ。時を経ても変わらぬ冷徹さに、運命に絡め取られるような感覚を覚える。
獅宇の短い一言とともに、その足元に静かに転送陣が浮かび上がった。紋様が淡く光り、空間が波紋のように揺れる。無言の圧力が、まるで"逃げ道はない"と宣告しているかのようだった。
林琳は転送陣を一瞥しながら、眉をひそめる。
ちら、と視線を上げる。師の背中は変わらず大きく、思わず内心で毒づく。
——朱禍のやつ、後で殺す。
この場面を仕組んだのはあの男に違いない。いや、確実だ。些か強引すぎる流れに、彼の影がなかったなどということはあり得ない。
林琳は観念するように肩を落とし、獅宇の背に続く。
だがその歩みの途中、周囲からひそひそと声が上がり始める。
「……あいつは、確か」
「片燕の一番弟子か?」
「破門されたって聞いたぞ」
「いや、長期任務で不在だったとも」
「どちらにせよ、なぜ今になって……」
噂話は風のように広がっていく。誰もが彼の存在に引っかかりを感じつつも、核心に触れようとしない。ただ、遠巻きに見るその目は、どれも微妙な温度を帯びていた。
周囲の空気が張り詰めた。宗主と並び立つ林琳の姿に、広場に集う人々の視線が一斉に集まり、ざわつきの代わりに、緊張が水面のように静かに広がっていく。
かつて「問題児」と呼ばれ、姿を消した一番弟子。今、再び宗主の傍に現れたその姿に、皆が口を閉ざした。噂が現実となった瞬間、場の空気はさらに冷え込んでいく。
「久しぶりだね」
その静けさを破るように、珊來の穏やかな声が林琳に届いた。その声はまるで春の微風のように、張り詰めた空気を優しく和らげる。
「……また面倒ごとに巻き込まれた」
短く返す声に珊來に微笑が浮かんだ。緊張の糸が一瞬だけ緩んだその隙間に、わずかな安心が染み込んでいく。
「手伝おうか」
彼の声には変わらぬ温かみがあった。松季国で初めて出会った時の、あのやわらかく包み込むような響きだ。
「……暇人なら、お好きにどうぞ」
復元作業自体はこの二枚の札があれば一人でもどうにかなる。しかし、多くの注目を一身に集めるこの状況では、孤独な作業がますます注目を誘う。仁がいれば任せたのにと、林琳は心の中で怒りをぶつけた。
あの男は、肝心な時に限って寝込んでいる。だが原因は自分自身にあると理解しているためか、林琳は口を閉ざす。
「術式の解読は得意な方だから、足は引っ張らないから安心して」
傀儡を挟んで向かい合った二人は、同時に手を翳す。互いの心力が指先から滲み出し、宙に淡い光を描いていく。
「俺が術式を組み立てるから、この札を持って流れに身を任せて」
「了解」
柔らかな光が糸を紡ぐように空中に線を描く。静謐な空気の中でその光は美しく舞い、詩のような形を成していく。林琳の指先から生まれる線は、まるで意志を持っているかのようだった。
けれど、林琳はその美しさに酔うことなく、むしろ突き刺さる視線の数々に居心地の悪さを覚えていた。
——見世物小屋みたいで気分が悪い。
そんな居心地の悪さが唇の裏を噛ませた。
しかし、すぐに傀儡の身体がわずかに揺れた。
小さな音を立てて、まるで眠りから目覚めるかのように、関節がきしみを上げながら動き出す。張り巡らされた光の糸がその動きに応じて揺らぎ、傀儡に命を吹き込むかのような錯覚を与える。
「……すごい」
誰かが思わず漏らした言葉が、静けさの中に染み渡った。
その声に呼応するように、別の誰かが「まるで芸術だ」と囁く。息を呑んで見守る視線の数々が、空気をますます張り詰めさせた。
林琳は、自分の指先から放たれた光が作る模様を見つめながらも、心の奥で冷えた焦燥を感じていた。
この術式が、単なる復元で終わるはずがないという予感が、傀儡を通して心脈を辿り疼いていた。
その不安は、形となって現れた。
「っな! なんだこの禍々しい色は……!」
突然、足元から這い出すように現れたのは、赤黒く濁った瘴気のようなものだった。
それはまるで血を溶かした墨のように、ぬるりと広がり、見る者の本能に直接訴えかけてくる恐怖を孕んでいる。
「血……!?」
別の誰かが叫ぶ。
その言葉に反応するかのように、瘴気はじわじわと地面を這い、まるで生き物のようにうごめき始めた。
異様な気配が広場を包み、先ほどまで感嘆に包まれていた空気は、今や一変して怯えと疑念の色に染まる。
「林琳、これは一体……」
隣に立つ珊來の声が震える。
彼の額にも冷や汗が浮かんでいた。
「……一種の呪いだろうね」
低く、重い声。林琳は視線を瘴気の中心に据えたまま答える。
その声には確信と、微かな怒りが込められていた。
「呪いだって? 指南書はとっくに封印されたはずだ!それがどうして、今また……!」
動揺を隠せない声が飛ぶ。林琳は鼻で笑いながら、息を吐いた。
「俺に聞かないでよ」
淡々としたその言葉には、怒り以上に疲労が滲んでいた。
答えを知りたいのはむしろ自分だと、彼は誰にでもなく呟く。
——たった五年、俗世を離れていただけで……死霊やら呪いやら……どうなってるんだ。
「それに、これは最近作られたものじゃない。術式の構造が古すぎる。文字も、形も、あまりにも……時代が違いすぎる」
「なぜわかるのですか?」
鋭い問いが飛ぶ。林琳は頷き、地面に膝をつくと剣の鞘で静かに土を掘った。
「よく見て。所々、文字の形が違ってる」
湿った土を削り、滑らかに線を引いていく。
剣の鞘の先端で描かれた文字は、くねくねとした不気味な曲線で形作られ、蚯蚓の這ったような印象を与える。
「これは、かつて"主"が使っていた文字だ」
林琳は一呼吸置き、さらにもう一つの文字を並べた。
「これは、今の仕人が使っている文字。そして……」
最後に描かれたのは、その二つを掛け合わせたような、奇妙な形状の文字だった。
「これが、術式に使われていた文字」
仕人たちは身を乗り出し、描かれた文字に目を凝らす。
その形は見慣れたものとは明らかに異なり、時の彼方から呼び戻されたかのような、異様な威圧感を放っていた。
「この場にいる仕人が知らないように……瓢魏もこの文字を知らない。そうでしょ?」
「えぇ、その通りです」
即座に返されたその答えに、周囲がざわめいた。
誰も見たことがない。誰も聞いたことがない。なのに確かに存在する、異端の書体。
「この文字は——"湖城国"にしか存在しない。それも貴族や皇族の間で使われていた特殊な文字だよね?」
男にしては、やや高めの声が紛れ込む。
——誰だ?
「湖城国と瓢魏は政だけじゃなく、歴史を辿っても関わりはないし」
しかし再びその国名が出た瞬間、ざわつきは震えへと変わった。
沈黙が場を支配する。
「……あぁ、よく知ってるね」
林琳は、その声の主を視界に捉えた瞬間、反射的に声を漏らしそうになり、あわや鞘を取り落としかけて、ぎりぎりで指を強く握り直す。
瓢魏に属する、あの男だ。
劉鳴国でしつこく絡んできた、あの不気味な男。気味の悪い笑顔を、いつでも顔に貼り付けている人間。林琳は、目線をそっと外し、鋭い視線を向けてきた仕人の方へと顔を向け直す。
「それならばお前は、いつ、どこでこの文字を目にしたというのだ」
声には警戒心が滲んでいた。それも当然だろう。湖城国――かつて戦火に飲まれ、地図から姿を消した国。その最期は、国師が国を捨てたと伝えられ、滅びの象徴として語り継がれる。
「俺も人伝に聞いた話に過ぎない。言っとくけど、俺だってこの文字を今回初めて書いたんだから」
彼が呆れた様子で言い返す傍ら、「それにしても字が汚い」と獅宇が呟いた。
「解読してわかったことは二つ。呪いを熟知している仕人がこの世にいること、その人間は……湖城国と親密な関わりがあったこと。それも……かなりの身分で」
林琳は立ち上がると、足元の文字を乱雑にかき消した。この場に残しておくべきではないと判断した。
乾いた砂が舞い、記された記憶は無情に消えていく。どこか残念そうな声が上がったが、復元された術式は傀儡と共に灰と化した。
「とにかく。瓢魏も被害者だ。信じられないなら夢天理に行けばいい。あそこなら、滅んだ国の文献も宝も保管しているはずだ。……まぁ、聞いたところで怪しまれるだけだと思うけどね」
皮肉混じりの言葉を残して、林琳は軽く手を払うと、その場を立ち去ろうとした。
「林琳」
突然、背後から柔らかな声が林琳の耳を打った。静かに、まるで風が揺れるような穏やかな響きだった。
「ひと段落したし、一緒に食事でも行かない?」
その言葉はあまりにも自然すぎて、耳が一瞬では理解を拒んだ。脳が意味を解析する前に、体が勝手に反応する。
林琳は機械的に振り返る。視線の先にあったのは、変わらぬ微笑をたたえる珊來の顔。その唇は確かに先程の言葉を紡いだものであり、その表情には一片の冗談も見受けられなかった。
「は……なんで?」
声は自分でも驚くほど情けなく、思考の流れをまるごと喉で噛み砕いてしまったかのような、呆けた響きが乗った。
彼の言葉が冗談ではないと気づいた時、全身の血が逆流する感覚に襲われた。心臓が跳ね上がる。皮膚の下で何かが走るような不快とも言えるざわめきが生まれた。
そして、珊來はやわらかなまなざしをそのままに、さらなる一撃を放った。
「なんでって……君に好意を抱いているからに決まってる」
その瞬間、時の流れが止まった。
周囲の空気が凝固し、誰もが呼吸を止めたように静まり返った。先ほどまでのざわめきも、まるで幻だったかのように掻き消えている。
近くにいた獅宇は目を見開き、扇葉九は思わず眉を跳ね上げる。ふたりが顔を見合わせる様子は、まるで「聞いてはいけないものを聞いた」とでも言わんばかりだった。
——……そんな関係だったのか?
誰もが一様に、心の中でそう問い返しただろう。そして、なぜこの場で、とも。
しかし、それ以上に言葉を受け取った林琳の頭は誰よりも真っ白だった。
「好意……?」
たった二文字のその言葉が、やけに遠く感じられた。耳には届いているのに、意味が霧の中に沈んでしまっている。理解しようとしても、心が受け入れを拒んでいた。
彼にとって、「好意」とは遠い世界の話だった。敬意、忠誠、師弟の情——そうした関係なら数多く経験してきたが、ここまでまっすぐに、感情そのものを向けられたことなど、かつて一度もなかった。
心が追いつかず、言葉も出てこない。胸の奥がざらつく感覚。理解の及ばないことに対する防衛本能のようなものが、冷静を装う声を無理やり絞り出させた。
「……腕のいい医者を紹介するね」
それは、自分でも意図せぬ逃避だったのかもしれない。
「医者じゃなくて、食事に行こう」
「なんでそうなるの」
即座に返されたその言葉に、会話の流れが一層ねじれる。まるで茶化し合いのようなやりとりが続く中、林琳は言い逃れの余地を断ち切るように、珊來の長い脚に無遠慮な蹴りを叩き込んだ。
「後遺症でも発症したの?正気じゃない」
怒りというより、動揺の反動。自分でも理由がわからないほど、感情の振れ幅が大きく、手加減ができなかった。
しかし珊來は、まるで痛みなど感じていないかのように微笑を崩さない。その瞳には、確かな熱が宿っていた。けれど、林琳はその熱に気づかない——いや、意識的に気づかないふりをしているのかもしれなかった。
「怪奇の話、してあげれるけど」
その一言で、林琳の表情がわずかに揺れた。
そして獅宇は、それを見逃さなかった。目の前で弟子が詰め寄られている様子に、もはや呆れすら追い越し、静かに頭を抱えた。
「……一回ぐらいなら」
林琳がぽつりと呟いたその言葉を聞いた瞬間、獅宇の瞼がぴくりと動く。
だが、彼は一切表情を変えなかった。むしろ、逆に何も映さない瞳で、目の前のやり取りを静かに観察している。
「……すまん」
彼の師が獅宇に小さく謝罪する。
獅宇は少し間を置いてから、深く長い溜息を吐き、首をゆっくりと横に振った。
「構いません。あの子の"あれ"は今に始まったことではありませんし……それに、ちゃんと相手は選んでいますから」
扇葉九がやや皮肉めいた声音で問いかけた。
「それは珊來に気を許しているということか」
しかし獅宇は、今度は縦にも横にも首を振らなかった。ただ、目を伏せたまま、静かに語る。
「くれぐれも、深追いしないように注意してください」
「……なぜ」
「知れば、互いに後悔するからです」
扇葉九が唇の端を上げる。言葉を返すその声には、薄く冷ややかな響きが混じっていた。
「それを決めるのは珊來だ。仁と同じで、珊來も執念深いぞ」
仁——その名前に、獅宇の目がわずかに陰る。
「仁は例外ですよ。あれは執念というよりも……」
一拍置いて、言葉を絞り出すように続ける。
「……執着に近い」
それは、あまりにも重い言葉だった。
記憶を失った仁にとって、林琳は世界の全てだった。そこに存在するあらゆる論理や倫理は、「林琳と繋がり続ける」という一点に集約される。愛というには歪みすぎていて、信頼と呼ぶには純粋すぎる。
獅宇の視線がふと林琳に向かう。隣に立つ珊來と肩が触れ合っている。
そのわずかな距離の近さに、獅宇は一瞬だけ眉を寄せた。
「案ずるな。たかが数日共にしただけだ。なんせ、あやつも好奇心は強い。小僧が物珍しいのだろう」 それは、祈るような慰めだった。
「……そうだといいのですが」
だが、その言葉とは裏腹に、時計の針は確かに動いていた。
静かに、確実に——二人の関係は、思いもよらぬ方向へと向かっていこうとしていた。
◇
「何が食べたい?」
「酒があればなんでもいい」
「そっか」
珊來は迷わずに一つの飯屋に足を踏み入れた。賑やかとは言わないが、かといって厳かな空気でもない。旅の疲れをそっと緩めてくれるような、どこか丁度いい雰囲気の店だった。
「好きな物を食べて」
お品書きに並ぶ品々は、どれも単品料理ばかりだ。林琳はうんざりとした表情で目の前の彼を見る。
「……おい、値段がおかしいぞ」
「そう? 今回は君の功績が大きいんだから、これぐらいは安いもんだよ」
林琳はお品書きを伏せる。
「俺は酒がいい。それにお前が食べたいものを摘まめば十分だ」
そう言うと、近くの給仕に声をかけていくつかの酒を注文する。目の前の器に早くも影が落ちていくのを、珊來は静かに見つめていた。
「そっか。じゃあ……」
珊來は慣れたように三品程度の料理を頼む。
主食というよりも、酒のつまみにぴったりなものばかりで、林琳はさらに不満げに顔をしかめた。
「お前って変な奴だよね」
「その呼び方はいい加減にやめないかな。私は君より一回りは年上だよ」
「一回り……ってことは……」
「知りたいのかい?」
「いやいい、聞いたら何かが減る」
この美貌で三十を優に越えてるなんて、信じたくない。林琳は言い訳を噛みながら酒を煽った。
それから彼は、黙々と酒を口に運んだ。
心を隠すための手段として、酒に身を任せることは彼にとって珍しいことではない。だが、その目論見も珊來の前では意味をなさなかった。
珊來が怪奇の話を始めると、林琳の手は自然と止まり、耳がそちらに向いていた。話に夢中になるその様子が面白くて、珊來はさらに語った。林琳もまた、それを楽しんでいるようだった。仏頂面か顰め面ばかりだった彼が、珊來の言葉には控えめに笑う。
——風が吹き抜けたみたいに、穏やかに笑う子だ。
その表情に、珊來の頬は薄っすらと紅を帯びた。
「ねぇ、俺たちが松季国を発った後に巨大な領域を祓ったんでしょ。その話をしてよ!」
酒の影響か、子供のように話をせがむ林琳に、珊來は箸を置いて、望みに応えた。話しながらも、林琳は次々と酒を追加していく。仁がいれば苦言のひとつも出たはずだが、今この場に彼の姿はない。
「飲みすぎは良くないけど……林琳は酒に強いみたいだし、好きに飲んだらいいよ」
「珊來はもっと食べろ!」
「はいはい」
つまみばかりで腹は減らないのかと、林琳が勝手に追加注文を始めた頃には、店先に夕日が差し込み始めていた。
林琳は今まで、珊來のような存在と接したことがなかった。朱禍は近しい存在だったが、彼はあくまで獅宇の知己であって、自分とは違う距離に立つ人間だった。
だが、この男は違った。
彼は、林琳という個人に対してまっすぐに興味を持っていた。
それが"好意"と強く結びついていると気づかずに、林琳はなおも珊來の話に耳を傾ける。
話題は変死体の話へと移っていく。
「そもそも、俺は変死体を実際に見たことがない。どこの国も不気味がってすぐに火葬したりするから……保管している国も知らない。珊來は見たことがあるんでしょ?」
「あぁ。あまりこういった表現は良くないとは思うけど……不気味だったよ」
「いいなぁ」
流石にその言い方には、珊來も呆れたように苦笑を浮かべ、ぺたりと机に伏せた林琳の頭を指で突いた。
「……夢天理に運び込まれた死体は幾つかあると聞いた」
発見された時の状態で保管されているかどうかは怪しいけれど、と控えめに付け加える。
「なに、珊來が持ってきてくれるの?」
「うーん、それは無理かなぁ」
「じゃあ言うな」
林琳は椅子を腹いせに軽く蹴とばした。
じゃれつくような仕草に、珊來はさらに頬を緩ませながら、やや前のめりになり林琳の真横に水を置いた。
「君はこれからどうするんだい?」
「どうするって……」
怪傀神書の解読、変死体、傀儡の術式を操る人物。
どこから手をつけるか、まだ整理できていない。
昔のように怪奇だけを追いかけてはいられなかった。
「私が力になれることはあるかな」
「……なんでそこまでするの。ちゃんと借りは返してもらった」
珊來は林琳の言葉に、少し困ったように笑った。
「なんでだろうね」
そして、次に首を傾げたのは彼自身だった。
「俺に聞くなよ……」
「君に好意を抱いているのは確かだ。困っているなら助けてあげたいし、手を貸したい。等価交換なんて関係なく……私は君の助けになりたいと思っている」
きらり、と輝く瞳が林琳をまっすぐに見つめる。
「俺に接近したところで、松季国が得をする情報は何もないよ」
この奇妙な状況から逃避行したい彼は即座に立ち上がったが、それを制止する手が一つ。
「その夕焼けの瞳が好ましい。意地っ張りなのも可愛げがあって、撫でたくなる」
「はい……?」
「己を貫く姿勢は大変素晴らしいが、その無鉄砲さは心配だ」
それは、明らかに好意とは違った感情——もっと静かで、濃くて、深い何か。
林琳にも、それぐらいわかる。
「黙れ黙れ! なんなの!? はぁ!? 気色悪い!」
顔を真っ赤にして、腕で頭を覆って俯く。ばくばくと音を立てる心臓が耳に響いてうるさく、いっそのこと胸から引き剥がしてしまいたいほどだった。穴があったら入りたい。そして、二度と日の目を見ない深さまで潜っていたい。
林琳の耳が赤く染まる様子を、珊來は愛おしげに見守っていた。
清く、正しく、まさに"善人"と呼ばれるその美しい顔で。
「お前、おかしいよ……気が狂ってる……!」
そう言って耳を塞ぐ彼の姿さえも、珊來にとっては甘い果実のようだった。
「可愛いなぁ」
「頼むから黙れ!」
◇
四六時中一緒にいるんじゃないか。
天雪と花月は、微妙な距離感を保ったまま歩く二人の背中を、宿の柱の影からこっそり盗み見ていた。
ここは山雫国近くの小さな宿場町。
街並みの中ほどにはこぢんまりとした市場が開かれており、人々の声や商人の掛け声が飛び交っている。本来なら、傀儡の正体が判明し、瓢魏の疑いが晴れて、三つの宗派は拠点へと解散するはずだった。
——そう、はず、だったのに。
「なあ、天雪」
「言いたいことはわかるよ……」
ひょっこりと柱から顔を覗かせる二人の姿は、まるで探偵ごっこの子どものようだ。
「もしかして師兄って、ああいう系に弱い?」
花月の頭上から降ってきた言葉に、天雪は肩を落とした。
「……口にしなくていいから」
"ああいう系"とは、つまり素直で真っ直ぐで、どこか犬っぽい人間。天雪の頭の中では、兄弟子が穏やかに微笑む顔が思い浮かんでいた。
「珊來さんってさ、どう見ても品行方正で優等生。しかもあの扇葉九様の直弟子! 師兄とは真逆の育ち方じゃん。変わり者の極みと、品行の権化」
「真逆って……師兄はちょっと自由が好きなだけで……」
かばいながらも、自分でも微妙に説得力がないと感じている天雪は、頭ひとつ分前に出ている花月の衣を遠慮がちに引いた。
「ていうか扇葉九様のことだから、『関わるなー!』って天から雷でも落としそうなのに。よく滞在を許されたよな」
「後で……お叱りとか、ないよね?」
「あっても受けるのは俺たちじゃなくて珊來さんだろ」
怒りの雷を思い出して天雪はぶるりと震えた。
胃が痛い。弟子は今日も順調に胃痛を受けている。
「あっ、見ろ見ろ! 手が触れたぞ!」
「うぅ……眩暈がしてきた……」
勿論当然のように、その手は林琳に振り払われる。だが、珊來の表情はどこか緩んでいて、宙に浮いたままの手の隣にある整った顔に浮かぶ感情は明らかに"嫌"ではない。
「珊來様が向けてる感情って、明らかに"そっちのあれ"だよね?」
「うん、あれだな、"そっちの"」
「仁先輩の感情とは、またちょっと違うよね」
「当たり前だろ。仁先輩は、師匠と師兄と、三人でずっと暮らしてたんだぜ。親愛とか信頼とか、そっちの色だよ。……まぁ、ちょっと執着強めだけど」
「"ちょっと"……なのかな?」
兄弟子の抱えるあの感情は"ちょっと"で片づけられるのか。
天雪は遠い目をする。
「でもまぁ、師兄はふらふら飛んでいきそうだから、仕方ない」
花月はそう言って、ひょいと首をかしげた。過去のことを、もう気にしていない様子だ。
「……そう、だよね」
その潔さに、天雪は少しだけ憧れた。諦めではなく、受け入れて前に進む強さ。その真っ直ぐな気質は、眩しい。
「俺たちが師兄を想う気持ちと、仁先輩の想いは似てるようで、たぶん違うけど……好きって感情だけは、同じなんだと思う」
「うん」
天雪は素直に頷いた。
家族でも、師弟でも、想いの形は人それぞれだ。
「でもな、珊來様は——あれは違うぜ」
花月の目が冴える。
あれは、恋だ。
想う前に、惹かれてしまったという感じ。
「人を愛する前に、恋をしてるって顔だ。師兄を振り回すほどの仕人。面白くていいじゃないか」
「花月、それ師兄に聞かれたら、普通に骨を折られるよ?」
「いやいや、あの人がそんなこと……」
と言いかけて、ふと想像してしまう。
——ぽきっ、と。
迷いなく、躊躇なく、真顔でやりそうな気がして、花月はそっと口元を手で覆った。
「……やっぱ、ありうるな」
二人は揃って背筋を伸ばすと、これ以上の"張り込み"をやめることにした。
◇
鬱陶しい視線が二つ消えて林琳は眉間を指でほぐした。
——あいつら……。
ため息をつくのを堪えて、林琳は怪傀神書について何か知見がないか尋ねた。
「主の所有物に関しては範囲外だな……」
「最初から期待してないから安心して」
「ちょっとぐらい期待してくれてもいいじゃないか」
珊來は拗ねた素振りで林琳の肘を突いた。力の込もっていないその動きにはどこか甘えるような気配が滲み、意地悪でも探りでもない、ただ距離を近づけたいというささやかな意思だけが含まれていた。けれど林琳はその仕草に目もくれず、無言のまま表情を崩さなかった。
「それよりも……私は君のことが、知りたいな」
口にされた言葉が空気を変える。林琳の眉がぴくりと動き、唇がわずかに下がる。珊來はその変化に気づいていないように見えて、実のところよく見ているのだろう。けれど気づかないふりをして、あくまでさらりと、「周囲から耳にする噂よりも、君の口から直接聞きたい」と言葉を重ねた。
林琳は更に口をへの字に曲げる。眼差しは冷え、視線がわずかに逸れる。
「知ってどうするの。人は、人を理解できはしない。無駄なことだよ」
声に籠もる感情は淡く、しかしどこか諦めに似ていた。
「そうだね。私は君を理解できないだろうし、君も私を理解できない」
まるで肯定するようにあっさりと返されたその言葉に、林琳は音もなく、薄く笑った。それは皮肉とも自嘲ともつかないもので、言葉ではなく態度で語っていた。わかっているなら最初から聞かなければいい。そう言いたげな気配を漂わせながらも、珊來はやはり微笑を崩さない。
「理解できないから、知ろうとする」
諭すように、それでも押しつけがましくなく、まるで昔からそこにある真理をなぞるように珊來は言葉を重ねていく。林琳の眉間には静かに皺が寄り、額の奥で何かが鈍く疼いていた。
「何も知らずに生きていくよりも……ずっといいだろう。君は、知っておけばよかったと、後悔したことはないのかい?」
言葉の奥に刺さったのは問いではなく記憶だった。林琳の中にある幾つもの選ばなかった道がその言葉に反応し、静かに疼き出す。心の奥に仕舞い込んだはずの情景が、ふと戻ってくるようだった。
——そんなもの、山ほどある。
目を伏せたのは、その一瞬に浮かんだ過去の顔を振り払うためだった。誰かの声や背中、置いてきたもの、選ばなかった言葉。思い返せば、後悔ばかりだったかもしれない。けれどそのひとつひとつに向き合っている余裕など、あの頃の自分にはなかった。立ち止まればすぐ背後に闇が追いついてきて、息を整える間もなく、進むしかなかった。だから捨ててきた。そして今になって、それを拾い集めようとしている自分に戸惑っている。
「故郷はどこ?」
穏やかに投げかけられた問いに、林琳は無意識に額にかかる前髪を払いながら視線を逸らした。どこかでこの会話を終わらせたがっているのに、珊來の言葉は追いかけてくる。
「……覚えてない」
「そっか」
柔らかく返されたひと言は、責めでも慰めでもなく、ただ受け止めただけだった。否定も肯定もしないその在り方に、林琳はかえって言葉を続ける羽目になる。
「ずっと昔に師匠に拾われて、旅を始めた」
「どんな旅?」
問いに込められた興味は、純粋だった。探るでもなく、知識欲でもなく、ただ彼という人間に触れたいという感情だけが乗っていた。その重さに、林琳はかすかに息を吸い込み、喉の奥で言葉を形にする。
林琳はあの頃の情景を思い浮かべた。
傭兵として生きていた自分に、可愛げなどなかった。信じられるものなど最初からなかったし、信じさせようとも思わなかった。寝首を搔くことも、嘘を吐いて誰かを騙すことも、当たり前のように繰り返した。
恩人を失望させるような裏切りも、数えきれないほど重ねた。それでも、彼は一度も林琳を見捨てなかった。共に立ち止まり、その手を取って、何度でも引き戻してくれた。
その手が、どれほど温かく重かったかは、今になってようやく理解できる。
旅は静かに形を変えていった。
最初は逃げるように、命を繋ぐだけのものだった。だがいつしか、心力の扱いを覚え、文字を覚え、人としての在り方を少しずつ手にしていった。
