「あ、暑い……」
やや身長差のある男が二人、じりじりと頭皮を焼かれながら獣道を歩いている。
「嗚呼……うるさい、黙れ、喋るな」
木々の葉がなんとか真上の太陽光を遮ってはいるが、気温と湿度の上昇を止めるには至らない。二人は額に滲む汗を何度も拭いながら、足を進めていた。
仁は茹だる暑さの中で「山雫国が恋しい」と呟き、片燕の本拠地を思い出す。片燕の本拠地、山雫国は一年を通じて過ごしやすい気温が保たれており、大地を裂くように流れる渓谷を中心に、豊かな自然が広がっている。また、山の麓に位置する本拠地では、至るところに冷たい清水が流れ、夏の暑さも快適に乗り切れる環境だ。片燕の者たちは、そんな環境に慣れているため、全体的に暑さに弱い。
「遠回りするからだぞ」
仁が恨めしそうに振り返り、竹を杖代わりにしている林琳を見た。言っても無駄だとわかっているが、暑さのせいで口からつい文句が漏れる。そもそも真っ直ぐ山雫国に向かえばよかったのだ。だが林琳は、無言のまま恨めしそうに舌打ちをした。
「おーい、そっちはどうだい? 渡れそうか?」
獣道に沿って人の手が入っている山道から、御者が声をかける。
「真っ直ぐ進め! 先に棚田が見える!」
幸楽美国を旅立って七日。松季国に辿り着く予定だったが、最短の経路で使われる橋が最近の水害で崩落してしまった。幸い、二人が利用した商人は松季国へ寄る便で、急いではいないらしい。荷物も大した物は積んでおらず、さらに遠回りをして向かうことにした。
荷台を引く馬では獣道は通れない。身軽な二人が獣道を進み、先の経路を御者に伝えるしかなかった。
最初は林琳も荷台で寝転んで知らぬ顔をしていたが、急な坂道では細身の男でさえ馬の負担になると御者に叱られた。馬も経験のない山道を歩かされており、相当な負担であった。疲労から機嫌も悪く、立ち上がって暴れたが、荷台から転げ落ちた仁がうまく宥めたため、怪我は免れた。
「まぁ、機嫌が悪いのは馬だけではないけど……」
死林琳は完全にぐったりしており、目は死んだ魚のようになっている。いつもの冷静な表情は消え失せ、早くこの暑さから逃れたいと心の底から思っているようだ。
「助かった、坂も緩やかだ。乗っても構わんぞ」
行く道も把握し、徐々に緩やかな坂へと戻りつつある。衣が汗を吸い、肌にべったり付いて不愉快だ。林琳はぺたりと額に張り付く前髪を払う。随分と前に短く後髪を断髪したが、前髪は手付かずだ。変に癖のある前髪をそこら辺の鉈で切り落とした事が以前あったが、想像以上に酷い有様だった。特に仁の怒りに触れたらしく、顔を合わせる度に文句を言われ、面倒な事になったのだ。
町にでも入れば鋏は手に入るだろう。その際には仁に切ってもらえばいい、適当に前髪を撫でて、獣道を抜け出した林琳は荷台へと腰を下ろした。
「はぁー、疲れたぁ」
どかり、脱力した仁が座って荷台が沈む。藁に背を預ければ、一層不快感が増すに違いない。二人は無言で荷台の隅に寄り、手で日差しを遮る影を作る。幸楽美国で傘を買わなかったのは失敗だった。仁の外套は几帳面に畳まれていて、林琳の枕と化している。荷台が跳ねても外套が振動を吸収し、痛みはない。快適だ。
松季国への目処が立った御者は一安心したのか、荷台でだらける二人を見て大袈裟に笑い、軽快に馬を操った。
「若いのに情けねぇのぉ。水害さえなければ水も綺麗で、汗が流せるんだがねぇ。ここら一帯は濁流の濁りがあって無理だなぁ」
崩落した橋は濁流に飲み込まれ、木の破片があちこちに打ち上げられている。
「運が良いねぇ。今日みたいに晴天なのも久しぶりだよ。先月はずぅーっと雨だったからなぁ。地面が固まってるってのは安心するねぇ」
間延びする話し方は独特の発音だ。松季国の訛りだろうか。仁は稀に吹く風に目を瞑って、どことなく思う。
「昨今から続く雨がなぁ……。半年前も沢山雨が降ったけどよ、今回のは一段と凄い」
「松季国は大丈夫か?」
「心配ないさぁ。あの国は水害が多いからね、対策もしっかりしているよ。ま、その反面で入るのが大変だけどねぇ。少し手前に村があるから休んでいこう。棚田が見えただろう? 何度か世話になってね、顔見知りなのさぁ」
御者の話す村は民宿が一つと米農家が集まる小さな村落だった。
村に足を踏み入れた途端、林琳は奇妙な違和感を覚えた。
「……なんだ?」
味わったことのない違和感に林琳は周囲を見渡す。
決して大きくはなく、想像以上にひっそりとしている村だった。
意図的に道を選ばなければ辿り着かない辺鄙な場所だ。幸楽美国から自らの足で村を目指すのは不可能に等しい。森は見渡す限り同じ光景が広がっていて、どこを歩いているのか定かではない。
「この村も静かになっちまってなぁ」
馬の手綱を柱へと括り付け、御者は困った様子で話す。
燈村で作られた米は松季国へと卸される。今年は水害で思う様に収益が出ず、節約の日々を送る村人達は活気を失ってしまった。米は病にやられ、収穫できたのはごく僅か。卸した米も質が悪く、売れずに戻って来ている。米に関しては皆で食べればいいものの、収益がなければ娯楽にも手を出せない。
不憫だと思いつつも、村に入るとやけに視線を感じる。それも強烈な視線だ。
「お天道様達だ!」
突然、甲高い声が飛び出した。
「な、何だって?」
「お天道様!」
厄介なことになる前に林琳は荷台の裏に身を隠した。理解の範疇を超えている。
藁の隙間から仁と御者を観察していると、物陰から飛び出してきた幼い子供たちに囲まれてしまった。子供たちは口を揃えて「お天道様、お天道様!」と騒ぎ立てる。仁は怪我をさせないように飛びつく子供を抱き留めたが、子供の体温が低く、彼は少し驚いた。
「へへへ! お天道様、お日様の匂いがする!」
「止めとけって……」
獣道を歩いた体は汗臭いだろう。仁が幼い男児を離すが、気にしていないらしく、ころころと笑う。賑やかな声に御者も頬を緩ませた。
一方で荷台の裏では林琳がその様子を見て顔を顰めている。
あぁ、良かった。もしあの場にいたら、人の熱気で茹蛸になっていただろう。ただでさえ気温が高いのに、勘弁してくれ。見ているだけで余計に暑苦しい。
早く村人たちが落ち着きを取り戻さないものか。荷台に隠れてはいるが、日陰にはなっておらず、暑いことには変わりない。日陰に移動しようにも、林琳の周りに身を隠せるほど大きな物は見当たらない。
額に流れる汗を適当に拭っていると、「お兄ちゃんは何してるの?」という鈴の音のような声が聞こえた。高めの声色は耳障りどころか、むしろ涼しさを与えてくれるようだった。
「お兄ちゃん?」
童に凝視されている。向こうの状況に気を取られていて、気付かなかった。目と鼻の先には、雀斑一つない肌と、うさぎのような二つの目。肩上に切り揃えられた髪は、童が首を傾げると柔らかく揺れる。
「お兄ちゃんもお天道様?」
間違いなく村の子供だろう。仁を囲む童より年齢は高く、どこか落ち着いている。
「そのお天道様ってのは何なんだ?」
質問には答えず、童は右に首を傾げる。さらりと髪が揺れた。
「お天道様はお天道様だよ」
駄目だ、一向に話が通じない。全ての質問に対して的外れの回答が返ってくるし、話を聞かずにしゃべりかけてくる。歳は十、名は素巳、好きな色は橙色で、農家の一人娘。村では一番年上の童。
「行こう」
「ちょ、おい、待て、触るな!」
幸楽美国で負った火傷の手を引かれ、鈍い痛みが走った。
「いっ……」
痛みに眉を顰めるが、意識が仁たちへと向けられている素巳は、荷台に隠れる林琳をぐいぐいと引っ張り出した。振り払おうにも痛みを伴うので、林琳は抗えず、賑やかな輪に加わることとなってしまった。ぎゅっと握られた手は離れず、まるで年の離れた兄妹のようだ。仁と御者は、女児と手を繋いでいる林琳を見て、やれやれと首を振った。どうやら荷台に身を潜めて逃げたのを見ていたらしい。
「素巳誰だそいつ」
「……お天道様」
「おい、そろそろ離せってば」
世話になる燈村は松季国から近いこともあり、元々雨がよく降る地帯だ。村では山神を祀り、山を豊かに育てる太陽をもたらす者を歓迎した。子供が口にする「お天道様」の由来は、太陽の使者という堅苦しい言葉を親しみやすくした名残らしい。農業を営む村落では、山神を祀るのは珍しくない。
御者は子供たちと顔見知りで、頭を撫でたり、抱き上げたりして楽しんでいた。一年見ないうちに大きくなった子供たちを見て、時の流れを実感しているのだろう。数回訪れたが、御者がお天道様になったのは初めてらしく、村人たちも照れくさそうに笑った。
素巳の名を呼んだ男児は、繋がれた手の先にいる林琳を見て目を丸くする。素巳は男児を珠樹と呼ぶと、林琳の後ろへと隠れてしまった。自ずと下がる目線は繋がれた手。白く巻かれた包帯にようやく気付いたのか、息を呑むと握る先を漆黒の衣へと変えた。
むっと口元を下げた珠樹も同じく仁の後ろへと身を隠すと、顔だけ覗かせて林琳をきつく睨んだ。仁の衣に描かれた燕が形を崩しているのを御者は苦笑いで見ている。
「これ、お客さんでしょう。奥へとご案内しなさい」
「母上!」
「すみません、子供達が……」
「いえいえ。元気があるのは良い事ですから」
珠樹の母親が群れている子供たちを叱り、頭を下げる。子供二人に挟まれた林琳と仁はようやく解放されたと思ったが、二人の子供はくっついたままだ。外から来る人間が余程珍しいのだろう。大人たちも視線が泳いで、目が合うと逸らされる。
「村に寄るのは約一年ぶりですね。橋の崩落がありましたから、こちらの道を通られたのでしょう? 松季国へお戻りに?」
「そうですよ。今日は荷台には藁と旅人だけでねぇ」
荷台を覗く子供たちに土産になる物は何も持っていないと身振り手振りで伝える。珠樹の母親はくすくすと控えめに微笑むと、残っている子供二人に「早く案内しなさい」と眉を吊り上げて言い放つ。母の怒りが雷になるのを察して、珠樹は仁の衣から手を離し、手招きを始めた。
「村長は?」
「松季国へ。水害の件で会合に出席するらしい」
「そうかい。向こうについたら顔を出しておくよ」
「ありがとうございます」
村の長が不在であれば、畏まった挨拶も不要だ。やっと汗も流せるし、屋根のある場所で眠れる。暑さからの解放ももう少しだ。道中の疲労が一気に押し寄せ、林琳は招かれる方へと歩みを進めようとしたが、予想外の力に阻まれる。衣をきつく掴んでいる素巳だ。仁も御者も先を歩いていて、素巳と林琳を気に留めていない。
素巳の細い腕は触れるだけで壊れそうで、無理矢理振り払えば骨でも折れてしまいそうだ。
「……あのね、お天道様。明後日も晴天にしてくれる?」
子供らしく、大福に似たふくよかな頬がじんわりと染まった。頭に血が上るような地獄の暑さを望むのか。子供より大人の方が暑さには弱い。冗談じゃないぞと林琳は肩を落とした。
「珠樹の誕生日。星空を一緒に見るって約束したの」
待ちに待った一年越しの生誕日は、美しい星空を二人で見たいのだ。珠樹と素巳は互いに幼いながらも好意を抱いている。
だが、林琳はお天道様ではない。勝手にお願いされても困るのだ。いい加減に離してくれ。どんどん先を歩く二人が立ち止まったままの林琳をぽかんとして見ている。二人の目には、本格的に歳の離れた兄妹に映っている。仁に至っては、犬歯を覗かせて腹を抱えて笑っているではないか。
素巳に悪いと思いつつも、柔らかい手を強引に離させてもらう。林琳にしてはできるだけ優しくしたつもりだ。行き場を失った素巳の手は宙を掴む。「晴れるといいな」
林琳から渡せる言葉はそれだけだ。明日の朝には村を発ち、松季国へと入国する。仕人の肩書きがあれど、天候の変動など操れるはずもなく、変に期待をさせるのも馬鹿らしい。
素巳は林琳が踵を返したのを、祈るように両手を握って見送る。彼女にとっては一年に一度の大事な日なのだ。
◆
「ははは、それは災難でしたね」
橋が崩落し、茹だる暑さの中を数日かけて川を渡ってきた一行に、珠樹の母親は沐浴や夕餉を振る舞い、労をねぎらった。汗と汚れを流した彼らは着替えを済ませ各々寛いで休んでいる。
林琳と仁は、軒下から刈り取られた田圃を眺めながら涼んでいた。背後の広間では子供たちが木の棒を振り回して騒ぎ、剣士の真似事をして遊ぶ姿は、幸楽美国では見られなかった光景だ。
「あー……、涼しいー」
太陽を遮るだけで随分と体感温度が変わる。衣が汗で濡れて鬱陶しかった体もさっぱりとして、開け放たれた戸から入り込む風が最高だ。
あの場所では、時間が止まっているように感じた。歳を取ることもなく、成長も止まったまま。領域で過ごしていた間、自分自身の変化にほとんど関心を払わなかった。しかし、現世に戻ってきた今、爪が伸びているのが目に入り、特に親指の爪には亀裂が入っていた。林琳はそれを見て、時の経過を再確認するようにぼんやりと考えた。時間の差は数年ほどだという認識はあるものの、正確な経過は知らない。あの異質な場所に囚われていた間は、怪奇な出来事に心が染まっていたため、今の自分の変化にはほとんど注意を払っていなかった。
「髪をまた伸ばすつもりはないのか」
「この暑さじゃ、とてもじゃないが無理だな」
過去、鉈で滅茶苦茶に切り落とされた林琳の髪を思い出し、眉を下げる。宗主にも怪訝な顔をされた上、偶然来訪していた仕人を驚かせる事態だった。仁がどうにか整えて人前に出る状態にはなったが、二度とするなと厳しく言われている。
「お前の髪も暑苦しい……」
「流石に酷くない? 一応纏めてるけど」
「よくそれだけ伸ばしていられるな。邪魔にならないか」
仁は自分の髪を指で弄びながら、笑いを浮かべる。彼にとって、髪を伸ばすのは日常的なことであり、今さら煩わしさを感じることもないようだった。
「中途半端に伸ばしている方が俺には鬱陶しいんだよ。扱いにくくなれば毛先を少し切るだけでいいし、慣れたら気にならなくなるもんだ」
前髪を弄る林琳を見かねたのか、「いっその事昔みたいに伸ばせば?」と仁は助言する。
「……これでいい」
伸ばすまでが耐えられないと首を振る。特にこの暑さが今後も続くと思うと、微塵も気乗りしないのだ。
「で、松季国に用事でもあったの?」
仁が少し挑発的な口調で尋ねた。
林琳は視線を仁からそらし、しばらく考えた後、答えた。
「幸楽美国に夢天理の息がかかったのは知っているな?」
「白琵と……京の裁判に立ち会うってのは聞いてるけど。結果によっては夢天理の監視下に置かれるみたいだな」
「お前は片燕の仕人だから夢天理の人間と遭遇しても問題はない。いいか、俺は……見つかったら厄介だ。松季国は奴らの管轄外だし、多少大っぴらに行動しても大丈夫だろう」
「……山雫国は?」
仁は警戒しながら尋ねる。本来の目的は山雫国に戻り、片燕の本拠地で宗主と合流し、疑いを晴らすことだった。しかし、林琳はその目的を後回しにし、松季国へ向かう理由を明らかにしなかった。
「五回も師兄のいない年越しを迎えたよ」
湿気を帯びた風が子供達の声を運ぶ傍らで膝を抱えた。
「……お前宗主以外にどう説明して来た?」
「え? 糞野郎達に擦りつけられた疑いを解くとしか……鋭い奴は師兄が戻ってた! って飛び跳ねてたけどな」
林琳の行方は触れてはならない問題のはずだが、破門された事情を知らない弟子たちはこぞって仁や宗主を問い詰め、一部は怪奇を探せば師兄がいると信じて各国を回っている。この宗派にしてこの弟子あり、だ。
林琳は情けなくも口を開いて絶句するしかなかった。もっと邪険に扱われていると思っていた。のびのびと孤独に領域へ引き篭もり、ただ淡々と魂を送り出していたのが恋しい。「夢天理以外にも気を張らないといけないのか……」
去る者は追わずに忘れろ、と幾度となく言い聞かせたのに。破門されたのだ。それも——自ら、願い出て。去った人間の話をしてくれるな。
「戻ってこればいい」
そういう仁も本当はわかっている。
林琳の根元に眠る複雑な感情は、捨て切れない過去と複雑に絡み合い、奥底の心を巣食っているのだと。誰かに理解されることを諦めて、人の世から遠い領域で一生を終えるつもりだったのだ。一歩下がって目を瞑ることにした林琳を半ば無理矢理に連れ出した自覚はある。でも、これっぽっちも後悔はしていないし、後悔するつもりもない。
ちっぽけな命を勝手に拾って、勝手に救って、勝手に愛を教えたのに、身勝手に逃げるのは許せないのだ。
「あぁ、もう……この際だからはっきりするぞ。俺は領域に迷い込む魂に異変を感じて、現世に戻っているだけ。面白そうな怪奇が絡んでいるから、ここにいる。一度も片燕の為に手を貸すとは言っていない。いいか、俺はもう部外者なんだ」
林琳の言葉は、自らの立場を明確にするための強い決意が込められていた。しかし、拗ねた様子の仁は口を尖らせ、何度も「でも、だって」と繰り返す。彼の表情には困惑と不安が交錯し、まるで何かを期待しているかのようだった。
「いや、俺は……」
仁の言葉が続かないのを見て、林琳は肩をすくめ、同時に仁の額を人差し指で弾いた。
「いたっ!」
「あのなぁ、お前には関係ないことだ。師匠との間には誓いがあるんだ。これ以上首を突っ込むなよ。俺を殺す気か?」
その言葉には、深い決意が感じられた。誓いを破ればどうなるか、林琳はふと日の暮れた空を見上げて呟いた。一番星が太陽を見送り、月がその後姿を引き継ぐ。無数の星が瞬き始め、空気がひんやりと冷たくなる。雲は見当たらず、明日も素巳が願った晴天に恵まれるだろう。松季国へも順調に進めそうだ。
「金輪際二度とあの領域に入り込むな」
彼の言葉は、仁に対する強い警告だった。
仁の心に響くその言葉には、重苦しい響きがあった。彼はその警告を聞き流し、林琳が破門された日を思い出す。
昔馴染みの男と仁の二人が片燕を託され、宗主は負った傷を癒すためにひっそりと身を隠していた。大切な家族を同時に失った片燕は、底知れぬ不安に包まれていた。若い者も多く、資金管理や修行、益々増える怪奇の対応に手が回らなかったのは事実だ。この時ばかりは、心底憎らしい昔馴染みの男にも頭が上がらなかった。助けられたのはそれだけではない。どんな手を使ったのかは知らないが、隠居していた宗主を再び立たせたのはあの男だった。
——"「罪からは決して逃げられない。だから……あの子は背負わなければならない」"
「……じゃあ、師兄の犯した罪って何。いい加減に教えてよ」
仁は訴えるように林琳に問いかける。その声には、彼の心に渦巻く疑念と不安がこもっていた。彼は強い決意を持って、真実を求めていた。林琳の表情は冷たく、仁の熱意を拒絶するかのように揺らがない。
「一方通行の誓いは成立しない。つまり、宗主も俺との誓いがある。賢い師弟だ、意味がわかるな?」
その言葉は、彼が背負う重荷を暗示していた。
仁と林琳がまだ素巳の年代だった頃、片燕には現宗主である師匠、林琳、仁の三人しかいなかった。すでに林琳は師匠と旅をしていて、二人の出会いを片燕の者は誰も知らない。
仁の記憶は、師匠が林琳に己の面倒を見るように告げる場面から始まる。それ以前の記憶は持っておらず、紛争に巻き込まれて倒れていたところを拾われたと聞いている。記憶の剥離だ。精神的な損傷か、外傷による損傷かは未だに判明していない。しかし、記憶が飛んでいることに対する不満は感じていない。遠い過去の話だ。仁にとっては無価値に等しい。優れた仕人である師匠が歩む厳しい道を追いかけるのに必死だった。曲者の林琳と共に修行を重ねるうちに、時は早く過ぎ、旅の記憶が空いた器を満たしてくれた。
宗派片燕は——様々な事情を抱えた人間で形成されている。闇を抱えて生きてきた人間が必死に足掻いて辿り着くのだ。癖の強い面子が集まったことに師匠は面白くてたまらないようだが、徐々に増築されていく本拠地には費用がかさむ。逆に夢天理に属する宗派は、各国からの名門出身の人間が過半数を占め、結果として権力のある一群だ。彼らは人を蹴落とす側だ。いくら仕人だとしても善人ばかりではない。群れない宗派が目の敵にされるのは当然で、片燕もそれには慣れている。他の宗派に比べて人数は少ないし、変わり者の集まりだと言われていても、仁にとっては大事な家族だ。
正直言って、片燕と夢天理の相性は最悪である。
「夢天理を徹底的に避けて怪奇を追う。昔みたいには動けないからな……それが嫌なら、お前は片燕に戻れ」
その言葉は、仁の心に鋭く突き刺さった。大きな瞳が歪み、呆気なく触れた手を叩き落される。
「いつにも増して辛辣」
明確な拒絶に仁は拳を握りしめた。短く切られた爪が掌に刺さり、冷静さを取り戻す手助けをしてくれたが、心は追いつかない。一度近付いた距離は、自分の思い込みだったのか。
いつもは「いってらっしゃい」と手を振るだけの宗主が、見送る前に背中を優しく押したのは、こうなることを予測していたからだろう。己の知らぬ時間が存在している。立ち入る資格がない事実は底知れぬ虚しさを与えてくる。強固な誓いは互いを縛る。いくら探しても交わした誓いを知る術はどこにも落ちていないのだ。
そうだ、それに林琳の辛辣で癖の強い性格は今に始まった事じゃない。いつもの冷めた目も慣れっこだ。己も今更——気にする質でもない。
「一緒に行く」
「だったらこれ以上は踏み込むな、いいな?」
「はい」
今度こそ話は終わりだと、林琳は一度手を鳴らした。幼い頃から引き際を間違える仁に林琳が設けた合図。それは喧嘩をした時も同様で、今の時間はすべて水に流すから、触れてくれるな、の合図でもあった。
途端に静寂感が訪れる。こうして見ると、二人は師弟と師兄の関係だとよく伝わる。歳も対して変わらないのに、染み付いた上下関係は抜けないのだ。
「お兄ちゃん……」
凍った空気を醸し出す二人の背後から素巳が話しかける。柱に姿を隠していた。子供は敏感だ。嫌な雰囲気を感じ取っているのか、小刻みに震えている。柱の向こうにある扉からは、警戒心剥き出しで林琳をじっと視線で追う瞳が二つ。
「お布団の用意出来てるよ」
それだけ伝えにきたのだと言うと、素巳もまた斜向かいの自宅へと帰って行く。
二人が泊まる民宿は珠樹の家なのだが……。どうやら、林琳は歓迎されていないらしい。ふむ、真っ直ぐで正直な子だ。しかし、素巳の家で一夜を明かす方が嫌らしく、不安定な空気を纏った林琳と仁は並べられた布団に入るまで一言も話さずに、朝を迎えた。
翌朝、仁が起きると隣には見知った姿がなく、両端の不揃いな布団が畳まれていた。触れてみると温もりはない。片付けてから時間が経過しているようだった。きちんと両端を合わせ、畳み直すと、竜巻のような寝癖をした珠樹が目を擦りながら朝餉の時間だと教えてくれる。珠樹も起きたばかりなのだろう、睡魔と戦っている。
「林琳は?」
「……素巳が仏堂に連れて行った」
顔を顰めた珠樹は機嫌を悪くして、下を向く。
「仏堂?」
「そう。山神様を祀っていて、田植えが始まると豊作を祈ったりする。他にも色々お祈りするんだ」
飛び跳ねた髪を二人して撫で付けながら、朝餉を口に運ぶ。近くの川で獲れた新鮮な魚と、今朝収穫したばかりの瑞々しい根菜。豪華とは言えないが、じめっとした暑さの中では箸が進んだ。御者は食事を先に済ませ、馬に水浴びをさせている様子。馬も嬉しそうに蹄を鳴らす。
清々しいほどの好天に恵まれた中、収穫された大根はシャキシャキと瑞々しく、美味しさが際立っていた。朝の食事を平らげると、徐々に目が覚めてきた。仏道の場所を尋ねると、珠樹が案内してくれるらしい。足を進めながら凝り固まった背中をほぐす。乾いた音が体中から聞こえると、思いのほか野宿で蓄積された凝りが流れていくのを感じた。
「こんなに晴天なのは珍しいんだ」
ありきたりな話をしていると、珠樹の生誕日が明日だと知った。村の言い伝えでは生誕日の夜空に星が瞬くほど、幸運に恵まれるらしい。昨夜見た夜空が明日も広がれば、素晴らしい生誕日になるだろう。大人に近付く嬉しさの感情は誰しもが身に覚えがあるはずだ。
棚田を下っていくと、ひっそりと佇む社が二つ。立派な社とはかけ離れているが、初見でもそれが仏堂として扱われているのがよくわかる。社の周りだけ刈り取られた雑草、色鮮やかに供えられた花、質素ながらも大切に護られてきた様子が雰囲気からも感じ取れた。
二つある社の一つ、薄く開いた扉の奥では素巳が膝をつき、祈りを捧げている。
その後ろにいる林琳は、関心が微塵もない態度で、あろうことか立ったまま眠っている。朝餉を平らげて休んでいたのを強制的に連れて来られたに違いない。林琳が仏堂に興味を持つなんて、天と地がひっくり返るほどあり得ないのだ。
こくん、こくん、と退屈そうにまん丸の頭が揺れるのを微笑ましく思う。普段から尖っている林琳が唯一抗えないのは三大欲求の一つ、睡魔。興味が湧かない事に対しては徹底してこの現象が起こる。それは変わっていないのだと安心した。
表情が和らぐのを隠す真似もしない仁を見た珠樹は「なに、お天道様はあいつが好きなの?」と左右に揺れ続ける朱色の頭を指さす。数年しか世を知らない淀みない瞳が仁を射抜いた。
「すっ……、は、はぁ?」
「違うの?」
吃る仁を見て唖然とする。
「お天道様、あいつを見てる目が怖いよ。……知らなかったの?」
わざとらしく溜息を吐き、薄く空いた扉を思い切り開く。
「素巳!」
「珠樹……?」
静黙した空間で祈りを捧げていた素巳は驚き、振り返る。林琳の横を素早く通り抜けた珠樹は、一目散に素巳の元へと向かう。空気と同等の扱いを受けた林琳は、右肩をぐるりと回し片目だけ器用に開くと、ふわぁと音のする欠伸をして、また目を瞑り船を漕ぐ。仁の「おはよう」の挨拶には短く「……ん」の一言だけ。思考は稼働している様だ。
「お兄ちゃん、ありがとう」
やはり無理矢理連れてきたのだろう。珠樹と手を繋いだ素巳は、頬を染めながら仏堂から出て行った。線香の香りが鼻をかすめ、長寸のものは、僅かな時間で燃え尽きそうだった。林琳は約半刻も仏堂にいたらしい。
「何か気になることでもあったのか?」
「等価交換」
そう言って林琳が見せたのは、淡い黄金色の糸。稲穂の色に近い。
荷台で寝転がるにも限界がある。書物を持たずに時間を潰すのは、なかなか苦痛だった。仏堂に付き合う代わりに、素巳に要求したのは組紐を編むための糸だったらしい。可能であれば紐が欲しかったが、糸があれば紐も作れるし、村の状況からして紐を要求する気にはなれなかった。
「俺にもくれる?」
「大人しくしてたらな」
「やったね!」
素巳の糸では、京に送った組紐のように見栄えの良いものにはならないだろう。所詮、子供が持つ糸だ。価値もない。しかし、林琳が編み上げれば、一級品の御守りに変わるのだ。嬉しさのあまり、小躍りしたくなる。
「おーい、そろそろ出るぞぉ!」
御者が棚田の頂上から手を振る。荷台を馬に引かせる準備は整った。太陽が昇り切る前に旅立った方が良い。昼過ぎには木陰で休み、陽が傾き始めればまた歩みを進める。松季国は近い。急ぐ必要はなく、四六時中歩く必要もない。
「頼み事をしてもいいでしょうか? 半月前に文を預かりまして。次に松季国へ発つ者がいれば、代理でこちらを届けて欲しいと」
小走りでやってきた珠樹の母親は文を仁へと預けた。
「名は?」
「わかりません。ただ、松季国へと入れば受取人は気付くと言付けを」
一見、何の変哲もない封書だ。宛名は書かれておらず、裏面には蝋で封がされている。中身を読んでも良いか尋ねると、戸惑いつつも判断は任せるとのこと。
ますます怪しい封書に思えてくる。
仁は太陽に透かしてみたり、振ってみたり、隙間から目を凝らしてみたが、無駄だった。中を見るには蝋を裂くしかなさそうだ。
「無事文が届けばお代は弾むと」
「よし、任せておけ。大事に届けよう」
伊達に万年金欠を切り抜けてきた男は違う。金目の話が出た途端、すっかり態度が変わった。御者に大判振る舞いした林琳が何も反論してこないので、概ね金欠なのは同じなのかもしれない。金は幾つあっても良いものだ。懐に大事に仕舞うと、仁は見送りに来ている子供たちに愛想良く手を振った。
限られた村人たちで築いた広大な棚田は収穫を終え、薄く張る水が風に揺らぎ波を作り出す。白い羽根に斑点を持つ蝶が群れとなり、飛び去って行く光景は、長閑で美しい。
「またお越しくださいね」
御者台に乗り、手綱を握ると馬はやる気満々だと鳴く。鼻を鳴らす馬の声が聞こえたのか、炊事場も賑やかな笑い声で包まれた。
「お兄ちゃん」
素巳が別れを惜しんで手を振る。その横では、珠樹が露骨に嫌な表情で林琳を見ていた。
一時も珠樹に絡んだ覚えはないのに、なぜこれほどまでに嫌われているのか、仁は不思議に思った。考えられるのは、素巳が異様に懐いている点だろうか。珠樹が彼女に想いを寄せているのは明らかだし、素巳もまた思いを寄せているが、鈍感な珠樹は気づいていないのかもしれない。朝早くから林琳に仏堂に付き添うお願いをしたことも、珠樹には不服だったのだろう。素巳が林琳に贈り物をしたと知れば、それがたかが糸でも癪に障るに違いない。「って、師兄……!」
思ったその時、巾着から糸を取り出して編み始めた。止めろと仕舞わせようとしたが、既に遅い。あぁ、ほら見ろ、珠樹の顔が真っ赤だ。おまけに拳を握りしめている。ふくよかな頬が一段と膨れて、遠目では紙風船と間違えそうだった。
