随分と奥まで進んできた。振り返れば、灰に沈んだ湖城国の街並みが鈍い光を帯びて広がっている。屋根も路地も、すべてが薄く死を被っているようで、まるで時間ごと埋められてしまったかのような静けさがあった。
仁は高台からぐるりとそれを見渡し、肺の奥に溜まった重い空気を吐き出す。吐息は白くはならない。ただ、喉の奥にざらりとした灰の味だけが残り、飲み込むたびに違和感が張り付いたままだった。
街が灰に染まっているのに対し、国師の屋敷があったこの一帯は、さらに別種の重さを孕んでいる。湿り気を含んだ圧のようなものが肌にまとわりつき、音が吸い込まれていくような、耳鳴りにも似た静寂が続いていた。何度か灰を吸い込み、二人は小さく咳き込む。仁は袖で口元を覆い、冽もそれに倣うが、吸い込む空気は薄く、どこか腐ったような匂いが混じっていた。
「ここが最後だ」
仁の声は低く抑えられていたが、その中に迷いはない。屋敷の探索は既に終えている。残るはひとつ――傀儡が吊り下げられていた、あの不気味な家だけだ。遠目にも異様だった。窓枠は歪み、軒先からは何かが揺れている。風など吹いていないはずなのに。
「人形歌劇を生業としていた商人の店だな。……入るぞ」
冽は崩れかけた窓の隙間から中を覗き込み、わずかに顔を顰める。その瞬間、無意識に呼吸を止めていた。それも無理はない。吊り下げられた人形や傀儡の表情が、あまりにも“人間”だった。狂ったように歯を見せて笑う顔、悲劇を噛み締めるように瞼を伏せた顔、そしてぽっかりと感情だけが抜け落ちた空洞のような顔。四肢の欠けたものも少なくなく、糸に吊られたまま宙で揺れ、どれもが終わらぬ芝居を続けているかのようだった。
「嫌な趣味をしている」
冽が小さく呟く。
「生業だとしても……やりすぎじゃないか?」
仁も思わず眉を寄せる。視線を逸らしたくなる衝動を意志で押しとどめながら、ゆっくりと足を踏み入れた。
その瞬間、空気が変わる。外よりも濃く、重く、まとわりつくような湿り気を帯びている。木の匂いと古びた布の匂い、その奥に、説明のつかない甘い腐臭がかすかに混じっていた。至る所に放置された傀儡は無造作であるがゆえに、なおさら本物の死体に近い。薄闇の中で影を落とし、今にもゆらりと首をもたげそうな錯覚を呼び起こす。
「どの傀儡も心臓部分に空洞がある。……これは、あの傀儡と同じだ」
仁はひとつを持ち上げながら言う。
「ここから運び込まれたと言うのか?」
「傀儡の作りも似ている。ほら、この関節部分なんて殆ど一緒だ」
木で彫られた指先に触れた瞬間、仁はわずかに眉をひそめた。驚くほど冷たい。生気がないはずなのに、触れているこちらの体温を奪っていくような感触だった。
「一種の芸術品みたいなものだからな。職人の癖は強く出るんだろう」
掘り方だけでなく、関節の丸み、表情の削り方――どれもが同じ“癖”を持っている。冽は仁の手元を覗き込み、その手首を指先で軽く突いた。組み込まれた球体関節がぐるりと回転し、手の甲が露わになる。繊細に削られた木肌は、時を拒んだように美しく、腐敗を知らないその滑らかさが、かえって異様だった。
「……匂いが変わった」
冽が空気を嗅ぐ。ほんのわずかな違和感。それが確信に変わるより早く――傀儡が、ゆらり、と揺れた。
ひとつではない。天井から吊られたものも、壁際のものも、足元に転がるものさえも、同時に、わずかに、しかし確かに動いた。風ではない。この国に来てから、傀儡を揺らすほどの風など一度も吹いていない。
冽の額を、嫌な汗が伝う。
「気味が悪い……出た方がいい」
低く押し殺した声。その予感は、言い終える前から現実になり始めていた。ぎし、ぎし、と木の軋む音が増していく。乾いた音が重なり合い、まるで何かが目覚める前触れのように空間を満たしていく。
――バタン。
辛うじて光を通していた扉が、勢いよく閉ざされた。
外界との繋がりは断たれ、逃げ場は消える。灯していた符の淡い光だけが、二人の輪郭をかろうじて照らしていた。
「……冽、近くに」
低く抑えた声と同時に、仁は冽の衣を掴み、緩く引き寄せた。その指先には、わずかに力がこもっている。
「あ、あぁ」
冽も短く応じ、反射的に距離を詰める。
「囲まれたか」
仁が呟く頃には、既に異変は明確だった。天井から吊られていたはずの傀儡は、いつの間にか一体も見えない。視界から消えた――それだけではない。背後から、足元から、視界の外側から、人ならざる気配だけがじわりと満ちてくる。
空間そのものが、歪む。
音が消えた。生き物の気配も、風も、灰の匂いすらも、すべてが切り取られたように消失する。残るのは、耳鳴りにも似た“無”だけだった。
「ここは怪奇の領域だ。……傀儡を餌に、引きずり込まれたな」
仁は短剣を抜き、低く腰を落とす。意識の奥から術式を汲み上げるように、静かに力を巡らせると、心力が脈打ち、空気がわずかに震えた。
「まずは、この暗闇を晴らす」
短剣を足元へ突き立てた瞬間、バチバチと虹色の火花が弾ける。光と闇が激しく反発し合い、空間に亀裂が走るような閃光が一気に広がった。
冽は思わず一歩後ずさるが、その動きを追うように、仁の声が鋭く落ちる。
「離れるな」
その一言で、冽は足を止める。
黒く濁っていた空間が、ゆっくりと押し返されるように引き下がっていく。視界が、少しずつ戻る。輪郭が形を取り、色が滲み、やがて――景色が現れた。
二人の周囲には、不気味な姿勢で傀儡が転がっている。だが、先ほどの空間とは明らかに異なっていた。
風景は、湖城国。
「これは……どうなってる?」
思わず漏れた言葉の通り、そこは廃墟ではなかった。霧もない。崩れたはずの家々は整い、道は掃き清められ、遠くには市場の屋台らしき影さえ見える。人影こそ存在しないが、確かに“生”の痕跡だけがそこに残されていた。
かつて栄えていた湖城国の姿が、まるで幻のように蘇っている。
胸の奥に、わずかな安堵が芽生えかけた――その瞬間。
「お見事!」
場に似つかわしくない、軽やかな声が響いた。
二人は、同時に振り向く。
「……誰だ、お前」
低く落ちた仁の問いの先、道の中央にひとりの男が立っていた。栗色の髪を緩く結い、口元には柔らかな笑みを浮かべている。だが、その瞳だけがまるで別の生き物のように冷え切っていて、笑みとまるで噛み合っていなかった。
「流石、片燕の二番弟子。こんなに広い領域に心力を行き渡らせるなんて」
男は楽しげにそう言い、道化師のように両手を打ち鳴らす。乾いた音が、やけに澄んで響いた。その拍手だけが、この静まり返った街の中でひどく浮いている。
仁の指先が、短剣を握る力をわずかに強めた。
――この男、普通じゃない。
理屈ではなく、直感が告げている。目の前の男はただの仕人ではない。この歪んだ領域そのものに触れ、その中心に手を掛けている存在――そう思わせる、嫌な確信があった。
「やっぱり一筋縄じゃいかないか」
男はわざとらしく腕を組み、「ふむ、じゃあこうしよう」と楽しげに目を細める。拍手を止めたかと思えば、今度は指をパチンと鳴らした。その乾いた音は、先ほどよりも長く、尾を引くように空間へ滲んでいく。
次の瞬間、横たわっていた傀儡が、ゆっくりと起き上がった。
ぎし、ぎし、と関節が軋む。人の骨では到底あり得ない角度へと歪みながら、それでも滑らかに、確かな意思を持つかのように動き出す。糸はない。支えもない。それでも彼らは自ら立ち上がり、空洞の目を一斉にこちらへ向けた。
「ほら、お前たち……お友達と遊んであげて」
男の指先が、すっと冽を示す。
反射的に、仁は彼女を背に庇った。だが、四方は既に囲まれている。逃げ場はないと悟った瞬間、迷いなく冽の足元へ陣を展開する。淡い光が幾何学模様を描き、彼女の周囲を静かに囲った。
「そこから出るな!」
命令口調の声。しかし、その奥には隠しきれない焦りが滲んでいる。冽には仕人としての能力がない。前に出せば、守りきれる保証はどこにもなかった。
「いいね、いいね。面白くなってきた」
男が愉快そうに指を振ると、傀儡たちは一斉に仁へと向きを変える。
――ギギギ。
無数の軋みが重なり、空間を満たす。
襲いかかってきた一体を、仁は紙一重でいなし、そのまま首元へ短剣を振り落とした。刃が食い込んだ瞬間、血ではなく、どろりとした赤黒い液体が噴き出す。腐臭が一気に鼻を刺し、思わず息を止めたくなるほどの濃さだった。
だが、止まらない。
頬に飛び散った液体を拭う暇もなく、仁はそのまま次の標的へ踏み込む。躊躇はない。ただ、確実に数を減らすためだけに体が動いていた。
「お前は何者だ!」
冽が声を荒げる。その声音には恐怖よりも怒りが強く滲んでいた。守られるだけの位置にいることへの苛立ちと、目の前の異常への拒絶が混ざり合っている。
「俺のことはどうでもいいんだけど? それよりほら、休んでる暇はないよ」
男が軽く指を振った、その何気ない仕草ひとつで張り詰めていた空気が再び歪み、次の瞬間には傀儡の指先に仕込まれた切っ先が仁の髪を掠め、数本の黒髪が宙へと舞い上がる。
「っち……! 鬱陶しいな……!」
ほんのわずかな遅れが命取りになる距離、その感覚を皮膚で理解しながらも、仁は体勢を崩さず次の動きへと移る。
「はぁ……君たちは本当に身軽だね。その機敏さ、嫌になるよ」
男はやれやれと肩を竦め、大袈裟に身振りするが、その余裕がかえって異質さを際立たせ、仁の神経をじわじわと逆撫でしていく。
「……君たち、だと?」
低く返した問いに、男は楽しげに目を細める。
「あぁ、そうさ。君の師兄とは何度か言葉を交わしているしね」
その一言で、仁の動きがほんの一瞬だけ鈍り、刹那の隙が生まれる。
「聞いてないな」
「それは残念!」
軽い声音。しかし、その裏にある意図は明らかで、揺さぶりであることを理解しながらも、思考は一瞬だけ林琳へと引き寄せられる。
――師兄が、隠した?
否。そんなはずはないと即座に否定する。林琳は確かに隠し事が多いが、他者に害が及ぶと分かっていながら沈黙するような性格ではない、遠回しであっても必ず何かしらの形で示唆を残すはずだと、これまでの積み重ねが断言している。
ならば、この男は――。
ふと、林琳が愛用していた竹が真っ二つに折れたあの時の光景が脳裏を過り、その直後に聞いた名が、思考の底から浮かび上がる。
「夢天理……!」
「あははっ、そう、ご名答」
男の笑いが、わずかに深くなる。その様子を、冽も鋭く睨みつけていた。
「……ついに本格的に動き出したか」
押し殺した声。その緊張を楽しむかのように、男は肩を揺らして笑う。
「こっちはゆっくり下準備してたのにさ。一番弟子が引っ掻き回すから面倒なんだよ。怪傀神書を持て余してるなら譲ってくれてもいいのに」
明らかな誘導、林琳の名を餌にした揺さぶり。それを理解した上で、仁は短剣を握り直し、わずかに口角を上げる。
「譲るだって? っは、人の物を取ってはいけないって習わなかったか?」
「でも君たちには使い道がないでしょ」
「その言い分だと、使い道があるってことだな。余計お前たちには渡せない」
言葉を重ねるごとに、男の笑みがわずかに歪み、その奥にある苛立ちが滲み始める。
「……むかつくね」
吐き捨てる声と同時に、周囲では傀儡が次々と斬り伏せられていき、砕けた木片と腐液が足元に広がって、ぬるりとした不安定な足場を作り上げていた。
「いつまで正義の味方ごっこを続けるんだ。ずーっと沈黙していればよかったのに」
その言葉を聞き流しながら、仁は最後の一体を踏み砕き、そのまま短剣の切っ先を男へと向ける。
「怪奇はどこだ」
領域に意識を広げるが、静寂は崩れない。崩壊の兆しもないまま、ただ異様な均衡だけが保たれている。
「……ふはっ」
男は腹を抱えて笑いながら、ゆっくりと天を指差す。
「さぁ、ここから逃げられるかな?」
その直後、地面に散っていた赤黒い液体がどろりと集まり始め、粘つく音を立てながら巨大な球体を形成し、それが宙へ浮かび上がったかと思えば――弾けた。
空気が変わる。肺に入り込むそれは重く、冷たく、呼吸することすら拒まれるような圧迫感を伴い、空間そのものが“死”へと塗り替わっていく。
男の足元が淡く光り、姿が滲む。
「余計な害虫はさっさと死んでくれ」
「っ逃すか!」
仁は短剣を投げるが、
「無駄な足掻き。それじゃあ、さようなら。できれば大人しく死んでね」
刃は空を切り、残像だけを貫いた。
「っち……逃げ足の速い……!」
「仁、上だ!」
冽の声に反射的に視線を上げた瞬間、空を覆うように巨大な口が開かれ、蛙に似た異形の顔がぎょろりとこちらを見下ろし、背から生えた無数の腕のようなものが蠢いているのが見えた。
耳を塞ぐ意味はない。その鳴き声は直接脳内へと響き、思考をかき乱す。
――あれが本体だ。
仁は即座に符を何枚も取り出し、怪奇へと放ちながら叫ぶ。
「冽、こっちだ!」
陣の中に留まっていた彼女の手を掴み、そのまま走り出す。
「あいつはどうする!? 腹の中で何か光ってるぞ!」
「あの男が操ってる! 腹の石は傀儡の核と同じだ!」
「はぁ!? 人間が怪奇を操るなんて――!」
「現実に起きてるだろ! 前見て走れ!」
冽には当てもなく逃げているようにしか見えない。狭い路地を抜け、崩れかけた庭を飛び越え、灰を巻き上げながら駆けるその軌跡に規則性は見えない。
しかし仁の視線だけは迷っていなかった。
「ここだ!」
辿り着いた先――国師の屋敷。
振り返ると、怪奇はすぐそこまで迫っていた。
「でかい図体の癖に足が速いな」
軽口を叩いた次の瞬間、ぬめりを帯びた長い舌がしなりながら伸び、絡みつくように仁の腕へ巻き付き、そのまま強引に引き上げた。
「くっさ……! 何食ったらそんな匂いになる!」
視界が一気に反転し、身体が宙へと引き上げられる。重力の感覚が狂い、内臓が浮くような不快な浮遊感とともに、眩暈が脳を揺らした。
「仁っ!」
冽の胸が、ひやりと冷える。
落ちるのではない、持っていかれる――そう直感した瞬間には、思考よりも先に身体が動いていた。
――私がやるしかない。
乱れかけた意識を無理やり引き戻し、視界の端にあった弓を掴む。掌に伝わるしなやかな撓り、指に吸い付くような弦の張り、そして矢先に宿る鈍い光が一瞬で感覚に馴染む。
深く息を吸い込み、狙いを定める。
震えはない。ただ一つ、外せないという意志だけが、まっすぐに矢へと乗る。
――震えるな……!
弦を引き絞る指先に、わずかな軋みが走る。
「……私なら、できる」
それは言い聞かせるための言葉であり、同時に、逃げ場を断つための呪いでもあった。喉の奥で震えかけた弱さを奥歯で噛み潰しながら、冷えた指先と裏腹に汗ばむ掌の感触を確かめる。
難しいことではない――そう、自分に言い聞かせる。
仕人としての才は芽吹かなかった。術式の理解も、心力の扱いも、誰よりも鈍かった。それでも、弓だけは違うと知っている。
風を読む。距離を測る。殺気の揺らぎを視界の端で捉える。
その一点においてだけは、誰にも負けない。
守れなかった後悔を、二度と繰り返さないために。
灰と腐臭の混じった空気を吸い込む。肺の奥がじり、と焼けるように痛む中で、怪奇の腕が仁へと伸び、ぬめりを引きながら空気を裂いて迫るのが見えた。
呼吸を止める。
心臓の音だけが、やけに大きく響く。
世界が、静まり返る。
――ビュンッ。
放たれた矢は空気を裂き、灰を弾き、一直線に走り、次の瞬間には鈍い肉を裂く感触とともに怪奇の腕を根元から断ち切っていた。
黒ずんだ液体が弧を描いて飛び散り、地面へ落ちてじゅう、と不快な音を立てながら煙を上げる。
「助かった!」
仁の声が届く。その奥に滲むわずかな安堵を感じ取りながらも、
「油断するな! 来るぞ!」
冽は即座に次の矢を番え、止まらない。
腕は震えていない。だが背筋を伝う冷たい汗が、今の一射が紙一重だったことを告げていた。
怪奇は怒りに震えていた。腕を失った痛みと屈辱がその醜い肉体を歪ませ、喉奥から吐き出されたヘドロが地面を腐食させ、酸のような臭気が鼻腔を焼く。
腐敗の匂い。死肉の温度。
「厄介な腕がなくなっただけ、まだましか」
自らを奮い立たせるように呟きながら、冽は足を踏み出し、灰を蹴り上げて怪奇の側面へと回り込む。
そのまま矢を放つ。肉を割く感触が、指先に残像のように伝わる。
怪奇が振り返る、その瞬間に仁の符が張り付き、電流が走って肉が焼け、焦げた匂いが空気を満たすが、それでも冽は止まらない。一本、また一本と矢を重ね、間断なく撃ち続ける。
怪奇は後退する。
一歩、また一歩と、醜い腹を引きずりながら押し込まれるように屋敷の中へと追い込まれていく。
敷居を跨いだ、その瞬間。
空間が、歪んだ。
仁の仕掛けた罠が発動したのだ。屋敷そのものが口を開けたかのように怪奇の巨体を呑み込み、同時に冽の矢さえも引きずり込んで、次の瞬間には扉が轟音とともに閉ざされる。
「仁!」
「わかってる!」
振り返った仁の横顔は、異様なほどに冷静だった。
そのまま扉に掌を当て、意識を矢へと重ねるようにして、見えない心力の糸を静かに、しかし確実に張り巡らせていく。
――砕けろ。
腹の底に沈む石、その中心にある核へと意識を叩き込みながら、仁は歯を食いしばる。触れているだけで不快感を呼び起こすあの気配、この世にあってはならないと断じた存在を押し潰すように力を通すと、内側から軋むような抵抗が返ってきて、次の瞬間には確かな手応えへと変わった。
――ピキッ、と小さな亀裂が走り、その直後にはバキッ、と乾いた破砕音が響いたかと思うと、屋敷の内部で何かが一気に圧縮されて潰れる鈍い音が重なり、生き物が悲鳴を上げるよりも早く床が崩れ始め、空間そのものが歪みながら均衡を失っていく。
視界が捻じ曲がり、足場が崩れ、立っている感覚さえ曖昧になる中で、仁の声が鋭く飛び、同時に強引に手を引かれる。
「と、飛び込むのか!? ここに!?」
冽の視線の先にあるのは歪みの中心、底の見えない暗闇で、風も温度も存在せず、ただ吸い込まれるような圧だけがそこにあり、怪奇を目の当たりにした直後の精神は既に限界に近く、理解はできても身体が拒絶して足が動かない。
「大丈夫だ。この先に裂け目がある。それにここに残れば崩壊に巻き込まれる!」
理屈は分かる、それでも恐怖は理屈を受け入れず、足をその場に縫い付けるように固めてしまう。
「目を瞑れ」
「は?」
「いいから」
戦闘の最中とは思えないほど柔らかい声だった、その響きに一瞬だけ思考が止まった隙を逃さず、次の瞬間には身体が持ち上げられていて、
「な、な……!」
「舌を噛むなよ!」
そのまま抱え上げられ、抵抗する間もなく闇へと飛び込む形で落ちていく中、重力の感覚が崩れ、上下の区別が消え、耳鳴りが頭蓋の奥で反響するが、それでも仁の腕だけは確かで、強く、迷いなく冽を支え続けていた。
やがて闇の奥に、裂けるような白い光が見える。そこだけが現実の輪郭を保っているかのように鋭く輝いていて、二人はそのまま引き寄せられるように光へと呑み込まれ、その勢いのまま外へと放り出された。
灰の匂いが肺に入り込み、崩れた家屋や焼け焦げた柱、沈んだままの街並みが視界に広がる中で、そこが現実の――滅びた湖城国であることを、遅れて認識する。
「し、死ぬかと思った……」
冽はその場に手をつき、大きく息を吐きながら荒く呼吸を繰り返し、肺の奥が痛むほどに空気を吸い込みつつ、それでもその痛みすら生きている証のように感じていた。
「座標は変わってないな。よかった」
仁も息を整えながら周囲を見渡し、その声にはわずかな安堵が滲む。
「無事か?」
短く問われ、冽はまだ乱れる呼吸の合間に小さく頷き、胸の奥に張りついていた恐怖がゆっくりとほどけていくのを感じる。
「お前たちは、いつもああいうのを相手にしているのか」
「まあな。あそこまで大きいのは久しぶりだ。それよりも……」
言葉を切らず、そのまま視線を落とす先に浮かぶのは、あの男の顔。
夢天理。
怪傀神書を狙う存在。
「……書の居場所を知ってる。師兄が危険だ」
名を思い浮かべた瞬間、胸の奥が軋む。離れると決めたのは自分のはずなのに、その選択が遅れて痛みとなって返ってくる。
大丈夫だと、何度も自分に言い聞かせる。片燕の一番弟子は強い、折れないし簡単には壊れない、常に確かな意思を宿していると知っているはずなのに、それでもなお胸の奥は締め付けられるように苦しい。
「お前のそれは親愛なんて軽いものじゃない」
冽の言葉が静かに刺さり、「なぜそこまで一番弟子にこだわる?」と続けられる問いに、仁はわずかに視線を伏せてから、「師兄が、俺を掬い上げたからだ」と、低く答える。
あの日、泥の底から引き上げられた感触は今も消えていない、それだけで十分だったはずなのに、失うことを想像しただけで息が詰まるような感覚が胸を満たす。
仁は空を見上げる。灰色の空、光を通さない雲が重く垂れ込めている。
「行くんだろう、夢天理へ」
「ああ」
守るために、離れないために、たとえ目を背けながらでもその手を離さないために。
二人は灰を踏みしめ、そのまま歩き出した。
◆
「冽様……あなた……本当に……」
目の前で頭を抱え、深く項垂れている男――清は、長身でありながらどこか猫背で、繊細そうな指先で額を押さえたまま小さく息を吐いており、黒髪の隙間から覗くその表情は苦笑とも諦観ともつかない曖昧なものだったが、その声音には確かに冽への呆れと親しみが滲んでいた。
屋敷の一室は静まり返っている。分厚い木の梁が天井を支え、磨き込まれた床板は淡く光を反射し、壁には精緻な術式図がいくつも掛けられていて、外観と同様に内装も贅を尽くしているにもかかわらず、ここに住むのがたった一人だという事実が、かえってこの空間に奇妙な静けさを与えていた。
仁はその横顔を見つめながら、どこかで会ったことがあるという引っかかりを覚え、記憶の奥を辿ろうとするが、思い出せるのは霞の向こうで揺れる輪郭だけで、その曖昧さに自分でも僅かに眉を寄せる。
その様子を察したのか、清の方が先に顔を上げて口を開いた。
「友のことで獅宇様にお世話になったことがあります。一度だけでしたが、その時にあなたたちを見ましたよ。大きくなりましたね」
穏やかな声だった。その響きにはどこか懐かしむような温度があり、仁はようやく腑に落ちたように小さく頷く。確かに、幼い頃、師の背の向こうに同じ空気を纏った人物を見た記憶がある気がした。
「本当に転送陣を借りてもいいのか?」
冽が腕を組んだまま問いかける。その視線は真っ直ぐだが、奥には時間を惜しむ焦りが隠しきれず滲んでいる。
「……駄目だと言いたいところですが……どうぞ」
清は一度だけ視線を伏せてから肩を落とし、それでも小さく笑いながら言葉を続ける。
「ついでにこちらの鍵も渡しておきます」
ちゃりん、と乾いた音が室内に響き、銀の鍵が二つ冽の掌へ転がり落ち、その冷たい感触が皮膚を通してじわりと現実を引き戻す。
「一つはこの家の地下室に繋がっています。持って行ってください。へまはしないと思っていますが……保険です。使われないことを願ってます」
冗談めかした言い方ではあるが、その奥にある警戒の色は薄くなく、冽は鍵を握りながら小さく息を吐いた。
「清、何から何まですまないな」
「いいんです。とことん痛い目にあわせてください。泣いて許しを請う姿を見れないのが残念ですけど……」
本気で残念そうに肩を落とすその様子に、冽は呆れたように眉を寄せ、仁は堪えきれずに小さく吹き出すが、そのやり取りの中に流れる空気は不思議と重くなく、同じ敵を前にした者同士の奇妙な連帯感が、言葉の端々に自然と滲んでいた。
「にしてもこの屋敷はお前が建てたのか?」
仁は天井を見上げながら問い、梁の組み方や刻まれた術式の精度を目で追う。
「えぇ。墟狼衆での給与は全て残っていましたので、使い道もなかったですし、どうせ死んでも金は持って行けないのでね」
さらりと言うその言葉には、冗談めいた軽さの裏に独りで生きる覚悟が滲んでいて、「それでこんな大きな屋敷を? お前、独身だろう」と冽が即座に返すと、「それは別にいいでしょう。好きにさせて下さいよ」と少しだけ拗ねたように言い返す。
そのやり取りに仁の頬がわずかに緩み、張り詰めていた 戦場の緊張がほんの一瞬だけほどける。
「無駄話はここらまでにして、そろそろ行くか」
空気を切り替えるように冽が言う。
「あぁ。清さん、本当にありがとう。それにこの服も助かった。侵入するにも目立ちすぎるしな」
今二人が纏っているのは、色も質感も抑えられた地味な旅装束で、夢天理の一般構成員に紛れても違和感のない仕立てになっている。
「いいんです。俺も何回か忍び込んで……色々とくすねてたので。そのかわり、ちゃんとこてんぱんにして下さいよ」
その軽口に二人は深く頷き、冽は握った鍵に力を込める。銀の冷たさが、これから踏み込む現実をはっきりと突きつけてくる。
「夢天理の人間に古い呪いを使う人間がいると聞きました。……どうか気を付けて」
その忠告が落ちた直後、足元から空間が崩れるように揺らぎ、視界が歪んで色が溶けていく。
次の瞬間、世界は赤に染まっていた。
一面の紅葉が視界を埋め尽くし、冷え切っていた湖城国とはまるで別の世界のように空気は澄み、山肌は燃えるように色づいているが、その鮮やかさの中心にそびえ立つのは――巨大な城。
拠点と呼ぶにはあまりにも規模が異常で、山そのものを削り出し、積み上げて築いたかのような威容が、静かに二人を見下ろしていた。
「結界が張られているのはあの部分だ」
冽が指差した先、城郭の一角だけがわずかに空気を歪めているのが見え、その揺らぎを目で追いながら仁は息を漏らした。
「でかすぎだろ……どうやって建てたんだ」
「馬鹿言え。夢天理が創設されて何千年経っていると思っている? 崩壊した塔の次に古い建築物だぞ」
「え、そうなのか?」
「あぁ。改修を重ねてあの大きさになった」
漆喰の壁は陽光を受けて艶めき、柱は太く、石段は踏み均されて摩耗している。そのすべてに、積み重なった年月の重みが静かに宿っていた。
「衣自体に清が認識阻害の術をかけてる。あそこの守衛で試すぞ」
冽の視線の先、裏山の入口には二人組の守衛が立っている。何気ない足取りのまま冽がその横を通り過ぎても、守衛は視線ひとつ動かさず、仁も半信半疑のまま背後に立って目の前で手を振ってみせるが、やはり反応はない。
「へぇ、凄いな」
「あくまで認識阻害だ。術を理解し注視すれば意味はない。人の少ない道を進むぞ」
そう言って冽は歩みを止めずに進路を変え、仁も周囲を見回しながらその後に続く。
「あぁ。でも構造は?」
「私は墟狼衆の元首領だぞ。抜け道も頭に入っている」
「ははっ、頼もしい」
軽く笑いを交わしながら、二人はそのまま城内へと足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、灯籠の揺らぎに合わせて仄暗い影が壁を這うように伸びていく。
「うっわ……ひっろいな……」
思わず漏れた声は広い通路に吸い込まれ、低めに抑えられた天井とは対照的に横へと広がる空間が異様な広さを感じさせる。その中には重たい沈黙が漂っていて、冽の言う通り、かつては賑やかな宴が開かれていたであろう気配だけが残っていた。
だが今は違う。
すれ違う者たちの顔は硬く、視線は落ち、足取りは重い。そのすべてが、この場所の衰退を物語っていた。
「きょろきょろするな」
「ごめん、つい」
仁は苦笑して視線を戻すが、好奇心は隠しきれず、対して冽の表情には懐かしさと失望が入り混じっている。
「……本当に没落したな」
ぽつりと零れた言葉には実感がこもっていて、組織の衰退というものを空気で感じ取るその感覚を、彼女は誰よりも知っていた。
「会合はこの奥だが……方位計は?」
「問題ない。右側を指してる」
仁は掌に収まる方位計へと一瞬だけ視線を落とす。それは朱禍が二人に授けたものであり、赤く色のついた指針が指す方には近寄るなと言われているが、今はその針がわずかに震えながら右を示していた。
受付を素通りし、正門を抜ける。その間も誰一人として二人に目を向けることはないまま、やがて視界が開け、大広間へと辿り着く。
「……まじかよ」
思わず足が止まる。
吹き抜けの天井から垂れ下がる巨大な紗幕、白で統一された空間、整然と並ぶ何百もの座席。だが、その多くは空いたままで、実際に埋まっているのは三割にも満たない。
かつては満席だったであろうその場所に、空席という形で残骸だけが残されている。
「後ろで聞くぞ」
冽は柱の影へと移動し、光の届かない位置を選んで腰を下ろす。仁もそれに倣い、音を立てないよう静かに身を沈めた。
その間にも、ぽつり、ぽつりと人が入ってくる。それでも空席は埋まらず、広間の空気はどこか張り詰めたまま満ちることがない。
「これでは、まだ時間がかかるな……」
誰かの呟きが遠く響き、その声に呼応するように、場の空気は静かに緊張を孕んでいく。
何かが、始まろうとしていた。
「ごほんっ」
壇上に立つ男の咳が、不意に思考を断ち切った。一言発するごとに喉を詰まらせるように咳き込み、そのたびに細い身体が小さく揺れるが、それでも名を読み上げていく声だけは妙に通り、広間の隅々まで嫌に響いていく。
「以上、よろしくお願いいたします、ゴホッ。えー、今回の会合は、ゴホッ、少し厄介な物でございます」
その言葉に、二人は自然と耳を澄ませる。仁は視線を動かさぬまま、さりげなく方位計を確かめると、針は微かに震えながらも変わらず右を指し続けていた。
「数年前より調査していた変死体について、夢天理が関係しているのではないかといった声が大きくなってまいりました……えぇ、その結果がこの状況なのですけれども……ゴホゴホッ……」
言葉の途切れに咳が重なり、その不安定さとは裏腹に、内容だけは確実に場の空気を重く沈めていく。
「代々引き継いできた信念も潰え、もはや夢天理が存在する意味さえも失われております……ここまで大事になってしまっては、皆様の抱える宗派にも影響を及ぼすでしょう……」
沈黙が落ちる。
誰もがすぐには口を開かず、互いの顔色を窺うように視線だけが動く中、その静けさがかえって不穏さを際立たせていた。
「元はといえば、我らは世の平和を願い、怪奇を祓い、平穏を齎すことを願った宗派の集まりでございます……ここを離れればただの小さな組織……そこにある弟子を、同門を、仲間を――犠牲にしてはなりません」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、「夢天理を解体すると申すのか!?」と怒号が広間を裂くように響いた。
「主が消えた今、誰が平穏を保つと言う。山雫国が動き始めてからというもの、全てが滅茶苦茶だ」
「特にあの一番弟子だ。沈星演舞祭で久しぶりに姿を見せたと思えば場を引っ掻き回し、試練の傀儡に呪術がかけられていたと暴いた!」
次々と飛び交う声に、広間のざわめきは一気に膨れ上がり、その熱の中で仁の指先がわずかに強張るのを自覚する。
「禁忌の術だぞ。小童が何故それを知っている? 否、その場にいた宗主たちは何をしていた?」
怒り、疑念、焦燥――入り混じった感情が場を満たしていき、もしこの場で正体を明かして立っていたなら、その矛先が間違いなく自分たちへ向くであろうことを、仁は嫌でも理解する。
「疑わしきは罰せずでは」
その空気を切るように、一人の女が冷ややかに口を挟む。
「沈星演舞祭に参加した宗派は山雫国にすり寄っている。今ここで動けば火に油を注ぐだけだ。やるなら個人でやれ。第一、変死体など私は知らん。我慢の限界だ」
その言葉が落ちた瞬間、場の均衡はさらに軋み、まとまりかけた議論が再びばらける気配を見せる。
「お前たち、まずは傀怪神書の入手からだろう」
「その通りだ。話はそこからだ」
それでも誰かの一言が流れを引き戻し、議論はようやく一点へと収束していく。
「ゴホッ……長年所在がわからなくなっていた書が……ゴホッ……傀怪神書ですね……それが今になって現れた。我らとしては良からぬ人間の手に渡るのを避けるのが目的で探しているわけですが……」
「持ち主がわからない以上、どうすることもできないだろう」
――夢天理は、知らないのか?
その一言が、ざわめきの奥で静かに浮かび上がる。
仁はわずかに視線を動かし、冽と顔を見合わせる。てっきり林琳が所持していることは把握されているものだと思っていたが、今の議論は明らかに“持ち主不明”を前提として進んでいる。
ならば。
――あの男は、どこから書の存在を掴んだ?
思考を巡らせながら、仁はもう一度方位計へ意識を落とす。針は微動だにせず、変わらず右を指し続けていた。
「夢天理の中でももう一つ組織があると言っただろう」
冽が低く呟き、その視線が会合の最奥へと向けられるのに合わせて、仁もまた自然とそちらへ目を向ける。宗主たちの円座よりさらに奥、光の届かない闇の中に溶け込むように並べられた八つの席が、静かに存在していた。
「……悉?」
仁は声を潜めて問い返す。聞き覚えのある単語ではあるが、冽の口ぶりにはそれ以上の意味が含まれているようで、その響きだけが妙に重く胸に残った。
「あぁ。だが朱禍と同じようにどの宗派にも属さず……夢天理そのものに属する仕人がいる。それがあの席に座る者たちだ。通称、羅曉と呼ばれている」
宗主たちが座る円座のさらに奥。まるで影の支配者のように設けられた席。しかし今、その八つの席はすべて空いている。誰一人として視線を向けようともしないその空白は、逆に異様な圧を放っていた
そこに“いない”ことが、かえって恐ろしい。
「かつては朱禍もあの席に座っていた。……私から見れば思想の強い、ただの信仰馬鹿だがな」
「……重鎮って、そういう意味かよ」
仁は小さく息を吐く。重鎮。
その言葉が持つ響きの裏にある実態を、今ようやく理解した気がした。冽は静かに頷く。
「会合と謳っているが、あの者たちが口を開き、“やれ”と命じれば従うしかない。共通の思想を持つ者にとっては、教祖のようなものだ」
信仰。
思想。
絶対的な正しさ。それらが集まった時、人はどれほど冷酷になれるのか。
「だから冽は朱禍に対してやたらと不信感を抱くんだな」
「あんな馬鹿げた思想に心酔している人間なんざ、信用できるはずがないだろう」
冽は吐き捨てるように言ったが、その視線は鋭く奥の席を見据えている。
「……それにしても、誰一人参加していないのは妙だ」
普段なら最低でも一人は姿を見せる。それが“監視”の意味であれ、“牽制”の意味であれ。
その時。
カチリ、と方位計が震えた。
小さな金属音が、静まり返った空間に不自然なほどはっきり響く。
「……なんだ?」
針は、ゆっくりと回転を始めた。まるで何かを探るように、円を描く。
ガチャン。
重たい扉の音。
「はぁ……」
露骨な溜息と荒々しい足音が会場に入り込んできた。酒の匂いが漂う。衣は乱れ、帯は緩み、片手には酒瓶。
「縛玄様……ッゴホ、ゴホ!」
司会役の男が慌てて頭を下げる。
冽の表情が変わった。
「知り合いか?」
「羅曉の一人だ。……おい仁、その方位計……あいつを指してるぞ」
「は!?」
針は迷いなく、男を指していた。縛玄が一歩動くたび、僅かに震える。心臓がひやりと冷える。不可抗力だ。こちらへ近づいて来られれば、避けようがない。この空間は出入口が一つ。
「続けて構わない。俺は寝る」
縛玄は八席のうち右から二つ目にどさりと腰を下ろした。腕を組み、だらしなく体を崩す。だが、その姿勢とは裏腹に、空気は張り詰めた。
「縛玄は気まぐれで気性が荒い。最悪だな」
冽が小声で吐く。
それ以降、会合は明らかに色を失った。さきほどまで強気に発言していた者も、今は無難な言葉を並べるだけ。進展のない、意味のない会合。
「……お前は、この世が朽ちても良いと言うわけか」
縛玄が片眼を開いた瞬間、空気が凍った。
「ッヒ……い、いえ……ゴホッ」
か細く震える声に対して、縛玄はわずかに顎を引くだけで、
「主が消え、愚かな人間どもが戦を生む。魂の流れは歪み、このままでは朽ちるだけだ」
と低く告げた。その声音は荒げられていないにもかかわらず、広間の奥まで沈み込むように響き、耳に届いた瞬間、背筋の奥を冷たいものが這い上がる。
「主がいないのなら、誰かが流れを正さねばならない……明日はお前たちの国が滅ぶかもしれぬぞ」
脅しとも断言ともつかないその言葉に、場の空気がさらに沈み、誰もが息を潜める中で、冽が肘で仁を小突いた。“ほらな”とでも言いたげな視線が横から刺さる。
「あぁ……やはりあのお方が……」
縛玄はそのまま何かをぶつぶつと呟き始めるが、距離のせいか言葉は判然とせず、断片的な音だけが耳に引っかかる。
「見ての通り昔からどこか頭が可笑しくて、多くの人間が関わろうとしなかった。方位計があいつを指すのも、それが理由じゃないか?」
冽の低い声が隣で続くが、仁の意識はすでに別のところへ引き寄せられていた。縛玄の言葉――“魂の流れ”、“流れを正す”、そして傀怪神書――それらがばらばらに存在していたはずのものが、ゆっくりと一本の線として繋がっていく感覚が、胸の奥で嫌に鮮明に形を取り 始める。
「早く傀怪神書を探し出し、持ってこい! さもなければ俺がお前たちの首を狩るぞ!」
唐突に叩きつけられた怒声が、広間の空気を震わせた。
夢天理は、組織の体裁よりも書を優先する――その歪な執着の強さは、縛玄の血走った目を見れば説明を必要としないほど明白で、仁は無意識に喉の奥が強張るのを感じる。
「……狂ってるな」
冽の呟きが、やけに遠く聞こえた。
やがて会合は形だけの終わりを迎え、人の波が出口へと流れ始める。ざわめきは徐々に細くほどけていき、足音が重なりながら広間の外へ吸い出されていく中で縛玄の笑い声が響く。
「嗚呼、そうだ、そうだ、言い忘れていた……」
背後から、それは不意に落ちた。
「お前たちの危惧する夕焼けが、ついこの間沈んだぞ」
その一言で、仁の足が止まる。
「地底湖に沈んだ夕日は二度と戻らぬだろうよ」
血が逆流するような感覚が走る。理屈ではない。ただ、確かに“何かが終わった”と告げられたような、抗いようのない嫌な予感が胸の奥を掴んだ。
「……出るぞ」
冽が腕を強く引く。しかし、仁の足は床に張り付いたまま動かない。
「あいつ、なんて言った?」
「気にするな。言葉の綾だろう」
即座に返される否定の言葉とは裏腹に、あれが意図的な発言であると直感が告げている。
林琳と連絡がつかない中、獅宇が“問題ない”と言い切ったあの瞬間に走った、あの冷たさ――それと同じものが、今、胸の奥を確かに這い上がっている。
「師兄に手を出したのか?」
低く押し殺した声だった。
冽の背にじわりと脂汗が滲む。仁の視線は完全に縛玄へと向いており、その目に宿るのは単なる怒りではない。怒りを越えた先にある、制御を外しかけた感情――最も扱いづらく、そして最も危険な熱だった。
冽は強く腕を掴む。
――今ここで衝突すれば、全てが崩れる。
だが仁の足は、なお床に根を張ったままだった。
会合を終えた者たちが順に立ち上がり、椅子を引く音が重なっていく。低く漂っていたざわめきは出口へ向かう流れとともに細く引き延ばされ、やがて広間の中央だけがぽっかりと取り残されるように静まり返り、長机の上には飲み残しの杯と傾いた燭台だけが残されて、溶けた蝋が縁を伝いながら白く固まり、時間だけがそこに滞留しているかのような光景を作っていた。
縛玄は椅子に深く腰掛けたまま、片肘を背に預け、酒瓶を傾ける。喉が鳴る音がやけに大きく響き、やがて空になった瓶を卓に置く乾いた音が、静寂の中にひび割れるように落ちる。
「だから……千咲国で療養中だと?」
低い声が、まっすぐに届いた。
仁の視線は一度も逸れない。
冽は横から腕を掴み、引く。布越しにも分かるほど筋肉が強張っている。だが重心は前に残ったままで、仁の踵は微動だにせず、わずかに床板が軋む。
縛玄が口元を歪め、酷く残酷な笑みを浮かべていた。
「……殺す」
冽は仁の肩に体重を預けるようにして押し込む。
「やめろ。ここで刃を抜けば、認識阻害の術式も崩れる。すぐに囲まれるぞ」
低く、しかし確実に現実を突きつけながら視線を巡らせる。出入口は正面に一つ、窓は高所に三つ、そして高台に座る縛玄からは広間全体が見渡せる――逃げ道はあるようで、ない。その事実だけが、じわじわと首を絞めるように重くのしかかっていた。
「情報は取った。目的は果たしてる」
冽の声は一定で、冷たく落ち着いている。仁は顎をわずかに動かし、浅い呼吸を整える。数拍の間、沈黙が続く――その間に体の緊張が耳の奥まで響く。やがて、踵が床から離れ、半歩下がった。体が少し後ろへ傾くが、目線は離さない。
縛玄はそれ以上言葉を重ねず、再び酒瓶を傾ける。視線はどこにも定まらず、その存在感だけが広間に漂い、無言の圧迫感を残す。
廊下に出ると、空気の温度が明らかに変わった。石壁に沿って等間隔に灯籠が並び、火の揺らめきが影を床に伸ばす。硬い床に反響する足音は二人分、互いの位置をはっきりと示すように響き渡った。
「どうせここまで来たんだ。内部を少し見るか?」
冽は歩幅を崩さず言う。彼女なりの、仁への配慮が含まれた気遣いだった。
仁は頷き、廊下の分岐を確認する。警備の配置、巡回の間隔、壁に刻まれた紋様――意識は全て情報の収集に向けられる。空気の緊張感が呼吸と足音に混ざり、肌に触れるようだった。
「宝物庫は固定じゃない。鍵を持つ者だけが転送陣で辿り着く。場所はその都度変わる」
冽が壁面の一角、薄く刻まれた円陣の跡を指でなぞる。磨かれた石の色がわずかに違う。仁の視線が追い、その違いを頭に刻む。
「つまり今は無理か」
「あぁ。鍵がなければただの壁だ」
二人はそれ以上深入りせず、出口用の転送陣へ向かう。足元の紋様が淡く光り、空気が一瞬歪む。視界が白く弾け、次の瞬間には劉鳴国の石畳に立っていた。
勿論、こちらも違法の転送陣である。
乾いた風が頬を撫で、肌に冷たく触れる。冽はまず左右を確認する。建物の影、屋根の縁、路地の奥。人影はない。空間は静かで、遠くに小さな鳥の羽音が混じるだけだ。
「縛玄は執念深い。目を付けられたなら面倒だぞ」
「……気を付ける」
仁は短く息を吐き、外套の襟を整える。歩き出す速度は一定だが、靴底が石を踏む音は確実で、互いの距離を正確に測れる。
崩れかけた扉を開けると、久河が門前で待っていた。墓地へ向かう道は緩やかに上る。両脇の低い石垣、整えられた草、固く踏まれた土――細部まで目に入り、足取りに影響を与える。
門を抜けると、整然と並ぶ石碑が視界いっぱいに広がった。間隔は均等で、名を刻んだ面は全て同じ方角を向いている。風が吹き抜け、供えられた白布が揺れる。
「歴代の神子が眠っている」
久河は足を止めず、石碑をさりげなく指す。仁は指先で一つの縁をなぞり、すぐに離す。言葉は出さないが、思考は巡り続ける。
「客室を用意している」
墓地を抜け、少し離れた屋敷へ向かう。二階建て、中庭を囲む回廊式。門柱の彫刻は欠けがなく、金具は磨かれている。
「……これが、客室?」
仁は屋根の勾配を見上げ、梁の太さ、瓦の新しさ、窓の位置、裏手の小さな勝手口まで目を走らせる。
久河は扉を押し開ける。
「元は夢天理の来賓用だったが……今は誰も使っていない。今後もその予定はないからな、遠慮は無用だ」
中へ入ると、床板は均一で軋まず、廊下は真っ直ぐ奥へ伸び、左右に部屋が四つずつ。中庭には井戸があり、水面がわずかに揺れている。冽は一巡し、階段の幅や手すりの高さ、屋根へのアクセスも確認する。裏口から塀までの距離も測った。
仁は玄関脇の柱に背を預けたまま外套を脱がず、視線は庭の井戸に向けたまま。目を一度閉じ、すぐに開く。外では風が鳴り、屋根の端で瓦がかすかに鳴り、夕方の光が中庭に斜めに差し込んでいた。
まだ動く時間ではない。だが、止まっているわけにもいかない。夜が落ちる前に、やるべき整理がある。
◆
嗚呼――実に不便だ、と胸の奥で吐き捨てるように思いながら、林琳は川辺にしゃがみ込み、足元の小石を拾い上げた。親指で重さを確かめ、わずかに手首を返して弧を描くように投げる。小石は水面を三度跳ね、四度目で沈み、広がった波紋が陽光を細かく砕いて揺らしたが、その光の揺らぎさえもどこか鬱陶しく感じられ、林琳は眉を寄せたまま視線を逸らす。
心脈を封じられている――その事実は、こうして立ち上がる時も、呼吸を整える時も、常に身体の奥で引っかかるような違和感となって付きまとい、意識すればするほど四肢は重く、思考の輪郭さえ鈍らせる。林琳はもう一つ石を拾い上げると、今度はやや強めに投げつけた。水面を叩く乾いた音が、やけに耳に残る。
「まぁまぁ、落ち着きなよ」
川上側の岩に腰掛けていた珊來が、足を組み替えながら軽く言う。外套の裾が風に揺れ、その影が細く地面をなぞったが、林琳はそれに目も向けず、投げ損ねて手元に残った小石を握り潰すように力を込め、爪先に白さを滲ませる。
「この国がそんなに嫌なのかい」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
短く吐き捨てるように返しながらも、視線は川面に落ちたままだ。
松季国に入って三日目、焼けた石畳の熱がまだ足裏に残っているようで、ここへ来るまでの乾いた風と照り返しが、何度も視界を白く揺らした記憶とともに蘇る。到着してすぐ、林琳は転送陣の常設を扇葉九に打診したが、その返答は即座に却下され、代わりに広間の中央で延々と続く説教を浴びせられることになった。
扇葉九は腕を組み、一切声量を落とさず言葉を叩きつけてきた。背後に控えていた弟子たちが思わず肩を揺らすほどの圧で、それでも林琳は一歩も退かずに聞いていたが、終わる頃には鼓膜の奥がじんと痺れていた。
「声もでかいし、身体もごついから圧迫感がすごい。精神的苦痛で師匠より質が悪い」
川面を睨んだまま吐き出すと、珊來は肩を竦めて苦笑する。
「あれでも心配してるんだよ。受け入れてあげて」
林琳は小さく鼻を鳴らし、答えの代わりに石を拾っては投げる動作を繰り返す。片燕と蒼羽が並んで歩く姿はこれまで何度も見てきたし、宗主同士が顔を合わせれば長く言葉を交わす関係であることも知っている。敵対よりも協調を選ぶ距離感――それを理解しているからこそ、なおさら煩わしい。
「お前の宗主もお節介かよ……」
投げた石は五度跳ねたが、林琳はそれに満足するどころか舌打ちを一つ落とした。
「君が持つ書が問題なんだよ。奇跡的に君が持っているからこそ安心もできるけど……」
珊來は岩から降りて地面に立ち、川風に揺れる髪を押さえもせずに続ける。
「現に敵襲に遭って、心力も扱えない。危機感を持てと言われるのは当然だろう」
林琳はようやく視線だけを上げ、感情の抜け落ちた目で珊來を睨んだが、その視線を受けても相手はただ苦笑を浮かべるだけだった。松季国へ来た本来の目的は、林琳にかけられた呪いの解除――術者の死亡か、呪いそのものの破壊か、いくつもの手段を書き出しては消し、最終的にここへ来る選択だけが残った。
だが林琳は、呪いの詳細をまだ誰にも話していない。朱禍の呪いを破った方法を説明すれば、自分が呪術を扱えることも同時に明かすことになるからだ。川面を見つめたまま指先で砂を掘り、湿った層に触れた瞬間にわずかに眉を動かし、すぐに手を引いた。
「私たちだって夢天理と正面衝突は避けたい。世を乱したいわけじゃない」
「でも現に夢天理は白い目を向けられてる。今更あいつらを蹴落としたっていいはずでしょ」
「それでも、だよ。多くの人々の拠り所だったのは確かだ」
返答はない。林琳はゆっくりと立ち上がり、衣に付いた砂を払うと、そのまま視線を遠くへ投げるようにして石を放った。望まなくても、いずれ戦は起きる――その言葉を飲み込む代わりに。
――ズキン。
胸の奥を鋭く突かれるような痛みが走り、呼吸が一拍遅れる。わずかに体が揺れたのを、珊來は見逃さなかった。
「……林琳?」
すぐに距離を詰め、肩を掴む。指先の力が強い。
「どうした」
「……お前が鳥肌の立つこと言うから寒気がしただけ」
林琳は掴まれた手を外し、何事もなかったように体勢を整える。胸を押さえる動作はしない。心脈を封じられてから続く発作のような痛み――刺すようなものもあれば、握り潰されるようなものもあるが、今は前者で、長くは続かないと分かっている。
それでも残る鈍い違和感を押し込むように、林琳は足を踏み出した
「仁も劉鳴国に到着したらしい。安心したかい?」
今の林琳に仁の位置を探る術はない。それでも、その名を耳にした瞬間、わずかに歩幅が乱れたことを自覚して、舌打ちを飲み込むように息を吐いた。
「……あの馬鹿をいくつだと思ってるの。もうちゃんとした大人だよ。いつまでも……俺が面倒を見る筋合いはない」
吐き捨てるように言いながらも、足は止めない。むしろ早まるのを抑えるように、一定の歩幅へと無理やり戻す。
「またまた」
「……うっざ」
短く返し、そのまま屋敷の方角へ進む。滞在先の屋敷は川から少し高台にあり、白壁と低い門、瓦屋根が夕の光を鈍く反射していた。門柱に手をかけると、昼の熱がまだ残っていて、掌にじんわりとした温度が移る。
背後からついてくる珊來の足音は軽い。一定の距離を保ったまま、離れもせず、詰めもせずに続いてくるその気配が、やけに神経に触った。
「まだなにか?」
部屋の前で足を止め、振り返る。
「弟弟子たちの面倒を見なくて良いの? こんな所で油売っても意味ないだろ」
「今日は非番だよ」
「……そういう問題じゃなくて」
「じゃあどういう問題?」
問い返されても答えず、林琳はそのまま戸を引いた。軋む音とともに室内の薄闇が開き、香の残り香がわずかに流れ出る。窓は半開きで、細い風が畳の上を撫でていた。
ここ数日、やけに人の気配が気になる。
夜、隣室にいる天雪と花月の寝息が落ち着くのを待ってから、ようやく壁にもたれる。目を閉じても眠りは浅く、呼吸は無意識に抑えられ、耳だけが外の気配を拾い続ける。
理由は一つではない。
深く眠ると、起きた後に違和感だけが残る。夢の内容は思い出せない。ただ、胸の奥に冷たい何かが沈殿するような感覚だけが残る。
「隈、酷くなってる」
気付けば距離を詰めていた珊來が、指先で目元に触れようとする。その気配に反応するより早く、林琳は手首を掴んで弾くように外した。
「触るな」
短く言い捨て、そのまま室内へ入り、障子を閉める。外の光が細く断たれ、空気が一段静まった。
戸口に背を向けたまま立ち、足音が遠ざかるのを待つ。
ようやく静けさが戻り、息を吐こうとしたその時――回廊を踏む、控えめな足音が再び近づいてきた。
「寝つきが悪いんだろう。魘されているとあの子たちに聞いた」
襖越しに落ちる声は責めるでもなく、ただ事実だけを置いていく。
「……あいつら、余計な事を」
榻に腰を下ろし、片肘をついて眉を顰める。思い返せば昼間の妙な視線も頷ける。林琳は小さく舌打ちし、半ば呆れたように息を吐いた。
やがて戸が静かに開き、外気とともに珊來の気配が滑り込む。
「だからよく眠れる香を焚いてあげようと思って。入れてくれる?」
柔らかな声音に、拒む理由を探す気力すら削がれる。林琳は苦い顔のまま顎で内を示した。
部屋は簡素だ。壁際の剣、低い卓、そして榻。
珊來が香炉を卓上に置く間、林琳は何も言わず榻に身を横たえた。布団に頬を埋めると、かすかに甘い匂いが鼻先を掠める。天雪と花月が置いていった香の残りだと気付いて、薄く目を閉じた。
文句を言いながらも使っている自分に、内心で小さく息を吐く。
脱力した身体をそのまま預けていると、珊來が視線の高さまで屈み込む。衣擦れがすぐそばで鳴る。
「なに」
じろりと睨む。
「用は済んだでしょ。香を置いたら出て行って」
低い声の奥に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
珊來は困ったように笑い、火打石を鳴らした。ぱちり、と小さな火花が散り、やがて細い煙が立ち上る。乾いた木と、わずかな甘さを含んだ香りが、ゆるやかに部屋へ広がっていく。
呼吸のたびに、それが胸の奥へ沈んでいく。
――それでも、気配は消えない。
半分沈みかけた意識の底で、穏やかな子守歌が微かに聞こえた。
――ああ、まだいる。
林琳は布団を頭から被り、身体を丸める。背を守るように、腹を抱えるように。その癖は、ずっと昔から抜けない。
しばらくして、意識がふっと浮き上がる。
――いや、全く眠れないんだけど?
思考がはっきりした瞬間、逆に目が冴えた。林琳は苛立ち紛れに足で布団を蹴り払った。
「……珊來、手合わせしよう」
「え? 寝るんじゃなかったの」
「駄目だ、逆に目が覚めた」
林琳は榻から起き上がり、壁に立てかけてあった剣を掴む。鞘を払うと、気に触れた刃が鈍く光り、その冷たさがそのまま掌に伝わった。握り直す指先に、わずかな遅れが混じる。ほんの一瞬の違和感だったが、林琳は何事もなかったように柄を締め直す。
「心力は禁止、どちらかの手から剣が離れた時点で終わり。やる?」
挑発とも本気ともつかない目だった。体調が万全でないのは明らかなのに、その瞳だけが妙に冴えている。
珊來は一瞬だけ迷う。だが「やらないなら他の人に頼むからいいよ」と続けられれば、断る理由は消えた。
「……仕方がない。わかった」
壁際の剣を取り、軽く振って重さを確かめる。普段使う扇とは違う感触に、手首の返しを何度か試しながら、刃の軌道と重心をなぞる。
「お前の武器は扇じゃないの?」
「たまにはこっちもいいかなって」
珊來の持つ扇子“七色聖”は飾りに見えて、その骨の内側には薄く鋭利な刃が仕込まれている。さらに心力を通してこそ真価を発揮する武器だ――だからこそ、今のように心力を封じた手合わせでは意味をなさない。
数度の素振りで感覚を掴むと、珊來は視線を上げる。
対する林琳は、既に腰を落としていた。呼吸は浅いが、リズムは崩れていない。
「多少は手加減してよ」
「へぇ、珍しい。そんな事言うんだ」
「生きてる年数も違えば、場数も違う。ましてや心力もなければ勝ち目はないってわかってるから」
「それ、遠回しに年寄り扱いしてない?」
珊來は肩を竦める。
「ご自由に……っ!」
言葉が終わるより早く、林琳は踏み込んだ。床板が軋み、一歩で間合いを潰す。その踏み込みに迷いはない――が、着地の瞬間、足裏にわずかなズレが走る。重心が一拍だけ遅れる。
だが、その遅れを自覚する前に、次の一手が出ていた。
珊來は真正面で受けない。斜め後ろへ半歩だけ距離を外す。キィン、と刃が擦れ、力はぶつからずに流れた。
林琳の打ち込みは鋭い。だが直線的だ。
対して珊來は、肩の揺れ、肘の角度、呼吸の乱れ――その前兆を見ている。
「っち」
「不意打ちはよくないよ、林琳」
軽く笑いながらも、視線は一瞬たりとも逸らさない。タン、タン、と足音は軽く、常に逃げ道を残す位置取りを崩さない。
「久しぶりに……いい気分転換になりそう」
「あはは、それならいいけど……君の場合、憂さ晴らしって言うんだよ」
「好きに言ってろ!」
刃が何度も交わる。だが決定打は出ない。押し込めば流され、薙げば角度を外される。真正面から力を競わない、その立ち回りそのものが経験の差だった。
林琳は一瞬の速さで崩そうとし、珊來は一拍遅らせて読む。
踏み込みが、ほんのわずかに深くなる。
――その奥で、心臓が一度だけ鈍く脈打つ。
遅れる。
ほんの刹那。
だがそれは、戦いの中では致命的な間だった。
珊來の刃が、下へ滑る。
重心が前に残る。
「嗚呼くそ! お前、いらいらする!」
「焦ると足が浮くよ」
言葉通りだった。林琳の踵が、床からわずかに離れる。
その一瞬を、逃がさない。
斬れる間合いでも、珊來は斬らない。代わりに軽く膝を払う。
体勢が崩れる。だが林琳は踏み止まり、反射で顔面へ蹴りを放った。――速い。
だが予測の範囲内。
珊來の右手が伸び、足首を掴む。触れた瞬間に力の流れを読み、その反発を利用して捻る。
「……っ!」
林琳の身体が回る。
くるり、と円を描き、踏み外した足が石畳の縁を滑った。次の瞬間、開け放たれていた奥の引き戸を抜け、そのまま隣の倉庫へと突っ込む。
崩れかけた木箱に背がぶつかり、積まれていた荷が音を立てて崩れた。古びた布と木片が雪崩のように落ち、乾いた埃が一気に舞い上がる。
「ごめん、大丈夫!?」
声は軽い。だが目は冷静に、衝撃の受け方を確認している。
林琳は仰向けのまま、蜘蛛の巣に覆われた倉庫の天井を睨んだ。舞い落ちる埃が視界をゆっくりと横切る。胸の奥に、遅れて鈍い痛みが滲むが、それを言葉にすることはない。
「あー……はぁ、やめだ、やめ」
力の抜けた指から剣が離れ、床に落ちて乾いた音を立てた。
珊來は追い打ちをかけない。ただ倉庫の入り口に立ち、軽く息を整える。その距離を崩さないまま、様子だけを見ている。
勝ち負けを重視しない――それが年長者の余裕だった。
珊來は躊躇なく倉庫の中へ足を踏み入れ、きしむ床板を一歩踏み鳴らしてから、壁際に積み上げられた木箱のひとつに腰を下ろした。座った拍子に、箱の表面に積もっていた灰色の埃がふわりと舞い上がり、袴の裾や膝にそのまま付着する。それでも気にした様子はなく、片手で軽く払うだけで済ませた。
「……なんでそこに座るの」
林琳は仰向けのまま顔だけを向け、低く言う。背中に当たる床は冷たく、乾いた木片や細かい砂が衣越しにざらついた感触を残している。
「秘密基地みたいで面白いじゃないか。実は昔ね、この屋敷で遊んでいたんだ。ほら、そこに置いてある木剣……そう、それ」
珊來は顎で示す。倉庫の隅、壁に立てかけられたまま放置された数本の木剣のうち一本は、柄の部分が擦り減り、握られていた跡が黒く残っていた。
「懐かしいな」
言いながら、軽く目を細める。
割れた板の隙間から差し込む月明かりが、倉庫の中に斜めの光を落としている。光の筋の中で埃がゆっくりと漂い、床に転がる道具や古い箱の輪郭だけを淡く浮かび上がらせていた。湿った木材の匂いに混じって、さっきまで部屋に焚かれていた香の残り香がかすかに鼻に残る。
「……こんな薄汚い場所に座るなんて、お前の宗主が知ったら雷が落ちそうだ」
林琳は身体を起こし、壁に背を預ける。背中に触れた板はひんやりとしていて、熱のこもった身体からじわりと温度を奪っていく。
「あはは、そうかもね」
珊來は足を組み替え、膝の上に置いた剣の柄を指先で軽く叩く。乾いた木と金属の触れ合う音が、倉庫の中で小さく響いた。
「解読の方は進んでる?」
「全く。言い出しっぺの本人が捕まらないし……俺だって古代文字に詳しいわけじゃないからね」
林琳は片膝を立て、その上に肘を乗せる。呼吸はまだわずかに荒く、胸の上下が衣越しにも分かる。
「ただ単に書を持ってふらふら各国を回ってるだけだよ」
言いながら、足元の埃を指先で引っ掻く。乾いた粉が爪の間に入り込み、白く残る。
「聞いたよ。幸楽美国の長とも知り合いだったんだろう? あとは……千咲国と劉鳴国?」
珊來は指折り数えるように言い、視線だけを林琳に向ける。
「随分と顔が広いじゃないか」
「あのね、珊來。言っとくけど全部巻き込まれ事故だから」
林琳は顔をしかめ、床に視線を落としたまま吐き捨てる。
「でも、結果的に全部繋がってる」
珊來は言葉を切らず、そのまま続ける。
「奇妙な運命だ」
「じゃあ変わってあげようか?」
間を置かず返す。声は乾いているが、言葉の端がわずかに荒い。
林琳の指が、床に積もった埃を無意識に何度もなぞる。線はすぐに崩れ、指先だけが黒く汚れていく。
「俺は別に夢天理だろうが、他の宗派の人間だろうが、本当にどうだっていいんだよ」
視線は上げないまま続ける。
「きな臭い事件を追いかけてたら、こうなっただけで……主の所有物だとか、心底どうでもいい。やりたいやつらでやってろよ」
言葉の勢いに反して、声は低く抑えられている。
珊來はその様子をじっと見てから、姿勢を崩さずに口を開いた。
「でも、もしかすると片燕に害が及ぶかもしれない」
声は静かで、はっきりしている。
「だから君は、その役目を引き受けている。違う?」
林琳は何も答えない。だが、手は止まったままだ。
否定も、肯定もしない。
倉庫の奥で、細い鎖がかすかに揺れ、金属同士が触れる小さな音が鳴る。林琳はそちらに一瞬だけ目を向けたあと、すぐに視線を外した。湿った木の匂いに混じって、どこかに残っていた血の鉄臭さが、呼吸の奥にわずかに引っかかる。
「結局行き詰ったけどね。おまけにこのざまだ」
林琳は壁に背を預けたまま言い、視線を床に落とした。踏み荒らされた埃の上に、自分の靴跡がいくつも重なっている。さっき転がり込んだ衝撃で崩れた木箱の破片が、足元に散らばったままだった。
「それは違うよ。君が、そう勘違いしているだけだ」
珊來はすぐに言い切った。声は低いが、間を置かない。
「……はぁ?」
林琳は顔を上げる。眉間に皺が寄る。
「君が自分の中で片付けてしまっていること。それを共有すべきだ。ひとりで考えてしまうから、行き詰ったように見えるだけかもしれないだろう?」
珊來は木箱に腰掛けたまま、肘を膝に乗せて少しだけ前に身を乗り出す。視線は逸らさない。
林琳の奥歯がきしむ。
呪いのことも、解き方も、何一つ話していない。紙に書き出した手順も、結局自分の中だけで止めている。分かっている。だが口に出そうとすると、喉の奥で言葉が固まる。
「それともまだ君の信用を得るには……何か至らないかな」
軽い調子のまま言うが、目だけがわずかに細くなる。
林琳は反射的に顔を上げた。
「違う」
被せるように否定する。
「そういうわけじゃない。本当に……そういうものじゃないんだ……」
言葉が続かない。喉の奥が引っかかる。息が浅くなるのが自分でも分かる。何から話せばいいのか、順番が組み立てられない。
「俺は……」
視線が揺れる。床、壁、珊來の足元。定まらない。
珊來は急かさない。動かない。ただ少しだけ身体を傾けて、聞く姿勢を取る。
「俺の手に負えないことを、誰かに託すことはしない」
倉庫の奥で、木材の隙間を何かが走る音がした。小さく乾いた音が、静まり返った空気にやけに響く。
林琳はその音に目を向けたまま、続ける。
「自分の身は自分で守るしかなかった。明日を生きるために、他の命を切ったこともある。それでも、生きたいと思ったことはない。ただ、死なないように動いてきただけだ」
指先に力が入る。爪が皮膚に食い込む。
「そんな人間が今さら、誰かに助けを請うなんて……」
一度言葉を切る。息を吐く音が荒い。
「俺が片付けるべきだ」
「そう、頼り方がわからないんだね」
珊來の声は変わらない。事実をそのまま置くような言い方だった。
「……人は簡単に裏切る。同じ陣地にいても、命を狙われることだってある。腹の底では首を掻き切る機会を探してる。今は味方でも、明日には敵になる」
言いながら、林琳の視線が少しだけ鋭くなる。
「ましてや、俺とお前は何だ? 数日、一緒にいただけだろ」
指先がわずかに震える。
握った手を、膝の上で押さえつける。
「じゃあ、林琳は私が裏切ると思ってる?」
真っ直ぐな問いだった。
林琳は答えない。
再び視線を落とす。
足元の埃の上を、小さな蟻が這っていた。砕けた木片を避け、向きを変え、また戻る。同じ場所を何度も行き来している。
苛立ちが胸の奥に引っかかる。
林琳は親指の爪を噛み、視線を逸らした。
「……私は」
その声と同時に、珊來が腰を上げる。木箱が小さく軋む音を立てる。
一歩、距離を詰める。
袖が揺れ、布の擦れる音が近くなる。
腕が伸びる。林琳の足元へ。
袖口から滑り出た刃が、月明かりを受けて鈍く光った。
反射的に視線がそこへ落ちる。
一瞬、意図が読めない。
動きが理解に追いつかない。
――ボタッ。
湿った音が、埃の上に落ちた。
「っは!?」
鮮血が落ち、土埃を吸ってじわりと広がり、赤黒い染みが倉庫の床板に滲んでいくのを、林琳は目を逸らさずに見ていた。
「君に誓いを立てよう」
仕人にとって誓いは命を握られるに等しい、その重さを知っていながら、珊來は何の躊躇もなく言い切り、血の滴る手をそのまま差し出す。指先から新しい血が落ちるたび、小さく湿った音が床に弾けた。
「私は君のことを裏切らない。君の望む、私でいよう。君のためになるなら、私を利用してくれて構わない」
林琳は浅く息を吐き、吸い、もう一度吐くが、呼吸はすぐに整わず、胸の奥がざわついたまま落ち着かない。
「……なんだよ、それ……馬鹿げてる……」
こんな埃まみれの倉庫で、血を流しながら口にする言葉ではない。林琳は膝を抱え込み、視界の端にこびりつく赤を振り払うように目を強く閉じた。
「疲れてるんだよ、お前……さっさと戻って休めばいい」
突き放すように言っても、珊來の気配は一歩も引かず、差し出した手もそのまま動かない。
「至ってまじめだよ。これで君の信頼を得ることができるなら、本望だ」
声音に揺らぎはない。そのまっすぐさが、余計に逃げ場をなくす。
「……俺は」
ゆっくり顔を上げると、血に濡れた手を差し出したまま穏やかに笑う珊來がいて、その表情に力みはなく、ただこちらを待っているだけだった。胸が強く締め付けられ、視線を外すこともできないまま、呼吸だけが浅くなる。
どうしてそこまで他人に命を差し出せる。どうしてそこまで迷わない。その疑問が喉の奥に引っかかり、言葉にならない。
「前も言っただろう? 私は君を好いている。それは恋であり、愛であり、君を尊敬しているからだ。君を知りたいし、私を知ってほしいと思う。君が大きな隠し事をしていることも察しているよ。それでも、私は君を知りたい。……それが理由じゃ、足りない?」
静かな倉庫の中で、その声だけがはっきりと届く。
林琳は握りしめていた拳の力をゆるめ、そのままゆっくりと手を伸ばす。
――いいの?