日々は少しずつ落ち着き、道のりの先には目的らしきものも生まれ始めた。怪奇を祓い、人を助けることが、ただの命綱ではなく、選び取るべき道になっていった。
「世に平穏を」
ぽつりとこぼした言葉に、あの頃の旅路の匂いが蘇る。
「いい言葉だ」
珊來が静かに頷く。その声音に、表面的な賛辞ではない、言葉の重みを感じている気配があった。
「それが師匠の口癖だったから……あてもなく、ただ怪奇のいる場所を転々として……」
その旅の途中で、仁に出会った。
嵐の夜だった。空は怒鳴り、地は裂けるように揺れていた。泥まみれの中で、小さな身体は必死に何かから身を守るように丸まり、震えていた。その背中に手を伸ばすことを躊躇わなかったのは、多分、気のせいだ。
「その頃からずっと一緒なんだね」
珊來の声は変わらず穏やかだった。
風が少し通り抜けたように、林琳の肩から力が抜ける。もう少し語れば、余計なことを話してしまいそうだった。言葉を重ねるごとに、心の奥で開きかけている何かがこぼれ落ちそうで、林琳は唇を噛み、黙った。
「じゃあ次の質問。好きな食べ物はなに?」
間を読むように、珊來は空気をやわらげる言葉を投げる。それは気遣いというよりも、当たり前のことのような自然な優しさだった。
「……蜜柑」
「蜜柑かぁ。松季国ではなかなか育たないよ」
「逆に、あの雨季の中で育つ植物があるの……?」
言いながら林琳は、湿った空気の感触を思い出して少しだけ眉をひそめる。
「あはは! もちろん、果物も野菜も育つよ。ずっと雨なわけじゃないからね」
屈託なく笑う珊來の顔は、まるでその雨を楽しんでいるかのようで、林琳には眩しく見えた。
彼にとっては、あの湿度も匂いも、決して馴染めるものではなかった。
「半年後に桃の花が咲く」
珊來の口調は柔らかく、そしてどこか誇らしげだった。
蒼羽の拠点を覆い尽くすほどの花々が風に乗って甘く香り、誰かの疲れをそっと癒やしてくれるような景色が、そこにはあるのだと語る声だった。
「遊びにおいで」
ふいに差し出された言葉は、軽いようでいて、どこか温かかった。
林琳は少し目を伏せる。
「……桃の見頃は一瞬だよ」
「うちのは大丈夫。清らかな心力で包まれているから、持ちがいいんだ」
「それがなんだって言うんだ。半年先なんて、どうなってるかわからない」
声はわずかにかすれていた。
それは冷たさではなく、痛みだった。
未来に対して手放しで期待を抱くことなどできない。生きているかどうかさえ分からない日々を過ごしてきた自分にとって、半年先の約束など、信じるには眩しすぎた。
「桃が咲く前でも、散った後でもいい。自慢の茶を用意して、待っているから」
珊來は変わらず、穏やかな笑みを浮かべていた。
林琳はその綻びに、ふと懐かしさを覚える。
——嗚呼、珊來は似てるのか。
かつて山雫国の草原で、陽だまりのなかにふわりと漂っていたあの匂いに。
それは、衣に移った香かもしれない。林琳は気づけば、すぐ隣にあった珊來の羽織に、鼻を寄せていた。優しく、包み込むような香に、心がふわりと揺れる。
くすくすと笑う声が耳に届き、我に返ると、珊來が掌に収まる大きさの香り袋を差し出していた。
これは受け取るべきなのか。いや、受け取ってもいいものなのか。
林琳の中で、一瞬だけ迷いが生まれる。手を伸ばすには、理由が要る。拒むには、勇気が要る。そうして迷っているうちに、珊來の手がそっと添えられて、その香り袋は林琳の手のひらに収まっていた。
手の中に残された重みと香りを確かめるように見つめながら、林琳は顔を上げる。
そして、香と珊來の顔を、二度、交互に見た。
「師兄、そろそろお時間です」
声がかかったのは天雪からだった。どこか申し訳なさそうに、けれどしっかりと告げられたその声に、林琳ははっと現実に引き戻される。
珊來は微笑みながら、手をそっと離した。
名残惜しそうに、指先が、まるで風に溶けるように、静かに離れていった。
「いつか、返しに来て」
その言葉が"約束"だと気づいたときには——珊來の姿は、もうそこにはなかった。
◇
「……師兄、大丈夫ですか?」
天雪の問いかけは、思った以上に慎重で、しかし真っ直ぐだった。林琳の表情は相変わらず固く、視線は遠くの一点を見据えたまま動かない。
彼が宗主と面と向かって対峙するのは、何年ぶりのことだ。
天雪にとっても、それがどれほどの意味を持つのかは想像できた。だからこそ、不安が胸の奥に渦を巻いているのだ。
「大丈夫だと思う?」
短く返された言葉に、天雪は口を噤む。
林琳はふと寒さを覚えたように腕をさすり、目を伏せた。
「……すみません」
天雪が謝ると、林琳は苦笑すら浮かべず、ただ静かに足を進めた。
この数年、彼は宗主と向き合うことを避け続けてきた。目を背け、耳を塞ぎ、ただ時間だけが過ぎた。だから今、足取りはひどく重い。まるで全身に鎖を巻かれているようだ。
「あの、師兄!」
天雪の声が、背中に響いた。
「師匠は……師兄を大切に思っておられます」
林琳の足が止まる。
「ですから、あの日の真実を誰も知りません。師匠の中にだけ、刻まれています」
宗主は何も語らず、静寂を守った。
それは、悲しみであり、苦しみであり——痛みを隠すようだった。
天雪はそれを、自分の中でだけ呟いた。
誰にも打ち明けられない宗主の孤独。誰にも触れさせない傷跡。
「閉関を解いても……宗主の手は驚くほど冷たいのです」
かつては、無言のうちに弟子の頭を撫でてくれたあの手。今では誰にも触れず、触れさせもしない。
「あの氷を溶かせるのは……師兄だけだと、思います」
まだあどけなさの残る顔で、天雪ははっきりと言い切った。怖がりながらも、言葉を紡いだその姿に、林琳の胸が微かに揺れる。
思ったことを言葉にする。
信じる相手に、まっすぐ向き合う。
それがどれほど尊くて、難しいことなのか——天雪は花月から学んでいた。
「真実を教えてほしいとは……言いません。僕は何もできなかった。そんな身で、烏滸がましいことは言えません」
謙虚な言葉の裏にある誠意が、林琳にはわかった。だからこそ、言葉が胸にちくりと刺さる。
「俺の問題をお前たちが背負う必要はない。巻き込まれたのはお前たちの方で……寧ろ、俺を軽蔑する方が正しい」
「そんなこと、しません!」
「する、しないじゃない。片燕は……そうするべきだった」
そうしていれば、こんな大事にはならずに済んだだろう。
感情のない言葉はまるで自らに罰を与えるかのようだった。
天雪は最近になってようやく気づいた。
彼は、自分を蔑むことでしか、人との距離を置くことのできない、不器用すぎる人間なのだ。
「いいえ」
だからこそ、天雪はそれをきっぱりと否定した。
「片燕は誰一人、師兄を拒むことはしません」
それだけは、どうしても伝えたかった。
胸の奥に込めた想いを、まっすぐ言葉にすることで、少しでも林琳の何かがほどけることを願っていた。
しかし、林琳は何も返さなかった。
ただ、乱暴に手を伸ばして、天雪の頭をぐしゃぐしゃと撫でるその手はどこか優しかった。
「山雫国にて……お待ちしております」
天雪はそう呟き、心配そうに眉を下げ、そして満足げに笑う。
林琳はしばらくその背を見送り、やがて静かにぬかるんだままの地面へと目を伏せた。
仁とぶつかったあの日から、林琳はなぜか、感情の"動き"に敏感になっていた。
誰かが自分に向ける想いの温度。
それが、殺意ではないということに気づけるようになった。
世界がどれだけ醜く見えても、傍にいる彼らは美しかった。
独りで生きていくと決めても、人は完全には孤独になれない。
罪を背負う身であっても——それでも、待ってくれている人がいる。
そして、その想いを、林琳は無下にすることしかできない自分を知っていた。
だからだろうか。
風に靡く白い帯が視界の端で揺れていても、今はまだ、正気を保っていられる。
——この人の周りは、いつも凛としている。
空気だけではない。
言葉、背中、沈黙、そのすべてが「宗主」としての風格を帯びている。
目を背けてきただけで、昔からそうだったのかもしれない。
この人は、"そう在る"ことで、自らを律してきたのだ。
「宗主」
林琳は静かに佇み、静寂を保つ背に向けて拱手する。
「山雫国へ寄っていきなさい」
まるで日常の挨拶のように、獅宇は静かに告げた。彼の眼差しは冷静で、波のない湖面のように静かだったが、その言葉には暗い深淵が潜んでいた。
「……いえ、俺は一度破門された身ですから」
短く拒絶の言葉を口にしながらも、林琳の声はわずかに揺らいでいた。自分の意思で決めたはずの道が、獅宇の一言で足元からぐらついていくような、そんな感覚。不安定な霧が立ち込める河川に、目印もなく立ち尽くしているようだった。
「霧が深い中、河を渡るつもりですか」
目の前に広がる河川は穏やかだが、視界は悪い。
馴染み深い声には揺るがぬ命令の気配が潜んでいた。感情を抑え込むように話す獅宇の声が、林琳の肩に重くのしかかる。拒否の余地など考えることもできない。彼は昔から、言葉ひとつで人の進む道を変える力を持っていた。
有無を言わさぬその言葉に、林琳は自然と項垂れた。心の奥底で葛藤しながらも、獅宇の意志を否定することは出来なかった。仁を連れて行くのは無理がある。未だに彼は本調子ではない。霧の濃さ、気温の低さ、そして河の流れ。それらを考えれば、自分一人で動いた方が遥かに確実だった。河を越えればすぐに湖城国。しかし山雫国を通り抜けるとなれば、方角は真逆で、遠回りにも程があった。
「……夢天理が来る前に、先を急ぎます。あいつらも匂いを嗅ぎ付けたようですから」
怪傀神書のことも、どこからか漏れ出したようだ。朱禍の警告が脳裏を過ぎる。
もしかすると、あの場に夢天理からの刺客が紛れ込んでいたのかもしれない。
「どうか、ご容赦ください」
それが、林琳の出した結論だった。理屈も、戦略も、それなりに正しいはずだ。
だが——。
「昔のように、引きずってでも連れて行くこともできますよ」
獅宇の声音は変わらず、柔らかく、しかし冷ややかだった。無表情で語るその言葉が、どこまでも鋭利に胸を刺す。林琳は唇を噛み締め、視線を逸らした。
何も言い返せなかった。かつて反抗した日々の記憶が、鮮明に蘇る。強い言葉をぶつけ、何度も衝突し、それでも結局は、叩き伏せられるように従っていた。獅宇の言葉には、そうさせる何かがあった。ただの力ではない、もっと深い"重さ"が。
ふと、視線の先に気づく。獅宇が黙ってこちらを見ていた。まるで、心の奥底まで見透かしてくるような眼差しだった。
「あの……仁に、言っていただけませんか」
居心地の悪さに思わず口をついて出た。
「何を」
返ってきたのは、予想通り冷ややかな返答。林琳はわずかに肩をすくめ、続けた。
「……ひとまず、拠点へ戻るように、と」
言っている自分が情けなく、笑えてくる。かつての自分なら、こんな頼みを誰かにするなど考えられなかったはずだ。
「俺が言っても、あいつは聞く耳を持たない……ので」
まるで懇願するようにそう言い添えた。——しかし。
「己の口で言い聞かせなさい」
獅宇の声は静かにして決然としていた。その響きには、一切の妥協の余地がなかった。
林琳は一度目を伏せ、そして静かに懐から文を取り出した。
「……では、これを渡していただけませんか」
淡い千草色の紙に、自筆で綴った文。伝えたいこと、言葉にできなかった想い、すべてを託したつもりだった。宗主からであれば、仁も素直に受け取るかもしれない——そう思っていた。
「理由も書いてあります。中を読めば……あいつも、きっと納得するはずです」
だが、その紙に向かって伸びるはずの手は、どこにも見当たらなかった。
「直接話そうとしない時点で、仁が納得しない可能性の方が高いでしょう」
淡々とした言葉が、冷水のように心に落ちた。
それも、わかっていた。わかっていながら、逃げ道を探そうとしていた自分が、情けなかった。
「私は、お前を赦したわけではありません」
針に刺されたように林琳の背筋が凍る。
わかりきっていたことなのに、突きつけられた現実に肩がすくむ。拒絶。断絶。たった一人の、一番弟子の過ちによって、片燕は崩れ落ち、山雫国には暗雲が垂れ込めた。命が失われ、希望が潰えた。
それ以上に、彼が知らなかった、いや——知ろうとしなかった物語が、まだいくつも存在している。
「……はい」
林琳には何の反論もなく、ただ飲み込むだけのものだった。
「この先も、赦すことはできないでしょう」
その言葉は、獅宇自身をも責めているかのように響いた。冷たい霧が立ち込める中、林琳は心の奥で重いものを感じた。自分が破ったのは、単なる規律や掟ではない。かつて交わした、ただ一つの、かけがえのない「約束」であった。心の中で赦される道理などあるはずがない。むしろ、今こうして言葉を交わしていることさえ、本来は許されるべきではなかった。
霧の隙間から流れ込む冷たい風が、二人の間を静かに通り抜けた。春の訪れには、まだ遠い。心に同じ冬の静寂が漂うようだった。
「閉関している間、私は己に問い続けました」
獅宇の声は、どこまでも静かだった。その声には、暗い海の底にいるような、解放されない静けさが感じられた。
「何が正しく」
だが問いには、答えが返ってこなかった。
「何が過ちで」
その問いも、また無言のままであった。
「私は、何を選ぶべきだったのか」
あの長い静寂の時間。林琳の心に重くのしかかる思い。その間、獅宇は何も得られぬまま、ただ問い続けているだけだった。林琳は強く思い知った。己の過ちだけでなく、師すらも未だにその同じ迷いの中を彷徨っているということを。それもまた、自分が目を背けてきた「事実」であった。
「そして一つの答えに辿り着きました」
獅宇は、霧の向こうに過去を見つめるような眼差しで、静かにそう言った。
「それは、呆気のないものでしたよ」
彼の言葉には怒りも、哀しみもなかった。ただ、すべてを知った人間だけが持つ、深い静けさだ。
「私の選んでほしかったものが、お前の願いと、違っていただけ」
その一言は、林琳の胸にじんわりと染み込むように響いた。責めるわけでも、受け入れるわけでもない。ただ事実を淡々と告げただけの、あまりにも優しい言葉だった。彼の微笑みは、あの頃のままだった。温かく、しかしどこか寂しげな微笑み。それが、林琳の心を強く深く抉った。
「そこに過ちも、正しさも、存在しません」
獅宇の辿り着いた答えは肯定でもなく、否定でもなかった。ただ「違った」—それだけのこと。けれど、その「違い」がどれほどのものを壊したかを、林琳はよく知っていた。
目の奥が、じんと痛んだ。
いっそのこと、罵ってくれればよかった。責めてくれれば、楽になれたかもしれない。
二度と姿を見せるな、と突き放してくれれば、仁の手を振り払い、すべての縁を断ち切ることができたのに。そうすれば、きっと、もう少し上手に——諦められたかもしれないという思いが、胸の奥から渦巻き、何かがこぼれそうになる。
林琳は唇を震わせ、拳を握りしめた。
——俺は、またこの人を傷つけたのか。
獅宇の目が見開かれる。
「なに、を……」
「本当に……申し訳ありませんでした」
言葉とともに、林琳は膝を折り、その場に額をつけて叩頭した。泥にまみれた地面に額が沈む。その姿に、獅宇はしばし言葉を失った。かつて、己の道を迷わず突き進み、誰にも媚びず、振り返ることもなかった子どもが——今、こうして頭を垂れている。
その姿は、彼にとってまるで懺悔のように思えた。心の中の強さが、すっかり不安定になってしまったかのような光景。獅宇は、何を言うべきか、一瞬の間を持った。彼の心に深い悲しみが波紋のように広がっていくのを感じた。
「……誰が死のうが、どうでもよかった」
ぽつりと、林琳の口から漏れた声は、酷く静かで、酷く重い。心の内に秘めた思いが、長い間の沈黙を破って、ついに外に出た。それは、あの日、すべてを裏切った瞬間に、誰にも言えなかった己の本音だった。
「……最期の審判で、主は言いました。等しいのは善と悪のみだと」
誰もが知る古の教え。世界の創世と、主の最期。この教えは、生を授かった者ならば一度は耳にする物語である。林琳のように、生まれも、血も、故郷も知らず、傭兵として戦場を渡り歩き、血と泥の中で生きてきた者にとってさえ、それは常識だった。
獅宇は、林琳の瞳が微かに揺れるのを見つめていた。その瞳に宿る波紋のような光。それは、かつて無垢だった少年が、まだ心のどこかに生きている証であった。
「では、何故人の世は悪が裁かれるのでしょう」
林琳の声は、どこか遠くを見ていた。まるで、過去のさまざまな出来事を振り返っているかのようだった。
「人を殺せば悪。人を救えば善。けれど、主は"善と悪は等しい"と——そう言い残したではありませんか」
悍ましい怪奇がこの世に現れて以来、人々は争い、奪い、傷つけ合った。その中で生まれ、消えていった命たち。軽く、脆く、風に散るような命。
それは果たして、本当に善だったのか?
悪だったのか?
それを、誰が決めたのか?
根を辿れば善も悪も存在しないのかもしれない。
微かに笑った林琳の顔は、旅の途中で迷子になった子供のようだった。長く歩き続けた道の先で、すべてを見失ったあの日と同じだ。
「俺は……あなたのようにはなれなかった」
いくら教えを学ぼうとも、心に育った野心は消えずに彼を縛り続けている。
「おかしいのは俺か、はたまた世界か」
その声は震えていた。
「誰も正しくないこの世界は……息がしにくくて……頭の片隅でいつも誰かが叫んでいるんです」
ぽつり、ぽつりと言葉が溢れていく。心の奥底から湧き上がる痛みと葛藤が、言葉となって彼の口から零れ落ちた。
「主が、なぜこの世界を捨てたのか。塔の先にある世界で、何が起きたのか」
何故かはわからない。
ただ、体をめぐる血が、魂が。見知らぬ光景に焦がれて仕方がなかったのだ。刷り込まれた本能が林琳に告げていた。
それを知るためには、どうしても、たった一つの方法しかなかった。
「最期の扉を開くには——忌まわしい怪奇と、呪い、そして……いびつな魂。それだけが鍵だった」
林琳は目を閉じ、再び深く額を地に伏せた。朦朧とした意識の中で、彼は心の中の罪と向き合っていた。
「……ごめんなさい」
育ててもらった恩を裏切り、信頼を無言で切り捨てた。誰にも語らず、誰にも打ち明けず、約束を破り、人を殺めた——それも、師が何よりも忌み嫌った、あの手段で。林琳の肩が小さく震えていた。それが後悔なのか、絶望なのか、彼自身にもわからなかった。
獅宇は、その姿を前に一言も発しなかった。だが、その眼差しには、過去と痛み、赦されざる記憶が、確かに揺れ動いている。静かな空間を包むように漂う重苦しい雰囲気の中、二人は互いの存在を通して、深い共鳴を感じていた。
——「二度と私欲で人を殺めてはなりません」
——「心に宿る獣を律しなさい」
——「これからは、仕人として人を救い、世を守るのです」
耳元で響く懐かしくも厳しい声。それはもはや過去のものだが、林琳の胸に深く根を張った教えだった。かつて聴いたこれらの言葉は、今もなお彼の心の中で生き続けている。しかし、それらの言葉を裏切ったのは他でもない、林琳自身だった。
どんなに悔やんでも、手遅れだ。その事実からは、決して逃れることができない。だからこそ、彼は自分自身に言い聞かせた。
「きっと俺は贅沢をしすぎたんです」
気付かぬ内に欲張りになってしまった。
だから、もう何も持たないと、そう決めたのだ。過去も、未来も、欲も、誇りも。
「手を引かれることに慣れてしまった」
優しさに胡座をかいて甘えては、突き放すことを繰り返す。それは子供の試し行動と似ていたのかもしれない。
「朱禍に言われました。世界が憎いなら、己が変わるべきだと」
変わらない世界を嘆くよりも、変わることのできる己に希望を持つべきだ。そう説かれた。
林琳はその言葉を今は正しいと思っている。
「あの日の選択を後悔はしていませんし、犯した罪を償う覚悟はとっくの昔にできていました」
その覚悟は確かにあった。
脳裏に浮かぶのは揺れる笹の葉と見慣れた世界。
「……はるか昔、罪人は、とある領域で罪を償ったそうです。行き場の無くした魂を送り出し、輪廻の渦へと導けば、もう一度塔の先へ踏み入れる資格を得る、そんな迷信を信じて」
その重く落ちた言葉が、静まり返った空気の流れを変えた。吐き出すように、林琳は語り始めた。
竹林の彼方にある、時間が止まった空間。それは、現世でもなく、冥府でもない——生と死の狭間。命と魂の境目に浮かぶ、淡く脆い"狭間"の領域。
「あそこでは、生者は存在できません」
林琳の声は微かに揺れた。
「仁が現れたとき……一瞬、本気で、あいつが死んだのかと……」
林琳は泥の付いた手で顔を覆った。
その瞬間に襲った恐怖は、何度思い出しても消え去ることはなかった。全身の血が凍りつき、息もできなかった。
——"「ふざけるな!」"
まさか、浅ましい罪人へと身を堕としたのか。
「……震えが、止まりませんでした」
それがどれほど恐ろしいことか、獅宇もきっと理解しているはずだ。だからこそ林琳は、常に仁を拒んだ。
「勿論、すぐに追い返しました。それでも……」
言い淀み、言葉が喉に詰まる。
「……あいつは、何度でも扉を開けた」
そのたびに、林琳は心の奥で焦りと痛みと安心を抱えた。そして——甘えた。仁の変わらぬ眼差しに、微笑みに、支えに。
「わかってました。魂に負荷がかかっていることも……このままでは、輪廻の外に弾かれることも。再生の機会さえ奪われ、永遠にさまよう魂になってしまう」
なのにもかかわらず、仁は、ただ微笑み続け、彼の隣に居続けた。
「俺は……あいつには真っ当な人生を送ってほしい」
ぼんやりと、言葉が零れ出た。それは胸の奥から染み出すように、ゆっくりとした感覚だった。
「誰かを愛して、伴侶を得て、子どもを育てて……静かに老いて、眠るように死ぬ。それが……今まで俺に振り回されたあいつが、これから生きるべき道だと、信じています」
林琳の目には、遠く離れた理想郷のような光景が浮かんでいた。その中には、自分の姿はなかった。しかし、それでいい。それが、いい。
「……救われたのは、俺の方だ」
仁がいなければ、きっととっくに心は死んでいた。怪奇を祓うことさえも、剣を握る意味も、前へ進む理由も失っていた。
世界に屈していたに違いない。
だからこそ——。
「同じ轍は踏ませない」
それは自分が背を向けた未来。選べなかった道。しかし仁には、そこを歩いてほしい。
「俺が選ばなかった道を、仁には……選んでほしい。先生、それが、間違いでしょうか。それは、悪なのでしょうか」
その問いはまるで懺悔のようで、獅宇は唇をキツく噛み締めた。
願いと願いが、優しさと優しさが、互いに相手を遠ざける。大切に思うからこそ、近づけない。
「もし……この世に"善"と"悪"があるのなら……」
林琳はふっと、苦笑を浮かべた。
「仁の願いは"悪"で、俺の願いが"善"でしょう」
消え入る言葉が落ちた刹那、生暖かい何かが頬を伝った。それは涙だった。雨ではなく、自分のものだと気づくのに時間がかかった。
「……仁は」
低く、しかし確かな声が落ちた。獅宇の言葉は、まるで重い石が静寂を破るような響きを持っていた。
「お前の背中を追いかけて来た」
林琳は驚いて獅宇を見た。彼の唇が、わずかに震えているのを見逃さなかった。
「……あの子にとって、お前がそばにいること。それが生きる意味だったから」
記憶の始まりに焦がれていた。
「だから、愚かにも……自ら命を絶とうとしました」
ふと、不意に発せられたそれはまるで耳を強く撫でる風のように、林琳の心に衝撃を与えた。自暴自棄の挙句に己の心脈を爆発させたと獅宇は林琳へと隠された過去を明かす。
「捉え方を変えれば仁も罪人です」
動揺の波が彼の胸を襲う。
「その時に一度魂が砕け、死んだのでしょう」
獅宇の言葉は冷静に響くが、その裏には深い悲しみと同情が隠れているようだった。
しかし、一度魂が砕けたにもかかわらず、仁はどうして現世へと戻ってきたのか。
何か特別な力が働いたに違いない。
そして獅宇はそれを縁と呼んだ。
「切っても切れぬ縁。それがお前たちなのかもしれません」
獅宇は、林琳の動揺を見つめながら、仁もまた何も語らなかったことを悟る。お互いに通じ合う言葉がありながら、なぜこうもすれ違い続けるのだろう。それは、正直に生きるには二人とも不器用すぎたからなのか。
「それでも……」
獅宇の表情に、どこか苦しむような影が浮かんだ。
「お前は、あの子の手を放すと言うのですね」
静かな問いに対し——林琳は、言葉にならない感情が胸を締め付けるのを感じる。
彼は、ひどく不器用に微笑むしかなかった。
その微笑みは、痛みを隠すためのものだったのか、それとも、他に選択肢がないことへの絶望だったのか。彼の心の中では、仁の存在が大きな支えである一方で、その未来を手放さなければならないという苦しみが常に並んでいた。
「……いくら縁が結ばれようとも、俺たちが共に生きることはできません。それに、俺が罪人だということは変えられない真実ですから」
互いの魂が、互いを拒む限り、交わることはない。
そして彼は罪を償う必要がある。
いくら逃げようとも罪は彼を紐解はしない。
「でも今は、塔の先に何があるかなんて」
彼はそう言って酷く残酷に笑った。
「もう、どうでもいい」
そんなくだらないことよりも大切なものを、価値あるものを見つけた。
「いつか、あいつも全てを知る時が来ます」
林琳が犯した罪も、幼い過去も、生き様も——いずれ目の当たりにする。
「せめてそれまでは……」
その瞬間、獅宇は愚かで愛おしい弟子がどれだけ師弟を想い、どれだけ守りたいと思っているのかを痛感した。いっそ、哀れだと思うほどに。
そして、師と弟子の間に生まれた溝は二度と埋まらず、続いていくことも理解した。獅宇に護るべき正義があるのと同じで、林琳にも護りたい正義がある。
決して認めたくはないが、林琳が選ぼうとする道を阻むことはできないのだと獅宇は思い知らされた。
「これからは、自分の身は自分で護りなさい」
林琳は、師の言葉に深く頷いた。
心の中の葛藤を抱えながらも、前に進むしかない。
空白を埋めるのは過去だけじゃない。
これからの未来だ。
——"「師兄!」"
林琳は何をすべきかを、決めた。
◇
「なぁ、知ってるか? 山雫国の話」
場末の酒場に、唐突に投げられた言葉が空気を裂いた。
「……あれだろ、長く不在にしてた片燕の一番弟子が戻ってきたってやつか?」
低く答えたのは、焼けた顔の男。手元の賽子を指で転がしながら、軽く鼻で笑う。
「それもそうだけど、もっとやばいのがあってな……」
語尾をわざと引き、男はちらりと周囲の目を伺う。焚き火の灯が酒樽の影を揺らし、ざわめく声の中に緊張が混じった。
「やばいって何が? 片燕は元々変わり者の集まりじゃないか!」
「だーかーら、話を聞けって!」
「聞いてるって! お前がもったいぶるからだ!」
台代わりの木箱を囲んだ男たちのやりとりに、カラン、と賽子の音が鳴る。だが次の瞬間、八本の手がぴたりと止まった。
右手に賽子、左手に酒壺を抱えたまま、皆の視線が一斉に口を開こうとする男に向けられる。風の抜ける音だけが一瞬、静かに響いた。
「いいか、実はな……」
男は声を潜め、ぐいと身を乗り出す。相手も同様に顔を近づけ、息を呑んだ。
「その一番弟子が——女帝から国命を賜ったそうだ!」
「なんだって!?」
「国命……!?」
叫び声が、酒場の薄暗がりに響いた。
一瞬、場が凍りつく。誰かが持っていた盃がわずかに揺れ、ぽたりと酒が落ちる。
国命——それは、臣下や軍将ですら簡単に受けられるものではない。ましてや、仕人などという中立の立場の者に、国が直接命を下すなど、前代未聞の出来事だ。
「国からの命令を……なんで、仕人が?」
誰かがぽつりと呟いた。場の空気が一転し、笑いの混じっていた雰囲気が薄れていく。
それぞれが視線を合わせるでもなく、目を伏せたまま、思案に耽る。
その一言に含まれた異様な気配に、誰もが同時に気づいていた。
——これは、ただ事ではない。
謎が謎を呼ぶ。酒よりも賽子よりも、その話の続きを欲するように、男たちは静かに首を傾げていった。
「よぉ」
重くもなく、しかし柔らかすぎもしない、抑制の効いた声が空気を切り裂いた。
久方ぶりに顔を合わせたその男を、林琳はしばし無言で見つめた。
そして、ぽつりとこぼれるように言葉が落ちる。
「お前……そんな顔だったの」
それは、再会の第一声としてはあまりに素っ気ない、けれどどこか彼らしい言葉だった。
無精髭もない。かつて身体を覆っていた無数の包帯も、今や影も形もなかった。
代わりに、表情に宿るのは治まった静けさ。整えられた身なりと姿勢は、あの頃とは確かに違っていた。
「一言目がそれか?」
男——京は眉ひとつ動かさずに笑い、やがて肩をすくめる。
この日のために林琳は、かつてのように寄り道することもなく、観光地としても賑わいを見せるはずだった幸楽美国の街並みに目もくれず、真っ直ぐにこの屋敷の扉を叩いた。
再会に浸る暇もなく、本題へと踏み込む。
「まぁいい。……よく来たな」
「早速だけど、本題に入ってもいい?」
「勿論」
国命を帯びた林琳は、山雫国の名のもとに各地を巡った。と言っても、あくまで協力関係として、手を組んでいるだけで双方に情はない。
女帝は林琳の能力を買い、林琳は山雫国の名を借りた。勿論一悶着あったが——簡単な取引をしている。
そうやって変死体が続出していた国々を訪れ、国命を受けた身として調査に乗り出た。
変死体を巡る一連の騒動に対し、多くの国や宗派は表立った介入を避けてきた。明らかに異常な死であるにもかかわらず、その背後にある"何か"を察したかのように、誰もが静観の構えを取っていた。
そうすることで立場を守っていたのだろう。
その中で、正面から動いたのが片燕であるという事実は、あまりにも異質だった。
数多くの国が距離を置く中、堂々と調査に乗り出した片燕は、言い換えれば"余計な波風を立てた存在"にも見えた。
だが、彼には引く理由も、引く術もない。
「お陰様で夢天理とも一触即発で、嫌な緊張感に女帝が爆発しそうだ」
「ははは! 万が一そうなったら俺はお前の肩を持つから安心しろ」
どこに安心できる材料があるのか。
林琳はその細い腰に手を当て鼻で笑い飛ばした。
「笑うなよ。……で、収穫はあったのか?」
「まぁね。だからわざわざここまで来たんだよ」
各地を巡る中で判明した共通項は、ひとつ。
すべての変死体に刻まれていた、奇怪な文字列——それは、傀儡に記されていたものと同一だった。
異常な死と、異形の文様。その真実を追って、ついに彼はここ、幸楽美国に辿り着いたのだった。
「白琵に話を聞きたい」
林琳の言葉に、京はしばらく考える素振りを見せ、そして静かに言う。
「……口を開くかわからないぞ。静鳥にも口を割らなかった」
「それでもいい。反応が見たいから」
その一言に、京はただ一度だけ、深く頷いた。
そして、背後に控えていた年老いた宦官へ目配せし、低い声で何事かを指示する。
「同席しても?」
京の問いに、林琳もまた首を縦に振る。
二人は監獄へと向かうことになる。そこは屋敷よりさらに北、鬱蒼とした森林の奥にひっそりと存在していた。
京が一歩踏み出すたびに、道は自然と開けていく。それはまるで、彼自身がこの国を治める「王」であることの証のように見えた。
その背中を追いながら、林琳はふと問いかける。
「いつの間にか偉くなったみたいだね?」
問いというよりは、どこか皮肉めいた感想だった。
だが京は、ほんの僅かに眉を寄せて言う。
「……その言い方はやめろ。それにそれはお前も同じだろ」
その声には、わずかに昔を思わせる疲労の色が混じっていた。
約半月前——。
山雫国から一通の文が幸楽美国へと届いた。
それは、この国と一度も交わりを持ったことのない国からのものだった。
宦官たちは皆、眉を顰めた。噂に聞く山雫国の女帝。その強烈な気質と、冷酷な統治の話が耳に入っていない者などいなかった。
その国から文が来た——それだけで、場に冷たい緊張が走る。
誰もが文を手に取ることをためらい、固唾を呑む中、その封を切ったのは他でもない京だった。
彼のその行動に、宦官のひとりが息を呑み、思わず背筋を凍らせた。
*
貴国の御繁栄と貴殿の御健勝を心よりお祈り申し上げます。
このたびは唐突なる書状、失礼の段、平にご容赦賜りたく存じます。
我が国におきまして、宗派片燕の一番弟子が、今まさに志を掲げんとする折、貴殿のご加護とご助力を賜りたく、筆を執らせていただきました。
夕焼けの如く紅き魂をその身に宿した者に、どうかお慈悲と導きをお与えくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
*
「破門されたんじゃなかったのか?」
道中、気安い声で京が切り出す。彼の視線は前を見据えたままだったが、その言葉の裏には皮肉も詮索もなかった。
「一番弟子に変わりはない、だってさ。俺もいちいち立場を説明するのが面倒だし、破門されていることは公にはなっていなかったから。都合よく使わせてもらってる」
林琳は肩をすくめながら答える。半ば自嘲を含んだその口ぶりに、彼自身の複雑な立場が滲む。
そもそも、それ以外に彼を語る名がろくなものが残っていないことにも薄々勘づいている。
「それもそうか」
京は気にも留めていないように、軽く笑って林琳の肩に腕を回す。かつてはありえなかった距離感だった。
「ちょっと、やめてよ」
「丸くなったなぁ」
「はぁ?太ったって言いたいの?」
「違う違う。雰囲気だよ。前はもっと……こう、威嚇してる猫みたいだった」
ぴんと張り詰めた緊張の糸に包まれていた頃の林琳。誰かが不用意に近づけば、その糸が躊躇なく首を締めるような、そんな尖った空気を持っていた。
だが、今の彼には柔らかい余白があった。表情にせよ、歩き方にせよ、かつての壁が、少しだけ解けている。
「今の方がずっといい」
京の声はどこか、過去を懐かしむようで、同時に安心しているようでもあった。
親しい友人がするように肩を組まれた林琳は、うんざりしたように顔をしかめながらも、振り払うことはなかった。
「そういえば、仁はどうした?」
曲がり角に差し掛かったところで、ふと京が尋ねる。
あれほどいつも一緒にいた仁の姿がないことに、今さら気づいたのだった。
「あいつも国命を受けた」
「一緒じゃないのか」
「さぁ? 俺は国命の内容を知らされてないからね」
林琳が国命を賜った日、仁もまた何かを託された。それを知ったのは、出国の直前だった。確かに彼は、不服そうな顔をしていたが、不思議と逆らわなかった。むしろ、妙に素直だったのが怖いぐらいだ
それが今となっては、引っかかって仕方がないのだが、朱禍と獅宇に怪しい動きはなく、そのままにしている。
山雫国の命を受け、林琳が動く理由はただ一つ。
各国で発見された変死体。その全てに共通していたのは、"傀儡"に刻まれていた呪符と同じ文字だった。
それを操る術者の存在。林琳の目的は、その術者を見つけ出し、捕らえることにあった。
その手掛かりとして、彼の記憶に真っ先に浮かんだのは、かつて幸楽美国で破壊した、あの開かれぬ書に記されていた宗派——琉雅だ。何の因縁か、その宗派は湖城国で生まれたらしい。
耳にしたことがなかったのは、林琳が生まれるよりも昔に宗派だけでなく国ごと滅びていたからだ。
どうやら情報源でもある朱禍が一枚絡んでいるようだが、渋い顔をして多くは教えてもらえなかった。
「ここだ」
京の言葉と共に足を止めた先には、厳重な監獄の入り口。北の森に隠されるように建つその場所は、ひと目でただの牢ではないと分かる。
鉄でできた巨大な扉。その全体に貼り付けられた呪符が、微かに光を帯びて脈打っている。中から漏れる気配は、ただの人間が住まう場ではなかった。
「……珍しいですね。お客様でしょうか」
中から響いたのは、掠れながらも妙に艶やかな男の声。言葉の端には、品と毒が同居していた。
「聞きたいことがある」
林琳は扉越しに声を掛ける。
「死者の魂をこの世に縛り、永遠の命を得ようとする——そんな馬鹿げたことを目論む者が、お前以外にもいた」
それは、傀儡にかけられた術式を解き明かし、復元した結果、辿り着いた事実だった。
「呪いをどこで学んだ?」
指南書は葬り去られ、身を滅ぼす禁術として仕人は距離を置く。独学で学ぶなど、この時代では不可能だった。
運良く学ぶ機会があったとしても、実際に形を成すまでにどれだけの月日を要すのか、林琳はよく知っている。
「あれを、あなたは呪いと呼びますか」
一拍の間の後、白琵がゆっくりと語り出す。
「最も凶暴な動物は何だと思いますか?」
問いの唐突さに、一瞬空気が止まる。
「そんなの人間でしょ」
林琳は即答した。
「あははは! えぇ、えぇ……その通り……でも、もう一つ忘れてはならない生き物がいます」
白琵の声が、次第に低くなる。
「鼠ですよ」
艶やかだった声音が、冷たい響きを帯びていく。
「鼠はね、繁殖能力に長けているんですよ。それに、雑食で、人の血肉以外になんでも食べる」
静かに、滑るように言葉が続く。
人の目の届かないところで群れをなし、糞を撒き散らし、時に生態系すら破壊する。
「例えば、人間が意図的に繁殖させた鼠がいたとする。勿論、ただの鼠とは訳が違う。獰猛で、制御不能、おまけに毒を飲み込んだ鼠です」
その例えが何を意味しているか、林琳ははっと気づく。そして、隣を見る。京もまた、唖然とした目で彼を見ていた。
「さて、この場合……鼠を放った人間と、放たれた人間。食い殺されるのは、どちらだろう?」
白琵の声は、今や静かに冷たい刃となって扉の隙間から漏れ出す。
「答えは簡単だ」
鼠は至る場所に——潜んでいる。
◇
「口を割ったみたいですよ」
まるで、灰皿の中に音もなく落ちる灰のように言葉は静かに投げられた。
「……殺せ」
返答は冷たく短い。
部屋の空気は、濃い煙草の煙に包まれていた。窓は閉ざされ、壁際の燭台がぼんやりとした光を放つのみ。その揺らぐ灯りの中、影が重なっていた。
一方が立ち、一方が座る。力関係は明白で、窓辺に寄りかかっていた男が腕を組んだまま小さく笑った。
「片燕の問題児です。ほら、妖先生も噂くらいは耳にしてるでしょう?」
気怠げな口調に反して、その目は鋭い。
そう応じられた男——"妖"と呼ばれた存在は、無言のまま煙管を口から離すと、灰皿の縁にそっと叩いた。灰が崩れ、静かに散る。
それでも返事はなかったが、しばらく間を置いてからひとつ呟くように言った。
「……怪傀神書の所有者か」
「そう言われています。ただし、真偽は定かではありません」
軽い言葉には裏打ちされる情報がある。だが、どこか情報とは一線を引くような距離感も滲んでいた。
妖は再び煙を吸い込む。吸い込まれた煙が、肺の奥を通り、喉の奥で熱を帯びる。
そして静かに、問いが漏れた。
「なぜ、あの男は……あの書を持ちながら、正気を保っている」
その声は囁きだった。だが確かに、室内に重く響いた。
怪傀神書。それは呪われた禁書。
それに触れた者は例外なく、狂気に陥るか、意味を為さぬ死を迎える。かつて正気を保ったまま持ち続けた者がわずかにいたが、いずれも謎の失踪を遂げ、今や消息はつかめない。
「……条件があるのかもしれませんね。書に"選ばれる"ための、何かが」
窓辺の男は煙に目を細めながら言った。
妖は返答せず、再び煙管をくゆらせる。
揺れる煙は、まるでこの空間そのもののように、重たく、形を変え続けていた。
「奪ってきましょうか?」
その提案は、軽口のようでいて、どこか殺意の熱を含んでいた。
だが、妖は頭を横に振った。
「……今はまだ、その時ではない」
「喉から手が出るほど欲しているのに?」
「今の所有者は、あの男だ。力ずくで奪えば、何が起こるか——」
言葉の先で煙がすっと尾を引き、空間の端まで漂っていく。
「否、あちら側も俺を殺す気で来ている」
それは呪詛の逆流であり、報復だ。必ず仕掛けた者が破滅する。
「嗚呼、なんと小賢しい」
妖の声に揺らぎはない。ただ静かに、冷たく語るのみだった。
「では、変死体の件は?」
「あれは我らとは関係がない。放っておけ」
そして、少し間を置いてから、静かに続けた。
「ただし、こちらに飛び火するようなら……組織ごと、潰せ」
その言葉には、一片の情もなかった。
「……かなりの被害が出ますよ」
「構わん。鼠同士の争いなど、今さら興味はない」
妖が右手をひらりと振る。まるで舞うように。
その瞬間、室内の"何か"の気配がふっと消えた。あまりに自然に、あまりに静かに。
空気が一度、深く沈黙する。
そして、ぽつりと語られる。
「なあ、主よ——」
妖は宙を見上げ、まるで誰かに語りかけるように呟く。
「俺とお前、どちらが"上"か……じきにわかるだろう」
静かな宣戦布告。
煙が、闇に溶けた。
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