素巳も様子に気づいて、珠樹の手を握る。近頃の子供は大胆だな、と口笛がどこからか聞こえた。
真っ赤な紙風船は限界を迎え、「お前は二度と来るな!」と林琳に木の棒を向けた。何ともぶっ飛んだ言いがかりだ。口笛を吹いたのは林琳ではなく、村人だ。
「この馬鹿息子!」
母の拳を頭で受け止め、痛みを抑えている姿には仁も御者も我慢できずに苦笑いしている。
珠樹の視界にちらつく光。母の拳は重く、一撃必殺の馬鹿力。熊を殴り殺せる威力だ。素巳も可笑しそうに頬を緩ませ、蝶を目で追いながら話すのは照れ隠しだろう。
「あのね、お兄ちゃんとね……珠樹の生誕日が晴れますように、ってお祈りしたの。秘密だったのに、珠樹があまりにも怖い顔するから……馬鹿ね、嫉妬するなんて」
幼くとも女の秘密は、甘い蜜。
思わぬ告白に己の嫉妬が恥ずかしくなって、珠樹は居ても立っても居られず家の中へとすっ飛んでいった。どたばたとした勢いに、風を巻き起こし砂埃か高く舞う。それらが共に収まると先程よりも大きな笑いが村を包んだ。
特に林琳は明らかに小馬鹿にした様子で、鼻で笑っている。とっくに成人しているのに、初対面の年下に対しても容赦はない。故意に糸を取り出して、見せつけたのだ。「そうやって遊ぶのは性格が悪い証拠だぞ」と肘で突けば「餓鬼なのが悪い」と編み続ける。
手慣れた作業で迷いのない手捌きは、あっという間に糸が紐の姿に形を変える。仁は黙々と手を動かす林琳を眺めては、二人で旅をした記憶と比べた。
「及第点だな」
記憶に耽る僅かな時間で細かった糸が幾つも絡み合い、一本の細い紐に生まれ変わった。松季国に辿り着く前に、一つぐらいは御守りとして編み上げるかもしれない。
鞭がしなる音と共に、がこん、と荷台が動き始めた。妙なお遣いが加わったものの、行き先は変わらず、太陽に見守られながらのんびりと松季国へと向かった。
◆
入国するのに苦労する、その言葉の意味が今理解した。
「橋、長すぎ……!」
堀を渡るために架けられた橋は、あまりにも長く、もはや恐ろしいほどだ。石を積み上げて造り出された頑丈な橋ではあるが、その距離は尋常ではない。幸楽美国にあった張家の屋敷を数個並べなければ到底届かないだろう。もしも歩けと言われたなら、きっと答えを渋ってしまう。力強く荷台を引いてくれる馬に心から感謝した。
徐々に空が暗くなり、雲行きが怪しくなってきた。雨の匂いが漂ってくる。
「松季国はねぇ、水龍様を祀っているのさぁ。大干ばつで干上がったこの土地を救ったのが水龍様さぁ。時々暴走して水害を巻き起こすけどねぇ……」
橋が崩落するのを気まぐれで済ましていいのだろうか。
「こりゃ、一雨降るね。急ぐよ」
山の奥で雷が鳴り響く。雷雲が風に乗って運ばれてくる前に、何とか橋を渡り切ろうと手綱をしならせた。蹄と石橋が軽やかに弾む。特に振動が加わる荷台では、淵にしっかり捕まっていなければ振り落とされてしまいそうだった。
「帰りも御贔屓に!」
「帰りって……迎えに来る気か?」
「ご縁があればまた会うさぁ!」
御者との旅もこれでお別れだ。予想外の延着となってしまったが、怪我をせずに終えられたのも双方の協力があってこそ。御者は燈村の村長を見つけた後、すぐに次の市場へと荷物を積みかえて発つらしい。どこの国も商人は忙しい。足を止めてしまうのも失礼だろう、林琳と仁は御者から勧められた酒屋へ向かう事にした。
幸楽美国のように貿易で栄えているわけではなく、のんびりとした田舎の雰囲気だ。水害が多いと聞いていたため、多少荒れていると思っていたが、実際には水車が多く設置されており、むしろ水を有効に活用している印象を受ける。
何故だろうか、堀を超えてから気温が割と下がっている気がする。湿った空気も感じない。
「風が似てるな」
肌を滑る風は、遠くから聞き飽きた声を連れて来るかもしれない。仁は目の奥で泥塗れになった姿の後輩達が走り抜けた気がした。
広い世界だ。各地に散っている家族と会えた日には、上等な酒でも御馳走してやらねば。山雫国に残った師匠にも面白いお土産を買って帰ろう。そのためにはこの怪しい文を届けて、御礼をたっぷり貰わなければならない。
「宗主様ー!」
通りを挟んだ先に忙しく辺りを見渡して人を探す男がいる。二人とも年齢の近い仕人だ。手首には空を閉じ込めた様な組紐が巻かれていて、一目で松季国に属する宗派"蒼羽"の仕人だとわかった。
「騒がしい」
今しがた通りかかった店からは杖を突く音と、威厳をまとった男の気配が漂ってきた。
興味本位で振り返れば、暖簾を潜る視線とぶつかり、両者の動きが静止する。
龍の鱗が描かれた外套を纏う男に「宗主様、お弟子様がお呼びですよ」と向かいで匂い袋を売る女将が苦笑いして指差す。じっと目の奥を探っていた宗主は、近くで騒ぐ声の持ち主へと視点を定める。
宗派蒼羽の宗主は強靭な肉体を持つ。携えた杖にも龍の鱗が彫られており、外套と合わさって宗主の剛勇さが浮き出ている。風貌からして水龍を祀る宗派であることを物語っており、この男の怒りに触れたなら、明日の朝を迎えることはできないだろう。
優男で女子にも膝を付き、口にする言葉は美しい。如何にも善人と評される片燕宗主とは正反対だ。
「宗主様、来客のご予定があるとお伝えしたではありませんか!」
「馬鹿者!」
膝に手を付き息を整える弟子の頭を小突くと日付を誤っていたらしい。呆れている。はっと己の間違いに気づいた弟子は狼狽え、深く頭を下げた。
「す、すみませんでしたぁ!」
「園泉! 騒がしい!」
「いっ!」
瞬きする間もなく沈んでしまった。文字通り、弟子が地面にめり込んだと言った方が表現が適切かもしれない。杖を振り下ろした際に、宗主の手首に弟子よりも心力の込められた組紐が靡いた。りん、と鈴の音が響く。
仁は林琳に目配せをした。蒼羽は夢天理と関係を持たない宗派で、接触しても問題はないだろうが、宗主ともなれば話は別だ。実際、宗派が違えど、絆の生まれる宗派も存在する。宗主同士で馴染みがあったり、弟子同士で友情が芽生えたりと様々な関係が築かれることもある。園泉程度の仕人であれば遠くまで怪奇を祓いには行けないだろうし、外部との交流はないと考えられる。ただ、彼の馬鹿さ加減を見れば、万が一のことがあっても大丈夫だろう。
「買い物中に大変失礼致しました」
凹んだ地面から復帰した園泉は注目の的だが、宗主の買い物が気になるのか、暖簾の中を見ようとしている。宗主が杖を振り上げたのに気が付いていない。
仁とはまた違った馬鹿さ加減に、馬鹿はどこにいても目に付くのだと実感した。
「新しくできたお店ですね!」
触れた暖簾は固く、新しい。
暖簾を押し上げた園泉は店内の品揃えを目にすると、「白粉ぃ? 宗主、女装でもするんですか?」と馬鹿げた事を聞く。
いくら何でもその言葉は思っても口にしない。
暖簾の真下にもう一つ、先程より大きな凹みが生まれた。
「馬鹿だな」
「うん、馬鹿だね」
松季国、平和そうで何より。
◆
「宗主様、どうかしましたか?」
暖簾の先で園泉がくらくらと目を回しつつ、外の様子を見つめる宗主に疑問を持つ。
杖を握りしめた宗主"扇葉九"はじっと一点を見つめている。園泉もひょっこりと店の中から視線の先を探すと、人の群れがあるだけで、彼が何を捉えているのか全く見当がつかない。
顎を指先で摩りながら、扇葉九は目を細めた。
ふわっと香った心力の気配が特定できない上に、先程の二人組にも違和感を感じている。朱色の男は凪を纏った薄気味悪い感覚だ。特にもう一人の男は、手足がぞっとする不可思議な心力を纏っていた。松季国は夢天理の管轄外だ。他の宗派が訪れるのは珍しいため、扇葉九は眉をひそめる。彼の眉間には何重もの皺が寄り、緊張感が漂う。
園泉は、師匠である扇葉九の険しい顔を久しぶりに見た。水害に見舞われても、顔色一つ変えない彼が、何かを感じ取っているのだ。園泉は、師匠が強いことは重々承知しており、富や名声よりも松季国の平和を願っていることも知っている。時には近郊の怪奇を祓うために試行錯誤し、寝不足になることさえある。それが松季国から独立した村落でも構わない。手が届く範囲で救える者があれば、軒並み救ってみせるのだ。
昨今の雨で近郊の村落には被害が出ている。扇葉九は、明日、弟子が集めた情報をもとに状況を確認する予定だ。幸いにも、水害を共に乗り越えた仲であり、蒼羽に助けられた村落も多い。情報が想像以上に集まったのも、弟子の来訪を歓迎してくれる信頼関係が築かれているからだ。
「行くぞ」
扇葉九が踵を返すと、彼の外套に描かれた龍の鱗がひらりと靡く。園泉はこの後ろ姿が大好きである。水龍を想像させる外套は力強く、見惚れながらも園泉は一歩後ろを歩いた。
「あやつは戻ったか」
「珊來先輩ですか?」
「うむ」
園泉は三日前に戻る予定だった師兄のことだとすぐに気づく。しかし今朝も姿を見ていないため、帰還していないと伝える。優秀な仕人である珊來が郊外の調査に出たものの、連絡が取れないのだ。水害の影響を受けている現地で足止めを受けたのかもしれないが、遅すぎる。珊來の実力からすれば、難しい調査ではないはずなのに、音沙汰がない現状に不安が募る。
「明日の会合までに戻らなければ遣いを出す」
「はい」
最も、珊來の調査結果が重要だ。不気味な死体が打ち上げられたとの連絡があった村落"燭村"の村長とも連絡が取れない。先に到着している村長は、口を揃えて無事であれと願い、到着を待っている。
「園泉。修行の成果はどうだ」
「……えーっと」
「いい加減に御守り程度作れる仕人にならんか!」
扇葉九が怒りを露わにするのも無理はない。
園泉は蒼羽の弟子となってから一度も御守りを編み上げておらず、一人前の仕人への道のりは遠い。手塩にかけて育てているにもかかわらず、その兆しが一向に見えない。本人には人一倍やる気があり、努力もしているが、才能がないのか、今では蒼羽の中で専ら宗主の付き人となっている。
「だってぇ……」
「言い訳は不要」
「うぅ」
このままでは蒼羽の足を引っ張ると、本人が一番自覚している。同門の中では最も若いこともあって、上の者たちには甘やかされてきたが、扇葉九は許さない。仕人として一人前にならなければ、困るのは園泉自身なのだ。先を見据えろと口を酸っぱく言い続ける。
「頑張ります!」
威勢と心意気だけは立派だが、内心では不安が募る。空っぽに近い心の中に、溜め息が近頃絶えない。
扇葉九は大股で本拠地の屋敷へと向かう。体の大きな扇葉九の歩幅は広く、背後では園泉が忙しなく足音を立ててついていく。
園泉は気づいていない。来客の予定を勘違いし、客室の扉を開けっぱなしにしていることを。彼の頭に怒りが落ちるまで、あと少しだ。
◆
一際騒がしい店が一つ、隣の声すら聞き取れないほどの賑わいだ。地面には大量の酒瓶が転がり、さながら祭りの後のような光景。御者が勧める酒屋で、地酒も豊富に揃えている。酒のお供に出てくる小鉢も美味で、文句なしの味だ。仁は思わず舌鼓を打つ。
奥の一角で林琳と仁は書を開き、箸を動かしていた。
「聞いたか? 幸楽美国の話」
「あぁ! 陳家の御子息が怪奇を使って国を滅ぼそうとしたって話だろ?」
「俺は張家の長が加担したって噂を聞いたぞ」
「どちらにしても、あの国も裏では悪さをしてたって事だ。嫌になるね、莫大な資産と貿易を誇っていても……欲には勝てないってか」
「夢天理が介入するってのは本当か」
人の噂は風に乗って運ばれていく。幸楽美国の話題があちこちで飛び交い、憶測で語る者もいる。無意識に耳に入る話は、仁の手を止めさせた。
「外の国にも広まったみたいだな」
林琳は書に夢中なのか、適当に相槌を打つ。その後も仁は独り言をぽつぽつとこぼし続けるが、林琳は変わらずに書を読み進めている。周りから聞こえてくる幸楽美国の話題は尽きない。批判の声は白琵のみならず、京にも向けられている。
「はー……京が心配だ」
仁が空いた皿を給仕に下げさせて言う。
——パタン
栞を挟んだ書が閉じられた。
「……あいつなら大丈夫。類を見ないしぶとさだぞ? 気にするだけ時間の無駄だ」
腑に落ちないが、林琳の言葉は間違いではない。あの性格なら、噂ごときに負けるような柔な男ではないだろう。逆風を切り裂いて、進んでいくはずだ。
腹も膨れ、二人が支払いを済ませようとした時、二階の客席から「燭村で悍ましい死体がまた打ち上がったらしい」と気になる話し声が届いた。
「珊來先輩が調査に向かっただろ?」
「干乾びた肉体に、髪の抜けた頭。本来であれば眼球が埋まっている場所は、ぽっかりと空いている……うう、考えるだけで身震いするよな」
本人達は密かに話しているつもりだろうが、真下には筒抜けである。
「宗主自ら赴こうにも……あの身体じゃ……」
「縁起のない事を言うな!」
なんとも落ち着きのない若者だと二人は目を見合わせたが、あの年齢では無理もない。まだ十代だろう、初々しさが所々滲み出ている。
「僕たちに出来る事をやるだけだよ。ほら、門限まで情報を集めよう。珊來先輩がお戻りになったら忙しくなるよ」
騒ぐ三人を嗜める子供が、言い合う仲間を強引に押し出した。次第に声が大きくなる三人が恥ずかしくて堪らないらしい。周りの席に軽く会釈して席を立ち去ると、その席は瞬時に埋まった。
「蒼羽の人間だな」
追加で注文した包子を頬張りながら話す仁。
「あっつ!」
熱々の包子を躊躇なく口に運ぶため、口の中を火傷してしまったようだ。酒は空っぽになっている。仁は手で仰ぎながらも、どうしようもない様子。林琳は湯気が収まるのを待ってから、同じく包子を頬張った。
「燭村は……松季国から一本道だ。行ってみる?」
書と共に手に入れた周辺の地図。松季国を囲むように村落があり、二人が立ち寄った村は辺境の地でこじんまりとしているため、地図には書かれていなかった。
蒼羽の仕人が語る内容が真実であれば、片燕の疑いを晴らす手掛かりになるかも知れない。宗主も事情があって遠出は避けている様だ。鉢合わせる可能性は限りなく低い。しかし、珊來の件が厄介だ。根掘り葉掘り燭村に関われば目を付けられる。
林琳は暫く悩んだ末に、預けられた文を優先する事にした。
松季国へ足を踏み入れたのに受け取り主は現れない。事態は次第に怪しくなってきた。このまま持っていても大丈夫なのか、実は人体に影響があるのではと不安が募る。
仁と林琳は部屋を取り、机に文を乗せると頭を捻り始めた。
突如静寂の中で雨が戸を叩く。外は曇天で黒い雲に覆われており、御者の予想通りどうやら本格的に降り始めたようだ。軽い雨足は次第に強くなり、叩きつける雨へと変わる。文と睨めっこするのに飽きた林琳は、外を眺める。地図で見た燭村や実際に訪れた燈村にも真っ黒な雲が流れ始め、次第に雲の切れ間が埋まっていく。
「……激しくなるな」
「そうだね」
——あの日も雨が降っていた。
"約十年前"
土砂降りの中、燕の描かれた傘をさす二つの姿。二人はしっかりと手を握り、戦で荒れた戦場を踏み締める。手を引くのは幼い子供だ。手を引かれる青年の瞳は布で覆われていて、この荒地を歩くには不利だろう。
「先生、塊が落ちてる」
「林琳。その言い方では伝わりませんよ」
「……うーん」
林琳は目の前に落ちている黒い塊を、偶然近くに落ちていた枝で突いてみた。——硬いが弾力がある。
「……人」
「生きていますか?」
「放っておこう。面倒だよ」
どうせ、生きていたって無駄だ。この戦場で生き残りは一人だ。このまま死なせてやった方が良い。林琳は枝で突きながら、つらつらと述べる。後悔と罪悪感、絶望、それと憎悪を纏った人間は碌なものじゃない。
「……ゴホッ」
「あ、動いた」
雨に打たれたそれは、咳をして身を動かし、肩を震わせて身を丸めてしまった。
酷い雨だ。衣が雨を吸って重たくなっている。虫の息で動く力もないのだろうか、今度こそ息絶えたのかもしれない。
その方が良い、と林琳は動かなくなった塊を曇天と似た重苦しい瞳で見ている。そのまま輪廻に迎えられれば、新しい人生が待っている。無理をして生きる必要はないのだ。今ある悲しみが揺蕩う人生よりも、もっと先にある別の未来の方が価値がある。
「ゴホッ、ゴホッ……」
力尽きた身体は倒れ、顔が露わになった。頬は赤く染まり、生理的な涙は苦しげに落ちる。雨に打たれた身体は切り傷や打撲を伴い、発熱していた。家屋は崩れ、至る場所で火の粉が今か今かと身を潜めている。いつ大火災が起こってもおかしくはないし、雨が水害を巻き起こす可能性もある。このまま手を差し伸べなければ、死が自ら迎えに来るだろう。
「先生?」
林琳は師を見上げる。
「これもまた縁」
丸い頭に優しく触れた温もり。瞳を隠す布がなければ、その言葉の真意を読み取れるのだろうか。
戦が去った土地で生き残りを見たのは初めてではない。中には救った命もある。しかし、憎悪に囚われた人間はこちらに害を与えてくるのだ。助けても憎悪に縛られた人間は、同じ過ちを繰り返す。血に染まった世界を選び、歩いて渡る。林琳たちは繰り返す過ちから離れることにしたのだ。水と傷薬に僅かな食べ物を置いて、その先を運に委ねることで自然と関わりを断ち、旅を続けた。
「行きましょう」
林琳が物言う前に、傘を畳み泥と血で汚れた塊を抱き上げた。少ない荷物を背負った林琳は、師の前を歩く。荒地を抜けた後、雨風の凌げる場所を探し半日は歩き続けただろう。川を見つけた林琳は、人の寄り付かない場所に空っぽの社が目に入った。中を確かめると、多少雨漏りはしているが、身を休めるには事足りる。この子供は運が良いのかもしれない。
川で濡らした手拭いで体を綺麗に拭い、薬を塗り、魘される子供の額に触れて心力を送る。そうすると三日もしない内に熱も下がり、夜中に涙を流す様子もなくなった。呼吸も安定しており、直ぐに目を覚ますだろう。後を託された林琳は、二つの寝息に睡魔を刺激されつつも、健康的な色を取り戻した子供を見て溜め息を吐く。
「……哀れだ」
一人だけ取り残された子供。親も親戚も全滅したに違いない。閉ざされた瞳が世界を目にした時、何色に染まるのだろうか。何を感じて、何を思ったのか——知りたい。万が一こちらに害を与えるのであれば、始末すれば良い。二度と醜い世界を見ずに済むように。それがこの子供のためだ。降り注ぐ雨音と共に、一晩中林琳は首を長くしてその時を待った。
明け方、朝日が山頂から顔を覗かせた。真っ直ぐに差し込む光が社を照らす。
眩しさに眉間に皺を寄せた子供は二回咳き込むと、ゆっくりと目を開けた。
閉ざされていた瞼の下に、新緑を切り取った鮮やかな色を隠していたらしい。不覚にもその翡翠に目を奪われた。
何日も熱に魘されていたのだ。揺れる瞳の焦点が合わないのか、はたまた光が眩しいのか、手の甲で目を擦っている。林琳は面白みが足りないと、目の前で手を振って見せた。幾ら病み上がりとしても、何かしらの反応がないとつまらない。
「おい、お前。死んでるのか?」
乾燥した頬を摘んでみると、痛みを感じたらしい。ゆっくりと視線がぶつかる。
「な……」
背筋を虫唾が走った。
誰もが瞳の奥に多少なりとも意志を持っている。強い意志を持つ者は灼熱の炎を宿し、臆病な者は揺らめく炎を。後悔を背負う者は愁嘆の色を。
しかし、目の前の瞳はどうだ。翡翠の美しさとは裏腹にごっそりと何かが抜け落ちているではないか。紛い物の瞳が嵌め込まれているみたいだ。
——嗚呼、気味が悪い。
「先生……!」
林琳は思い掛けない事態に、壁に寄りかかって熟睡している師の元へと駆け寄った。
目を覚ました子供は己の名も、過去も全て失っていた。この子供を形成する記憶は、何一つ存在しなかったのだ。
「よし、開けようぜ!」
「……馬鹿なの?」
よくもまぁ、ここまで大きくなったものだと思う。図体にしろ、態度にしろ、歳の割に小柄で細かったくせに、ぐんぐんと背を伸ばした。単純な力比べでは勝てないだろう。正直、ここまで健康に育つのは想定外だった。山雫国に腰を据えるまで、決して裕福な旅ではなかったのに。知らぬ間に拾い食いでもしてたのか。
「開けるなとは言われてないし。受取人が現れないなら、こちらから探せばいいだろ? 中身には宛名ぐらい書いてあると思う」
そう言いながらも、勝手に開くのは如何なものかと思った。松季国への密書だったらどうするつもりだ。余所者の二人は問答無用で死刑に決まっている。意気揚々と開けるつもりの仁。その制止の声が林琳の口から出るよりも早く、爪の大きさの刃が付いた小刀で一直線に切り、封を開けてしまった。
仁が封書を逆さまに振ると、中から一回り小さい古びた封書と、折られていない短い文が飛び出してきた。二人は訝しげにそれを見つめる。
封書を開いた者へ、蒼羽の珊來へ封書を届けよ。
まるで初めから珊來が行方不明になると予測した上で、開けられることを望んでいたかのような書き方だ。回りくどい方法を取らずに、初めから言付けすればいい話ではないか。
腹いせに同封されていた一回り小さい封書を小刀で裂こうとするが、開封を拒むその封書に小刀は弾かれて折れてしまった。仁は鋭い勢いで刃が襲いかかるのを間一髪で避け、封書を叩きつけた。
「危ない罠を仕掛けやがって!」
金目当てに請け負った軽い遣いが、とんだ傍迷惑な遣いになろうとは。それに、差出人は十中八九仕人だ。封印の術を用いてまで守りたい内容なのか。
「今日は雨が止みそうもないし。これじゃあ燈村も星は見えないな」
雨足は酷くなる一方だ。
「林琳ってさ、意外に雨好きだよね」
仁は壁に刺さったままの刃を引っこ抜くと、黒い錆がこびり付いているのに気が付いた。無理に開けようとした者への跳ね返りで、刃に力が流れたのだ。意地汚いやり方に対抗して、仁が心力を送れば、元通りの美しい切先を取り戻す。
「雨が好きってよりも……雨の音が好きなのか?」
雨が降ると、林琳は傘を持って外に出る。
ある日、屋敷の中を探し回っていた時に「あの子は幼い頃から傘の下で響く雨音が好きですから」と宗主は林琳の居場所を教えてくれた。その場所は本拠地の一角にある花園で、花好きの後輩が手塩をかけて世話をしている。林琳が花園を好いているのは片燕内では有名な話で、真っ白の花が咲き乱れる中、真っ白の燕が描かれた傘を持つのは林琳しかいない。
「……そんなつもりはないけど」
「無自覚かよ。思い出深い事でもあるんだろ」
心做しか雰囲気が柔らかいぞ、と仁は肘をついて笑った。
これっぽっちも心当たりのない林琳は片眉を上げて、仁の形の良い鼻を弾いた。
「酒」
「まだ飲むのかよ……」
◆
昨日はこっ酷く叱られた。開けっぱなしだった客室を目にした宗主の溜まりに溜まった怒りが爆発し、園泉は鞭で打たれた。懲罰ではなく、宗主の得物で軽く叩かれた程度だったが、痛みは心に刻まれた。
一晩中降り注いだ雨が庭園の水瓶を満たしている。園泉はその水を何往復もして炊事場へと運んでいた。昼餉の時間が迫っている。既に会合の手筈は整っており、後は珊來の到着を待つだけだったが——水瓶の水量が半分を切った時、階段を降りる足音が聞こえた。
「園泉はおるか」
「はい、宗主様」
「遣いを出せ」
「……珊來先輩ですね」
結局、会合に姿を見せない珊來の捜索に乗り出すらしい。人望の厚い珊來の安否を村長たちも心配している。
燭村への遣いの手配を行うと、園泉は扇葉九からの言付けを与えた。
「身に危険が迫るのであれば、己の安全を優先せよ……との事です。気を付けて」
「ありがとう」
六敬と綺琉の二人が燭村へと馬を走らせるのを、姿が見えなくなるまで正門で見送った。二人は年の近い同門で、何かと気にかけてくれるのだ。昨日も、床を磨く園泉を気にして手を貸そうとしたが、恐れ多いと断った。
「六敬は珊來に続く優秀な仕人だ。多少……甘い所はあるが、心力も申し分ない」
扇葉九が信頼を寄せている六敬がいれば、珊來の助けになるだろう。
「水龍様、人々をお守り下さい」
会合前に仏堂で扇葉九と共に祈りを捧げる。
今は目先の問題を少しでも解決するのが先だ。
「お集まり頂き、感謝する」
互いに拱手を交わし、上座に座る扇葉九が腰掛けると、村長たちは神妙な面持ちで村の状況を話し始めた。表情は石のように硬い。橋の崩落は各地で起きているが、人が死ぬような大きな被害は出ていない。異常事態だと扇葉九が素早く知らせを出し、土嚢や河川に住む住民を付近の村落へ移したおかげだ。
園泉は聞き逃さぬように筆を取り、その場で議事録を作成する。人より秀でた能力は、この速筆と無駄に速い足ぐらいだ。
「宗主様。燭村は大丈夫なのでしょうか。珊來殿も……」
とある村落の長が問う。異変の起きた燭村で、珊來と連絡が途絶えたことは共通の情報だ。隠したところで不安を余計に煽るだろうと、扇葉九が序盤に明かした。優秀な珊來が戻らないことに、場は不安と恐怖で混沌としている。加えて、燭村で変死体が打ち上がった件が恐怖に拍車をかける。
「遣いを出した。しかし……何かが起きてからでは遅い。村に数人弟子を送ろう」
蒼羽は片燕とは異なり、何人もの優秀な仕人が存在している。怪奇に対応する能力を備えているし、村落から信号が上がれば駆け付けられる距離だ。
「あがとうございます!」
「これで安心できる」
「よかった……」
村落に家族や仲間を残してきた一同は安堵の表情を浮かべる。緊張が解れたのだろう、笑みが戻った。
「未知なる危機が迫る時こそ、手を取り合うのだ。恐怖に支配されてはならぬ」
園泉は扇葉九の言葉に深い重みがあるのを感じた。恐怖に支配されるな、それは宗派の教訓であり、扇葉九の口癖でもある。
会合を終えた頃には日が暮れ、翌朝蒼羽から数名の弟子が旅立った。村落までの護衛と、燭村の現状が判明するまでの滞在だ。
扇葉九は弟子たちの真っ直ぐに伸びた背筋と力強い瞳に、燃える誇らしさを抱く。随分と大人になったのだと、彼らの逞しい背中を押した。
同時に、痺れで震える右足を情けなく思った。蒼羽の宗主である扇葉九は、杖がなければ長距離を歩くことすら厳しいのだ。
「宗主様、薬のお時間です」
毎晩煎じた薬を飲まねば、立ち上がることもできない。新鮮な水と質の良い薬草を手順を守って煎じる必要があるため、扇葉九の遠出は不可能で、弟子を遣わすのだった。
怪奇との戦いは命懸けだ。領域に踏み込めば、そこは人の生きる場所とは異なる——時には後遺症を遺すこともある。記憶の欠落、身体の欠落、感情の欠落、時間の欠落。特に厄介なのが時間の欠落だ。精神、身体、記憶の退化が同時に起こる。重要なのは、魂の退化は起きないこと。領域で負った魂の損傷は回復できない。時間の欠落による後遺症は過去に二件起こっているが、いずれもこの世を去っており、真相を知る者は少ない。
薬を飲み干した扇葉九は、ふと、街中で感じた懐かしい心力を思い出した。その記憶に関連して、二人の仕人に違和感を覚える。
「余所者が何用だ……?」
雰囲気と装いから、夢天理の人間ではないだろう。蒼羽は夢天理とは距離を置いている。それに、幸楽美国で巻き起こった騒動に手が離せないはず。
「考えられるのは、ただの外遊……もしくは、調査」
「え? 何か言いましたか?」
後片付けを終えた園泉は、厳しい顔で米神を叩く扇葉九に首を傾げる。
「……園泉、頼み事がある」
「はい! 何なりと!」
「街中で会った朱色の男を覚えているか」
「えーっと、白粉のお店の前ですよね? 覚えてますよ! お二人共綺麗な顔でしたよね。竹を持っていたのは流石に笑いそうでした」
全く聞いてもない事をお茶を注ぎながら話す。米神を叩く回数が増えた扇葉九は任務を下す。
「あの二人を見張れ。最悪、接触しても構わん」
呆気に取られた園泉は目を点にして大きく瞬きをした。園泉は他の同門に比べて仕人としての能力は低いが、対人であればそこそこの動きを見せる。それに、あの余所者も園泉が宗主の側仕えであることを認知していると加味しての命令だ。
呆気に取られた園泉は目を点にして大きく瞬きをした。園泉は他の同門に比べて仕人としての能力は低いが、対人であればそこそこの動きを見せる。それに、あの余所者も園泉が宗主の側仕えであることを認知していると加味しての命令だ。
——後遺症さえなければ、もっと面倒を見てやれたのだが。
燭村で起きている異常事態は、六敬であれば上手く事を運ぶだろう。珊來も早々倒れる男ではなく、あれは類稀なる仕人だ。
「もう休め」
五羽の伝書鳩が次々と戸を叩く。扇葉九が躾けた伝書鳩は賢く、利口だ。どうやら全員村落に落ち着いたらしい。特に気になる点もない。蝋燭の灯りを吹き消し、扇葉九も静かに眠りについた。
明くる日から、園泉は蒼羽の正装から休暇用の装いに着替え、記憶を辿りつつ二人の男を探している。片方は目立つ朱色の髪をしているため、すぐに見つかると思ったのだが、決して狭くはない土地で出くわす方が難しい。どこか人通りの多い場所で待ち伏せをした方がいいかもしれない。途方に暮れていると、燭村の噂が流れてくる。もちろんそれらは真実とは異なる噂で、放言癖のある人物が適当に言っていることだとわかる。
「ほら、容姿端麗な二人組が燭村に向かったらしいじゃないか。物好きな人間もいるんだね」
——ちょっと待て、誰が、何処に……何だって?