一瞬、耳の奥で子供のような高さの声が響き、反射的に瞬きをひとつして意識を引き戻すが、伸ばした手は止まらず、そのまま血に濡れた手を掴んだ。
温かい。生きている温度がそのまま指先に伝わり、血で滑るはずの感触の中でも指はしっかり絡み、その近さに肩がわずかに強張ると同時に、胸の奥で何かがほどけかける。
縋れば楽になる――そんな考えが一瞬だけ浮かび、喉の奥で小さく笑いが漏れた。
――何を考えてる。
自嘲するように鼻で笑い、指先に込める力をわずかに強めたあと、そのまま手を振り払うように離す。
温度が離れ、それに引きずられるように胸の奥も固まり、さっきまで触れていた感触だけが妙に残る。
「……手当を」
ぶっきらぼうに言って視線を逸らし、そのまま立ち上がって背を向ける。目を合わせれば何かを受け取ってしまいそうで、距離を取るように足を踏み出した。
「倉庫は俺が片付けとく。このままだとちょっとした事件現場だしね」
床に広がる赤黒い染みを顎で示しながら、無理に口元を持ち上げて笑い、布切れを拾ってしゃがみ込むと、必要以上の力でごしごしと血を擦り始める。
染みは簡単には消えず、擦るたびに赤が広がる。その色を見ていると、さっきまで触れていた体温が頭から離れず、無意識に布を強く押しつけた。
「誓いだの何だの言って、いきなり自分を切るとか……お前、ほんと頭おかしい」
軽口の形を取っていても、言葉の端は僅かに硬いまま、手は止まらずに床を擦り続ける。
「……ここでは、何も、なかった」
手を伸ばしかけたことも、受け入れかけた一瞬も、全部なかったことにするように呟き、さらに布を押しつける。
――お前に赦される資格はない。
胸の奥に冷たい線が引かれ、その感覚に合わせるように背筋がわずかに強張るが、背後の気配には振り返らない。
「さっさと行けよ。血、止めないと倒れるよ」
踏み込ませないための声であり、自分からも踏み込まないための声でもあった。
足音が一歩遠ざかるのを聞きながら、林琳は布を握りしめたまま、誰にも届かないような小さな声で呟く。
「……ほんと、笑える」
乾いた声だったが、離したはずの温度がまだ指先に残っていることには、気づかないふりをした。
◆
あくる日、倉庫での一件をどこにも置ききれないまま、二人は扇葉九に呼び出され、言葉にしないまま抱えたものをそのまま引きずるようにして執務間へ足を踏み入れた。
蒼羽の執務間は夜でも燭台が絶えず、油の匂いが薄く漂う中、積み上げられた書簡の影が揺れて壁に歪んで映り、その奥で机に肘をつきこめかみを押さえている扇葉九の姿は、いつもの威圧感を保ちながらも疲労を隠しきれていなかった。
「何か問題でも起きましたか?」
珊來が一歩前に出ると同時に視線を向け、林琳はその半歩後ろで柱に背を預けるように腕を組み、室内の空気を測るように目だけを動かす。
「宝乱石のことだ」
短く落とされた言葉に、室内の空気がわずかに沈み、燭台の火が揺れる。
「墟狼衆に出現した……石のことですね。傀儡の胸に埋め込まれていた石と似ていると言われる」
「あぁ。……そして、近頃妙な噂を耳にすることが増えた」
「噂?」
問い返した瞬間、燭台の火がぱちりと弾け、その音にかぶさるように、蒼羽がこれまで取ってきた動きが頭に浮かぶ。
世界各地へ弟子を散らし、独自に網を張り巡らせたのは、山雫国の人員では追いつかないと見越した判断で、その結果として集まった報告がほぼ同時にここへ届いている。
「死んだ命が蘇った」
「は?」
反射的に声を上げた林琳の腕がほどけ、柱から背を離して半歩踏み出しながら、目の奥の色が一気に鋭くなる。
「真相は定かではないが、この石が埋め込まれていたそうだ」
扇葉九が掌を上に向けると、その上で黒とも灰ともつかぬ色の欠片がふわりと浮かび上がり、燭台の光を吸い込むように鈍く揺れ、その不自然な質感に林琳は無意識にさらに一歩近づいて目を細めた。
「……似た輝きですね」
低く落とした声のまま視線を外さずにいると、扇葉九は指先をわずかに動かして石を沈める。
「不幸中の幸いだが、今はまだ噂で留まっている。だがその死体は祇双国にある。調査も兼ねてお前たちに向かってもらいたい」
そう言ってから、扇葉九はゆっくりと指を折り始める。
「懸念は一つ、二つ、三つ」
淡々と数える声に重さが乗り、室内の空気がさらに張り詰める。
「国王は冷徹極まりない。裏切り者の斬首はお手の物で……国自体が巨大なからくりでできているそうですね。どのようにしてあちらに連絡を?」
珊來が一歩も引かずに問うと、扇葉九は間を置かずに答えた。
「連絡など取っておらぬ」
「……つまり、突撃せよ、と?」
口元にはわずかな笑みを浮かべながらも、その目は一切冗談を含まず、状況をそのまま受け止めている。
「無論、林琳と同じくお主にも松季国より国命を授ける。すでに王には話を通してある。祇双国とは言えども、蔑ろにはされぬだろう」
話が淀みなく進む中で、林琳は一度だけ視線を落とし、指先をわずかに握ってからゆっくりと手を上げる。
「……お言葉ですが、今の俺には心力が使えません」
言葉が落ちた瞬間、室内が一段静まり、燭台の火の揺れだけがやけに目につく。
「役に立たないどころか、足手まといだ。俺は別の方法で探ったほうが良いのでは?」
声は平坦に保たれているが、握られた指先にはわずかな力が残っている。
「これを読んでも、そう申すか」
次の瞬間、扇葉九の手元から書状が放られ、乾いた音とともに林琳の胸元に当たる。
――パシンッ。
反射的に受け止めた林琳は、そのまま巻きをほどき、見慣れた筆跡に気づいた瞬間、眉がわずかに動く。
「なに?」
視線を落としたまま紙面を追い、読み進めるごとにこめかみがぴくりと引き攣り、唇がゆっくりと歪んでいくのが分かる。
「……師匠から?」
紙を持つ指先に力が入り、端がわずかに潰れて音を立て、そのまま読み終える頃には、握りしめられた部分がくしゃりと形を崩していた。
もし心力が戻っていれば、そのまま燃やしていたかもしれない。
林琳は一度だけ息を吐き、視線を上げないまま書状を珊來へ差し出す。
「……はい、お前も読んで」
「え? わたし?」
「うん」
言葉に合わせて投げるように渡された書状を、珊來は包帯の巻かれた手で受け止め、そのまま指先で巻きを整えながら視線を落としたが、その動きを追うように扇葉九の目が手元へ向く。
「その怪我はどうした」
「うっかり転んだのです」
澄ました顔で答える声に淀みはなく、包帯に滲んだ血もすでに乾いているのを林琳は横目で一度だけ確認し、すぐに視線を外してそっぽを向いたまま口を閉ざす。余計なことは言わない、というより、言えば話が広がるのが分かっているからだ。
だが扇葉九はそれ以上追及せず、短く息を吐いて話を戻す。
「猫に引っ掻かれていなければ良い。……それで、片燕宗主は何と?」
珊來は書状を巻き直しながら、文面を頭の中でなぞるようにして口を開く。
「祇双国で仁と冽も合流するとのことです。こちらも祇双国で落ち合えと」
「ふむ。あちらとの連絡は?」
「私が通心で行います。それでいいよね、林琳」
名前を呼ばれた林琳は一瞬だけ視線を上げるが、すぐに逸らして肩を落とす。
「……もう好きにして」
短く返してそのまま項垂れ、視線は床に落ちたまま動かない。
――あいつがいれば。
ふと、仁の顔が浮かぶ。あの男は無駄に勘が鋭く、言葉にしなくても拾ってくるところがある。
――あいつは、俺が呪いに通じてることを薄々勘づいてる。
一瞬だけ胸の奥が持ち上がる。言わなくてもいい、気づいてくれるかもしれない、という甘い期待が形になる前に、次の思考がそれを叩き落とした。
駄目だ、と頭の中で切り捨てる。
あいつの魂が修復できないのは、自分の心力の影響だ。そこに呪いの干渉を重ねればどうなるか、考えるまでもない。悪化で済めばまだいい。最悪、戻らない。
何のために距離を置いた。何のために別行動を選んだ。
その結論に辿り着いたところで、燭台の火が揺れ、林琳の影が壁に長く伸びる。揺らぎに合わせて輪郭が崩れ、天井へ這い上がるように歪み、その動きと同時に握った拳に力が入り、指先が白くなるのを自覚した時にはすでに遅かった。
ぎくしゃくした空気を扇葉九も感じ取ったのか、一度だけ林琳へ視線を寄越し、短く席を外すよう告げる。
林琳はそれに従い、余計な言葉を挟まずに踵を返して執務間を出ると、背後で襖が閉じる音が細く響き、その距離感がやけに遠く感じられた。
長い廊下を進む。夜は深く、等間隔に置かれた行灯の灯りが床に淡く落ち、板張りの床は冷えていて、踏むたびに乾いた音がわずかに反響する。
「師兄、お話は終わったんですか?」
曲がり角で足を止めると、天雪が立っていた。白い袖が灯りを受けて揺れ、影が足元に落ちる。
「うん。三日後にはここを発つ。お前と花月は……」
「わかってます。元々、師兄をお迎えに行くのが任された仕事でしたから。花月と一緒に情報収集に向かう予定です」
間を置かずに返ってくる声に迷いはなく、そのまっすぐさに林琳は一度だけ目を細める。
「そう。あまり……夢天理には深入りしないように。よく知ってると思うけど、あいつら面倒くさいから」
肩を軽く竦めて言うが、冗談半分ではないことは声の落とし方で分かる。
天雪は頷いたあと、わずかに視線を落とした。
「師匠と朱禍様は何をお考えなのでしょうか」
「あぁ……あの二人のことは俺にもわからないよ。こっちが聞きたいぐらいだ」
答えながら、内心では水面下の動きを思い返す。確実に何かは進んでいるのに、波紋がまったく上がってこない。その静けさが逆に気味悪いと感じながらも、そこに踏み込めば余計に厄介になると分かっているから、意識的に線を引いている。
「ま、詮索もほどほどにね」
「……はい」
歯切れの悪い返事を聞きながら、林琳は欠伸を噛み殺し、そのまま天雪の額を指先で軽く弾いた。
「っう……また子供扱いですか!」
額を押さえて抗議する姿に、思わず口元が緩む。
「その顔がまだ子供だって言ってる」
それだけ言い残して横を通り過ぎると、背後に残る気配を感じながらも振り返らない。
あれは何だ、これは何だと知りたくなるのは当然だ。宗主や一番弟子が動いている状況で、不安にならない方がおかしい。
だが、それでも踏み込ませるわけにはいかない。
まだ余裕がある側を、わざわざ巻き込む理由はない。
自室へ戻ると、扉を閉める音が小さく響き、机の隅に置かれた酒瓶に手を伸ばす。栓を抜き、空の杯に並々と注ぐと、液面が揺れて灯りを映し、その揺れが収まるのを待たずに手に取った。
「……戦なんてもの、知らない方が良い」
独り言は低く落ち、そのまま喉の奥に引っかかるように残る。思い出すのは、焼けた肉の匂いと鼻を刺す煙、耳を裂くような悲鳴と怒号が重なり合う音で、視界の端には消えきらない人影がいくつも揺れ、爪の間に入り込んだ血肉の感触だけが妙に生々しく残っているまま、林琳は杯を傾けて酒を流し込み、焼けるような刺激が喉を通って胸に落ちるのをそのまま受け止めた。
「そうでしょう、師匠」
口に出した言葉は軽いが、その裏にある記憶は重く、二人で歩いてきた道がどれだけ血と感情に塗れていたかを、改めてなぞるように思い返す。人間の剥き出しの欲と嫉妬と、どうしようもない傲慢さが何度も前に立ちはだかり、そのたびに踏み越えてきた痕跡が、今も身体のどこかに残っている。
窓を指で押してわずかに開けると、夜風がすぐに入り込み、燭台の火が揺れて影が壁に伸びる。
「……どこからか戦の匂いがする。あの頃と同じ嫌な匂いだ」
風に混じる湿った土の匂いと、遠くの水の気配の中に、確かに覚えのある空気が混ざっている。怪傀神書を巡る動きは、まだ表面では小さく見えているだけで、呪いの継承や変死体といった火種がすでにあちこちに散っている以上、どこかで一気に燃え上がるのは時間の問題だった。
杯を机に戻すと、小さく乾いた音が部屋に落ちる。
「争い無くして平穏なし。どちらかが潰れるまで終わらない……か」
呟きは独りでに消え、そのまま林琳は立ち上がると、屋敷の中が完全に静まったのを確かめてから音を立てないように外へ出た。
夜の廊下は昼よりも音が響きやすく、板の軋みを避けるために踏む位置を選びながら、重心を外側へ逃がして歩く。戸を閉めた瞬間、外の空気が頬に触れ、昼の熱をすっかり失った冷たさと、草の湿り気、遠くから届く水音が一度に押し寄せた。
どこかで虫が鳴いている。一定の間隔で、途切れずに続く音が、周囲の静けさをかえって際立たせる。
林琳はそのまま足を向け、燈村へと歩き出した。
細く欠けた月が刃のように空に浮かび、足元の土は柔らかく、昼間の熱をわずかに残している。あの日の出来事は遠くにあるはずなのに、こうして同じ場所へ向かうと、皮膚の上に薄く貼り付いてくるように感触だけが戻ってくる。
社の前で足を止める。
「……変わったな。ご立派な社だ」
新しく組まれた木はまだ乾ききっておらず、若い木の匂いを残している。削られた断面は白く、月光を受けて淡く光り、屋根の端に吊られた小さな鈴が風に触れてかすかに鳴った。
かつてここにあった淀んだ気配は消えている。繰り返しに縛られていた人々の気配も、もう残っていない。
今あるのは、風が抜ける音と、葉が擦れる乾いた響きだけだった。
林琳はゆっくりと石碑へ歩み寄り、月光に浮かび上がる表面へ指を伸ばす。触れた瞬間、夜露を含んだ冷たさが皮膚に伝わり、刻まれた文字の溝に指先が引っかかる。その凹凸をなぞりながら、ここに確かにあった生活の断片が頭に浮かぶ。土の匂い、焚き火の煙、子どもの笑い声。どれももう戻らない。
空を見上げると、星がやけにくっきりと見える。雲が速く流れ、黒い影が星を隠してはまた現し、その合間を縫うように風が頬を撫でる。湿り気を含んだ空気には、遠くの川の匂いが混ざっていた。
しばらくその場に立ったまま、呼吸を整える。吸う空気と吐く空気の速さが風と重なり、肺の奥まで冷えた空気が通っていくのが分かる。
やがて近くの岩へ腰を下ろすと、昼の熱を完全に失った石の冷たさが衣越しに伝わり、その硬さがじわりと背に当たる。
林琳は懐から書を取り出し、膝の上で開いた。
並んでいるのは、曲線と角が絡み合った古代文字で、どこからどこまでが一つの意味なのかも判然としないまま、頁をめくるたびに紙の擦れる乾いた音が夜に溶けていく。
ぺらり、ぺらり、と指だけが動く。
読めるわけではない。それでも手が止まらないのは、この動作そのものが習慣として染みついているからで、静まり返った夜の中に、紙の音だけが一定の間隔で落ち続けていた。
「ふむ、ちゃんと書は持っているようだなぁ」
唐突に落ちた声に、林琳の視線が弾かれるように跳ねた。反射的に顔を上げると、石碑の上にひとつ、人影が立っている。月光に縁取られた輪郭だけが浮かび、外套の裾が風に煽られてわずかに揺れ、そのたびに布の擦れる音が静まり返った夜の中でやけに大きく響いた。
「お前っ……!」
立ち上がる拍子に膝の上の書が滑り落ち、土の上に伏せる。乾いた音が一つ落ちたあと、周囲の音が一瞬遠のいたように感じられる。虫の鳴き声すら薄れ、耳の奥が静まり返る。
「主の書は持ち主を選ぶ。そうして世を渡り続けてきた」
御者の声は低く、抑揚もなく、ただ一定の調子で落ちてくる。その声に合わせるように風が石碑の縁をなぞり、苔を揺らす。雲の切れ間から月が顔を出し、外套の縁を淡く照らしたが、顔は影に沈んだままで表情は見えない。
「人は長くは生きられぬ。書には護り手が必要だ」
外套の裾がゆらりと翻る。その動きに合わせ、林琳は半歩、距離を詰めた。足裏で土を踏みしめると、湿り気を含んだ地面がわずかに沈み、靴底に重さが返る。
「塔の先を開こうと、お主は禁忌へ触れた。書がお主を選ぶ条件は揃っている」
足元に落ちたままの書に遅れて気づく。頁が風を受けてめくれ上がり、紙同士が擦れる音が夜に広がる。
「歴代の護り手もお主と同じ。禁忌に触れた者たちだ」
雲が再び月を覆い、光が引く。人影の輪郭が曖昧に溶ける。
「皆、死んだ」
その一言で、空気の温度が一段落ちた。肺に入る空気が冷たくなる。
「時の狭間の崩壊は世界の崩壊。輪廻の理を壊してはならない」
木々のざわめきすら引いたように感じられ、周囲の気配が一段と遠のく。
「この野郎……っ!」
林琳は地を蹴った。足元の石が跳ね、土が散る。距離を詰める勢いのまま腕を伸ばし、外套を掴みにいく。指先が確かに布を掠めた。ざらついた感触。だが、その下にあるはずの体の重みがない。掴んだと思った瞬間、手の中の感触が霧のようにほどけ、空を切る。
「愚かな人の子よ。幾度も同じ末路を辿ってくれるな。人が死ねば影が生まれ、怪奇が育つ。世の歪みが境界を歪ませる」
「まて……!」
声を上げるが、もう位置が定まらない。外套の揺れだけが残り、次の瞬間には石碑の上から人影が消えていた。
「罪を償い、役目を果たせ」
声だけが残り、やがてそれも途切れる。
雲が流れ、月が戻る。石碑の白さだけが、冷たく浮かび上がる。
林琳はその場に立ち尽くしていた。荒くなった呼吸が静寂の中でやけに大きく響き、踏み荒らした土の匂いが濃く鼻に残る。視線を落とすと、自分の足跡が月光に照らされてはっきりと浮かび上がり、さっきまでの動揺をそのまま地面に刻みつけていた。
ゆっくりと屈み、書を拾い上げる。頁の端が湿っている。夜露か、それとも自分の汗か判別がつかない。
「……あいつは、一体“なんだ”?」
問いはそのまま夜へ投げられるが、星は瞬くだけで何も返さない。雲が再び流れ、光が途切れ、闇が深くなる。林琳は書を胸元へ引き寄せる。鼓動が速い。掌にじわりと熱が滲む。
わずかに心力を練る。
その瞬間、視界が揺れた。
石碑の輪郭が歪み、地面がわずかに傾いたように感じる。膝が抜けかけ、咄嗟に近くの岩へ手をつく。冷えた石の感触が掌に鋭く返り、意識を引き止める。息を吸うが、肺の奥まで届かない。途中で空気が引っかかる。耳鳴りが走り、遠くで鳴いたはずの梟の声が、やけに近くで響いた。
風が戻る。葉が擦れ、夜が何事もなかったかのように動き出す。燈村は静かだ。あまりにも静かで、さっきの出来事が幻だったかと疑いたくなるほどに。だが踏み荒らした土と、荒い呼吸と、手の中にある書の重みだけが、否応なく現実を突きつけてくる。
林琳はゆっくりと背を伸ばした。肩の力を抜こうとするが、胸の奥に残った重さが消えない。息を吸い、吐くたびに、御者の残した気配が肺の奥にこびりついているようで、喉の内側がざらつく。腕はわずかに震え、指先には掴み損ねた外套の感触が残っていた。
――あ、まずい。
そう思った瞬間、反射的に書から手を離す。だが遅い。ぼたり、と鼻から落ちた血が、足元の土に黒く滲む。鉄の匂いが立ち上がり、湿った土の匂いと混ざって鼻に残る。
「……は」
指先で拭っても止まらない。掌に広がる温かさと粘り気だけがはっきりと残るのに、それに伴う焦りや痛みはどこか遠い。身体だけが勝手に動き、背筋を伸ばし、呼吸を整えようとするが、思考が一拍遅れて追いつく。動きと意識が噛み合わない。
「……思った以上に浸食が早いな」
呟いた声が、自分の耳に少し遅れて届く。指先の感覚はぼやけ、書のざらつきも重みも曖昧になる。足元の土や石も、踏んでいるはずなのに輪郭が掴めない。
「それとも御者が……?」
考えようとしても思考が滑る。視界の端で血が衣を汚しているのが見え、その赤だけがやけに鮮明に浮かぶ。
「あーぁ、面倒くさ」
吐き捨てた声は乾いているが、苛立ちは鈍い。手足は動く。呼吸もできる。だがそのどれもが自分の意思から少しずれている。
全部を投げ出せば楽だと、頭のどこかで考える。それでも林琳は書を手放さない。指先の力が弱まりながらも、無意識にそれを引き寄せている。
託されたものが、多すぎる。
脳裏に、血に濡れた手を差し出した珊來の姿が一瞬浮かぶ。迷いのない声。理解できない行動。苛立ちと引っかかりが胸の奥に残るが、そのどちらも形を持たないまま沈んでいく。
「俺の頭がおかしいのか?」
石碑は何も答えない。刻まれた文字は光を返すだけで、意味を持たない。
時間だけが進む。踏み荒らした土も、荒い呼吸も、掌の書の重みも、すべてが確かにそこにあるのに、それを受け取る側の自分が薄れていく。輪郭が外側から削られていくような感覚。
林琳は深く息を吸い込んだ。だが空気は胸の奥まで届かず、途中で引っかかる。
支えになるものは何もないまま、ただその場に立ち尽くしながら、自分という感覚が少しずつ遠のいていくのを、どうすることもできずに受け入れるしかなかった。
◆
道中の移動に使う転送陣は、すべて珊來の心力で展開されている。その事実を意識するたび、林琳はどこか現実味の薄い感覚を覚えていた。足元に刻まれた紋様が光り、空気が一瞬だけ引き伸ばされるように歪む。その違和感の中へ踏み込むたび、本来なら身体の内側を掻き回されるような不快感が走るはずだった。
だが今は、それがない。
視界が白く弾け、次の瞬間には別の場所に立っている。その切り替わりに、足がふらつくことも、内臓が遅れてついてくるような気持ち悪さも起きない。着地の衝撃も軽く、呼吸も乱れないまま次の一歩が出る。
――なるほど。
林琳は転送陣を抜けた直後、靴底で地面を踏みしめながら、わずかに目を細めた。以前は一歩目で必ず重心がずれた。足裏と地面の距離感が掴めず、踏み込んだはずの場所に感覚が追いつかない。その僅かなズレが、胸の奥に鈍い吐き気を残していた。
だが今は、踏んだ感触がそのまま返ってくる。石の硬さ、土の沈み、すべてが遅れなく繋がる。
どうやら、心力が使えないことが関係しているらしい。
余計な力が働かない分、身体がそのまま環境に馴染む。違和感を増幅させる要素が一つ消えただけで、ここまで変わるのかと、林琳は小さく息を吐いた。
――一般人は、いつもこんな感覚で使っているのか。
そう思うと、これまで自分が感じていた不快感が、まるで別の世界のもののように思えた。
転送陣を抜けた先、視界に広がった城下町は、想像よりもはるかに賑やかだった。夕暮れの空が橙から群青へ移り変わる中、通りにはすでに灯りがともり始めている。屋台の布が風に揺れ、油を焼く匂いと甘い菓子の匂いが混ざり合い、鼻先をかすめた。人の声が重なり、笑い声が弾け、子供が走る足音が石畳に跳ねる。
祇双国と縁の深い土地なのだろう。
屋台には絡繰り仕掛けの玩具が並び、歯車が組み合わされた小さな箱や、糸を引けば手足が動く木製の人形が所狭しと吊るされている。金属の軸が夕日の名残を拾って鈍く光り、指で触れれば細かく震えそうな精巧さだった。建物もまた癖がある。屋根の角度が微妙に左右で違い、梁が外側へ張り出している。実用を保ちながら、意図的に歪ませたような造りだ。
その光景を目にした瞬間、林琳の視線がわずかに動いた。
視界の端から端まで、ひとつずつ確かめるように流れる。歯車の噛み合い、紐の結び目、木目の走り方。無意識に観察が始まる。足は止めないまま、首だけがわずかに動く。
だが次の瞬間、隣の気配を思い出し、何事もなかったように視線を前へ戻した。
「仁たちは近くの宿を取ったみたいだ。私たちもどこかで宿を取る?」
歩幅を変えずに、珊來が言う。声は柔らかく、雑踏に紛れても不思議と耳に届く。
林琳は一瞬だけ考える。
同じ宿に泊まること自体は問題ない。だが部屋の取り方によっては面倒な誤解を招く。視線の多い土地だ。余計な噂は避けたい。
そんな思考を挟むより早く、
「あいつらと同じ宿にしよう。その方が手間が省ける」
横を歩く珊來の横顔が、灯りを受けて浮かび上がる。輪郭は整いすぎているほど整い、目元の陰影が柔らかく落ちる。いつもはゆるく編まれている髪も、今日はきちんとまとめられていて、うなじの線がはっきりと見えていた。
通りを行き交う人間の視線が、自然とそこへ吸い寄せられていく。
「お綺麗な人ね」
すれ違いざま、小さな声が漏れる。頬を染めた町娘が、振り返りかけて足を止める。
――そりゃあ、そうだろう。
林琳は視線を外したまま、内心で肩をすくめる。
――俺だって、そうそう見ない。
思考だけが淡々と落ちる。
