「獅宇! あの阿呆が……!」
戸が風を裂くような勢いで開け放たれ、朱禍が荒い息を引きずるまま室内へ飛び込んできた。叩く余裕も躊躇もなく伸ばされた手は、迷いなく机へと落ち、整然と並べられた書物の上でバン、と乾いた音を立てた。
「なんでああも問題を引き寄せるのかな!?」
声は怒気を帯びているはずなのに、震えの色が混じっていた。叱責よりも心配が勝っているのが、嫌でも滲み出ている。
「問題とは?」
筆を持つ姿勢のまま獅宇が穏やかに問い返す。首をわずかに傾げるその動作は、まるで朱禍の激情とは別の時間を生きているかのようだった。その落ち着きに、朱禍は苛立ちをぶつけかけて、しかし言葉が喉に詰まった。
「通心だけじゃない、心力が途切れた……!」
苦々しさを含んだ声で吐き捨てながら、朱禍は両手で頭を抱え込む。眉間には深い皺が刻まれ、落ち着かぬ足先が床を小刻みに叩いた。
「また嫌がられることをしたんじゃないんですか。そろそろ愛想をつかされますよ」
「元々林琳は愛想がないけど!?」
「それはあなたの態度が問題で……」
「ああもう、そんなことより! あの子、亜紫国から千咲国に向かうって話じゃなかった!?」
言葉は弾けるように重なり、朱禍の焦燥が部屋の空気を震わせていた。
亜紫国を出て、千咲国へ向かう――確かにそう連絡があったはずだ。だが、その直後に。
「こっそり付けた追跡の術が消えた!」
その瞬間、獅宇の筆先がぴたりと止まる。墨の雫がぽたりと紙に落ち、黒い染みが静かに広がっていく。数息の沈黙が室内を支配した。
「厄介な結界の中に入ったのかと思えば……何だっていうんだ」
朱禍は近くの椅子を引き寄せると、荒っぽい動作で腰を下ろした。だが、その強い動作の裏側には、焦りを隠そうとする不器用な優しさが透けて見えた。
弟子が毎日手を入れているこの部屋には、一つの埃もない。静謐で整えられた空間に対し、朱禍の荒い呼吸だけが場違いなほど大きく響いた。
一方、獅宇は変わらず静かだった。その沈黙は重さではなく、確信を含んだ静けさだ。
「慌てなくとも……あの子が生きていることは確かです」
その声は低く、揺らがぬ水面のように落ち着いていた。
朱禍ははっと顔を上げる。
「どうしてわかるんだ。君があの子の師匠だからか?」
「……そういうものなのかもしれませんね。ですから、心配しすぎることはありません」
微笑む獅宇の眼差しには、奇妙な温度が宿っていた。単なる希望ではなく、どこか確信めいた、しかし言葉にしない何かを抱えているような気配。
「君が言うなら……信じるけど……って、獅宇、袖!」
「え、あ、ああ……すみません」
白い袖口が墨に沈み、じわりと黒く染まっていく。
「……君も動揺してるじゃないか」
朱禍は肩を落とし、小さくため息をこぼした。
「居場所がわからないなら、あの子からの連絡を待つしかありません」
「林琳がそんな器用なこと、すると思う?」
「えぇ、すると思いますよ」
否――頼むから、そうであってくれ。
獅宇は筆を置き、袖についた墨を静かに拭った。その丁寧な仕草は、祈りを形にしているようにも見えた。
「こちらも次の段階へ向かわなくては」
窓の外では、晴れ渡る空の下で燕が一声鳴いた。澄んだ音色が、緊張の中に一瞬の清涼を差し込む。
「時間です。朱禍、行きますよ」
「はぁ……どうなっても知らないからね!」
片燕が創立されて二十年あまり。
外部との接触を嫌い、ひたすら内へ籠ってきた宗派は、今まさに大きな転換点を迎えつつあった。
「師匠!」
廊下にこだました元気な声が、静かな自習室の空気を弾いた。天雪が駆け込んでくる足音が徐々に近づき、勢いよく姿を現す。
「蒼羽から文が届いています!」
「あぁ……彼らは本当に仕事が早いですね」
天雪の肩に止まった小さな鳥は、まるで自分の役目を誇るように胸を張っていた。獅宇がその頭をそっと撫でると、鳥の足に結ばれた細い紐が柔らかく光を帯び、ふっと形を変える。淡い心力がほどけるように揺らめき、紐は一通の文へと姿を変えた。
「あ、あの、師匠!」
天雪の後ろから、花月も心配げに首を伸ばす。二人の視線は獅宇と文を行ったり来たりし、期待が胸いっぱいに詰まっているのが一目でわかった。
「あの子たちからも届いてますよ、ほら」
「ありがとうございます!」
文を受け取った二人は、ぱっと表情を輝かせた。指先が嬉しさに震え、互いに顔を見合わせながら自習室へ戻っていく。その背中には、若さ特有の無邪気な希望が満ちていた。
「誰からの手紙?」
朱禍が横目で見送りながら問いかける。
「蒼羽の弟子からですよ。気が合うようで、文のやり取りを始めたようです」
「へぇ……獅宇、嬉しそうだね」
「えぇ。同年代の友人は大切にすべきですから」
獅宇は静かに微笑み、二人に渡したものとは別の文を手に取る。その指先は慈しむように柔らかい。
「それで? 蒼羽からはどんな報告が?」
「こちらが先月依頼していた件についてですよ。……あなたがなかなか腰を上げないから、彼らに頼んだんです」
あくまで淡々と告げるその声音に、朱禍は思わず顔をしかめた。
「私だって必死にやってるんだけど……」
「必死さが足りませんね。もっと頑張ってください」
「はいはい……」
言葉に棘があるのに、朱禍はどこか嬉しそうで、口元に苦笑が漏れた。
「ねぇ、獅宇」
「はい?」
「それ、諦めちゃったのかい?」
朱禍の指先が、獅宇の白い目覆いへと伸びる。薄布越しに触れた気配には、心配の色が混じっていた。
「諦めた……というか、まぁ、不便はしていませんし。今は別にいいかなと」
「見えすぎるのも苦しいだろうに」
「慣れました。それに今となっては、案外便利ですよ」
「死霊がうじゃうじゃ映ってるのが便利なわけあるか!」
思わず荒げた声が竹林に跳ね返るように響く。獅宇は目元をほころばせる。その笑みはどこか遠いもの――懐かしさと諦観とが、ひとつに溶けていた。
「今は優先すべきことがありますから。見えないよりは、ましです。……それでも、どこにも行けない、朽ちた肉体など、面白いものでもありませんが」
「……ちなみに、ここにもいるのかい?」
「いるわけがないでしょう。片燕だけでなく、山雫国全体に私と林琳の結界が張られているのをお忘れなく」
風が竹林を渡り、葉を揺らし、さわさわと柔らかな音を生む。その静けさが、朱禍の眉間に寄った皺を少し和らげた。
「君は私があの子の炎で火傷を負ってもいいのか!」
「……朱禍、あなたはここに来てからずっと無傷ですが?」
控えめに返す獅宇に、朱禍も堪えきれず苦笑する。いつ訪れても清らかな心力に満ちているこの場所。それは、獅宇が積み上げた時間と修行の結晶だと朱禍は知っていた。
「そういえば君、林琳が戻ってくると確信してただろう? どこにそんな自信があったんだ?」
声には責める色はない。ただ、不思議で仕方ないという戸惑いだけがあった。
かつて朱禍は、獅宇の弟子――林琳を憎んだが、獅宇はたった一言、「戻ってきます」と言って譲らなかった。
「自信、ですか」
獅宇はゆっくりと空を仰ぐ。雲ひとつない青空が澄みきり、風に揺らめく竹の影が淡く揺れた。
「君は手塩にかけた弟子に裏切られたと思わなかったのかい? 私だったら八つ裂きにしてたね。それくらいのことを、あの子はしたんだよ。呪いだって禁忌と知りながら手を出した」
「……それは、もう終わった話です」
「指南書も葬り去られているのに、林琳がどこで学んだか知っているのかい?」
「……いえ」
「そりゃそうだろうね! 私だって半信半疑だったんだから!」
朱禍の声音には、怒りよりも疲れが滲んでいた。
人を護るために組織を担い、判断を背負う立場になってから、彼は昔よりずっと険しい目をするようになった。
「合点がいったよ。林琳がなぜ呪いに詳しかったのか、なぜ君があの子をわざと逃したのか……。私に知られることを恐れたんだろう? ねぇ、獅宇、違うかい」
「その通りですよ。朱禍は私と違って迷いなくあの子に手を下すでしょう。どれだけ親しく、付き合いがあっても……あなたはその決断ができる」
獅宇の声音は静かだったが、その奥に微かな寂しさが混ざった。
「いいかい、獅宇。時間を辿れば林琳が呪術を身に着けたのは十代半ばだ。いくらあの子が奇才だとしても、禁忌に手を出したんだよ」
「……えぇ」
協議の末、結論を出したはずの問題。それなのに、朱禍はなおも心の底で燻る不安を抱えているのだろう。獅宇は内心で深くため息を吐いた。もう十分すぎるほど語り尽くした話だ。
「次にまた人の道理を外れることがあれば私は迷わず殺すよ」
朱禍の言葉は冷たく、しかしその冷たさは覚悟の裏返しだった。
「片燕があの子のために作られたとしても……今はれっきとした宗派だ。昔みたいに自由にはいられない」
その声には、どうか道を間違えないでくれという祈りが滲んでいた。
「獅宇。君にはあの子以外にも背負うものがある。それを忘れちゃ駄目だ」
孤独だった旅路は二人へ。そして、二人だった旅は三人へ、三人だった旅はいつしか帰る家を持ち、仲間が増え、宗派へと変わった。時代は流れ、いまや片燕は山雫国と共に生き、朽ちる運命だ。自由に放浪していた頃とは、もう違う。
「それでもあの子は……私にとっては特別なのです」
獅宇の声は穏やかで、しかし決して揺らがなかった。
「師であり、宗主である前に……あの子を育てた責任が私にはある」
幼い彼を拾い、育て、愛を与えたのは自分だ。
彼を護ってきたのも、自分だ。
「先ほど私に聞きましたよね、この瞳が不便じゃないかって」
生まれ持った忌々しい瞳。世界が絶望に染まりかけたあの日。暗闇に差し込んだ唯一の光が、小さな少年の手だった。
「あの子の手のぬくもりが私を孤独から救ってくれた。荒野に立ち止まる私の手を引いたのは、十にも満たない小さな子供」
「だからってね……」
「この際ですから言っておきますけど……あの子に手を出したら、今度こそあなたとの縁を切りますからね。肝に銘じておくように」
朱禍は言葉を失った。
どれほど理屈を並べても、獅宇が林琳を愛している――その事実だけは誰にも否定できない。
「それに遅めの反抗期と思えばかわいいものじゃないですか?」
獅宇がさらりと言うと、朱禍はじっと足元を見つめた。
「……反抗期の子供を躾けるのは親の仕事だろう」
厳しい言葉のはずなのに、そこには不思議な温度が宿っていた。
獅宇は肩を軽く竦め、静かに、どこか嬉しそうに笑った。
◆
「ここが、湖城国……」
仁の呟きは、白濁した霧と共に、押しつぶされるように空気へ溶けた。
目の前に広がる大地は、荒れ果てている、という言葉では足りない。死んでいた。薄暗い空は厚い雲に閉ざされ、昼だというのに灰色の影が地表を覆い尽くしている。雲の上からは太陽の存在さえ感じられず、この地だけが世界から切り離されたかのような閉塞をまとっていた。
風が吹かない。
本来なら霧を攫うはずの風は、この国ではまるで息を潜めて姿を隠している。代わりに、空気中には霧と灰と煤がごく薄く漂っており、深く吸い込めば喉の奥がざらつき、思わず咳き込んでしまうほどだった。仁は胸の奥に微かな痛みを覚え、息を浅くする。
生き物の気配はまるでない。鳥の声も、虫の羽音も、獣の足音すら聞こえない。
あるのは、焼け焦げと乾いた土の匂いが混ざった、どこか甘く、そしてひどく濁った死の匂いだけだった。
足元には、乾ききった地面がひび割れて続いている。かつて人が行き交い、生活の音が満ちていたとは到底思えない。むしろ、長い時の果てに誰にも看取られず朽ち果てていった死骸のような静けさだ。
霧の向こうに、風に揺れるはずのないものがあった。
蜘蛛の巣に囚われた蛾——だが動かない。
生気を完全に失い、羽も身体も煤で黒く固まり、まるでその瞬間だけが永遠に固定されたように凍り付いている。それは、この国そのものの姿を象徴しているように見えた。
「見る影もないな」
膝をついた冽が、地面に転がる乳母車の取っ手に手を伸ばす。
その表面にこびり付いた黒い煤を指で拭えば、触れた瞬間さらりと崩れ落ちた。まるで、かつてここで生きていた人々の記憶そのものが、少し触れただけで砕け散るかのように。
「何もかもが……今にも崩れそうだ」
仁は周囲を見渡す。煙の残り香はないのに、今もなお火事の温度だけが土地に染みついているようだった。建物はすべて廃墟と化し、柱は焼け抜かれ、壁は剥落し、黒く炭化した木材が骨格のように空へ突き立っている。全ての道は割れ、灰がうっすらと積もり、それを踏むたびに足元から細かい粉塵が舞い上がる。霧と混ざって漂えば、呼吸はさらに重苦しいものになる。
手入れする者はいない。訪れる者もいない。時間と共に忘れ去られるだけの存在。
長い年月、誰にも触れられず放置された時間だけが、ひたひたとこの国を食い荒らしてきた。
あと数年もすれば、風雨によって跡形もなくなるだろう。
「あれが国師の住んでいた屋敷らしい。ここら一体は火事で焼け落ちたからな、あまり期待しないほうがいい」
冽が指差す先には、霧にぼんやりと浮かぶ黒焦げた瓦礫の塔のような影があった。
かつては堂々とした屋敷だったのだろう。だが今は、壁の大半が崩れ、梁がむき出しになり、屋根は黒い塊となって地面に沈んでいる。
促そうとした冽の声を背に、仁はその場から動けずにいた。
彼の視線の先には——国が燃え落ちた瞬間の影が、未だ残像となって横たわっていた。
「どうかしたか?」
「いや……かなり大きな火事があったんだな」
仁の言葉は、霧に溶けていくように低かった。
屋敷を中心に円を描くように、焼け焦げた地面が広がっている。
そこには“焼けた”というより、集中的に“焼かれ尽くした”という表現のほうが相応しいほどの痕跡が残っていた。
積もった灰。
黒く焼けた土。
その上に散らばる、かつて街だった建材や生活の欠片。
人の身体であったもの。ところどころ、白く風化した骨が露出している。草木は根の奥まで焼かれ息絶え、土地そのものが命を奪われている。
ここでは土すらも、生物としての役目を終えてしまっていた。
「……湖城国が滅びた理由を話していなかったな」
冽の声は霧と灰に埋もれ、かすかにしか届かない。
湖城国の歴史は長く、複雑で、語ろうとすればするほど、過去の影が霧に溶けるように遠く霞んでいく。
かつての湖城国は、豊かな文化と細やかな仕組みを持ちながら、決して栄華に満ちた国ではなかった。飢えを知らず、ひっそりと長く生きる術だけは持っていた――はずだったのだが、今、その面影は地面の割れ目と黒焦げの瓦礫の間にしか残っていない。
「だが、仕人の質が異常に高かった。特に国師は、異国からの依頼を受け、世界各地を飛び回っていたらしい。……しかし、それが仇となった」
冽は瓦礫を踏みしめながら進む。
「湖城国が襲われたのは、ちょうど国師が留守にしていた時だ。火が放たれ、街は瞬く間に焼き尽くされた。他にも様々な偶然が重なりすぎた……それ故に真相は定かではなくとも、国師は湖城国を捨てたと噂されている」
「その後の国師は?」
「行方知れずだ。だが……国師の殺害を指示した者がいる」
その一言で、霧も煤も、廃墟のざわめきすらも凍りついたかのように静止する。
仁は、傾いた戸をどかそうとしていた手を止めた。
「朱禍だ」
冽の声は冷たく重く、霧の奥に凍りついた影を呼び起こす。
かつて夢天理の重鎮として権力を握った朱禍――その恐ろしさを、片燕たちは知らない。
「目的のために手段は選ばず、人の生死すら顧みない。お前たちにとって有用な男かもしれないが、根は変わらない」
短い沈黙と仁の動揺が落ちる。
「……夢天理には、昔から妙な噂がある」
冽は灰を踏みしめながら低く続けた。
「外には決して漏れないが、内部では皆が知っている。――“世は人の群れであり、巨大な組織。害をもたらす不要なものを切り捨ててこそ清浄を保つ”と」
その言い回しは、ただの規律でも教義でもなかった。
生きるために、ではない。
組織の理想のためなら個を捨てることを厭わない。そんな冷たい思考が、根の底に澱のように沈んでいるという。
「朱禍も……昔はその考えと同じだった」
冽は霧の奥に沈む影を見るように、瞳を細めた。
「夢天理の正しさを信じていた。必要とあれば何でも切り捨てるべきだ、と」
仁は息を止める。
冽はゆっくりと首を振った。
「今のお前たちが知る朱禍とは違うかもしれん。だがあいつは元々、あの組織の色に染まっていた。……離れたが、変わったわけじゃない。人は、そう簡単には変わらないとお前もよく知っているだろう」
「……国師を殺す理由が朱禍にあったのか」
仁の問いに、冽は沈黙した。苦い顔のまま頷く。
「国師は悉の存在を知っていた」
二人は瓦礫と焼けた木材の隙間を抜け、奥へ奥へと進む。
足元の紙屑は脆く、触れればすぐに崩れ落ちる。
火を免れたわずかな書類を拾えば、焦げ跡と古い文字が辛うじて残っていた。
「理由はわからない。ただ、国師は悉への異常な執着があった。それこそ、国師が国を留守にしたのは夢天理から声がかかったからだ。恐らく朱禍の策だろうな。そもそも悉の存在は隠されている。夢天理に関わりのない国の仕人が知ること自体、朱禍には許せなかったか……あるいは、国師自身が、危険な橋を渡っていたのかもしれない。だが、朱禍には悉を動かす権威を持っていた」
冽の目には、長年の疲労と不信が滲む。
「その様子だと朱禍は何も語らなかったみたいだな」
仁は言葉を失い、冽は紙片を拾いながら「この話はここまでだ」と区切った。
廃墟の空気は厚く、これ以上踏み込めば亡霊が立ち上がるかのような気配が漂う。
散乱した紙片を繋げると、古い文字の形がかすかに浮かび上がり、仁が持参した術式と照らすと、いくつかの構造が一致していた。
「お前たちの宗主の読みは的中したようだ。湖城国の生き残りが、夢天理に紛れ込んでいる」
冽はさらに手掛かりを探しながら低く唸った。
「だが……湖城国の文字を術式に組む意図がわからん。自らの居場所を晒すようなものだろう」
その独白に、仁も同じ疑問を抱えたまま眉を寄せた。冽はほかに手掛かりがないかと探しながら、低く唸った。
「……私でよかったのか」
「ん?」
「この類はお前の師兄が専門だろう。私は夢天理と墟狼衆の内情に詳しいだけで……専門知識はないぞ。それに私はてっきり二人が一緒にいるのかと……」
仁の指先が紙片を拾い上げる。その動作は慎重で、どこか柔らかい。
緩んだ目元は、誰かを思い出している時特有の、慈しみに近い揺らぎを帯びていた。
「全部独りでやろうとするから」
無茶をする。
無理をして、それを隠す。
気付けばいつも傷だらけで、なのに誰にも弱みを見せない。
「破門されたのだの、戻れないだのと色々喚いていたが和解したのか?」
「どうだろうな。山雫国に戻りはしたけど、宗派に戻ったわけでもない。破門されたままと言われればそうだし、他の人から見れば中途半端でどっち付かずって印象はあると思う」
「だが国命を受けているだろう」
「それは女帝の判断で、片燕に決定権はない。でも女帝は正しい判断を下したと思うよ。片燕って後ろ盾だと……夢天理に肩入れしている連中は警戒するし、国命であれば他国も受け入れやすいしな。と、まぁ、師兄の考えそうなことだ」
「言い分が滅茶苦茶だな……」
「うちの師兄が滅茶苦茶じゃなかったことがあるか?」
「ないな」
冽は即答し、それに仁も苦笑いした。あの男の奇行と奔放さは、もう性質のようなものだ。
「それで次はどこに?」
冽の皮肉を孕んだ声が、まだ夜気の残る室内でゆっくりと響いた。
仁は口元に苦笑を浮かべたまま、すぐには返事をしない。言葉を探しては落とし、拾ってはまた失うような、妙に落ち着かない間が生まれる。窓から忍び込んだ薄明の風が、彼の髪先を揺らし、その迷いの輪郭を静かに撫でていった。
「どうした?」
冽が半歩、仁の方へ寄る。
仁はその気配を感じて小さく瞬きし、視線を逸らさずに問い返すように息を整えた。
「今更だけど……夢天理はどうやって統制を取ってるんだ? 組織内での分裂は始めてだろう」
冽は壁に軽く背を預け、腕を組みなおした。
「定期的に所属する宗派が集まって会合を開く。そこで決議されたものが夢天理の規則となり、方針となる。同盟と何の変哲もないだろう。ただ最近は所属する宗派そのものが従来より半数以下となっている……どうなっているかは知らん」
冽は指先で床を軽く叩きながら続ける。
「因みに墟狼衆は首領が会合に参加している。専ら予算の話しかしないが……資金巡りの問題は度々上がっていたぞ」
仁が次回の開催日を問うと、冽は片手を掲げて指を折りながら計算し、ふっと息を漏らした。
「例年通りであれば丁度一月後だ」
仁の表情がわずかに明るくなる。一月――なら、どうにか間に合う。
「……向こうの動向を探りたい」
「はぁ!?」
冽の声が跳ね、突き刺さるようだった。
天井の梁にぶら下がっていた蝙蝠が驚き、羽ばたきながら暗がりへ逃げ込む。小さな影がひらりと夜の名残の中に溶ける。
「血迷ったことを考えるな。やめておけ」
冽は乱れた衣の裾を払うような仕草で仁の考えを斬り捨てる。
それがただの会合である以上、得られるものは微々たるものだと、彼女の眼差しが語っていた。
「頼む、冽。手を貸してくれ」
仁は一歩踏み出した。声は静かだが、濁りのない熱が言葉に宿っていた。
冽は仁の影を見つめるように視線を落とし、眉間を深く寄せる。
「……私が納得できる理由があれば、な」
その声音には「どうせ無いだろう」という自信すら滲む。
「怪傀神書を狙う親玉は夢天理内部にいる」
仁は声を潜め、空気の厚みを変えるように言葉を置いた。
冽は動かず、ただ仁の言葉を静かに待つ。
「朱禍もこのことに関しては手を貸してくれるらしいから、どうにか拠点に入れないか」
冽の視線が鋭く細くなる。
それは否定ではなく、まず理解しようとする時の目だ。しかし、その直後に首が横に振られた。
「不可能だ。夢天理の拠点自体、強力な結界で守られている。近付くことすら不可能だ。朱禍が一番よく知っているはずだ。国命とはいえ、横着が過ぎるぞ」
吐き出された言葉は冷たく切れ味があり、仁の無謀さへの苦言がはっきりとそこに込められていた。
それでも仁は、どこか飄々とした笑みを浮かべて肩を竦める。
「冽、俺は初めから国命なんて受けてない」
天井の蝙蝠が、ぶら下がったまま丸い目でふたりを見ていた。沈んだ空気の中、それだけが少し滑稽だった。
「……おい、まて、話がややこしくなってきた。次から次へと謎解きか? 止してくれ」
「嘘を吐いたことは謝る。でもそうでもしないと、林琳、俺を山雫国に閉じ込める勢いだったんだぞ。女帝と宗主に頼み込んでどうにかしてくれってお願いした結果が、これってこと」
冽は片眉を上げ、仁の言葉を吟味するように静止した。
「病み上がりだったんだろう。師兄として心配したんじゃないか?」
「いや、あれは……心配って域を超えてる……」
仁の視線がわずかに逸れ、言い淀む。
その奥にある出来事の重さだけが、冽には手触りのように伝わってきた。
ーー何をしたんだ、一番弟子。
冽は胸の内で呟き、仁がどこか嬉しげなのを横目にため息を飲み込む。構ってもらえることへの満足が、仁の声音ににじんでいた。
「それはそうと一番弟子は蒼羽の男と親しいそうじゃないか。なんだ、結局は他所へやったのか」
ーーバキッ。
次の瞬間、仁の手の中で戸板が無惨に砕けた。
木片がぱらぱらと落ち、冽はほんの一瞬、呆れと納得を同時に滲ませる。
仁が眠っている間の出来事を、冽は断片的な噂から知っていた。
「どいつもこいつも……難儀な奴らだ。もっとあの手この手で奪ってみせればいいものの」
「冽」
呼ばれた名に、冽は眉を上げた。
仁は苦笑と困惑を同居させた表情を浮かべ、指でバツ印を作る。
「その話はなしだ」
そして小さく息を漏らし、笑う。仁は胸の奥を押さえるように無理矢理口角を上げてかすかな震えを抑え込んでいた。
「だったら劉鳴国の時みたいに引っ付いて……」
冽は肩をすくめる。兄弟子を追いかける弟弟子――どこにでもある微笑ましい光景のはずだ。年齢を考えても、仲が良いと周囲が思うだけで終わる。なのに、なぜ今になってためらうのか。冽にはその躊躇いの根が理解できなかった。
「……それじゃ、駄目なんだよ」
仁の声は喉の奥で沈み、抑えきれない熱がにじんだ。強がりでも照れでもない。もっと深いところに触れようとする気配だった。
――こちらから差し出す手だけでは、きっと何も変わらない。
仁はその言葉の続きを飲み込む。林琳がどうしようもなく立ち止まっていたのなら、これは彼が変わるための時間であり、逃してはいけない機会なのだと、仁は薄々悟っていた。
「大目に見てよ、冽」
その意図を汲み取ったのか、冽は壊れかけた戸を片腕で押しのけた。ぎしりと木が悲鳴を上げ、外の冷気がじわりと流れ込む。戸板は未練がましく揺れたのち、ぱたりと倒れて埃を巻き上げた。言葉にすれば「もう好きにしてくれ」――その投げやりな空気が、冽の足取りからでもはっきりと伝わる。
「本気なんだな?」
仁が追いかけるように声を掛ける。半ば呆れ、半ば諦めを滲ませた調子だった。
「勿論」
短く即答した仁は、すでに覚悟だけは固めている。そのぶれなさが、冽には妙に腹立たしい。
「……はぁ。どうなっても責任は取らないぞ」
こめかみに手を当てると、鈍い痛みがじわりと広がった。胃を締めつけるような不快感は、この男の無茶のせいなのか、それとも――そんな無茶をさせるほど追い詰めた彼への苛立ちなのか。判別がつかず、冽はただ深く息を吐くしかなかった。
冽が吐いた白い息が霧に溶けきるより早く、仁は足音を忍ばせて彼女の隣へ並んだ。
廃墟の外気はひどく冷たく、夜の名残を抱えた石畳は、人の気配を吸い込んだ大地のようにじわりと温度を奪っていく。
「冽……ありがとう」
ぽつりと落としたその言葉は、灰と霧に沈むこの国ではあまりに生々しく響いた。
「礼には及ばん。杏眠との約束は守ると決めた」
冽は視線を合わせず、焼け落ちた街並みに目を向ける。
霧の向こうに浮かぶのは、黒い骨格だけを残した建物群。折れた梁が外気に軋み、どこまでも“死”の色だけが続いていた。
「人の世は――」
言葉を切ったあとで、冽はかすかに舌打ちする。
「……長い年月、夢天理に寄りかかりすぎた」
冽は淡々と告げた。
霧は薄く漂っているのに、その声だけが妙に遠く、仁は横目で彼女の表情を探る。怒りではない。どうにもならない現実を飲み込む時にだけ滲む深い迷いと疲労だった。
「遅かれ早かれ、こうなる兆しはあったのかもしれん」
灰に沈んだ湖城国の残骸を見下ろしたまま、冽は言葉を止めた。
息は、落ちていく灰のように重く、どこにも届かない。
「……仁。夢天理が本来どんな理念で成り立っているか、知っているか?」
「怪奇を祓うために宗派が協力する……そういう連携の仕組み、だろ?」
「そうだ。本当にそうあろうとして結ばれた同盟だった。複数の宗派が互いを平等とし、力を合わせて世界を支えるための――根は純粋な協力の形だ」
仁は黙り込む。冽は霧の奥を静かに凝視していた。
「祓いの技は宗派ごとに異なる。だからこそ、巨大な怪奇には宗派を越えて手を組み、小さな国には“守護の手”を貸す。本来の夢天理は、ただそれだけの存在だ」
そこまでは仁も知っている。
しかし――問題は、その内側に沈んでいる。
冽の肩が微かに揺れた。
「既に各地で怪奇の質が変わってきている。祓っても濁りが残り、死者の影は歪む。死んだ国は戻らない」
淡々とした声なのに、摩耗した石が崩れるような気配があった。
「夢天理の一部にはこう考える者がいる。“魂の自由な循環では、もう世界は保てない”と。流れが歪んでしまったなら、仕人の力で整え直すべきだ――そんな戯言をな。彼らの意図がわかるか、仁」
「……魂の管理か?」
「奴らは管理とは言わん。“安定化”“保護”と柔らかい語で包む。だが本質は変わらん。魂の揺らぎそのものを主に変わって固定化しようとする思想だ」
仁は冽の横顔を見た。
その瞳の奥には、痛みがわずかに滲んでいる。
「私はそれを杏眠に強いた」
短い言葉。しかし、深い傷の線がそこに刻まれていた。
仁は気づく。冽は外から見ているのではない。かつて自分自身もその思想に半歩踏み寄っていた者の語りだと。
そして――冽は静かに、息を落とすように続けた。
「……朱禍もその思想に近かった。全てを管理下に置くことで平穏は保たれると本気で考えていた」
仁の表情が硬直する。
「だが――」
冽の声は、焼け落ちた梁の影のように沈み込んだ。
「その考えを……あいつは片燕にも一言も話していない」
灰と霧の空気が、そこでわずかに震えた。
「お前たちは夢天理の動向を疑い深く見ている。その傍ら朱禍は……“魂の流れを整えるべきだ”という彼らの持つ思想をお前たちに語ったか? 」
それは裏切りではなく、もっと静かな――しかし深い不信だった。
「迷っていたのか、忘れていたのか……それすら分からん。だが、片燕の近くに居座りながらもその核心だけは隠し通した」
冽は霧の奥をじっと見つめた。
その表情には、怒りではなく長年積み重なった疲労と、どうしても消えない影があった。
「……信用するには値しない」
沈んだ灰が足元で小さく鳴る。
仁は何も言えなかった。
冽の言葉の奥にある朱禍の沈黙の重さが、何より雄弁だったからだ。
「いや……信じるか否かはお前たちが決めることだな」
冽の声には呆れが混ざる。しかしその背中は、どこか仁を受け入れる余白を残していた。
沈黙が二人の間を満たす。
霧は動かず、風も吹かない。
この国では言葉だけが空気に溶けず、そのまま胸の奥に重さを積もらせていく。
「……仁」
「うん?」
冽は深く息を吸い、灰を含んだ冷気にほんの少しだけ目を細めた。
「お前を生きて返さねば、私の首は一番弟子の手によって飛ぶだろうな」
その言葉に、仁はゆっくりと微笑みを返した。
霧の濁りの中で、その笑みは温度だけが際立って浮かび上がる。
「行こう。屋敷の奥に、まだ見ていない部屋がある。国師が持っていた文献や、術式の断片が残っているかもしれない」
「お前、いつから指揮官になったんだ」
「いま!」
「はぁ……」
冽はあからさまに肩を落としながらも、迷いなく歩を進めた。
仁もそれに続き、二人の足音が灰を踏む乾いた音となって、死んだ国の静寂をわずかに震わせた。
――そして二人は、焼け落ちた屋敷の最奥へと踏み込んでいく。
そこにはまだ、国師が残した何かが、深い霧の底で静かに眠っていた。
◆
「だから言ったでしょう。そのぐちゃぐちゃの中身をどうにかしないといけないって」
地面にひっくり返った林琳を見下ろし、蘭はため息交じりに声をかけた。
「あなたの中身、信じられないくらいにぐちゃぐちゃよ。それこそ、生きているのが不思議なくらい」
「……気持ち悪い。座っていても目が回るし、耳鳴りもする……うぇ……」
心力酔いとは異なる、体内から沸き起こる不快感に林琳は体をひねり、石畳に頬を押し付けた。熱を帯びた肌が冷たい床に触れると、かろうじて安堵の感触が走る。
「最悪だ……」
「外傷がそれだけで済んだことに感謝しなさい。霓草がいなかったら、即死してたわよ」
蘭は腰に手を当て、彼の額を軽く小突く。
霓草とは、蒼曜のことだ。彼は幾つもの偽名を使っているようで、蒼曜は亜紫国に訪れる際の偽名だと話した。
「お父様が呼んでるわ。ほら、行くわよ」
「ま、まて……急に立ち上がっ……」
引かれる腕に必死に抵抗して右足で踏ん張るが、体がぐらりと傾き、視界が揺れる。
「っう……」
明月が慌てて駆け寄り、手を差し伸べる。
「お水をお持ちしますね」
胃の中をかき回されても何も出ないのは、林琳にとって余計な苛立ちを生むだけだった。ぐるぐると目が回り、食事も摂れず、吐くものさえない。結局、仰向けに寝て目を閉じている方がましだった。
「うっぷ……」
霓草と明月が風を送るが、林琳は桶から顔を上げることもできず、ただ呻くしかなかった。
「眠い……」
「ああ、寝ちゃだめだって! 余計に悪化する」
悪化するも、これ以上最悪な事態は想像できない。
「早く行くわよ、ほら」
「この……状態で、ですか?」
明月は不安そうに蘭を見た。
「中身の問題なら、お父様に診てもらった方が早いわ」
半ば強引に霓草に引かれ、明月に支えられ、林琳は蹲ったまま立ち上がる。
「花狐当主……この姿で……っうぷ……申し訳……っう゛……あり、ません」
国命を授かる者としての最低限の礼儀は弁えているが、体調の悪さがそれを許さない。
「構わぬ。漸く目が覚めたか。しかし……想像以上に重症だな」
当主は彼の手首に親指を添え、脈を確かめる。
「心力を宥めよ」
「うっぷ……やってはいるんですけど……」
体内で心力が暴走し、心脈が正しく循環していない。心力に頼って生きてきた林琳にとって、それは異常すぎる現象だ。
「ではお父様、どうすれば……?」
「精神の乱れなら整えれば治る。元より心力は精神の強さに比例しているものだ。だが、お主の心に乱れはない。どこか他の要因があるはずだ」
「別の……思い当たる節は……?」
霓草の問いかけに林琳は目を伏せて首を横に振り、青ざめたと思えば口元を抑えた。
「すみません……吐きます」
俯いた途端控えていた明月が桶を差し込む。
「ま、間に合った……!」
胃液だけが喉を焼き、彼の体に痛みが走る。
容赦のない言葉に、林琳は返事をする間もなく口元を押さえた。花狐はその様子を見て、深く息をつく。
数日前の光景が、否応なく脳裏に蘇っていた。
――転送陣が、何の前触れもなく発動したのだ。
眩い光が収まった瞬間、そこに立っていたのは霓草だった。
そして、その腕の中には血に濡れた一人の男。衣は裂け、肌は赤黒く染まり、どこから血が流れているのかすら判然としない。霓草自身も血を浴びていたが、それが自分のものか相手のものかを確かめる余裕すらなく、そのまま屋敷の中へ運び込んだ。
一瞬で場は騒然となった。
弟子たちが動揺し、使用人が立ち尽くす中、ただ一人、蘭だけが男の顔を見て息を呑み、名を呼んだ。
劉鳴国で知り合った人物だという。それだけでなく「林琳……片燕の、一番弟子よ」その一言で、場の空気がさらに重く沈んだ。
劉鳴国とのいざこざが尾を引くこの時期に、よりにもよって片燕の弟子。
問題が問題を呼び寄せるような状況に、花狐は内心で舌打ちしつつも、判断を下した。この件は、表沙汰にしない。
世話は、顔見知りである者に任せる。そうして選ばれたのが、蘭と霓草だった。
「蘭、霓草」
花狐は二人に視線を向け、淡々と告げる。
鬱陶しい髪も結えず、林琳は桶に顔を押し付けながら、思いつく限りの悪態を心の中で吐く。
「……山雫国へ遣いを出すか?」
「っう゛……」
片手を上げるのが精一杯。失礼だとわかっていても、体は思うように動かない。片手を上げたまま呼吸を整えることすら苦痛で、林琳はぐらつく意識の縁を必死に掴んでいた。
診立てを終えた花狐当主が去ったあとも、心脈の乱れは収まる気配を見せない。胸の奥で渦を巻く心力が、鼓動のたびに逆流し、痛みと吐き気を生んでいる。
周囲は静かだった。庭へ吹き抜ける風の音さえ遠く聞こえる。
蘭も霓草も明月も、こっそり覗き見ていた弟子たちも、今は皆必要な薬や道具を取りに散っていて、部屋には林琳だけが取り残されていた。
冷えた桶の縁に額を預けながら、彼はぼんやりと思う。
今晩眠れば、少しは楽になるはずだ。
——そう思っていたのだが、一睡もできないまま長い夜が明けようとしていた。
窓の外では、まだ眠気の残る庭に朝霧が漂い、湿った葉の香りがかすかに鼻をくすぐる。遠くで小鳥が囀り、揺れる枝先の影が淡く揺れる。夜の静寂に沈んでいた石畳も、淡い光に照らされて少しずつ輪郭を取り戻していた。
林琳は、疲れ切った体を布団に投げ出したまま、目を閉じる。横になれば肩の力を預けられるはずだったが、胸の奥で蠢くざわめきは止まらず、眠りを拒む。頭蓋の奥で脳髄をかき混ぜられるような波が渦を巻き、体の隅々にまでじわじわと染み渡る感覚。
無理に意識を保とうとすれば、今度は世界そのものがゆるやかに歪み、熱せられた金属のようにぐにゃりと変形する。
結局、この三日間、一睡もできていなかった。
やっと届く朝の光は、柔らかくも無情に林琳の体を照らし、心の奥のざわつきを余計に際立たせる。頼りなく吹く風だけが、自分の存在をかすかに確かめさせてくれる。
「そろそろ眠らないと、身体がもたないわよ」
遠くから蘭の声が届く。林琳はまぶたをわずかに動かし、声の方向へ意識を向けた。眠気に抗うように、だが少しずつ、夜の深みから朝の輪郭へと意識が戻ってくる。
外では庭の露が光を受けてきらめき、朝の空気が湯気と混ざり合い、淡い香りを室内まで運んでくる。林琳の重い呼吸に合わせ、窓の外の風景がゆっくりと動き始めた。
蘭の声は、井戸の底から響くように遠い。現実の輪郭をつなぎ止める糸が細くなっていくのを、林琳自身がよく分かっていた。肉体の方にも影響が出始めていたが、無駄な嘔吐は、三日もすれば不思議と慣れる。慣れというより、諦めに近かった。吐く力すら削れ落ち、空っぽの胃が痙攣するだけだ。
「いっそのこと、ぶん殴って気絶させてくれ……」
乾いた冗談だけが口からこぼれる。林琳は這いずって外へ出ると石畳へと頬を押しつけた。ひんやりとした硬さが唯一、世界がまだ崩れていないと知らせてくれる。風が通るたび、その冷たさに縋るように呼吸する。
「仁は一緒じゃないみたいだけど、連絡は取ってる?」
蘭の問いに、林琳はわずかに口元を震わせた。頭を動かすのさえ億劫だ。
唯一の連絡手段だった鏡は、あの場所に落としてきた――粉々に割れて形を留めてはいないだろう。
「取ってない……」
砕け散った道具と同じように、自分の思考もひどく脆い。触れれば、風のように指の間から零れ落ちてしまいそうだった。
「きっと心配してるわ。どうにかして連絡を取らなきゃ……」
「公主、そうは言ってもここから山雫国に向かっても、ひと月はかかりますよ」
どこか頭上から声が降ってくる。霓草と蘭の声が重なり、遠くの川音みたいに揺れて聞こえた。
林琳は目を閉じ、かすかな吐息だけを整える。浮き沈みする意識が、波のように寄せ返す。
「それに、公主に御用があったのでしょう。ここまで回復するまでこちらも慌ただしかったですから、ゆっくりとこれからのことを話されては?」
「それもそうね」
霓草が背を向け、中庭を抜けていく。彼女の影が伸びて消えると、残されたのは蘭と林琳、そして風に揺れる葉擦れの音だけだった。
「……縁談、無くなったんだな」
石畳の冷たさに身を預けたまま、林琳は呟いた。
「えぇ。正直、全然乗り気じゃなかったし。むしろよかったわ」
蘭は林琳の隣へ静かに腰を下ろした。日差しはやわらかい。なのに空気のどこかに、ひっ そりとした緊張が漂っている。
この庭は平穏なはずなのに――胸の底のざわめきは止まらなかった。夜に吹く風のように、掴めば散っていく感覚だけが残る。
「劉鳴国のことはもう心配いらないわよ。両国の間で起きたことは、あなたには関係ないもの。それより……あなた達、本当に大変なことになってるって聞いたけど、大丈夫?」
「……今のところは」
声に芯がない。思考も、どこか淡く、風のように形を保てない。
「そう。私たちは今、劉鳴国との問題を優先しているから、情勢には疎いの。流石に夢天理のことは調べているけれど……ほら、あなた達の宗派って、あまり……」
「良い噂がないって言いたいんでしょ」
林琳は薄く笑う。自嘲というより、軽く息を吐いたような笑い。
「夢天理と犬猿の仲なのは本当だし、目を付けられやすいのも、まぁ……事実だ」
「あなたが変わり者の問題児って……ふふっ、的を射てるわね」
「じゃじゃ馬には言われたくないけど」
短い軽口が交わされる。それだけで、ほんの少し空気が和らいだ。まるで、閉ざされた室内に一瞬だけ風が入ったようだった。
「気分転換に散歩でもする? 身体を動かせば眠たくなるかも」
「蘭、お前……この状態の俺を見てよく言えるよね……絶対に嫌だ。ここにいる」
林琳はきっぱり言った。
この風の通り道だけは離れたくなかった。冷たさと静けさが、混乱と焦燥で荒れた心をそっと撫でて、石畳の冷たさが、かろうじて自分の形を保ってくれる。
寝返りを打つと、少し離れた場所に明月の姿があった。
目が合うと、彼女はそわそわと視線を逸らす。落ち着きがないのに、どこか芯の強さを感じさせる――不思議とすぐに見つけられるような灯のようだ、と林琳は思った。
「明月も……本当に仕人だったんだね」
「そうよ。この国の人は皆、一度は修行を受けるわ。その後は民として生きるか、仕人を選ぶか――自分で決めるの」
「……てっきり当主と仲が悪いと思ってたけど、そうでもないんだね」
「親子喧嘩くらいはするわよ。納得できなければ反論もするし、言いなりなんてならない。それに……お父様って、ちょっと危なっかしいもの」
蘭はそこだけ、少し言い淀むように笑った。
その奥に、過ぎ去った影のような翳が揺れる。
「お母様の一件で、やっと目が覚めたのよ。だから、今はもう――多めに見てくれているわ」
どこか懐かしむような声だった。
林琳は、片燕と交わした夜の会話を思い返す。
家族の形はみな違う。それでも、心に傷を抱えている点では誰もが同じだ。風が吹けば、傷の縁は揺れて痛む。
「あなた、また危ないことをしてるんでしょう。霓草から聞いたわ。急に襲われたって」
言葉を聞いた瞬間、林琳ははっとして上体を起こした。思考が一気に引き戻される。
「……霓草に怪我は?」
「大丈夫よ。あなたが護ってくれたから」
あの瞬間を思い出す。咄嗟に張った結界――ほんの数息遅れていたら、確実に血が流れていた。そう考えると胸の奥に冷たいものが広がる。
「相手が誰か目途はついているのかしら」
「一応は」
悉の名が脳裏に影を落とす。
けれど、それを口にする気にはなれなかった。
「どうせ夢天理でしょう。あいつらって、本当に厄介ね。でも安心して。お父様が認めた者しか、この国には入れない。だからここにいる限りは安全よ」
蘭の言葉は優しく、けれどどこか脆い。林琳はその声の響きを聞きながら、胸の奥で何かが微かにざわめいた。風が吹き抜ける。蘭の髪が揺れ、空には淡い雲がかかっていた。
「……暫く世話になるよ」
「あら、あなた、素直な言葉が言えるようになったのね」
蘭は目を細めて、まるで春の日差しのような笑みを浮かべた。
林琳は反射的に反論しようと口を開きかけるが、その先を言葉にする前に、蘭が軽やかに言葉を重ねた。
「お父様にも失礼な態度を取らなかったし」
くすっと笑う声には、少しばかりのからかいが混じっている。
確かに以前なら、当主相手でも余裕で口を尖らせ、そっぽを向いたかもしれない。
だが今の林琳には、そんな反抗ができるほどの力はもう残っていなかった。いや、それ以前に――頼れる場所が、もはやここにしかないという事実が胸の奥に重たく沈んでいる。
反抗したところで、この不調が治るわけでもない。心力が元に戻るわけでもない。むしろ感情を波立てるほど、心脈がひゅう、と軋む。
胸の奥のどろりとした重さが、泥流のようにゆっくり広がり、体内の温度を奪っていく。得体のしれないものが形を変えて疼いているようだった。
沈黙を続ける林琳を、蘭は見透かすように柔く息をついた。
「……ねぇ、林琳。あなた、ずっと気を張り続けてるわ。ここに来てから、一度も休まってない」
その声は寄り添い方をよく知る者の距離だった。
林琳は石畳に指先を触れた。夜の間に冷えた石の温度が、じんわりと皮膚へ沁みこむ。痛みを紛らわせるには、こうした微細な刺激が一番効く。
意識を逸らす術など、傭兵時代に嫌というほど身につけた。痛みに慣れたのではない。痛みを飼い慣らす方法を覚えただけだ。
「気なんて張ってないよ。ただ……」
そう言いかけた瞬間、視界がふっと揺れた。世界がぐにゃりと歪み、境界線が曖昧に崩れていく。三日間続くこの症状は、もう身体の悲鳴そのものだった。耐えろと命令すれば従ってきた肉体が、ついに反旗を翻し始めている。
「ただ?」
蘭の声は穏やか。けれどその穏やかさの底に、かすかな緊張が潜む。
彼を案じている――その事実が痛いほど伝わってくる。
「……ちょっと、落ち着かないだけ」
誤魔化そうとした瞬間、胸の奥で何かがかすかに蠢く。内側から心力を噛むような不穏な渦。
外傷ならば薬も包帯もある。だがこれは違う。心脈そのものの乱れ――彼自身の内側の問題で、誰にも触れられない厄介な類だ。
蘭は真剣な眼差しで彼を見つめた。
薄く風が吹き、庭木の葉がさわりと音を立てる。だがその自然音すら、林琳にはどこか遠い世界の出来事に感じられた。認識がわずかに遅れ、世界が一枚膜を隔てたようにぼやけている。
「……怖いの?」
その問いに、林琳の指が小さく跳ねる。
怖い――その言葉は、彼がこれまで自分の辞書から排除してきた感情だった。
傭兵として生きてきた彼にとって、恐怖は感じるものではない。飲み込み、押し殺し、ただ前へ進むための燃料にするものだった。震えれば死ぬ世界で、感情の処理に時間を割く余裕などなかった。
だが今、その誤魔化しが通用しない。優しさに触れて、そうなってしまった。
「……さぁね」
逃げるような返答ではなく、自分でも分からないという正直さが滲む小さな声だった。
蘭はそれ以上追及しない。ただ、そっと彼の背に手を添えた。押すでも抱くでもなく、ただそこに在るだけの温度。
「大丈夫よ。少なくともこの国では、誰もあなたを害せない」
その言葉ひとつひとつが、胸の奥をざわつかせていた影を優しく撫で、少しずつ静めていく。
「……都合が良いな」
「利用してもらっていいの。回復するまで、好きなだけここにいて」
蘭の声音は、壊れ物を扱うように静かで、そっと包むような温度を帯びていた。
林琳は、冷えた石畳に背を預けると、肺の奥に残っていた力を吐き出すように長く息を漏らした。胸の奥に刺さったままの痛みはまだ抜けず、視界の端はかすんで揺れ、世界の輪郭すら曖昧だ。
――それでも、さっきより息がしやすい。
「あなた風に言うと……そうね、等価交換ってものよ」
「ははっ、なんだよそれ」
ふと気付くと、この庭を渡る風だけは、どこか柔らかかった。肌に触れた瞬間、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。
認めたくはない。
こんな些細な優しさに救われる自分を、弱さごと受け止めてしまうみたいで腹立たしい。
けれど、吹き抜ける風が髪を揺らすたび、強張っていた肩がゆるりとほどけていった。抵抗する気力すら薄れていく。静かな諦めが胸の底に沈み、林琳はゆっくりとまぶたを閉じた。風の流れだけが、遠くで寄り添うように頬を撫でていく。その優しさを拒めず、ただ黙って身を委ねた。
「お父様の許可も出ているし、薬湯に行ってみましょう。着替えは……そうね……明月!」
蘭が声を張ると、少し離れて控えていた明月が音もなく駆け寄り、裾を揺らして蘭を見上げた。
「裏山の薬湯に行くわ。着替えと必要なものを用意して頂戴」
「かしこまりました。着替えは……霓草様にお借りしましょうか?」
「そうね。どうせ山ほど余ってるわ」
「別にいいって……いつまでも借りてるわけにもいかないし、今から街で適当に買うよ」
林琳がぼそりと呟くと、蘭は肩をすくめ、呆れたように眉を寄せた。
「無頓着すぎるわ!」
強い口調の裏に、心配の色がわずかに滲む。林琳の歩みはまだ重く、蘭は自然と彼に合わせて速度を落としていた。
「一応、国賓という建前ですし、いっそのこと仕立ててもいいかもしれませんね」
明月が控えめに提案すると、蘭はすんなり頷いた。
「あなた、今までどうしてたのよ。劉鳴国ではそれなりに質の良いものを着てたじゃない」
「あれは仁が勝手に仕立てたんだよ」
「……道理で恰好が違いすぎると思ったわ。好きそうだものね、彼」
蘭は小さく笑ったが、その笑みはすぐに陰り、真剣な眼差しが林琳に向けられた。
「やっぱりどうにかして連絡を取るべきよ」
石段へ向かう細道を歩きながら、蘭はちらりと振り返り、重い足取りの林琳を気遣うように視線を落とす。
「手段がないからなぁ」
林琳は気だるげに応じ、風に揺れる前髪を鬱陶しげに指先で払った。
仁が異変に気付いたとしても、朱禍と獅宇が何とか誤魔化してくれるだろう――そんな淡い期待だけが残っている。
「それに、俺はあいつが何をしているか知らないんだよ」
「……また、あなたたち喧嘩でもしてるの?」
「はぁ? 違うよ。山雫国としての任務だよ」
言い方は淡々としているのに、どこか投げ出したような響きが混じっていた。疲労が声に宿り、足元の影が長く伸びる。
「いつまでも一緒なわけないでしょ。大人なんだから」
「あら、そうなの。てっきりずっと一緒にいるものだと思っていたわ」
蘭はゆるりと首を傾げる。
その瞳には責める気配はなく、むしろ林琳の胸の内側――言葉にしていない関係性をそっと覗き込もうとするような、柔らかな光が宿っていた。
「林琳様は山雫国の国命で動かれているんですよね? 千咲国にも御用が?」
隣を歩く明月が、歩幅を合わせながら控えめに問いかけた。彼女の声は遠慮がちだが、興味と緊張が混ざっている。
「千咲国ってよりも、暗華石に……なんだけどね」
林琳は肩越しに短く答える。声音は淡々としているが、胸の奥に焦燥感は消えない。
――傀儡に仕込まれた術式に、暗華石が反応するか。
それを確かめる必要があるのだ。もし反応すれば、宝乱石と同質の性質を持つ可能性が高く、反応しなければ、ただの珍しい石で終わる。
どうか後者であってほしい。それを思うと、肺の奥に滞る息が重かった。
「……残念だけど、暗華石はお父様がどこかへ隠してしまったわ」
蘭が視線を落とし、親指の爪先を撫でるように触れた。言いづらさが声ににじむ。
「は……?」
林琳の声に、わずかな揺らぎが走った。
「国に戻ってきたとき、血相を変えて私から石を取り上げたの。お母様を見つけたのかって聞かれたから……全部話したわ。神子のこと、劉鳴国のこと、死霊のこと」
蘭の言葉は小さく沈む。記憶を手探りで辿るような、重い響き。
「神子との繋がりをこっそり探してみたけど……劉鳴国から届いていた文が一つもないの。お父様も知らないって」
申し訳なさが表情に浮かぶが、林琳は軽く首を振る。
「そう」
必要以上にここに長居すべきではない。悉がどのように動くか完全には読めない以上、足を止めることのほうが危険だ。
「……心脈が整ったらすぐに出て行く」
その声は平坦だが、決意は固い。
「あらやだ、暗華石がなければ私たちに用はないってこと? 本当、冷たい人ね」
蘭が口を尖らせると、林琳は呆れたように短く息を吐く。
「翠雲は沈星演舞祭には参加しなかったんだね。かなり多くの宗派がいたから、いると思ったよ」
「いつもは参加していたけど……今回はまだ片付けなきゃいけないことも多くて、見送ったわ」
蘭は肩を竦め、父の指示で動いた事情を添える。
結果としてその判断が正しかった――林琳と蘭は二人とも胸の奥でうすくそう感じていた。
夢天理に擦り寄る国、離反を企む国、同盟を求める国。外の世界は混線した雑音のようで、ひとつにまとまる気配はない。蘭はその混沌を思い浮かべ、ひそかな不安が胸に差し込む。
「明日は我が身ってね」
林琳が皮肉をこぼすと、蘭はかすかに眉を寄せる。
「縁起でもないこと言わないで」
「この情勢で縁起もくそもあるかっての」
冗談めかして軽く言えば、蘭の瞳は強く揺れ、鋭い光を帯びる。いつの間にか隣に立っていた蘭は気に食わないようだった。
「どうして笑えるの」
「人間同士の争いなんて今に始まった事じゃないだろ」
平然と返す林琳。しかし蘭の胸には、不安がしつこく残った。
もし山雫国で戦が起これば、自分はきっと平静ではいられない。仕人が戦に介入することが禁止されていることだとわかっていても――心が割り切れる保証はない。
「生死の境で規律を守っていられるかね」
林琳は顎をわずかに上げ、投げ捨てるように言う。
戦はいつでも一線を越える。
使えるものは使われ、不要になれば切り捨てられる――人が動くとき、それが常だ。蘭は言葉を失う。胸の奥に重く沈むものがある。
林琳は石段を進み、ふと軽い調子で声を掛けた。
「薬湯に連れて行ってくれるんじゃないの」
空気を変えるための言葉。だが蘭は鼻を鳴らし、わずかに睨む。
「……あなた、空気読めないの。こんな温度でよく言えるわね」
「そう? 嗚呼、明月。お前のご主人様は傷心中らしい。明月も薬湯の場所知ってるんだよね。蘭の代わりに連れていってくれない?」
縮こまっていた明月に歩み寄り、林琳はわざと視界に入る高さまで身をかがめる。それだけで、彼女の声は一段高くなる。
「へっ……!?」
「こらっ、近い!」
明月が顔を赤くして背けると、蘭が慌てて二人の間に割って入った。
「……っもう! 早く行くわよ! 明月もいじいじしてないで早くしなさい!」
「は、はい! お嬢様!」
三人は慌ただしく動き、宿の使用人たちに細かな手配を任せると、足早に裏山へ向かっていく。
その背を、物陰からひょいと現れた霓草が眺め、苦笑して呟いた。
「いやあ、随分と賑やかになりましたねー」
肩にとまった文鳥を指で撫でつつ、視線は自然と林琳へ向く。
治療は霓草の手で行った。国主の許可を得て秘薬を使ったとはいえ、半月足らずでここまで回復するのは尋常ではない。霓草の眼差しは興味と警戒が混ざる。林琳の傷跡を見ながら、かなり前に負ったと思われる刃痕の数の多さに目を留めた。それは怪奇による傷とは異なる、別の物語を語る痕跡だ。人為的で、痛々しいもの。
「絶対他に要因があるはずなんだけどなぁ」
霓草は眉をひそめる。
林琳の表情は確かに整っているが、どこか繕われている気配がある。
彼が核心をかわす様子を、霓草はこれまで何度も見てきた。
「隠しているのか、本当に自覚がないのか……うーん、どっちなんだ」
蘭と明月の世話焼きが功を奏し、今のところ林琳は軽やかに振る舞えている。だが霓草の胸には、ふつふつと小さな違和感が残る。
秘密を抱えている者特有の軽さ。林琳には、それがある。霓草は僅かに肩を竦め、遠くの山影に目を向けた。青々とした空気の端に静かなざわめき。
「嵐を連れてこないでくれよ」
その呟きは風に溶け、裏山の夕暮れへ流れて消えた。
歩き去っていく林琳の背中は静かだが、その影はどこか長く、どこか不穏に揺れていた。
◆
山の奥に白い湯気がゆらゆらと立ち昇り、風に揺れては形を崩していく。苔むした岩を縫うように敷かれた石畳の先、どっしりと立つ東屋は人の気配を拒むような静けさをまとい、境内の奥にひっそり建つ神域のようにも見えた。
瓦屋根の縁から滴る湯気の白が陽に透け、まるで王族の湯殿のような威容を放つのを目にして、林琳は思わず足を止める。
「これ、余所者が使っていいの……?」
声にかすかな怯みが混じる。東屋の奥、湯面の向こうに漂う空気が、ただの入浴とは思えないほど異質だったからだ。
「お父様がお許しになったのよ。薬湯といっても滅多に使えないわ、使わなきゃ損よ!」
「そうですよ! いつもは封鎖されているので、この機会に是非!」
明月が嬉しげに手を合わせる。
けれど林琳の耳には、湯気の向こうから微かに混じるパチパチという乾いた音が引っかかる。木の弾ける音にも似ているが、もっと鋭い。
試すように、そっと湯面へ指先を伸ばすと――。
ーーーバチッ!
「いっ……!」
弾かれたような痛みに、指が勝手に跳ねた。守衛までも肩を竦めるほどの大きな音が湯殿に響き、林琳は思わず眉を寄せる。
「頑張ってつかりなさい」
蘭は平然とした声で言い、肩をひとつ竦める。その横で、林琳の指先には細く鋭い静電気が名残のように走り、微かに青白く光った。
「おいおい、この中に浸かれって!?」
指先だけでこれなのに、全身など想像したくもない。湯面がひときわ強くぱちりと弾け、林琳は一歩引いた。
「慣れるわ……多分」
蘭はさらりと言い残し、明月を連れて東屋の柱の陰へと身を滑らせた。二人の足音が石畳に吸い込まれていく。
林琳は深く息を吐き、気乗りしない手つきで衣を解き始める。霓草のお古である衣は千咲国の細やかな仕立てが施されており、一人では着脱が難しい。袖を外すたびに布が絡まり、肩先がもたつくたびに、彼は舌打ちを溢す。街で新調しても同じ不便が待つだけだな、と淡い諦めが浮かぶ。何より贅沢など、とうに自分の生活とは縁遠いのだ。深呼吸をひとつ、胸の奥へ押し込む。
湯気の白を押し分けるように、一歩足を踏み出し、そっと湯に浸す。
ーーーバチバチッ。
「……っ」
容赦なく静電気が肌を走り抜け、足先が反射的に浮いた。痛みの余韻が脛をかすめたところで、柱の陰から蘭の声が落ちてくる。
「心力が使えないままだと、不便でしょう?」
その一言に、林琳は唇をかすかに動かす。確かにその通りだが、この痛みはどうにも気合いだけで乗り切れる類ではない。
「身体自体に負荷はかからないわ。心脈を刺激して、回復を促すだけよ」
「痛くないって思い込めば大丈夫です!」
明月の励ましが少し裏返った声で響く。林琳は肩を落とし、けれど呆れたような笑みをうっすらと浮かべた。
身体を改めて見下ろす。傷ひとつない肌に触れるのは、ただの電気の膜だ。刺す痛みは実体ではない。
息を整え、再び湯へ身を沈めるとぱち、ぱちぱちと静電気が細かく跳ねた。だが先ほどのような刺し込みはもう薄い。代わりに、じわじわと芯に温もりが染み込んでいく。強張っていた肩が、自然と沈む。
「あ゛ー……」
湯気に溶けるような声が漏れる。
「やめなさいよ、おじさんくさい」
「う゛ー……」
情けない声が返り、湯殿に乾いた笑いの気配が揺れた。
「着替えは置いておくわ。満足したら明月と一緒に衣でも見てらっしゃい」
「え、お、お嬢様!?」
「私も忙しいのよ。じゃあ、明月。よろしくね」
蘭は軽やかに石畳を離れ、その姿を湯気の向こうに消した。静けさがゆっくりと戻ってくる。残された明月は、言葉を飲み込み、足元を見つめながら呼吸を整えようとしている。
「あ、あの、衣のお仕立てですが……」
うとうとと微睡んでいた林琳は、明月の強張った声に瞼を揺らし、ゆっくりと目を開いた。湯気が淡く立ちのぼり、彼の頬を薄い白で覆っている。
「お嬢様がすでに支払いを済まされていて……どうか、受け取っては頂けませんか?」
「……それなら」
林琳は湯に半身を預けたまま、柔らかく息を吐いた。
「片燕の宗衣は白が基調でしょう? あとは確か鳥の模様が……」
「うん。裾に燕が描かれてるね」
「林琳様も、あの衣を?」
「……そりゃあ、ね」
言葉こそ軽いが、声はどこか遠かった。湯に体を浮かべながら、別の世界に触れているような淡さがあった。
「翠雲の宗衣は、この湯殿と同じ湧き湯で染めるんです。強力な保護とはいきませんが、悪縁を寄せ付けないと伝わっていて……」
「じゃあ言い伝えは嘘だね。どう見ても俺たちは悪縁だ」
林琳は湯縁に頭を預け、気だるげに言う。冗談のはずなのに、どこか本音が混じる。
「あの……本当に山雫国へ遣いを出さなくて良いのですか? せめて仁様にだけでも」
「明月。俺も仁も子供じゃないんだ、そんなに心配しなくても」
湯気の向こうで、林琳は薄く笑っていた。柔らかいのに、どこか空洞を孕んだ笑みだった。
「緊急用の通信具はあったんだけどね。地底湖に沈んじゃったし。心力も練れないから、作り直せないんだ」
肩を竦める仕草は飄々としていて、そこに焦りの影は一切ない。本来抱くはずの痛みや不安を、どこかに置き忘れてしまったようだった。
「変わった道具をお作りになりますよね」
「あの眼鏡のこと? 心力の糸が見えるやつ。天雪に押し付けて正解だったね、まさか役に立つとは」
「その節は本当にありがとうございました」
「……あれだけ酒癖が悪いお嬢様は初めてだよ」
軽口なのに、ひっかかる空白があった。音にならない疲労が、声の奥底に沈んでいるようだった。
「……仕人が心力を使えないなんて、面白い冗談だよね」
明月は息を詰める。笑いながら紡がれるその声音が、どうしようもなく怖い。明るい響きほど、不自然に聞こえる。
「不安はありませんか?」
震える問いに、林琳はゆるやかにまぶたを伏せた。
「さぁ、どうなんだろう」
「え……?」
「心脈を弄られたせいかな。……感情の起伏が薄くなっててね。鈍いって言うのかな、こういうの」
穏やかすぎる声だった。どんな痛みも悲しみも、湯の熱に溶けてしまうように淡く、静かだった。
「当主様にご報告を……!」
「いいよ。心脈が戻れば、きっと元に戻るさ」
「いいえ!」
明月は思わず立ち上がった。勢いのまま湯に身を乗り出し、沈む林琳へ一歩踏み込んでいた。
「林琳様は、もっと……ご自身を大切にすべきです!」
声が震える。熱で滲み、視界がゆらゆらと揺れる。
対照的に、林琳は濡れた髪を頬に張りつけたまま、ぽかんと明月を見上げていた。
そして次の瞬間――
「きゃ、きゃああああっ!」
明月の顔が一気に真っ赤になり、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「……破廉恥」
林琳は鼻まで湯に沈み、ぼんやりと呟いた。朱色の髪が広がる。
「ご、ごめんなさいいいいい!」
湯気がふわりと揺れ、静電気がぱちんと弾ける。その音に耳を傾けながら、林琳は静かに目を細めた。
「俺は、多分……明月が思う以上に自己中心的な人間だよ」
その声音は不思議なほど平坦で、自嘲の色すら薄い。淡く漂うだけの言葉。
明月は言葉を探し、しかし何も発せず口を閉じる。林琳の瞳は、遠くを見ているようで、しかし確かに明月を見ていた。
「大事にするとか、しないとかじゃなくてね。今はやらなきゃいけないことがあって、それを優先したいんだ」
ゆっくり吐き出される言葉は湯気のようで、触れれば消えてしまうほど儚い。明月が何かを言おうと息を吸った時――林琳の表情が目に入り、その言葉は喉で止まった。
葛藤の影も未練の揺らぎもなく、ただ静かで、透明だった。
「自己犠牲じゃないよ」
――大切にされていると気づいた。
――愛されていたと知った。
――そして、自分もまた変わるべきだと自負した。
林琳は迷わない。だからこそ、手放すことを恐れない。その覚悟は、情より強く、優しさより冷たい。
「あの馬鹿を泣かせるのは気が引けるでしょ。そっちのほうが面倒だ」
林琳は淡く微笑んだ。
その微笑みは優しさに似ているのに、熱だけが欠けていた。
明月の胸にひやりと風が通り抜ける。隣にいるはずなのに、彼が遠くへ歩き出してしまったような距離感。感情が鈍いと言いながら、今の彼の声には何かを焦がすような色が混じっていた。
その相手が誰か――明月は痛いほど知っている。
――”「誰かを好きになったことも、愛したことも、ない。これからもずっとね」”
――”「昔から好意を抱かれるのが嫌いなんだ」”
――”「人を好きになるなんて無駄なことだよ」”
あの日の言葉は、明月の期待を潰すように胸へ刺さった。彼は誰も好きにならないし、誰の好意も嫌う。愛というものを拒絶する。冷たい論理は彼らしくて、同時に残酷だった。
「……仁様が大切なのですね」
こぼれた途端、胸が締め付けられる。
いっそ本当に誰も好きにならない人でいてくれたら、どれほど楽だっただろう。そうすれば、自分の揺らぎなど生まれなかったのに。
ぽちゃんと水滴が落ちる音にしまった、と口を押さえた明月の前で――林琳はゆっくりと息を吐き、淡々と言った。
「俺が破門されたのは知ってる?」
「……はい」
答えた明月の声には、乾ききった笑みの薄膜が張り付いていた。湯気の揺らぎの中で、そのわずかな違和感だけがくっきりと浮かぶ。
「擁護するつもりはないけど……片燕は何も悪くない。全部、俺が滅茶苦茶にして……仁だけじゃなくて、片燕も、山雫国も捨てた」
静かな語調なのに、湯の向こうで見える林琳の横顔は淡い影を落としていた。表情は崩れていない。ただ、光の届き方を拒むように、輪郭がわずかに沈んで見える。その気配を感じ取ってしまい、明月は呼吸の仕方を忘れたように言葉を失う。
「本当は二度と関わらないつもりだったし、寧ろ片燕もそうすると思ってたのに。……あいつ、俺を探すために命まで投げ捨てようとしたんだって」
「……え?」
明月の喉から漏れたのは、驚きでも戸惑いでもない、押し出されるような弱い音だった。
林琳は湯面に触れ、そっと指先で水を弾く。輪のように広がる波紋に光が散り、湯気が溶け合い、視界の端がゆっくり白く霞む。その中で、彼だけが静かに留まっていた。
「おかしいよね。ただの同門。同じ師に育てられて、同じ場所で育っただけ。それだけだっていうのに……結局俺たちはお互いのことを切り捨てられない」
その声音には、薄い諦念と、削り残された優しさが混じる。
誰にも説明できない絆――切ろうとしても、断とうとしても、どこかで繋がってしまう緑の糸のようなもの。理では測れず、感情とも違う、もっと静かで深い層。
「あいつは俺をどうしたいんだろうね」
林琳の瞳がわずかに細くなる。遠い昔を見るような、懐かしさと痛みを同時に透かした表情。仁という人間に向けられる揺るぎのない信頼。それが林琳にとっての唯一であることは、説明されなくとも明月に伝わった。
「だから、明月。蘭を大切にしてあげて」
不意に向けられた言葉に、明月は胸の奥がきゅ、と縮むのを感じた。
林琳の声は柔らかく、けれど遠かった。
距離を置くというより、風がふっと抜けていくような、触れようとすると指をすり抜ける淡さ。
「あの立場って色々と振り回されることが多いからね。ある日突然、見えてたものが見えなくなったりする。それは本当に突然で、気付いたときには……何も見えなくなってる」
ぽたり、と水滴が落ちる音。衣が湿り、布が擦れる柔らかな響き。言葉よりも静かな音たちが、この場を支配していた。
林琳の言う見えなくなるは視覚のことではない。信じていたものの形が崩れ、支えとしていたものが砂のようにほどけていく、その喪失を指しているのだと明月は悟った。
明月は膝を抱き、小さく頷く。それ以上は、どんな言葉も薄っぺらく思えてしまい、口を閉ざすしかなかった。
「……街には霓草と行ってくるから」
その一言を合図に、林琳は立ち上がる。
湯気がふわりと肩に触れ、白い靄の中へ彼は溶けるように歩き出した。明月には、引き止める言葉も手もなかった。湯殿に残されたのは、ぬるい空気と、鼓動の余韻だけ。
――これで、いい。
守衛に明月を託して林琳はそう思う。
明月の前だと、なぜか言ってはいけない部分まで言葉が零れてしまう。きっとそれは彼女の眼差しが嫌になるぐらい真っ直ぐで、嘘や誤魔化しを受け付けない透明さを持っているから。
濡れた髪を乱暴に拭きながら湯殿を出ると、外の空気がひんやりと頬を撫でた。石畳を踏む音が、しんと静まり返った屋敷に小さく響く。霓草の部屋の戸を軽く叩くと、明るい声が弾んで返ってきた。
「お、薬湯から上がったんだね! どうだった、千咲国の秘伝の薬湯は」
「不思議な感じ……かな」
林琳は手を開いては閉じ、まだ指先に残る感覚を確かめる。その様子に霓草は目を輝かせ、首を傾げた。
「あれ、明月はどこに?」
「用事を思い出したみたい。霓草、暇なら一緒に街について来てよ」
「え、あ、あぁ……いいけど、少し待ってくれないか」
部屋を覗けば、翠雲の弟子たちが紙を広げ、忙しなく書き込みをしていた。
「林琳様、こんにちは」
少年たちにつられて小さく林琳はぺこりと会釈する。
「敷地内を散歩しててもいい?」
「あぁ、ゆっくりしてて」
林琳は二段飛ばしで足軽に階段を駆け降りると、足元の水路に小魚が泳いでいることに気がつく。
松季国の洗練された庭とは違い、ここは素朴で飾り気がない。苔むした石、水草、ゆるく揺れる影。それだけなのに、不思議と落ち着く景色だった。
「そういえば……庭園は確か……」
劉鳴国の庭園は千咲国の職人が手掛けた、と以前聞いたことがある。
蘭は守衛がいる場所以外なら自由に見ていいと許されている。体調も薬湯でかなり軽くなったし、少しばかり散策してもいいだろう。
林琳は濡れた髪をひとつに束ね、気の向くまま屋敷の奥へと歩幅を整えながら、風のように淡く、気配だけを残して進んでいった。
庭の入口へ戻る道すがら、林琳の足取りはいつのまにか緩やかになっていた。白砂利を踏むたび、さらりと小気味よい音が広がり、その一定の響きが心の表面を静かに撫でていく。
「とんだ邪魔が入ったな」
決めた進む方向に答えがあるとは限らず、単純ではない。
風がひと筋、袖を揺らす。髪先が頬へ触れ、林琳は指先でそっと払った。
――これから、どうしようか。
胸の奥に淡く浮かぶだけの思考は、形を成す前にまた崩れていく。焦りでもなく、かといって諦めとも断じきれない、乾いた静けさだけが残った。
そんな曖昧な沈黙の中で、ふと仁の顔が思い浮かぶ。
困ったときに眉尻がわずかに下がるのも、必要以上に踏み込まず、それでも距離を詰めてくる優しさも、鮮やかに甦る。黙っていても、ふと先回りするような一言を残す。
何よりも、彼は林琳の手を引き続ける。
心力が使えないと知れば、彼はどうするだろう。
胸をかすめるだけの問いは風とともに遠ざかり、答えを残さない。頼りたくなる瞬間は確かにある。しかし、それを手に取るには、まだ自分が揺れすぎる。
林琳は歩きながら、生垣の白い葉を指先でなぞった。ひんやりした感触が、心の縁を落ち着かせていく。
「……完全に絆された」
言葉にした途端、歩幅がいくらか軽くなる。
ふと、ふらりと黒い靄が目の前を泳ぎ抜けた。
既視感のある影だった。風の揺らぎと見紛うほど淡いのに、呼吸を奪うほど鮮明。思わず足が止まり、視線がその軌跡を追う。靄は庭石の上を滑るように進み、誘うように揺れた。
わずかに空気が冷える。ひんやりとした、氷のような冷気だ。
彼はそれに誘われるように一歩ずつ踏み出す。
気づけば、足元の白砂利は途切れ、庭園の奥から伸びる、細い石畳の上に立っていた。
風がひと筋、袖を揺らす。
――ここは。
視線を巡らせて、林琳ははっとする。
花園の外縁。王妃の自室へと続く回廊に至る道だ。立ち入りが禁じられ、常に守衛が置かれる場所。自分が近づくべきではない区画の先に、動かぬ人影があった。
「そこまでです」
低く、よく通る声に林琳が顔を上げると、守衛がこちらを見ていた。視線は鋭いが、敵意はない。
「その先は立ち入り禁止ですよ」
「……失礼しました」
反射的に一歩退く。
なぜ、ここまで来たのか。庭園を出た記憶が、どうにも曖昧だ。視線を落とすと、さっき見たはずの黒い靄は、もうどこにもなかった。胸の奥に残るのは、恐怖ではなく、説明のつかない違和感。
靄に気を取られていたせいで——遠くからの叫びに気づくのが遅れた。
「避けてくださーい!」
振り返ったときにはもう遅い。光を反射し、丸い玉が弧を描いて飛んでくる。心力を練り上げてーーだが。
「あ、……」
どぼん、と水音が跳ね上がる。
額に衝撃が走った瞬間、林琳の身体は後ろへ弾かれ、浅い池へ尻から落ちた。冷水が衣の内側まで染み込み、背筋を一気に凍らせる。
「ひ、人が落ちたぞー!」
「大丈夫ですか!?」
「お、おい……国賓になんてことを……!」
水面には大きな波紋が幾重にも広がり、陽光を歪ませて揺らしている。額には赤い丸——玉の跡が無慈悲なほどくっきり残っていた。弟子たちが慌てて駆け寄り、手を差し伸べる。
だが林琳は、濡れた袖を握りしめたまま、立ち上がれなかった。じんわりと冷たい水が沁み込んできても、唖然としたままだ。
林琳の胸の内側で、ひとつの事実が冷たく砕け散る。
——そうだった。
触れようと伸ばした指先が、虚空を掴むような感触だけを返す。
そこへ、足音を叩きつけるようにして霓草が駆けてきた。
「一体何の音……!」
人垣を押し分け、池の縁へたどりついた霓草は息を呑んだ。
「どいて、どいて!」
迷いなく伸びた腕に引き上げられ、冷え切った身体が揺れる。
「すみません! 霓草様! 僕たちの玉が……!」
「……この額の跡は……あぁ、そういうこと……。大丈夫。それより湯浴みの準備を頼めるかな」
「は、はい!」
身体の内側まで冷えきっていた。薬湯で温めたばかりの熱が、すべて流れ落ちてしまったようだった。
「歩ける?」
差し出された霓草の手を、林琳は静かに押し返す。前髪から滴る雫が頬を伝い、表情を隠した。
「……あぁ」
かすれた声が落ちる。
袖を合わせ、震えを隠すように霓草へわずかに視線を向けた。
「ごめん、衣汚した」
林琳の謝罪に眉を下げた霓草は、一瞬だけ言葉を呑み込むように口元を閉ざす。
「いいんだよ、気にしないで! あの子たちは後で叱っておくから、早く湯に浸かるといい」
「はぁ……くしゅんっ」
小さなくしゃみが漏れると、明月が毛巾を抱えて駆け寄ってきた。
「ありがとう」
毛巾を受け取り、髪を乱雑に拭う。濡れた衣から落ちる雫が、石畳に淡い斑点をつくっていく。
「街へ行くのは明日にしようか。ここにいるのも息が詰まるとは思うけど、退屈凌ぎにいくつか本を貸してあげるから」
「本当にすみませんでした!」
深く頭を下げる弟子に、林琳は軽く手を上げて制した。だが少し離れた場所では、小声のやり取りが続く。
「なんで避けなかったんだ?」
「考え事でもしてたんでしょ」
「いや、球を見てたぞ」
「病み上がりだから仕方ないよ」
噛み合わない憶測が散り散りに風へ溶けていく。
そのざわめきの中、林琳は滴る水を払い、静かに歩を進めた。
*****
薬湯とは別の湯殿には白い湯気が立ち込め、薬草の香りがゆるやかに鼻をくすぐった。張られた湯に肩まで沈み込み、揺れる水面に映った自分の顔をぼんやりと見つめる。
「なっさけない顔」
濡れた前髪に貼りついた額。
力の抜けた視線。ほんの少し口角が落ちて、普段よりも数歳は老けて見える。
こんな顔では笑われるに決まっている。
林琳はばしゃりと水をすくい、顔へかけた。流れ落ちる温い雫を追うように、身体をゆっくり沈める。
水中では、すべての音がくぐもる。
呼吸の鼓動すら遠くなり、自分がどこにいるのか曖昧な感覚に包まれる。
湯の揺らぎの中、林琳はゆっくりと膝を抱え、両足首へ手を伸ばす。
そこに刻まれた奇妙な痣の曲線を、指先でなぞる。心脈は生きている。それなのに心力だけが扱えない。
理由はわかっている。
劉鳴国で朱禍にかけられた呪いと同じ——。さっき薬湯が過剰に反応したのも、その呪いが薬気に反発したせいだ。
「術者は同一人物で間違いないな。朱禍から感じたものと一致する」
低く漏れた声が、湯気にとけて曖昧に散った。水面越しの霞んだ視界に、再び黒い靄が揺れる。劉鳴国で姿を見せて以来、消えたと思ったそれがまた現れた。湯殿の静けさのなかで、靄だけが別の世界から滲み出たように揺らいでいる。
——呪いを解くには別の仕人がいる……。蘭や明月では無理。当主なんてもっての外。そもそも呪いの理が分からなければ跳ね返りに殺される。
指先が湯を掻くたび、小さな泡が弾けて消える。方法を教えるということは——自分が禁忌を犯したと白状するのと同じ。それだけは決して許されない。自分の身から出た錆なのだから、罰が下るのは当然ではあるものの、今はその時ではない。
そうなると最も早く、最も確実なのは——術者の死。
そして最近、夜ごとに見る“あの夢”を思い出す。
いや、正確には夢を見たということ以外を思い出せない。
目覚めた瞬間、胸がざわつくほど鮮烈な感触だけが残るのに、内容が何一つ掴めない。
声がした気もする。誰かの手が触れたような気もする。だが、それ以上は砂のように指の隙間から落ちてしまう。夢と呪いが関係しているのか、それともただの疲れなのか。確かめる術がないという事実だけが、ひどく不気味だった。
「……はぁ」
林琳は湯から顔を上げ、湿った天井の梁をぼんやりと見上げた。湯気がふわりと立ち昇り、灯りをぼやかしながら淡く消えていく。
きっと——今夜も眠れない。
◆
霓草は、林琳の姿を追い続けている明月の隣へ、足音を殺して近づいた。
白砂を踏む音すら惜しむように歩き、袖の中から小さな菓子包みを取り出す。
半月ほど千咲国に滞在するうちに、明月の視線が向かう先は、いつも同じだと嫌でも分かるようになっていた。
朝の庭でも、回廊でも、そして今も彼女の目は、無意識のうちに一本の背へと吸い寄せられている。霓草は菓子を差し出し、彼女の横顔を覗き込んだ。
「……どうぞ」
明月は一瞬、はっとしたように瞬きをし、それから慌てて両手を差し出す。
「す、すみません……ありがとうございます」
受け取った菓子は、掌の上でやけに小さく見えた。
それでも明月は落とさぬよう、指先をすぼめ、そっと胸元へ引き寄せる。
その仕草が、あまりにも大切そうで霓草は一瞬だけ、目を伏せた。菓子を用意した理由が、気遣いだけではないことを、自分が一番よく知っている。
「明月」
呼びかけると、彼女はぴくりと肩を震わせた。
「彼は……やめておいた方がいい」
霓草は視線を林琳から外さず、低く言う。
「君とは、見ている世界が違う」
言葉を切り、喉の奥で息を整えた。
「それに、彼の歩く道は最初から茨だ。隣に立つには……血を流す覚悟が要る」
それは忠告であり、同時に――自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
明月は何も言わない。ただ、菓子包みを握る指先が、わずかに強張った。
明月自身もわかっていた。
彼女の瞳に宿る熱は、ただの憧れではない。ほんのり染まった頬、落ち着かない呼吸――それがすべてを物語っている。
「あの衣、よく似合っているだろう」
霓草は話題を逸らすように言い、顎で林琳の方を示した。
「本人は嫌がったけど……せっかくだから、片燕らしいものに仕立ててもらった」
林琳が纏う衣は、光を受けて淡い緑を帯び、動くたび静かに揺れている。黒の帯が全体を引き締め、袖には笹、裾には燕。千咲国ではほとんど見ない配色。それなのに、不思議と彼には馴染んでいた。同時にそれは、ここに留まる人間ではないという、否定しようのない証でもあった。
「……遠い存在、ですね」
明月はそう言って、かすかに笑う。
霓草は、その横顔から目を離せなかった。彼女が見ているのは林琳で、自分ではないと知りながら。
――遠いなら。
喉まで出かかった言葉を、何度も飲み込んできた。彼女がこちらを見ないと分かっていても。
そして、ある日のこと。
明月が差し出した茶を、林琳はいつも通り受け取った。
「ありがとう」
短い礼。
湯呑みから立ち上る湯気の向こうで、彼はふと顔を上げる。何気なく、あまりにも自然に。
「……仁、あのさ」
名を口にしてからほんの一瞬。
「……ごめん」
それだけだった。
弁解も、言い直しもない。ただ、なかったことにするように視線を戻す。
その瞬間――明月の中で、はっきりと何かが崩れ落ちた。
呼ぶべき名がある。迷わず、反射のように口をついて出る名が。それは自分ではない。最初から、席など用意されていなかった。盆を持つ手が、かすかに震える。明月はそれを見られぬよう、そっと一歩引いた。
霓草は、その小さな後退を見逃さなかった。
――あぁ。
胸の奥で、静かに理解する。彼女は今、完全に折れたのだと。
その夜。
霓草は廊下の先で、足を止めていた。灯りの落ちた侍女部屋の前。閉ざされた扉の向こうから、かすかな嗚咽が漏れている。声を殺した泣き声だった。布に顔を押し付け、必死に抑え込もうとしているのが、かえって痛いほど伝わってくる。
霓草は扉に手を伸ばしかけ――止めた。
叩くことも、名を呼ぶことも出来ない。
慰めればいいのか、寄り添えばいいのか、それすら分からない。ただ聞いてしまった。聞いてしまった以上、知らなかったふりも出来なかった。
一晩中明月は泣いていた。遠さでも、茨の道でもない。名を呼ばれないという、決定的な現実に。
霓草は廊下の壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じる。胸の奥に、どうしようもない鈍い痛みが沈んでいく。
――自分にしておけばいいのに。
その考えが浮かび、同時に消える。
彼女の心に、自分の名が呼ばれる余地などなかったことを、誰よりも理解していたからだ。
翌朝、目を真っ赤に腫らした侍女を見て、蘭は耳飾りを握り潰した。
「あなたを泣かせたのは……あの馬鹿ね?」
「……私が勝手にお慕いして、勝手に諦めただけです」
それからの明月は変わった。
林琳を前にしても逃げず、視線を落とさず、必要な言葉だけを口にする。期待もしないし、近づきもしない。それが、彼女なりの答えだった。
朝餉の配膳も、庭の掃除も、来客の案内も、すべて滞りなくこなす。声の調子は変わらず、歩幅も、姿勢も、以前と同じ。ただひとつ違うのは林琳の背を、無意識に追わなくなったことだった。
霓草はその変化にすぐ気づいた。
視線が交わることはあっても、そこに揺れはない。かつて宿っていた熱は、きれいに伏せられ、磨かれ、どこにも零れていない。
昼が近づくにつれ、庭には穏やかな気配が満ちていった。陽は高く、風は弱く、白砂が淡く照り返す。子供たちの声が遠くから聞こえ、回廊では使用人たちが静かに行き交っている。
明月は一通の文を手に、林琳の前に立つ。必要な報告だけを、簡潔に。彼が顔を上げる前に、すでに一歩、距離を取っている。
林琳は特別な反応を示さなかった。ただ文を受け取ると礼を述べて引き留めることもない。すぐに視線を書へ戻す。
そうして時は、何事もなかったかのように流れていく。
林琳は食事を摂った後、書を片手に川辺で一人休んでいた。
「林琳様ー! 一緒にあそぼー!」
背中にずしりと子供の重みがのしかかり、林琳はげんなりと眉をひそめた。
「かくれんぼしよ!」
「いやだ! 凧揚げがいい!」
元気のよい声の持ち主は街の子供たちだ。その威勢のよさや容姿に、燈村の記憶がふと蘇る。
「林琳様、なにしてるの?」
「書を読んでる」
ほら、と薄い書を振る。
「えー! じゃあ、僕たちと遊ぼうよ!」
十にも満たない子供は書に興味もないようで、遊んで欲しいと林琳を囃し立てた。
「遊ぶって……なんで俺が……」
「公主が林琳様は暇人だって言ってたよ。だから遊んでもらえって!」
一応、国賓なのだがーー蘭がそう言ってしまった手前、仕方がない。
林琳は乗りかかっている子供を背負いながら立ち上がった。前傾姿勢で長時間座り続けていたせいで、身体中からぽきぽきと空気が抜けた。
「すぐそこの川で遊ぼうよ! それに、あの川には沢山お魚がいるんだよ!」
「魚ぁ……?」
「うん! 魚が入り込みやすいように石を積んで追い込むと沢山捕れるし、脂がのっていて美味しいんだ」
「林琳様はどんな遊びが好き?」
「狐拳? 凧揚げ? それとも、影踏み?」
残念なことに彼の人生にはそのような時期はなかった。
それだけでなはい。昔、天雪や花月が幼かった頃は何をして遊んでいたかーー彼にはもうほとんど思い出せなかった。辛うじて思い出せるのは符を使って小さな人形を動かして、くだらない人形劇をしていたことぐらいだ。それも仁の言う通りに動かしていただけで、この子供たちと上手く遊んでやる自信がない。
ましてや、今は心力を使うこともできない身だ。
どうしたものかと林琳が表情を曇らせていると、両手に温もりが伝わる。
「林琳様、本当は忙しい?」
「わがまま言ってごめんなさい」
姉妹だろうか。お揃いの髪飾りを付けた子供が不安げに彼を見つめる。
「……子供だけじゃ危ないから違う場所で遊ぼう」
彼の提案に姉妹は頬を緩めると、うん、と大きく返事をした。
「みんな、広間に行こう!」
「林琳様が遊んでくれるって!」
あれよあれよと子供に囲まれて穏やかな広間に辿り着く。そこでは老夫婦がお茶会を楽しんでいたり、身ごもった母親が編み物をしている姿があった。子供たちがわらわらと広間で遊び始めると、林琳は近くの椅子に座ってその様子を眺めようとしたがーーそうはいかない。姉妹に繋がれた手によってその輪に加わることとなる。
「俺、蹴鞠がいい!」
一人の男児が鞠を持ってくると、自ずと蹴鞠に決まった。
ひょい、ひょい、と器用に何度も足先で蹴り上げてみれば、案外簡単な遊びだと林琳は笑う。子供相手に本気になることもなく、林琳は取っ散らかる鞠を拾いに行く係に徹した。途中、身ごもった母親が「ありがとう」と礼を言うので首を傾げていると、どうやらあの姉妹の母親らしい。
ぽん、と軽く蹴り返して、林琳は夕日に目を細める。すっかり日が傾いてきた。子供たちも帰る時間だろう。そうやって林琳が考えていると、一人、二人と子供が手を繋いで帰っていく。
その光景がどこか暖かくて、またね、と言って振られる小さな手に微笑んだ。
彼が纏う衣から山雫国の出身だと伝わるはずなのに、彼らは快く受け入れ入れてくれただけではなく、こうやって関わりを持とうとしてくれている。そして、己も優しさを受け入れようとしている。
頬を擽られるようなもどかしさに、鞠を蹴っていた足に力が籠る。
「あ……」
林琳の口が、情けないほど間の抜けた形で固まった。
「うわあ……!」
「林琳様、すごーい!」
いや、全くすごくない。どちらかといえば林琳の顔色は真っ青で、放物線を描いた巨大な鞠はパリンと乾いた音を立てて、よりにもよって立ち入り禁止の王妃の自室へと吸い込まれていった。
終わった。
脳裏で鐘が鳴り響くように、林琳はその場に立ち尽くした。
「ちょっと力が入っただけなのに……」
だが、このまま逃げるような真似だけはできない。
林琳は腹を括り、守衛にすべてを説明した。事情を聞いた青年はあまりの恐怖に青ざめて倒れそうになりながらも、当主への取り次ぎを承諾してくれた。
「大変申し訳ございません……」
拱手しながら深々と頭を下げる。首が飛ぶなど現実的ではないが、それでも背中を伝う汗は止められなかった。袖の中で、引き攣った指先が震える。我ながら下手なことをやってしまった。
もし国賓の身分でなければ、今ごろ自分は罪人として扱われていたに違いない。
「はぁ……」
ため息混じりの花狐の声に、林琳はさらに縮こまる。
「弁償します」
――山雫国が、と心の中で付け足す。
宗主の耳に入れば、まず怒鳴られるだろう。間違いなく。胃が痛む未来が容易に想像できた。
「……明月に片付けさせるから、もうよい。気にするな」
花狐も林琳が犯人だと想像もしなかった。
いつも大人しく書を読むか、風に当たって居眠りしているかのどちらかだったのだ。
「図々しいお願いだとはわかっているのですが、その……宗主には……」
ちらちらと花狐の表情を窺う林琳に、当主は目を瞬かせた。
「師がおそろしいか」
まるで親に叱られるのを恐れる子どものようだ、とでも言いたげな声音だった。
「偶然、渡り鳥が小石を落としていっただけだ。ところで経過はどうだ。まだ心力は練れないのか?」
「え、あ……そうですね……」
予想以上にすんなりと許されてしまい、拍子抜けするほどだった。林琳は恐る恐る顔を上げる。
「心脈は確かに生きています。ただ、巡りを邪魔する力があって……」
十中八九、呪いの残滓に違いない。
蘭から閲覧を許された蔵書閣を漁っても、やはり明確な答えは見つからなかった。
「……準備ができ次第発とうと思います」
「しかし、お主がそのような身体になったのは霓草のせいだろう。このままでは霓草だけでなく、私の面目も丸つぶれだ」
「いえ、充分に療養させていただきましたので……これ以上、お世話になるわけには」
「山雫国には知らせを出している。すれ違いにならぬよう、返事が来るまではここにいた方がいいのではないか?」
「……それは」
——その通りだが。
まして王妃の自室を破損した直後である。心苦しさは否めない。
「体術の心得は?」
「必要最低限はありますが……基礎体力が一般より少なくて。正直、向いていません。この状態では霓草にも勝てないと思います」
「心力に頼って生きてきたのか」
「はい」
恥ずかしげもなく言ってしまったが、事実だった。花狐は呆れたように眉をひそめる。
そうして沈黙が続くと、花狐がふと、何かを思い出したかのように口を開いた。
「――破門という処分は、重い」
断じるような声だった。
「弟子の才を否定するものではない。人格を否定するものでもない。だが、宗の名を背負わせないという意味では、これ以上なく明確な線引きだ」
林琳は黙って聞いている。
否定も肯定もしない。ただ、その言葉が胸の奥に沈んでいくのを待っていた。
「それでも片燕は、お主を完全には切らなかった。公には断ち、私的には縁を残した。……それは随分と不器用な選択だ」
花狐の視線が、じっと林琳を射抜く。
「普通ならば、どちらかに振り切る。守るなら守る。切るなら切る。中途半端は、周囲を混乱させるだけだ」
林琳の喉が、わずかに鳴った。
「……片燕は変わり者ですからね」
「知っている」
即答だった。
「だがな」
花狐は一歩、言葉を踏み込ませる。
「それは結果だ。私は理由を聞いている」
空気が張りつめる。
林琳は、後ろ手に指を組み直した。絡めた指先に、無意識に力が入る。
「破門に値することをした、とお主は言ったな」
「……はい」
「それは、裏切りか?」
林琳の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「それとも、守るためか?」
返事が、出ない。
花狐は急かさない。
ただ、逃げ場だけを静かに塞いでいく。
「宗を危険に晒したのか。宗主の判断を越えたのか。あるいは……」
一拍置いてから、低く続ける。
「犯してはならぬ何かに触れたのか」
林琳の息が、わずかに乱れ、ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「随分と詮索をなさる」
「私は推測しているだけだ」
花狐は淡々と返す。
「だが、お主の口から聞かなければ、意味はない」
沈黙。
長い、長い沈黙。
林琳は俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺が……愚かな選択をしただけですよ」
それ以上、言葉が続かない。
——否、続けてはならない。
「それだけか?」
「……それだけです」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
花狐は、しばらく林琳を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「確かもう一人……そうだ、長髪の男がいたな」
「仁のことですか?」
「あぁ。蘭が面白そうに話していた。彼には恋仲がいるのか?」
吹き出さなかったのは奇跡だった。林琳は引き攣った笑みを浮かべながら、慎重に声を返す。
「婚約が白紙になったのでな。蘭もそろそろ先のことを考えて……」
蘭のためか、千咲国のためか――どちらの意味が強いのか測りかねる。だが外交的に考えれば、片燕の人間と縁を結ぶという選択肢はまずないはずだ。
「その、当主」
林琳は言いにくそうに口を開いた。
「あいつはお節介ですし、事あるごとに突っかかってくるし、やめろと言っても聞かない馬鹿です。所作や人付き合いは師匠に似て器用ですが……かなり我儘で……」
言い始めたら止まらない。林琳はもはや愚痴を溢れさせるように続け、花狐は面白げに耳を傾けていた。
「仕人としては優秀ですし、これからの片燕を背負っていく器量もあります」
「ほう」
「ただ、その……」
「申せ」
「女の気配が一度もないのです。一度も!」
思わず声が跳ねた。
「師匠や弟弟子に聞いても、任務以外で女を連れて歩いているところを見たことがないと! そんなことありますか!?」
そう、欲の処理をどうしているのか――余計な心配をしたのは林琳だけではあるまい。
「もしかしたらあっちが不全かもしれない……」
あっち。つまり男の、あれだ。
仁に関する色恋沙汰の噂はこれまで一度も聞いたことがない。そして林琳が出した結論は――“使えない” から付き合わないのでは、という推測だった。容姿端麗の男に女性の影すらないなどあり得ない。普通なら。
花狐は眉間を押さえ、深くため息をついた。
「……この話はやめよう」
「……すみません」
空気を切り替えるように花狐は咳払いを一つし、表情を整えた。
「お主の国命について尋ねてもよいか」
「えぇ、お応えできる範囲にはなりますが……どうぞ」
林琳は声を落ち着け、静かに答えた。正堂には夕刻の赤が流れ込み、床の文様に細い影を作っている。花狐は盃をゆっくりと回していたが、その指はわずかに強張っていた。
夕陽を受けた花狐の横顔は硬く、沈黙は鉄の匂いを帯びている。林琳は言葉を続ける前に、花狐の呼吸が細く深く変わるのをじっと見守った。その変化を確かめるように。
「山雫国が変死体を追っているのは知っている。現状、お主はこの騒動をどう見ている」
花狐の声は落ち着いているようで、どこか金属の擦れたような揺らぎがあった。
「そうですね……変死体そのものは呪術を用いたものです。傀儡は魂を入れ込む器。幸楽美国では、実際に人の身体を用いて完成に近いものも確認しています」
林琳が淡々と説明すると、花狐の眉間の皺が深まり、盃を握る指先に力がこもる。盃の縁がかすかに軋んだ。
「傀儡は人を模したものですが、本来の目的は別にあるかと。死体に魂を定着させる術……永遠の魂の保存。それが狙いでしょう。あくまで推測ですが」
花狐の喉が動き、呼吸が荒くなる。盃の底を押す指が白くなり、肩が一度震えた。
林琳は花狐の変化を静かに捉え、無理に間を置かず話を進めた。
「ろくでもない考えですよ」
盃を持つ花狐の掌が震え、液面が波立つ。沈黙が長く落ちた。
「当主。僭越ながら、こちらからも問いを」
林琳は身体の角度をわずかに傾け、礼を失さないよう丁寧に口を開いた。
花狐はすぐに返事をしなかった。目線がわずかに揺れ、胸が上下している。数呼吸の後、押し出すように声が漏れた。
「……申せ」
「王妃が神子と交わした文が残っているはずです。蘭から伺いました。王妃はそういった物を必ず保管される方だったと。それを拝見できませんか」
花狐の指が止まった。
次の瞬間、盃が──握り潰された。
捻じ切れるような音が正堂に響き、破片から酒がぽたりと滴り落ちる。
「意図は?」
声は濁り、低く沈んだ。先ほどまで人の声だったものが、怒りに焼かれ形を変えた。
林琳は姿勢を正し、呼吸ひとつ乱さず答えた。
「王妃の死には不審な点が多い。幼少期には劉鳴国で先代神子と共に育ち、千咲国へ逃れた理由も文により明らかになっています」
花狐の胸が激しく上下する。肩が震え、指先の節が白く浮いた。
「神子は王妃に何を伝えたのか」
花狐の唇がわずかに痙攣し、眼差しが揺さぶられた。
「王妃は、何を知ってしまったのか」
花狐の息が荒く漏れ、足元で衣が震えた。
「夢天理が関与しているのなら、なおさら確認すべきです。神子と王妃の繋がりの核心を」
花狐は目を大きく開き、後退るように一瞬だけ身体を引いた。だがすぐ前のめりに戻る。
「例えば……神子が王妃に永遠の身体を授けようとしていた、とか」
「黙れ!!」
怒号が爆ぜ、正堂の空気が震えた。
花狐の拳が卓を割り、厚い木材に亀裂が走る。破片が跳ね、床に鋭い音を立てて散った。
侍従たちの悲鳴。霓草と明月が遠くで立ち上がりかけて動きを止める。
「黙れ黙れ黙れ!!」
二撃目で卓は砕け散り、破片が柱に当たって鈍い音を響かせる。
花狐の瞳は大きく見開かれ、荒く吸い込む息が胸を押し上げる。怒りの勢いに身を預けるように前へ踏み出し、崩れぬために怒りにしがみつくような姿勢になっていた。
「勝手が過ぎるぞ……礼を欠いている……!」
「申し訳ございません」
林琳はすぐに膝をつき、深々と頭を下げた。視線を上げることなく、花狐の足元の揺れ、荒い呼吸、拳の震えだけを静かに受け止めた。
「部外者が……立ち入るべきではない……!」
「その通りでございます」
花狐は卓の破片を壁に叩きつけた。壁が大きく凹み、木片が散って落ちる。
正堂の入口には混乱の気配が満ち、空気は熱を孕んでいた。
花狐の怒りは収まらず、肩が上下し続ける。声も出せず、ただその場に立ち尽くしていた。
「無礼をお許しください」
林琳は頭を下げたまま、乱れた空気の沈静を促すように静かに呼吸を整えた。
花狐の怒りの奥に渦巻くものを見せつけられた者たちは、誰も言葉を発せられなかった。
「これだけ滞在させて頂いたにも関わらず、お役に立てていないのが心苦しく……」
林琳は静かに頭を下げた。
その声音はあくまで穏やかだが、瞳の奥には、どこか踏み出す覚悟を固めた影が揺れていた。
薬湯で呪いを解くことはできない。心力が使えないのは確かに不便だが、それを嘆くより前にやるべきことがある。
「明日、ここを発ちます」
そう結論づけるまでに費やした時間の重さが、その一言に凝縮されていた。
「え、え、待ってくださいよ!」
突然の宣言に、霓草が人だかりを押し分けて飛び出してきた。
顔色を青ざめさせ、必死に林琳へ手を伸ばすその仕草に、周囲の者たちもざわりと息を呑む。
「どうして急に!?」
「急じゃないよ。肉体の怪我はもう完治してるし、支障はない。むしろ長居しすぎたぐらいだ」
淡々と告げる一方で、林琳は心の内でそっと息を整える。
優しい人々の中に留まりたい気持ちが無かったわけではない。
しかし——立ち止まれば、悉の目にも止まる。その危機感だけが、彼を再び歩ませる。
「それに……当主様の取り計らいにより山雫国より伝令が届きました。明日には遣いが参りますので……恐れ入りますが、出国の支度をしても?」
「……好きにせよ」
花狐は抑えた声音でそれだけを告げた。
短い一言だが、その奥にある複雑な感情は簡単には読めない。
霓草はわなわなと肩を震わせ、何か言いたげに唇を噛む。林琳はその肩に手を置き、柔らかく叩いた。
「ごめんね霓草。本当はもっと早く言えばよかったんだけど……」
医者としての尊厳を傷付けてしまったことに変わりはない。
「はぇ……?」
「呪術。仕人なら知ってるでしょ」
その言葉が落ちた瞬間、場がざわついた。
禁忌の響きを持つ単語が空気を震わせ、ざわざわとした不安が一気に広がっていく。
「地底湖で俺たちを襲った人間が術者だ。あいつを見つけない限り、呪いは解けない。だから、ごめん」
ここで立ち止まるわけにはいかない。
林琳の瞳には術者を必ず追い詰める、そんな揺るぎない意志が宿っていた。
「明日の午前には遣いがくると思う。街まで通してもらえるかな。合流してすぐに発つよ」
「あ、あぁ……それは勿論」
正堂にはまだざわつきが残り、空気は不安と恐怖で満ちつつあった。
誰もが息をひそめ、肩を寄せ合い、まるで自らの足元が崩れ落ちるのを待つかのように視線を伏せる。
「林琳、こんなことを聞いても良いのかわからないんだけど……呪いを受けても人はそんなに元気なものなの?」
「多分大丈夫なんじゃない?」
「えぇ……そんな適当な……」
「俺だって初めてなんだから。こうやって生きてるってことはそうとしか言えないでしょ。幸いにも身体は霓草のお陰で過去一健康体だし」
「うん、まぁ、それは良かったけど……」
得体の知れない、禁じられた術が近くにある——ただそれだけで人は怯える。
使用人たちは肩を寄せ、ささやかな祈りのように手を握りしめる者もいた。
次は自分かもしれない。禁忌がなぜ今も息をし、どこかで受け継がれているのか。術者とは誰なのか。
そんな恐れが囁き声となって漂う。
ーー ダンッ。
「静まれ」
花狐の拳が木床を揺らすほどに叩きつけられた。
声には威圧よりも、宗派を背負う者としての責務が込められている。
「もし……我が宗派より愚かな過ちを犯す人間が生まれることがあれば……死よりも恐ろしい地獄が待っていることを覚えておけ」
正堂は一瞬で水を打ったように静まる。
誰も動けず、誰も息を大きく吸うことすらできない。恐怖と緊張が張りつめ、空気がひび割れそうなほどだった。
しかし林琳は、そんな空気の中でも冷静だった。
邪な考えを持つ者は——かつての自分がそうであったように——誰にも悟られず、密かに継承される術へ手を伸ばす。
疚しさがなければ踏み込まない領域へ、容易く足を踏み入れてしまうものだ。
「皆さまもお騒がせしてすみませんでした」
ぺこりと頭を下げる。
だが続いた言葉には、凛とした芯があった。
「ふとした時に平穏は崩れ去る」
影の下で、崩壊の道はゆっくりと繋がり始めている。気づく頃には取り返しのつかない場所まで伸びている、それが呪術という存在の厄介さだ。
曖昧な慰めを述べる暇はない。
林琳はまっすぐ前を見据え、力強く言葉を継いだ。
「俺たち山雫国は、当たり前だった平穏を取り返す。そのためにも……是非、当主様にもお力添え願いたい」
重圧の中で、林琳は花狐の瞳を真正面から射抜いた。その視線は、ただの依頼ではなく、仕人としての覚悟そのものだ。
「……その申し出、受け入れよう」
「心より、感謝します」
ぱたぱたと廊下を駆ける軽い足音が、静まり返った空気を震わせた。ざわめき立つ野次馬の間が自然と割れて、小柄な影が勢いよく飛び込んでくる。
「林琳!」
蘭と明月だった。
普段は凛とした姿を崩さない蘭が、髪も衣も乱したまま駆けてきた姿は、公主としての威厳などとうに吹き飛んでいる。心配で胸が焼けるほど、じっとしていられなかったのだろう。
「では当主、俺はこれで失礼します」
林琳は場の気配を敏感に察した。ここで彼女に捕まれば、根掘り葉掘り聞かれるに決まっている。今の自分は、説明のために心を開けるほど余裕がない。
蘭が勢いで作った道の隙間に身を滑らせ、林琳は宿泊している部屋へ向かおうとした。
「待ちなさいよ!」
背後から蘭の怒気を含んだ声が飛ぶ。
「ご令嬢がそんな騒がしくていいのか。少しは年頃らしく……」
「呪いって何? 呪術って? どうして黙っていたの!」
蘭の声は震えていた。それは彼女がいまだに王妃の死に囚われている証拠だった。
「あー……いや、その」
言い淀み、口の中で言葉がほどけて消える。林琳は目を伏せ、左右に首だけを小さく振った。
どうやっても隠しきれない、という顔だった。
「……なぜ?」
蘭は立ち止まり、彼を射抜くような目を向けた。理解できない、許せない、そんな表情。
「それは、……」
林琳は息をついた。
短い滞在の間でも、千咲国の空気は彼の胸を満たしていた。裕福とは言えずとも、民は穏やかで、よく笑い、前を見て働いている。小さな幸せを抱きしめて、懸命に生きている国だった。
その景色を思い浮かべた時――彼は何度も思い直していた。
この国を巻き込んでいいのか、と。
「当主には初めから話すつもりだった。ただ、機会が無くて……」
言い訳に聞こえるのは自分でもわかっている。それでも口にしなければ、蘭の問いには答えられなかった。蘭にとって花狐は唯一残された肉親であり、千咲国の柱だ。それだけではない。翠雲の宗主であり、国の象徴だ。その存在を、自分の利害のために揺らがせていいのだろうか。
林琳は何度も自問した。
なんども、なんども、擦り切れるほどに。
「お前たちを巻き込みたくないと思った。そうは言っても今でさ巻き込んでるみたいなものだけど……」
それだけは本心だった。
「でも協力してって言ったじゃない! お父様も受け入れたわ!」
「それは今後、山雫国が不利になりそうな事があれば肩を持ってほしいってだけだよ。調査に手を貸してほしいわけじゃない。蘭だって千咲国を戦場にはしたくないだろ」
千咲国――山の風が心地よく通り抜け、薬草が豊かに根を張る国。
その穏やかさを壊す未来を、林琳はどうしても想像したくなかった。
「なによそれ、戦場だなんて……おかしなこと言わないで」
「夢天理が崩壊して、世界の情勢は変わりつつある。大国が小国を護ろうとする動きがある半面、それを良しと思わない国もいるんだ。千咲国にも同盟を望む声がかかってるはずだ」
林琳の声は静かだったが、その奥には苦い経験と覚悟が滲んでいた。
山雫国にすら同盟の声はかかった。
いや、しつこいほどに声をかけられた。
散々山雫を侮っていた癖に、夢天理の崩壊を機に手のひらを返してくる――林琳はその醜さをよく知っている。
「嫌な風が吹きつつある。気を付けて」
それはかつて彼が戦場で感じた気配に似ている。
「また戦争が起きるっていうの……?」
蘭の声はかすかに震え、指先がぎゅっと衣の裾を握りしめていた。
「世界中で戦争は起きてる。俺たちが声を聴かず、目を向けないだけ」
仕人が怪奇を祓う一方で、人間同士の争いは常にどこかで燃えている。林琳自身が幼少期、傭兵として生きてきた。戦火の匂いは骨に染みついている。
林琳はそっと蘭の手を握った。
細く、柔らかく――驚くほど華奢な手。
守られるべき存在であると同時に、この国を背負う者の手だった。
「何かあったら連絡して……って言いたいけど、心力が使えないんじゃ通心もできないな」
肩眉を下げて冗談めかすと、蘭は即座に林琳の足を蹴り飛ばした。
「いった!」
「笑い事じゃないのよ!」
震える声の奥にあるのは、怒りではない――心の底からの心配だった。
「片燕の一番弟子がろくに心力を使えないなんて……! これからどうするのよ!」
抑えきれなかった感情が、蘭の瞳からぽろぽろと溢れ落ちる。
「秘密にしてたのに……正堂で……」
「ん? ああ、見世物みたいになってたってこと? 気にしないで、慣れてるから」
林琳が部屋の荷を手際よくまとめ始めると、蘭は涙を拭いながらも彼の動きから目を離さなかった。心配と怒りと恐怖が入り混じった視線は、少女のそれではない。これから起こるかもしれない危険に対する不安だった。
「慣れてるとか、そういう話じゃないわ! あなたを襲った人間がまた襲ってきたら……太刀打ちできないでしょう!」
蘭の声は震えている。けれど、それは弱さとは違って大切なものを失うのが怖いからこその震えだった。
「お前がそこまで考える必要は……」
「あるわよ、この馬鹿!」
怒鳴り声が廊下に響く。
次の瞬間、林琳の頬が蘭の指に挟まれ、容赦なく引き伸ばされる。
「いっ! だからなんで蹴るんだよ!」
「むかつくからよ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」
「はぁ!?」
頬を摘まれたまま、林琳はどうにか逃れようとするが、蘭の指は驚くほど力強かった。無理に引きはがそうとすれば痛みがじんじんと広がり、結局涙目になるしかなかった。
「ふぉい、ふぁなふぇよ!」
「もっと自分の身を大事にして! わかった!?」
強引に上下に揺さぶられ、林琳は返事の代わりに蘭の腕を叩いて降参の意思を示した。
ようやく解放されると、頬にはくっきり指の跡が残り、熱をもってじんじんと痛む。
「……心脈以外に問題はないって……嘘じゃないのよね?」
「うん。身体の方は本当にぴんぴんしてる」
彼が平気だと軽く言えば言うほど、その裏に隠された孤独や疲労が透けて見えるようで、蘭は胸を締めつけられる。
「それよりもここの蜜柑、すごいね。やっぱり仕人の心力に囲まれて育つからかな?」
「それに関しては食べ過ぎよ、あなた。四六時中皮をむいてるじゃない……って、言った傍から!」
林琳は開き直った顔で、木箱からまん丸の蜜柑をひとつもぎ取った。
「霓草が好きに食べていいって。餞別にいくつか貰ってもいい?」
皮を雑にむきながら頬張る姿に、蘭は呆れながらも笑みを漏らした。林琳は剥いた蜜柑を一房差し出すと、蘭もひとつ摘まんで口に運ぶ。
乾いた風が吹き、ふたりの間の空気がようやく柔らかくほどけていく。
その穏やかさを破るように――。
「林琳、痣を見せてもらえないだろうか!?」
嵐のような勢いで霓草が飛び込んできた。
林琳の両肩をがしっと掴む手は力加減を知らず、ぐらぐらと身体が揺れる。
「んごふっ!」
「あ、ごめん」
喉につっかえた蜜柑を無理やり飲み込む姿に謝る霓草の顔は真剣そのものだった。
林琳がぎろりと睨むと、霓草は一瞬怯みながらも後に引かない。
「呪術を受けた身には痣が残るんだろう!? 見てみたい!」
「見てみたいって……見てるでしょ、お前」
「え?」
「ほら、これ」
林琳は衣を少し捲り、両足首に刻まれた紫の痣を見せた。
それはただの痕ではなく、皮膚の奥で脈打つような禍々しい気を帯びている。
「えぇえ!? これが!? ただの痣かと思ったよ!」
霓草は目を輝かせ、子供のようにしゃがみこむ。指先が痣に触れた瞬間――冷たい気が霓草の腕を登り、ぞわりと背中に走った。
「ひ、ひぃ……ぞわぞわする……!」
霓草は思わず飛び上がった。
「虫唾が走るってこういうことか……」
「はいはい。満足した?」
林琳は適当に衣を整えながら、あきれたように問いかける。
霓草は何度も何度も真剣に頷いた。
「本当に存在しているのね」
その言葉は、呪いの現実味を認めざるを得ないという、重い響きを持っていた。
「指南書がないからといって継承者がいないとは限らない」
盲点だったと霓草がため息を吐いた。だが彼らは林琳が継承者のひとりだとは誰も思っていないだろう。
「それで呪いを解く方法は?」
「術者を探すか……いや、探すしかないだろうね」
林琳は深く息を吐いた。
「でも」
悔しさと、呆れと、どこかで楽しんでいるような黒い感情が入り混じった笑みが浮かぶ。
「生きのいい餌があれば馬鹿は簡単に釣れるから、むこうが逃げ回れるのも時間の問題だよ」
その声音は冷えきっていて、湖底のように静かだった。
蘭と霓草は、同時に首を傾げた。
「餌?」
「あぁ。気にしないで、こっちの話」
黒い笑みがふっと浮かぶ。
その深い影に、二人は本能的な寒気を覚え、口元を引き攣らせるしかなかった。
「最期に王妃の部屋を見てみたいんだけど……」
林琳が低く呟くと、蘭ははっと目を見開いた。
「お父様は絶対に許可しないわ。私でさえも禁じられているもの」
「当主の結界が四六時中発動してるし、これ以上怒らせない方が良い。あんなに激怒した当主は見たことがない」
――やはり、何か隠している。
暗華石を取り上げただけでなく、王妃の部屋への立ち入りまで禁じるなど異常だ。
それに蘭は王妃の正統な子である。母の部屋に踏み入る権利は、本来彼女にこそあるはずだった。
「霓草の言う通り強力な結界が張られているから……侵入は無理よ」
「それならこれがある」
林琳は袖の奥から、薄い紙片――符を一枚取り出した。月光を帯びたような淡い光が紙面に沈んでいる。
「前もって心力を込めて作ってあるから、今の俺でもこの符は使える」
軽く言ったが、その実、これは結界を一度だけ破るための裏道具だ。
善行のためというより、どう見ても良からぬことを企むための品に見える。
「……はぁ。あなた、抜かりないわね」
呆れたように肩を落としつつも、蘭はすぐに表情を引き締めた。
「今日は月に一度の祈祷の日で、お父様は山に籠るわ。その時がねらい目ね。協力するわ」
その言葉の通り、深夜――。
花狐は厳かな衣をまとい、長い影をひきながら裏山へ向けて消えていった。
王宮が静寂に沈む頃、守衛の交代を見計らって林琳は影のように動き、王妃の部屋へ滑り込む。
扉を閉めた瞬間、空気が変わった。
埃一つない。清掃されたばかりのような清らかさと温度が残っている。
まるで、まだ誰かがこの部屋で暮らしているかのようだ。
文机の上には翡翠で装飾された筆が置かれ、色あせず艶を保っている。王妃は本当に文を書くことが好きだったのだろう。几帳面な性格が、置かれた道具ひとつから滲み出ていた。
しかし、文が置かれていたはずの場所にあるのは、ぽっかりとした空白の窪みだけだった。
何かがそこにあった――そして今は、ない。
それがかえって、この部屋の温もりを不自然にしていた。
大きな机には月の光が降り注ぎ、まるでそこだけが静かに時間を止めているかのようだった。
蘭が言っていた通り、王妃は独りを嫌う人だったのかもしれない。
文通相手が多かったというのも、孤独を埋めたかったからだろう。そんな姿が自然と脳裏に浮かび、林琳はしばし立ち尽くした。部屋全体に漂う残り香と温かな気配に、むしろ“寂しさ”が色濃く刻まれている。壁に残された落書きのような印には、蘭の幼い筆跡があった。ここで彼女は育ち、母とともに時間を重ねていたのだ。
そんな場所にひとり立ちすくんだ時、視界を黒い何かが横切った。
「……うん?」
瞬きをしても、影はむしろ輪郭を濃くしていく。
次第に、人影のようでも、煙のようでもある曖昧な形を取っていった。
「お、おまっ……!」
大声を上げそうになり、林琳は慌てて自分の口を両手で塞いだ。
喉に唾が引っかかり、息が詰まりかける。
「急に出てくるなって……!」
影はゆっくりと細い棒切れのような黒い指先を伸ばし、壁の一点を指した。
そこには一枚の全家圖が掛かっている。
幼い蘭が王妃に抱かれ、嬉しそうに笑っている絵だ。王妃は柔らかな眼差しで娘を抱きしめ、そして隣の花狐も穏やかに微笑んでいる。正堂で見た現在の当主とはまるで別人のような、温かな顔だった。
「この子、蘭でしょ? あ、ほら、見てよ。さっきあの子に頬を摘ままれて……」
意思疎通などできるはずもない。けれど林琳は、なぜか自然にその影へ語りかけていた。
まるでそこに生きている誰かが立っているかのように。
蘭の描かれた輪郭を指でなぞった瞬間、妙な違和感を覚える。
「……なんだ?」
紙の上に、何か別の紙片が貼り付いていた。長い年月で糊が固まり、指先では剥がれない。強引に爪を立てるようにして剥がしたその瞬間、肘が棚に当たり、香炉が落ちた。
「やばっ」
滑らかな床に香炉が転がる音があまりに大きく響き、林琳は一瞬固まった。
「誰だ!」
守衛の声。
しまった、と胸が跳ねる。
林琳は咄嗟に紙切れを掴み、胸元に押し込むと、近くの屏風の影へ身を潜めた。
王妃の部屋は出入り口が一つだけ。
守衛が去るまで、逃げ場はない。
心力さえ使えれば、多少の小細工で煙のように消えられるのに――今はただの人間だ。舌打ちを飲み込み、息を潜める。
すると突然、外から―― カラン、と金属が落ちる音がした。
守衛がそちらへ気を取られる。
――でかしたぞ、蘭!
林琳をいつまでも待っても戻らないと読んだのだろう。蘭がわざと物を落として守衛の気を逸らしたのだ。守衛が走り去るのを確認し、林琳は迷うことなく部屋を飛び出した。後ろを振り返ることもせず、気配を殺して闇に紛れる。
ただ、その背を。
王妃の影は、静かに、静かに。
見ていた。
◆
「待って、林琳」
千咲国を発つ直前、蘭に呼び止められた。
振り返ると彼女は落ち着いた顔で、小さな瓶を差し出している。
「これを渡しておくわ。緊急事態用よ」
「……液体?」
「一種の万能薬よ。間に合ってよかったわ」
林琳はそれを受け取り、瓶を指先で軽く転がした。
「流石に秘薬を渡すことは出来ないから、似たものを調合しておいたの。賢く使ってね」
短く息を吐き、林琳は小さく笑った。
「で、対価は?」
「神子の情報に決まってるじゃない。他に何があるっていうのよ」
蘭は腕を組んで強気に鼻を鳴らす。
「あと、これは転送陣の鍵よ。直接私の屋敷に繋がるように作ってあるわ。心力が使えるようになったら顔を出してね」
「……ありがとう。手助けに感謝する」
礼というより、約束に近い声音だった。
蘭は一拍置いてから、林琳の袖口に視線を落とし、わずかに声を潜めた。
「鍵のこと、お父様は知らないわ」
林琳の指が一瞬、止まる。
「個人的なものってこと?」
「ええ。完全にね」
はっきりと蘭は言い切った。迷いはないが、緊張だけが張り付いている。
「それに、取引でもない。ただ……私が心配だった、それだけ」
林琳は葉と雲の描かれた鍵を見下ろし、眉を顰めて一息吐く。
「それ、見つかったら怒られるやつだろ」
「たぶんね」
蘭は肩を竦めるが、視線は逸らさない。
「でも、あなた今……まともに心力も使えないでしょう。それで放り出す方が、よっぽど後味が悪いわ」
林琳はしばらく黙り込み、それから小さく頷いた。
「……借りになるな」
「いいの」
即座に返された言葉は、どこか意地を張るようでもあった。
「返す気があるなら、ちゃんと顔を見せに来て。これ以上……私たちを心配させないで」
林琳は瓶と鍵を懐に収め、視線を上げる。
「じゃあ、これは拾ったことにする」
「えぇ、そうして」
蘭はそれだけ答えた。彼の背を見送りながら、蘭は胸の奥で小さく息を吐いた。
林琳は一度振り返り、礼を伝えると踵を返す。
別れを済ませた後、歩き慣れた街並みに視線を走らせた。
その先で――白い衣が二つ並んでいるのが目に入った。風に揺れる燕の見慣れた気配が、そこにあった。
「師兄ー! 御無事で何よりです!」
風を切るような足取りで駆け寄ってきたのは、見覚えのある燕を靡かせた天雪と花月だった。薄曇りの空の下、二人の衣が揺れ、その顔には安堵と興奮が入り混じっている。
てっきり女帝からの遣いだと思い込んでいた林琳は、弟弟子たちの姿に一瞬きょとんと目を瞬かせた。
「うわ、やっぱりここでも着飾られてる……」
花月がぽつりと漏らし、林琳の衣の袖をつまんだ。山雫国を出たときのものよりも明らかに良質な絹。動くたび光を掬って揺れる生地は、見る者さえ息を呑む上等品だ。
「お前好きだもんね、こういうの」
「異国の絹って質が微妙に違うんですよね。これは……光を反射するぐらい上等なものですよ。いくらしたんです?」
「さぁ?」
「え、もしかして……仕立ててもらったんですか!?」
花月は羨ましさを隠しきれず、眉を下げて嘆息した。
「うわー、いいなぁ……」
「欲しいの?」
「貰えるならそりゃあ、いいなぁって……」
「天雪は?」
「え、あ、僕は……」
天雪は贅沢とは無縁で育ったせいか、戸惑いながらも「綺麗だとは思いますが……」と控えめに答える。その声は小さく、けれど衣の美しさに心を奪われているのがわかる。
「うん、いいよ。仕立てる時間はないから、生地だけ買ってあげるよ」
軽く言い放つ林琳に、花月の顔がぱぁっと輝く。
「えぇ!? やったな、天雪!」
「本当にいいんですか……? かなりお値段が張ると思うんですが……」
一般の衣の数倍はする生地だと素人でもわかる。仕立てを頼めばさらに大金になる。それを軽々と言ってのける林琳に、二人は視線を泳がせた。
「小銭稼ぎは基本中の基本だよ」
いつもの調子で言う林琳の肩が、どこか余裕を帯びて見えた。
「すぐに行きましょう!」
「うわ、ちょ、押すな!」
花月は勢いよく林琳の肩を押し、三人は千咲国で最も大きな布行へと足を向けた。
店に入ると、天井近くまで積まれた色鮮やかな反物が視界を埋めつくす。香油のほのかな甘い香りが漂い、絹が擦れる柔らかな音が絶え間なく耳に届く。
「あっ、これ綺麗……! 師兄、これ触っていいですか?」
「こっちもすごい……!」
花月と天雪は、目に映るものすべてに惹きつけられ、次々と生地を抱え込んでいく。その姿はまるで宝探しをする子供のようだった。
結果、林琳は花月に押し切られ、必要以上に購入してしまった。
「……お前ら、遠慮という言葉を知らないの?」
「だ、だって……全部綺麗で……!」
花月が笑ってごまかす一方、天雪も頬を赤らめながら「つい……」と視線を逸らす。
林琳の呆れ顔と同じく、二人もまた師兄の金持ちぶりに引き攣った表情を浮かべた。
「本当に師兄は金持ちだった……仁先輩の言う通りだ……」
花月の呟きに、林琳は肩を竦める。
「持ち歩くのも邪魔だから、全部持って帰りなよ。向こうで仕立ててもらって」
腕いっぱいの生地を抱える二人は、嬉しさと戸惑いを混ぜ込んだような複雑な表情をしていた。
「師兄は、これからどうするおつもりですか?」
抱えた反物を大事そうに胸元へ寄せながら、天雪がようやく落ち着いた声で問いかけた。買い物の熱気がひとしきり落ち着き、三人は綾羅肆の軒先でひと息ついていた。
「まずは、この呪いを解かないと……はぁ、あの糞野郎、本当にやってくれたよ」
吐き捨てるように言ったものの、林琳の表情には深刻さよりも、面倒事に巻き込まれた者の諦めに近い色が浮かんでいた。
その他人事のような言い方に、二人は揃って目を丸くした。
――もっと思い詰めているはずじゃないのか。
花月は胸の内でそう呟く。自分たちなら、とてもこんなふうには構えていられない。呪いなど背負わされたら、怒りや恐れで押し潰されてもおかしくないのに。
「……師兄、あまり深刻に考えてないんですか?」
思わず疑問を口にすると、林琳は不思議そうに首を傾げた。
「なんでって……別に俺がいなくても、お前たちがどうにかするだろ」
あまりにも平然と言われ、二人は言葉を失ったまま固まった。
沈黙の中で、花月がぽつりと呟く。
「それってつまり、俺たちを信頼してるってことですか……?」
冗談のようでもあり、けれど聞き捨てならない。そんな声音だった。
林琳は腕を組み、小さくうなりながら首を傾げる。
「信頼っていうか……まぁ、最悪、どうにかなるとは思ってる」
「それを信頼って呼ぶんですよ、師兄」
花月が即座に突っ込みを入れた。
だが林琳は悪びれもせず、どこか他の宗派の状況を思い浮かべるように目を細めた。
「っていうか、どうにかしないと他の宗派も困るでしょ。特に夢天理。このままだと立場が危ういのはあそこだし」
そのうえ、夢天理を知りつくした朱禍がこっち側に手を貸してるってのは……向こうにとっては正直、腹立たしいんじゃないかな。身の潔白を示したいのに、きな臭い隠し事が多すぎて、ろくに動けてないのが――今の現状ってところじゃない?」
淡々と分析する声は、まるで局外者のように冷静だった。
しかしその静かな観察は、これまで沈黙していた宗派が次第に声を上げ始めた事実とも重なる。
「それは師兄の働きが大きいですよ」
天雪が、少し誇らしげに言った。
「いやぁ、夢天理、相当むかつくだろうね。犬猿の仲だった宗派に追いかけられて、元重鎮にも弱みを握られて……」
林琳の口元があからさまに悪い笑みに歪む。
「それに、今は山雫国も国家として動いてる。だから最悪どうにかなるんだよ」
「ですから、それを信頼って呼ぶ……三回目ですよ、このやり取り」
花月の呆れ声にも、林琳は肩を竦めるだけだった。
「じゃあ、そうなのかもね」
「“じゃあ”ってなんですか! 軽すぎません? もっとこう……“お前たちを信頼している!”くらい、言ってくれてもいいじゃないですか!」
花月が食い下がると、林琳は気の抜けた声で返す。
「はいはい、そういうことにしといて」
「あっ、師兄! 絶対いま面倒だって思ったでしょ!」
「もう、花月。やめなよ……」
天雪が小さく袖を引く。だがその頬は少し緩んでいて、嬉しそうに見えなくもなかった。
「天雪だって嬉しいくせに」
「いや、それは……そうだけど……でも、ね」
しどろもどろになりながらも、しっかり頷く天雪。
その仕草を見て、花月はふふんと勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「遣いが来た時、師匠も心配してましたよ。朱禍様は頭を抱えて唸ってましたけどね。いつも以上に叱言が多かった。師兄、今からでも覚悟した方がいいですよ」
花月は肩を落とし、げんなりとわかる溜息を吐いた。その様子を見て、天雪がすぐに眉を寄せる。
「花月、そんな顔しないでよ」
「だってさぁ……」
花月は口を尖らせたまま視線を逸らす。言い募ろうとして、林琳の気配を感じ取ったのか、それ以上は飲み込んだ。
「心力が使えないと、連絡もろくに取れないし……不便すぎる」
林琳は低く呟き、指先でこめかみを軽く押さえた。思考はすでに現状の不具合を洗い出す方へ向かっている。
「戻ったら、あの手鏡でも量産するか。心力を溜め込んでおけば、どこでも使える代物だったしな……」
舌打ちに近い息が漏れる。
呪いそのものよりも、段取りを狂わされたことへの苛立ちが、表情の端に滲んでいた。自分でも予想していなかった不自由さが、じわじわと神経を逆撫でする。
「……お前たちは、どうする?」
ふいに投げられた問いに、花月が即座に反応する。
「え、もちろん師兄と一緒に行きますけど? どこへでも。だって今の師兄、ただの一般人みたいなものでしょ」
「花月……!」
天雪が慌てて声を上げるが、花月は意に介さない。
「だって事実でしょ。今の師兄って、心力も使えないし」
「言い方があるって言ってるんだよ!」
どうもこの弟弟子は、思ったことをそのまま口に出す癖がある。
「それとも天雪は、このまま師兄を置いていくつもり?」
「そんなことない!」
天雪は一歩踏み出し、視線を逸らすことなく続ける。
「……師兄を一人にするわけない」
その言葉に、花月は満足そうに頷いた。
「ってことで、次の目的地をどうぞ!」
「おい馬鹿、勝手に話を進めるな」
林琳は片手を上げ、二人を制する。
深く息を吐く。
今の自分が、弟弟子たちの善意と行動力に頼らざるを得ないことは、否定しようがなかった。
心力が使えない以上、単独行動は愚策だ。一刻も早く呪いを解かなければ、前に進むことすらままならない。寧ろ呪いという足枷が何よりも邪魔だ。
「……結局、あいつに頼るしかないか」
独り言のように零れた言葉と同時に、自然と一人の顔が脳裏に浮かぶ。
「朱禍は……山雫国にいるのか?」
問いかけた瞬間、場の空気がわずかに張り詰めた。天雪が一拍置いてから、静かに首を振る。
「いえ。今は、嵐海宋へ向かったと聞いています」
「……よりによって、あそこか」
林琳の声は低く、短い。
吐き捨てるような一言に、花月と天雪は顔を見合わせた。
嵐海宋――人も情報も集まるが、同時に面倒事も多い土地だ。情報を求めるにはあまりにもらしい場所でもある。
林琳は視線を落とし、指先を組んだ。静かに呼吸を整えながら、次に打つ手を測る。
「とりあえず、師匠に通心を繋いでもらえる?」
顔を上げ、二人を見る。
「間接的になら……通心に入れるかもしれない」
「はい」
天雪と花月は向かい合い、手順を確かめるように頷くと、ゆっくりと獅宇へ信号を送る。
間を置かず、返答があった。
「師兄! 繋がりました!」
花月が声を弾ませる。その瞬間、林琳が彼の肩にそっと手を置いた。
――カチッ。
乾いた音が、わずかに響く。
遠くから声をかけられている、という感覚だけが伝わってくる。内容は途切れ途切れで、全てを聞き取れるわけではない。
「おお……うん、どうにか……あ、はい? え? ごめんなさい、聞こえないです」
林琳がわざとらしく声を張る。
「いえ、師匠が怒ってるのはわかるんですけど……結構、声が飛んでて……」
もちろん、天雪と花月にはばっちり聞こえている。だが、内容を林琳に伝えたところで意味がないことも、二人はよくわかっていた。
「しくじって呪いを受けてしまって……今は心力が使えないので、天雪と花月に繋いでもらってます」
林琳は、花月の肩越しに淡々と告げる。
「え? あ、すみません。全然聞こえないです。続けていいですか?」
「……師兄」
通心の間に立つ花月が、青褪めた顔で小声を漏らす。
「師匠、滅茶苦茶怒ってます」
花月も額に冷汗を滲ませていた。
だが当の本人は、どこ吹く風だ。
「呪いは自分でどうにかするので」
林琳は落ち着いた声音で続ける。
「夢天理の内部に継承者がいるかどうか……朱禍に調べさせてください」
叱責も、怒号も、向こう側で渦巻いているのはわかっている。それでも譲る気はない。
「では、これで」
「あ、ちょっと!」
花月が声を上げるより早く、林琳は手を離した。途端に通心は切れ、場に静寂が戻る。
「もう……師匠、まだ話してたのに……」
花月がぼやく。
「大事な時にあの糞野郎め」
林琳の反応は露骨だった。朱禍は林琳が呪術に通じている理由も、獅宇から聞かされている。気に入らないが、頼りにはなる。そんな複雑な距離感を抱えている相手だ。だが、いまは落ち合うのが難しい。
「それでしたら、珊來様はどうですか? あの方なら協力してくれると思いませんか?」
「なんで珊來……?」
「あの人、師兄のためなら快諾しますよ。絶対に」
花月の断言は妙な説得力を持っていた。
珊來は林琳に公然と好意を示している男だ。報酬なしに手を貸すだろうし、その喜びすら隠さないに違いない。
だが何よりも規律を重んじる。
禁忌と呼ばれる呪術について口にしようものなら、どうなるかわからない。
「そうだ、仁は?」
「あー……その、仁先輩は……」
花月が言い淀んだところで、場の空気がわずかに変わった。何か厄介な続きがあるのだと、静かに緊張が走った。
千咲国編 完結
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