「ゴフッ……!」
糖葫芦を喉に詰まらせて咳き込む。
——まさか燭村に行くなんて……! 一般人には危険だ!
食べかけの糖葫芦を無理に腹に押し込み、園泉は無駄に長い橋を渡り、燭村へと急いだ。幸運にも先日、六敬と綺琉が遣いとして向かっている。上手く鉢合えば、二人の見張りに関しても手を貸してくれるだろう。蒼羽の中で最も足の速い園泉は、半日もかからずに燭村から少しだけ離れた茶屋に辿り着いた。数刻走り続けて喉から血の味がするのを、冷たい茶で流し込む。
「おじさん、珍しい髪の男を見なかったですか?」
「見てないね。蒼羽の御弟子さんが燭村に入ったけど……」
園泉の期待とは裏腹に、他の人間は来ていないと首を振った。燭村にはこの道を通らなければ、山の中を歩くことになる。二人が通過していないことに不安を覚えた。もしかして、迷子になったとか……いや、松季国から真っ直ぐ伸びる道を歩くだけだ。わざと獣道や山道を進む理由はない。園泉の能力では単独行動は危うい。扇葉九から御守りは預かっているが、怪奇と対峙する力は持ち合わせていないし、六敬達と合流するのが吉だろう。
しかし、二人が心配だ。
干乾びた肉体に、髪の抜けた頭。本来であれば眼球が埋まっている場所は、ぽっかりと空いている。不気味な死体が打ち上げられてから、蒼羽を初め、松季国全土に知らせが出ている。仕人以外の人間の立ち入りは自己責任、外からの人間が入り込むことを危惧して、松季国以外の経路は立ち入り禁止になっているのだ。
状況的に園泉の中で答えは決まっている。
「ありがとうございます。お代は……」
「ははは! いいよ、気にしないで。君も蒼羽の御弟子さんだろう。この茶屋も宗主様の陣で護られているからね、大丈夫だよ。早くお行き」
「……では、お言葉に甘えて」
護ってくれてありがとう、その言葉で園泉の中に釈然としない葛藤が生まれた。
いつになっても蒼羽の中では落ちこぼれで、宗主や先輩の後ろで笑っているだけだ。店主の感謝は園泉をすり抜けて落下する。
護っているのは——僕じゃない。僕は、御守りすら作れない落ちこぼれ。それでも、蒼羽の仲間は呆れることもなく、根気よく修行をつけてくれる。宗主も見捨てずに側にいてくださる。その恩に報いるために努力をしているつもりだ。しかし、ふとした時、この先もずっと変われない恐怖を見てしまう。嗚呼、情けない。今は良くとも、この先居場所がなくなるのではないか。一年先、五年先、十年先の世界……本当に居場所はあるのだろうか。
——"■■■■……、■■? ■■■■"
「え?」
ざわざわと声に似た音が聞こえる。耳障りな雑音を伴って、言葉としては成り立っていない不協和音。
これは、駄目な音だ。園泉は、己の中に入り込もうとする雑音に立ち止まりかけた足を両手で叩く。修行の一環で昔一度だけ怪奇の領域へ同伴したことがある。心力もまともに扱えない園泉は足が竦んで動けず、失神した。それ以降、怪奇の気配があれば、扇葉九の組紐で切り抜けてきたのだ。
——"■■……、■■■"
動け、立ち止まるな、耳を貸すな。
蒼羽の弟子でありながらも、出来ることは素人同然である。
耳の鼓膜にべったりと張り付く音に脳味噌が無理やりかき混ぜられ、吐き気がする。認めたくない思考が無意識に表に出せと足掻く。それに恐怖を覚える。きっと認めたくない感情が、奥底で眠っていたのを突かれて暴れているのだ。
園泉は余計な思考を蹴散らすように走った。何度も通った道が暗闇に埋もれ、行き先が揺らぐ。恐怖の中、無我夢中で走り続けた。振り返れば、一瞬で引き込まれる。味わったことのない苦しみに足が縺れては、堪えて走る。
刹那、組紐が光り輝く。思考が透明になり、不快な音は消えた。扇葉九の御守りが発動したのだ。
流れ込む暖かい力に、園泉は込められた心力を身体全体で感じる。想像以上に全力疾走をしたらしい、膝が笑っている。
「園泉! こんな所で何をしているんだい!」
「六敬先輩……」
「宗主様の命か?」
「綺琉先輩……」
「お、おい、どうしたんだ。大丈夫か? 怪我でもしてるのか?」
燭村の入り口にいる六敬と綺琉を目にした途端、園泉は込み上がる感情に抗えず、二人に抱きついた。二人の驚く声が耳を掠る。綺琉の動揺した動きと、何も聞かずに背中を撫でる六敬の手。不思議だ。与えられる優しさは、落ちこぼれの憂愁を拭ってくれない。でも仕方がない、全ては己の弱さが原因だ。決まった速度で響く鼓動に、縋って耳を澄ませた。
満足するまで大泣きした園泉は、眼を真っ赤にして、六敬と綺琉の前で鼻を啜っている。
「急にどうしたんだい」
燭村の村人が気を利かせ、用意した部屋で膝を突き合わせる。必死に走ってきたのだろう、あちこちに泥が跳ねて汚れている。
「……宗主様が何かご命令を?」
「はい。背丈が綺琉先輩と同じぐらいの二人組を見ませんでしたか? お一人は朱色の髪で、もう一人は黒い外套を纏っています」
「見てないよ。その二人を探しているの?」
茶屋も通らず、燭村にもいない。一体どこへ行ったのだ。
園泉は二人を監視する任務を受けていることを伝え、もし見かけたら教えてほしいと頼んだ。
「早く探しに行かないと!」
己と同じ怪奇に襲われていたら大変だ。
慌てて立ち上がる園泉を、六敬は引き止める。
「綺琉と村人に聞いて回ったが、珊來先輩は私たちが来ることを察知して伝言を残してくれたらしい。もちろん、陣を念入りに張ってあるから……」
「この村は松季国と同等に安全って事だ」
綺琉は、村全体を包む心地よい心力から、珊來の陣が発動していると言う。瞳を閉じれば、稲穂が風に揺れ、大地が金色に輝く景色が呼び起こされ、荒れ狂う心が穏やかになる。
「ですが、一般人が森にいる可能性があります!」
「それも問題ないよ。珊來先輩が森を巡回してる」
「ふぉれ、みてみふぉ」
綺琉が園泉の衣の裾を引いて座らせる。
こちらへ向かう前に持参した落花生。村の子供達にも幾つか渡して、残った物を口へ運びながら綺琉が話す。
「……置き手紙ですね」
「もう……綺琉、行儀が悪いよ」
落花生の薄皮が机に散らばるのを見て六敬は手でさっさと纏めて隅に寄せる。
「燭村の警護を任されてるんだ。しっかりしないと」
六敬と綺琉は、珊來の指示で燭村に滞在することが決まっている。その旨は宗主への連絡にも書いたのだが、園泉は先日の伝書鳩には書かれていなかったと話す。行き違いがあったのだろうか。
しかし、走り続けた園泉をとんぼ返りさせるわけにもいかない。ここは珊來の陣で護られているし、宗主に再度連絡を出せば問題はないだろう。
「御守りを貸してくれる?」
園泉は扇葉九から与えられている組紐が巻かれた腕を差し出す。
六敬が己の心力を込めると、鋼がぶつかり合う力強い音が聞こえてくる。珊來の心力とは違う屈強な鎧だ。心力を辿っていくと、二つの心力が並行して絡み合い、意識が糸のように繋がる。
同門のみが許される連絡網だ。
「宗主様、六敬です。ご報告がございます。珊來先輩ですが燭村に陣を張り森の怪奇と対峙しております。燭村の村長も療養中ではありますが、無事です。先程滞在の了承も得ております。……はい、確かに書いたはずなのですが」
大方報告漏れを叱られているのだろうが、一切そんなことはない。生真面目な六敬は、一言一句漏らさぬように書き記したし、隣で飽きずに落花生を食べている綺琉に尋ねても同じだろう。
じんわりと染み込む、自分の意思とは違う思考回路。六敬には深い思考を巡らせている感覚が伝わってくる。
「……はい、細心の注意を払います」
話に区切りがつく前に慌てて園泉の名を出せば、途端に扇葉九の心力が乱れる。
《園泉、そこにいるのか》
沈む深い音程の声は、雷が落ちる前の静けさを思わせる。
勝手に松季国を出てしまった園泉には、言い逃れはできない。仕人の才能があり、一人前であれば良かったのに。力のない者が身の丈を弁えず、身勝手な行動を取った事実は揺るぎない。どんな罰則も受ける覚悟はある。口をきつく結んだ園泉に、六敬と綺琉も共に身を固くした。
《無事なら構わん。珊來が戻るまで燭村に滞在せよ》
三人は予想外の言葉に驚愕し、扇葉九が通信を切るまで間抜けな顔で静止していた。確実に雷が落ちる流れだったのに、お咎めもなく終わった。
「変な物でも口にしたかな……」
「お叱りもなく済んだんだ。素直に安心しろよ」
園泉は腑に落ちないままだ。
簡単な任務さえ熟せない弟子。もしかして呆れられたのだろうか。それなら、いっそのこと隠さずに言ってくれたらいいのに。落ちこぼれと自覚しているから、今更何を言われても平気だ。すっかり上の空の園泉には、六敬と綺琉が話している内容がまったく耳に入らない。
「ありがとう、返すよ」
六敬は園泉に礼を言い御守りを返すと、重たげな表情で口を開く。
「話が戻るけど……伝書鳩が運んだ文と、こちらが送った文の内容が違う」
何らかの方法ですり替えられた可能性が高い。伝書鳩自体は蒼羽が飼育している個体で、見分けがつく。それ故に扇葉九も疑わなかったのだろう。変死体を含め、事の全貌が明らかではない現状、蒼羽にできることは迂闊に動かないことだけ。六敬は悔しさを抱えつつ、陣の中で珊來の帰りを待つしかないと言う。
「いいかい、園泉。少しでも異常を感じたら知らせなさい」
「……はい」
園泉は怪奇に接触したことを伝えるべきか躊躇した。
否、数日前なら迷わずに報告しただろう。——森の中に怪奇がいる、と。
しかし、園泉自身、躊躇していることを理解できず、視線が泳いだ。初めての戸惑いであった。
「あぁ、もう! 辛気臭い顔するなって! 俺たちがいれば怖くないだろ!」
綺琉がバシバシと背を叩く。中々の強さに机に激突しそうになるが、「そっ……そうですねっ!」気合いで宗主譲りの怪力を受け止め笑ってみせる。上手く笑えたかは——わからないが。
「僕も何かお手伝いできますか?」
微々たる力だが燭村の役に立ちたいと伝えた。
仕人の能力はなくとも、一般的な教養はある。そこで六敬は村の子供たちに簡単な読み書きを教えてほしいと伝えた。園泉はきょとんと目を丸くする。
「園泉は字が上手いからな。ぴったりだ」
実はこの二人、速達が特技だと知っていて、議事録もよく見ていた。美しい字体に、等間隔に並んだ文字。まさか園泉が議事録が回覧されているとは思わず、固まってしまった。
「頼んだよ、園泉先生」
「か、揶揄わないで下さい!」
敬愛する先輩たちに託された仕事と言えど、六敬の微笑みはまるで可愛い子供を見るようだ。あまりにも柔らかな表情に園泉は赤面する。穏やかな心力を持つ六敬は、時々珊來と似た笑みを浮かべる。二人は共に修行する時間が多く、自然と所作も似るのだろう。
それでも、できる仕事があるならば、精一杯やるのが蒼羽の弟子たるもの。
こうして翌日から、子供たちの臨時教師となったのである。
◆
「仁?」
「あ、いや……変な雑音が聞こえて」
「雑音?」
「別の場所で怪奇に干渉された人間がいるみたいだ」
「……俺達とは別に、か」
実はこの二人、現在進行形で怪奇の領域に立ち入っている。
松季国から燭村に繋がる一本道で、鬱陶しく干渉してくる怪奇。二人は苛立ちが積もりに積もって、強制的に怪奇の領域をこじ開けて入り込んだのだ。勿論、開いたのは仁だ。幸楽美国に引き続き、適材適所。その間、林琳は涼しい顔で首の凝りを解していた。現世に戻ってからの疲労の蓄積は、彼にとってかなりのものだった。
領域に入ると、そこは真っ白な世界で、不自然に薄い水が張られ、二つの社が向き合って置かれている。社と言っても、馬車の荷台に収まるような簡易的な造りだ。
現世と並行して怪奇の領域は存在している。そのため現世とは瓜二つの領域が生まれることが多い。未完成の領域ではこのような殺風景が広がっている。つまり、この領域は生まれて間もない、赤子同然だ。怪奇自体も六つ目の足元にも及ばないだろう。六つ目の怪奇は何年も人の影を喰らい続けてきた。それに比べて、この赤子は可愛いものだ。
「空じゃん」
「空だな」
向き合う社の中は空洞で、ずっと奥深くに続いている。果てが見えないのは、果てがないからなのか、空洞だからか。
仁が何かあるのではないかと空洞に手を伸ばした瞬間——領域が大きく割れた。水が張られていた地面が音を立てて崩れる。
怪奇を祓った際に起こる領域の崩壊とは違う現象に、林琳は舌打ちをした。
「何した! この馬鹿!」
己は何も触れていないのだから、犯人は仁しかあり得ない。怪奇の行動は予測不可能で、まったくもってわからないのだ。次々と社を避けながら割れる地面。林琳は社の屋根に飛び乗り、「面倒を起こすな」と怒鳴りつけようとした。
しかし、仁に向かって伸びる棒切れのような腕を目にした瞬間、言葉は飲み込まれてしまう。社の中から伸びる何本もの腕は、痩せこけていて驚くほど白い。血の通っていない腕は、体制を崩した仁を掴もうと我先にと伸びてきた。腹を空かせた怪奇が満を持して登場したようだ。
仁は伸びる腕を匕首で切り落とし、その勢いで社に匕首を突き立て、崩れる地面から脱出する。髪は羽衣のように舞い、ちらりと見えた横顔は笑っていて、相変わらず無茶苦茶な動きだ。大道芸人でも稼げるだろう。こちらに気がついた仁が引きつった笑みで、小さく手を振るのを、社の上から眺めていた。
器用に体を使い、身軽に飛び回る姿は片燕の宗主に似ている。筆を握らせれば宗主そっくりの字を書き、来客の対応をさせれば宗主と似た微笑みを浮かべる。身内の中では多少大雑把なところもあるが、宗主に似た所作は隠せない。幼い頃の記憶を失った仁にとって、宗主が師であり、親であり、家族なのだ。匕首の使い方も、身のこなし方も、心力の質も——血の繋がりよりも強い絆が急に現れるものだと林琳は目を細めた。誰よりも師匠に似ているのを、本人は知らないのだろう。
標的を失った腕は彷徨い、社の中へ戻って行く。これは普通に困る。祓うためにはもう一度出てきてもらわなければならない。
崩れた地面は穴だらけで、落ちれば一生彷徨うことになるだろう。着地点を見定め、林琳は社の屋根から飛び降りる。社の扉は隙間なく閉ざされ、開く気配がなく、止むを得ず再び扉を開こうとした。
「あれ、先客?」
突如、背後の社から馴染みのない声が響く。
今まで存在しなかった第三者の気配に、二人は目を見開き、咄嗟に扉から手を離した。
「よっこいせっと」
反対側の社から現れたのは、既視感のある羽織を身に纏い、緩く髪をまとめた男だった。
「大丈夫? 怪我してない?」
崩れた地面を見て、男は「派手にやったね」と手を叩き、腹を抱えて大声で笑った。怪奇以上に可笑しな人間だと、林琳の冷めた目が男に突き刺さる。楽観的な雰囲気を持つ男は涙を拭い、どうやら一頻り笑い満足したらしい。はーっと深呼吸をし、息を整えた。
「ごめんごめん。君たちは……」
緩やかに下がっていた目尻が仁を捉え、視線が止まる。
盗み見る視線は居心地が悪く、探られている気がして気分が悪い。仁はあからさまに視線を逸らした。赤の他人に向ける視線とは思えず、珍しく初対面の人間に対して苦手意識を抱いた。
未だに視線は仁を捉え、物珍しそうに何か考え込んでいる様子だ。
仁は逸らした視界に入った朱色に、はっと息が詰まる。少し低い場所にある肩で、小気味よく跳ねる竹。明らかに機嫌が悪い時の癖だ。
——師兄。
物言わずにじっと光の消えた瞳を向ける林琳。お決まりの冷めた目だ。恐らく林琳の中で男の好感度は虫と同じだろう。舌打ちが二回——これは虫の方が上かもしれない。
「君……」
林琳の冷徹な表情を苦笑いで去なす。男には二人の神経を逆撫でするつもりはなく、自らの行動を振り返り、一言謝罪した。その謝罪も若干笑い声が混じっているが。
「私は珊來。蒼羽の仕人だ。君たちに害を与えることはしない、水龍様に誓うよ」
羽織に描かれた水龍の鱗はやはり蒼羽の仕人の証だったらしい。消息不明であるはずの珊來だと名乗った。
「君たちも仕人だろう。蒼羽ではないね、どこの宗派だい?」
やけに親しげに話しかけてくるが、身を置いているのは怪奇の領域だ。呑気に言葉を投げてくる。余程余裕があるのか。
珊來は二人に話しかけるが、口を噤む姿に肩を落とす。
「外の仕人と話すのは久しぶりだよ」
それでも懲りずに意思疎通を図ろうとする珊來を尻目に、林琳は思い切り社を殴った。
因みに、宗主から授かった林琳の剣は、破門されたのと同時に消滅している。真っ黒の剣身から黒典と名付けられた。仁の匕首の名は黒紫。黒典と同じ鉄が使われており、色も似ている所から名付けられた。仁が匕首に心力を込めるのと同様に、林琳も以前は剣を片手に怪奇と対峙していたのだが、今は専ら竹一本である。
跡形もなく砕け散ってしまったのだから、仕方がない。
今まで幾度も竹で小突かれていたが、手加減されていたらしい。仁はただの竹でも心力を込めれば剣と同等の威力を発揮するのだと、屋根の崩れた社を見て思う。はっきり言おう、竹で出せる威力ではない。
珊來も流石に驚き、固まった。普通、怪奇が潜んでいる場所を苛つきで殴ったりしない。宗主が目にしたら卒倒するに決まっているし、師弟たちが同じ真似をしたら、己も卒倒しそうだ。
「お前に用はない」
正確には——封書を渡せば用はない、だ。
珊來が己に向けられた言葉と理解する前に、社は完全に形を壊し、中から夥しい数の腕がどっと溢れ出す。腕は助けを求めて必死に逃れようと暴れているが、無駄だ。終わらせようと林琳が陣を描こうとすると、青い光が林琳と仁を包み、触れた腕は一つ残らず砂と化した。
「余計な事を」
二人を包み込む陣は、質の良い上等で清らかな心力で形成されている。
「横着は良くない。怪奇は急に牙を剥くからね」
いつの間にか跡形もなく消え去った社の前に立つ珊來が腕を組み、大袈裟に叱る。まるで師弟を叱る態度に、林琳は口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せた。これは吐き気を抱えている顔だ。
「さぁ、外に出ようか」
「待って。消息不明のあんたが……なんで領域にいるんだ」
「私の名は珊來だと教えただろう。目上に対してその名称は良くないね」
無言の睨み合いに挟まれた仁の心境は荒波のように忙しい。
頼む、これ以上林琳の機嫌を損ねる言い方は止めてくれ。それと、林琳の生意気な物言いを許してほしい。敵を作りやすい性格なのは重々承知だが、目上との関わりを力で捩じ伏せてきた男だ。お説教は宗主を除いて受付拒否の鋼の精神。
領域も形を保てていないし、ここら辺でお別れしようじゃないか。封書を押し付けて退散する手順を考えていると、珊來が先手を打つ。
「詳しい話は後で。懐かしい心力も感じるし、私に用があるのだろう」
林琳と仁の肩を掴むと、領域から現世へ続く扉をこじ開けた。
光に包まれて、世界が一瞬で移り変わる。
「見事な大雨だね! 走るよ!」
領域を出た途端、急な雨に襲われた。土砂降りの中、燭村から離れた場所に雨を防げる洞窟を見つけたものの、既に濡れ鼠状態の三人は焚火を起こして衣類を乾かしている。手早く焚火を起こした仁を珊來は絶賛したが、もちろん、林琳のためである。
仁が幸楽美国で負った怪我は完治している。しかし、林琳の治りが遅い。髪や爪は伸びるのに、傷口が塞がらない。未だに軟膏を塗っていた手の甲は赤く痛々しい。指先を動かす分には問題がなさそうだが、治りかけの傷には軟膏を塗り直す必要がある。仁が余っている軟膏を手に取り、慣れた手つきで塗り込むと、痛みがあるのかピクリと肩が跳ねた。
「何がすぐ治るだ。いつも以上に治りが遅いぞ」
心力は回復を促すだけで、肉体を抉った傷は地道に治すしかない。包帯で覆われていた傷を目にした珊來は、何も言わずに新しい包帯を分けて与えた。心力の流れを読み取ったのだ。傷口へと繋がる心力。そのような怪我は怪奇にしか作れない。
訳ありの旅路に口を出すのは野暮だと、珊來は深入りはしなかった。
珊來は空気を変えようと、二人に燭村に対する知識の量を確認した。
「星の子を知っているかい?」
「ある特定の日に燭村で生を受けた者を示す。星の子には古来より縁起が良いとされ、その者が生きている間は幸運が訪れる」
他にも林琳が酒屋で開いていた書に記されていた内容を口にすれば珊來はよろしい、と頬を緩ませ扇子を開く。水龍が滝を昇る幻想的な水墨画が目立つ。
「ちゃんと下調べはして来たんだね」
燭村では月を祀っているから、月の使者として星の子と呼ばれている。
珊來は決まった様子ですらすらと語る。松季国に住む者であれば、一度は耳にする話だ。栞を挟んだままの書を開く林琳は、仁の方に書を傾けて見せてやった。二人の髪から滴る雫が染みを作る。
「燭村は可愛い後輩に頼んであるからね。今は君たちの協力が欲しいんだ」
深刻な声色を醸し出す珊來だが、林琳から即答で「無理」と貫く返事が欠伸と共に戻る。
珊來は緩やかに纏められた髪を拭っていた手を止めて「……君、協調性って言葉を学んでこなかったのかな」と落胆するが、残念ながらその通りである。
林琳の辞書に協調性の文字は書かれていない。怪奇に向かって一直線、我が道を行く。
「曲がりなりにも仕人でしょう。それに、燭村に通じる道を進んでいたんだ。君達も用があったのでは?」
正しくその通りであった。仁の懐には珊來宛ての封書があった。元々は小銭稼ぎのための遣いに過ぎなかったのだ。偶然、変死体の話を耳にして、訪れただけなのだ。実際に変死体を目にしたのは、発見者である蒼羽の宗主、そして目の前にいる男ぐらいである。亡骸はその場で火葬されてしまったため、詳細を知るには直接聞き出すしかなかった。
「では、こうしよう」
だんまりを決め込む二人に対し、珊來は人差し指と中指を立てて提案をする。二人が何か用があって訪ねてきたのは間違いないのだ。
「一、君たちが手を貸してくれるなら、私も同等に手を貸そう。二、全て終わったら、互いに忘れる。これでどうだい?」
「……追加で詮索禁止も」
これが最低限の妥協点だ。
全て終えた後の約束は非常に重要である。損益を考えた上で、珊來の提案は悪くないものだと思われた。
「良いだろう。妥結だね」
満足そうに何度か頷くと、珊來は焚火で暖を取る。
「ほら、珊來宛ての封書だ」
懐から封書を取り出し、珊來に渡すと、彼は目を瞬かせながらそれを受け取った。書かれている内容が気になる二人は、珊來の手元をじっと見つめていたが、目の前で封書を開く真似はしないようだ。
「ありがとう! 懐かしい心力が君から香るから気になってたんだ」
外遊をしている馴染み深い友からの文だろう。四年も連絡のない友からのものである。近くに寄った際には顔を出すように言ったのに、文で連絡を寄越すとは。全く、昔から回りくどいことが好きな友だ。
「今は手持ちが少ないから、これで我慢してくれるかな」
滑らかに磨かれた翡翠の宝玉を手渡す。美しい宝玉は林琳の巾着へと収められた。
何かあれば宝玉を売り払って金に換えてしまおう。
名を聞かれた二人は軽く自己紹介を済ませた。御者の荷台に乗って松季国へ訪れたこと、燭村で見つかった変死体を確認しに来たこと。封書は偶然立ち寄った村で預かり、松季国に入国したら受取人は気付くと聞いていたが、一向に現れないので勝手に開けたと正直に話した。
「それで私宛の封書があって訪ねて来たんだね」
珊來は話を聞いて、変わり者で良かったと笑った。思いのほか失礼な奴だ。
「蒼羽の弟子が別の宗派と手を組む事を宗主に知らせなくていいのか」
仁が湿っていない木の枝をくべつつ、疑問に思って尋ねた。
「別に大丈夫だよ。宗主様はそこの所、気にしないから」
店の前で見た宗主は堅物そのもの。本当に大丈夫なのだろうか。
「酷い雨だ」
外は相変わらずの雨で、まだ上がりそうにもない。
林琳は宝玉を器用に指先で弄びながら珊來に変死体について説明を求めた。
「そうだね……うん、手を借りるには説明しておいた方が良い」
珊來は懐から継ぎ接ぎの教本を取り出した。血痕で表紙は黒く染まってしまっている。
「人の影から、記憶を読み取ったことはあるか? ……あるね。それじゃあ、始めよう。私たちの心力は相性が悪くはないと思う。まぁ、良くもないけどね。林琳、そんなに顔を顰めるとうちの宗主様みたいに皺ができるよ」
縮まった距離に、珊來も緊張が解けたのだろう。冗談を交えつつ、三人が込める心力で書は小刻みに反応した。
書に込められた記憶は、酷く曖昧なものだ。
損傷が激しく、景色が細切れに動く。最初に見えるのは、老夫婦が仲睦まじく稲穂で作業をしている場面である。老父は背負った籠に刈り取られた麦と鉈を載せている。風に靡く稲穂は楽し気に揺れ、穏やかな時間が流れていた。次に視界に入るのは、山菜を収穫する姿だ。様々な山菜を吟味しながら、稲穂の籠に次々と放り込んでいく。妻の喜ぶ顔を思い浮かべ、せっせと籠へ山菜を入れる老父は、楽しそうであった。
しかし——穏やかな時間は、胸を切先が貫いたことで終わりを告げる。
黒尽くめの人間が握る剣は真っ直ぐに老父の心臓を捉え、一瞬で鼓動を止めた。苦しむ暇もなく老父は倒れ、息絶えてしまった。影の記憶には、そこから先のことは何も残っていなかった。
記憶はそこで途切れている。
「この老父は……、星の子だった」
役目を終えた教本は灰となり、隙間風に乗って影は消え去った。
様子を寂しそうな瞳で見送る珊來は、手に付いた灰を指先で擦る。指先に広がる白い灰は、遺骨を燃やした時に出る物に似ていた。
珊來が教本の持ち主が星の子だと知ったのは、扇葉九が口を開いたからだった。扇葉九が星の子を知っていたのは偶然である。先代の宗主が老父の友人で、死に際に身を案じていたことを耳にしていたからだ。二人がこの世を去った今、扇葉九は時効だと決めたのだろう。
「星の子と一般人の見分け方があるのか?」
「あぁ、簡単だよ。星の子の生誕日には特別な印が現れるんだ。ほら、丁度ここら辺に」
「心臓?」
「そう。月の使者だという証であり、星の子の証拠だ。よし、少しだけ昔の話をしようか」
星の子が確認されたことを皮切りに、噂を聞きつけた賊が燭村を襲った。松季国へ向かう途中だった侠客が偶然居合わせたのは奇跡である。侠客が賊をなぎ倒し、村を救った物語は今でも燭村で語り継がれている。侠客が最期を迎えたのは燭村であり、今でもその匕首は祭壇に飾られ、大切に供養されている。
珊來が一息ついたのを見計らい、林琳が新たな星の子に目星があるのかと尋ねるが、珊來は首を振った。
「どうやって探すんだ?」
林琳は消えかかっている焚火に、不要になった書を投げ入れた。
「唯一の手掛かりは、老父の身体に遺っていた怪奇の痕跡だ」
珊來が話すには、林琳たちと遭遇したのも怪奇を片っ端から祓っていた最中だったらしい。
「老父が死んでから妙に怪奇が増えた」
もし、星の子がこの世に存在するとして——それを怪奇が見つけたらどうなるのか。
「怪奇は人の影を喰らい、国を襲う」
松季国は水害によって多くの命を失った。成仏できずに漂う影も少なくはないし、力をつけた怪奇にとっては豊富な餌場となる。それは防ぐべき未来であり、蒼羽の存在意義でもある。
「蒼羽には手練れの仕人がいるだろう。余所者の俺達と手を組む利益はあるのか」
「その案も考えたけどね。君たちの心力は随分変わっているし、都合がいい」
明確に言葉にはしないが、珊來の様子から林琳は勘付く。蒼羽の内部に間者が紛れ込んでいるからこそ、珊來と扇葉九は身内にも情報を漏らさないのだ。
「黒尽くめの男が老父星を狙った理由が掴めない。生かさずに、殺したのも不可解だ」
もし老父が星の子と知った上での犯行だった場合、怪奇を祓うだけでは手緩いのかもしれないと話す。
「要点をまとめると、俺たちに怪奇の処理を頼みたいんだよな?」
「そうだね。巻き込んで申し訳ないけど……」
宗派内での対立は、後々の面倒に発展する。珊來もそれを危惧しているのだろう。
初対面の人間に対する頼み事ではないのは確かだと、珊來は漏らした。
だが、その困った表情を作る時間も無駄だ。林琳は怪奇を心底愛している。既に浮足立っているし、どうせ等価交換でかなりの対価を求めるに決まっている。変死体に関しては、片燕の無罪を証明するためにも重要な事柄である。利害の一致で成り立つ関係は楽なものだと、彼らは珊來へ密かに感謝した。
「森を歩いていれば、向こうから接触してくる。ほら、さっきもそうだっただろう? だから君たちはひたすら祓えばいい。もし領域が完成していれば……」
「老父を喰らった怪奇だ」
「ご明察!」
仁のその答えに、珊來は手を鳴らして喜んだ。
彼の反応は、自信に満ちたものであり、その様子が周囲の緊張を和らげているかのようだった。
所々甘い褒め方をする珊來に対して仁はむず痒くなった。教えの説き方が片燕宗主と似ている。しかし二人は知っている。師匠と同類ならば、笑みの後ろに強烈な鞭も隠している現実を。
「他に質問は?」
そう聞かれても、怪奇について特に話題もなく、興味本位で水害の対策を聞けば、珊來は快く教えてくれた。余所者でも理解しやすい言葉を選び、歴史に沿って紡がれるその語り口は、流石は蒼羽の年長者。年下に教えるのにも慣れているようで、林琳と仁は自然と耳を傾けていた。
次第に知識にない言葉が出てくると、林琳は即座に説明を求めた。その輪に仁も加わり、洞窟内はまるで書院のようだ。開きっぱなしの書は栞も挟まずに閉じられており、脇に置かれ、珊來は頬が緩む。二人の刺々しい雰囲気が嘘のように消えたことに安堵した。
——探求心が豊富な子は好ましいね。
宗派は違っても、教えを乞う姿は可愛いものだ。焚火の火種となった書も燃え尽き、雲から顔を出す日が洞窟の中を照らす。葉に滴る雨水がぽちゃん、ぽちゃんと光を反射して木霊している。
衣も大方乾いた。林琳は竹を手に取り思いっきり背伸びをする。ついでに大きな欠伸をして、くぐもった声を漏らした。仁は腰を曲げたり、肩を回したりして筋を伸ばしている。
「よし、頼んだよ」
片っ端から怪奇を祓えなんて、普通の仕人なら嫌がる誘いだ。身の丈に合わない力を持つ怪奇が現れるかもしれない。欠落だけじゃなく、最悪命だって落とすこともある。
「師兄ー! しっかりしろ!」
緊張感を一切感じない林琳は、洞窟の入り口で再び顔を出した太陽に絶望している。洞窟内は比較的涼しく、雨が降っていた冷気もあって快適だったが、入り口に出れば確実にやられる。雨が降った後の日照りで、一気に湿度が上がってしまった。
「背負って歩いてもいいけど?」
「馬鹿!」
林琳が反論する。
珊來から見れば、二人の言い合いは年相応で微笑ましい光景だ。しかし、神は彼らの持つ心力には少しの違和感を感じていた。共に記憶を覗いた時の歪み。それを見透かした蒼羽の宗主が顰めっ面で解き明かそうとするのは容易に想像できる。二人が許せば、蒼羽に客人として招待しよう。せっかく繋がった縁だ。文の礼も兼ねて、羽根休めに泊まるのも良いだろう。六敬たちより少し年上の彼らは良い影響を与えてくれるに違いない。この機会に交流を深めるのも一興だ。
「粗方片付けたらこの場所で落ち合おう。宝玉が森の道案内をしてくれる。危機が迫れば心力を込めて、私を呼びなさい」
仁は林琳の腕を掴み、外へ出そうと引っ張った。彼が話を聞いているのか不安になるが、仁は珊來に頷いてみせた。どうやら大丈夫そうだ。一方、珊來が踏ん張っている林琳を扇子で仰ぐと、張り付く前髪が涼しそうに揺れた。涼しいと目を細めた姿は、まるで猫そのもの。ふと我に返った林琳は、忌々し気に扇子を避け、仁の隣を歩いた。並んだ二つの背中は、付かず離れずを保つ不思議な距離感を生み出していた。遠くもなく、近くもなく、一定の距離を保っている。
陣が正常に発動しているのを確認した。村には六敬と綺琉がいるし、怪奇が手を出しても二人なら祓えるだろう。発動している陣との相性も良い。
右に曲がった二人とは逆方向に進む珊來は、扇子を一振りして森を進む。
「さぁ、仕事の時間だよ」
珊來の持つ扇子"七色聖"は、親骨から仲骨全てに小さく鋭い刃が仕込まれている。一見普通の扇子にしか見えないが、珊來がその気になれば岩だって切り裂くことができる。穏やかな風貌とは真逆に、力技は扇葉九の愛弟子の証だ。
お得意の力技で怪奇を祓っていると、宝玉の気配が薄くなった。翡翠の宝玉には珊來の心力が封じられており、追跡や通信に使用することができる。つまり、一種の保険だ。余所の宗派に属する弟子に何かあれば、己の首が飛ぶかもしれない。その前に扇葉九に知られれば、一瞬であの世行きが確定だ。珊來は目の前にいる蜘蛛のような存在を物理的に沈め、怪奇の潜む社を砕いた。
遠くで怪奇の領域が開かれ、林琳たちもまた、しつこく干渉してくる怪奇に対峙している。森を歩き、領域の扉をこじ開け、祓う。至って簡単な作業を繰り返すうちに、領域には共通点があるのではないかと思い始めた。まず、社は必ず二つある。向き合っている社と、背中合わせの社、既に片方が崩壊している社。向きは違えど、必ず二つの社が建っているのだ。現世を写した領域は、まるで迷路のように繋がっているのかもしれない。床に薄く水の膜が張っているのも、全てに共通している。
「どれだけの領域が生まれてるんだ……もう十個は壊したぞ」
十一個目の社を破壊した仁は、両手の指を全て立て、あり得ぬ方向に曲がった腕を踏み潰している林琳に見せつけた。塵になる腕は六つ目の怪奇と違って弱いが、数が多く、終わりが見えない。交互に祓っては、数を数えるのをやめてしまった。
珊來の方はどうだろうか。こちらと同じ数だけ祓っていれば、老父を喰らった怪奇と遭遇してもおかしくない頃合いだ。仁が脇道の岩に腰掛けて休んでいると、息つく間もなく怪奇の干渉を察知した。
——"■■、■、■……■■"
——"■■■■■■。■■■"
雑音は森を駆け抜け、次第に大きくなり——弾けた。それは十二回目の干渉であった。
両耳を貫く雑音が森を包み込み、木々を揺らし騒ぎ立てる。耳を塞いでも心に干渉する怪奇の存在は、並大抵の人間には対応できない。やはり、珊來が村に陣を置いてきたのは正解だったのだろう。
埒が明かないと宝玉の心力を辿り、通信を試みたのは日が沈んだ頃だった。
《そろそろかなと思ってたよ》
珊來の声が宝玉から直接、林琳と仁の脳内に響く。湯水のように湧き出る心力によって、怪奇の雑音が止んだ。宝玉から滲み出る珊來の心力を怪奇が恐れ、避けているのだ。
《私の場所はわかるかな》
洞窟を出て別れた道を戻れば、宝玉が反応して導くだろう。そもそも、山に敷かれた道は一本しかないため、迷うことはない。珊來は当初の予定通り、洞窟で落ち合うことを提案した。
先に洞窟へ向かっていた珊來は、二人の声が途切れたことに嫌な予感を感じて立ち止まる。やけに静かだ。二人とは正反対の方を歩いていた珊來だが、洞窟へ進めば自然と距離が縮まるはずなのに、宝玉の気配は一向に近づいてこない。逆に気配が遠ざかっているように感じるのは、気のせいだろうか。
「まさか……」
珊來の口がわずかに吊り上がった。
「……遭難してないよね?」
——二人からの反応はない。
松季国周辺の森は、道を外れると地元の住民でさえ迷子になる。見渡す限りの森には目印もなく、二人が迷子になったのは明らかだった。珊來は己の頬が引き攣るのを抑え、動かないよう念押しして伝えた。
気を鎮めて森を走り抜け、宝玉の気配を探ると、一本道をかなり外れた場所で二人を見つけた。大人しく待っていたらしいが、仁は口を尖らせ、林琳は目を閉じて完全に片割れの視線を遮断している。どこか様子がおかしい。それに、宝玉を手持ち無沙汰に弄んでいるのはやめてほしい。相当な価値が付く翡翠なのだ。心力も溢れるほど注いである。
日が暮れ、周囲は暗く、濡れた落ち葉が積もった斜面は危険だ。珊來は邪魔な枝を七色聖で切り裂き、慎重に飛び降りた。
「全く、遭難したなら早く……うん?」
近くで目を凝らすと、妙に衣が砂埃で燻んでいる。雨で泥濘んで滑り落ちたのなら、泥や水で汚れているのが妥当だが、そんな様子は見受けられない。
眩暈が起こりそうになるのを、七色聖で口元を隠して堪えた。その下は抗うことなく引き攣っている。
綺麗好きの珊來にとって、二人の身なりは目を瞑ることすらできない状態だ。無類の綺麗好きである六敬がこの場にいたら、悲鳴を上げるだろう。
「一応聞くけど、どんな祓い方をしたらそうなるのかな?」
「嗚呼、よくぞ聞いてくれた!」
仁が疲労を覚え、干渉された回数を数えるのをやめた頃、気まぐれな林琳が憂さ晴らしに特大の心力を社に叩きつけた途端——一気に領域が崩壊した。林琳の心力は黒い火花を散らして、領域そのものをかち割ったのだ。
足元は完全に崩れ、先の見えない暗闇に落下する。体制を崩して奈落の底に落ちる中、当の本人は鼻で笑ってけろっとしている。仁は己の師兄の予測不可能な行動には慣れていて、大体の行動は予測できると自惚れていた。しかし、今回のことを受けて見直そうと思う。これでは命が幾つあっても足りない。
急な浮遊に唖然と襲われていると、林琳が仁の首根っこを引っ掴み、出口を強制的に開放する。爆発的に時空が歪んだ領域を強引に解放した結果、彼らは森の奥に放り出されたのだった。
仁は珊來に詰め寄ると、感情のまま息継ぎをせずに言い切った。苦笑いを浮かべるしかない珊來も、話を聞く限りでは林琳に非があると視線を送る。
「何?」
林琳は何一つ反省している様子がない。この二人がどのような境遇で育ったのか全く知らない珊來でさえ、仁に対して同情の念を抱いた。
「うん、それは林琳が悪いね」
確実に林琳の横着が生んだ結果だ。仁が口を尖らせるのも納得する。
「はぁ!?」
「だろ!? 今回は流石に死ぬかと思った!」
これまた矢継ぎ早に話す仁の口振りに、今回が初めての横着ではないと知る。知らん顔で無視を続ける林琳に怪我がないのを確認すると、心底安心したと珊來は呟いた。多少揉めたにしろ、怪我がないならそれで良い。
「二人が無事で良かったよ」
珊來は微笑みながら、「横着はほどほどに」と付け加える。林琳はふん、と横を向き、視線を彷徨わせた。また機嫌を損ねる言葉を投げかけてしまったと珊來は肩を落とす。
月が三人を優しく照らし、珊來の清らかな心力を宿した御守りが淡い光を放つ。その澄んだ空色の光が、仁の荒んだ心を静かに癒やしていた。
淡い光を放つ組紐は珊來の柔らかい顔立ちに良く似合い、その暖かさは彼の人柄を示していた。心力は持ち主によって質が異なる。心力は純粋に個人が持つ心の力。簡単に言えば精神力。林琳には林琳の、仁には仁の、其々異なる心力があるのだ。仕人としての強さは専ら精神力の強さで測れるが、林琳達の知る中でも蒼羽の珊來は数少ない清らかな心力の持ち主だった。心力は清らかな程怪奇に対して有利になるし、人柄を表す為他の宗派から警戒されにくい点がある。仕人であればほぼ確定で初対面なのに善人認定される。
心力の使い方は様々。例えば、封書に仕掛けられていた跳ね返りの罠。あれは林琳が京に渡した組紐の効力と基本的な仕組みは同じだ。封書には差出人の心力が封じられており、珊來の心力に反応して封印が解除され、反対に望まぬ者が開こうとすれば跳ね返りが発動する。一種の術だ。
仁は、そのことを思い出すと再び苛立ち、目の前の燗酒を一気に煽る。
「師兄ー……」
酔いが回り、仁がふらつきながら林琳に絡む。林琳は組紐を編む手を止め、仁の絡んだ髪を解きながら、面倒そうな表情を浮かべた。
「さっさと寝ろ」
「んー……」
珊來が扇葉九に連絡を取ると言って外に出てから、随分と時間が経った。
戻らない珊來はきっと封書にも目を通しているのだろう。
林琳と仁の二人きりになった洞窟は、夜の冷たさが徐々に身に染みる。仁は身震いしながら、焚き火に背を向けて林琳の腹に腕を回した。疲れが体を蝕むように、仁はすぐに深い眠りへと落ちていく。林琳は外套を肩にかけ直すと、再び組紐に手を伸ばした。編みかけのまま、止まっていた糸を丁寧に動かしながら、彼は思い出に浸っていた。
昔、まだ二人が幼かった頃、彼らは師匠と三人で各地を飛び回っていた。無邪気な子供だった仁は、あてもない旅の中で拾われ、やがて手を引くことを覚えた。その小さな手が、今では林琳の手を包むほどに大きく、逞しく成長している。仕人としての実力も申し分ない。もう、あの頃のように手を引いてやる必要はないのだ。仁は、己の力でこの広大な世界を生き抜き、本当に欲しいものを手に入れる力を得たのだから。
眠る仁の顔は、あの頃のままだ。彼の頬にかかった髪を、林琳は優しく払いのける。
片燕の疑いを晴らすための旅ではあるが、林琳には別の目的があった。
——亀裂の入った魂の修復。
何度も竹林へ出入りした影響と、元々受けていた損傷によって、仁の魂には深い亀裂が刻まれていた。それに気づいたのは最近のことだ。林琳が思い付いた修復法は、あまりにも単純だが効果的なものだった。魂が完全に壊れてしまう前に、現世に留まらせ、徐々に亀裂を癒していく。
林琳は、仁が再び竹林へ迷い込む愚かさを阻止するため、己が現世に留まることを決めたのだ。全てが終わったら、再び領域へ戻り、償いを続ける。それが己の定めだと悟っている。宗主の言葉通り、罪からは決して逃げられはしないのだから。
「お前は片燕を守るんだ……お願いだから、これ以上手間をかけさせるな」
それが——正しい未来だと信じている。
夢の中へ旅立った仁の静かな寝息が響く。火の粉がぱちりと爆ぜる音、風が木々を揺らし、遠い記憶を運んでいく。夜は、静かに深まっていった。
◆
今日も今日とて天気は気まぐれで不安定だ。
燭村の上空は黒い雲が厚く覆い、まるで沈んだ感情を映し出すかのように陰鬱としている。それに対し、遥か彼方に見える燈村の空は、青く澄み渡り、快晴そのものだった。
「珊來先輩ー!」
村の前で手を振っているのは、昨晩酒屋で見かけた若者二人と、かつて扇葉九に沈められていた園泉だ。昨夜、珊來は燭村で合流する予定を立てていたらしく、何故か林琳と仁も半ば強引に同行させられていた。
「ご無事でしたか!」
園泉は久しぶりに目にする珊來の姿と共に監視相手の二人が一緒だと知り心底安心した。余所の仕人を二名同行している旨の連絡を受けた際、「もしかして」と思ったのだ。蒼羽以外の宗派と面識のない園泉は、立ち入り禁止とされている燭村に向かう人間が一般人だと勘違いしていたが、しっかりと仕人であった。
「同門の六敬と綺琉、園泉だ。こっちは林琳に仁。色々と協力してくれているから仲良くね」
「初めまして!」
明るく眩しい笑顔と共に、挨拶が次々と返される。しかし、林琳にとってこの三人の明るさは過剰すぎた。蒼羽には光属性の仕人が多くいるのだろうか、と疑うほどだ。片燕の仕人たちはどちらかと言えば遠慮がちで控えめな者が多いが、この三人は溢れるばかりの光を放ち、林琳は無意識に後ずさりしてしまう。それに比べ、仁は淡々とした様子で拱手を交わし、片燕の若者たちと同等に接していた。
燭村に突如として訪れたにも関わらず、村人たちは親切に宿泊場所まで手配してくれた。それも蒼羽への信頼の賜物だろう。村の外に広がる棚田を見下ろせる大広間では、園泉が子供たちに読み書きを教えている。大きな一枚の紙を囲むようにして、子供たちが楽しそうに背中を丸めているのが見える。
園泉は文字を教えるだけではなく、身近な農具の絵を描かせ、そこに名前を書かせていた。それが、子供たちにとって遊びのようになり、彼らは互いに問題を出し合い、さらに園泉に頼んで道具の名前を教えてもらおうとする。その熱意と純粋さは、園泉の顔に喜びを浮かべさせた。
「せんせい!」
尊敬している珊來の前でそう呼ばれると赤面して狼狽えた。一生懸命子供達へ教える園泉を邪魔してはいけない。珊來が励ましの言葉を投げかけて去ると、綺琉が話を誇張して園泉を揶揄った。更に顔を赤く染めた園泉が「違います! 綺琉先輩! 嘘を言うのはやめて下さい!」と弁解しても火に油を注ぐのと同じで綺琉には勝てはしない。賑やかな園泉と綺琉に触発された子供達は筆の代わりに木の枝を取って遊び始めた。こうなったら子供は手が付けられない。
「もう……綺琉ってば、邪魔ばかりして」
「子供は遊びで学ぶもの。不器用だけど綺琉の気遣いだよ。園泉もよくやってるから、大目に見よう」
綺琉が子供に突撃されて躓き、園泉が巻き添えを喰らって見事に地面に口づけをしたを光景を二人は笑った。珊來の前で教師役など園泉には荷が重く、綺琉が気を利かせて遊びに移行させたのだ。子供達と一緒ならば息抜きとして何も問題ない。
「宗主様から聞いたよ。文の行き違いがあったみたいだね」
「はい。私達は珊來先輩が燭村で陣を張った事や、村長の無事を伝える文を出しました。しかし宗主様の手元に届いた文には……珊來先輩の情報は一切書かれていなかったのです」
六敬は「第三者がいるのは間違いありません」と何者かに邪魔をされている可能性の話をした。
扇葉九と文の行き違いがあったのは珊來も同じだった。消息不明だと思われていた珊來だが、実は違う。怪奇に襲われている村長を救出した後に燭村で何度も扇葉九に連絡を試みたし、心力が駄目ならと伝書鳩も出した。
「私たちは先輩を探しにきたのですが……園泉は……その、違う様でして」
困った様子の六敬は子供を肩車している弟分を心配そうに見ている。
「宗主様があのお二人を見張る様にと」
「林琳と仁を?」
「はい」
六敬は肩を並べて棚田を眺める林琳と仁が怪しい者とは思えなかった。尊敬する珊來が連れて来たのだ。大体の状況は掴めている。しかし、宗主と珊來の感情が対立しているのは珍しく、何が起きているのかしっくりこなかった。二人に疑いの目を向けてもいいのか、迷っている自分がいた。
珊來は暫しの間熟考した。
珊來はしばらく熟考した。相変わらず付かず離れずの距離を保つ林琳と仁は、棚田に興味を示している。出身国も宗派も知らないが、珊來は気にしなかった。
林琳と仁は善良でなくとも邪悪ではない。それだけで十分だ。
かつて珊來の師である扇葉九は珊來にこう教えた。
——"「誰もが悪になる素質を持ち、誰もが善になる力を秘めている」"
「見極めるのもまた修行の一つ。お前なりに彼等を評価すればいい」
「私なりに……」
そうとなれば取るべき行動は決まっている。
「少しお話をしてきます」
「うん、いい考えだね」
珊來は蓋碗を二つ六敬に持たせ、耳元で助言を与えた。小麦色の目をまん丸にして六敬は珊來を見上げる。彼は愛おしそうに微笑むと、背中を押した。
少し前のめりになりつつも、六敬は不安と緊張を抱えながら声を掛けた。
六敬の気配に気づいた仁が手招きしている。どうやら会話に入れてくれるらしい。ほっとした瞬間、八重歯の覗く口元が六敬の名を呼んだ。
「六敬は幾つになったんだ?」
「半年後に十八になります」
仁は幼さを残す六敬の顔立ちに、もっと年下と勘違いしていたと話すと、六敬は言われ慣れているのか「童顔なんです」と苦笑いした。反対側に座る林琳と並ぶと、同い年に見える。六敬と同い年だと言われても納得するほど、林琳はかなりの童顔だ。
それからは仁が話を振り、六敬が答える会話を繰り返した。仕人関連の話はせず、様々な国を旅した仁と林琳は各国の名産物を教えた。水産業が盛んな国や農業が有名な国、また水害に襲われる松季国とは対照的に干ばつに苦しむ国の話も。林琳が話を折らない程度に問題を出すので、六敬は持てる知識を駆使して答えた。大半は的外れな回答で経験不足と笑われたが、経験は今から積んでいくのだから気にしなかった。二人と話していると、知らない外の世界が見えてきて、六敬の心は躍った。次はどんな話をしてくれるのか、期待で胸が膨らむ。
「でも、燈村のお天道様ってやつは驚いたよ」
あんな経験は珍しい。
六敬が食いつくと思って仁は燈村で起きた話をした。
「え? 今、何と……?」
驚きに満ちた表情で仁を凝視する。聞き間違いか。六敬は震える手を握り締めて仁に問う。
仁が繰り返して燈村の名を出すと、六敬は有り得ないと首を振り、青空を指さした。燈村の方角だ。
「燈村は四年前に怪奇によって崩壊しました。丁度水害と重なった年に、橋の崩落が同時に発生して……既に飲み込まれた後でした。今は村の面影はあっても……人はいないはずです。奇跡的に二つの社は無事で、燭村の村長が定期的に供養を行っています。棚田も放置されており、手付かずの村ですよ」
村落の名前を何か勘違いしているのではないかと、六敬は首を傾げた。
嚙み合わない話に、沈黙が広がる。
二人は紛れもなく燈村で一夜を明かした。橋の崩落によって遠回りをしつつ、鬱陶しい暑さの中で山道を歩いて辿り着いた燈村。素巳や珠樹と共に食事をし、仏堂にも足を運び、松季国へ米を卸している話も聞いた。棚田も艶やかな美しい夕焼けに染まり、村を出る頃には素巳から等価交換で受け取った糸もある。それなのに、あの村落は幻だったと言うのか。では、御者はどうなる。あの御者は何度もあの村を通って——。
——"「帰りも御贔屓に!」"
御者が別れ際に溢した言葉。
領域に発生する類似した二つの社。
珊來宛ての古びた封書。
四年前に怪奇によって滅びた燈村。
そこへ足を踏み入れた紛れもない現実。
嗚呼、まさか、そんな事は……有り得ない。
「村自体が領域だったのか……!?」
◆
本来、怪奇の領域と現世は平行線で存在している。普段は互いの境界は接する事なく、それぞれの領域を保っている。
しかし、怪奇が干渉してくる時だけ歪みが生まれ、道が繋がる。
「珊來!」
辻褄の合わない現象に林琳は珊來を呼ぶ。園泉と綺琉をのんびりと眺めていた所を急に呼ばれた珊來は、子供達に軽く手を振り歩み寄る。その場には先程まで二人と話していた六敬がいないが、「どうかした?」と目尻を下げて微笑んだ。
「領域と現世が平行線を飛び越えて……同じ座標に存在する話を聞いた事はあるか」
目頭を揉みやけに神妙な面持ちの林琳は、何も聞かずに二択で答えて欲しいと告げる。
「……ずっと道が繋がってるってことなら、一度もない」
珊來は生きてきた中で、そのような現象を聞いたことも、見たこともない。この世界で生きていれば、領域と現世が別の空間であると信じて疑わないし、仮に二つの世界が混じれば各地で死人が出て大騒ぎになる。時間の経過が発生しない領域に対して、現世は時を進めている。平行線で存在していても、全くの別物だと決まっているのだ。
「持って参りました!」
六敬は村長の孫にあたる男から借りた地図を三人の前で広げた。
「ここの地図は昨年作成された最も新しいものです。こちらは四年以上前の地図です」
村落の倉庫に仕舞われていた地図には燈村の名が載っている。しかし、蒼羽が持つ真新しい地図にはその名は記されていなかった。
仁は繰り返し、紛れもなく燈村で一夜を過ごしたのだと言う。事細かに情景も覚えており、食事も摂った。本当に四年前に燈村が崩壊し、地図からも消え去ったのであれば——あの空間は一体何だったのか。
林琳と仁は理解の範疇を超えていると天を仰ぐ。
「絶対にあり得ない事を巻き起こす……それが怪奇」
そもそも怪奇についての正しい情報はほぼ皆無だ。今までの言い訳は通用しない。憎悪に近い愛を抱いてきた相手が、ざまあみろ、と嘲笑っている。林琳は歓喜と憎悪が同時に渦巻き、視界が妙に明るくなった。
「君たちが封書を受け取ったのは……四年前に存在した燈村だというのか」
古びた封書には懐かしい心力が未だに香る。もし二人が話した内容が真実ならば、蒼羽宗主を除いて事を進めるのは大問題だ。いくらなんでも危険すぎる。
——"「帰りも御贔屓に」"
御者は意図的に林琳と仁を燈村に誘った。今思えば、変な訛り言葉は松季国では一度も耳に入っていない。仁が御者の特徴や訛り言葉を真似てみると、珊來と六敬は揃って首を横に振った。
「松季国の国民じゃないね」
御者の行き先も、名も、わからない。既に国を発っていれば今更手掛かりはないだろう。これでは打つ手なしか。珊來は扇葉九に連絡を取ろうと考えた。
「……御者が燈村に帰ると信じているなら、どこかにいるはずだ」
その時を待って身を潜めているのかもしれない。問題は御者の居場所だ。
六敬はおずおずと手を挙げて尋ねた。「悟られないようにお二人を連れて領域を出入りするには……相当の心力を使いますよね。手練れではありませんか?」
仕人か判断できない状況で接触する。ただでさえ変死体の問題が起きている中で、更に危険を冒す必要性があるのか。六敬の言い分はもっともだった。珊來も否定できず、七色聖をぱさりと開き考え込む。沈黙が続く中、子供たちの笑い声だけが響いている。
「一先ず、宗主様に相談しよう」
やむを得ないといった風に、珊來は扇葉九に心力を通して意識を繋いだ。無論、林琳と仁の二人は余所者のため、一歩身を引くこととなる。他の宗派が通信に介入した時点で、それは様々な掟違反だ。問題児と呼ばれていようが、その程度の礼儀はわきまえている。
珊來に通信を任せ、怪奇の領域で発生する二つの社について話を進めた。
「社は決まって二つ。片方の社は怪奇が身を隠し、もう片方は空。」
子供たちが置いていった大きな紙と筆を取り上げ、筆先を墨に浸けると、丸を二つ描いた。共通している領域には不可解な点がいくつかあり、林琳は昨夜考えていた仮説を噛み砕いて説明することにした。
「領域と燈村が同じ座標で存在している前提で話す。二つの社は、領域を飛び回る怪奇の出入り口で、祓い続けても怪奇が生まれるのは、本体が社を経由して逃げ続けているからだ。燈村は既に怪奇に飲み込まれていて、壊滅する寸前の歴史を巻き戻しているかもしれない。俺と仁が見たのはその一部だ」
二つの丸を四角で囲み、枝分かれして幾つもの丸を描く。黒く塗りつぶした丸が出口、そうでない丸を入り口とした。二つの丸を更に四角で囲い、一つの領域として表した。離れた位置に一際大きな四角で囲まれた丸が燈村の社だ。
六敬は思考が追い付かず、林琳の話す仮説が一種の紙芝居の様に浮かんだ。
「うん、面白い仮説だね。さて六敬、領域によって起こる後遺症は?」
後少しでも深入りしたら目を回しそうな六敬に戻ってきた珊來が示唆する。
「記憶の欠落、身体の欠落、感情の欠落、時間の欠落です」
「じゃあ、時間の欠落とは?」
「精神、身体、記憶の退化……」
珊來が徐々に答えに導くと、絡まった紐が解け、途端に「あ!」と声を上げた。
「燈村自体が時間の欠落を受けている! でも、人が生きている理由が……」
答えに近づくにつれて新たな謎が生まれる。六敬は再び頭を抱えてしまった。珊來ならば答えがわかるはずだ、そっと名前を呼び助けを求めた。しかし珊來は何も答えない。ただ、眉を下げて、瞳が微かに揺らし、七色聖で口元を隠すだけ。六敬は初めて見る珊來の様子に、何か失言してしまったのかと青褪めた。
「林琳はどう考えてるのかな」
ぽん、と六敬の頭を撫でると、林琳に問う。
失言をしてしまった不安から真っ青だった顔色に血色が戻った。
「彼らは四年前に死んでいる」
琳と仁が見た人間は、時間の欠落によって生み出された哀れな傀儡だった。何度も何度も怪奇に喰われては甦り、また喰われ、同じ時を繰り返しながら進まない領域に囚われている。しかし、彼らの魂は蘇らず、欠けていく一方だ。己が死んだ自覚もなく、永遠に終わりと始まりの渦にいる。彼らを救う手立ては何もない。怪奇を祓えば、領域も自ずと崩壊し、跡形もなく消えてしまう。林琳ははっきりと言い切った。
「そんな……」
救えるものはすべて救う。扇葉九の背中に憧れる六敬には、あまりにも酷な決断だった。この言葉に、同門の珊來さえも沈黙してしまう。林琳がぽつりと紡ぐ声だけが響く。
「世の中には救えない命の方が多い」
林琳は一つ、また一つと丸に線を引き続ける。
「どうにもならない事だってある」
燈村を残して、全ての丸に線が引かれた。救えないのなら、拾わずに捨てておけばいい。何もかもが平等に回る世界ではないのだ。幼い頃から旅をする中で、彼は自ずとそのことを知った。必要以上に命に関わってはいけない。一定の距離を保ち、自分の道と、抱えられる少しの命を持つだけで十分だ。命を見捨てる残酷な人間だと、昔から罵られることには慣れている。迷いなく、林琳が残された丸に筆先を滑らせようと——最後の線を引こうとしたその時、優しい手によって林琳の手から筆が離れる。
「でもさ、師兄、諦めるのはまだ早いだろ」
御者が何かを握っているのは明らかで、まだ道は途絶えていない。昔とは違って、今は蒼羽の仕人もいる。独りではないのだ。何でもかんでもすぐに諦めるのは、この師兄の悪い癖だ。
「そうだね。力を合わせれば彼等を救えるかも」
「わ、私も! 苦しんでいる人がいるなら……!」
嗚呼、これだから偽善者は嫌いなんだ。知らないのだろう。輪廻に戻れない魂が、どれだけ彷徨う羽目になっているのかを。竹林に迷い込む魂を通して見た世界は、傷ついた彼らを残酷なまでに突き放す。それならば、いっその事、終わらせてやった方がいい。この三人が話しているのは、時間の欠落を背負い、死を繰り返す魂に、再び輪廻に戻れと告げるのと同じだ。本当にそれが——救いなのだろうか。終焉を待っているとは思わないのか。
林琳は失笑した。どちらにせよ、燈村の人々を救う方法は限りなく皆無だ。無理だと理解すれば、早々に諦めるだろう。
「はぁ……」
胡座で座っていた林琳が、重い腰を上げる。
「御者を探してくる」
手っ取り早いのは、直接怪しい人物に話を聞くことだ。幸い、居場所の心当たりが一件だけある。そのために一度松季国に戻らなければならないが、天候に不安がよぎる。
今出発すれば夜には戻れるだろうと思い、外に視線をやると、いつの間にか雨が降っていることに気づいた。子供たちも大広間に戻っており、園泉と綺琉は濡れた髪を乾かしている。
「あいつらはどうするんだ。綺琉はともかく、園泉はここに残るか国に戻した方がいい」
足手まといになるのは目に見えている。棘のある言い方だが、園泉の身を考えれば林琳の考えが正しいのは明白だった。村に残れば珊來の陣が発動しているし、国に戻れば扇葉九がいる。一人で怪奇に対峙できない時点で、一般人と同じだ。領域で精神を保てない園泉と一緒に行動するのは難しい。
「燈村に数人の仕人を配置することになった。本拠地には宗主様がいるとはいえ、手薄になりそうだ。園泉は本拠地へ帰らせるよ」
扇葉九は珊來の報告を受け、四年前に滅びた燈村に弟子を配置し、陣を張ることに決めた。近郊の村落に遣わされた弟子に加えて、さらに人手が減る。大規模な宗派ではあるが、遠方に出る予定の者もいて、やや手薄になってしまう。流石に松季国を襲う者も怪奇もいないだろうが、黒尽くめの謎の人物の身柄がわからない限り、油断はできない。
「村長は療養中だが、容体は安定している。定期的に心力で回復を促すのは綺琉に任せて大丈夫だ」
怪奇に襲われた村長は、領域に立ち入ったことで軽い後遺症を負ってしまった。それでも小指一本で済んだなら安いものだと村人たちは涙ながらに語った。生きていれば、それでいい。なんだってできるのだ、孫は必死に祖父の手を握り、回復を願っている。
精神の乱れを整えるために、珊來が定期的に心力を注いでいたが、回復傾向が現れ、綺琉でも十分対応できる範囲となった。
「仁は林琳と一緒かな」
当たり前だと頷く仁は二人はどうするのだと聞く。
「この件に関しては蒼羽の問題でもあるからね。私は燭村で指揮をとる。六敬は松季国に戻り、宗主様の補佐を頼むよ」
手薄になった本拠地に六敬が戻るのは最善の判断だ。園泉は六敬に同行して国へ戻れば身の安全が保障され、珊來も安心できる。
「本拠地には行けないが、松季国へ向かうのは同じだ。俺たちも一緒に出発する」
「この宝玉は借りておく」
「あぁ、是非そうして欲しい」
たっぷりと注がれた珊來の心力が淡く光るのを確認し、林琳は腰にぶら下げた袋に入れた。これだけ心力が溜まっていれば十分だ。
珊來が蚊帳の外になってしまっていた二人の名を呼び、事の経緯を全て話す。驚きはしたものの、物わかりの良い二人だ。状況を理解し、素早く身支度を整える。
「六敬、園泉。宗主様を頼むよ。それに……他の宗派である君達に蒼羽の弟子の面倒を見させて申し訳ない」
「今更だ。それに安心しろ、お前たちのためじゃない。邪魔になったら捨てていく」
蒼羽に手を貸すのではなく、御者に巻き込まれたのだ。利害の一致で成り立つ関係はこの先も変わらない。林琳があくまでこの関係を利害の一致とするのであれば、釘を刺す言葉は珊來にとってありがたいことだった。報酬のためであれば手を抜かないのは、余計な親切心で気を遣われるよりもいい。
「何かあれば連絡しなさい。例えば……林琳に意地悪されたとか、ね」
片眼を瞑って珊來が悪戯に微笑む。
「失礼な奴だな。いつ俺が意地悪したんだ」
林琳が不満げに口元を下げる。
六敬自身、林琳たちに対する不安や恐怖はすでに砕けていた。並んで歩く後ろ姿を少し離れた位置から見ていると、林琳と仁が同時に立ち止まり、振り返った。
「おーい! 早く行くぞ!」
林琳たちが手当たり次第に祓った怪奇は、帰国までの間、少しも姿を見せなかった。それよりも、若者二人の質問攻めにかなり早い段階で根を上げてしまった。
まずは宗派の話から始まった。
手始めに「どこの宗派ですか」「師匠はどなたですか」「二人は何故旅をしているのですか」などなど。無論、笑って誤魔化した。この幼い仕人の視野がわからない中で、迂闊に片燕の名を出せば、後々大変な事になる。それでも触れても大丈夫そうな質問には幾つか教えてやった。
六敬は、自身の知識不足を恥じているらしく、短い間に林琳があのような仮説を立てられることに興味を持ったようだった。彼は、その知識の引き出しがどこから来るのか、一番知りたかった。
知識と経験が等しく身についている林琳は、群を抜いて本の虫だ。片燕の書庫には膨大な数の古書や指南書がある。林琳に関しては「知らない」「わからない」「聞くな」を乱用し、六敬と園泉が飽きるのを待っていたが、左右を彷徨う騒がしさに一つだけ質問に答えてやると、なぜか仁を指さした。
「あとはこいつに聞いて」
つまり、林琳は何も答えるつもりはさらさらないということだ。
だが、二人が考えた質問はなかなか返答に困るものだった。よりによってそこを突くか。
「喧嘩をした事があるかって?」
勿論ある。
もちろんある。
本拠地に完備された稽古場が半壊したのを喧嘩と呼ぶなら、二人が巻き起こした喧嘩という名の破壊活動は数え切れない。毎度の修理費は林琳の懐から抜き取られている。事の発端が大抵一番弟子であるのを宗主は見逃さず、使い道がないからと溜まりに溜まった金を修理費に充てているのだ。
園泉は優雅に剣を交える姿を想像しているらしいが、それは夢のまた夢。
片燕の喧嘩は拳だと規則で決まっている。己の力で殴らなければ気が済まない林琳と、怪我をさせる気は一切ない仁。怒り心頭でも規則に則り武器を持ち出した事例はない。片燕の一番弟子とその師弟の恐ろしい祭りを止める者もおらず、雨だろうが雪だろうが、炎天下だろうが、雷が山の上で鳴り響こうが、稽古場が半壊するまで続く。「飽きるまでやらせておきなさい」と宗主が放任主義なのもあって、林琳は仁が負け惜しみを放つまで徹底的に躾けた。過去に一度も仁が林琳に勝てたことはない。しかし、仁にとって勝敗はどうでもよく、何よりも腹立たしいのは林琳が昔馴染みのあの男と危険な行動を取っていることだった。嫉妬が混じっていた事は否定しないが、林琳の身勝手な行動はいつか身を滅ぼす。それを何故わかってくれないのか、何故聞く耳を持たないのか、何故声が届かないのか。幼い頃からずっと一緒に歩んできた道が、大きくなるにつれて一つ、二つ、分岐していくのを仁は恐ろしく感じている。
結局、園泉には「喧嘩ぐらいする」と当たり障りのない答えを贈った。
「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました。お二人もどうかお気をつけて」
あの長い橋を渡り、別れた。すると、我関せずを貫いていた林琳が、拱手する二人に声をかけた。
「……本を読め」
行き詰まったら原点に戻るという考えから、昔読んだ古びた一冊の本を思い出す。
大人になってから読み返すと、さまざまな観点から新たな発見があることがあるし、今の状況下ではそういった発見が出口につながるかもしれない、と助言する。
顔を見合わせた園泉と六敬は口元をむずむずとさせ、もう一度拱手して去っていった。
「珍しいな」
「誰かと同じで一回答えるとそれ以上の質問が来て鬱陶しいことを忘れてた」
「あぁ……あいつらか」
——至極納得した。
◆
《宗主様。無事に出発しました。何事もなければ日暮れには戻れるかと思います》
その言葉通り、六敬と園泉は無事に帰還した。今は自室で休むように言ってあるが、二人とも書庫に閉じこもってしまっている。どうやらこの度の事件で多少なり思う節があったのだろう。少しでも役立つ情報が得られればと、扇葉九にとっては嬉しいことであった。
消息不明だった珊來と連絡が取れるようになり、安堵したのも束の間、蒼羽の伝書鳩が運んできた文から第三者の介入が発覚した。密書のやり取りはしていないにせよ、これはかつてない大問題だ。蒼羽の伝書鳩は使用者の心力が深く染みついており、同門以外の者には触れさせない仕組みになっている。怪しむ点も見当たらなかった。
頭痛の種はこれだけではない。
余所者の二人だ。珊來から聞く話によると、御者に連れられ四年前に滅びた燈村へ訪れたと言うではないか。扇葉九もふざけた事を吹き込む余所者に怒りが沸いたが、珊來が仮説を話し始めると、何も言えなくなった。その仮説を立てたのも、余所者の一人、凪を纏った男である。利害の一致ではあるが、彼は怪奇を祓う手伝いをしてくれているらしい。御者探しの役目も買って出たのだ。巻き込まれた二人にも譲れない事情があったのだろう。心力に違和感があったが、能力の高い仕人であると、珊來は扇葉九の懸念を払った。園泉と六敬を二人に預け、帰国させると聞いたとき、「もう好きにしろ」と扇葉九は笑った。彼の心力の弾みから、このお人好しな弟子は二人を気に入ったようだ。
本拠地は想像以上に手薄になってしまった。それに燈村の状況は芳しくない。余所者の仮説が正しければ、村の住民は成仏もできず、永遠に死の恐怖を味わい続けていることになる。怪奇が人の魂を弄ぶなど以ての外だ。匂いを嗅ぎつけた夢天理が踏み込んでくる前に、何とか解決しなければ。
扇葉九がこれ程まで夢天理を嫌うには理由がある。
扇葉九が夢天理を嫌う理由は明白だ。いくつかの宗派が同盟を結び、大きな組織が生まれたのは随分昔のことだ。扇葉九が生まれるずっと前、立案者は当時力を持っていた三つの宗派である。彼らは同じ師を仰ぐ仲間で、独立した後に各地に散らばり、それぞれの宗派を築き上げた。時には弟子たちが共に怪奇を祓い、長い間良好な関係を保ち続け、同盟を組むこととなった。こうして生まれたのが夢天理である。何十年もの月日が経つにつれて、組織は大きくなり、所属する宗派も増えた。今では多くの国や土地が夢天理の管轄下に置かれている。しかし、扇葉九は夢天理で頻繁に発生する争いを心底憎んでいた。仕人同士で争うのならまだしも、彼らは一般人を巻き込み、信仰心を利用する。もちろん、全員がそうだとは思っていない。ただし、大きな組織では人間の醜い面が際立ち、善良な心を蝕む。過去には蒼羽にも同盟の勧誘があったが、松季国全土の意思もあり、関わりを絶った。そのため、蒼羽は夢天理には関わらず、独立した宗派を守り続けている。
——ドン
筆を手に取り、墨に筆先が沈む瞬間、窓辺に何かがぶつかった。
仏堂の傍には、大きな実を実らせる立派な大木がある。蒼羽と同い年の木だ。木の実が熟して落ちたのだろう、扇葉九は何気なく視線を向けた。仏堂にも今朝採れた新鮮な実が供えられている。熟しすぎた実はすり潰して食べると疲労回復を促す。落ちたのはきっと、真っ赤に熟した甘酸っぱい木の実だ。
しかし、その考えは真っ赤に染まった生き物によって覆される。
伝書鳩だ。
扇葉九は勢いよく立ち上がり、後遺症を抱えた足を引きずりながら、ようやく小窓を開け放った。血の匂いが風に運ばれて流れ込み、鉄の臭いが鼻を刺激した。途端に扇葉九の瞳が燃え上がり、怒りに染まった。
命からがら逃げてきたのかはわからないが、羽根は曲がり、足は折れ、擦り傷だらけで事切れている。本来月の光を浴びれば白銀に輝く翼は無惨にも血に染まり、意図的に外傷を与えられたことは明らかだ。脚に括り付けられた封書は見当たらず、第三者によって奪われた可能性が高い。しかし、密書を伝書鳩で運ばせる馬鹿な弟子はおらず、使用する際には他者の目に触れても問題が起きない内容にする掟がある。第三者が括り付けられた封書を持ち去ったとしても、こちらに不利になることはない。本当に緊急時であれば、心力を通じて通信を試みるはずだ。毎晩村落へ散った弟子から通信は入っているが、そういった報告は一切ない。
文の捏造に然り、この度の犯行に然り、愉快犯が蒼羽を揶揄っている。
舐めた真似をしてくれる、扇葉九の怒気を孕んだ声が建物内に響き、ガタガタと水龍の勇ましい像が揺れた。水龍様が見守るこの場所で血を見せるとは。花壇に水をやっていた庭師は、まるで水龍様自身が怒りに体を震わせているかのようだったと、修行をやめて駆けつけた弟子に話した。
絶命した命をそっと純白の風呂敷で包み、扇葉九は仏堂を後にした。けたたましい足音に弟子の一人、揶伍が筆を止めて倉庫から現れた。帳簿をつけていたらしく、机の上には何冊かの本が積み上げられている。
「どうかなさいましたか?」
揶伍は扇葉九の尋常ではない顔色に肝を冷やした。庭師から話を聞いた弟子も陰から見守るほどの緊張感が走った。変死体の件を含め、半月以上も嫌な空気が漂っていることを、誰しもが感じていた。珊來が燭村で指揮をとる事になったものの、扇葉九には宗主としての仕事が山となり待ち構えている。今回の事件ばかりに目を向ける訳にもいかず、心労は増えるばかりだ。
「お体に障ります。少しお休みください」
倒れでもしたらそれこそ蒼羽が大きく傾く。揶伍に軽く目線をやり「……構うな」と一言放つ。そのまま大股で自室へと去る姿を見送るが、揶伍は刺繍の美しい風呂敷が大きく膨らんでいるのが気になった。
ぶわっと吹いた風が、開けっぱなしの倉庫へと入り込む。帳簿がバサバサと捲れ、錘を置いていなかった紙が散乱してしまった。折角書き留めた帳簿も水の泡だ。途方もない光景に溜息をついていると、影で見守っていた弟子が肩を叩く。
「揶伍! 大丈夫か」
「今の宗主様に話しかけるなんて、お前……相変わらず凄いな」
兎にも角にも、雷が落ちなくて良かった。散らばった紙に苦笑いをしていると「気にするな、俺たちも片付けるよ」と各々が修行を切り上げて片付けに手を貸す。手間をかけてしまったと頭を下げる揶伍に、一同は笑顔を返す。
「あ、片付けたら夕食の支度を手伝えよ」
そう言って指を立てる体格の良い男は、今週の炊事班で、手伝いが増えて良かったと揶伍の背中を叩く。どうせ明日にはまた組み分けがあるのに、と全員が苦笑いしながら箒と雑巾を手に取った。墨がついた紙が床を汚してしまっている。その後も励ましの言葉を受けた揶伍は手際よく片付けていくが、倉庫内部の配置に手間取って、時間は淡々と過ぎていく。
「どうした?」
時折仏堂の方に目をやる揶伍に、一人が何かあるのかと目を凝らす。しかし、そこにはいつも通りの仏堂があるだけだった。
「ありがとう。助かったよ」
「ほら、後は元の場所に戻すだけだ。俺たちは炊事場に行くけど……揶伍も来るか?」
数人で手分けして片付けた倉庫は元通りになった。後は書物を元の棚に戻すだけで、揶伍は後ほど行くと伝える。炊事の方が忙しいはずなのに、手を貸してくれた同門に感謝の意を込めて甘い菓子を分けると、彼らは喜んでくれた。
人がいなくなった倉庫に揶伍は一人残り、記憶を辿りながら書物を棚に置き、同時に帳簿の検算を始める。奥の物資はすでに検算済みで、入り口付近の検算を終えれば手伝いに間に合うだろう。
腕まくりをして意気込んだ揶伍は、再び肩を叩かれる。
「後は自分一人で……」
「仏堂ってあそこだよね?」
「え……?」
振り返った揶伍は、蒼羽の装いをした男を足の先から頭のてっぺんまで見つめる。若い青年だ。艶やかな髪を結い上げ、にこにことこちらを見ている。彼の顔に貼り付けられた仮面の笑みに、揶伍は思わず眉をひそめた。
——見ない顔だ。
記憶力に優れた揶伍の頭には、疑念が浮かんだ。このような男が蒼羽にいただろうか。身構える揶伍を前に、男は冷笑し、扉にもたれかかった。
「お前の仕事が遅いから、上はお怒りだよ。全く、おかげで僕がこんな蒸し暑いところまで足を運ぶ羽目に……はぁ、こんな役立たずはさっさと殺せばいいのに」
栗色の髪を指先で弄りながら、男は退屈そうに目を剣のように冷たくし、揶伍を射抜いた。揶伍は、自分が形成しているすべてを見透かされたように感じ、生気が抜けていく。
「ま、処分されないように頑張って」
男は揶伍を覗き込み、硬直して動けない揶伍をその場に置き去りにして踵を返した。揶伍は震える唇で「待て」と叫ぶ。声は震え、男の言葉に怯えているのは明らかだった。
「何? 今殺せって?」
面倒くさそうに男が考えるふりをしながら首を傾げる。
揶伍は、自分がその気になれば片手で殺されることを知っていた。しかし、彼には伝えなければならない話があった。
「……鼠が他にも」
男の瞳が仏堂を捉えて一瞬見開かれ、眉がぴくりと動く。しかし、それは一瞬のこと。すぐに薄気味悪い笑みが浮かび、揶伍はさらに恐怖を感じた。
「へぇ、僕たちの他にも……面白いね。仕人かな? それとも一般人? もしかして、身内だったりする?」
何も知らない揶伍が言うと、男は声を押し殺して再び笑った。常に笑みを浮かべる男は、感情の面を被っているのだろうか。
「こっちずーっと前から下準備をしてるんだ。邪魔者は全部殺さなきゃね」
「……お前は」
「屑が知る必要はないよ。死にたくなければ仕事を遂行して。それだけでいい」
まるでそれしか価値がない言い方だが、代替の利く手駒である揶伍に対して、あながち間違いではない。揶伍は男の後ろには恐ろしい人物がいるのだと直感が冴え渡る。どうやら無能を捻り潰すのは簡単らしい。
男が一瞬で姿を消したことに、揶伍は心から安堵した。男との間に生まれた緊張感は、扇葉九とのそれとは比べ物にならない。力が抜けた揶伍はどさりと椅子に崩れ落ち、手足の震えが止まらない。男に対する恐怖と、自分自身に降りかかる恐怖が渦巻いている。なぜ今になって上が動いたのだろうか。何十年も静寂を決め込んでいたくせに、数年前から活発に動き始めた組織に対して、揶伍は不信感を募らせた——何を焦っている?
入り込んだ鼠が組織と別にいるのは真実だ。扇葉九が泳がせているのかどうかは分からないが、鼠がこちらの不利益を呼ぶのであれば、蒼羽の舟に乗り、始末した方がいい。同じ宗派に二匹の鼠が潜んでいるという面倒な状況に、揶伍は眩暈を覚えた。
脳が興奮している中で検算をしても数が合わず、集中力は遥か彼方に飛んで行ったらしい。帳簿に目印を挟み、揶伍は厨房の手伝いで気を紛らわせ、止められるまで永遠に大根をすりおろし続けた。
その日の夕餉には、数日姿を見せなかった六敬と園泉の姿があった。少し草臥れているが、無事だったらしい。同門の仲間が燭村について尋ねるが、二人は珊來が指揮をとっているため、何も言えないと話すのを断った。情報の混乱を避けているようだ。珊來の指揮下にいる二人は、早めに夕餉を切り上げると宗主に一言二言交わし、揃って広間を後にした。灯りを持たずにどこに行くのだろうか。
揶伍は煮込まれた芋を口に運びながら、五体満足で、さらに精神も普通を保っている園泉の状態に些か驚いた。仕人の能力もない男が燭村に辿り着いたのは誰もが知っている。「園泉の脚なら怪奇を振り払ってあっという間に着く」と話す弟子とは異なり、揶伍は扇葉九の御守りの効力に肩を落とす。流石に宗主が編む組紐には怪奇も太刀打ちできないかと考えた。帰りは六敬が同行していたし、宗主から各村落に弟子を配置したという話も小耳に挟んだ。先程の男がどこの手先かは後回しだ。燈村を飲み込んだ怪奇に干渉した人間がいることを、揶伍は知らぬふりをしている。上に報告しても、もう遅い。森に生まれ続けた怪奇は今頃ほとんど祓われてしまっただろう。残るのは燈村の本体だけ。今更組織が焦ろうとも、時間の問題だ。
◆
「おぉ、やっと来たかぁ」
間延びした独特の訛りが二人を出迎える。
「師兄! 落ち着いて! 師兄ー!」
「離せ馬鹿! ぶっ殺す! 殺す!」
「そんな言葉使ったら駄目駄目! 師匠が聞いたら……」
そこまで言いかけて、仁は片燕宗主が居ない事を思い出す。力が抜けた束の間に、竹がびゅんっと飛んでいく。一晩休んだ林琳の肉体は元気の塊だ。
林琳を羽谷締めにして目の前の御者に飛び掛かろうとするのを抑えているが、限界突破で頭に血が上っている林琳には手が付けられない。仁が手を離せば御者は林琳の気が済むまで殴られるだろう。
「何をそんなに怒ってんだぁ。ほれほれ、座れ座れぇ」
「あの世で土下座しろ。今すぐ地獄に送ってやるよ」
「逆撫でするな……!」
林琳が投げた竹は、壁に直角に突き刺さっている。若干、壁に亀裂が入ったのは気のせいだろうか。いや、気のせいではない。床まで亀裂が一本伸びている。見事な直線。嗚呼、二階の個室で良かった。
「ごふっ」
仁は心の準備もなく激痛に襲われた。じたばたと藻掻く林琳の肘が仁の鳩尾に見事に嵌った。狙ったのかと思うほどの素晴らしい勢いだ。
意識が朦朧とする中で、林琳が御者に向かって拳を振り上げたのが見える。
「師兄、いい握り拳だ……」
顔に似合わない暴力がそのまま決まれば御者は脳震盪で倒れるに違いない。最悪死ぬが、力が入った拳はもう止められない、地獄で成仏してくれと仁は目を閉じる。
「話があるんじゃないかい?」
ぴたりと、顔面擦れ擦れの位置で拳が止まる
行き場を失った拳が机を叩く。茶盃が跳ね上がり、床に叩きつけられる寸前、見事に滑り込む。良かった、こちらは亀裂が入っていない。珊來から報酬が貰えるまで、庶民の使う茶盃でさえ弁償する資金は用意できない。
「来ると思ってたぞぉ」
酒屋で御者を待つことにした二人が暖簾をくぐれば、店主が「お連れ様がお待ちですよ」と出迎えるではないか。そのまま二階の個室へ通されると、呑気に茶を啜っている御者がいた。全てを手の上で転がしていたのを傍観していた顔だ。一直線に掴みかかろうとする林琳を持ち前の瞬発力で止めたことに感謝してほしい。間に入らなければ、御者の首はぽっくり折れていただろう。
御者は待ち草臥れたといった態度で「ほれほれぇ」と茶を注ぐ。
向かい合って腰を下ろした林琳は御者が口を開くのを待たずに、燈村について問い詰める。開口一番「勝手に巻き込みやがってこの野郎」である。これには仁も頷く。
「放置するにもいかん」
「蒼羽の管轄だろうが。わざわざ俺たちを巻き込む理由は何だ?」
「……気分?」
「ぶっ殺す」
この御者、一筋縄ではいかないようだ。むしろ故意でそうしている気がする。御者の胸ぐらを掴む林琳を引き剥がし、仁が真面目に答えろと言っても、のらりくらりと躱される。
「あの村は一体どうなってるんだ。座標が交わるなんて……」
「まだ若いなぁ。主が消えたこの世界で『当たり前』も『あり得ない』も『信じられない』も存在しない。常識などこの世には通用しないさぁ。お前たちがそうであるように、世界もまた変化していく。止める力を持つ主はおらん」
領域を壊せば囚われた魂も消える。では囚われた魂を現世に戻す術はないのか。傷だらけの魂が輪廻に戻れずとも、せめて現世で影として遺った記憶を開放してやれないのか。人を巻き込んで何も語らないのは、このまま領域を壊す事を黙認するのと同じだ。
畳み掛ける仁に御者は否定もせず、肯定もしなかった。ただ、繰り返す。
「わからぬ、何もわからぬ」
——私は……この世界がわからぬ。
何だそれは。
「ふざけるな!」
余計な騒動に巻き込まれたせいで、変死体の件に関与する謎の人間の足取りが消えつつある。あれに近づけば、薄暗い道も少しは開けるのに、この御者の身勝手な行動で何も進まない。案の定当の本人は丸投げだ。
「何がしたいんだ……俺たちに何をさせようとしている」
仁は、御者が何も言わなくなったのを眉を顰めて睨む。御者以外に茶盃に手を付ける者はいない。答えも出ず、話が通じないのであれば、ここにいる意味も消えた。林琳も御者を蔑むことすら億劫になり、さっさと怪奇を祓いに行こうと立ち上がる。
壁に刺さった竹が落ちる寸前、御者の手で受け止められた。
「だが、悪い話じゃないだろう。利益もあったはずだ……なぁ?」
——パシン
投げ返された竹を掴む。
「利益?」
変死体には謎の人間が関与している事だろうか。宗派の疑いを晴らす為の糸口を見つけただろう、そう言いたいのか。聞いて呆れる、仁は首にかかる髪を払った。
竹を一振りすると林琳はぶっきらぼうに御者へと告げた。
「このまま領域を壊しても文句は言うなよ。蒼羽やこいつが救おうとしても、俺は別にどうだっていい」
魂が怪奇と共に死のうが、そんなことはどうでもいい。救えないものだってあるのだから。林琳は、周囲の誰もが「何とかできる」と信じ込んでいる様子を見て、鼻で笑った。自分が知っている世界では、物事はそう単純にはいかない。初めから壊してしまえば全て終わるのだ。竹林に迷い込む魂を通して見る世界は、死が救いであると教えてくれる。何度も繰り返し傷付いた魂は、むしろ終わらせてやった方がいいに決まっている。中途半端に救うなんて、それは地獄と同じだ。曖昧な希望を持たせることは、最悪の仕打ちだと彼は考えていた。
林琳は、御者に目もくれず立ち上がった。
「これ以上は時間の無駄だ」
店主を呼び、代金の支払いを御者につける。支払われるかどうかは定かではないが、金輪際、関わりたくない。
「林琳ー! 流石にちょっと待てって!」
「何を待つんだ。こいつも結局方法を知らないじゃないか」
「そうだけどさ!」
ここで、林琳と仁の口論が始まった。
面倒が嫌いな林琳と、どうにかして影を救いたい仁。この対立は昔からよく起きており、同じやり取りを何度も繰り返している。
片燕で育ったくせに、変なところで正義感の強い仁。片燕宗主がその正義感を誰から学んだと聞けば、林琳を反面教師として育ったと答える。「あぁ、なるほど」と頗る納得した。自我がしっかりと育った十代半ば、林琳のやり方が気に入らず、よく突っかかった。今の比じゃないほど、二人は常に揉めていた。
原因は林琳にあるのだが、本人にはその自覚がない。常に仁の方に問題があると思っているのだ。二人で旅をするまでの紆余曲折を仁は鮮明に覚えていて、この口論も懐かしい。仁からすれば、口論になる理由を知ろうとしないのが原因なのに、当の本人は何食わぬ顔でいる。まさに我が道を行く、全く質が悪い。
林琳に口で勝てる者は片燕宗主ぐらいだ。他の者は言いくるめられるか、口論する気力を失うか、そもそも口論を避ける。こうして、色々と擦り減り、今回もまた負ける結果が見えている。
だからこそ、無駄に口論を繰り広げるわけにはいかなかった。
「方法はないのか……」
「まぁ無理矢理座標を転置するしか方法はないだろうなぁ」
「あるじゃねぇか!」
誰も方法がないとは言っていない、成功するかは知らんが、と御者の屁理屈に仁が項垂れる。話が二転三転と行ったり来たりだ。
「交わった座標をどうやって転置させるんだ」
領域に取り込まれた燈村の影を救うには今のままでは意味がないらしい。領域を壊せば囚われた影も例外なく共に消える。要は交わった座標を元に戻さねばならないのだろう。
しかし座標を転置させるなんて経験をした事がない。
領域そのものを壊す事で、怪奇は消える。仕人はそうやって怪奇を祓うのだ。
それに二つの座標が交差した以上、時間の欠落を受け続ける領域に長居する事は危険だ。限られた時間内に領域から影を引き剥がさなければ、こちらの身が危ういだろう。それ程の危険を冒せと御者は言うのだ。どう考えても正気じゃない。
「蒼羽に後はやらせろ」
自分の国の問題だ。利害の一致——その域を超えている。
御者から成功の可能性はともかく方法は聞き出したし、珊來や扇葉九がどうにかするだろう。仁もこれ以上意味がないと理解したのか、踵を返す。
部屋の外に出ると、下の階が騒がしくなっていた。どうやら酒屋が最も儲かる時間に差し掛かったらしい。団体客でも入店したのか、給仕が忙しく動き出す。不注意な給仕と出合頭にぶつかりそうになり、「お客様、すみません! 通ります!」と威勢のいい声が至る所で響き渡る。周囲はすっかり賑やかになり、仁はその喧騒に思わず肩をすくめた。相当忙しそうだ。
燭村にいる珊來へ連絡を取ろう。
ここまでの協力賃と封書の件も含めて、がっつり頂くことにする。心なしか懐が潤う予感がする林琳は、御者への鬱憤も晴れつつあった。蒼羽の二人の弟子も怪我なく送り届けたため、これで一つの区切りがついた気がする。
また一から変死体について調べることになったが、この面倒な立ち位置から去れるのであれば何だって良いだろう。
「不本意だとしても……選ばれたのはお前たちだ。お天道様、そう呼ばれただろう。太陽の使者だと」
確かに燈村で"お天道様"と呼ばれたが——関係がどこにあるのか、二人には覚えがない。あくまで言い伝えであり、村で生まれた空想の話だろう。
「否、偶然は運命であり、必然である」
林琳が何よりも嫌う単語を出す御者は、それすらも見透かしたかのように、「神を信じぬお前には理解できないだろうが」と痛ましい視線を送る。哀れよ、と口が動くのを仁は見逃さなかった。
「……まだ、御神木が生きている。村の者が祈りを捧げた御神木を通り道に、囚われた魂を逃がすのだ。山神様も手を貸してくれるだろう」
「はっ、馬鹿馬鹿しい」
——信仰?
——神?
——そんなもの……全てが無価値だ。
「神なんてこの世に存在しない」
失笑する林琳に御者は口を開く。
「好きにするがいい。だがあの子達では扉は開かぬ」
——よく考えて選べ。
「おい……っ!」
その瞬間、眩い光が辺りを包む。あまりの眩しさに、二人が目を瞑ると、目の前から御者は忽然と姿を消していた。残された茶盃と、亀裂の入った壁が、この場に御者がいた事を表している。二階の古びた窓を開けて周囲を見渡すが、御者らしき人間はいない。
得体の知れない御者に、仁は鳥肌が立った。
「え……、さっきまでそこに居たよな?」
明らかに挙動不審になる仁の頬を摘む。
「夢だと思ってんのか、馬鹿」
違うと首を振ろうにも摘まれた頬がぎりぎりと痛む。軽く林琳の手を叩けばすぐに解放された。赤くなった頬を摩る。椅子に腰掛けて異常に乾いた喉を潤す。茶盃に罪はない。
林琳は、どの道を選べば近道になるのかを考えていた。己が立てた仮説が正しいのは素直に嬉しいが、状況は最悪だ。強制的に座標を転置させる方法を想像してみるものの、成功する気がしないし、何よりも御者の顔が浮かんで腹が立つ。思い通りに動いてなるものか。
では、このまま珊來に任せて国を出るかと聞かれれば、仁が癇癪を起こすのは目に見えている。基本的に林琳に従順に見える仁は、蓋を開ければ少し違う。図太い意志がある。それに、曲がったことが何よりも嫌いだ。
悩む林琳を他所に、仁はしたり顔を浮かべている。
「珊來も奮発してくれそうだよな」
仁は林琳が六敬と話をしている間に、園泉から色々話を聞いたらしい。
「蒼羽、うちと違って凄い資金があるらしいぞ。やっぱり夢天理の管轄外なだけあって、直接的に国から金が入る仕組みだ」
かと言って、豪遊している様子は見られず、使うとしたら客人を招いた時ぐらいだ。上等な酒や剣舞を振る舞った後に、土産として高価な贈り物を持たせる。当たり前の礼儀と言われればそうだが、他者のためにしか使わないのは珍しいかもしれない。
「珊來の懐から文の配達料。怪奇を祓う手伝いは蒼羽から。もし燈村の影を救う手助けをしたら、更に跳ねるぞ!」
「お前、俺を納得させる理由がそれしかないのか?」
「ぐっ……」
痛いところを突かれた仁は机に突っ伏す。林琳の言う通りだった。
「可哀想だよ……」
「誰が」
「素巳とか、珠樹とか……村の人、俺たちに優しかっただろ」
彼らが生きていた頃、きっと親切な人々だっただろう。棚田を夕焼けが照らし、早く帰ってこいと親が呼ぶ。そんな平和な光景を知ってしまったからこそ、見捨てるのは嫌だと、仁は林琳を見上げて訴えた。
このまま動かなくなると、林琳は長年の経験から予想していた。そして、仁もまた、林琳が折れることを考えているのだった。
「……はぁ」
眉間を何度か揉むと林琳はこつん、竹で突く。小さな呻き声が聞こえてくる。
遠回りして松季国へ足を運んだのは林琳の判断で、仁の希望通り山雫国に向かっていれば巻き込まれずに済んだのは事実だ。仕方ない、ここまで来て金を溝に投げるのは性に合わない。
翡翠の宝玉が鈍く光るのを見て、仁は嬉しくて飛び上がってしまった。
「ありがとう! 師兄!」
ふん、と鼻を鳴らす仕草に仁は目を細めた。なんだかんだで身内に甘いのを本人は知らないだろう。呆れた顔も見慣れた。仁はその顔を「仕方ないな、責任は取らないけど」と受け取っている。
「珊來、燈村に向かう。お前も来れるか?」
《今は無理だ。厄介な事になった》
「厄介?」
《陣が破られた。新しい陣は……邪魔が入って中々発動しない。大丈夫、大した事はないから》
虚勢を張る程苦戦しているのだろう、珊來の声色に余裕はない。
《先に行って》
どうやら話をする暇も与えてくれないらしい。鈍く放っていた光が徐々に薄れていくのは、持ち主の心力が揺れ動いているからだ。燭村には珊來と綺琉のみで他の仕人はいない。
珊來は先に燈村に行けと言うが、林琳は違う方向へと足を進める。
どこに行くのかと後ろをついて行くと、水龍の鱗がびっしりと彫られた扉を潜り、仁も耳を塞ぐ声で園泉の名を呼ぶ。近くにいた弟子がその声に驚き、短い悲鳴を上げてこちらを見た。仁も扉を潜り込んだが、これでは完全に不法侵入だ。記憶にない男たちに後退りした弟子が「園泉のご友人ですか?」と驚いた時、落とした箒を拾う。
周囲が手薄であることは明らかだった。ぱっとしない弟子が数名、修行や清掃に励んでいる。中の建物は年季が入っているが、汚い印象は受けない。むしろ、蒼羽の清らかな穏やかさが感じられる。弟子たちの心力がこの場を満たしているからだろうか。仁が目を閉じ、心力を感じていると、先日別れたばかりの姿が目に入った。
「あれ、仁さん? こちらには来ないって……」
その背後には宗主、扇葉九の姿もある。
初めて目にした時と変わらず勇ましい彼は、一歩前に出て皺の刻まれた目尻を吊り上げた。不束者と言われる覚悟をしていたが、意外にも「来い」と背を向けられた。思わぬ対応だ。
通された場所はまさに圧巻だった。広々とした中庭には、水を巧みに利用した水路が敷かれている。水車もあちこちに設置され、さまざまな場所に水が送られていた。目を引くのは、水路全てに描かれた水龍の長い身体だった。均一に並ぶ鱗が水を泳ぐ水龍に見え、仁はその美しさに魅了されてしまった。今にも水路から飛び出してくるように感じられた。
「綺麗でしょう。夜になると星空が反射して、もっと美しくなります」
空を泳ぐ龍に姿を変えるのだと園泉が話す。
「それは見てみたいな」
幻想的な光景を脳裏に思い浮かべる、それだけでも十分楽しめた。
穏やかな雰囲気の二人とは対照的に、扇葉九と林琳は互いに目を合わせていなかった。しかし、張り詰めた空気は感じられず、微妙な雰囲気が漂っていた。
「……燈村の件だけど」
「ふむ」
「変わった訛りを持つ御者に会った事はある?」
「ない」
また無言の時間が流れる。林琳は昔から口が悪いし、扇葉九も口下手だ。普段から口が汚い林琳ができるだけ言葉を柔らかくしようと考えていたが、うまくまとめられない。
「はっきり話さんか」
扇葉九の面持ちには明らかに暇ではないという態度が見えた。林琳は思わず宝玉を投げつけた。「ひえっ」と悲鳴が上がるが、扇葉九は動じることなく、それを掴み取った。至近距離での素早さは、年齢の割に動体視力が衰えていないことを示している。涼しい顔に一瞬、林琳はの口元が引き攣った。可笑しいことに、目は笑っているのに、心の底には怒りが潜んでいた。仁も思わず頭を抱えた。
扇葉九は翡翠の鮮やかな宝玉を手の上で転がし、消えかけている珊來の心力を感じ取った。潤沢に込められているはずの心力は薄い膜のようで、今にも消えてしまいそうだ。
「俺は燈村に行く。そっちの事は知らないから」
まさか、それだけを伝えるために来たのだろうか。宝玉を握りしめる手に力が入る。微かに別の心力が残っている。一度珊來に連絡を取ったらしい。何も言わずに燈村に行く事も出来ただろうに、扇葉九は純粋な気遣いなのか判断できず、夕焼けの瞳をまじまじと見つめるだけだった。
一応建前上、扇葉九が「何が狙いだ」と尋ねると、林琳は「金に決まってるだろ」と返す。それ以外に手を貸す理由はどこにあるのかと独り呟くが、残念ながら扇葉九の耳には届いていた。
——"「素直じゃない子と素直すぎる子……ですね」"
この餓鬼は絶対に素直じゃない方だと扇葉九がじっと見つめる。珊來とは正反対なのに不思議と均衡の取れた二人だと聞いたが、可愛げがない。生意気で、礼儀知らずで、奇妙な心力。怪しむ要素はあちこちにあるが、蒼羽に害を与えるつもりは毛頭ないらしい。
二人を門まで見送りに行った園泉が興奮気味に話す。
「常人では想像もつかない事をしますよね!」
彼の言葉はほとんど独り言のように響いた。
「交わった座標を無理矢理転置させるなんて……! 実際にその場で見てみたいです! まぁ、御守り一つ作れない僕には夢の又夢ですけど!」
戻ってきてから、園泉は自虐的な発言が増えた。文句を言いつつも前向きな言葉が多かったが、気のせいかもしれない。林琳と仁から悪影響を受けたとは思えず、この度の経験が何かを刺激したのだと考えることにした。
早朝からずっと書庫に籠っている六敬をそっと覗き見る。菓子に手を付けず、一心不乱に書をめくっている。そこに園泉も加わり、六敬がようやく菓子に手を伸ばした。あの様子だと、飲まず食わずでいるに違いない。窓越しに目が合うと、六敬がこちらに来ようとするが、手で制した。邪魔をしたくはなかった。彼が何を調べているかは大方予想がつくし、その努力を尊重したいと思ったからだ。夕餉までに戻れと伝えれば、窓を貫いて返事が届く。彼のやる気が伝わってくる。
さて、可愛い弟子とは別に、扇葉九にはやるべきことがある。「しっかりせんか、馬鹿者が」と呟く。刹那、大きな心力が湧き上がる水の如く、辺りを流れていく。ぽちゃん、ぽちゃんと水が滴るその心力は本拠地を越え、広大な土地へと染み渡る。乾いた大地に染み込む心力の片隅には、鋼のように強い輝きが重く深く存在していた。
扇葉九の心力は、いつの間にか燭村や他の村落にも染み渡り、各地に散らばった弟子たちはすぐに気づく。大規模な陣が蒼羽本拠地を起点に発動したのだ。
蒼羽宗主、扇葉九は屈強な肉体とは裏腹に、心力を用いた援護に長けている。力で捩じ伏せるのも得意だが、それ以上に陣を張ったり、怪奇の痕跡を辿ったりする技術に秀でている。人は外見に寄らないものだと、各村落で感嘆の声が上がった。
燭村で指揮をとっていた珊來もまた、宗主の心力をじんわりと足先から感じ取っていた。「流石宗主様……ほら、お遊びは終わりだよ。」跳ね返りを無理矢理押し潰し、鈍く肉の千切れる音が途端に止んだ。
林琳からの通信を手短に切らなければならなかったのは、陣を張ろうとする心力を打ち消そうとする跳ね返りを受けていたからだ。正直に言えば、手一杯だった。出所はわからない。ただ邪魔をしてくる心力を捻じ曲げては潰し、陣を張るという作業をしていた。綺琉は村長の治療に当たっているし、心力は無限ではない。
余裕がなくなりかけた頃、扇葉九の心力に優しく包まれた。先程とは比べ物にならない心力で、陣を張ることに成功した珊來は、連絡を取っていない扇葉九が何故状況に気づいたのか心当たりがあった。
「あの子達が……」
林琳の事だから真っ直ぐ進むと思ったのに、仁が駄々を捏ねたのかもしれない。案の定、折れたのだろう。想像できるやり取りに口元が緩む。きっと竹で叩かれたり、肘鉄を食らわせられたりしているに違いない。
それにしても、邪魔をしてくる愚か者は一体どこの仕人だろうか。燭村の外をぐるりと確認したが、紐づく足跡は見つからなかった。
「先輩! 村長が目を覚ましました!」
大きく手を振る綺琉の元へ行くと、村長が薄っすらと目を開いている。呼吸も安定しており、脈を診ても問題はなさそうだ。もう大丈夫だろう。その場にいた全員がほっと胸を撫で下ろした。
「綺琉、よくやったね」
「はい!」
ここまで回復したのは、斑のない心力を注ぎ続けた綺琉のおかげだ。村長の孫も涙を流しながら綺琉に感謝を伝えている。村一番の大男が綺琉の頭を撫でるが、どちらかと言うと振り回されているように見えた。まるで首の座っていない赤子のようで、その様子が面白くて珊來は思わず笑った。
お祭り騒ぎになった場が鎮まるには時間がかかりそうだ。申し訳ないが、住民たちには一度外で待つよう頼み込んだ。名残惜しそうに去る人々を見送り、珊來は村長の肩を軽く叩く。村長は少し視線を彷徨わせたが、意識ははっきりとしているようだ。視線が合うのを確認した珊來は、優しく話しかけた。
「初めまして。蒼羽の珊來と申します」
村長が一度頷く。
「声は聞こえているね……よし、今から二択の質問をする。思う節があれば、頷いて」
こくん、微かに頷く。
「意識を失う前に誰かに会った?」
頷く。
「知ってる人?」
反応はない。
「性別はわかる?」
反応はない。
「背丈はお孫さんぐらい?」
頷く。
「何か脅された?」
反応はない。
「姿は見た?」
頷く。
「……黒い姿をしていた?」
——頷く。
どうやら、星の子を襲った人物と同じらしい。ゆっくりと瞬きを繰り返す村長は、怪奇に飲まれる瞬間、誰かと接触していたことをしっかりと覚えている。
あまりにも複雑な記憶を呼び起こしてしまったのだろう。松季国の蒼羽が村にいるという状況を瞬時に理解した村長の瞳が潤んだ。「大丈夫、犠牲者はいない」と教えると、目尻から雫が零れ落ちた。
「ありがとう、ゆっくり休んでね」
部屋の外で落ち着きのない人々が雪崩れ込む。その光景を珊來と綺琉は何とも愛おしくて笑みを溢した。後の治療は仕人でなくとも大丈夫だからと託す。失った小指を消毒して包帯を巻く。仕人が治療して失った小指が生えて来るなんて、奇想天外は起こらない。綺琉が冗談を述べれば皆笑った。
薄青色の膜が村を覆っている。
これだけ強固な陣が発動していれば破られる事はまずないだろう。
「珊來先輩、行ってください。後は俺がここで陣を護ります……ちょっと不安ですけど、皆が大変な時に甘えた事言ってられないし」
綺琉の真剣な表情を見て、珊來は心の中で感慨を覚えた。——頼もしくなったなぁ。
六敬と綺琉は蒼羽内でも仲が良く、常に行動を共にしていた。相棒と呼ぶのが相応しいだろう。柔軟性のある綺琉の心力は誰とでも相性が良く、この先さまざまな場所で必要とされるに違いない。遠くない未来、多くの後輩を連れて外の世界を駆けていく姿を思い描くと、必然と目の奥が熱くなるのを堪えた。
林琳と仁も、そうやって旅を続けてきたのか。いつか六敬や綺琉も——彼らのように世界を旅するのもいいかもしれない。時々本拠地に顔を出してくれれば良い。遠く離れてしまっても、元気な姿を見れば宗主も安心するだろう。まだ若い彼らには無限の未来が残されている。
珊來は古びた封書を空に透かし、月を重ねてみた。懐かしい友からの大切な文は、今はもう心力も失ったただの紙切れだ。文に目を通したあの夜、風に乗り、涙を拭うように珊來の頬を撫でて空へと旅立った。
「私もお前と旅を続けていたかったよ」
四年前、燈村を救う為に死んだ友への返事は——届かない。
◆
「これが入り口だ」
荒れ果てた場所に辛うじて原型を留めている二つの社。領域で目にする形と瓜二つだ。燭村の村長が手入れをしているらしく、社の周りは比較的綺麗だった。扉の前には淡い花がたくさん添えられている。色鮮やかな花束は、素巳が喜びそうだ。
「……確かに領域の気配がする」
指先から伝わる背筋を這う気味の悪い感覚は、紛れもなく怪奇のものだ。社を経由して森に現れているとしたら、中は燈村に繋がっているはずだ。
御者の言った通り、座標を変える方法はある。しかし、成功するかは五分五分だろう。
林琳は扉の奥に潜む怪奇を探る。森の領域に逃げ込んでいたら厄介だと意識を集中させると、カタカタと扉が勝手に揺れた。
——"■■■■……■■? ■■■"
あちらも気がついたらしい。威嚇しているつもりだろう、脳内に直接雑音が流れ込む。
林琳が扉を開けようとしたその時、仁の手が重なった。
「適材適所ってやつ」
妙にその手がいつもより大きく感じたが、林琳は気のせいだと前を向く。たかが数日で大きくなる訳がない。そう——たかが数日では。
「いざ出発!」
開かれた扉から、白く痩せこけた腕が我先にとこちらへ向かってくる。それを薙ぎ倒して道を切り開けば、「横着は駄目だよ」と澄んだ爽やかな空色が二人を包み込む。持ち主を確認する間もなく暗闇に身を投じると、以前訪れた景色がそのままの形で存在していた。
茹る暑さの中を人々は変わらず行き来している。棚田には薄く水が張り、きらきらと太陽を反射し、光が飛び散り、あの日の光景が時を止めているかのようだった。
後ろを振り返れば、向き合った社が二つ。二人が通ってきた扉は、素巳が祈りを捧げていた社とは別で、静寂を保っている。開け放たれた扉の奥はそこ知れぬ闇だ。
珊來は即座に陣を張り、怪奇が抜け出さないように扉を閉じた。これで外には出られない。
「間に合って良かった」
「お前……燭村にいたんじゃないのか」
信じられないと、林琳の瞳は一層丸く形を変えた。
「本来は私達が救わなければいけなかった命」
怪奇に襲われた命が終わりなき闇で苦しんでいるならば、蒼羽として、仕人として、そして——一人の人間として救うのが使命だと。
一見、信念に聞こえるが、林琳は心の中で否定する。お前がしたいのは、後悔を乗り越えるための懺悔だろう。罪悪感を押し付けて、昇華するなんて。本人には言わないが、林琳は全てが遅すぎるのだと一人呟いた。
「あれ? お前達どこから……」
珠樹だ。村の外れにいた林琳達を怪しんでいるのか、恐怖の色を醸し出している。手にした枝は有事の際に使う為だろうか。
「変わった訛りで話す御者を見なかったか? 途中で逸れたんだ」
腰を屈めて視線を合わせると、珠樹は少し考えてから「あの人と来たのか?」と木の枝で地面に絵を描く。特徴を捉えた絵は御者の似顔絵だ。一目見れば御者だと気づく。上手いもんだと褒めてやると、珠樹は村へ導こうとする。御者の記憶は残っているらしい。つまり、御者が何度もこの村を訪れていたのは本当だ。
「……仁」
着いて行こうとした仁を林琳が引き止める。
「遊びに来たんじゃない」
彼らはもう死んでいるのだ。早く怪奇を祓わなければ、取り返しのつかない事になると説き伏せる。素巳も、珠樹も、村の住民も皆、抜け殻に過ぎない。この光景も紛い物だ。かつて存在した過去のモノ。元には戻らないのだ。救いたいと思うのであれば、寄り道をしている場合ではない。
「あんた、お天道様?」
少し先で、珠樹が振り向き問いかける。
「俺さ……明日が生誕日なんだ。それまでこの村にいろよ」
珠樹は満天の星空を見たことがない。空を埋め尽くす数多の星。村が滅びた四年前、珠樹と素巳は空に光る星々を目にしただろうか。聞かずとも繰り返される時間の終わりで、それを知るだろう。どうか彼らが望んだ景色がそこにありますようにと、仁は胸にちくりと刺さる痛みを誤魔化した。
「先を急いでるんだ。……この晴天だぞ? 今週はずっと晴れるさ」
残念だとあからさまに肩を落とす珠樹。言葉を交わすのも最後なのに、別れの挨拶すら憚られる。
「そっか。用があるなら仕方がないか。都合が悪いなら邪魔しない」
いつ天候が崩れるかわからないから、これを持っていけと、傘を三本持ってきてくれた。勝手に貰っても良いのかと尋ねると、村にはたくさん予備があるから、三本ぐらいなんてことないと笑う。
「村長によろしくな!」
珊來の装いで、蒼羽の人間だと伝わったらしい。「いつもありがとう」と満面の笑みを向けられた珊來の心臓は抉られた。何も返せない珊來は七色聖を優雅に仰いで誤魔化したが、その手は小刻みに震えている。向き合うべき悲しみだとわかっている。噛み砕いて飲み込んで、同じ過ちを起こさない。それが彼らに送れる唯一の謝罪であり、弔いなのだ。
「さぁーて、問題の怪奇はどこだ?」
きょろきょろと頭を動かす仁。怪奇の領域にいるにも関わらず、襲ってくる様子もなく、仁は気配を追いながら歩みを進める。
あまり遠くに行くなと言えば、呑気に「はーい」と上辺だけの声が響いた。本当にわかってるのかこいつ、勝手に迷子になっても知らないからな、置いていくからな、自己責任だぞ、と小言を漏らす林琳を、珊來は「まぁまぁ」と宥める。
心配しているなら素直に言えばいいのにと、珊來は簡単に思うが到底無理である。
「燈村の村長の遺体は……見つかっているのか?」
仁の姿が視界に入る程度に距離を保ちつつ、珊來に質問した。村長は不在だと、珠樹の母親が話していたのを思い出した。
「どうだろう。損傷が激しい遺体と、水害で流れてしまった遺体があってね……正確には把握できていないんだ。村長も既に松季国を発った後だったし、帰り道で不幸にも巻き込まれてしまった……って記録には残されてる」
蒼羽が着く頃には村は壊滅状態だった。一部は氾濫した川の濁流に飲み込まれてしまった。村人の人数を把握していない松季国は、正確な犠牲者の数を書き残していない。珊來は申し訳ないと首を振った。
だが、妙に引っかかる。
村の住民が影となって、領域に囚われているのに、何故村長の影が見当たらないのだろう。
「何を考えてるのかな。教えてよ」
自分の世界に入り込んだ林琳の肩を揺らす。すっかり考え込んでいた林琳は、一気に掴まれた部分から体中に鳥肌が立つ。そんなに驚かなくてもいいじゃないか。心外だと眉を下げる珊來を、きつく睨む。
蒼羽の人間は些か接触が多い。特に珊來。
余所者に対してもっと線を引くだろ。と、珊來の手を虫の如く払う。絶対に距離の詰め方が可笑しい。
見事に変人認定された珊來は、そんなこと一切知らず、単純に林琳の指が顎を摩っている仕草から、一人で色々と考えていると思っただけで、肩に触れたことに深い意図はない。考え事をすると指先で顎を触るのは林琳の癖なのかもしれない。残念なのは、巻かれた包帯が異彩を放つことだ。訳有りの旅路に首を突っ込むのはどうかと思うが、傷の治り具合は気になるところだ。
「治りが遅いなら早めに医者に受診すべきだよ。怪奇で負った怪我だったら、尚更ね」
林琳は忘れていたかのように、握ったり開いたりして動きを確かめる。
——ポタ、ポタ
瞬く間に黒い雲が空を覆い始め、どす黒い雫が降り注ぐ。頬に触れた雫が肌を突き刺し、地面に落ちると、そこに咲いていた可愛らしい花が枯れてしまった。頬に触れれば、ねっとりと付着し、血のように温かい。嫌な雨だと、身の回りを心力で固めれば、雨に触れることはなくなったが、次第に雨は強くなり、木々は枯れ木と化してしまった。しかし、命を宿している物以外には影響がないようで、珠樹から受け取った傘は無事である。
だが、怪奇が齎す破壊の雨は止む気配もなく、景色を一変させる。眩い光の粒は消え去り、棚田は真っ黒に染まってしまった。そればかりか、黒い物が包み込もうと、どろり、どろりと、空から化け物の腕が伸びるのを目撃する。
どうやら林琳たちを村ごと覆って壊すつもりらしい。村から劈く悲鳴が上がり、足元には村から濁流になって黒い水が押し寄せてくる。それは棚田の段差で勢いを増した。
「珊來! 社の扉を開け!」
林琳の声が木霊する。指さす先は、陣を張っていない方の社だ。
「山神の御神木が祀られてる!」
「わかった!」
珊來が扉を開けると、そこには幼い少女が独り、祈りを捧げていた。悲鳴が響き、木々が倒れる恐ろしい空間で、社の中は異様に静かだった。少女が膝を付いて見上げる先には、巨大な木の幹。林琳が言う御神木に違いない。では、この少女は一体誰なのだろう?
少女が祈りを辞めて立ち上がると、珊來は突然眩暈がした。
「山神様、山神様……どうか……お救い下さい」
何度も繰り返すその祈りは、山神に捧げられている。両手は固く結ばれているが、少女の声は酷く優しい鈴の音のようだ。恐怖から全身が震えているにも関わらず、懸命に山神へと祈り続ける彼女は、珊來の存在に気が付いていない。
——目が不自由なのか?
「素巳? お前、なんで仏堂にいるんだ」
珊來のすぐ横を素通りしていく少女が、傘を畳んだ林琳を見つける。
「お天道様。珠樹を、村を、救って、お願い」
黒い衣を小さな手で握りしめる素巳に、林琳は目を開き、「は?」と口を開けて戸惑う。珊來が素巳の前で手を振っても、彼女の瞳は存在を認知していないらしい。林琳と珊來は視線を合わせた。素巳の愛らしい兎の瞳は、今も林琳をじっと見つめている。
「御神木に心力を注いで。早く、まだ間に合うから……! 早く、お願い!」
切羽詰まって素巳は手を引く。以前の様な鋭い痛みはない。
立派な御神木の前に連れてこられた林琳は、素巳のお願いを理解している。だからこそ、頷く事が不可能なのだ。少女の願いを受け入れる事が出来ない。
「俺の心力は……駄目なんだ。御神木には触れられない」
「何故? どうして? 仕人でしょ? 心力を注いで!」
時間がない。再び暗闇に覆われる前に、力を失った御神木へ力を渡して。太く逞しい根は村の奥深くまで繋がっているから、彼らは神の元で解放される。どうか、力を貸して。声が枯れるまで叫んだというのに、林琳は頑なに拒絶する。
大粒の涙がはらはらと流れ続ける間にも、外の景色はまた姿を変えた。黒い火の粉が空高く舞い上がり、真下では村が燃えている。空から伸びる怪奇の手が村に火を付け、根こそぎ燃やし尽くすつもりだ。このまま陣が破れたら、元も子もない。
外では社を燃やされぬ様に仁が奮闘しているが、時間の巻き戻しが起これば三人諸共行き先は果てしない暗闇だ。
「皆が燃えちゃう……!」
崩れ落ちて泣き叫ぶ素巳の肩に触れようとして、手を引っ込める。
「珊來、頼めるか」
「勿論」
御神木へと手を翳す。虫の息ながら、辛うじて脈が生きている。
ゆっくりと無理なく心力を注ぐと、黄金色の光の粒が木の幹から零れ落ちる。光を目で追う素巳は、信じられないという表情で口を震わせ始めた。
「水龍様? そこにいるの?」
必死の形相で仏堂を探すが、素巳の望むものは見つからない。御神木に染み渡る透き通った心力から感じるもの。嗚呼、触れたい、もう一度あの温もりに触れてみたい。その一心で手を伸ばすが、珊來には触れられず、掴もうと藻掻く手は空を切る。
清らかな心力は御神木を伝い、村へと流れ込み、燃え上がる炎を抑え込んだ。流石に水龍の加護を受けているだけあって、水の如く領域に染み渡っている。
「素巳、来い」
「お天道様……?」
今回は迷わずに手を取る。触れた手に温もりはなく、酷く冷たい。
「水龍じゃない。蒼羽の仕人だ、そこで心力を注いでる」
触れられなくても心力は感じるだろう。林琳が珊來の元へと素巳を導いてやると、彼女は感極まって嗚咽を堪えることもせず、空気を抱きしめる。林琳の目には、か細い素巳の腕が珊來の腕を通り抜けているのが見えていた。一心不乱に心力を注ぎ続ける珊來は、そんなことに気付かないだろう。いや、気づかない方が良い。そう思うほど、素巳の手は黒く焼け焦げているのだから。
珊來が清らかな心力を与え続けると、素巳の身体は黒く焦げていく。領域に留まった魂は怪奇に浸食され、心力が毒となり反応してしまっている。
素巳はずっとその痛みを待っていた。閉ざされた領域に囚われた魂を開放してくれる人物を。断じて誰でも良かった訳ではない。水龍の加護から離れた人間でなければならなかったのだ。
燃える意識の中で素巳はぎゅっと記憶を大事に抱きしめた。
素巳が生まれた日、村は何もかもが干上がっていた。今でも覚えている。母や父が棒切れの身体で手を伸ばし、水龍に、松季国に——復讐をしろ、それだけを言い残して死んでしまった。でも、素巳は悲しくはなかった。寧ろ早く死んでほしいとまで願っていた。
燭村の伝説——賊と侠客の物語。星の子を狙って村を襲ったのは素巳の祖先であるのを誰も知らないだろう。食べる事もままならず、農作物も育たない。何ヶ月水龍に祈っても雨など降る事は一度もなかった。それに激怒した村人は、哀れな事に水龍の祠を壊してしまった。人々の飢餓は、次第に心を蝕み、信仰心すら奪い去ってしまったのだ。その事実を死に際の両親から聞かされた時、自ずと自分自身から信仰心が消えていくのがわかった。邪悪な道に進む者もいた。中には怪奇を使って悪さをしようと企む者も何人かいたが、こぞって蒼羽の仕人に始末された。仕方がない。怪奇は悪で、神は正しいのだから。村には神を祀る祭壇はなく、人々は醜い生き方で命を繋いでいたのを幼いながらに理解していた。この村が諸悪の根源だろう、独りになった素巳は皮と骨の身体を必死に動かして村を捨てた。
どうして雨が降らないのだろう。なぜ松季国の人々は助けてくれないのだろう。神などいないのではないか。憎しみや悲しみが渦巻いた時、頬に一滴の滴が触れた。望んだ雨は悲しいほど冷たく、何よりも残酷だった。必死に足を引きずって辿り着いたのは燈村と呼ばれる山神を祀る村だ。見るに耐えない体を介抱してくれた珠樹の母親は、快く家族として受け入れてくれた。
生まれて初めて愛に触れた。
山神を愛し、太陽を愛し、愛を育む人々を素巳も愛した。
それは……とても、とても、暖かくて。
だからこそ、怪奇に飲み込まれた日、素巳はこの社の中で闇雲に祈り続けた。
肉体が焼かれようとも、喉が潰れても、構わない。村から悲鳴が聞こえる。迫りくる炎が怖くて身体中が震えている。煙を吸ったらしい、頭が重たい。身体が動かずに床に叩き付けられて、呼吸が止まる。苦しくて、痛くて、涙が流れた。
それでも、泣き叫ぶ資格はないのだと言い聞かせて、這い蹲ってでも御神木へと願った。
——山神様どうかお救いください。
——私の命も魂も、全て差し上げます。
——珠樹を、皆を、この業火の炎からお救いください。
しかし取引に応じたのは神ではなく、怪奇の方だった。もう一つの社から飛び出すのは枯れ木の腕。血の通わない恐ろしい腕が素巳の身体を捉えて縛りつけた。復讐の道を歩かなかった己に天罰が落ちたらしい。こんな事になるなら、死ねばよかった。荒む心も水龍からの罰だと思えば、不思議と心は落ち着いた。神への憎悪で蝕まれるのを、怪奇が笑う幻覚を見た。燈村が焼けるのを何度も目にして、元通りの明るい日々が来て、また燃えて。瞼を閉じても浮かぶ光景を素巳は悪い夢だと信じた。目が覚めれば温もりに包まれた日常が戻ると、迷う事なく毎日祈りを捧げた。山神は必ず救ってくれる。——あの薄情な神とは違って。
そして林琳と仁が現れたのだ。
いつも荷台を空にして訪れる御者と一緒に訪れた人間。
村が燃える前にも確か別の人を御者が連れて来たなぁ、なんて思い出して。仏堂で珠樹の為に祈りを捧げるふりをして、今度こそ終わりますように、そう願った。
二人が村を出る日、御者はそっと素巳の頭に触れて「また来るからなぁ」と笑ったのだ。だが——村は相変わらず燃えた。禍々しい炎の渦の中で、彼らの悲鳴が反響していた。
終わらない繰り返しが訪れると思っていたのに、今は隣に終止符を打つ人が——村を救ってくれる人がいる。
「お天道様、もう何も見えない……お外はどうなっているの?」
素巳の目は遂に何もかも見えなくなってしまった。林琳の姿も映さず、ただ暗闇だけが存在している。ただ、不思議と悲鳴は聞こえず、静寂な世界に雨音が響いていた。
「雨が降ってる。澄んだ雨だ」
大袈裟に林琳は眩しいぐらいだと素巳に伝えた。
村を焼き尽くす雨は止み、とても澄んだ雨が空から降り注いでいる。珊來の心力が御神木を通して村を覆う怪奇を祓ったのだ。嗚呼、とんでもない心力を目の当たりにしたものだと林琳は雨に触れた。
「そう……終わった、終わったの……」
——もう皆が焼かれずに済む。
「……大丈夫。君の祈りは届いてたよ」
御神木に触れている間、珊來の頭には素巳の純粋な心が届いていた。真心に満ちた信仰心だ。祈りを捧げ続けたのは素巳だけではない。燃える寸前まで珠樹や村の人々が祈りを捧げていた。彼等の心が怪奇の領域で御神木を生かしていたのだ。そして御神木が素巳の心を守り続けていた。皆が皆、互いを護り合っていたのだ。人の心は計り知れない、それでも心や愛が紡ぐ絆は確かにここにある。珊來は人の祈りが起こす奇跡を信じている。
時が巻き戻り幾度も焼かれる魂が壊れずにいたのは、素巳の純粋な心があったからだろう。何も無駄ではなかったと珊來が優しく微笑めば、心力から読み取った素巳が嬉しそうに頬を緩ませて、終わりを受け入れる為に目を瞑った。
さらさらと灰になる素巳の身体は、光に変わり珊來の体をすり抜けて御神木へと吸い込まれていく。まるで吸収されたみたいだ、目を見開き珊來は御神木に触れる。
「どうなってるんだ」
「……道が繋がった」
「は?」
「お前の馬鹿みたいに澄んだ心力があっちの世界……現世にある御神木に道を繋いだんだ」
村にいた影達も珊來の心力を道導に御神木に集まってきたらしい。仏堂が明るく光り輝く。蛍の光を集めた幻想的な現象に珊來は御神木を優しく撫でた。慈しみそっと「お疲れ様」と呟くと、それに答える様に一際大きく輝く。珊來の心力に包まれ、囚われたままの影は現世へと渡れるはずだ。
「あとで仁に感謝しなよ。あいつが領域内を走り回って時間を稼いでる」
いざとなれば座標を転置させる方法を一応考えていたが、必要がなくなったと林琳は安堵の溜息を吐く。
「ここも直ぐに崩れる」
空が避け、壁紙が剥がれるように崩壊していく。隙間からは果てしない闇が覗き、領域と悲しい過去が終わることを知らせてくる。
三人が暗闇を抜けて目を覚ますと、社は跡形もなく潰れてしまっていた。唯一、あの御神木だけが深く根を張り、変わらぬ姿で光を帯びている。どうやら無事に影を現世へと引っ張り出せたらしい。
「……?」
御神木から何かを訴えるように光が激しくなった。
「素巳か」
そこにいるのか、仁が触れれば遠くで鈴の声が笑った気がする。
「仁、試してみろ」
林琳は黄金色の硬い糸を仁に渡すと、意図がわかったのだろう、割れ物に触れる力で仁は心力を送る。
「森が燃える前の記憶を教えてくれ」
ふわり、糸が浮き上がる。
村が燃えたとき、社へ急いだ素巳の目の前を黒い影が通り過ぎる。仏堂のある社とは別の社だ。開かれることのない扉をその影が潜った瞬間——大きな地震が起こったのだ。村が抉り取られて動いている。仁は記憶を視ているのに、現場に立ち会った恐怖を感じる。素巳の感情も一緒に読み取ってしまったらしい。吐き気を堪えて記憶を覗き続けると、立っているのもやっとだった少女が社に転がり込む。しかし、反対側の社の扉から伸びる腕が素巳を掴み、仏堂から引き摺り出す。嫌だ、と素巳が藻掻く姿を残したまま、仁の視界は炎に包まれ、記憶が途切れた。
——"お天道様、助けに来てくれてありがとう"
力を失った糸は風に運ばれ、空へと舞い上がった。それに続いて御神木にいた影たちも真っ直ぐに昇っていく。魂に傷を負った彼らは輪廻には戻れないだろう。それでも、珊來の心力によって現世へと戻ってこられた影たちは、広い空へと飛び立つ。影を運ぶのは驚くほど穏やかな風だ。
「待たせてしまって申し訳なかった」
唇を噛み締めて、珊來は拱手をする。すると急に風が大きく吹き荒れ、下から巻き上げる突風が御神木を通り抜け、珊來の足元に集まる。何事かと驚く珊來の目の前で、木の枝ががさがさと不自然に動く。
「山神様からの祝福だ」
「宗主様!」
園泉に支えられ、扇葉九が現れた。
「よくやった。誇りに思うぞ」
背後には他にも弟子たちがちらほら見える。燈村に遣わされた弟子たちだろう、誰もが水龍を連想させる装いだ。あっという間に囲まれてしまった珊來は、どこか嬉しそうだ。実は彼らも陣を張り、一大事に備えていたのだ。怪我がなくて良かったと、弟分の頭を撫でて安心しようとするが、あの二人の姿が近くに見当たらない。
振り返れば、荒地になった棚田に三人の人影が。園泉と何か話しているのだろう。折角の交流を邪魔するのも野暮だと思い、そっと視線を外した。
林琳はずっと危なげな園泉の心力が気になっていた。本人も御守り一つ作り上げられないと自嘲していたし、才能や素質が不足しているのは間違いなさそうだ。
「お二人は凄いですね……蒼羽が四年間も見逃していたのに……」
「偶然だ。俺たちだって巻き込まれたに過ぎない」
「それでも! 燈村の人々を救って頂いたのには事実です!」
「それも偶然」
何を言うにもすべてに「偶然」と返すので、仁が園泉に諦めろと言う。蒼羽からしたら助けられたと思うのだろうが、林琳からすれば、利害の一致、なおかつ報酬付きの取引に過ぎない。むっと膨らんだ頬に仁が指を刺せば、間抜けな音と共に萎んだ。
「僕にもっと力があれば……。笑えるぐらい、心力が上手く使えないんです」
どれだけ修行を積んでも、できるのは微々たること。この際やめた方が良いのか。役立たずなのは理解している。でも期待に応えたい。どうすれば良いのか、わからない。御神木の前に作られた人の輪から目を逸らす。
仁は似た感情を抱いたことがある。かつて拾われたばかりで、右も左もわからず、ただついて行くだけだった頃。とっくに異才を放っていた林琳と、無力な己を比べた日々もあった。林琳は今よりもっと冷たく突き放す言い方をしていたが、仁を見捨てなかったし、時には手を引いて道を作ってくれた。「馬鹿は嫌いだ」と呆れた顔で手を繋いでくれた——孤独は独りでは癒せないのだ。
いくら力を込めても心力が具現化されない園泉を見かねて、林琳が腕を組み、溜息混じりに言う。
「心力を理解してるか」
「え?」
一体、お前の師匠や周りの人間は何を教えていたのか。稀に園泉のように心力を上手く使いこなせない仕人がいる。原因は様々だが、片燕の少年たちは心力そのものを理解していない場合が多かった。もしやと思えば当たっていたらしい。
「心力は心の強さで、精神の強さですよね?」
「……はぁ」
滅茶苦茶に頭が痛い。一から手解きをしなければならないのか。馬鹿を言え、嫌だ嫌だ、面倒極まりない。そんな教本をなぞっただけの知識で、よくここまで生き残れたものだ。
「ほら、仕人全てが同じ道を通るなんてないんだしさ。確かに稀だけど……元気出せって!」
嫌な予感がして仁が慰めようとするが、空回りだ。みるみるうちに園泉の視線は下がっていく。元気が出ても心力が使えなければ、何も変わらないだろう。
「あはは、そうですよね……いずれは僕も……」
「絶対来ない」
「……、師兄……本当にさぁ……」
園泉は年少の仕人であり、同門ではないが、少しは優しく接する余地があるのではないか。珠樹の時にも似たようなことがあったが、林琳の言葉はどこか冷たい。園泉の顔には愛想笑いが引きつり、情けない表情が浮かんでいる。彼にとって、これほどまでに貶されるのは初めてのことなのだろう。肩が震えながらも無理やり笑みを作る姿は滑稽で、涙を流さないのは強がりなのか、あるいは意地なのか。
流石に言い過ぎだと林琳を責めると、園泉は「事実だから仕方ない」と返答する。むしろ、彼の言葉によって潮時が来たと感じたのかもしれない。
「……抜けるのか?」
決めるのは園泉だが、とどめを刺したのは林琳だろう。本当に師兄は余計な事を口にする。園泉が蒼羽で浮いていたのは見てわかっただろうに、わざと傷口を開く言い方をした林琳にも問題がある。仁は忌々しく隣の男を睨むが舌打ちを返されてしまった。
「その方が良いのかもって最近思うんですよね」
足の悪い扇葉九のそばにいると役割が与えられるが、いなければただの一般人に過ぎない。役立たずと笑われても言い返せない自分に対する腹立たしさがあった。潔く一般人に戻ることで、普通の生活を送ったり、村の子供たちに読み書きを教えたりするのも悪くないと考えているようだ。園泉はあっけらかんとした態度で、乾いた声で笑った。
「役立たずでも普通の人間なら誤魔化せるし」
その言葉を言い終える前に、園泉は突然現れた黒い炎に驚き、「ほぇ」と口を開いたまま静止する。
林琳の掌で揺れる拳程度の炎が不規則に燃えている。
「心力には色がある。珊來は清らかで淡い、雨の様な色。まぁ……水龍の加護があるからだろうな。蒼羽宗主は鋼の色だ。あれはわかりやすいな。でも奥底には静かな水面があって、細波すら許さない頑固さ。仁と相性が悪い。俺は珊來や六敬と相性が最悪だろうな。だが逆に綺琉の丈夫で柔軟性のある心力との相性はいい」
園泉は揺蕩う炎から目を離せない。
「いいか、お前にはお前の色がある。心が強いとか、精神が強いとか、そんなのは後だ馬鹿」
「僕の色……」
「もし目の前で珊來と宗主が死にかけていたらどうする? お前はどっちの手を取る?」
「二人です!」
「どちらか一方しか助けられないなら、どうする」
「……」
「人はいずれ死ぬ。お前も、俺も、こいつも、あいつらも。命あるモノに終わりはついて回る」
炎は穏やかに鎮まり、ゆっくりと消えていく。まるで命の灯火のように。
「不平等な世界でたった一つだけ等しいものがある。等しく持って生まれる、最期に与えられる救いがわかるか」
平等に与えられた資格は、非常に悲しいものだ。その時を迎えることで、ようやく役目を果たすのだと、園泉は消えてしまった炎の残像を思い浮かべて悟った。
「死は最期の救いだ」
生きている苦しみから解放される、たった一つの抜け道だと林琳は言う。
「選べ。お前はどちらを救う?」
随分と残酷な問いだ。命の選択を迫られた園泉は必死に考える。救える命は一つだけで、もう一方は死ぬ。自らが命の選択をしなければならない。
——これでは殺すのと同義ではないか!
「僕は……」
「一つ選ぶには、一つ捨てるしかない。この世の理だ」
答えが決まらないまま時間だけが進む。
答えが決まらないまま、時間だけが進む。暇つぶしに炎を両手から出し、片方を消してみる。ちょっとした遊び感覚だったのに、園泉は青ざめ、目を閉じてしまった。
「そんなに難しい選択?」
「園泉にとっては結構難易度が高いと思うぞ」
逆に同じ質問をされたらどう思うのかと考えるが、やはりやめておこう。師兄の考えていることは大体予想がつく。
百面相をする園泉を怪訝な表情で見つめ、首を傾げた。
「気にするな、勝手に現実から目を背けてるだけ」
「はぁ?」
その間に、続々と蒼羽の弟子たちが集まり始めた。いよいよ本格的に後始末に取り掛かるのだろう。こちらを追う視線も増え、林琳と仁は答えを待つ時間も惜しむように手短に別れを告げる。
答えが決まらないまま、もう行ってしまうのかと園泉は慌てて呼び止める。「何故仕人の道を選んだのか、同門に聞いてみろ。その上でお前が仕人を目指す理由をもう一度考えてみろ」と額を小突かれてしまった。
「あぁ、それと、珊來にも報酬の支払いを」
「報酬ですか? 一体何の?」
「文の遣い、怪奇の始末、燈村の解放。それを纏めて支払えって言っとけ。三日後には国を出るから」
お馴染みの酒場を教えて、出発日までに支払うように伝言を頼む。いつの間に約束をしていたのか戸惑いながらも、園泉は言付けを受け取るとそそくさとその場を後にする背中を見送った。引き止める勇気がなかった。
「行ってしまったかい」
「はい」
「少しゆっくりして行けばいいのにね」
「あの、三日後には松季国を発つらしく、報酬の支払いをそれまでにとの言付けを……」
「あははは! そうだね、すっかり忘れてたよ」
七色聖をばさりと開いて扇ぐ。
「収穫はあったかな?」
恐らく、二人と長く話していたのを見られていたのだろう。収穫よりも、他に頭を悩ませることが増えたが、素直に面白い話を聞けたと思う。心力は形は違っても基本は同じだと思っていた。振り返ってみれば、自分が仕人の道を選んだ理由も曖昧だ。
断じてなんとなく選んだわけではない。漠然とした大きな理由はあっても、数ある道から選び取った理由——胸を張って言えないことに気づいた。
「珊來先輩は何故仕人に?」
「急にどうしたんだい」
目を点にした珊來だが、一度七色聖をくるりと指先に引っ掛けて器用に回す。その反動で七色聖が閉じた。
面白味のない話になってしまうが、園泉が聞きたがるには訳があるのだろう。
「母が病に倒れた時、父が言ったんだ。金や地位よりも護りたい者を護れる力が欲しいってね。母も父も亡くなってその意味を知ったよ。孤独は最も人を脅かす脅威だ。世界のどこかで私と同じ痛みに苦しむ人がいるなら……まるごと護れる力が欲しい。だから仕人になったんだ」
仕人の道を選ぶ理由は十人十色。誰もが違った経緯を持っていると珊來は言う。六敬や綺琉にも異なる理由があるはずだ。しかし、中には繊細な過去を経てこの道を選ぶしかなかった者もいる。
「同門に聞く分には構わないが、他の仕人に聞いてはいけないよ。中には怪奇に強い憎しみを抱く者もいるからね」
「はい」
「誰かになろうとする必要はない。君自身が『何のために、何になりたいか』を考えなければならない。難しいことだけど、明確な理由を持つことが大切だ」
「もし、二つの命から一つを選択する時が来たら、どうしますか」
普段の園泉なら、命に関する話をすることはない。この質問は完全に林琳の余計な知識の影響だろう。澄ました態度で、厄介な問いを残していったに違いない。
「一つ選ぶには、一つ捨てるしかない。珊來先輩は何を基準に選択しますか?」
要するに、命の選択を迫られたのだ。園泉にとって、それは難しく、辛い問題である。しかし、珊來にとっては簡単なことだ。
「命の選択を捨てる」
そして命ではなく、果てしなく続いていく未来を選ぶのだ。
「私は二人を助ける。そのために力を得るための修行をする」
道は一つとは限らない。切り開くのも一つの選択だ。
ここまで言われて、目の前の景色が少しだけ色を変えて動いた。集まった同門の仲間たちも、それぞれ異なる人生を歩んでいる。一人一人が誰かになろうとするのではなく、どうありたいかを考えて一歩ずつ進んでいるのだ。理由が途中で変わっても構わない。何よりも大事なことは、前に進む理由を持つことなのかもしれない。
「園泉、人は傷ついて生きていくものだ。心の悩みは打ち明け、仲間と共に解決していくんだ。時には泣いてもいい」
心の奥底にある不安を吹き飛ばし、新しい芽が顔を出す。
「……仕人ではない人々が平和に暮らせる世界があれば良いのに」
仕人がいなくても、御守りのように怪奇からある程度身を護ることができる道具があれば、それが叶うのではないか。燈村の惨劇を繰り返さないためにも、怪奇を祓う力ではなく、怪奇から身を護るだけで十分だ。危険な仕事は仕人が行う。未熟な仕人は宗主や師兄から御守りを受け取る。しかし、仕人のいない土地では誰も護ってはくれず、立ち向かう術もない。そんな人々の役に立ちたい。
また一つ、景色が変わる。
「とても良い考えだ!」
——間に合うだろうか。
狭い歩幅で前に進んでも。
◆
「おい、くそ狸。今日は絶対逃がさないからな。一歩でも動いたら殺す」
「落ち着けって……」
箸の先端を御者の首元に突き付けた林琳を引き剥がそうと踏ん張る。既視感のある光景だ。
「よくやった、よくやった」
手袋に覆われた手が軽快な拍手を送る。
「狸の丸焼きを村に捧げるか?」
「あー! お互いに煽るのはよせって!」
最終日に珊來の来訪を酒屋で待っていると、現れたのは御者だった。
二階の階段に近い席で酒を楽しんでいれば、隣の卓に腰を下ろす人影が。よく見かける身なりだ。気にも留めずに盃を空にして軽食を注文した。他に目星が付く店もなく、ずっと酒二階の階段に近い席で酒を楽しんでいたところ、隣の卓に腰を下ろす人影が目に入った。見慣れた身なりである。気にも留めずに盃を空にし、軽食を注文した。他に目星が付く店もなく、二日目の夜から常連と見なされ、日替わりでお品書きにない料理を提供されるようになった。しかし、これがまた大層美味しい。黙々と舌鼓を打っていると、横から黒い箸が伸びてきた。
作法も行儀も失礼極まりない——何様だ、こいつは!
その結果がこの状態である。
「旨そうな飯だなぁ」
「お前を丸焼きにしてやる」
人目を避けるため、仁は二人を空いている個室に引きずり込んだ。幸いにも目撃されることはなかった。
「一回落ち着いて話し合おうってば!」
「こいつを丸焼きにしたらな」
指先から溢れ出す黒い炎を仁の心力で鎮火する。
「ちょ、流石に建物が燃えるからやめろ……!」
今さら御者が何用なのか、仁は箸を取り上げて林琳を引き離し、その際に鳩尾に一発やられないよう細心の注意を払った。
本題に入ろうとすると、御者は一冊の古書を見せびらかした。流通が少ない珍しい革張りの表紙に釘付けになった。革張りの書は高価なもので、庶民が持つには少々贅沢すぎる品物だ。題名のない古書からは不気味な匂いが漂っていた。絶対に触れたくないが、物珍しさには勝てず、二人揃って前のめりになって御者の持つ古書を観察した。
ふと、これは異国の書ではないかと脳裏を過る。製本の手法が、幸楽美国で焼き払ったあの書とよく似ている。林琳が仁に視線をやると、どうやら気付いたらしい。大きさや革張りの表紙は異なるが、背の部分には変わった金具が取り付けられていた。
「やる」
「要らん! 怪しすぎるだろうが!」
誰が好き好んでこんなものを持つだろうか。今回も封書の遣いだけだと思えば、目の前の御者に面倒事へと巻き込まれた。全ての問題に関係している御者だ。誰がどう見ても古書は面倒の種に違いない。
「苦労して手に入れたんだ、持っていけ」
乱雑に机に投げ出された古書。
「俺達は別の用事があるんだ。金輪際お前に関わるつもりは……って、おい!」
視界が真っ白に染まり、激しい光が辺りを包む。御者の姿が眩む。林琳も同じ手に惑わされるつもりはなかった。
「逃がすか!」
「ぎゃー! 師兄! 俺は的じゃない!」
「しゃがんでろ!」
「そっちが手を止めろ!」
やいのやいの、仁の言い分はごもっともである。真っ白の空間で箸が仁の体を何度も掠めていて、非常に危険極まりない。心臓に刺されば苦しんだ挙句にあの世行き決定だ。避けた先でも箸が目の前を信じられない速度で通過する。目と鼻の先だ。「頼むから止めてくれ!」と仁が叫ぶと、視界が次第に元の明るさへと戻り始めた。急激な明暗の変化に驚いた瞳は輪郭をぼかしつつ、林琳の形を捉える。まだ視線が定まらない仁が目を擦ると、黒い影の隣に背の高い人間が立っている気がする。ぐっと眉間にしわが寄るまで目を凝らせば、ぼんやりと薄青色が見えてきた。
「危ないから止めてもらえるかな」
五本の指の間に挟んだ四本の箸を取り上げる男。
「た、助かったぁ……」
恐る恐る後ろを振り向くと、壁には箸が突き刺さっており、冷汗が止まらない。一歩間違えれば、穴だらけだ。この際、容赦ないのは百歩譲っても、もう少し周りを見てほしい。
案の定、御者は姿を晦ましており、林琳の怒りの矛先は勿論——珊來だ。
机の下から顔だけを出してこっそり様子を伺う。取り敢えず、騒ぎになる問題は起きていないようだ。予想通り一触即発ではあるが。
——こっわ……!
冷めた瞳の奥で燃える黒い炎。
——いつ怒りが爆発してもおかしくないぞ……!
一瞬の隙に無造作に置かれた古書を隠し、机の下に潜った。
身を縮めて爆発を待つが、仁の予想に反して珊來が優勢だ。林琳は椅子に八つ当たりで苛立ったまま座っている。椅子は嫌な音を立て、貧乏揺すりの振動でぐらぐらと机が小刻みに動き、木屑が机の隙間から降ってくる。
「で、君はなんて答えるつもりだったのかな」
薄青色の衣と漆黒の衣が机の下で揃った。
「……ッチ」
「舌打ちしない」
恐れていたことが起きないと知った仁は、机の下から出てきて重たげに揺れる巾着に心を躍らせた。ちなみに古書はこっそりと椅子の真下に隠しておいた。
机に出された巾着袋を見れば、当面は困らない程度にどっしりと中身が入っている。懐が軽い二人にとっては喉から手が出るほど欲しい。確実に欲しい。
「意地悪だね。命の選択をさせるなんて、大人のすることじゃない」
何をそこまで怒る必要があるのか。ちょっと口が滑っただけで悪事を教えてはいないだろう。口にしたことは全部正しいし、何一つ間違ってはいない。
——とか思ってんだろうな、あの顔。
いい機会だ。報酬のためにも、さっさと珊來に叱られてしまえ。あわよくば、その自己中心的な思考を見直してくれればいい。
記憶のない仁にとって、人生の始まりは林琳だ。林琳の願いや望み、やりたいことを、可能な限り叶えてやりたい。そのための犠牲ならば、いとわない。仁は林琳がいれば他に何も要らない——だが、林琳の言動全てを肯定したことはないし、今後もするつもりはない。
それにしても、珊來は扱いが上手い。林琳を刺激しない危ない線引きで、的確に正論を述べていく。反論する隙を与えず、それは林琳が最も苦手とする詰め方だった。
「はぁ……今回は園泉に免じてこれ以上は言わないよ。だけどね、言動には気を付けなさい。君だけじゃない。仁や同門の為にも」
「生憎だがとっくの昔に破門されてる」
林琳が何気なく吐き出した言葉で途端空気が重たくなった。両隣が物申す前に「話は終わりだ」と咄嗟に付け足す。また余計な事を口走ってしまった。鬱陶しい視線を二つも向けられた林琳は目頭を摘まむ。忘れろと言う林琳を、珊來は追及しない。仁の痛々しい表情を見れば、己が口を出せる軽い話ではないと察する。元々訳ありの旅路であることを知っているし、詮索は禁止という当初の約束がある。
「次は何処に行くんだい。行く宛のない旅でもないだろう」
巾着袋を受け取ると、予想以上の重さだ。二、三回手で跳ねさせて、ずっしりとした銭を感じる。中を確かめれば、世界共通の通貨だ。
壁に刺さった箸を回収しつつ、仁は変死体を追うことを伝えた。
「そっちはどうなんだ。結局、星の子を殺めた人物はわからず仕舞いだけど」
「鼠を片付けてからかなぁ」
「鼠?」
「可愛くない溝鼠だね」
どうやら蒼羽にはまだ内部の問題が残っているらしい。燈村の片付けに続いてご苦労なことだ。他人事の林琳は、あくびをかみ殺す。
「松季国から支援も出ているから、案外そうでもないよ。年内には燈村にある御神木を守る為に大きな社を建てる。水害を避けながらになるけど、順調に進めばあっという間だ」
それよりも問題なのは蒼羽に紛れ込んだ溝鼠だと言う。
「誰一人怪しまなかったけど……書庫から何冊か古書が紛失してる。大した古書ではないし、盗まれたのは一部だ。中には中途半端に破られている書もあった」
「完全に身内の犯行だな……破られた内容を知っている者はいるのか?」
「私と宗主様は暗記してるよ。だから妙なんだ。本当に珍しい書でもなくってね」
最も、紛失した古書の行先が気になる。売り捌くにも価値がわからない人間が多いだろうし、蒼羽の刻印が押されているため、買い取り手すらつかないだろう。一体何の目的で盗んだのかを考え込む珊來に、仁が尋ねた。
「武術の書とか、その類なら何となく理由は掴めるけど」
「いや、違う」
仕人に関与している書ではないと首を振る。
「主について記述のある書だ」
"主"
かつてこの世界を創り、怪奇を残して人間を捨てた神のことだ。誰もが知っている物語を淡々と語るように話す。
「でも、実際に書かれている内容は世界中の人間が知っているもので、特別な事は書かれていないんだ」
「主に関与すれば夢天理が動くぞ」
それが厄介なんだと珊來が眉を顰める。
「当面蒼羽は大人しくしているしかない」
松松季国や周辺の村落は、蒼羽が大昔から護り続けてきた。今まで築き上げてきた信頼を壊すことはしたくない。災難だが、夢天理の人間が何人も幸楽美国にいる限り、松季国に飛び火するのも否めない。
「君達も用心して行くんだよ」
当の本人が最も用心していると思うが、林琳の心力は一見すると珍しい質だ。心力に攻撃性が現れるのは稀である。しかし、心力は人それぞれで、珊來の懐かしい友も同じだった。びりびりと痺れる雷を纏っていて、時折溢れる心力で髪の毛が大爆発を起こしていた。旅を共にしていた頃、毎朝頭が鳥の巣になっていた友を思い出し、懐かしさのあまり口元が緩む。
「便り……は、寄越さないだろうから」
各地を飛び回る人間に文を寄越せと頼むのは無駄だと学んだ。大抵届かないし、二人がこまめに文を出すとは思えない。
「変死体は他の国でも見つかり始めてる。犯人まで辿り着いているかは不明だけど、必ず夢天理も手を出してくる」
星の子を殺害した人間だ。危険は今以上に伴うだろう。得体の知れない組織の可能性だってある。本当はじっくりと案を練って手を組みたいが、それでも二人の旅路を邪魔するわけにはいかない。珊來は身を案じて深追いはするなと言い、何かあれば蒼羽を頼れとまで言った。そこまで気を遣う必要はない、どうせお互いの事は忘れる約束なのだ。林琳がそう言えば、珊來は痛いところを突かれたと首に手を当てた。
彼らには彼らの旅路がある。
珊來には珊來の立ち向かう問題があって、これ以上手を取り合うのは難しい。
「情報が欲しいなら"嵐海宋"に寄ってみて。君達の助けになると思う。必要であれば私の名前を出してもいいから」
◆
「よし、行くか」
蒼羽から譲り受けた牝馬はまだ若く、その性格は穏やかだ。栗毛で愛らしく、これからの成長が楽しみな馬体を持っている。共に山や川、谷を越えながら筋肉と体力を養っていくつもりだ。
名を小碧と呼ぶ。なんと、蒼羽宗主からの贈り物だ。
「ほら」
差し出された手を取り、馬に跨る。久しく馬に乗っていないが、体幹を鍛えている林琳は手慣れた様子でしっかりと手綱を握る。視界が高くなると、仁の旋毛が目に映った。彼の結い上げた黒髪が風になびいている。今は暑さに備えてしっかり結んでいるのだろう。林琳が気になっていた前髪も、先日仁の手で整えられて少し落ち着いたようだ。
「わっ、何?」
「被ってろ」
頭に感じる微かな重みを手で触れると、竹の感触だ。直射日光を遮り、日陰を作るだけで、結構涼しさを感じる。首元にも風が通り抜け、心地よく冷えて頬が緩む。
「ありがとう」
幸楽美国から持ち歩いている鞄を背負い直すと、中に入れた古書が腰に当たって中で動いた。
「まさか主の所有物を押し付けられるなんて……仁、お前、呪われたのか? 昔からお前が旅に加わると面倒が舞い込んでくる気がする」
「そっくりそのままお言葉をお返しますよ、愛しの師兄様」
自分の事を棚に上げて都合のいい文句だ。
主が消えた日、崩れた塔の中からは様々な道具が発見された。京の趣向で集められていた我楽多屋敷に混じっていても気がつかない、用途不明の道具や、馬鹿げた絵。世界中で遊び惚けていた主が残した物は至る所に散らばり、面白おかしく取引されてきた。それを集めているのが夢天理だ。主の所有物は主にしか使えないのに、意味のない我楽多を秘密の宝物庫にしまっているらしい。内部事情を把握している者たちは「歴代の仕人が研究してただの我楽多と判明しているのに、収集癖のある馬鹿な集団だ。宝探しに没頭して碌に怪奇も狩らない」と揶揄している。
「無駄に面倒な荷物が増えただけじゃん……」
兎にも角にも、御者が置いて行ったのだ。人目の付かない安全な場所で燃やして灰にする事にしたのだが、一切燃えない。蝋燭の炎や林琳の心力で火を点けてもこれっぽっちも燃え移らない上に、焦げ目すら現れない。刃物は刃を通さず、刃先が折れる。これぞ鉄壁。
それならば表紙の下は鋼か、鉄か、はたまた金か。
離れた位置から肩を寄せ合い、林琳が器用に竹で表紙を捲ると、蚯蚓が走ったような墨の痕跡が見えた。陣を張る際、仕人は独特な文字を使って円を描く。共通の通貨があるのと同じように、仕人は主が使用していた文字で陣を描くのだ。怪奇に対抗するために主が残した遺産だと考える宗派が多い。
仁が遠目で観察していると、竹を捨てて古書に飛びついたのは林琳だ。
「嘘だろ、塔に刻まれている文字が何で……」
書に齧りついた夕焼けの瞳が忙しなく動く。解読は難しいが、やはり文字の形が酷似している。片手で口元を覆い、一心不乱に書を捲る林琳。不審に思い後ろから覗いても、仁が目にするのは読み取れない蚯蚓文字だ。反対側に回って見る角度を変えても、やはり蚯蚓でしかない。時々出てくる絵は怪奇だろうか。興味深く目で追うが内容は全く頭に入らず、退屈してきた頃、林琳が書を閉じる。
「おい、朱禍は何処にいる。師匠と一緒か?」
「……なんでその名前が出るんだよ」
"朱禍"
かつて仁と共に片燕を支えた男がいる。彼は片燕宗主の古い友でもあり、片燕は彼に恩があるが、仁の大嫌いな仕人名簿には、他者を寄せ付けない不動の一位として君臨し続けている。この男から夢天理の裏情報を得ることはできるため、正直便利ではあるが、生理的に受け付けない。
「心底最悪だが、用ができた」
名前を口にするだけでも気分が悪くなる。林琳にとっても因縁の相手だった。一度、強烈に揉めて大事故が起きたことがある。双方が一歩も譲らず、どちらも大怪我を負った。その結果、林琳は左腰を刺され、出血多量で片燕本拠地が血の海になりかけたのを忘れることなどできない。あの時は、地面に這い蹲り、罵詈雑言を吠え続けていた。思い出すと、今でも胃がむかむかしてくる。
「放浪癖のある変人だぞ? もう一年は見てないし、居場所は誰も知らない」
片燕の本拠地に気が向いた時にだけやって来て、すぐに出て行く。朱禍に行先を聞くのは宗主ぐらいだが、転々と放浪するため、後を追っても遭遇できる確率は低い。
「"嵐海宋"は情報が売買される闇市だ。あそこなら手に入る」
ついでに御者や黒尽くめの人間、あわよくば変死体の情報も手に入れば万々歳だ。
「ま、売ってくれる人間がいるかは別だけど」
無言で地図を開き、何か言いたげな仁を無視して、行き先を嵐海宋に定めた。
うんざりする橋を渡り切ると、開けた山道が待っていた。小碧は初めて国を出たのだろう、足取りは軽やかで、急な坂道ですらご機嫌だ。
若さゆえに無茶をしないよう、適度に休憩を挟みながら森を進む。水害で土砂崩れを起こしている道は珊來から事前に聞いており、小碧のためにも障害のない道を選ぶ。
「懐が潤うだけで余裕が生まれるよな」
「情報を買う事になるんだ、絶対に無駄遣いするなよ」
「はぁーい、頑張りまーす」
比較的水の濁っていない池で小碧を休ませ、大きな木の実をやると、嬉しそうに一度鳴いた。仔馬の頃からよく食べていたらしい。優しく額を撫でると、すり寄ってくる。小碧が木の実を探して風呂敷を狙うのをあしらうと、彼女はしょんぼりした表情を見せた。
「ねぇ、林琳」
「ん?」
「領域に戻らなくてもいいのか」
五年前、破門されてから林琳は身を隠すように領域へと逃げ込んだ。そこは時が止まった竹林で覆われた世界。林琳と哀れな魂が迷い込む特別な空間だ。宗主ですら多くを語らず、触れることを恐れている。林琳は"偶然生まれた世界の狭間"と説明するが、師匠は"あるべくして隠されていた空間"とも言う。
「幸楽美国の滞在中、気にしてただろ。本当は嫌だけど、必要なら一時戻ってもいいぞ」
「お前気付いてたのか」
夜になると外へ抜け出すのを知らないと思っていたらしい。布団を並べて寝ているのだ。いくらなんでも気付くだろう。そうでなくとも、寝付けないのに言わなかったのは仁の気遣いだ。
「……問題ない。人間が踏み込んだ気配もないし。まぁ、入り込む物好きもお前ぐらいだしな。ここで直に見張ってる方が楽になってきた」
「ははは、何だよそれ!」
「昔みたいに手錠でもつけるか?」
自我の定まらない幼い仁は気になる物を目に入れたら一直線に走って行った。
「あれは何、これは何、それは何? 脳内でお前の騒がしい声がずーっと木霊して、中毒になりそうだった」
両手の人差し指をひょいひょいと動かし、仁の動きを真似てみる。
「師匠は笑ってるし。記憶の無いお前は良い餌だったからな。怪奇にも引き寄せられて、何度連れ去られそうになったか」
目を離した隙に消える幼い体を捕まえるのが林琳の仕事だった。しかし、学ばない仁は引き止めても勝手に動き回る。苦渋の策で手首に布を巻いてみたところ、これが案外うまく作用した。犬のように扱うのはやめなさいと叱られたが、大人しくなった仁を見て師匠も納得したらしい。近くの国で長めの紺色の柔らかい布を買ってくれた。その後で値段を聞いたが、布にしてはかなり高価だった。
「流石に恥ずかしいから遠慮しとく」
「俺は別にいいけどな。制御し易くて便利だった」
「えぇ……」
鍛え抜かれた男の身体には布で作った可愛らしい手錠は似合わない。鎖の付いた手錠も今だったら壊せてしまうと言うのに、柔い布で良いのか。
笑いを含んだ溜息に振り返ると、小碧を撫でて黒い衣の裾を風に遊ばせる後ろ姿が見えた。飽きるほど知っている姿なのに、仁はこの上ない幸福を感じた。離れていた五年の月日を取り戻す機会だ。荷台で組紐を編む姿も、怪奇を祓う姿も、愛おしい炎も、箸の進まない食事だって。五年間ずっと待っていた。
——"「なに、お天道様はあいつが好きなの?」"
子供じみた可愛い感情ではないことを、誰よりも理解している。胸の奥底にある箱に、残酷で醜い感情を閉じ込めて、押し殺すことが得意になった。行先のない感情は絡まり続け、真っ直ぐに引かれていた線が溶け出していく。歳月が重なるほどに、林琳へと繋がる線が途切れていく。同時に、手を繋いだ記憶も徐々に遠のいていく。
「じゃあ、今度は俺が林琳を繋ごうかな」
——万が一、線が消えてもいいように。
包帯の取れた手首をすっぽりと一周回って握れたことに驚いた。親指に触れる人差し指の関節がまるっと一つ余るではないか。
「え?」
ぎょっとした。細すぎる。
「五年も時間差があるんだ。多少の差は出てくる。それに、お前が成長しすぎなんだ」
狭間の領域では時間が存在しない。仁が進めた五年の時間は、林琳にとっては空白の時間だ。体格に大きな変わりは見られなくても、筋肉や骨、身体の細かい部分に差が生まれてしまうのは仕方のないことだった。
「時間の経過を感じない領域だからな。ある程度予想はしていたし、所詮俺には関係ない時間だ」
林琳の言葉に仁は反発した。
「……あのさ、俺の五年は林琳にとって無駄な時間だった訳?」
言い方が癪に障った。蓋をして隠した感情が奥底で蠢く。忘れもしない、五年前の記憶が甦る。
目を覚ますと、林琳の姿はどこにも見当たらなかった。宗主は顔色を失い、血を吐いて倒れている。鈍く光る剣は血に染まっていた。すべてが終わってしまったのだ。仁は混沌とした組織の指揮を急に引き受けることになり、悲しむ暇も、林琳を探す時間も与えられなかった。夜が訪れるたびに、心は深い孤独に襲われ、休息の取れない身体で怪奇を探しに出た。そのたびに、朱禍から「帰る場所を護るのが君の役目だろう!」と殴り飛ばされるたび、仁の心に蓄積された感情が重くのしかかった。
その後、宗主が不在だった一年間、仁は朱禍と衝突しながらも片燕を支え続けた。朱禍の存在があったからこそ、片燕は崩れずに済んだが、仁の心の奥底では孤独と不安が渦巻いていた。傷の癒えない宗主の傍に寄り添い続けた。真実を探ろうとする日々の中宗主が一切口を開かないことに苛立ちを募らせた。山雫国で変死体が発生した時、仁は危機感を覚えた。これではまずいと感じた彼は、宗主との話し合いの末、領域に身を隠した林琳を引き摺り出すことを決意した。
五年という年月は、仁の人生を闇に堕とす寸前だった。しかし、林琳にとっては無価値なものらしい。
だが、生憎と林琳はそんな事情を知らない。
仁は五年間を酷く寂しい時間と言うだけで、実際には林琳の消えた片燕の話を何も教えていないのだ。後輩の話や宗主の話は口にしても、己が最も苦しんだ話を絶対に出さなかった。
それが原因かはさて置き、離れていた五年に関わる話になると、どこか構ってほしくて変な意地を張ってしまう。
「別にいいよ、俺の五年が林琳にとって無価値でも」
返答はどうせ「わかっているなら、無価値な話をするな」とか、そんな物だろう。これでまた辛辣な引き出しが増えたな、と思った。
「……はぁ。お前は餓鬼か」
仁は感情のまま子供の様に癇癪を起したのが恥ずかしく拗ねた様子で俯く。いつも感じる刺々しい雰囲気は出ておらず、辛辣な言葉も降ってこない。どきり、と胸が騒めいた。
「その五年で俺はお前としか会ってない」
仁の心情を知らない林琳は、正直に「俺の記憶はお前の躾で埋まっている」と告げた。
魂を諭して、前の相手をする。その繰り返しの中で、お前にしか会っていないのに、時間の話を持ち出されても困るのだと、笠の縁の縁を掴んで顔を上げさせれば、やはり、眉を下げて不安気に視線を彷徨わせる瞳があった。迷子の様に情けない顔をする仁は「俺だけ?」「本当に、俺だけ?」としつこく聞く。
「お前しか踏み込まないだろ。あそこで他の人間を見たか?」
呆れて笑う林琳が笠を乱暴に撫でると、仁は閉じ込めた感情が少しだけ軽くなって、どろどろとした醜い箱から抜け出した気がした。
「……そっか」
——林琳の五年は俺の物なんだ。
何処にいてもお前の躾ばっかりだ、と額を指先で弾かれて、身体が疼く。
二人が遊んでいると勘違いした小碧が林琳の笠を奪い取る。上下左右に首を振り、笠を振り回して楽しそうだ。一生懸命はむはむと啄むのは大変愛らしいが、唾液で笹が痛むので止めてくれ。
日差しもまだ強く、頭皮が焼かれている感覚がする。さっと両手で頭の上に日除けを作っても無駄で、返せと手を伸ばしたが無駄だった。
林琳が叱っても離す様子のない小碧は、笠を玩具だと認識してしまったらしい。
小碧を叱る林琳の声が心の隙間を確実に埋めていく気がした。
松季国編 完
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