視線を逸らしたまま、林琳は屋台へ手を伸ばした。並んでいる酒瓶の中から一本を取り、軽く振る。中の液体が瓶の内側を打つ音を聞き、栓を少し緩めて匂いを確かめる。甘さと辛さの刺激が混ざった匂いが鼻を刺し、わずかに口元が緩んだ。
「君は想像以上に酒飲みなんだね」
横から声が落ちる。
「そう言うお前は下戸?」
「昔から合わないんだ。式典とか、どうしてもって時は飲むけど……気が抜けたらもう駄目だね」
歩きながら、珊來は肩を竦める。
「だから基本は避けてるんだ」
「ふぅん」
それ以上は踏み込まない。
瓶を指に引っかけたまま歩く。足並みは自然に揃い、どちらかが合わせるでもなく速度が一定に保たれている。会話も途切れ途切れだが、不思議と間が空きすぎることはない。
周囲の視線が、ちらちらと二人へ向く。
足の運び、距離の取り方、会話の間。どれも無理がなく、初対面の旅人には見えない。長く連れ添ったような、あるいは気を許した相手同士のような、そんな空気が自然と形になっていた。
やがて、珊來が足を止める。
林琳も半歩遅れて立ち止まり、視線だけを前へ向けた。
「ここだ。店主、すみません。人を呼んで頂きたいのですが……」
珊來は戸口の前で足を止めると、そのまま自然な所作で店主へ声をかけた。言葉を選ぶ間もなく、やり取りは短く済む。宿の規模や客の入りを一瞥しただけで、必要な手配を迷いなく進めていく。声の調子も低すぎず高すぎず、相手に合わせてわずかに抑えられている。
林琳はその間、柱に肩を預けたまま腕を組み、ぼんやりとその様子を眺めていた。視線は向けているが、焦点はやや甘い。耳には会話が入っているのに、内容までは追わない。
距離は、一定に保たれている。
近すぎず、遠すぎない。手を伸ばせば届くが、わざわざ触れようとは思わない位置。二人の間に、見えない線が一本引かれているような感覚があった。
それを引いたのは林琳ではない。
あの夜以降、珊來の方がわずかに距離を外した。並んで歩く位置、声をかける間合い、視線を向ける時間、そのすべてがほんの少しだけ調整されている。
だが、その距離は不自然ではなかった。
足並みは崩れず、会話も途切れない。近づきすぎないからこそ、逆に空気が安定する。無理に踏み込まれない分、呼吸が浅くならずに済む。
林琳は柱に預けた背をわずかにずらし、肩の力を抜いた。
——何も、なかったかのようだ。
あの倉庫でのやり取り。血の匂い、差し出された手、触れた温度。全部まとめて奥へ押し込める。いつも通りのやり方で、表面から切り離す。
感情を一度横に置く。時間の中へ沈める。そうしておけば、輪郭は鈍くなる。触れても刺さらなくなる。
これまでもそうしてきた。
腹の立つことも、どうにもならないことも、全部同じ手順で処理してきた。だから今回も、同じようにすればいい。
――そう思うのに。
胸の奥、心臓の少し上あたりに、小さな違和感が残る。針ほどの大きさのそれが、呼吸のたびにわずかに引っかかる。
消えない。
林琳は視線を外し、柱の木目へ意識を逃がした。節の位置、割れ目の走り方、指でなぞれば引っかかりそうな細かな傷。無意味な情報を拾い上げて、意識を逸らす。
「こっちだって。先に部屋を抑えてくれていたみたいだ」
珊來が振り返り、手を軽く上げて合図する。
林琳は柱から背を離した。肩がわずかに軽くなる。そのまま一歩踏み出し、後を追う。
宿の中へ足を踏み入れると、外の喧騒が一枚隔てられたように遠のいた。磨き込まれた床板が灯りを柔らかく反射し、足裏に伝わる感触も均一で滑らかだ。香の匂いが薄く漂い、鼻に残る油や煙の匂いをゆっくりと押し流していく。
「……かなり豪華だね」
天井を見上げるでもなく、視線だけを巡らせながら林琳が呟く。
「君の弟弟子は富豪か何か? こんな宿、抑えようと思ったら相当の価格になるけど」
「片燕一の豪運ではあるよ。あいつに賭け事をさせたら天下一だね」
歩きながら肩を竦める。
「昔から無駄に運だけはいいから」
「あははっ、君とは正反対だ」
「……悪かったね、運がない人間で」
双六での惨敗が、脳裏に一瞬だけ蘇る。盤上に残った駒、空になった手持ち、妙に静まり返った空気。林琳は小さく舌打ちを飲み込んだ。
「一泊いくらすると思う? 聞いたら驚くよ」
「いい、いい。どうせあいつの金だし」
手をひらひらと振る。
「せめて私の分は払うよ」
「気にしなくていい。請求するならとっくにしてる」
給仕の後ろをついて廊下を進む。板張りの床は足音を吸い込み、衣擦れの音だけがかすかに残る。等間隔に置かれた灯りが、壁に柔らかな影を落としていた。
「こちらでございます。何か御用があれば、こちらの鐘を鳴らしてお呼び下さい」
給仕が差し出した小さな鐘を、林琳は受け取る。掌に収まる重さを一度だけ確かめ、そのまま何も考えず珊來へ放るように渡した。
そして、そのまま戸へ手を伸ばす。
指先が木に触れた瞬間――
「ぐふっ……!」
横合いからの衝撃が、脇腹と胸を同時に打ち抜いた。
息が、強制的に押し出される。
肺の中の空気が一気に抜け、喉が詰まる。視界が一瞬だけ白く弾け、足が半歩浮いた。
重い。
ぶつかってきた塊は、そのまま勢いを殺さず体重を預けてくる。胸板が押し付けられ、背中へ回された腕が逃げ道を塞ぐ。抱き寄せるというより、固定する力だ。
肋骨が軋む。
呼吸を取り戻す前に、さらに圧がかかる。肩口に顔が埋まり、布越しに体温が伝わる。逃がさない意志が、力の入れ方にそのまま出ていた。
――こいつ。
林琳は眉を寄せ、反射的に腕を動かしかけて止める。
この男、遠慮というものを知らない。
「おい、馬鹿」
押し付けられたままの体勢で、林琳は息を詰まらせながら声を絞り出す。背中へ回された腕はびくともしないどころか、抗うほどに締めつけが強くなる。胸郭が押され、肋骨の軋む感覚がじわりと広がる。逃がさないと決めた力だ。
「ちょ、仁、はなせ」
名前を呼ばれても、その腕は緩まない。
「心配した」
低く落ちた声は、押し付けられた肩越しにくぐもって届いた。いつもの勢いが削がれ、芯の部分だけが残っている。息に混じるわずかな震えが、距離の近さのせいではっきりと伝わる。
林琳は一瞬だけ動きを止めた。反発しかけていた力が、わずかに抜ける。そのままおずおずと手を上げ、相手の腕を軽く叩く。
「今はお前に窒息死させられそうだけど?」
息を整えながら言うと、ようやく拘束が緩んだ。圧迫が解け、肺に空気が戻る。遅れて胸が上下し、喉の奥がひりつく。
「……なんで連絡してくれなかったんだ」
腕が離れても、距離はまだ近い。真正面から向けられる視線に、林琳は小さく眉を寄せた。
「そこからか」
呆れたように息を吐き、肩を回して固まった筋肉をほぐす。
「……はぁ。鏡を落としたんだよ。わざとじゃない。だから連絡しようにもできなかった。それに、師匠から何があったか聞いてたでしょ?」
言いながらも、呼吸はまだ完全には整っていない。肺の奥に残った圧迫感が、わずかに遅れて引いていく。
仁はすぐに言い返さない。ただ一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
その隙に林琳は顔を上げ、まじまじと相手の表情を見た。目の下の影、わずかに落ちた肩、噛み締めた口元。それを確認してから、口の端を持ち上げる。
「……情けない顔」
「それってどんな顔?」
「捨てられた犬」
肩をすくめる動作に合わせて、さっきまでの重さを払うように軽く体を揺らす。
「昔お前が拾ってきた……やたらと俺になつかなかった犬にそっくりだ」
小馬鹿にした笑みを浮かべると、仁の方も遅れて吹き出した。緊張がほどけ、空気がわずかに緩む。
「でも師兄には絶対噛み付かなかった」
「一発殴ったからな」
「嘘だろ!? 最低!」
即座に返ってきた反応に、林琳は鼻で笑う。仁は思わずその肩を掴み、ぐいと引き寄せた。
「どうせ俺たちじゃ世話ができなかった。他所へやったのはあいつのためだ」
「あー! だから急にいなくなったのか!」
長年の疑問が解けたように、仁の顔が明るくなる。掴んでいた手の力も無意識に緩む。
その空気を、わざと断ち切るように。
「ごほん。さてさて、めでたく合流したところで……」
わざとらしい咳払いが落ちた瞬間だった。
反対側から伸びた手が、林琳の腕を掴む。
反射的に視線を向けると、そこには珊來がいた。指の掛け方は強すぎず、だが逃がさない角度で固定されている。
右腕には仁、左腕には珊來。
両側から同時に引かれ、肩がわずかに持ち上がる。体格のある男二人に挟まれ、関節が動かない位置でぴたりと止められる。
「……お前ら、俺を引き裂く気?」
力のかかる方向を確かめながら、うんざりとした声を落とす。腕を軽く捻ってみるが、どちらも譲る気配はない。
「なぁ、離せよ」
上を見上げると、仁と珊來の視線が正面でぶつかっていた。無言のまま、互いに一歩も引かない。空気がぴりつく。
周囲の客がざわめき始める。視線が集まり、ひそひそと声が落ちる。
林琳は盛大に溜息を吐いた。
「おい、冽。こいつらを引き剥がして」
「私を巻き込むな」
即答だった。
間を置かない拒絶に、林琳は顔をしかめる。
「じゃあ、このままここで晒し者になれと? あぁ、ほら見ろ。今そこを通りかかった女が俺を睨んだぞ。見たかあの目。今にも俺を殺しそうな目だった」
視線で示すと、確かに通りすがりの女が不機嫌そうにこちらを見ている。状況をどう解釈したのかは想像に難くない。
冽は一瞬だけ沈黙し、それからわずかに視線を細めた。
「……今ここで私が悲鳴を上げれば、どうなるか。わかるな?」
淡々と落とされた一言に、両腕の圧が同時に止まる。
仁と珊來の動きがぴたりと固まり、そのまま一歩引いた。掴んでいた手が離れ、空間が急に広がる。
その変化を見て、林琳は深く息を吐いた。ようやく肩が自由に落ちる。
「とりあえず、食事にしようか。ってことで、これは取り上げ」
「はぁ!?」
右手に持っていた酒瓶が、横からするりと奪われる。反射的に掴み返そうとするが、珊來は腕を高く掲げ、指先の届かない位置で軽く揺らした。
林琳は即座に胸倉を掴む。布越しに引き寄せるが、相手は体勢を崩さない。余裕の笑みがそのまま返ってくる。
「師兄、酒なんて後でいくらでも買うから。まずはその髪を……」
反対側では仁がまだ食い下がっている。手を伸ばして髪に触れようとし、しかし距離を測りかねて中途半端に止まる。
冽は眉間に皺を寄せたまま、その場から静かに離れていった。完全に関わる気はないらしい。
林琳はそれを横目で確認し、短く舌打ちする。
「俺は寝る。ここに来るまでほとんど寝てないんだ。冽と仁はどの部屋に?」
「この部屋の隣が俺。冽は女性専用の区画があるから、そっちの部屋を使ってる」
仁が指した扉を一瞥し、林琳はそのまま体の向きを変える。歩幅は変えない。
「おーい、林琳。そっちは君の部屋じゃないよ」
背後からの声を完全に無視したまま、手を伸ばし、迷いなく戸を引いた。
開いた先は――仁の部屋だった。畳まれた布団は壁際に整然と寄せられ、床には無駄な物がほとんどないが、数日分の生活の痕跡だけは消えずに残っている。卓の上に置かれた茶器、隅に立てかけられた荷、そして空気にわずかに混じる香の匂い。誰かが確かにここで過ごしていた時間が、まだ完全には抜けきっていない。林琳は戸口に立ったまま一度だけ室内を見渡し、それから小さく鼻を鳴らした。
「仁」
「ん?」
背後から返ってきた気の抜けた声に、振り返りもせず短く言葉を落とす。
「寝る」
「は……はぁ?」
返答が形になるより早く、林琳はそのまま一歩踏み込み、戸を引いた。
――ピシャンッ。
乾いた音が廊下に弾け、戸は一切の余地を残さず閉じられる。間を置かない拒絶だった。仁はその場に取り残されたまま、閉ざされた戸を見つめる。手を上げるでもなく、声をかけるでもなく、ただ一拍、呼吸を整えるように立ち尽くす。中から物音はしない。気配も、すぐに静まる。
しばらくしてから、仁は小さく息を吐いた。何か言うべきかと一瞬だけ迷い、しかし結局その手は戸に触れないまま下ろされる。くるりと向きを変えると、その視線は自然と目の前に立つ男へと向いた。
「師兄が世話になったみたいだな。ありがとう」
軽く頭を下げる仕草はいつもと変わらない。肩の力も抜けているし、声も穏やかだ。だが、上げた顔の目だけは逸れず、真正面から相手を捉えている。礼の形を取りながら、その奥で何かを測っている視線だった。
「いやいや。力になれたのなら何よりだ」
珊來は笑みを崩さずに応じる。姿勢も崩れず、声の高さも変わらない。受け答えは柔らかく、角が立たないよう整えられているが、そこに揺らぎはない。
廊下の空気は静かだった。先ほどまでの騒がしさが嘘のように引き、足音だけがわずかに残る。仁はそれ以上言葉を重ねず、珊來も踏み込まない。互いに距離を測ったまま、同じ方向へ歩き出す。並んで進む足取りは自然で、無理に合わせたものではないが、どちらも一歩も先へ出ようとはしない。
中庭へ出ると、灯りの下にひとつだけ影があった。冽が低い卓に向かい、静かに箸を動かしている。椀から上がる湯気が、夜気に触れてゆっくりと消える。周囲の気配に気づいていないはずはないのに、顔は上げない。その姿勢がかえって場の空気を落ち着かせていた。
「一番弟子は?」
視線を上げないまま、冽が問う。声音は一定で、ただ状況を確認するためだけの響きだった。
「先に休んでる」
仁が短く答えると、冽は箸を止めることもなく「そうか」とだけ返す。その一言はあまりにも迷いがなく、まるで最初からそうなると分かっていたかのように落ち着いていた。仁はわずかに首を傾げるが、追及はしない。
「君の部屋は結界も張ってあるし、安心するんじゃないかな?」
珊來が穏やかに言葉を添える。冽の様子を見ながらの一言だったが、その響きには、すでに状況を理解している者の落ち着きがあった。
「今、彼の心力は封じられているし」
続けられた一言が、空気をわずかに揺らす。音が一瞬だけ遠のいたような感覚が走る。
「……何だって?」
仁の声が低く落ちた。先ほどまでの軽さは消え、言葉の奥に硬さが混じる。ゆっくりと視線が持ち上がり、珊來を射抜く。そこには警戒と、押し殺した苛立ちがはっきりと浮かんでいた。
珊來はその変化を受けても、表情を崩さない。ほんのわずかに眉を上げるだけで、声の調子もそのまま保たれている。
「知らないのかい?」
問いは穏やかに投げられる。だが、その中身は軽くない。
「彼は奇襲にあって、呪いを受けた。だから千咲国で身を隠して療養していたんだ。松季国まで天雪と花月が護衛していた」
必要な情報だけを並べる。余計な装飾も、感情の揺れも乗せない。ただ事実を順に置いていく。
「獅宇様から聞いていないのかい?」
その瞬間、椅子が軋んだ。
仁が勢いよく立ち上がる。足が床を強く踏み、音が中庭に響く。その動きは一切の迷いがなく、抑えていたものがそのまま外へ出た形だった。肩が強張り、呼吸が一段深くなる。顔にははっきりと怒りが浮かび、目の奥が鋭く光る。
冽がそこで初めて視線を上げた。ほんの一瞬だけ、仁の変化を測るように。
だが仁は、何も言わない。
「ま、待ってくれ、仁。今は休ませてあげよう。彼は松季国でも眠れていなかったんだ」
珊來はとっさに声を上げ、仁の進路を遮るように半歩踏み出した。勢いよく踏み込んできた足が止まる。床板がぎしりと鳴り、その音がやけに大きく響いた。目の前の空気が張り詰める。次に一歩でも動けば、そのままぶつかる――そう直感できる距離だった。
「そう怒らないでくれ」
声は落ち着いている。だが、わずかに呼吸が浅い。言葉の端に、押さえきれていない焦りが滲む。今ここで衝突すれば、ただでは済まない。松季国での林琳の様子が脳裏をよぎる。視線が定まらず、言葉も選べず、あの場でさえ均衡を崩しかけていた。その状態にさらに負荷を重ねればどうなるか――考えなくても分かる。
「珊來」
低く、短く名を呼ぶ声が割って入る。冽だった。
「私たちが話すより、一番弟子本人から聞いた方がいいだろう。身内の人間から聞くのと、余所者では……怒りの度合いが違う」
箸を持ったまま、視線だけをわずかに上げる。声音は平坦で、感情を乗せる気配はない。ただ状況を並べるように、必要な言葉だけを置いていく。その視線は仁へ向いているが、肩入れというよりは、これ以上自分たちが巻き込まれるのを避けるための距離の取り方にも見えた。
仁は最後まで聞かなかった。言葉の途中で踵を返し、そのまま廊下を真っ直ぐに戻っていく。足音が乾いた板を強く打ち、一定の速さで遠ざかっていく。躊躇も振り返りもない。怒りを押し込めたまま、そのまま進んでいる足取りだった。
珊來は動かない。遠ざかる背中を目で追い、その姿が角の向こうに消えてもなお視線を外さず、やがて小さく息を吐いた。廊下に残った足音の余韻が、まだ耳の奥に残っている。
「余計な事言ったかな……」
ぽつりと落とした言葉に、間を置かず返答が返る。
「間違いなく言ったな」
冽は椀から顔を上げないまま言い切った。即答だった。迷いも配慮もない断言に、珊來は一瞬だけ目を細め、それから小さく肩をすくめて苦笑する。
冽はその様子を横目で一瞥し、箸先で椀の縁を軽く叩いた。
「必要以上にあいつらを突くな。こっちまで被害が来るだろう」
軽く言っているようで、その言い方には実際に巻き込まれた経験が滲んでいる。視線は再び廊下の奥へ向けられたまま、わずかに細められる。
「てっきり私は知っている事だと思って」
珊來は言い訳のように口にしながら、両手を軽く広げる。同門で、共に行動する間柄であれば、すべて共有されていると考えてもおかしくはない――そう言外に示す仕草だった。
だが冽はそれを拾わない。静かに箸を置き、椀から完全に手を離す。
「いいか。あいつらに“普通”という言葉は通じない」
短く言い切る。眉間の皺がわずかに深くなる。
「なんたって、一番弟子が相当拗らせているからな」
その一言に、珊來は一瞬だけ目を瞬かせ、それから堪えきれずに肩を震わせた。
「……はははは」
喉の奥で漏れた笑いは軽いが、完全に冗談として流せるほどの軽さではない。だが冽は笑わない。視線を逸らさず、廊下の奥を見たまま口を開く。
「今頃修羅場になってるぞ。見に行くか?」
言い方は軽いが、内容は冗談ではない。実際にそうなっていると分かっている声音だった。
「……やめておくよ」
珊來は即座に首を振り、視線をわずかに落とす。
「彼に嫌われたくないから」
言葉は穏やかだが、ほんの一瞬だけ間があった。冗談に逃がすこともできたはずの一言を、そのままの形で置いている。
冽は小さく鼻で笑った。
「ふん。つまらん奴だ」
吐き捨てるように言いながらも、その声に強い棘はない。だがそのまま箸を取り直すことはせず、椀の前で手を止めたまま、廊下の向こうを見ている。
消えていった足音と、その先で起きているであろう衝突を、頭の中でなぞるように。
◆
「黙ってたわけじゃない。師匠には話したし、お前も知ってると思って……」
「いつもそうだ」
言葉を遮られた瞬間、視界がぶれる。胸元を掴まれ、そのまま強引に押し倒されると、背中に板の冷たさが叩きつけられた。息が一瞬抜ける。次の瞬間には仁の影が落ち、逃げ道を塞ぐように膝が脇を押さえ込んでいた。手首を掴む指が強く、骨の位置がずれるほど食い込む。
熱い。
触れている箇所だけが異様に熱を持っている。皮膚の上からではなく、内側へ直接差し込まれるような熱で、じわじわと奥に広がっていく。嫌な感覚だった。胸の奥で呪いがざわつく。触れているだけで何かが滲み出しそうな、不快な予感が背筋を這い上がる。
「仁、俺に触れるな。呪いが……」
「呪いなんて、俺に移せばいい!」
叫びは掠れていた。ほとんど悲鳴に近い。顔が近い。荒い呼吸が頬に当たり、熱を帯びた息がかかる。瞳の奥で感情が抑えきれずに揺れている。
「俺を呼べよ!」
手首を掴む力がさらに強まる。骨がきしむ。逃げようと腰を捩るが、体重をかけられていて動かない。逃げる方向まで読まれている。
「……仁、落ち着け」
「珊來はっ……他所の宗派だ!」
言葉が噛みつくように飛んでくる。
「味方だとしても、師兄のことを何も知らない! 片燕のことも、知らないのに……! どうしてあいつを頼るんだ!」
声が上ずる。言いながら、自分でも理屈になっていないことは分かっている。それでも止まらない。床に伏せていた自分の代わりに、別の男が隣に立っていたという事実が、胸の奥に重く沈んでいる。
松季国での時間が脳裏をよぎる。知らない香の匂い。自分のいない場所で交わされた視線や言葉。想像したくもないのに、勝手に浮かぶ。胃の奥がきしむ。喉の奥に熱が溜まり、飲み込めない。
珊來は外の人間だ。
過去を共有していない。それなのに、兄弟子のすぐ隣に立っていた。
「師兄は、俺が、信用ならないのか……?」
押し出すような声だった。低く抑えているが、震えが隠しきれていない。
「違う!」
即答だった。間を置かない。迷いもない。
その速さが、逆に神経を逆撫でした。
「じゃあなんで俺を呼ばない!」
顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。次の瞬間、後頭部が床に打ちつけられ、鈍い音が響いた。
「……こっちにも事情があった」
「事情だって!?」
肩が大きく上下する。呼吸が荒い。
「俺は林琳の何!? 林琳が拾い上げた命で、同じ師の元で育った! ずっと……っ、師兄の背中見てここまで来たんだぞ!」
拳が床に叩きつけられる。板が軋み、振動が背中に伝わる。
「癖も、戦い方も、好き嫌いも知ってる! 師兄が無茶する時の目も、全部知ってる!」
「……仁、頼むから落ち着け。俺の話を聞いて」
「落ち着けるか!」
襟を掴まれ、体ごと揺さぶられる。視界がまた揺れる。
「俺が倒れてたからか? 使えなかったから、代わりを置いたのか!?」
「代わりじゃない!」
「じゃあなんだ!」
怒鳴り声が壁にぶつかって跳ね返る。逃げ場のない音が部屋にこもる。
「俺は弟弟子だろ! 一番近くにいる資格があるのはっ……俺だ!」
その言葉はもはや屁理屈だった。だが、握る手の力と、声の震え方はそれだけじゃない。掴んでいるのは襟のはずなのに、離せば何かがこぼれ落ちるとでもいうように、指先に無駄な力が入り続けていた。
「俺は……あの日から、ずっと……師兄の隣にいる人間だろ」
言葉の勢いがわずかに落ちる。掴んでいる力はそのままなのに、声だけがほんの少し揺れた。
林琳は視線を逸らしかける。だが、それを許さない。顎を掴まれ、強引に顔を上げさせられる。逃げ場がない。視線が正面からぶつかる。
「俺よりも珊來の方が強いからか……?」
吐き捨てるような声だった。唇の端がわずかに歪む。
「珊來が悪いわけじゃない。でも気に食わない。あいつが林琳の横に立つのが、腹立つ」
掴む手の力がわずかに強まる。布が引かれ、距離がさらに詰まる。呼吸がぶつかる。
「俺の居場所だろ、そこは」
その一言で、空気が止まる。音が消える。ほんの一拍、何も動かない時間が落ちた。
林琳の瞳が、わずかに揺れる。
「……大前提、なんでここで珊來の名前が出るんだ」
低く押さえた声だった。喉の奥で無理やり押し止めている。怒鳴れば崩れると分かっている声。
「答えになってない」
間を置かず返される。
「お前、可笑しいぞ」
「可笑しいのは林琳だ!」
襟を掴む手が強く引かれる。布がきしむ。身体が引き寄せられ、額がぶつかりそうな距離まで一気に詰まる。
「呪いなんて俺が背負えばいい!」
「ふざけるな!」
ほとんど反射だった。拳が振り抜かれる。鈍い音がして、仁の脇腹に衝撃が入る。息が詰まり、体がわずかに揺れた。
その一瞬を逃さない。林琳は体をひねり、位置を入れ替える。押し倒すようにして上を取り返し、そのまま胸倉を掴み上げる。布が引きつり、仁の体が床に押し付けられる。
「呪いを知らないお前が口答えするな!」
声が割れる。掴む手に力が入り、指先が震えている。怒りだけではない。押し込めていたものが滲んでいる。
「師兄が口を閉ざすから、何も知らないままだ!」
返ってくる声も荒い。呼吸がぶつかり合う。互いの息が近い。
「口を閉ざす理由があると考えられないのか、この愚か者が!」
叩きつけるような声だった。言葉の奥に、切迫が混じる。
仁の目がわずかに揺れる。
「……師兄は、隠し事ばかりだ」
低く、掠れた声。それでも視線は外さない。
「そうだ」
林琳は短く返す。そのまま、乾いた笑いを喉で転がす。
「こんなに一緒にいたのに……今になってわかったの?」
胸に手を当てて押す。押し返すつもりで力を込める。だが、距離はほとんど変わらない。仁の手はまだ衣を掴んだまま離れていない。
「俺は嘘吐きで、師匠を欺いて――」
言葉を途中で切る。わざと区切る。呼吸一つ分の間が、やけに長く伸びる。
「お前たちを捨てた」
静かな声だった。抑えすぎて、逆に冷えている。
「それが俺だ」
肩を軽くすくめる。わざとらしいほどの軽さで。
「そんなこと言うな!」
仁の声が一気に上がる。掴んでいた胸倉をさらに引き寄せる。布が悲鳴のようにきしむ。
「そんなこと、絶対にっ……言うな!」
声が震えている。怒りだけではない。押し殺しきれない感情が混じる。
「俺は……」
言葉が続かない。喉で止まる。奥歯を強く噛み、睨みつける。
「一度もそんなことっ……思ってない!」
吐き出す。息が荒い。肩が上下している。それでも視線は逸らさない。掴んでいる手も、緩まないままだった。
「俺は師兄のためならなんだってやるのに」
一歩踏み込む。胸がぶつかるほどの距離。
「……俺じゃ駄目なのか」
真正面からぶつかる視線。逃げ場はない。
「俺は……師兄の一番でいたいだけだ」
声が、ほんの少しだけ震えた。武門の弟子らしく荒い。だがその奥にあるのは、剥き出しの感情だ。兄を失いたくない子供のような、けれどそれを認められない男の顔。
林琳は息を呑む。
名を呼ぼうとした瞬間、仁の涙が床へ落ちた。縋るように握られた手はまだ熱く、鼓動が速い。抱え込んでいるものの重さが、触れずとも伝わる。
「俺は……師匠と誓いを立てた」
林琳は天井を見上げ、目を閉じる。梁の影が揺れる。石床の冷たさ。血の匂い。あの日の記憶が喉の奥に引っかかる。
「だから、珊來とは何もない。何も、起きるはずがないんだ」
それ以上は言えない。誓約は絶対だ。破れば舌が裂け、命を落とす。
「言ったでしょ。俺は……誰も愛さないって」
わずかな沈黙。
そして、予想通りの返答。
「つまり誓いがなかったら、珊來と何か起きるって言ってるんだろ」
一瞬、空気が凍る。
「あぁ!? この屁理屈馬鹿が……!」
堪えきれず、林琳の中で何かが切れた。仁の胸倉を引き寄せ、次は力任せに壁に叩きつけた。
「確かに珊來には助けられてる。でもそれは、俺に心力がないからだ!」
怒鳴りながらも、声は掠れていく。
「使えるものを使って何が悪い!? お前にはわからないだろうな! 心力も使えず、抗う力もない! その上、ろくに眠れもしない!」
呪いのせいで通心にも入れない。心力は底をつき、術は形を成さず、夜は浅く千切れる。目を閉じても、休まらない。
「今の俺は、くそみたいに無力だ! 何の力もない! 昔みたいに塵同然だって自覚するんだよ!」
喉が焼ける。肺が痛い。
「弱者は真っ先に刈り取られる! 俺は弱者で、俺以外は強者だ!」
言い終えた瞬間、部屋がやけに静かになる。自分の呼吸だけが耳に残る。
林琳は、熱の抜けた瞳で仁を見上げた。
「……そのぐらい、わかれよ、馬鹿」
掴んでいた手を放す。温もりが、すっと離れる。仁が咄嗟に腕を伸ばす。
だが振り払われた。
「俺に、二度と触れるな」
低く、はっきりと、怒りではない。線を引く声。
「……師兄、ごめん」
「もういい。俺も呪いのことを黙っていたし、事の発端は俺だ。全部水に流す」
「師兄……!」
「仁、もう一度言う。二度と俺に触れるな」
仁はようやく、自分の嫉妬が決定的な線を引いたと悟る。しかし手を伸ばすこともできない。伸ばせば、拒絶が確定するとわかっている。
「嫌いになったとか、嫌になったとか……そういうのじゃない。俺の身体には呪いが染み付いてる。他の仕人にどんな影響を及ぼすか、俺にもわからないから。だから変に考えないで。……わかった?」
林琳の声は低く、突き放すように聞こえる。だがその奥には、わずかな疲労が滲んでいた。長い夜のやり取りと、抑えきれぬ感情の痕跡が、声の端々に残っている。
「……はい」
仁は小さく返事をするしかなかった。納得したわけではない。ただ、今は飲み込むしかない。
さきほどまで絡み合っていた空気の輪郭は、今やはっきりと二つに分かれ、静かに隔てられている。その距離が、今の二人の間に引かれた境界だった。
ぱたん——。戸が閉まる音が、部屋の静寂を引き締める。
仁はその場に立ち竦んだ。心臓がどくりと跳ねる。
——嗚呼、やってしまった。
翌朝になっても、後悔の感情が頭の中をぐるぐると回った。
仁は部屋を出ることもできず、手を伸ばしては引っ込めるを繰り返す。
師兄は怒っているだろうか。呆れてしまっただろうか。
口を聞いてもらえないかもしれない——そんな想像をしているうちに、部屋の外に踏み出す勇気はますます薄れていった。
——ガタッ。
「ちょっと、仁。そこで何してるの? 早く行かないと店が閉まるよ」
戸の向こうから、ひょっこりと林琳の顔が覗く。
驚いて、仁の肩がびくついた。
昨夜のような冷たい空気はもうない。いつも通りの林琳だ。
「お互いに、いい大人なんだから、いつまでも引きずっている方が馬鹿馬鹿しい」
自然な口調に、仁は小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ和らぐ。
しかし、その半面で彼にとってはその程度の出来事だったのだと悔しさも滲む。
「それに……」
「……?」
林琳は知らず知らずのうちに、無力な自分自身に苛立ちを募らせていたのだろう。押し込んだ感情に押し潰されそうになり、どうにもできずにいた。だが仁の存在が、その蓋をそっと開けた。
「生まれて初めてあんなに怒鳴った……疲れるから、もう二度とやらない」
ぶつぶつと文句を言いながらも、顔には明るさが残る。
「心脈が乱れて鈍くなっているはずなのに……お前、人を怒らせる天才じゃないか?」
自分でもここまで感情が爆発するとは思わなかったらしい。
「よく師匠が俺たち怒鳴ってたけど、こんなに疲れるなんて……よくやるよな。昨夜何を口走ったか覚えてない」
勢いに任せて口から飛び出した言葉だ。本人も、少し呆れた様子だ。
抑え込んできた感情ほど、恐ろしいものはない。
林琳はそれを、誰よりもよく知っている。
自分の感情に振り回されるのが嫌いだった。胸の奥から湧き上がる衝動や怒りに身を任せれば、判断は鈍り、視界は狭くなる。そうして取り返しのつかない選択をする人間を、林琳はこれまで何人も見てきた。
だが、それ以上に嫌だったのは――他人の感情に振り回されることだ。
怒り、嫉妬、悲嘆、執着。そうしたものに巻き込まれると、ひどく疲れる。
だから林琳は、ずっと同じやり方で生きてきた。
湧き上がる感情を一度押さえつけ、距離を置いて観察する。なぜそう感じたのか、どこから生まれたのかを静かに分析する。そして、結論を出す。必要のない感情だと判断すれば、そこで切り捨てる。
そうしていれば、感情というものの輪郭が見えてくる。
理解できれば、振り回されることはない。
それが美徳だとは思っていない。
ただ――その方が、生きやすかっただけだ。
むかつくこともある。
腹を立てることもある。
恨むこともある。
気にかけることもある。
哀れだと思うこともある。
人並みに、そうした感情は湧いてくる。
だが林琳は、それらをすべて制御できた。
いったん心の外に置き、時の流れの中に沈める。しばらく放っておけば、角は丸くなり、やがて鈍くなる。
そうして最後には――“なかったこと”にできる。
だからこそ、昨夜の騒動は林琳自身を驚かせた。
思い出すだけで、胸の奥で何かがまだ微かに燻っているのを、はっきりと自覚していた。いつもなら、とっくに整理して、どこかにしまい込んでいるはずの感情だった。
林琳は小さく息を吐く。
「どっと疲れた」
肩を回しながら、冗談めかしてぼやく。
「お前がいると、昔から忙しくて休んだ気にならない」
文句のように聞こえる言葉だったが、その声色はどこか柔らかい。
言葉の端には、長い付き合いの中で滲んだ、わずかな優しさが残っていた。
「昨日は本当にごめん」
「もういいって。変に静かなお前の方が不気味。落ち着かないよ」
通行人が立ち聞きすれば、ただの痴話喧嘩にしか見えないだろう。
「あのさ、師兄。少し話さない?」
仁がしおらしく言った。林琳は首を傾げる。
「昨日あれだけ言い争ったのに、まだ足りないの?」
「ち、違う! ちょっと自分の中で色々整理して……」
「ふうん」
冷たく突き放していたが、林琳は仁の横を通り、寝台に腰を下ろす。
拒絶されなかったことで、仁もほっと息を吐き、隣に座った。
「俺、師兄を襲った人間を知ってる」
「は? どこで?」
林琳は思わず身体を乗り出す。眉を寄せ、視線を鋭く仁に向けた。呼吸が一瞬止まるような緊張感が、二人の間に流れる。
「ここに来る前に、冽と夢天理の拠点に行ったんだ。羅曉の一人、縛玄……書を狙っている」
仁の声は落ち着いている。冷静な声色に隠れる緊迫感が、言葉の重みを際立たせていた。
「お前……夢天理の拠点に足を踏み入れたのか!? あれだけ関わるなと言ったはずだよね!?」
林琳の声には怒気が混じる。瞳は大きく見開かれ、胸の奥で血がざわつくような焦燥を覚える。声を張り上げながらも、理性を保とうと必死だった。
「お説教はなし。するなら俺ももっと問い詰める」
仁の言葉は鋭く、林琳の怒りを封じる力を持っていた。確信が込められ、余計な言葉を許さない雰囲気が漂う。
「……っ」
何か言おうと口を開くが、言葉が喉に詰まったまま、僅かに唇が震える。
「夢天理の狙いは魂の管理だ。主が消えた今、輪廻の乱れを制御しようとする者がいる」
仁の声は淡々としているが、夜の静寂に響く。言葉の端々に、危機の気配がほのかに漂う。
「魂の管理か……なるほど。それなら……奴らは竹林の領域の存在を知っているかも知れないね。あそこは行き場のない魂が流れ着く場所だから、真っ先に手を出すはずだ」
林琳は視線を落とす。己の言葉の意味を反芻するたび、背筋に冷たい緊張が走った。
「でも、俺とお前以外は立ち入れない。俺は一度もお前以外の人間を見たことがないからね。領域に関しては、考えるだけ杞憂だ」
「林琳はどうやって領域にたどり着いたんだ?」
仁の問いには、無意識に手が拳に握りしめられる。胸の奥がざわつき、心拍がわずかに早まる。
「……偶然だ。本当に、偶然だったんだよ」
遠い記憶を手繰り寄せるように、林琳は静かに語り出した。その声音は落ち着いているのに、瞳の奥には消しきれない微かな揺らぎが残っている。過去をなぞるたびに、どこかで引っかかるものがあるようだった。
「林琳。本当は……あの日より前に領域のことを知ってた?」
仁はそのわずかな揺らぎを見逃さない。問いかけは平坦だが、視線は鋭く、逃げ場を与えない。
「……嗚呼、領域自体のことは知ってたよ」
一瞬の間の後、林琳は小さく息を吐き、言葉を選ぶように続ける。
「訂正する。偶然辿り着いたのは、領域の存在自体のことで、領域の扉を開いたのは俺の意思だ。俺が自らの手で開いた」
淡々とした口調のまま語られる事実。その裏で、ひとつの嘘が静かに剥がれ落ちる。観念したような響きが、わずかに混じっていた。
「縛玄のこと、師匠に報告は?」
仁は間髪入れずに踏み込む。問いは短く、だが確実に核心を突いていた。
「してない」
即答だった。
「なぜ?」
さらに重ねられる問いに、林琳はほんのわずかに視線を逸らす。
「……朱禍が近くにいるだろ」
その答えは曖昧で、説明としては足りない宗主と朱禍の関係を知る者は多い――だが、その距離感や本質までは共有されていない。それでも長い付き合いだ。仁の警戒がどこから来ているのか、林琳には完全には理解できなかった。
「縛玄がさっさと死ねば全部解決なんだけど……。そうだ、あいつの居場所を知らないか今ここで伝えて」
苛立ちを隠さない声音。言葉は軽いが、その奥にある圧は強い。逃げ道を塞ぐように、視線が林琳を捉え続ける。
仁は眉をひそめながらも、渋々朱禍へ通心を繋いだ。指先にわずかに力がこもり、その緊張がそのまま体へと伝わる。呼吸が浅くなり、ほんの一瞬、躊躇がよぎる。
程なくして応答があった。仁は頭の中で言葉を組み立てながら、縛玄の存在を伝える。余計な感情は削ぎ落とし、事実だけを並べるように。
返ってきたのは、意外なほど簡潔な反応だった。朱禍は言い訳をすることもなく、ただ静かに謝意を示した。そのあまりにあっさりとした応答が、かえって重い余韻を残す。
<<……まさか君たちじゃなくて、林琳に接触するとは。迂闊だったな>>
頭の奥に直接響く声に、仁はわずかに眉をひそめた。鼓膜を通さないはずのそれが、妙に生々しく残る。
縛玄と関係があるのかと問い返せば、間を置かず否定が返る。
<<私と彼はあくまで同じ夢天理にいただけで、接触はない。それに縛玄が呪いを扱うなんて初耳だ>>
その言葉を受け止めながら、仁の胸の奥で、わずかに何かが引っかかった。完全に否定しきれない違和感が、静かに沈殿していく。
それでも問いを重ねる。方位計が縛玄を指した理由を、曖昧なままにはできなかった。
<<それは……縛玄が書を求めて行動していると聞いたからだ。彼は執着心が深く、度々夢天理でも問題視されていた。実際、役に立っただろう?>>
説明は通っている。だが、どこか決定打に欠ける。言葉の端がわずかにぼやけているようで、確信に届かない。
その曖昧さが、逆に不安を刺激した。
<<とにかく、先に呪いを解いた方がいい。君以外に優秀な仕人は……そうだ、蒼羽の珊來がいるんじゃないか? 彼なら縛玄の呪いを打ち消せると思うよ>>
その名が出た瞬間、仁の胸がわずかに強張る。無意識のうちに、肩に力が入った。
<<嗚呼、変なことを考えないでくれよ。いいかい、君は駄目だ。絶対に>>
やけに強い否定だった。軽く流すような口調のくせに、そこだけが妙に硬い。
仁は言葉を返さないまま、わずかに視線を落とす。
<<林琳の身の安全を考えるなら、縛玄の死よりも珊來に頼む方が手っ取り早い。それに安全だ。……まぁ、あの子が珊來に呪いを解くようお願いするとは思えないけれどね>>
その一言を最後に、通心はふっと途切れた。余韻だけが頭の奥に残り、しばらく消えない。
沈黙のまま、二人は自然と接続を閉じた。
「……で、どう?」
間を置かずに問われ、仁は意識を引き戻す。
「……あっちで居場所を突き止めるってさ」
「口だけな気がするけどね」
林琳は興味があるのかないのか分からない調子で応じ、そのままお茶菓子を口に運んだ。指先の動きも、噛む速度も、いつもと変わらない。
――変わらないはずなのに。
仁の目には、どこか無理に整えているようにも見えた。
「朱禍は呪術を解けないのか?」
「それも考えたけど……癪に触るから無理。心理的に無理」
あっさりとした拒絶に、仁は小さく息を吐く。胸の奥で固まっていたものが、ほんのわずかだけ緩む。
「そうか、それならいい」
口に出した言葉は軽い。だが内心では、別の感情が静かに動いていた。
信用が揺らいだわけではない。
片燕が崩れかけたとき、宗主を支えたのは朱禍だった。その事実は消えない。どれだけ違和感があっても、それを否定する理由にはならない。
――従うしかない。
そう結論づけながらも、冽の言葉と、先ほどの会話の端々が、頭の隅に残り続ける。
「ねぇ、仁」
「ん?」
「もし珊來が呪術のことを知ったら、どうすると思う? 良くて懲罰、最悪死刑って感じかな」
さらりと口にされた言葉に、仁は即座に顔をしかめた。
「その考え方やめろって」
「はいはい……でも、珊來に頼むことになった暁には、呪術のことも多少教えなきゃならない」
林琳は指先で菓子の欠片を払う。仕草は何気ないが、その視線はわずかに落ちていた。
「禁忌とされるものを、あんな……絵に描いたような善人に触れさせていいとは思えない。いや、違うな。扇葉九が恐ろしすぎる」
ぽつりと零し、わずかに眉を寄せる。
「そう考えると自然と縛玄を殺す方になるんだよなぁ……」
軽く言っているようで、その選択は軽くない。言葉の裏にある重さを、仁は理解していた。
胸の奥に、じわりとした緊張が広がる。
「あのさ、話を戻すんだけど……」
ふと林琳が顔を上げる。沈みかけていた思考を、意図的に引き戻すように。
「お前、あの領域にどうやって入ったの?」
視線がまっすぐ向けられる。
「偶然見つけた俺とは違うでしょ。意図的に見つけることが出来たのか……気になって」
言葉が続くにつれて、ほんのわずかに口元が固くなる。
「まぁ、師匠から胸糞悪い話は聞いてるけど……確信が持てない」
そこで一拍置く。
逃がさないように、視線だけは外さないまま。
「ねぇ、まさか、領域に行くたびに馬鹿なことしてたの?」
問いは軽く聞こえる。だが、その奥にあるものは軽くない。
仁は小さく息をついた。
視線の端で林琳の表情を追う。わずかに寄った眉。引き結ばれた口元。無意識に出ている緊張。
――あぁ、やっぱり。
気づいている。完全じゃなくても、もう勘づいている。
仁は一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「あー……師匠から聞いたんだな」
仁が気まずそうに頭の後ろを掻くと、林琳は間を置かずに頷いた。
「うん。一発殴りたい気分だけど、ぼこぼこにしそうだから辞めとく」
あっさりとした口調だったが、声音の奥には妙に現実味があって、仁は反射的に肩をすくめる。冗談に聞こえない。むしろ、実際にやりかねないとわかる分だけ質が悪い。
「こっわ……」
小さく身を引きながらも、視線は逸らさない。距離を測るように、林琳の様子を窺う。
「で、どうやって領域に?」
短く落とされた問いは、逃げ道を許さない。
仁は一度息を吐き、言葉を選ぶように視線を落とした。
「一回目は……ほんと、気が動転しててさ。ほとんど覚えてない」
記憶を掘り起こすように、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「二回目以降は、夢……みたいな感じで。何日も眠ることがあった。師匠は、魂の修復に身体が引っ張られてるって言ってたな。師兄と同じで」
静かな声だったが、その内容は重い。部屋の中に落ちる影が、わずかに揺れる。
「その時に、あそこに来てたのか」
林琳は視線を合わせないまま問う。
仁は小さく頷き、遠くを見るように目を細めた。
「夢だけど、夢じゃない。……そんな感じだな」
曖昧な言葉をそのまま吐き出す。
「最初は夢だと思ってた。でも妙に現実味があって、師兄とも普通に話せてたから……しばらくは、何が起きてるのか分からなかった」
言いながら、あの感覚をなぞる。現実と地続きのようで、どこか決定的に違う場所。
「お前……それ、仮死状態と同じだと思うよ」
低く落とされた一言に、空気が一瞬だけ沈む。仁の肩がわずかに強ばった。
「えぇ……今更そんな怖いこと言うなって」
軽口で返すが、声の端に引っかかりが残る。
「あそこは、行き場のなくなった魂が流れ着く場所だ」
林琳は淡々と続ける。感情を乗せない分だけ、言葉が重く沈む。
「仮死状態だから、お前は領域に存在できた。……あー、そうか」
そこで、わずかに息を吐いた。胸の奥に残っていた違和感が、ようやく形を持って落ちていく。
「はぁ……漸く一つ、繋がった」
安堵と同時に、苛立ちが滲む。
「この馬鹿野郎、考えれば考えるほど大馬鹿野郎だな」
吐き捨てる。だが本気で怒鳴るほどの熱はない。むしろ、取り返しがつく範囲に収まっていたことへの、微かな緩みが混じっていた。
「師兄が逃げ込まなきゃ、そうはならなかった」
即座に返された言葉に、林琳の呼吸が一瞬だけ止まる。
胸の奥を、鋭く突かれたような感覚。
「何。俺のせいだって言うの?」
軽く返したつもりだった。だが声の奥がわずかに硬い。
「そうだろ」
迷いのない肯定。仁は腕を組んだまま、わずかに不満げに眉を寄せる。逃げない。だが、責めすぎもしない。その距離感が、逆に逃げ場を奪う。
「じゃあ、俺からも聞くけど」
間を置かず、言葉を重ねる。
「師兄、朱禍とよく任務に行ってたよな? なんで二人だけ別だったんだ?」
話題を変えたようでいて、核心は外していない。林琳は一瞬だけ黙り、それからゆっくりと手を組んだ。指先を重ね、思考を整えるように視線を床へ落とす。
「……朱禍が持ってくる任務は、厄介なのが多くて」
穏やかな声で、事実だけを並べる。
「効率よく片付けないと終わらない。俺の心力は攻撃性だから、都合がいいんだよ。誰かに合わせる手間がない」
正しい説明。
だが、それだけではないことは互いにわかっている。
「一件だけじゃなかったってことか」
仁が少しだけ身を乗り出す。
「そう。あっち行って、こっち行って……」
林琳は肩を軽くすくめた。
「まあ、その分、報酬は良かったけどね」
軽く言う。だが、その裏にある時間や負担には触れない。
「山雫国に拠点を構えてから、お前に質素な生活はさせなかったでしょ?」
ふと視線を上げる。それは確認にも似た問いだった。
「その節はどうもありがとうございました!」
仁が大袈裟に頭を下げる。芝居がかっているが、完全な冗談でもない。林琳はそれを咎めず、ただ静かに目を細めた。食わせる。学ばせる。必要なものは揃える。足りなければ、稼ぐ。
それだけのことだ。
――だが、それは自分のやり方ではない。
ふと、記憶の底から声が浮かぶ。
初めて出会った、まともな大人の言葉。
待つな。取りに行け。
貧しさを理由にするな。
好きに生きろ。ただし、人の道は外れるな。
その言葉は、今も形を変えず胸に残っている。
林琳は、それをなぞっているだけだ。
仁は腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
軽口も挟まず、ただ林琳の横顔を見ている。
その沈黙のあとで、ぽつりと落とす。
「師兄は、片燕の大黒柱だな」
からかう調子ではなかった。
軽い冗談に紛らせる気配もなく、言葉の端には素直な感心が滲んでいる。長く一緒にいたからこそ分かる重みを、そのまま口に出したような声だった。
林琳は肩を揺らして苦笑する。
「ま、報酬はついでだよ」
卓に置いた指先で、木目を軽く叩く。乾いた音が小さく続き、無意識に動かしているのが分かる。
「朱禍の仕入れてくる仕事は、表には回らないものばかりでね。妙な事件とか、面倒な依頼とか……そういうのが多いんだ」
思い返すように視線を少し上げ、林琳はわずかに口元を緩めた。
あの頃の移動の多さや、夜通しの調査、面倒な現場の空気まで、まとめて思い出している顔だ。
「でも、その方が面白いだろ?」
声は軽いが、どこか懐かしむ響きが混じっている。危険も手間も多かったはずなのに、それでも嫌いではなかった時間の匂いがある。
仁は小さく鼻で笑った。
「……二人で任務をこなしていた時、朱禍は夢天理にいた頃の話はした?」
その問いは、軽く投げたようでいて、狙いは外していない。
林琳は一瞬だけ考え、それから肩を小さくすくめた。
「当たり障りのない話ぐらいだよ。それこそ、俺がお前たちに言ってたぐらいの簡単な話だけだ」
言いながら、視線を横に流す。
「あいつが夢天理で何してたかなんて、俺は知らない。でも縛玄が朱禍と何かあったのは確かだ」
そこで、ふと思い出したように顔をしかめる。
「そうだ、あの野郎、憂さ晴らしで俺を刺したんだぞ!」
声が一段強くなる。
言葉に合わせて拳に力が入り、指の関節がわずかに軋む。
「夢天理の人間は揃って俺を刺すのが好きみたいだ!」
半ば本気の苛立ちが混じっていた。思い出すだけで、背中に残っている鈍い痛みまで蘇るような顔をしている。
「挙句の果てに呪いなんてかけやがって……」
低く吐き捨てる声。
そのまま、ゆっくりと言葉を重ねる。
「あいつを殺して呪いを解く。絶対に、殺す。魂ごと、潰す」
静かな断言だった。怒鳴っているわけでもないのに、言葉の重さだけが沈んでいく。
「まあまあ、落ち着いて……」
仁は肩越しに少しだけ笑った。
林琳の口からぽつぽつ零れる呪詛混じりの言葉を聞きながら、危うく笑いがこみ上げるのを堪えている。慣れている、という顔だった。
「おーい、そろそろ降りておいで」
外から珊來の声が響く。階下のざわめきに紛れながらも、不思議とよく通る声で、意識を引き上げるように耳に残った。
下へ降りると、すでに机にはいくつもの料理が並んでいた。湯気を立てる皿、油の香りをまとった焼き物、彩りの違う小鉢が隙間なく置かれ、冽と珊來が先に注文を済ませていたのだとわかる。客の笑い声や食器の触れ合う音が重なり、穏やかな賑わいが広がっているのに、その中に踏み込んだ瞬間、林琳の内側に残っている熱だけが妙に浮いているようだった。
林琳は軽く首を回し、凝った肩を解すように息を吐くと、そのまま仁と並んで席へ向かう。歩幅はいつもと変わらないのに、どこか落ち着ききらない気配が残っている。
「どうやったら縛玄を遠距離でも殺せると思う?」
腰を下ろすなり、間も置かずに落とされた言葉は、周囲の空気から明らかに逸れていた。林琳は眉を寄せたまま箸を手に取り、机の上を軽く叩くように指を動かす。その癖は、思考が内側で渦を巻いているときに無意識に出るものだ。
「居場所を知ったところですぐには向かえないでしょ。それだと俺の鬱憤が晴れない気がするんだけど」
軽く言っているつもりでも、言葉の底に沈んでいるのは苛立ちと焦燥で、抑え込んでも滲み出てくる種類のものだった。大きな木が作る木陰が卓の上に柔らかく落ちているのに、その下にいる四人の間だけ、わずかに温度が違う。
「おい、一般客もいるここで物騒なことを口にするな。ただでさえまとまりのない構成だというのに……」
冽が眉間に皺を寄せ、低く抑える。声音は静かだが、言葉の端には呆れと牽制が混じっていた。
珊來は盃に残った酒を静かに注ぎ足し、そのまま卓に戻す。仕草はいつも通り穏やかだが、視線は林琳を外さず、わずかに警告の色を含んでいる。
「林琳の言い方的に、呪いは術者が死亡すれば自然と解けるってことだね」
「んー……まぁ……」
曖昧に頷きながら、林琳は水餃子を摘み上げる。湯気の向こうで目を細めた瞬間、瞳の奥に一瞬だけ鋭さが走った。
「そうだね。それが一番手っ取り早いと思ってる。それに、向こうが仕掛けてきた戦いだ。こっちだって黙ってはいられない」
淡々とした言い方のまま、殺意だけが言葉の奥に残る。背後の灯りが横顔を照らし、その影がわずかに揺れた。
「勝ち目はあるのかい?」
「なきゃ困る。何が何でも俺の手で殺る」
言い切ると同時に、水餃子を二つまとめて口に放り込み、ほとんど噛まずに酒で流し込む。味わうというより、押し込むような食べ方だった。
「はいはい。ほら、酒ばかり飲んでないで山菜も食べろ」
横から差し出された皿には、あえて避けていた山菜が山のように盛られている。林琳は一瞬だけ視線を落とし、それから観念したように箸を伸ばしていくつか摘み、無言で口に運ぶと、残りをそのまま冽の前へ滑らせた。
「……一番弟子、お前、その歳で介護されるのは早いんじゃないか」
「小食なだけ」
間髪入れずに返し、肩を軽くすくめる。
「冽こそしっかり食べた方がいい。言っとくけど、今の俺、本当になにもできないからね。剣はあるけど、心力がないからただの一般人と同じだよ」
軽く笑うように言いながら、その実、言葉は事実をそのまま置いているだけだった。誤魔化しも強がりもない分、余計に重い。仁はその横顔を見たまま、何も言わずに一瞬だけ呼吸を浅くする。昨夜のやり取りが、完全に消えたわけではないとわかる距離だった。
「死んだ人間が生き返るなんて、物騒な世の中だ」
「本当に。人を逸脱しすぎている」
冽と珊來が視線を交わす。短い応答の中に、明確な警戒と嫌悪が沈んでいる。
「俺からしてみれば……今まで表沙汰にならなかったのが不思議だよ」
林琳は器を置き、視線を宙へと泳がせる。考えるというより、過去をなぞるような間だった。
「主がこの世界を捨てて数千年は経ってる。歴史は曖昧で、空想で語られてることも多いし、でたらめな文献だって残ってる。それでも、人間の本質は変わらない。死者を蘇らせたいって願うやつは、どの時代にもいたはずだ」
指先が器の縁をなぞる。その動きに合わせて、言葉が静かに落ちていく。
「単純に、“誰か”がそれを防いでいたか……それとも、長い時間をかけて計画を続けてる組織があったか。そのどっちかだ」
「……つまり、夢天理だと?」
「そう」
迷いのない即答だった。
「墟狼衆もその一部。本質を隠したまま研究させてれば、誰も気づかない。調べてる側は怪奇を追ってるつもりでも、それが人に害を及ぼすものだなんて思わないからね」
淡々とした口調のまま、言葉の奥にだけ怒りが残る。冽の口元がわずかに引き締まった。
「二人が祇双国について共有しておきたい情報は?」
珊來が流れを切らないように問いを差し込む。空気の重さを見極めた、自然な切り替えだった。
「あの国はほとんど自国の産業で資金を賄っている。劉鳴国と並ぶ金持ち国家だ」
冽が短く答える。
「俺もその程度だな。あとは国王が冷徹、とか……誰でも知ってる話ぐらいだ。寧ろそっちは?」
仁が肩をすくめると、珊來と林琳は一瞬だけ視線を交わし、同時に首を振った。
「松季国も祇双国とは交流がない」
「俺たちなんてもっての外。松季国との交流も……ここ最近だからね」
「つまり、戸を叩いても門前払いの可能性があるな。……正統手段がなさすぎる」
冽の溜息とともに、会話が一度落ちる。食器の音と遠くのざわめきだけが残り、卓の上に静かな間が広がった。
「まずは行ってみてからだ」
冽が顔を上げる。その声音には揺らぎがない。
「国王に会えるかは別として、祇双国への出入りは自由だ。産業が発達している分、観光客も多い。紛れ込むのは難しくない」
肩越しに、わずかに笑みが浮かぶ。
「おや、お前さんら、祇双国に行くのかい?」
不意に背後からかけられた声に、四人の視線が揃ってわずかに動いた。食事を終えたらしい老婆が、皺だらけの手を卓に添えながら冽の方を見上げている。腰は深く曲がり、身体は小さく縮こまっているのに、その声だけは妙に柔らかく、場のざわめきの中でも不思議と耳に残った。
「ちょっと、おばあちゃん。行くよ」
すぐさま若い娘が肩を支え、半ば引くように促す。冽も軽く手を上げて応じるが、その仕草には深入りを避けるような気配があった。
「祇双国についてご存知なんですか?」
仁だけは躊躇わなかった。椅子を引く音もそこそこに立ち上がり、そのまま老婆のもとへ歩み寄る。昨夜のことなどなかったかのように見えて、情報となれば迷いがない。その眼差しには、わずかな焦りと警戒が混じっていた。
「おばあちゃん!」
娘の声が一段強くなる。止めようとする焦燥が、そのまま滲んでいた。
「年の離れた弟がの……祇双国で、からくりの職人をしておるのじゃ」
老婆はそれに構わず、ゆっくりと口を開く。言葉は途切れがちで、どこか夢をなぞるように曖昧なのに、語られる情だけはやけに生々しい。
「便りひとつ寄越さず……元気にしておるか、気がかりでのぅ……」
小さく笑う。その笑みは穏やかなのに、どこか空を掴んでいるように不確かだった。足元に落ちる影もまた、妙に頼りない。
「足も悪くての……河を越えても、山を登り切れぬ」
その言葉に、仁の足がわずかに止まる。頼まれごとの気配。だが同時に、胸の奥で微かな違和感が引っかかった。
「祇双国に行くのであれば、頼まれてくれんか」
「……?」
仁が眉を寄せる。自然と背筋に力が入る。
「東の婆と言えば、伝わるであろう。弟の名は――」
「やめてよ、おばあちゃん!」
娘の声が、鋭く割り込んだ。先ほどまでの遠慮はなく、ほとんど怒鳴るような響きだった。
「あの人は、とっくの昔に死んだのよ!」
空気が、一瞬で冷える。
老婆の言葉は途中で切れ、そのまま宙に置き去りにされた。だが本人だけは、その事実に触れていないかのように、ただぼんやりと立ち尽くしている。
「ごめんなさい……この人、病気で、記憶が退行してるの」
娘は頭を下げる。その声音には苛立ちと疲労が混ざり合っていて、何度も同じやり取りを繰り返してきたことが、嫌でも伝わってくる。
死んだ人間を、生きていると信じ続ける側と、死を受け入れてしまった側。
その間に横たわるものは、時間でも理屈でも埋まらない。
林琳はそれを見ながら、何も言わずに酒を口に運んだ。喉を通る熱がやけに強く感じられる。視線を落としたまま、わずかに口元に影が差した。
「おばあちゃん、ほら。行くわよ」
娘が半ば引きずるように背を向けさせる。そのとき、ふと覗いた老婆の瞳は白く濁っていた。焦点が合っているのかすらわからない。年齢だけでは説明のつかない、どこか“抜け落ちた”ような空虚さがあった。
その背中が人混みに紛れていくのを見送りながら、誰もすぐには口を開かなかった。
「……違うな」
沈黙を破ったのは珊來だった。声は低く、しかしはっきりとしている。
「あれは病気じゃない。恐らく……怪奇の後遺症だろう」
視線はまだ二人の消えた方向に向いたまま、僅かに細められている。
「瞳の奥に靄がある。かなり薄いが……あのまま放っておけば、記憶だけじゃなくて、いずれ中身ごと抜け落ちる」
言葉は静かだが、その内容は重い。
「……空っぽの人間になるかもしれない」
一拍の間。風が卓上の皿をわずかに揺らす。
「ごめん。少し話をしてきてもいいかな」
返事を待つより早く、珊來は立ち上がっていた。足取りに迷いはない。そのまま娘の後を追って人混みの中へ消えていく。
残された三人の間に、また静かな間が落ちる。
「嫌になるぐらいお人好しだな」
冽が鼻で笑う。だがその声音には、呆れと同時に、わずかな諦めのようなものが混じっていた。
「あんなに他人に手を差し伸べて、疲れないのか」
「……師兄がそれ言う?」
仁がぼそりと返す。視線はまだ人混みの奥を追っていた。
冽は一瞬だけ口を閉じ、それから小さく肩をすくめる。
二人はほぼ同時に盃を手に取り、何でもないように酒を口に運ぶ。
だが、その喉の奥に落ちていくものは、先ほどまでとは少しだけ味が違っていた。
「そうだ。林琳、手を。心脈を診てやる」
冽に呼ばれ、林琳は一瞬だけ視線を上げたが、拒む理由もないと判断したのか、そのまま素直に右手を差し出した。冽の指先が手首に触れる。軽く置いただけのはずなのに、その接触は妙に深く、皮膚の下を探られているような感覚がじわりと広がった。脈を拾うために位置を探る指が、わずかに滑る。
「……お前、よく生きてるな」
何気なく落とされた言葉だったが、指先の動きは止まっていない。むしろ確かめるように、わずかに圧が強くなる。
「千咲国の医者にも同じこと言われた。そんなに酷い?」
林琳は肩をすくめて返す。軽く言ったつもりだったが、冽は視線も上げずに低く吐き捨てた。
「酷いって話じゃない」
そのまま指をずらし、別の脈を取る。触れている時間が長くなるにつれて、表情がわずかに険しくなった。
「一本の紐が滅茶苦茶に絡んで固まってる。結び目が何重にも重なって、どこから解けばいいのかもわからない状態だ。引けば引くほど締まる」
例え話の形を取っているが、内容はそのまま現状だった。
「無理に引っ張れば――そのまま心脈が死ぬ」
言い切った瞬間、指先が止まる。ほんの短い沈黙が落ちた。
「……ああ、なるほど」
林琳はわずかに視線を外し、息を吐いた。納得した、というよりは、既に体で知っていたことに言葉が追いついたような反応だった。
「無理に心力を使うと目が回るの、そういうことか。視界も歪むし」
「馬鹿め!」
反射のように冽の声が跳ね上がる。そのまま手首を掴み直し、引き寄せる勢いで睨みつけた。
「そんな状態で無理に使えばどうなるか、少しは考えろ。本当に終わるぞ。取り返しがつかなくなる」
掴む指に力が入る。怒鳴っているが、怒りというより焦りに近い。
「あーはいはい、もうしないよ」
林琳は適当に頷く。視線も合わせない。その軽さに、冽の眉間の皺がさらに深くなるが、やがて小さく舌打ちをして手を離した。離れた瞬間、触れていた部分だけ妙に温度が残る。
「……墟狼衆は怪奇の研究をしてるよね?」
間を繋ぐように仁が口を開く。先ほどのやり取りを完全に無視はしていないが、深く踏み込むつもりもない声音だった。
「呪いの研究とかはなかったの?」
「ない」
即答だった。冽は盃に指を掛けたまま、軽く回す。
「禁忌とされているものに興味を抱くほど、研究者は愚かではない。呪術はいずれ身を滅ぼすとされている。だからこそ指南書は消え、扱いは断たれた」
淡々とした説明。だが、言葉の端にわずかな棘がある。
「……だが」
指の動きが止まる。
「縛玄がどこでそれを身につけたかによっては話が変わる。起点がある以上、再び広まる可能性も否定はできない」
「それこそ墟狼衆が手を出したら?」
仁の問いに、冽は一度だけ視線を上げた。そのままゆっくりと口を開く。
「例えばだ。ここに弓があるとしよう」
「うん」
「善人は人の為に射る。だが悪人は己のために射る」
短く、無駄のない例え。
「つまり、道具そのものに善悪はない。使う者によって意味が変わる」
盃を持ち上げる。そのまま口には運ばず、指先でわずかに傾けた。
「呪いの研究も同じだ。それが人を救うか、闇に落とすかは……人間に委ねられる」
静かに言い切る。卓の上に、言葉の重さだけが残る。
「だが、面白いことにこの世は善人の方が多い」
続けて、冽は視線を落としたまま言う。
「人はより良くあろうとする。術も、在り方も、積み重ねて進んできた。だから、仮に呪術が復活したとしても……いずれまた断ち切られるはずだ」
そこで一度だけ息を区切る。
「……いや」
ほんのわずかに言い直す。
「そういう世であってほしい、という私の渇望だな」
断言ではなく、願いに落とす。その一言で、空気の温度が少しだけ変わった。
林琳はその横顔を見て、何も言わずに盃を傾ける。喉を通る酒の熱を感じながら、視線だけを落とした。
――ああいうふうには、なれない。
荒れて、選択を誤って、それでも希望を手放さない人間。
自分には、最初からその選択肢がないように思えた。
「よっと……お待たせ」
軽い声とともに珊來が戻ってくる。足音は変わらないのに、どこか空気が少しだけ重くなっている。
そのまま自然な動作で卓に近づき、何の躊躇もなく林琳の前にしゃがみ込んで下から顔を覗き込んだ。
「……珊來、それ辞めて」
即座に声が出る。半歩、身体が引いた。距離が近い。近すぎる。無意識に境界を引くように、林琳は視線を逸らす。
「距離が! 近い!」
仁の声と同時に、林琳の身体が引かれる。考えるより先に、仁の手が伸びていた。咄嗟に腕を掴み、不安定な体勢のまま強引に引き寄せる。逃がすまいとするような力だった。
「ぐぇっ……」
次の瞬間、林琳の額がそのまま仁の胸板にぶつかる。鈍い衝撃が走り、思わず声が漏れた。視界が一瞬だけ揺れる。近い。呼吸がかかる距離に、互いの体温がそのまま伝わってくる。
――こいつは、言ったそばから……!
苛立ちが、ほとんど反射で浮かぶ。
「……仁、お前の頭はいつから学習しなくなったの?」
顔をしかめたまま見上げると、仁は一瞬だけ目を泳がせ、すぐに視線を逸らした。
「あ、ごめん、つい……」
悪びれているのかいないのか分からない声音。だが掴んだ手は離れていない。
――ガンッ。
重い音が卓に落ちた。空気が一瞬で締まる。
「……お前ら、いい加減にしろ」
冽が拳を机に叩きつけていた。腕を組み、眉間に深く皺を刻みながら、明らかに苛立ちを隠そうともしていない。視線は二人を射抜いたまま動かない。
ようやく我に返ったように、林琳は手を振りほどき、半歩距離を取る。触れていた場所だけが妙に熱を残しているのが、逆に鬱陶しい。
「あはは、悪かったよ」
場の空気を軽くするように笑ったのは珊來だった。だがその口元には謝罪の色はほとんどなく、どこか楽しんでいるような余裕が滲んでいる。さっきまでのやり取りを、外から眺めていた人間の顔だった。
「聞いてる話と違って、お前も変だな」
冽の視線がそのまま珊來へ移る。今度は別の意味で冷えている。
「変?」
軽く首を傾げる。その仕草すらどこか計算されているように見える。
「あぁ」
短く返す。
「兄弟喧嘩を楽しむ兄のようだ」
一拍。
その言葉が落ちた瞬間、珊來の動きがわずかに止まった。
「あ、兄……?」
繰り返す声が、ほんの少しだけずれる。普段の調子から外れた、ごく僅かな違和感。
「あぁ。手のかかる弟たちを揶揄っているように見える」
冽は淡々と言い切る。観察したままを述べただけ、という顔だった。
「……っふ」
その横で、仁が小さく息を漏らす。笑いを堪えきれなかったのか、引き攣った口元がわずかに歪む。
――ほら見ろ。
そんな、露骨ではないが確かに含みのある嘲りが、その一瞬に滲んでいた。
微妙な関係を抱えたまま、三人は祇双国への旅路を進める。時折、林琳を跨いで起こる小競り合いに冽の胃には小さな痛みが走り続けていた。
しかし歩みは思いのほか順調で、旅は想像以上に実りのあるものになっていた。林琳が語る怪奇の話に、冽の好奇心はひそかに刺激される。特に、片燕での逸話――林琳自身が対峙してきた不可思議な出来事――は、冽にとって未知の世界への窓のように開かれていた。
「それで、どうなったんだ?」
冽が問いかければ、林琳は少し面倒くさそうに眉を寄せ、言葉を閉ざす。代わりに仁が、淡々としながらも生々しい経験談を織り込み、事件の流れや細部を語る。林琳の冷静さと、仁の細やかな描写が、互いに補完しあうように、旅の会話は自然に深まっていった。
一方で最年長の珊來は、話の組み立て方が巧みで、経験に裏打ちされた洞察が随所に滲む。林琳の理知的な視線とは異なる、現場で培われた即応力と直感の鋭さが、冽の胸に小さな感嘆を呼び起こす。知らなかったことを知る喜びが、旅路の空気に柔らかく溶け込む。
そのおかげで、旅の時間は冽にとって、最愛の義弟を失った悲しみを少しずつ塗り替えるようなものになった。劉鳴国について語る林琳の言葉に、冽は過去の苦さを思い出しつつも、ほんのわずかな安堵と懐かしさを覚える。口にしたのは、彼らが大国として正しい道を歩めることを願う、素直な思いだった。
日が過ぎ、山を越え、干上がった河を乗り越えると、目の前に乾ききった大地が広がる。湿度の高い松季国で育った珊來にとって、この荒涼とした風景はまるで異世界だ。陽光に照らされた地面からは熱が立ち上り、緑の影はほとんどなく、焦げたような匂いが鼻をかすめる。
視線の先、職人たちの手元には見たこともない複雑な絡繰り玩具が並び、その奥には巨大な建造物がそびえていた。城でも塔でもない。つぎはぎだらけの、歪で異形な構造物。林琳は思わず息を呑み、視線が瞬きを忘れるほど固まる。目に映るのは、今まで経験したことのない世界。
祇双国――その名の通り、どこを見渡しても機械と精巧なからくりが渦巻いていた。金属がぶつかる音、銅を叩く音、精密な作業に没頭する人々の手元の振る舞い。音は交錯し、空気に満ちる振動は独特の活気を生み、旅人の心を静かに圧倒する。
観光客の声がちらほらと上がり、木製の小屋の軒先に並ぶ奇妙な道具や、複雑に絡まる歯車の輝きに目を奪われていた。仁も林琳の隣で息を呑む。目の奥がわずかに光を帯び、唇をわずかに開けたまま、全身でその光景を受け止めていた。
「……本当に、すごい」
林琳の声は、驚きと称賛でひそかに震える。目線は街並みに吸い込まれ、どこを見ても新鮮で、どこから手を付ければいいのか迷うほどだった。
「これを自国だけで編み出したんだ。とんでもない技術だ」
仁が隣で呟く。手元の鞄に無意識に力が入る。林琳はその横顔をチラリと見やり、頷いた。
「因みに祇双国は夢天理の立ち入りを禁じている。良かったな、お前たち。きっと馬の骨が合うぞ」
冽の声に、林琳の眉が軽く上がる。
「立ち入りを禁じているって?」
冽は門の柱を指差す。そこに大きく貼られた紙が、乾いた空気の中で硬質に浮かび上がり、視線を自然と引き寄せる。文字のひとつひとつが、街の空気に溶けず、独特の存在感を放っていた。
「夢天理の紋様だ……夢天理を拒む時に使うものだろう」
冽の声は淡々としているが、林琳の視線は鋭く紙を追う。仁はその様子を目で追いながらも、軽く手を伸ばし彼の肩に触れ、視線を逸らさせるように引きはがした。
一行は静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ巨大な門を潜る。門の向こうには、からくりと金属の匂いが渦巻く街並みが広がっていた。
「ようこそ、祇双国へ」
ふいに声がかかる。顔の半分を鉄製の面で覆った女性が歩み寄り、上げた目尻から優雅さが覗く。声の響きは街の喧騒に埋もれず、自然と注意を惹いた。
「明日、闘技場で運試しの大会が開かれます。よろしければご参加を。今年の景品は世にも奇妙な秘密箱でございます」
すれ違う人々が手にする紙も、同じ案内だった。女性は手早く説明を終え、次の群衆の中へ溶けていく。
「秘密箱だって?」
珊來が冽の手元にある紙を覗き込み、眉をひそめる。紙面には詳細はなく、ただ国王が直々に賞を授けることだけが記されていた。
近くの職人が、作業の手を止めずに口を開く。
「うちの国王は秘密箱を作るのが好きなんだ。中には一級品の宝が入っているが、秘密箱はそう簡単には開けられない」
手元で金槌を握り直す指先に、彼の熟練と無駄のない動作が現れる。街のざわめきや金属を打つ音に混じり、秘密箱の存在感が自然と増していた。
「俺はいい。どうせ最下位だ」
林琳は即座に首を振り、参加を辞退する。珊來も同様に首を横に振り、冽も慎重に首を振った。そうなれば強運と名高い仁も自然と降りることになる。
珊來は冽の手から紙を摘まみ上げ、焚火の炎へそっと放り込む。ぱちり、と乾いた音を立てて紙は燃え、揺らめく炎に飲まれた。林琳はその様子を見届けると、軽く肩をすくめる。
「さて……これからどう動く?」
仁が前を歩きながら問いかける。乾いた大地を踏む足音が小気味よく響き、街の金属音が耳を刺激する。
「まずは街の様子を確認しながら、情報収集だね」
林琳は空を仰ぎ、城のようで城でない巨大建築を目で追う。絡み合う鉄骨、無数の歯車、絡み合う鎖。その姿は、街全体が生き物のように動いているかのようだった。
「夢天理の立ち入りを禁じているくらいだ。警戒は怠るな」
珊來は砂を蹴り、視線を通り過ぎる人々へ鋭く向ける。好奇と警戒が交錯する瞳が、無意識のうちに街の情報を掬い取る。
「観光客も多い。人ごみに紛れて情報を探すには都合がいい」
林琳の声に、冽はうなずきながら周囲を見渡す。金属の輝きに目を奪われ、からくり玩具に興奮した観光客の喧騒が、街の息づかいを伝えていた。
「仁、見て。あの人たち、金属の鎧を着て作業している。素手なのに火花が散っても平気そうだ」
林琳の声に、仁も視線を合わせる。職人たちは熱せられた鉄を打ち、瞬時に歯車を組み合わせ、からくりを完成させる。街全体の技術の精密さに、胸が高鳴る。
「本当に、祇双国の技術は異常だ……」
仁の声は、興奮と畏怖が混ざる。街の匂い、熱、金属の手触り、そして人々の真剣な働きぶり。日常を逸脱した感覚が、心を昂らせて止まらない。
「だからこそ油断はできない。これだけの技術を持ちながら、戦を好まないのだから」
珊來が小声で呟く。林琳と仁はそれに頷き、街の奥へ足を進めた。
路地を抜けると、からくり工房が立ち並び、細い煙突から白い湯気が立ち上る。機械油の匂いが混ざった独特の空気に、林琳の胸が微かに高鳴る。工房の中では、小型からくり人形が巧みに動き、職人たちが動作を確認する。
「……あの城のような建物、入れるのか?」
林琳が遠くの建造物を指さす。無数の鉄板と歯車が組まれ、建物全体が精密な機械のように生きている。
「多分、一般人は無理だろう。内部は王族か選ばれた技術者だけだ」
冽は肩をすくめ、言葉少なに周囲を見渡す。
「なら、やはり周囲から情報を集めるしかない」
林琳は人当たりの良さそうな職人を探し、工房や通りを巡り始めた。乾いた風に混じる金属の匂い、打ち叩く音、機械仕掛けの街の呼吸。そのすべてが、これから起こる大きな出来事を予感させていた。
やがて夕刻、三人は宿にたどり着いた。門をくぐると、柔らかな光が廊下を包み込み、木の香りと線香の匂いが懐かしさを呼び起こす。油の匂いもなければ、鉄臭さもない。
林琳は廊下の扉を指差しながら口を開いた。
「部屋割りはどうする?」
声に含まれるのは、ほんのわずかな疲労と探るような気配。珊來は淡々と答える。
「冽は一人部屋確定。後はこの一人部屋が一つと二人部屋が一つ」
二人部屋の割り当てをあたかも当然かのように仁が笑いかける。
「二人部屋を俺たちで使う。いいでしょ、師兄」
林琳は眉をひそめながらも、微かに笑みを浮かべた。口元には呆れと諦めが混じる。
「待て、勝手に決めるな。俺は一人部屋がいい」
冽は早々に席を立ち、二階へ向かう。扉の閉まる音が小さく響き、くだらないことで揉めるなと、腹の底でひとり呟く。階下ではまだ議論が続いているが、冽は耳を傾けず、椅子に腰を下ろし背を預ける。
長旅の疲れが残っているのか、まぶたが自然に重くなる。
「杏眠……」
口から漏れた独り言は、誰に向けられたものでもなかった。
心の中で天才と奇才が交わるその瞬間の、微かな兆しを冽は薄々感づいていた。目を閉じ、呼吸を整えると、胸の奥で小さな決意が芽生える。
「私もお前との約束を……果たすよ」
いつの間にか浅い眠りに落ちていたところへ、控えめなノックの音が届く。
――コン、コン。
ゆっくり目を開けると、戸の向こうから林琳の声がかかる。
「起きてるか。明日からの計画をあいつらの部屋で練ろう」
予想通り、林琳は一人部屋を確保したらしい。
仁と珊來の部屋には結界も張られ、外部の視線も音も気にせず、三人は静かに膝を突き合わせる。夕暮れの街灯が窓の外で揺れ、木造建物の影がゆらりと動く。微かな呼吸、心脈の鼓動。すべてが緊張感を底上げする。
林琳は珍しく背筋を伸ばし、冷静さを保つ。珊來は資料を広げ、細部まで確認しながら分析する。仁は頭を巡らせ、万が一のことを考え縛玄への対策や祇双国での行動順序を整理する。外の銅や鋼の音、秘密箱の話、街の喧騒――それらはすべて、計画の糧となる。
窓の外に目を向ければ、つぎはぎだらけの巨大建築が存在感を放つ。鉄と木材が入り混じり、歪で無骨な姿はまるで生き物のようだ。珊來は眉を寄せ、静かに呟く。
「入口すらどこにあるのか……」
林琳は片目を細め、茶化すように笑みを浮かべる。
「何、正面から行くつもりだったの?」
冷徹と評される国王も、実際に会ってみなければわからない。その不確実性を楽しむかのように肩を揺らす。
「駄目もとで、死んだ人間が蘇ったって本当ですか、なんて聞くわけ?」
林琳の声に含まれるのは、軽い挑発と笑いの色。冽は窓の外を見つめ、心の中で一呼吸置く。
「うーん、そうは言っても調査のためって名目で来てるから。変に勘ぐられることはないと思うけどね」
冽は黙って窓の外を見つめ、心の中で一呼吸置く。
「おい、その流れで行くなら……私はどうする」
無所属の冽は、もはや誰の力にも頼れない。所詮、一般人の身分にすぎない。
「付き人……にしては顔が良すぎるし、誰かの姉……としては似てなさすぎる。難しいね」
珊來は顎に手を当て、悩ましげに視線を彷徨わせる。
林琳は指をぱちんと鳴らし、ひらめいたかのように弾んだ声を出す。
「あ、じゃあ、どっちか婚約者でいいんじゃない?」
その言葉に、場が一瞬凍る。
「……おい、私は既婚者だぞ」
予想外の告白に、男たちは完全に固まる。冽は眉をひそめ、微かに苛立ちを滲ませながらも、口を結んだまま間を置く。
「私の身の上話はいい。国王に何か問われれば正直に答えよう。どうせ……顔は割れている」
元墟狼衆の首領として背負った重みが、冽の肩にずっしりとのしかかる。今さら隠すものは何もない。顔が知られているのも自然なことだ。目の前の男たちが未だに衝撃でぽかんと口を開けているのを、冽は一喝し、場の空気を引き締める。
「死人が蘇るわけがないが、噂の出どころはわかっているのか?」
「いや、職人たちの間で知らぬ間に広まっていた噂らしい。元を辿っても、”どこかの職人が”としか……」
「つまり、国内で勝手に広まった噂なんだな」
「あぁ」
四人はそれぞれ聞き取りの成果を口にする。観光客から耳にした面白い話、先ほど住民から聞いた話……前置きを添え、丁寧に質問すれば、職人たちは疑いなく口を開く。死んだはずの人間が、翌日には二足歩行で現れた――そんな話を、まるで日常の出来事のように、淡々と語るのだ。
「気味が悪いのに、職人たちは余裕だな」
冽は呟く。普通に考えれば、これは化け物に遭遇したのと同じはずだ。噂の怖ろしさに人は動揺し、警戒し、夜の外出を控える者も出る。だが、この町では違った。誰も怯えず、騒ぐ者もいない。職人たちはただ黙々と手を動かし、金属を打ち、歯車を組む。まるで、そんな噂は最初から存在しなかったかのように。
「噂話だからだ」
珊來の声が静かに部屋に響く。地図に目を落とし、指先で線をなぞる手が微かに止まるだけで、声には揺るがぬ冷静さが宿る。
「実際に見た人間の話は聞いていないだろう」
冽はわずかに眉を動かす。確かに、今まで聞いた話はすべて伝聞。誰かが見たらしい、どこかで起きたらしい――曖昧な言葉ばかりだ。胸の奥に微かな警戒が芽生える。
「じゃあ、嘘かもしれないって?」
林琳が口を挟む。壁にもたれ、腕を組み、少し呆れたように肩をすくめる。視線は外の街並みを追いながらも、声には好奇心と不安が混ざる。
「ここまで来てそれは……最悪の一言だよ」
ため息が、乾いた空気に混じる。国を跨ぎ、時間も金も費やしてここまで来たのだ。調べた結果が「ただの噂でした」では、さすがに笑えない。林琳は小さく鼻を鳴らし、唇を引き結ぶ。
噂は噂でも、必ず何かの種がある。火のないところに煙は立たない。目に見える事象の裏に、必ず小さな痕跡が残る。少なくとも――この町で、何かは起きている。
冽は窓辺に寄り、外を見渡した。乾いた風が髪を揺らし、金属を叩く音が街中に反響する。静かな夕刻の光が、職人たちの作業を柔らかく照らし出す。目に映る日常と噂話の温度差に、心の奥がざわつく。
「……死体から見つかった石は宝乱石に酷似していたらしいな」
冽の口から低く落ちた声が、部屋の空気をわずかに沈ませる。言葉の重みが机の上に積もり、微かな緊張が三人の肩越しに流れた。
「うん。傀儡から出てきたものと同じ。……これは偶然じゃない。過去に杏眠が石を再現できたんだ。別の人間が出来たっておかしくはない」
林琳は腕を組み、視線を落として思案する。目の奥に光が揺れ、亜紫国での再会が脳裏をよぎった。杏眠は過去に石を再現してみせた。完全なものではなかったが、性質の似た石を作り出せるなら、同じことを為せる者が他にいても不思議ではない。
指先が机を軽く叩き、木の響きが部屋の静寂を裂く。林琳の声には警戒と予測が入り混じっていた。
「宝乱石には妙な力がある。割れた花瓶を元に戻したり、石に触れた者の記憶が錯乱したり……。もし意図的に石を再現している人間がいるとしたら、過去の過ちを顧みず、とんでもないことをしようとしているね」
林琳の呟きに仁は勢いよく顔を上げた。瞳の奥に一筋の光が走る。
「……林琳。つまり石を用いれば、領域と同じ後遺症を故意に発動させることが出来るんだよね?」
言葉を選びながら続ける。
「そうだね。使う方法があるなら、だけど」
「それなら、時間の後退――死んだ身体を巻き戻せば、自ずと死んだ人間が蘇ったってことにならないか?」
沈黙が落ち、部屋の空気をさらに重くする。窓の外では、夕暮れの光が建物の影を長く伸ばし、街の音は遠く、淡く届くだけだった。
林琳はゆっくりと頷く。
目の奥で、過去に見てきた光景と、今この場で組み上げている理屈が静かに重なり合う。断片だった記憶が繋がりかけては、どこかでわずかに噛み合わず、違和だけを残して滑っていく。
「悉が宝乱石を求める理由は……死者の復活だと言いたいのかい?」
珊來の問いは穏やかだったが、その奥には確かに核心へ踏み込む鋭さがあった。逃げ場を塞ぐような問いかけに、林琳はわずかに眉を寄せる。
すぐには答えず、言葉を探すように視線を落とす。その短い沈黙のあいだに、部屋の空気が細く張り詰めていく。誰も動かず、ただ呼吸だけが静かに重なった。
「……変死体は、夢天理が出所じゃない」
ぽつりと落とされた声は低く、だが迷いを断ち切るほど強くはない。
言い切るには、まだ何かが足りない。だが、そうとしか繋がらない――そんな半ば確信にも似た響きが滲む。
机の上の書に視線が落ちる。思考の奥で何かが形になりかけているが、最後の一片がどうしても埋まらない。
「悉は誰の指示で行動を?」
間髪入れずに続いた珊來の問いに、仁はわずかに顔を上げる。
「さぁな」
短く返す。その声音には、意図的に深く踏み込まないようにする気配があった。
「夢天理は……間違いなく縛玄の指示だろうけど……冽、悉の指揮を握る人間はいるのか?」
「いるとしたら、夢天理の人間だろう」
冽が首を横に振る。軽い仕草とは裏腹に、その目にはわずかな諦めが滲んでいた。分かっている部分と、どうしても届かない部分。その境目に立たされているような曖昧さだった。
一拍の沈黙のあと、仁は続ける。
「……つい最近実際に怪奇を操る人間と遭遇した。冽も見てる。それに怪奇の腹の中に石が仕込まれてたんだ」
「なんだって?」
その言葉に、空気がわずかに重さを帯びる。机の上の書が、ただの紙でありながら、急に異質なもののように感じられた。
「そいつは傀儡も操ってたし、夢天理だってことも否定しなかった。林琳、見覚えあるんじゃない?」
「俺?」
顔を上げた林琳の視線が、わずかに揺れる。
「あぁ。劉鳴国で変な奴に絡まれなかったか?」
記憶の底をなぞるように、林琳の思考が静かに遡る。栗色の髪、常に貼り付いたような笑み、そして――濁った、底の見えない瞳。
「あいつか……」
言葉が落ちた瞬間、曖昧だった輪郭が一気に形を持つ。忘れたわけではない。ただ、意識の端に追いやっていただけの存在だった。
「やっぱり知ってたんだな」
仁がわずかに身を乗り出す。その視線は探るようで、同時に確信も含んでいる。
「劉鳴国では夢天理の外套。沈星演舞会では宗派瓢魏の衣を着てた。怪しいとは思ってたけど……目立った動きもなかったし、深くは追わなかった」
林琳の声音には、見逃してしまった、そんな僅かな後悔が混じる。
「書を狙ってるのは縛玄だけじゃない。あの男もだ。それに、怪奇を操るなんて……あり得ないだろ」
吐き出すような言葉だった。常識を踏み越えたものへの拒絶と、現実として見てしまった事実との齟齬が、内側で軋んでいる。
「そんなことが許されたら、仕人との衝突は避けられない」
静かに言い切ると、林琳はわずかに視線を揺らした。
「待って。沈星演舞会で現れた傀儡がその男の仕業だとしたら……一つ、おかしな点がある」
珊來が口を開く。その声音は低く慎重だった。そっと言葉だけが静かに積み重ねられていく。
「彼は、林琳が術式を解読していたとき、すぐそばにいた。そしてわざわざ口を挟んだ」
「……うん」
短く頷く。あの時の違和感が、遅れて形を持ち始める。
「本来なら、黙っている方が得策だ。自分の存在を悟らせず、書を奪う機会を待つ方が合理的だろう? それなのに、あえて自分から関わってきた。あれは無意識じゃない」
空気が、さらに一段階深く沈む。
「自分の存在を“見せる”必要があった……そう考える方が自然じゃないかい?」
誰もすぐには答えなかった。だが、その仮定がただの推測ではないことは、全員が理解していた。
「それに」
珊來はそこでわずかに言葉を切り、ゆっくりと顔を上げる。
「書を、強引に奪わなかった」
その一点が、逆に異様だった。
「間違いなく、彼は怪傀神書を知っている人間だ。にもかかわらず、奪わなかった……いや、“奪えなかった”のか、それとも――」
そこで言葉を止める。続きをあえて濁したまま、視線だけが三人へと巡る。
「……書が林琳を選んだから、迂闊には触れられない?」
仁が小さく呟いた。その声には、理解しかけたものへの嫌な確信が滲んでいる。
林琳は黙ったまま、机の上の書へ視線を落とした。
「俺にはこの書に特別な力があるとは思えない」
小さく息を吐き、視線を机の上の古書に落とす。林琳も指先で紙面を軽く叩き、慎重に確認する。
「因みに解読も進んでないから、今のところはただの古書としか言いようがない。しかも古代文字だから、解読にはかなり時間がかかるよ」
「今はどこまで読めてる?」
仁の問いに、林琳は微妙な顔をする。口元に微かな歪みが現れ、苛立ちが滲む。
「……くだらない手記ってことぐらいはわかってるかな」
「因みにどんな内容が?」
「うっかり城を吹き飛ばしてしまった、とか。うっかり春を越えて、夏にしてしまった、とか」
一瞬、沈黙が落ちた。珊來は控えめに息を吐き、微かに眉を寄せる。
「ず、随分と主はうっかりなんだね」
断じて、単なるうっかりでは済まされない話だ。林琳は古書を開き、机の上に向けて見せる。紙は古く、ところどころに奇妙な絵や図が描かれていた。歪んだ線や記号のようなものが並び、意味の有無すら判然としない。
「こういった文字は何も解読できていない。多分、古代文字の中でも別の意味をもつ単語なのかも」
指先でその部分を軽く叩く。紙の古びた手触りが、空気に微かな緊張を生む。
「そもそも、解読は朱禍の仕事だと思ってるんだけど?」
顔をしかめ、眉間に軽く皺を寄せる。積もり積もった不満が、つい口をついて出た。林琳は一度息を吐き、無理やり気持ちを落ち着かせ、視線を再び古書に戻す。
「朱禍様はこれが読めるのかい?」
淡い灯りの下、机の上で古びた文書が微かに影を落とす。紙は黄ばんで硬く、文字は時代を超えてなお艶やかな曲線を描いていた。林琳は肩をすくめ、視線を文書に固定したまま答える。
「なんとなく、だって」
軽く言ったように聞こえるが、指先の微かな震えや、瞳の奥に浮かぶ光は、軽い気持ちではないことを物語っていた。
「あいつの師父が古代の文献に詳しかったらしいよ。俺はあいつの山荘で盗み見て頭に叩きこんだ知識ぐらいしかない。飛ばし飛ばし読める箇所があっても、言葉の言い回しが理解できない。逆に夢天理の手に渡ったとしても、向こう側も書かれている内容を理解できないと思う……古代文字に詳しい人間がいなければ、だけどね」
林琳は肩をすくめながら、淡々と机上の紙に視線を落とした。灯りに照らされた古文書の切れ端は、くすんだ黄土色を帯び、筆跡は滑らかでありながらどこか歪み、まるで意味を隠すように連なっている。
半分だけ真実。林琳が「読める」と言ったのは、確かに部分的には理解できることを意味していた。しかし全体の意味を追おうとすると、文は絡まり、意図は霧の中へと消えてしまう。部屋の沈黙が、紙の古びた匂いや緊張感と混ざり合い、息苦しいほどの重みを帯びる。
珊來が静かに腕を組み、少し目を伏せて思案する。彼の声には落ち着きがありながら、危険の予感を孕んでいた。
「林琳、傀儡に仕組まれていた術式を覚えているかい?」
「うん。あれは……」
林琳は何気なく答えかける。しかし、次の瞬間、言葉が途切れる。
——”この文字は——湖城国にしか存在しない。それも貴族や皇族の間で使われていた特殊な文字だよね?”
はっとしたように、彼の目が見開かれる。
「……湖城国の子孫が生きていれば……古代文字が読める人間がいてもおかしくはない…!」
独り言のように零れた声は、部屋の空気にしっかりと吸い込まれる。存在しないはずの恐れが、三人の胸にじわりと広がった。
珊來が静かに頷き、さらに重みを添える。
「そうだ。そのうえ、その子孫が夢天理側にいるとすれば……」
言葉を受け、仁が自然に引き取る。
「間接的に圧をかけてきているってことだな。強引に奪えないからこそ、存在を示す必要がある。……それも、書の持ち主本人に」
言葉が落ちた瞬間、部屋の温度まで冷えたかのような感覚が広がる。微かに残っていた気安い空気は消え、重く澱む静けさが三人を包んだ。
もし夢天理が古代文字を読める者を抱えているなら――この書に記された術式も、宝乱石の秘密も、すでに把握されている可能性がある。想像しただけで、胸の奥がざわつく。
珊來はゆっくりと息を吐き、低く結論を口にする。
「夢天理から逃れつつ、先に石を見つけて破壊する方が優先かもしれないね。幸いにも書は林琳を選んだ。そう簡単に夢天理の手には渡らない」
三人は深く頷く。存在する限り、石は必ず誰かに利用される。ならば、先手を打つしかない。
石の破壊方法は、杏眠から預かった“あれ”を使えば、理論上は可能だ。林琳は心の中でその可能性を反芻する。確証はない。しかし、天才の言葉を信じる以外に方法はない。
それに――御者は林琳に向かってはっきりと言っていた。
書には護り手が必要だと。
その言葉が胸の奥に静かに響く。
灯りの下で古びた紙が揺れ、奇妙な空気が静かに三人を包み込んでいた。
御者が残した言葉の意味――その全容を林琳が理解しているかと問われれば、答えは否だ。だが、一つだけ、確かなことがある。
今、この書の護り手は林琳だ。
そして御者は夢天理の元に渡ることを望んでいない。恐らく、護り手が今までにも存在していたからこそ、書は夢天理には渡らなかった。渡らせてはならないと全員が"理解した"。
誰よりも事の重大さを感じているのは林琳だった。
その事実が、胸の奥で微かに重く、しかし確実な安心を生む。言葉にすることはしない。ただ、静かに息を吐き、紙を前に手を休める。
――時が来るまでに、どうにかして呪いを解かねばならない。
林琳の視線が、ふと窓の外に向く。夜の帳が街を包み込み、赤みを帯びた街灯が石畳に淡い光を落としている。
その光景の向こうで、冽が横顔を覗き込む。
「どうした?」
いつもの軽やかでどこか抜けた笑みはなく、瞳の奥には遠くを見つめる深い思索の影が揺れていた。唇はわずかに引き結ばれ、息づかいが静かな緊張を帯びる。
「……ううん、なんでもない」
窓の外では、夜更けだというのに職人たちの灯りが絶えず点いていた。槌の音が時折響き、金属を叩く規則的な音が街の呼吸のように流れる。ここは眠らぬ街。静かに、しかし確実に、夜も昼も機械と人の営みが重なり合う。
林琳は指先の紙をそっと握り直し、掌に伝わる存在感を再確認する。書の力も、そして石の存在も、まだ手の内にある。危険と希望が同居するその火種を、今は握りしめるしかない――。
◆
その夜、けたたましい騒音と悲鳴に冽は飛び起きた。
壁の向こうから怒号と足音が重なり、木戸を叩くような衝撃音が断続的に響く。廊下を駆け抜ける足音が幾つも重なり、誰かが何かを叫んでいる。
隙間風とともに焦げた匂いが流れ込み、鼻の奥を刺した。
何かが燃えている――そう理解するより早く、冽は寝具を蹴るようにして立ち上がり、そのまま外へ飛び出した。
外に出た瞬間、熱を含んだ風が頬を撫でた。
夜の闇はすでに炎に侵され、建物の向こう側から巨大な火柱が立ち上っている。揺れる赤い光が祇双国の街並みを照らし、屋根や石畳を不気味な色に染め上げていた。
「火事だ! 大火事だ! 逃げろ!」
誰かの叫びが夜気を裂く。人々が桶を抱えて走り、子どもを抱いた女が通りを駆け抜けていく。
その混乱の中で――林琳だけが立ち止まっていた。
逃げ惑う人々の喧騒の中にありながら、彼はただ静かに城の方角を見つめている。背筋は 真っ直ぐで、周囲の混乱とはまるで別の世界に立っているかのような落ち着きだった。
男の叫び声が夜を裂く。人々は互いに押し合いながら外へ外へと逃げ出し、転んだ者の上を踏み越えていく。泣き叫ぶ子供の声、荷物を抱えたまま立ち尽くす老人、怒鳴り合う声。混乱は瞬く間に広がり、祇双国の夜は一瞬で地獄のような有様になっていた。
それでも林琳は、ただ炎を見ていた。
燃え広がる火の動き、風の流れ、火の粉の飛び方。まるで何かを測るように、目を細めて炎の奥を観察している。
「国王は足が悪い! 車椅子では、身動きがとれぬ! 誰か助けを……!」
職人らしき男が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「大丈夫だ! 城には従者がいるだろう!」
別の男が怒鳴り返す。そのやり取りの最中、甲高い悲鳴が人混みを裂いた。
「きゃあああ!」
振り返ると、ひとりの女が城の方角から走ってきていた。衣は乱れ、髪もほどけ、顔は恐怖に青ざめている。見覚えのある顔だった。よく目を凝らせば、運試しの場で四人を案内した女だ。
彼女は息を切らしながら叫んだ。
「城の前に死体が!」
その言葉を聞いた瞬間、林琳は迷わず一歩踏み出した。躊躇はない。状況を考えるよりも先に身体が動いた。
「山雫国、宗派片燕。国王の救出に加わる。国王はどこに?」
落ち着いた声だった。周囲の騒ぎとは温度が違う。
女は息を整えながら必死に答える。
「ま、まだ城内に……! 仕掛けが動いていれば、地上へは降りられます! ですが、この火事では……! そ、それに、じょ、城門にっ……死体が……!」
恐怖で言葉がうまく繋がらない。林琳は短く頷いた。
「……すぐに向かう。案内を頼める?」
「は、はい!」
女は何度も頷く。
林琳はそのまま周囲へ視線を巡らせた。逃げ惑う人の流れの向こうに、見慣れた黒髪が見える。炎の反射で、その髪は赤茶色に染まっていた。
林琳は声を張り上げた。
「仁! 来い!」
雑踏の中でも、その声ははっきり届く。
「はい!」
返事はほとんど間を置かず返ってきた。仁は人の波を押し分けるようにして駆け寄ってくる。迷いのない動きだった。その様子を見て、林琳は小さく息を吐く。思わず笑いそうになるのを、かろうじて堪えた。
そして仁の後ろにいた二人へも視線を向ける。
「今から国王を救出する」
逃げ出す人々の流れに押し潰されそうになりながらも、林琳の声ははっきりと届いた。
「珊來、冽。二人は火元を洗ってくれ。これはただの火事じゃない……微かに心力が混じっている。そこを消さなければ永遠に燃え続ける。この混乱を狙った放火だ」
炎の奥を睨みながら言う。珊來と冽は互いに顔を見合わせ、それから頷いた。
「俺と仁は城へ向かう。国王が死ねば、ここまで来たのが水の泡だからな」
「でも君は心力が使えないだろう!? 危険だ!」
珊來が思わず声を荒げる。林琳は肩をすくめた。
「大丈夫。……こいつもいるし」
顎で仁を示す。仁は一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わない。ただ林琳の隣に立った。
「本当はここにいてほしいけどな。師兄のことだから、どうせ勝手についてくる」
仁は苦笑混じりに言う。それは半分本気で、半分諦めだった。双方が譲った結果なのだろう。林琳は彼に守られることを認め、仁は彼を連れていくことを認める。それが二人の落としどころだった。
「最悪の結果にならないといいけど」
林琳は燃え上がる炎を鬱陶しそうに睨んだ。炎は夜空を舐めるように揺れ、黒煙が重く立ち上っている。焦げた木の匂いと煤が風に乗り、四人の頬を撫でた。
夜空は炎に焼かれ、赤く濁っている。
その赤い光の向こうに、城の黒い影が浮かび上がっていた。
妙なほど静かな影だった。
林琳は何も言わず、ただ足を前へ踏み出す。
炎の光を背に受けながら、彼と仁は城へ向かって走り出した。
※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます