首筋に触れる穏やかな寝息と、背中を焼くような高い体温。子供特有の熱が林琳の肌を覆い、額にはじっとりと汗が滲む。背負われた仁はすでに意識を失っている。
擦り傷だらけの頬に汗が触れ、鋭い痛みが走る。それでも手を伸ばして汗を拭うことすら許されない。次々と飛んでくる矢を黒炎で燃やし、なんとか進むしかない。仁を支えるには、その身長にしてはずしりと重すぎた。片手では到底支えきれず、両腕を塞がれたまま戦場を駆け抜ける。これほどの窮地を他に何と呼べばいいだろう。
ようやく見つけた大岩の陰に身を隠すと、林琳は膝をつき、大きく息を吸い込んだ。しかし呼吸は浅いまま、胸の奥が焼けつくように痛む。
黒炎の使い過ぎか、単に疲労のせいか。原因を考える余裕すらない中、彼は無意識のまま背中で寝る仁の存在に苛立ちを覚えた。叩き起こしてやろうか、そんな考えが一瞬頭をよぎる。だが、すぐに思い直す。今起きたところで、両足を深く切られた仁がついて来られるはずもない。
それどころか、「置いていけ」と自分でほざいた馬鹿に怒りが湧いてくる。拳を握りしめ、腹の底でぐつぐつと煮え立つ怒りを抑え込む。
だが、それでも感情は治まらない。行き場を失った怒りが胸をかき乱し、余計に焦燥感を募らせる。
「……もう、くそが!」
短く吐き捨て、乱暴に地面を踏みつけた。その足音が小さな戦場の一角でやけに響く。
林琳が足を踏み入れてしまったこの地の戦況は最悪だった。兵士の数に大差はないものの、敵は高地を押さえ、圧倒的な優勢を誇っている。次第にこちらの兵士たちは後退を余儀なくされ、敵の進軍が着実に迫ってくるのを感じた。
そもそもの原因は仁が踏んだ質の悪い陣だ。林琳が慌ててその首根っこを掴み、陣を破壊しようとしたものの間に合わなかった。そして、二人は気づけば戦場のど真ん中に転移されていたのだ。
矢の雨を黒炎で焼き尽くしながら、林琳はふと鼻先に馴染みのある心力の香りを感じ取る。それは朱禍がよく残していく転送陣の気配だった。戦場や荒地などの陰気が渦巻く土地に彼が転送陣を残していることは、彼ら弟子たちの間では半ば周知の事実だった。
「あと少し、あと少し……!」
彼は自らを鼓舞し、転送陣へと足を急がせる。しかし、その頃にはすでに心力の枯渇が目の前の課題としてのしかかっていた。
林琳の手は握り締められた拳となり、怒りに小刻みに震えている。その怒りの行き場を見つけられず、彼は悔しさを吐き出すように地を蹴った。
戦況は悪化している。林琳が迷い込んだこの国の軍勢は、敵の高地有利に翻弄され、じりじりと退却していた。矢の雨が降り注ぎ、林琳はその一つ一つを燃やしながら戦場を横切る。転送陣にたどり着く以外、生き残る術はない。
ようやく見つけた転送陣。触れると心力は確かに繋がるが、何度も力を注ぎ込んでも動く気配はない。林琳の額には再び冷や汗が滲む。
「はぁ!? 朱禍の野郎、器が浅いって言ってたくせに!」
心力が足りないのだ。朱禍の張った陣を動かすには、彼と同等の力が必要で、それを今の林琳が持ち合わせていないことは明白だった。彼は八つ当たりのように陣を踏みつけ、唇を噛み締める。
その時だった。
「林琳! 仁!」
振り返った先に舞ったのは鮮やかな藍色の羽。その色を目にした瞬間、林琳の肩の力が抜けた。朱禍だった。
「やっと見つけた……心配したんだぞ!」
その言葉に、林琳はすとんと肩の力が抜けた。
朱禍は駆け寄ると二人を抱きしめた。林琳は、その異様なまでの温もりに思考が追いつかない。
「お前……なんで」
呟くと、朱禍は肩を叩きながら応える。
「逸れるなと言ったはずだろう。さあ、帰るぞ。」
その声はいつになく真剣だった。林琳は疲労が波のように押し寄せる中で、朱禍の手に触れた符が散らばる音を聞き、ようやく安堵の息をついた。
だが、その安堵の中で見た光景は、林琳の心を引き裂いた。足元に転がる生首――少年の顔があった。その瞳は、血に染まった戦場を映しながらも、どこか虚ろだった。目を逸らしたい。だが、視線は次に転がる老兵の首へと吸い寄せられる。その目が持つ深い絶望と恐怖。林琳の脳裏に焼き付いて離れないそれは、過去の記憶をも掘り起こす。
「林琳!」
朱禍の声とともに、冷たく強い手が林琳の瞳を覆った。視界が闇に包まれた瞬間、林琳は背中に伝わる鼓動を感じ、ようやく生きている実感を取り戻した。息が通る。その瞬間、林琳は朱禍の温もりに初めて感謝したのだった。
※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます